蒼きバンダナのアレス First Episode
〜Engage Destiny〜【LUSTER/ROUGE】

【一つ前へ戻る】      【目次へ戻る】      【小説置き場へ戻る】      【ホーム】


感   謝

 翌朝。
 主を失った家は、しかし帰るべくもない主を待つかのように、いつもの佇まいを見せていた。
 エルデの家。
 土壁に板張り屋根の、この辺りでは何の変哲もない家。ちょっとした規模の町に住んでいる人間なら小屋、と表現するかもしれない。
 ルスターはその食堂兼用の土間に立ち尽くしていた。
 炊事場には水の張った桶がぽつんと置かれており、料理に使ったらしき器具が沈んでいた。水に漬けておいて、後で洗うつもりだったのだろう。
 鍋、フライ返し、お玉、ナイフ、まな板、ボウル、延し棒、カップ、ポット、平皿、深皿、木さじ、調味料入れ、大小様々な缶、壷、籠、テーブル、椅子、クロス……。
 こうやって見ていると、次に使うことを考えて置かれた品々が妙に寂しげに見える。
 奥へ進めば部屋が二つ。窓は開けたままになっていた。
 一番奥の部屋の窓のそばにベッドが二つ。彼女のものと、亡くなった夫のものか。ベッドの間には4段の引き出しダンスが置かれている。
 そのどれもにエルデの気配のようなものが感じられた。
「……エルデさん…………すみません」
 再び主をその上に乗せることを期待しているかのようなベッドに目を落としながら、ルスターは呟いた。
「私には、どの神にあなたの平穏な眠りを祈ればいいのかわからない。せめて――」
 左手を伸ばして、枕にそっと触れる。
 期待していた温もりは当然ながら得られなかったが、窓から差し込む光でそこは少しだけ暖かくなっていた。
「せめて、あなたの本当に信じていた神が、あなたに本当の平穏を下さいますように。旦那さんと二人、水入らずで……」

 ―――――――― * * * ――――――――

 ルスターがエルデの家に寄ったのは、ついでだった。
 ペルナーが朝早くにシュルツへと出立したため、ルスターは以降の自らの動きを村長に報告するのも兼ねて、日課である孤児達の奉仕活動の付き添いで村を訪れたのである。
 納屋の片付け、赤ん坊のお守、家畜の世話、薪割り、水汲み、水車小屋の補修……人手が必要な仕事はいくらでもある。
 一昨日の騒ぎのせいか、どことなくよそよそしさやお互いに出方を窺うような緊張感は漂ってはいたが、ルスターは淡々と子供たちを活動に送り出し、村人も淡々と子供たちを預かっていった。
 奉仕活動など初めてのロイド、ミュラー、へレンについては、それぞれワイズマン、アル、ルージュと組んで活動するように計らっていた。
 その後、村長を家に訪ねた。
 シュルツに向かう日取りを聞くと、しばらくかかるぢゃろう、と村長は長く白いあごひげをしごきながら、渋い顔つきで言った。
 ジェラルディン子爵領内各地の集落の長たち、孤児院の長、さらにはガルディン準爵領の集落の長まで集めるのだ。日程調整などで少なくとも3日から5日ほどはかかるだろうとのことだった。
 一足先にシュルツへ行くつもりであることだけを伝えて村長の家を後にしたルスターは、ふと新参の三人の様子が気になって、もう一度村を回ることにした。
 そのついで。

 ――いや。
 それは口実だ。ルスターは初めから知っていたのだから。
 ルージュとヘレンの奉仕活動先の隣に、エルデの家があることを。そして、自分がそこに行かねばならない、と感じていることを。

 ―――――――― * * * ――――――――

「おじ様! おばば様が呼んでるよ!」
 エルデのベッドの向こう側にあるサイドテーブル。その上に置いてあった手鏡を取ろうとしたときに飛び込んできたのは、ルージュだった。
 おばば様というのは、彼女がヘレンとともに今日の奉仕活動に寄せてもらっているエリザベス=コーランダ、通称ベティおばば様だ。年は70を越えているそうだが、いまだにかくしゃくとしており、60を越えているようにさえ見えない。
「おばば様が? 私に?」
「あー! それ、エルデさんの鏡?」
 目を輝かせて入ってきたルージュは、ルスターが手にした手鏡をすぱっと奪い取った。
 中を覗くルージュ。鏡面には嬉しそうな10歳の少女が映っている。
 そういえば孤児院にはなかったな、と思っていると、案の定ルージュは振り返って聞いてきた。
「ねぇねぇ、おじさま。これ、あたしがもらっていい?」
「形見にか? うん……おばば様に聞いた方がいいな」
「うん! 聞いてくる!」
 あっという間に飛び出してゆくルージュに苦笑しながら、ルスターはその後を追って家を出た。

 ―――――――― * * * ――――――――

「女の子だものねぇ。いいよ、持っていきな。大事にするんだよ?」
 小太りの老女はルージュの頭を撫でていた。
「うん! エルデさんのものだもんね。大事にする! ありがとうベティおばあちゃん!」
「じゃ、ヘレンちゃんにはわたしのをあげようかね」
 喜び小躍りをするルージュの隣でお茶の用意をしているヘレンが、少し不満そうに口を尖らせていたのをしっかり見ていたのか、ベティは曲がった腰に両手を組んで、奥へと入っていった。
 しばらくして出てきたその手に握られた手鏡をヘレンがはにかみながら受け取ると、ルージュは自分のことのように喜んだ。
「うわー、そっちも可愛い!よかったね、ヘレン!」
「うん。ありがとう、ルージュ。ありがとう、おばあちゃん」
「おばばでいいよ」
「子供たちに大層なものを……ありがとうございます、おばば様」
 戸口で一部始終を見ていたルスターが頭を下げると、ベティは丸い顔をさらに丸くしわくちゃにして笑った。
「いーんだよ、こんなことくらい。実はルージュちゃんが持ってるその手鏡も、その昔わたしがあの子にあげたものだしね」
「えー!? そーなんだ!」
「あの子の母親も苦労人でねえ。ま、座んなさいよルスターさん」
 ルスターは会釈を返し、勧められたその椅子に腰を下ろした。
 ベティがヘレンの用意しかけていたお茶を淹れ、四つのカップをテーブルに並べた。
 ヘレンとルージュは炊事場の前に並び、手鏡を覗き込んで自分の前髪を手串ですいている。
「まったく、奉仕活動中に遊んで」
「まあまあ、いいじゃないの」
 渋い顔をするルスターを、ベティは優しくたしなめてにっこり笑う。その含蓄のある笑顔を出されるとルスターとしてもそれ以上は何も言えなくなる。
 ベティは台所の棚をごそごそやりながら、話を続けていた。
「エルデの父親はもう30年位前にどこだかに出稼ぎに出て、それっきりさ。途中で死んじまったのか、それとも女作ってどこぞで生きているのかもわからない。あの子の母親は、あの子を女手一つで育てたのさ。けど、男手のない家ってのはどうしたって貧乏になる。鏡なんて買う金は当然ないからさ、毎日水瓶に映る顔を見て髪をすいてたよ。だからあの子が結婚することになったときに、あの鏡を結婚祝いにあげたのさ」
 やがてベティは木の器にクッキーを入れて持ってきた。
「ほら、あんたたちも一緒に食べな。昨日焼いたクッキーだよ」
 歓声を上げて二人がテーブルについた。ルスターの右にヘレン、左側にルージュが座り、四人でテーブルを囲む。
 二人は座るが早いか、クッキーに手を伸ばしていた。
 苦笑しながらルスターも一枚取り、一口食べた。
「……!!」
 ルスターは思わずルージュと顔を見合わせた。何気なく食べていたへレンが、二人のその様子に怪訝そうな顔をする。
「……エルデさんの味だ……」
 ルージュの呟きに、ヘレンは目を丸くした。
 ベティが笑った。
「そりゃそうさ。あの子の母親もあの子も、わたしにクッキーの作り方を習ったんだからね。あんたたちも今度教えてあげるよ」
 一も二もなく頷く二人に目を細めながら、ルスターはカップを一口、あおった。
「ずいぶんお世話をなさっていたんですね」
「そうだねぇ」
 ベティの目に懐かしげな光が浮かぶ。
「わたしにとっちゃあ、あの子の母親は少し年の離れた妹みたいなもんだったし、あの子も娘みたいなものだったからねぇ。なにしろ、うちは男の子ばっかり4人だったもんでさぁ。女の子も欲しかったのよ、実は」
 屈託なく笑うベティにつられ、ついルスターの頬をも緩みがちになる。そんな様子にルージュもヘレンも遠慮なく笑顔を浮かべている。
 そういえば、とベティは急に表情を改めた。
「あの子、旦那の隣に眠らせてやってくれたんだってねぇ。……ありがとうね。ほんと、あの子に代わってお礼を言わせてもらうよ。本当は村の者でやらなきゃいけないんだけど……」
「いえ……。エルデさんがしてしまったことから考えれば、あそこで眠ることを黙認していただいているだけでもよしとしなければならないんでしょうね」
「……ほんと、報われない子だよ」
 頬杖をついたベティは深いため息をついた。
「あの子は本当に幸薄い星の下に生まれてたんだねぇ。結婚した翌年に母親を亡くしちまってさ。あれも娘が結婚したんでほっとして、それまでの無理が一息に吹き出してきたんだろうねぇ。……で、その3年後だったか5年後には今度は旦那もコロリだ。本当に仲のいい夫婦だったのに、子供も出来ないうちにそんなことになっちまって……そりゃもう、ひどい落ち込みようだったのさ」
 思い出したのか、表情がだんだん暗くなってくる。
「わたしも折に触れちゃ話し相手になっていたけど……この年になると、どうも聞き上手なうえに思い出話ばっかりになっちまってねぇ」
「……先生、『キキジョウズ』って何?」
 ヘレンの囁くような問いに、ルスターはそっと顔を寄せて答えた。
「人の話を聞くのが――いや、人から話を聞きだすのが上手な人。話さなくてもいいことまで話したくなっちゃう人のことだよ」
「いけないことなの?」
 ヘレンの素朴な問いに、ルスターは思わず言葉に詰まった。世間一般では、聞き上手は少なくとも悪いことではない。
「悪いことじゃないよ。本当はね。人の話を聞くのは大事なことさね」
 そう答えたのはベティだった。ヘレンの頭を軽く撫でている。
「けど、わたしがあの子に話を聞くと、どうしてもあの子の母親や旦那の話になっちまってねぇ。励ましてあげようとしてるのに、悲しいことを思い出させちまう。――でも、あんたが来て、あの子は救われたと思うよ?」
 ベティにそう言われたルスターは、目をぱちくりさせた。
「私が、ですか? ……そうでしょうか」
「あんたは博識だ。こんな田舎の村の人間じゃ知らないことを山ほど知ってる。あんたと話す分には、あの子は聞き役になれたのさ。あんたが話す知らないこと――それを聞いている間は、悲しいことも辛いことも思い出さずに済んだはずだよ」
「だといいんですが……」
「それに、あんたが来て何よりよかったのは、子供たちと関われるようになったことさ」
 そういいながら、今度はルージュの頭を撫でる。
「何事をするにもお面みたいな顔をしてたあの子が、子供たちに関わるようになってから見違えるほど明るく変わったからねぇ。わたしゃ嬉しかったよ、ホントに」
「あたしたちとお話してると、エルデさんよく笑ってたよ?」
 ルージュが得意げに報告すると、ベティはまた目を細めて嬉しそうに笑った。
「ああ、そうだろうそうだろう。あの子はだからこの一年、幸せだったと思うよ」
 ルスターはエルデに対する呵責の念が少し薄まるのを感じながら、黙ってカップに口をつけた。
「ところで、あんた。あの子と寝たの?」
 あまりに唐突なその質問に、危うくルスターは口に含んだお茶を吹き出しそうになった。
 今の文脈には全く絡んでいないうえに、子供の前でする話ではない。
「あ、いえ。残念ながら。いや、そういう意味ではなく、その……えーと」
 ルスターは焦る気持ちを何とか落ち着けながら答えた。
「私も好意は感じてはいましたが……決して隙は見せませんでしたね」
「無理やりにでも奪っちまえば、こんなにたくさんの子供のお母さんになれたのにねぇ」
「いや、その。私、無理やりは好きではありませんし、彼女の中には夫への貞節がありましたし……」
 居心地の悪い冷や汗かきながら、ルスターはうつむいた。
「なに言ってんだい、あんただって若いんだ。あんなおあずけで我慢できるわけないだろ? ちゃっちゃと押し倒して、自分のものにしちまえばよかったんだよ」
「そういう問題ではないかと。あの、それに子供の前ですから……」
 ベティは何の話かわからず目を丸くしている左右の少女二人の顔を交互に見比べ、再びルスターに戻ってきた。
「まさかあんた、実は大人の女に興味なくて……」
 思わずルスターは立ち上がって身を乗り出していた。
「冗談でもやめて下さいっ!」
 ベティはからからと笑った。最前までの暗い雰囲気を吹き飛ばすように。
「やだねえ。そう本気におしでないよ。ほら、お茶でも飲んで落ち着きなさいよ。クッキーも食べるかい?」
 差し出されたクッキーを一つつまみ、ルスターは腰を下ろした。
 ぼりぼりとクッキーを噛み砕いて、カップをあおる。空になったカップに、ルージュがお代わりを注いでくれた。
「ねえねえ、先生は何を焦ってるのおばば様?」
「ヘレン、それは聞かないでよろしい」
「あのねー、おじ様、実はエルデさんじゃなくて、あたしのことが好きだったんだって――」
「ルージュ! ややこしくなるからそういう話は別の機会にしてくれるか!」
「ほらほら、そんなカリカリしなさんな。……クッキー食うかい? お茶でも飲みなって」
「……………………」
 女三人寄るとかしましい、という言葉を思い出しながら、ルスターは再びクッキーを食べ、お茶を飲み干した。
「ところで」
 これ以上その話を続けられないよう、先手を打って切り出す。
「おばば様はエルデさんがどの神様を信仰していたのか、ご存知ですか? 彼女の冥福を祈るのに、どの神に祈ったものかわからなくて」
「神様かい? ……そりゃ、あんた。ボラスドー様だろう」
 何か思うところがあるのか、少し顔をしかめるベティ。
「いえ、ボラスドーはあくまでシュタインベルクへの忠誠を誓うための口実、と思っていたので……元はどんな神様を? それとも、彼女は心からボラスドーを?」
「いくら近しいといっても、人の心の中まではわからないさね」
 ベティの言葉に拒絶の意志を受け取ったルスターは、黙って頷くしかなかった。
「……ただ、今になって考えてみれば、不幸な境遇から救ってほしくてボラスドー様にすがった、というのも考えられないでもないかねぇ。出口の見えない不幸な人生……全部嫌になっちまって、全部壊れっちまえ、と思いたくなるのはわかるからねぇ」
「おばば様もその悪い神様を信じてるの?」
 ルージュはルスターが避けた問いを真っ正直に聞いた。
 ベティは苦笑しながら首を振った。
「いやいや。わたしゃもう、放っといてもすぐにこの世とはおさらばしちまう年だからねぇ。そんな大それたことは考えないよ。ま、できれば、あんたたち若いもんにとっても住みよい世の中になってほしいもんだけどね、この先はさ」
「じゃあ、どんな神様?」
 ベティはちらりとルスターは見やって、にっこり微笑んだ。
「ここはルスターさんもいるし、樹帝シュレイド様ってことにしておこうかね」
「いや、私は……」
 そのとき、ヘレンが遠慮がちにベティの袖を引いた。
「おばば様……神様は、信じなきゃダメ?」
 ベティとルスターは思わず顔を見合わせた。
「どうしたんだい、ヘレンちゃん?」
 うつむくヘレンに、ベティはその手を取って両手で包むように持って聞いた。
「神様は信じてないのかい?」
 ヘレンはうつむいたまま、はっきりと頷いた。
「だって……祈っても、神様は助けてくれないから」
「そうかい……辛い目に遭ってきたんだねぇ」
 ヘレンの頭をベティの皺だらけの暖かい手が、優しくゆっくりと撫でる。
 顔を上げたヘレンはきょとんとしていた。
「どうしてわかるの、おばば様? あたし、何にも言ってないのに」
「神様が助けてくれない、と思えるぐらいたくさん祈ったんだねぇ……。日頃から祈らない人はね、今のヘレンちゃんみたいなそんな苦しい顔はしないんだよ」
「そう、なの……?」
 不思議そうに自分の顔をまさぐるヘレンに、ベティは頷いた。
「お父さんもお母さんも、きっと信心深い人だったんだろうね。毎日のお祈りを欠かさなかったんだろ?」
 ヘレンは唇をかみ締めるようにしながら、何度も頷く。
 ベティはちらっとルスターを見ながら続けた。
「ヘレンちゃん。毎日のお祈りって、なんでするか知ってるかい?」
「え……と……ママは、いつも神様に感謝しなさいって。でも……よくわかんない」
「誰かに感謝する気持ちを忘れないためだよ」
 ベティのその言葉に、カップに口をつけかけていたルスターはふとその動きを止めていた。
 ルージュもクッキーをくわえたまま、二、三度目をしばたかせていた。
 そしてヘレンは、不思議そうにベティを見つめていた。
「誰かって……神様じゃなくてもいいの?」
 ベティはヘレンの頭を撫でながら頷いた。
「ああ。構わないよ。今日素敵な人と出会えたこと、おいしい食事が食べられたこと、出来なかったことが出来たこと、そんなもの全てにきちんと感謝できるなら、いちいち神様に祈らなくてもいいって、おばばは思うよ」
「どうして?」
「神様ってね、みんなのここにいるんだよ」
 そういって、ベティの手はヘレンの胸にそっと触れた。
「胸……? 私の中?」
「そう。ある人は教えてもらった神様をここに宿し、またある人はまだ名前もない神様をここに抱いてる。その神様はお願いをかなえてくれる神様ではないけれど、あなたが何かをお願いして、それに対して一生懸命がんばれば、ほんの少しだけ力を貸してくれるんだ。そして、誰かに関して感謝をする気持ちを忘れなければ、その力はきっと少しずつ大きくなるんだよ」
「パパも……ママも助けてくれなかったのに……?」
「ヘレンちゃんは賢いから、よぉく考えてごらん。パパもママも、神様が死なせちゃったのかな?」
「ちがう……けど……」
「そうだね。だから、それを神様のせいにしちゃダメ。悲しいことだけれどね、この世の中はいい人だから長生きできるわけじゃないの。エルデもそうだった。あの子はとってもいい子だったのに、あんな死に方をしてしまった……。でもそれは、決して神様のせいじゃない。本当の神様はね、なぁんにもしてくれない。ただ、ちょっと悩んだ時や迷った時に、背中を押してくれるの。それだけ」
「……でも……」
 ヘレンはどんどんうつむいてゆく。理屈はわかっても、そう簡単に割り切れないのが人の常だ。まして、まだ10歳にもならない、父母と死に別れたばかりの少女となれば。
 ベティはうんうん、と頷いてヘレンの頭を抱き寄せた。
「いいのよ、今すぐわからなくても。神様なんてそんなだから、今は無理して祈らなくていいの。でもね、感謝の気持ちは忘れちゃいけない。神様じゃなくて、あなたを生かしてくれて、たくさん色んなものをくれた人たちに」
「おばばに……?」
 ベティの胸の中で顔を上げたヘレンは、手鏡を差し出す。身を起こしたベティはそれを押さえて、首を振った。
「わたしだけじゃないさ。たとえば、その手鏡がもらえるきっかけを作ってくれた人――」
 ベティの顔がルージュを見た。ヘレンもつられるようにしてルージュを見る。ルージュは照れくさそうにはにかんだ。
「ルージュちゃんと一緒にこの家に連れてきてくれた人――」
 次はルスターを見やる二人。ルスターはにっこり微笑んだ。
「その他にもいっぱいいるよ? 手鏡を作った人。その人が食べる物を作った人。そうそう、ヘレンがこの世に生まれてくるためにはパパとママがいなくちゃいけないし、おばばのパパやママもいなくちゃ、今日わたしはヘレンちゃんに手鏡をあげることもなかった。それだけじゃない。鏡を作る材料は森の中や土の中にあったものだし、クッキーは家畜のお乳や畑で取れた麦だ。お日様がなければ麦は育たない。夜がなくても育たない。わたしたちはそうやって、色んな人やもののおかげで生きてる。そのことへの感謝を忘れちゃいけないんだ。それが、祈るということなんだよ」
 まだヘレンには難しかったのかもしれない。考え込んでいる少女の頬をベティはそっと両手で包み込んだ。
「世の中の人は、それじゃあ面倒くさいから、みんなそれを神様のおかげにして祈っているだけ。だから、ヘレンちゃんが神様に祈れないなら、みんなにありがとうって祈りな?」
「いいの……? 神様なんか嫌いだけど……みんなと一緒に祈ってもいいの?」
「いいともいいとも。ねえ、ルスターさん」
「仮にも司祭の前でする説教じゃないし、聞くことでもないと思いますけどね」
 ルスターは苦笑したものの、ヘレンに向いて頷いた。
「でも、その通りだよヘレン。私は祈っているふりをしているより、きちんとみんなに感謝が出来るこの方が好きだし、大事だと思う。……それが嬉しいかい?」
 ヘレンは大きく頷いた。瞳が潤んでいるが、口許には笑みが浮かんでいる。
 すかさずベティが頭を撫でた。
「うん。いい笑顔だよぉ、ヘレンちゃん。きっとね、パパもママもあんたの中できちんと生きてる。パパとママが教えてくれた、その大事なものを守っている限り、あんたはいつもパパとママと一緒だよ」
「うん。ありがとう、おばば様」
「よかったね、ヘレンちゃん」
「あ、ありがとう」
 ルージュの相槌に照れくさそうに頷くヘレン。
 ルージュが本当にわかっているのか苦笑を浮かべて訝りながら、ルスターは二人がカップのお茶を飲み干すのを見ていた。
「――さ、二人ともそろそろ仕事に戻ろうか」
 二人からたちまち年相応の不満声が上がる。
 まだいいじゃないか、と擁護しかかるベティを制して、ルスターは続けた。
「エルデさんの家の炊事場に、まだ洗ってない食器と調理具が残ってた。あれをきれいにしておいてあげてくれないかな? 鏡をもらったお礼だと思って、しっかりやるんだ」
 鏡のことを出された少女たちは顔を見合わせて頷き合い、椅子から降りた。
「はい! じゃあ、おじ様! ルージュ、いってきまーす!」
「あたしもいってきます、ルスター先生」
 二人で並んで頭を下げる。
 するとベティが口を挟んだ。
「お皿割ってもいいから、怪我だけはするんじゃないよ?」
 元気な返事を残し、二人は駆け出していった。

 ―――――――― * * * ――――――――

「ありがとうございます」
 空いたカップに三杯目の茶を注いでもらいながら、ルスターはベティに頭を下げた。
「いやいや。余計なことだったかもしれないね」
「そんなことはありません。……私は親にあまり大きな期待を抱いたことがなかったので、どうしても親子のつながりにはズレてるところがあるみたいで。正直、親を亡くして落ち込んでいる子供をどうすれば立ち直らせられるのか、いつも不安だらけです」
「あんたはよくやってるよ」
 言いながら、ベティは自分のカップにもお茶を注いだ。
「その若さで、あれだけの子供の親代わりをして、その上……」
 ポットを置いた後、不自然な沈黙が落ちる。
 お互いに一昨日の事件を思い出していることはわかっていたが、口には出せなかった。
「……でも、今の話は私の胸にも沁みました」
「あんたも何か悩んでいたのかね?」
「ええ。少しね。くだらないことです……正直、ハイデロアで学ぶより勉強になりました。ありがとうございます」
「やだねえ、改まって。こんなばばあの戯れ言、あんたみたいな博識にゃ耳にタコだろうに」
「いや、そんなことはありませんよ。お世辞ではなく……ハイデロアでは人の絆なんて教えません。ただ、貴族の持つべき教養と千年王家の正統性と樹帝教の教えの丸暗記だけ……あれでよく、司祭の――『奇跡』の力を授かったものだと」
 湯気の立つカップをじっと見つめる。その湯気の向こうに見えるのは、ハイデロアでの15年間。
「多分、あんたの中の神様がそれだけ強いんだよ」
「え?」
 ベティが何気なく言った一言に、ルスターは我に返った。
 ベティはカップを両手で持って、ルスターと同じように湯気を見つめていた。
「わたしゃ司祭の勉強はしてないし、よくは知らないけどね。けど、あんたはやっぱり頭がいい。頭が良すぎて神様なんてものを心からは信じてない、とわたしは見てるけどね」
「そう、でしょうか」
 そういわれてみれば、確かに信仰心という点ではシュタインベルクや村の人に劣る気がする。ハイデロア学院時代を振り返ってみても、世の中を斜(はす)に構えて見る癖がついているせいか、熱烈な信仰者とはとても思えない言動を繰り返してきた。
「そうともさ。だから、捨てるのも滅ぼすのも全然気にしない。普通は神の怒りを恐れるものじゃないかね? 正統宗派からつまはじきにされるとか、邪神とはいえ、これだけの信者を抱える教団を滅ぼさなきゃならないなんてことになればさ。けど、あんたにはそんな恐れが感じられない。はなからそんなもの、信じてないからじゃないかい?」
「確かに、そうかもしれませんね。……じゃあ、なんで私、司祭の力を使えるようになれたんでしょうか」
「だから、それをわたしに聞かないどくれって言ってるんじゃないか」
 けらけらとベティは笑った。
「まー、それでも力を与えられたということは、あんたはどこかの神様に気に入られているってことなんじゃないかい? ……ひょっとしたら今の樹帝教の有様に業を煮やしたシュレイド様かもしれないけどね。それに、あんたならわかってるはずだよ。大事なのは何か。神様の名前じゃないだろう?」
「はぁ」
 ルスターは気弱げに苦笑いを漏らした。
 このおばばから見れば、結局ヘレンも自分も同じようなものなのかもしれない。こちらの悩みも、迷いも、さらには自分で気づいていない認識すらも、全て見透かされているようだ。これが年の功というものか。
「この先、あんたがどの神様を奉るかは知らないけどさ」
 ずずず、という派手な音を立ててベティがお茶をすすった。カップの中を乾して、一つ大きく息をつく。
「シュレイドにせよ、グワルガにせよ、ボラスドーにせよ、その他にせよ……あんたが信じる神様なら、わたしも信じてあげるよ。だから、がんばんな」
 その瞬間、ルスターは思わず固まっていた。
 がんばんな、というそのたった一言に胸が詰まった。
 自分は一人ではないのだと、心のどこかがようやく認識し、張り詰めていたものが――親に売られたときから張り詰めっぱなしだったものが、ふっつり切れた気がした。
 ほろりときて、目の縁にこみ上げる熱い塊。
「……ありがとうございます」
 表情を隠すために深々と頭を下げたルスターに、ベティはただにこにこと笑顔を向けていた。

 ―――――――― * * * ――――――――

 しばらくしてベティおばばの家を出たルスターは、ふと空を見上げた。
 薄い雲が空を走っている。冬の本番はこれからだ。
 だが、ひときわ寒い風が過ぎ去った後は……春が来る。
「……春遠からじ、か」
 そう呟いて、ルスターはロイドたちが働いている水車小屋に足を向けた。


【次へ】
    【目次へ戻る】    【ホーム】