蒼きバンダナのアレス First Episode
〜Engage Destiny〜【LUSTER/ROUGE】

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望  み

 エルデとマニングの葬儀には、村からは誰も弔問に訪れなかった。
 身元を誰も知らぬマニングはともかく、人を刺し殺した女の葬儀になど出られないということなのだろう。いきさつがどうであれ。
 その一方で、村ではシュタインベルクの葬儀がしめやかに行われている。
 野望の道具として幼いメッケナーを殺した男は村総出で見送り、道具にされた挙句その男を刺した哀れな女は孤児院の子供たちだけで見送る。
 釈然としないものをを感じているのは、子供たちも同じだったのだろう。
 一階の大広間でテーブルを寄せて作った台の上に並べて寝かせられた二人。
 子供たちはすすり泣きながらエルデの頬にお別れのキスをしてゆく。
 もっとも、ほとんど交流のないままお別れとなった新参の三人は、よくわからない態で居づらそうだった。
 ルスターは、呆けていた。
 折られた右腕を三角巾で吊り、いまだに空っぽのままの広間正面の神像安置壇に腰を落とし、何も見ていない目でエルデを見つめていた。ルスターのその様子もまた、子供たちの不安を煽っていることに、本人はまったく気づいていなかった。
 ルージュがその隣に座っても――いつもなら神像安置壇に座ると怒られるのだが――ルスターは少女の方をちらりとも見ない。
 ワイズマンが何事かを訊ねても生返事。
 その様子をペルナーだけが痛ましげに見つめていた。

 ―――――――― * * * ――――――――

「……おじ様、なんだか魂が抜けちゃったみたい」
 相手にしてもらえないので子供の輪に戻ってきたルージュの激しい落ち込みぶりに、ワイズマンも頷く。
「うん。あんなルスター先生を見るのは初めてだ……僕ら……どうしたら」
「今まで大事な人を失ったことがなかったんだろ。孤児院の院長なんかやってくせにさ」
 鼻笑み混じりに嘲笑うように言ったのはロイド。
 たちまち、ルージュとワイズマンの怒りに吊り上った眼が新参者を睨む。
「ロイド、なんてこと言うんだ! 」
「そうよ。ルスター先生のことも、エルデさんのことも何にも知らないくせに!」
「知らなきゃ言っちゃいけないのかよ。ボクら兄弟も、ヘレンも、親が死んでシュルツの教会を頼った。あんなのは、もう乗り越えたんだ。大人のくせにそんなのも乗り越えられない奴を、ボクは先生なんて呼びたくないね」
「この――」
 ロイドの頬を張るべく振り上げたルージュの手を、ワイズマンがつかんだ。
 文句を言おうと振り返ったルージュは、ワイズマンの形相に驚いて口をつぐんだ。普段は温厚冷静なワイズマンが、唇を真一文字に引き結んでいた。
「ロイド。乗り越えてないのは君の方じゃないのか」
「なにぃ?」
「ここに集められた子供たちは、皆そうやって大事な人と別れてきている。中には、親に売られてきた子供だっているんだ。死に別れた子とそうやって売られてきた子と、どっちが不幸なのかはボクにもわからない。でも、ここの子供たちは誰一人としてそれを自慢になんかしない」
「べ、別に自慢なんか」
「ルスター先生を悪く言ったじゃないか。死に別れの悲しみを乗り越えられない大人だって。自分たちはそれを乗り越えたって。それは今の先生と自分たちを比べた自慢だよ。少なくとも、ボクも、ルージュも、そんなことに感心なんかしない」
「ワイズマン……」
 ルージュは一歩も引かぬ覚悟を決めた少年の横顔を見つめていた。
 メッケナーがシュタインベルク司祭に連れて行かれたとき、一番ルスターを責めたのはワイズマンだった。大人しく冷静な性格だから、ほとんど言葉には出さなかったけれど、態度でルスターの言うことにいちいち反発していた。
 いつの頃からか、そんな態度は鳴りを潜めていたけれど、きっとワイズマンはまだルスターを許していないのだろうと思っていたのに。
 ワイズマンとロイドの睨み合いに、ミュラーが困惑の表情を浮かべ、その他の子供たちもおろおろする。一番年下のトリーデは泣きそうになっていた。
「いい加減にしなさいよ。今日はエルデさんのお葬式なのよ」
 そう言って二人の間に割り込んできたのはケイトだった。腰に両拳を当て、年上三人をぎろりと一瞥する。
「ロイドの言ったことには賛成できないけど、ワイズマンもルージュももう少し考えてよ。ロイドたちはまだ来たばっかりなんだから。トリーデなんか泣きそうになってるじゃない。喧嘩なら外でやって!」
「いや、別に喧嘩というわけじゃ」
 ワイズマンがへどもどしている間に、ロイドは鼻を鳴らしてその場を離れた。
「ふん、冗談じゃない。ボクは絶対認めないからな、あんな大人」
 その後ろを心配顔のミュラーが追った。

 ―――――――― * * * ――――――――

 その日の夕刻。
 マニングを孤児院の裏へ埋めたルスターたちは、エルデを荷馬車に乗せ、孤児院総出で墓場へ向かった。
 エルデを夫の墓の隣へ埋めてやり、皆で最後のお別れに手を合わせる。
「……ごめんね、エルデさん。春になったら……お花いっぱい摘んでくるから」
 ルージュの呟きに、ケイトもトリーデも頷く。ヘレンも。
「神様……エルデさんの魂を安らかなる眠りにつかせてやってください」
 男の子たちも神妙にエルデの眠る墓穴を覆う土饅頭に手を合わせていた。

 ―――――――― * * * ――――――――

 夜。
 子供たちの就寝時間前だというのに、ホルマールの村長が村の主立った人間と数人の見知らぬ顔の者達を連れて訪れた。
 葬儀から戻ってきてもいまだ放心状態のルスターに代わるペルナーの指揮の下、子供達で大広間のテーブルを並べ替え、椅子を用意し、そこに着席をした人達にお茶を振舞った。
「いいですか。この孤児院がこの先もここにいていいかどうかの瀬戸際です。諸君、くれぐれも粗相のないように」
 ペルナーの厳命に頷いた年長のワイズマン、ルージュ、ロイドがかいがいしく働き、ケイトたちが興味津々な年下の子供たちを抑える役に回る。
 やがて、ルスターが司祭室から降りてきた。ルージュに手を引かれて。
 並べたテーブルの下座に用意していた椅子に座らず、部屋の隅にペルナー用に置いていた椅子に腰を下ろす。
「おーじーさーまっ! そこじゃないよう! あっち! あそこ!」
 袖をつかんで立たせようとするルージュに首を振って、座り続けるルスター。
 その姿に業を煮やした村長が口を開いた。
「もうよい。そこがよいと言うておるのぢゃ。そこでよいわ。どこに座ろうと話の中身は代わりゃせん。お主も下がっておれ」
 苛立ちを隠さぬ声で告げた村長は、ルージュを手で払う仕草をした。
 頬を膨らませたルージュがその場を離れると、ペルナーが代わって進み出た。
「ええと……村長殿。今宵は何用でございましょうか」
 来訪者達は一斉に目配せをして頷き合った。
 代表してホルマールの村長が口を開く。
「時間がないのぢゃ。単刀直入に申すぞ。ルスターにはシュタインベルク様の後を継いでもらわねばならん。今の状況を放置すれば、せっかく自由を得たこのシレキスが再び貴族どもの手に落ちる」
「それは……」
 ペルナーはルスターを見やる。
 ルスターは話など聞いていないかのように、虚空を見上げていた。
「我らの守護者であったシュタインベルク亡き後、これ以降をどうするつもりなのか、ルスターに聞いておかねばならんのぢゃ。しっかりと後を継いでくれるのであれば、今回の件は不問に付す。シレキスの他の村長達にもお主のことを――」
「――不問に付す?」
 不意に低い地鳴りのような声が、大広間の隅から響いた。続けて、力のない笑い声が。
 一斉に視線が声の主に集まる。
 ルスターは暗い面持ちでへらへら笑いながら、村長を睨んでいた。
「不問に付すとはまたおかしな話ですね、村長。シュタインベルクが死んだのは自業自得でしょう。私のせいじゃない。エルデさんを操り人形扱いして人を殺させたから、そのしっぺ返しを受けただけ。私やエルデさんが罪を問われる話じゃない」
「……己の擁護をするときだけ、話を聞くか」
 村長はじめ、主だった老人が不快を隠しもせず顔に表す。
 しかし、ルスターは再び鼻先で笑った。
「おやおや。それはあなた方とて同じでしょう。……自分達のやり方が正しかったと思いたいがために、私を、そして私と情を通じていたと思っているエルデさんを吊るし上げ、自分達より立場を下にしておきたいだけだ。しかし、今、私はそんな下らない権力闘争には全然興味なくてね」
「それでも……それでも、シュタインベルク様はわしらに自由をくだされたのぢゃ!」
 テーブルを激しく叩く。ルスターとは反対の部屋の隅で膝を抱えて話を聞いていたワイズマン、ルージュ、ロイドは思わずびくっと身を震わせた。
「自由ねぇ」
 ルスターは腕組みをして、大きく深呼吸をした。
「だったら、自由にすればいい。自分達でこれからのことを考え、自分たちで全てすればいい。私も自由に考え、自由に行動する。それが自由というものでしょう?」
「わしらを見捨てるというのかっ!」
「考え違いをしなさんな、と言っているんですよ。シュタインベルクが与えたのは自由じゃない。あいつが新たな支配者になっていただけ。これまでとは違う支配形態だったために、あなた方は自由を得たと勘違いしていたが……」
「そんなはずはないっ!!」
 村長に近い男が立ち上がって喚いた。
「税だって軽減していただいた! 様々な不条理な掟も全て取っ払ってくれた! なにより貴族どもの目を欺き続けてくれた!」
「人を欺くことに長けた者が、自分達の目も欺いているとは考えないのですね。村人の一人がその意思を無視する形で人殺しの道具にされ、子供があなた方の作った火薬で爆殺されたというのに。次は誰がそうなる予定だったんだか」
 呆れの混じったその冷たい言葉に、一同は黙り込んでしまった。
「シュタインベルクをどう評価するかは私の知ったことではありませんが、少なくとも私はシュタインベルクじゃない。あれの代わりは出来ないし、するつもりもありません」
「では、どうせよと!」
 ルスターは左手を広げ、肩をすくめてみせた。
「知りませんよ。私はあなた方の支配者になりたいわけじゃないし、私が命じたりする筋合いのものじゃないでしょう? そもそも私、樹帝教から送り込まれた偽司祭ですしね。追い出されるものと思ってましたが」
 皮肉げな笑みを浮かべて、痛む右腕に左腕を添えて少し持ち上げてみせる。手の甲の刻印を晒して見せる。
 一同のどよめき。
 ルスターは続けた。
「シレキスに巣食っていたボラスディアの首魁は死にました。このままハイデロアに戻ってボラスディア壊滅と報告するもよし、住民全てがボラスディアだと真実を報告するもよし……さて、どうしましょうか」
「わ、わしらを脅す気かっ!」
「そう。これがシュタインベルクのやり方ですよ。このやり方がよかったんでしょう?」
 再び、一同は黙り込む。ちらちらと目線を交し合う。
「私の口を塞ぎますか? いいですねえ、一番手っ取り早い。もっとも、私もただで殺られる気はありませんが」
 思っていたことを先に告げられ、またもお互いに顔を見合わせる。その表情にだんだん焦りの色が隠しきれなくなっている。
「それで――」
 ルスターは少し前屈みになり、左肘を膝についた。挑戦的に村長を見やる。
「どうします?」
 不味い物でも食べたかのように顔をしかめる村長。一同は助けを求めて村長を見ている。
 しばらく唸りながら考えた後、今度は村長が聞いた。
「……お主はどうしてほしいのぢゃ、ルスター」
「今宵は私の望みを聞きに来てくださったので?」
 ルスターの嫌味に村長の表情がまた歪む。
 再びしばらく唸った後、村長はやにわに立ち上がった。
 きょとんとしている他の者の前で、両手をテーブルにつき、深々と頭を下げる。
「……ルスター殿。助けてくだされ」
 白髪の頭を下げたまま微動だにしない村長の姿に、他の者達も慌てて立ち上がり、次々に頭を下げてゆく。
 全員が頭を下げたところでルスターはゆっくり立ち上がり、口を開いた。
「いいですよ」
 あまりに軽い言葉に、顔を上げた全員が目をぱちくりさせていた。
「私もこの村が好きですから。子供たちのためにも、子供たちと仲良くしてくださる皆さんのためにも、私で出来ることならご協力させていただきます」
 さっきまでの暗い表情が嘘のような、屈託のない笑み。
 戸惑う村長に向かって歩きながら、ルスターは告げた。
「すみませんね村長、生意気な口を叩いて。ですが、私はあなた方との間に垣根や段差を作りたくないんです。子供たちのためにも。出来れば、今まで通りのお互い助け合う関係でいたい。それが私の望みです」
「ルスター殿」
 村長の傍まで来たルスターは、無事な左手を差し出した。
「無礼は承知ですが。申し訳ない、右手がこのざまなもので」
 首を振って握り返した村長は、さらにその手に右手を加えてルスターの手を包むように持った。

 ―――――――― * * * ――――――――

 仕切り直しとなった会議では、ルスターはもっぱら聞き役に徹した。
 今後、ホルマール村だけでなくシレキス全体をどのようにまとめてゆくか、その要望を全て出し尽くしたのは、結局夜中を過ぎていた。
 結論は出ず、後日ともかくジェラルディン子爵領内の村長、町長をシュルツに集めて同様の話し合いを持つことにして、その夜は散会となった。

 ―――――――― * * * ――――――――

 子供達も寝静まり、明け方も近い真夜中。
 司祭室でじっと虚空を見つめているルスターの元へ、ペルナーがお茶の用意を携えて訪れた。
「失礼します、ルスター様」
 ルスターの前に湯気の立つティーカップを置くと、ペルナーはその正面の床に正座で座り込んだ。膝と指先を揃えて、深々と頭を下げる。
「ルスター様、何よりもまず謝らせていただきたく思います。わたくしは、シュタインベルク様の司祭補佐として、あなた様を監視し、その行動・言動を報告する役目を仰せつかっておりました」
 ちらりとルスターの様子をうかがう。しかし、さっきと変わりない。まったく興味を持っていない。会議の前の状態に戻っているように見えた。
「……言い訳は申しません。わたくしは見ての通り、誰かからの指示がなければ動けぬ臆病者です。目障りだ、去れとおっしゃるなら、去ります。どうか、何なりとお命じください」
 再び見やると、ルスターは目を閉じていた。お前の顔など見たくもない、ということだろうか。
 しばらく待ったが、ルスターは目を開かず、言葉も紡ぎ出されはしなかった。
「ルスター様……」
 未練たっぷりに呼びかけ――ペルナーは立ち上がった。深々と頭を下げ、踵を返す。
 ドアノブを握った時――
「ペルナー」
 聞き違えようもない声に呼ばれ、ペルナーは勢いよく振り返っていた。
「は、はい!」
 ルスターは相変わらず目を閉じていた。
 今の呼びかけは寝言だったのではないかと訝しむペルナーに、再びルスターは呼んだ。
「ペルナー。……望みは何だ?」
「は? ……私の望み、でございますか?」
 何かを命じられると思っていた男は、目をしばたかせて考え込んでしまった。
「ええと……今も言いましたとおり、わたくしは誰かに命じられなければ動けぬ臆病者です。わたくしの望みは、私に何かをお命じになっていただくことで――」
「仕事のやりようじゃなくて。望みだよ。たとえば、残っている人生をかけてやりたいこととか」
「はぁ……その…………今まで特に考えたこともございませんので、急に聞かれましても」
「シュタインベルクの司祭補佐をやっていた連中も同じ?」
「はい。シュタインベルク司祭はそういう者をお傍に置いて、手足の代わりとなさっていましたから。おのれの望みなどは……」
「……屋敷に執事や使用人を置く貴族のやり口とよく似ているな」
 ため息をつくルスター。
 嘲笑ではなくため息であることに困惑しながら、ペルナーは続く言葉を待っている。
「俺は――私は、別にやりたいことなんかなかったんだ。ただ、司祭になりたかった。世のため人のためではなく、それが私が一番楽に生きられる道だと思っていたからだ。結局それは、自分の思惑とはまったく関わりのないところの動きのためにこんな結末になったわけだが――」
 右手の甲に目を落としたルスターは少し怪訝そうに顔をしかめた。
 副木で固定した右手の甲に刻まれた屈辱の烙印。その形がどことなく変わっているように思えた。何が変わっているのかはうまく説明できないが、何かが違う気がする。
 戸惑いを心の奥に隠し、続けた。
「樹帝教のたくらみに乗せられたとはいえ、ここで過ごした一年近く……実に楽しかった。このままここで子供たちと暮らすのも悪くないと思っていた」
「それは、わたくしもでございます」
 ペルナーはそっとルスターの正面に戻ってきていた。いつもの柔和な笑顔を浮かべ、両膝を床について、腰を下ろす。
「最初わたくしがここへ派遣されたのは、子供たちとホルマール村の監視のためでございました。正直、子供はボラスディアの活動を支える金づるで、とにかく病気になったりしなければどうでもよいと思っておりました。ですが、ルスター様がおいでになり、子供たちの将来を考える、ということを知り……わたくしははじめて、自ら人と関わることの喜びを覚えた気がします」
「だが、その結果もこれだ。もう気楽に生活を楽しんでいられる状況ではなくなってきた」
 ルスターは再びため息をついた。
「昨日からずっと考えていた。私はこれから何をすべきなのか。問題は山ほどある。シュタインベルクを許すつもりはないが……正直、ここまで見事な計略は私一人では支えきれない。さっきの席上ではああは言ったが……あの男は、凄かったのだな」
「ルスター様……」
「いい加減、考えるのにも疲れてきたよ。この孤児院の平穏だけを考えていたいのが本音だね。シレキスの未来は、私の肩には重過ぎる。なのに、孤児院の平穏を考えるためには、ホルマールの、シレキスの、マンタールの、シレニアスのことまで量らなきゃいけない。いっそ――」
 ルスターの口元に、皮肉げな苦笑が浮かぶ。
「いっそ、みんな壊れてしまえ、とも言いたくなるな」
「お気持ち、お察しします」
「ありがとう」
 頭を下げるペルナーにそう言って、ルスターはカップを取り上げた。気持ちを落ち着けるようにその香りを深く胸に吸い込んでから、口をつける。
 ソーサーに戻されたカップの中身は、半分ほどに減っていた。
「しかし……つくづく思うよ。平穏とは、難しいものだ。エルデさんも、バイド殿も、おそらくはそれを求めていたのだろうに。どこまで行けば、どこまでやれば、たどり着けるのか……。我が身一つなら何とでも処する自信はあるが、みんなで、というのはすこぶる難しい。……羊飼いの心境だな」
 ペルナーは力なく首を振った。否定ではなく、自分の理解の範囲を超えているという意味で。
「ペルナー。ひょっとして私は問いかけ自体を間違えているのかな。平穏な生活とは、望んではならないものなのだろうか。あるいは、それは本当に人それぞれで、一つの形を与えられるものではないのだろうか」
「それは…………わたくしのごとき、学のない者にはわからぬことばかりでございます」
 ペルナーは深々と頭を下げた。これ以上の問答はお許しください、とでも言うかのように。
「ですが、ルスター様。今、わたくしに望みが生まれました」
「え?」
 顔を伏せたままのペルナーに、ルスターは目を丸くした。今のやり取りのどこに、そんな夢や望みを持たせるようなフレーズがあっただろうかと反芻する。
 ペルナーは頭を上げた。その顔は晴れ晴れとしていた。
「ルスター様のお導きをいただきたい。それがわたくしの望みでございます。ルスター様の下で、あの子供たちのように様々なことを学び、いつかルスター様のお悩みにわたくしなりに答えられるようになりたい」
「ペルナー……」
「シュタインベルク司祭の手足となり、数々の非礼と罪過を犯した愚か者でございますが、どうか、なにとぞ、ルスター様のお役に立てるお傍に置いていただきたく思います。二度とあなたを裏切らぬことを誓い、粉骨砕身働きます。なにとぞ。なにとぞ」
 再び平伏し、額を床にこすりつける40男に、ルスターはため息を漏らした。今度は疲れたため息ではなく、安堵めいたため息を。
「そう自分を卑下するものじゃない。元々、罰したり追放するつもりはなかった」
「そう……なのでございますか?」
「理由はいくつもあるが……この一年、私を支えてくれたのは間違いなくペルナーだ。シュタインベルクがいなくなったからこそ、私はもう何の遠慮もなく信じられる」
「ルスター様……」
「でもなぁ」
 感極まって目を潤ませるペルナーに、ルスターは照れくさそうに苦笑を浮かべた。
「こんなおのれの進むべき道すら見つけられぬ若輩者について行きたいとは、つくづく物好きだね。どうやったって茨の道だぞ? いや、行き止まりかもしれない」
「覚悟の上でございます」
 鼻をすすりながら居住まいを正すペルナーに、ルスターは頷いた。
「では、ペルナー。とりあえず、私たちはこれまで通りに行こう。かしこまった儀礼はなしで。子供たちも不安がる」
「承知致しました。……ありがとうございます」
「それから、明日にでもシュルツへ行ってくれ。主を失った司祭補佐たちに、現状を伝えてやってほしい。どう行動するかはそれぞれに任せる。同様にシュタインベルクが各地に作った孤児院にも、その知らせを伝えるよう手配を頼む。私も追って向かうことにする。村長達より早く向こうに着いて、少しでもシュタインベルクの後始末をしておきたい」
「はい。……しかし、ルスター様」
「なんだ?」
 ルスターはティーカップを取って、唇を湿らせた。
「皆がどうするか以前に、ルスター様こそどうなさるおつもりなのですか? 先ほどの会議でもその辺りのことは一切お話になっておられませんでしたし……」
 うん、と頷いてカップをソーサーに戻し、ルスターは再び虚空を見上げた。
「どうしたものかな……ジェラルディン子爵一族爆殺、バイド殿の一党爆殺……それが公になれば、マンタール・シレニアスから騎士団が大挙して来るだろう。こんな田舎の地方はあっという間に殺し尽くされる。いかにして、その悲劇を回避するか……ペルナーはどう思う?」
「わ、わたくしですか?」
 戸惑いを隠しもせず、考え込む。
 ルスターがカップを空けてしまうまで考えても、答えは出てこなかった。
 空のカップに、慌ててお替りを注ぐペルナー。
 ルスターは虚空を見上げながら、悩乱に表情を歪めていた。
「……とりあえずその二件とガルディン準爵の件は、シュタインベルクにかぶってもらうことは出来る。私がここにいる以上、ハイデロアに戻ってそう報告すればいいだけの話だ。敬愛する子爵様を殺した犯人がシュタインベルクだと知った未亡人が、篤き忠誠心から奴を刺し殺した――そういう貴族好みのストーリーに仕立て上げてね」
「しかし、それでは……」
「そうだ。最も良い形に話が進んでも、私は次の土地へ送り込まれ、この地には新たな支配者が送り込まれるだけ。状況が5年前に戻るだけだ。村人はそれを望んでいない。もちろんの話だな」
 ルスターの言葉は途切れた。
 そのまま、無言の時間が過ぎてゆく。
「あ」
 不意にペルナーが妙な声を出した。
「どうした?」
「あ、いえ……その……思い出したことがありまして」
「なんだ?」
「近々、エキセキルから人が来ることになっておったのです。それをどうしたものかと」
 ルスターは少し顔をしかめて、脳裏に周辺の地図を思い浮かべた。
 エキセキルはシレキスの遥か西方に位置する地方で、アスラル大樹海の辺縁部にあたる本当の意味での辺境である。樹海の外の世界に近いだけあって、交易が活発な地域だと聞いたことがある。
 しかし、そこの人間がなぜこんな何もない土地に。
「来るって、シュタインベルクに会いに?」
「はい」
「どういう人物なんだ?」
「さあ……どなたがおいでになるのかは存じておりませんが……確か義勇軍の幹部だとか」
 聞き慣れない言葉に、ルスターは思わず怪訝そうに聞き返した。
「ギユウグン? 何だ、その物騒な響きの名前は」
「何だと申されましても……言葉通りでございますが……。ひょっとして、御存知ないのですか?」
「何を」
「マンタールだけの話ではないのですが、今アスラルの辺縁部各地では反貴族体制運動が活発に行われておりまして。エキセキルはその急先鋒なのです。既に貴族支配の下を離れ、自治を始めているとさえ聞いています」
 ルスターは目を丸くしたまま、二、三度目蓋をしばたかせた。
 ペルナーは続けた。
「義勇軍はその住民達が組織した戦闘部隊です。また、マンタール南方のヘルディン地方でも独立闘争が行われており、両者の中間であるシレキスでも蜂起を起こせば、瞬く間にマンタール南部は解放されると」
「シュタインベルクが言っていたわけだな?」
「そのとおりでございます」
 っかぁぁぁぁ、と不思議な呻きをあげて、ルスターは左手で顔を覆い俯いてしまった。
「ルスター様?」
「それを先に言えよ……それを」
「は?」
「そうか……戦っている連中が既にいるのか……」
 ルスターは呻くように漏らした。
「何か、問題でもございますか……?」
「あるさ。既に戦っている連中がいるのなら、貴族どもだってシレキスだけに騎士団を派遣するわけにはいかない。なら、まだ作戦の立てようはある。戦い方だけの問題だ。それも、その先輩達に教えてもらえばいい」
「しかし……シレキスの人々がそれを受け入れるでしょうか」
「受け入れなければ、滅ぶだけだ」
 静まり返った司祭室に、ペルナーの息を呑む音がやけに大きく聞こえた。
「シュタインベルクの完璧な代筆と巧妙な人心掌握という特殊技能によって支えられていたこの地の平穏は、奴の不在によって破綻した。今直面している通りに。同様に、私一人が何がしかの方法でごまかしたとしても、いずれはどこかで破綻する。揺るぎなき自由と平穏が欲しければ、やはり皆で反抗し、戦って勝ち取るしかない。それが常道だ。最も近道に見える道こそが遠回りで、遠回りだからこそ近道、ということだ」
「……訳がわかりません」
 顔をしかめて首を傾げるペルナーに、ルスターはこれまでとは打って変わった活気のある笑みを投げかけた。
「わからなくてもいいさ。言っている私にだって詭弁に聞こえるんだから。いずれにせよ、このシュタインベルクの置き土産が事態を大きく動かしてくれるかもしれない」
「はぁ……しかし、それでは多くの血が流れるのではないでしょうか」
「………………」
 ふとルスターは眉間に皺を寄せると、顎に左拳を当てて考え込んだ。
「ルスター様?」
「……それが次の段階だったのかもしれない」
「は?」
「シュタインベルクの次の手だ。どう考えても、ジェラルディン子爵一家を一年以上病に伏せさせたままでは、マンタールに疑惑を持たれるのは避けられない。そうなった場合の手を考えていたはずだ。……自由を与えた者という圧倒的なカリスマを背景に、奴はシレキスの住民を戦いへと駆り立てるつもりだったんじゃないか? そのために、その義勇軍の連中を呼んで――何か聞いていないか?」
「申し訳ありません、わたくしどもには何も……」
 済まなそうに頭を下げるペルナー。
 ルスターは覚悟を決めた態で大きく息を吐いた。
「そうか。まあ、仕方がない。しかしこれは、いよいよシュルツに行く必要に駆られてきたな」
「あの、差し出がましい話ですが」
「うん? なんだ?」
「その前に、決めておかねばならないことがあると思うのですが」
 心配そうに切り出したペルナーを、ルスターはきょとんとした顔で見つめた。
「ルスター様のお立場です。シュタインベルク司祭の跡を継ぐのであれば、樹帝教の司祭では皆が納得しないのではないでしょうか。かといってボラスディアに改宗、ということになりますと、いささか外聞も悪いかと……。グワルガになさるのでしょうか。シュタインベルク司祭は表向きグワルガ司祭でしたし」
「あー。そうだ。その問題があったな。あっちゃー……どうしようか」
 ルスターは再び呻いて左手で顔を覆い、今度は天井を見上げてしまった。
「あと、失礼を承知で言わせていただけるなら……これまで子供たちには樹帝教の教えを諭してきました。ここで宗旨替えするのはいかがなものかとも思いますが」
「そうか……確かに、これまでの教えを完全に覆すようでは、司祭以前に大人として話にならないな」
 ルスターは唸ったきり黙り込んでしまった。

 結局、結論は出ぬままその場はお開きとなり、二人はそれぞれの寝床に潜り込んだのだった。


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