蒼きバンダナのアレス First Episode
〜Engage Destiny〜【LUSTER/ROUGE】

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対  決

「……なんだと?」
 ルスターは驚愕の眼差しで石舞台を囲む人垣を見回し、気づいた。
 空気が変わっていた。
 ルスターの乱入で呆気にとられていたような洞窟内の空気が、重みと粘度を増し、体にまといついてくる。
 間違いなくルスターを見つめる村人の目つきが、敵を見るそれに変わっていた。
 その戸惑う様子が予想通りのものだったのか、シュタインベルクは軽く肩を揺らして笑った。
「くっくっく……シレキスは既にボラスディアの手に落ちた。いや、解放されたのだ。千年の歴史などという、豚の餌にもならないプライドだけで圧政を敷いてきたシレニアスからな。それも、貴様がここへ来る前に」
「私が来る前に……?」
「貴様は不思議に思わなかったのか? 他地域と伍する産業といえばアスラルではありふれた加工木材か、家畜小屋の壁から取れる硝石を火薬に加工するぐらいしかないこのクソ辺鄙なド田舎が、貧困と無縁の平穏な日常を送っていることを。この秋に収穫された農作物がほとんど収奪されることもなく、村人の食卓に上っていることを。他所の土地に比べて凶悪な流行り病の発生が極めて少ないことを。全て偶然だと思っていたか?」
「どういう、意味だ」
「やれやれ、貴様は平民出身だと聞いていたのだがな。15年の歳月は本当に貴様から現実を直視する力さえ奪ったらしい」
 シュタインベルクは笑うことさえやめ、本当に失望した態で首を振った。
「貴族による収奪の結果を見たいなら、ガルディン準爵領へ行くといい。骨と皮ばかりになった哀れな平民が、さながら生ける亡者のごとくにさまよっている。だが、そんな光景はアスラルのそちらこちらで当たり前のように見られる。貴族という、働くことも知らず、収穫物を奪い食らうしか能のない家畜にも劣る連中が千年に渡って行ってきた、政治という略奪の結果だ。私が訪れた5年前には、ここジェラルディン領もそうだった」
 シュタインベルクの言葉を裏付けるように、村人たちが頷く。
 知らない話に、ルスターは内心うろたえた。この一年、そんな話はエルデにさえ聞かなかった。そんな痕跡にさえ気づかなかった。ここは中央から離れているがゆえに、政争とは全く関係のない平穏な田舎村なのだと思い込んでいた。よもや、そんな過去があろうとは。
 だとすれば、純朴な村人が公教である樹帝教を捨て、言葉巧みに邪教へ導かれてしまうのもわからないでもない――まるでその思いを見透かしたかのように、シュタインベルクは続けた。
「知っているか、ルスター? 確かに樹帝シュレイドは、公にはアスラルで最も信仰の対象になっている神だ。だが、本気でそれを信仰している平民は案外少ない。皆、貴族におもねってそのふりをしているに過ぎない。司祭さえも貴族の手先なのだからな。その方が利巧というものだろう?」
 ルスターは唇を噛んだ。それは良くわかる話だ。ハイデロアでは、自分もそれに近いことをして貴族社会の間をすり抜けてきたのだから。
「ボラスドーの教えが広まるのに時間はかからなかったよ。彼らは飢えていた。現実の空腹もだが、それ以上にこの家畜の餌にもならない現実を破壊してくれる力にな――千年の飢餓だ。ここに神はいなかった」
 シュタインベルクの瞳が怪しく輝く。ルスターは危うく半歩後退りそうになった。奴の目に脅えてではなく、その背後に渦巻くあまりに深く、濃い怨念が見えたような気がしたからだ。
「私は大地神グワルガの司祭としてジェラルディン子爵に近づき、私自身の知恵と才覚でこの地に多少の恵みをもたらしてみせた。そうして子爵と民の双方から信頼を得つつ、これはと思う者に我が正体と真に信仰すべき神の教えを諭し、少しずつ……少しずつ……その輪を広げ――時を待っていたのだ」
 これがそうだ、と言わんばかりに石舞台の左右前後に居並ぶ村人を手を広げて示してみせる。
「そして、ちょうど今から一年ほど前。貴様がここへ来る二、三ヶ月前だ。私はもはや無用の長物と化したジェラルディン子爵家を破壊した」
「破壊?」
 文脈に相応しくない表現に、ルスターは思わず聞き返していた。子爵を殺したのではなく、子爵家を破壊したとはどういう意味か。シュルツの教会の向かいに、子爵家の古い屋敷はまだ健在だったように覚えているが。
「わかりやすく言えば、一族郎党皆殺しだ」
「………………!!」
 ルスターの、いや、人の驚く表情が心底好きらしい。シュタインベルクはにやりと頬を緩めた。
「当主一人を殺したところで破壊したとは言えん。妻、娘、息子、嫁、孫、そして平民でありながら貴族に心服し、従属する者……少なくともあの屋敷に住む貴族全てが消えなければな」
 ルスターはわずかに目を細めた。
「孫……年端の行かぬ子供まで殺したのか」
「ん〜。そういえば、孫はまだ赤子だったかな。だが、貴族は貴族。生まれを呪ってもらうより他ないな。流行り病に罹った多くの平民の子供が、貴族なら受けられる適切な医療を受けられず、平民であることを呪いながら死んでゆくがごとくに」
 大仰な仕草で両手を広げるシュタインベルク。いつの間にかその背後に回り込み、石舞台に上がってきた村人たちが、合図を待っていたかのように一斉にそうだそうだと叫ぶ。
「貴様もバイドから聞いただろう? ジェラルディン子爵の食料庫爆破事件。今のがその真相だ。食料庫など爆破されてはおらぬ。平民の血と汗と涙の結晶に、そんなことが出来るものか。爆破したのは子爵家一族――この地域を腐らせていた最も罪深き病根だ」
 ルスターは告ぐべき言葉を見失っていた。
 貴族社会に反感めいた感情があるのは自分も同様だ。だが、それが世界のあり方であり、そうである以上はそこで賢く生きてゆくことこそが『最も良い生き方』だと考えていた。子供は親を選べない。同様に生まれてくる人は世界を、またそこでの地位を選べないのだから。
 その意味では、世界を変えようとしているシュタインベルクはルスターにとって驚きだった。
 だが、幼子にまで容赦ないそのやり口だけは許すことは出来ない。
「ことはここだけではない。ここで起きたことは、アスラル全土で起こりうる。そう。適切な策を巡らせて道を示してやれば、アスラルの信仰地図は陣取りゲームのように、一挙にひっくり返る可能性を秘めているのだよ」
「それは妄想だな」
 ルスターの言葉に、シュタインベルクはほう、と興味深げな表情を見せた。
「……いつまでもマンタールやシレニアスが黙っているはずはない。私がここに派遣されたように、バイド殿が派遣されたように、既に目をつけられているんだ。そもそも、一年ものジェラルディン子爵の不在が怪しまれないはずがない」
「それがそうでもない」
 シュタインベルクは肩をそびやかした。
「貴族には実存としての平民が必要だが、平民に実存としての貴族は必要ない。子爵なぞ存在しておらずとも、使用人と出入りの者が口裏を合わせれば、子爵は家族郎党、病に伏せていることになり、爆殺事件も食料庫爆破事件にすり換えられる」
「な、に……?」
 ルスターは胸に湧き上がる口惜しさに、歯噛みした。自分が聞いていた事実のほとんどが、地域の人間たちによって作られた虚偽だったとは。よそ者の自分が温かく受け入れられたという思いさえ実は錯覚で、本当は彼らに監視されていたのは自分だったのか。
「そして、マンタールにしろシレニアスにしろ、連中は形式主義だ。形式が整わなければ、動かない。自分たちの絶対優位を信じているからな。確たる証拠、確実な身元の人間による証言がなければ、正面切っては動かない。もし動いて、間違いであればそれは恥になる、名誉を汚されると思っている。貴様もをそれを重々承知しているからこそ、記憶喪失の包帯男などというでっち上げを試みたのだろう?」
 シュタインベルクの頬に、優越の笑みが浮かんでいる。貴様の考えることはお見通しだ、とでも言いたげな。
「結局、実は貴族にすら実存としての貴族は必要ないのだよ、ルスター。実際この一年、マンタールからの様々な問い合わせや必要な事務作業は、一切合財私が代行してきた――代筆は得意でね。手紙が一通あれば、同じ筆跡で書ける」
 空筆を持って、虚空にサインを描いてみせた。
 シュルツの教会に舞い踊っていた書類はつまり、子爵が書くべきものだったということか。
 ルスターは軽く深呼吸して、気持ちを落ち着けた。飲まれたら負ける。まなじりを決して、シュタインベルクを睨みつける。
「だから、バイド殿をメッケナーを使って爆殺したのだな。マンタール直属の紅光騎士に疑われたがために」
「そういう言われ方をすると、少し自尊心に傷がつくな」
 シュタインベルクはルスターの視線を受け流すように、また頬を緩めた。
「私が疑われたのは、私がそう導いた結果だ。私が怪しいと睨まれれば、周囲がぼやける。私は指示は下すが動かず、敵の注意を一手に引き受ける。動くのは――彼らだ」
 シュタインベルクは再び両手を左右に広げた。ルスターとシュタインベルクを囲む人垣が、得意げな顔つきになる。
「貴様は知るまいな、ルスター。彼らがどれほど火薬の扱いに長けているか。バイドの時だけはさすがに私が手を貸したが、後の――そう、ガルディン準爵の爆殺は領境近くのワーテル村の住民によるものだ。あの赤犬バイドはそこに気づいてしまった。そこでワーテル村の人間を守るため――」
「メッケナーに……年端も行かない子供に……爆薬を背負わせ、爆殺したのか」
 目に力を込めるルスターに対して、シュタインベルクはさもつまらなさそうに首を振った。
「所詮金でやり取りされる身だ。どこぞの性的倒錯趣味を持つ貴族に買われて殺害される可能性もある。それに比べればましだろう。何も知らぬまま、一瞬の苦しみもなく死ねたのだからな。むしろ慈悲深い」

「ふざけるなっ!!」

 ルスターの怒号に、人垣がどよめいてわずかに後退った。
 食いしばった歯が軋みを上げ、握り締めた拳がぼきぼき音を立てる。その顔は憤怒に歪んでいた。
「慈悲深いだ!? ……ボラスディアの信者でさえない、わずか6歳の子供を道具扱いして殺しておいて、なんだその言い草はっ! 貴様に慈悲を口にする資格はないっ! どれだけ口上を並べ立てようと、貴様はただの殺人鬼だっ!」
「では――」
「では、お主ならどうするというのぢゃ」
 シュタインベルクの言葉に割り込んだのは、村長だった。
 ちらりと横を見たシュタインベルクは、目顔で頷いて村長に譲った。
 胸の下まで届く立派な白ヒゲを蓄えているわりに、かくしゃくとしていまだ杖の世話にもならない老人は、ルスターに鋭い眼差しを向けていた。
「シレニアスの、マンタールの、ジェラルディンの圧政に苦しんでいた我々を救ってくれたのは、間違いなくシュタインベルク様ぢゃ。ここに用意された食事はもとより、お主らが日々孤児院で食べておる村人からのおすそ分けも、シュタインベルク様がおられねば、なかったものぢゃ。その大恩人を口汚く罵るからには、お主には代案があるのであろうな?」
「………………」
「昨年一年は、確かに平穏ではあった。わしの長い人生でも知らぬほどにのぅ。ぢゃが、その前。ジェラルディン子爵が生きておった頃には、わしらはずっと生きるか死ぬかの縁に立たされておったのぢゃ。昨年の平穏しか見ておらぬお主が、何を言うのぢゃ。何が言えるというのぢゃ」
 周囲の人垣から、そうだそうだの連呼が上がる。
「ハイデロアの学校を出たかどうか知らぬが、安っぽい正義感や現実を知らぬ理想論でシュタインベルク様を糾弾する資格は、お主にこそないわ。お主は孤児院でガキどもと遊んでおればよいっ!」
「その孤児院のガキどもが! 夫を亡くして人が死ぬことの悲しさを知っている女(ひと)が! 卑劣な人殺しの道具に使われるのを糾弾しているんだ俺はっ!!
 ルスターは思わず地で叫んでいた。
 周囲に視線を飛ばして、人垣の間に目的の人間を見つける。
「おい、ルアブ!」
 唐突に呼ばれた少年は、驚き戸惑って目をぱちくりさせた。
「成人になったのなら、成人らしく大人の後ろに隠れずに答えてみせろ! お前の友達だったアルやザブリンが、お前の作った爆薬をそうとも知らずに背負わされて、貴族もろとも殺されてもいいんだな!? お前のその手で大事な友達を殺して、それでいいんだな!?」
 たちまち少年の顔色が青ざめた。自分の手を見下ろして、うろたえた表情で左右を見回す。しかし、その戸惑いに即答できる大人はいなかった。
「お主、それはあまりにも――」
 止めに入ろうとした長老にルスターは即座に顔を向け、睨みつけた。
「そういうことだろう! 反体制運動も結構だが、爆薬を背負わされて殺される子供と、そうでない子供の違いは何だ!? 貴族のやり口が許せないから、親のいない孤児を道具に使って自分たちの平穏を得る――それが弱者を道具代わりにして栄華を誇る貴族のやり口とどう違うというんだっ!? 村長、あんたこそ言ってみろ! 爆薬を抱くのがルアブでなくて、あんたでもなくて、メッケナーだった理由を!」
 村長は押し黙った。ルアブもうつむいたまま顔を上げない。
「安っぽい正義感も現実を知らぬ理想論もあるかっ! 俺が許せないのは、この汚いやり口だ! 許しちゃいけないやり口だろう、これはっ! 貴族を廃して自由を得ようと、安穏を得ようと、そんな奴らが作り出す社会など、同じ末路を辿るのが関の山だっ!! お前らは貴族の支配下から脱したいのか、貴族の代わりになりたいのか、どっちだ! ……もし貴族の代わりになりたいなどとほざくなら、俺は孤児たちに代わってお前らと戦うぞ!!」
 シュタインベルク擁護で盛り上がっていた熱気は、まさに冷や水をかけられたように冷めてゆく。
 不意に拍手が響いた。
「……反体制運動、結構か。さすが反逆の焼印を持つ男。なまじっかの樹帝教司祭では言えぬことをさらりと言う」
 厳かに告げたのは、シュタインベルク。いささかも動揺していないその声に、村人の目が救いを求めて集まる。
 ルスターは口を引き結んで、本来の敵に再び相対した。
「いや、そもそも司祭ではなかったな。ハイデロア樹帝教学院中退――放校だったか。なるほど、貴様のような男は旧い体制では持て余すだろう。なればこそ、敵の始末を孤児院爆破ではなく未亡人に任せたのだがな」
「やはり貴様、エルデさんに……」
「ああ。あの女は常に私の【強制(ギアス)】の支配下にあった。あの女自身も気づいてはいなかっただろう」
 人垣のざわめき。ルスターがちらりとうかがうと、ペルナーが青い顔をしていた。どうやら彼も知らない話だったらしい。
 その顔を見ていたのだろう、シュタインベルクは鼻で笑った。
「大事な道具の生産所を任せた男が青臭いとなれば、その報告をそのまま鵜呑みにするわけにもいかんさ。ペルナーも基本的には善人でほだされやすいからな。正確な報告を受け取る必要があった。二つの報告を比較すれば、報告者の意図も透ける。いや、あの未亡人は良く働いてくれた――貴様の正体から、包帯男の正体、貴様のたくらみまで、全て明かしてくれていたのだ」
「そうやって人を道具扱いにして……!」
「もういい」
 不意にシュタインベルクは手を突き出した。
「貴様が今さら何を言おうと、所詮は負け犬の遠吠え。ボラスディアは揺るがぬし、我が計画に微塵の変更もない。貴様自身がミンスニアに出向いたところで、その右手の刻印がある限り、信用してはもらえぬ。くく、ことのからくりに気づいたのならいっそ、黙しておった方が賢かったものをな。少々頭が回るからといって小賢しく正義感を振りかざすと――こうなる」
 その瞬間、シュタインベルクの手の平から不可視の力が放たれた。
 目に見えない壁の突進を受けたかのような衝撃を受け、ルスターは後方に吹っ飛んだ。その後ろにいた村人ごと。
 洞窟の岩肌に叩きつけられたルスターと村人数名。村人は呻きを残してずるずる崩れ落ちたが、ルスターだけが不自然に貼りついたままだった。
「ぐ……うう……」
 ルスターの口から何かに抗っているような呻きが漏れる。村人たちはその周囲から泡を食って離れた。
 シュタインベルクは瞳に怪しい光を宿して手をかざし続けていた。
「さて、シェルロード――いやさ、フェルナンデス=ルスター君。ここが運命の別れ道だ。貴様はここへ来る前に、ボラスドーに忠誠を誓ったはずだな? 小賢しい貴様のことだ、子供を守るためにそれが最善と判断したのだろう? なら、シレキスの民草のために、今度は私に忠誠を誓ってくれないかね? 君のその小賢しさは、少なくとも無知蒙昧な村人よりは役に立つ。私も助かる」
「い、いやだ、と言ったら……」
 かざした手が、少し傾いた。
 途端に、ルスターの右腕の肘から先がねじれ始めた。口から苦鳴が漏れる。
「我が神は破壊神。破壊をこそ好む。私としては、それを抑えているのだが……そのたががほんの少しずつ外れてしまうかもしれない。君には五体満足でいて欲しいのだがね」
「………………」
「そう強情を張るほどのことでもあるまい? 村人の前で、皆の仲間になると宣言するだけのことだ。それだけで万事うまく行く。貴様も痛い目に遭わずに済むし、村人もこれまで通りに君と接してくれる。私もあの孤児院を貴様に任せて、次の計画段階に進める。第一、樹帝教はそこまで忠義立てしなければならん相手かね?」
「……子供たちは、どうなる」
 顔中脂汗まみれになりながら、ルスターは歯を剥いて訊ねた。
 鷹揚に頷くシュタインベルク。
「譲歩しよう。道具が減るのは残念だが、貴様を手に入れるためなら仕方あるまい。ホルマールの孤児だけは計画から除外しよう。なに、ガルディン準爵領にもうすぐ新しい孤児院が出来る。道具の生産はそこを代わりに――」
「ふざけろ!」
 ルスターが吼えた刹那、枯れ木を踏みおるような嫌な音がして、右腕の前腕部がへし折れた。
 凄まじい表情で悲鳴を噛み潰すルスター。人垣の中の女たちは顔を覆い、男たちも思わず顔を背ける。
 シュタインベルクだけが涼しげに笑っていた。
「おいおい。言葉には気をつけたまえ。この術はひどくデリケートなんだ。酷い言葉を投げつけられると、思わず力加減を間違ってしまうよ」
「ぐうぅ……邪神の、手先になど、誰が……!」
 言葉の合間合間に激しい呼吸が挟まる。右腕の前腕部は完全に『へ』の字に曲がっていた。これ以上負荷がかかれば、おそらく骨が皮膚を突き破り、果ては完全にねじり切られる。
 だが、ここでシュタインベルクに屈するわけにはいかなかった。
 二度と子供たちを爆殺道具にされないために、人々を支配の道具扱いされないために、ここは、ここだけはどうあっても引けない。譲れない。
 たとえ他所の領地であってもそのやり方を認めてしまえば、さっきルアブに投げかけた問いを自ら覆すことになる。それだけは、悩みの末に青ざめているルアブの、これから育ち行くアルの、訳もわからず殺されたメッケナーの、そして道具にされて泣いたエルデのためにも、絶対に認めるわけにはいかない。
 世の中には許してはいけないことがあるのだと、示さねばならない。何より自分が絶対に許せない。
 とはいえ、今のこの絶望的な状況をどうしたら脱することが出来るのか、ルスターにもまったくわからなかった。
 シュタインベルクが少し手の平の方向を変えた。ルスターの意志を介さず、左腕が不自然に持ち上がる。さながら、吊り人形のごとくに。
「我が神ボラスドーを邪神呼ばわりとは心外だな。あまり深く知らぬものを簡単に評価しない方がいい。教養の底が知れるぞ?」
「何を、どうつくろおうと、邪神は、邪――うぐ、ぐううううぁぁぁっ!」
 ルスターの抗弁は、左腕にかかった負荷によって遮られた。ゆっくりと肘関節とは反対側へ曲がってゆく腕に、歯を食いしばって呻く。
 シュタインベルクは、慣れているのか、折れる寸前ぎりぎりのところで止めた。
「私から言わせれば、かつては森の守護精霊程度の神格でしかなかった樹帝シュレイドを、世界の主神に文字通り祀り上げ、千年の支配の道具にしてきた樹帝教こそ邪教の評価に相応しいと思うがね」
 そこでつくため息は余裕の証か。
「それに、貴様から奇跡を行う力を取り上げ、敵対勢力掃討の手先に仕立て上げたのは、他でもない樹帝教だ。それでもあれが聖だと言い張るか? ……まだいっそ【強制(ギアス)】でもかけて送り込んできた方が潔く、手っ取り早いものを。本当に貴族というのは回りくどいことをするものだな」
「………………」
「そもそも真の意味での邪神、この世に混沌と混乱をもたらす神ならば、これほど多くの村人が帰依するはずもなかろう。言っておくが、ボラスドーは全ての命しか平等に慈しまぬシュレイドとは格が違うぞ。彼(か)の神はシレニアスが認めるいずれの神より平等だ。そう、貴様も、貴様の大好きな孤児たちも、村人も、私すらそこに転がる石ころと同等に扱う」
 シュタインベルクの空いている手の親指は、脇の岩肌に露出している拳大の石くれを指し示していた。
「命あるもの命なきもの、形あるもの形無きもの、この世に存在する全てのもの、言葉や絆という概念さえも『破壊』の影響から免れることは出来ぬ。この世に破壊されないものなど無いのだ。そう、破壊神こそがこの世の洗いざらいを創り変えられる唯一の力なのだ」
「……そんなことは、どうでも、いい」
 ルスターが漏らした唸りめいた一言に、シュタインベルクの得意満面の表情が硬張った。
「貴様だ……俺は……貴様、だけには……貴様のような、卑怯者、だけには……絶対――」
「そうか」
 少し残念そうに、しかしどこか嬉しげに。
「あくまで拒むか。さすが私が認めた“叛逆者”」
 シュタインベルクは歯を剥いて邪な欲望に満ちた笑みを浮かべた。
「叛……逆者……?」
 終わりなき激痛に苛まれながら漏らす声は、ひどく弱弱しい。
「そうだ。15年もの間貴族に背いた挙句、シュレイドに叛いた証を右手にしるされ、救いの手を差し伸べるボラスドーに叛き、平穏を求める村人にも背く。あらゆるものを敵に回してなお傲然と立とうとする貴様こそ、『叛逆者』の名に相応しい」
 シュタインベルクの瞳が、声が、少しずつ異常な熱を帯び始めていた。その声色の高まりに、周囲に集まった村人も顔を見合わせる。
 しかし、シュタインベルクはそんな周囲の空気など一切意に介さず続けた。
「さあ、答えを示せ、“叛逆者”。私を否定し、ボラスドーを否定する貴様の答えを」
 シュタインベルクは片手をかざしたまま、ルスターの前まで歩み寄ってきた。
 腕の痛みに呻吟し、うつむいて歯を食いしばっているその髪をもう片手でわしづかみにし、強引に仰向かせる。
「ルスター、わかるだろう? 私のやり方を批難し、否定する以上、その代わりのやり方を貴様は示さねばならん。村長が言ったようにな。私はそれを楽しみにしていたのだ。ことここに至って貴様が言いたいのは、まだ『私が卑怯者だ』というそれだけか? それだけなのか? んん?」
「……たの、しみ……?」
「ああ、そうだとも。私をただの狂信者か何かだと思っているのだろうが、私とておのれを省みることはあるさ。だが、人はそう客観的にはなれない。シレキスの住民の期待と信頼を背負っておればこそ、そうころころとやり方を変えるわけにもいかない。だから、ハイデロア樹帝学院に15年も在籍したという、噂の男に少し期待をしてみたのだ。私とどう違ったやり方を示してくれるのかをな」
「勝手な、ことを……」
「さあ、どうだ? シレキスの民はシュレイドを捨て、ボラスドーに救いを求めている。貴族社会を破壊してくれる神の力を。ボラスドーを否定し、樹帝教から放逐され、拝むべき神も持たぬくせにそれでもなお司祭であろうとする貴様は、どんな答えを示してくれるのだ? さあ! さあ!! さあ!!!」
「……神が必要、なら、作ってやる……」
 亡者の怨嗟を思わせる低くかすれたルスターの呻き。
「なに?」
 それを理解できなかったのか、シュタインベルクは一瞬で狂気じみた笑みを潜め、顔をしかめた。
「破壊、が欲しい、なら……、村人が、それを、望み……、それ、でしか、導けない、というのなら……、破壊神、でも何でも、でっち上げて、やる。だが……それは……人を、子供を、命を……石ころと、同列に、考える、神なんかじゃない……!」

 どこかで、何かが――ステンドグラスが割れたかのような澄んだ音が響いた。

「人が……貴様が、神を作る……?」
 呆気にとられ、ルスターの顔をまじまじと見つめるシュタインベルク。
 笑うかと思いきや、眉間に深い皺を刻んで考え込んでしまった。
「人が神を………………いや、そうか。実存であろうとなかろうと、提唱する者がおり、それに追随する者がおり、その数が増えてゆけば……教団としての体裁が整えば……力にはなる……求心力としての…………必要とされるのは、人を導き、煽動する力……それならば『奇跡』がなくとも……」
 足元に目を落とし、ぶつぶつと何やら頭の中で検証し始めたシュタインベルク――その時、術の効力が弱まった。
 見えない力で拘束されていたルスターの左腕がだらりと下がる。その動きにシュタインベルクが気づいて術をかけ直す前に、ルスターはその左腕を思い切り振るっていた。
 肉を殴る鈍い音が響き、シュタインベルクがのけぞり倒れる。たちまち、その右頬に青いあざが浮き上がった。
「ぬ、ぐぅ……! ルスター、貴様――」
 追い討ちはなかった。シュタインベルクの周りに村人が群がって壁となり、ルスターもまた右腕の激痛に耐えかねて両膝をついていたからだ。
「い、今のは……メッケナーの、分だ……」
 荒い息の下から、そう告げるルスターの目には、初めと変わらぬ怒りの火が燃えている。
 身を起こしたシュタインベルクは、殴られたにもかかわらず嬉しそうだった。
「では、後はバイドとエルデと包帯男の3人分か? いや、ロイドたちの分も含めて6人分か? くく、それぐらいなら殴られてやっても大丈夫そうだな。面白そうな答えを示してくれた貴様への褒美だ。腕力で決着をつけたいなら、そうしてやる。さあ、立て。かかって来い」
 その言葉に応えたわけでもないが、ルスターは左の拳を握り締め、よろめきつつも立ち上がった。この場は逃げ出したいが、難しいだろう。
「ふざ、けるな。バイド殿の部下……の若者たち、ジェラルディン子爵家の……子供たちの、分もだ……。面倒、だから……20発にしとけ」
「……それはちょっと多いな」
 苦笑しながら村人の手を借りて立ち上がる。
「まあ、利き腕は折れているんだ。その左腕でどれほどの力が――」
 司祭衣の尻についた汚れを払い落とし、ルスターに視線を戻した時だった。
 不意に後ろから突き飛ばされて、シュタインベルクはつんのめった。
「誰だ」
 不機嫌そうに振り返る――そこにいたのはエルデだった。
 ぼさぼさの髪、よれよれの衣服、泣き腫らした顔、焦点を失いかけた危うい目つきでシュタインベルクを睨み、赤く染まった包丁を両手で握って――
「何だそレラれ――……」
 咎めようとしたその舌がもつれ、朽木が倒れるようにシュタインベルクは真正面からうつ伏せに倒れた。
「……か……かは……」
 起き上がらない。四肢も弛緩したまま、痙攣を起こし始めている。倒れた拍子に切れた、もしくは割れたというだけではない、尋常でない量の血がうつ伏せの口元から広がってゆく。
 その背中、左肩甲骨の下にエルデがつけたとおぼしき刺し傷。そこからあふれ出す血の量も尋常ではない。
 その姿はまるで――呆然と見ていたルスターの脳裏に、司祭室で倒れていた青年の姿が弾ける。
 そうだ、あの毒を食らったマニングのような痙攣、吐血。
 村人も、ルスターも、もちろんシュタインベルクも何が起きたか理解できずにいる間に、エルデはもう一度その背中に凶器の切っ先を突き立てた。
 さらにもう一度。
 さらに。
 さらに。
 正気づいた村人が悲鳴をあげて逃げ惑う中、シュタインベルクは10回以上刺され続けた。
 そして――最後にその凶器は、エルデの胸を抉った。
 笑いながら。
 泣きながら。
 未亡人は糸が切れた操り人形のようにのけぞり倒れ――痙攣・吐血しながら息絶えた。

 ―――――――― * * * ――――――――

 灯りを落とした司祭室。窓から差し込む月の光の下、二つの遺体が並んでいた。
 エルデとマニング。
 洞窟から背負い帰ったエルデをベッドに寝かせ、マニングはソファに寝かせている。その傍らで、ルスターは椅子に座ってまんじりともせず二人の遺体を見つめ続けていた。
 頬を伝った滴が、三角巾で肩から吊った右手の甲に落ちる。
 最期の瞬間、エルデは笑っていた。ルスターを見ながら。
 あの笑いの意味は何だったのだろう。
 絶望の笑みだったのか。それとも、自惚れを承知で言うなら、ルスターを救えた事への満足感? それとも……それとも……。
 わからない。
 わかっているのは、あの包丁には彼女がマニングのために作ったオートミールがたっぷりまぶしてあったということだけ。床にこぼれていたそれを拭った雑巾で包丁の刃を包み、あの場に持ち込んだらしい。
 シュタインベルクはまさに自業自得。エルデを道具代わりに使って刺されたことも、マニング殺害の毒でほぼ即死したことも、全て自分の謀りごとが仇となった形だ。同情の余地もない。
 だが、あんな外道を殺すためにエルデが犠牲になってはいけなかったのだ。
 さらに言えば、もっと自分が気をつけるべきだったのだ。怒りに任せて怒鳴り込みに行くより、人を殺してしまった罪に恐れおののく未亡人の傍にいてやるべきだったのだ。
 彼女を殺したのは、自分だ。
 後悔の剣が、胸を刺す。右腕の痛みより、今はその痛みの方が堪え難くルスターを責め苛む。


 不意に衣擦れの音もしない静寂を破り、控えめなノックが響いた。
「……あの、ペルナーです。子供たちは寝させました」
 返事は返さなかった。
 しばらくの沈黙の後、再びペルナーの声が聞こえてきた。
「あの、ルスターさま……本当に、何と言っていいか……」
「ペルナー」
 感情の起伏を一切こそぎ取った声で呼ぶ。
「は、はい」
「明日、二人の葬儀を行う。……明日の昼までは一人にしてくれ」
「は……でも、あの………………村長が今後のことについて話したいので、明日の昼前に来てほしいと」
「断る」
「いや、あの、でも、それは……」
「いやだ」
「しかし、相手は村長ですし……」
「うるさいっ! 黙れっ!」
 左拳を肘掛に叩きつけた。部屋を揺るがすかのような大きな音。
「明日軍勢が攻め寄せるわけじゃないんだ! ガタガタ言うなっ! 行かないと言ったら行かないっ! そう言え!」
 夜のしじまを破る怒声。震え上がったペルナーの返事が聞こえ、そのまま気配が扉の前から立ち去ってゆく。
 再び静寂を取り戻した司祭室。
 崩れるように自由になる左手で顔を覆い、肩を震わせる男の背を窓から覗く月の光だけが見ていた。


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