蒼きバンダナのアレス First Episode
〜Engage Destiny〜【LUSTER/ROUGE】

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痛  撃

 エルデが帰ったあと、孤児院に来た新たな孤児、ロイドたちの紹介がペルナーから行われた。
 金髪ですらっと背の高いロイドが9歳。
 その弟で、少し猫背気味で顔色の悪いミュラーが7歳。
 きょときょとと落ち着きのない少女へレンが9歳。
 いずれも表情に明るさがないのは、自らの先行きに抱えた不安のせいか、それともシュタインベルク司祭の下で散々な目にあったからか。
 少なくともワイズマンたちとロイドたちの間に溝があるのは確かで、それは子供たち自身も敏感に感じていたらしい。
 そこでウェルカム・パーティは孤児達総動員での準備となった。ウェルカムの対象であるロイドたちもその要員に組み込まれ、パーティは準備段階から既に大騒ぎの様相を呈していた。
 最初こそ緊張気味だったものの、アルやザブリンとともにパン生地をこねている間に少し打ち解けてきたミュラー。
 ルージュと張り合って、妙に細かくスープの材料を切り刻んでいるヘレン。
 ケイトとザブリンがその材料を皿に載せ、にこりともせずに暖炉に掛けたスープの鍋を掻き混ぜているロイドの元へ届ける。
 ビュークとナーラ、トリーデは最年長のワイズマンの指示の下、大広間に机を並べ、その上に皿を並べている。
 ルスターはあーだこーだと賑やかな子供たちの様子を見やりながら、鍋を振り振り、メインディッシュであるヤギの肉とイモを炒めていた。
 しゅわしゅわ立ち昇る音と香ばしい匂いに、自分だけでなく子供たちの頬も知らずほころんでいる。
 この調子ならミュラーとヘレンは大丈夫だろう。ロイドはもう少し様子を見た方がいいかもしれないが、少なくとも素直にこちらの指示に従うようだから、心配するほどのこともないだろう。
 子供というのは本当にすぐ仲良くなる。おそらくは同じ境遇であるということもあるのだろうが。
 ふと、ついさっきのシュタインベルク司祭の言葉が脳裏に蘇る。

 売れるようにしろ。利益を上げろ。
 
 次に売るとなれば、おそらく最年長のワイズマンだろう。
 いや、誰を売るにしても、この幸せな賑わいの輪を崩すことになる。それをするのは誰でもない、自分なのだ。
 孤児院から、子供を買えるくらいには富裕な家に売る。送り込む。それが子供の将来のためになるかどうかはわからない。子供自身のためになるかどうかもわからない。
 ともすれば、そんな不透明なものなど放り出して、この繋がりをいつまでも守りたい気分になる。
 それは、やはり自分が売られる辛さを知っているからだ。
 そうすることが自分にとっても、周囲にとってもいいことなのだと納得しても、世の中では普通に行われていることだと理解していても――市場で売られる果実やイモ、肉製品、金物、衣服、家畜……そんな物と同じモノとしてお金でやり取りされる辛さ、自分は売られることのない人たちより下等なモノなのだと思い知らされるその辛さは、大人になっても拭い去れるものではない。
 それが自分の弱さであり、最期まで拭い去ることの出来ない心の傷なのだろう、と思う。
 だが、それを乗り越えなければならない。自分はもう子供ではないのだ。大人として、子供たちに未来を示す責務がある。たとえ彼らから憎まれたとしても。
 ワイズマン。彼はその名の通り頭がいい。勉強をすることも苦にはしない――というより、学ぶことが好きでたまらないようだ。ならば売り込む先は秘書を求める貴族か、どこかの学校の教師辺りがいいかもしれない。
 マニングがミンスニアに無事帰り、騎士団が派遣され、ボラスディアが摘発されてシレキスに平穏が戻ったら、売り込み先を探してみよう。そういえば、この近辺にハイデロアで情を通じた女性は誰かいなかったろうか……。
「――おじさまってば!」
 大皿に炒め物を盛り付けたあと、ぼーっとしていたルスターは、尻を叩かれる痛みとルージュの声で我に返った。
「あ、ごめん。なに?」
「エルデさんが来たってば」
 驚いて大広間を見やると、エルデが子供たちと話しつつ、大きな籐製のバスケットの中から色々な料理の盛られた木皿を取り出してはテーブルに置いていた。
 ふっくら卵焼きにトマトソースをかけたもの、鳥肉とイモの揚げ物、野菜のサラダ、その他ハムやソーセージを使った料理……。いかにも美味そうなお皿の数々に、子供たちの目が光り輝く。
 ルスターは鍋を置き、盛り付け皿を手に大広間へ戻った。
「やあ、エルデさん。ありがとうございます。おおー、これは豪勢だ。さすがに村の女性たちが腕を競って作った料理。私たちではこれだけの種類は用意できませんよ」
 ルスターの顔を見たエルデは、にっこり笑った。
「ふふ。皆さん、腕によりをかけましたからね。ちゃんとこっちの分として作りましたから、遠慮なく食べてね。もう今頃は向こうでも宴たけなわでしょうし、こちらも急ぎましょう?」
「すみません。村の行事なのに……。それに、重かったでしょう?」
「いいんですよ。そこまで荷馬車で送ってもらいましたから――っと」
 エルデはバケットの底から、もう一つ小さな手提げ籠を取り出した。
「これは、上の――ええと、重症患者さんに」
 曖昧にはにかむ。ルスターも思わずもらい笑みを漏らした。
「そんなことまで。本当にありがとうございます」
「それじゃ、あたくしはあの方にこれを。食べ終わるまで付き添ってきますから、先に始めておいてくださいな」
「わかりました」
 頷き合うと、エルデは籠を腕に掛け、奥へと入っていった。
 ルスターは、子供たちを向いて手を二回叩いた。
「はいはい、みんな席に着いてー。じゃあ、ロイドたちの歓迎会を始めようか」
 子供たちはここぞとばかりに素直な態度で席に着き、待ちきれない思いを満面に浮かべてルスターを見やる。
「よーし。それじゃあ、今日から新しいお友達になるロイド、ミュラー、へレンに、子供たちを代表してワイズマンが挨拶だ。そのあと、ロイドたちが自己紹介して、みんなが自己紹介して、それからいただきます、だ。いいね?」
 元気いっぱいの子供たちの返事が大広間に轟いた。

 ―――――――― * * * ――――――――

 しばらくして、子供たちがわいわい騒ぎつつ食事に舌鼓を打っていると、ふとルージュが席を立ってルスターの傍にやってきた。
 騒いでいる子供たちには遠慮がちに、ルスターの袖を引っ張って祭壇の脇へと連れて来る。
「なに? どうしたんだ、ルージュ?」
「……変な声が聞こえたの」
 囁くように言ったルージュは、怯えを隠さぬ上目遣いでルスターを見つめていた。
「変な声?」
「悲鳴みたいな。エルデさんの。……おじさま――」
 最後まで聞かず、ルスターは奥へ続く扉を開けていた。
 燭台上でゆらめく蝋燭が一本、ぼんやりと夜闇に落ちた廊下を照らしている。
 壁一枚を隔てると子供たちの大騒ぎも幾分遠くなる――掻き消されていた声が静かに漂ってきた。
 ひきつけを起こしたかのような、短く何度も息を吸い込む悲鳴。
 ルスターはすぐに階段を駆け上がった。
 開け放たれた二階の司祭室の扉からランプの光が皓々と漏れている。戸口でへたり込み、両手で口を押さえているエルデの姿も見えた。目を見開き、酷く怯えた様子で首を左右に振っている。
「エルデさん!? 大丈夫――」
 一直線に駆け寄って、エルデの肩を抱きつつ傍らに膝をついたルスターは、司祭室の中の光景を見て声を失った。
 マニングが倒れていた。テーブルも。おそらくその上に載っていたのであろう、エルデの持参した料理は床にぶちまけられ、その中で毒々しい紫色の舌を突き出した包帯男が、びくびくと体を痙攣させていた。
「……な――」
 苦しみのあまりかきむしったのか、彼に貸していた着替え用の司祭服は襟元から引き破られ、その下の包帯さえ引きちぎられ、いまだ酷い火傷の癒えぬ肌に爪の痕が生々しく残り、じくじくと赤い体液をにじませている。
「マニング!! ジョナサン=マニング!!」
 ルージュがついてきているであろうことも忘れ、ルスターは叫んでいた。
 涙を流して震えるばかりのエルデをその場に、部屋へ駆け込んでマニングの体にすがりつく。
 瞬時にわかった。手遅れだ。
 よほど強力な毒物を盛られたのか、既にマニングの意識はなく、心臓も動きを止めている。
 体が痙攣しているのは、その毒物が神経か筋肉に作用している結果だ。
「……どういうことだ……」
 振り返ったルスターの低い声に、エルデは再びおののいて激しく左右に首を振った。
 ルスターは足音も荒く近づき、その両肩をがっしりつかむ。
「エルデさん!! 何があったんだ! 答えてくれ! さもないと、私は――あなたを疑ってしまう!」
「あ……あた……あたくし…………ただ……お料理を……そしたら……そしたら……」
 それ以上は言葉にならず、エルデは両手で顔を押さえて泣きじゃくった。
 つまり、エルデの持ってきた料理に毒が盛られており、それを疑いもせずに食べたマニングは――
「おじさま……あの、みんなの料理……」
 ルージュの怯えた声に顔をあげる。少女の表情は見たこともないほどの恐怖に彩られていた。
 一瞬、ルージュの恐怖がルスターにも伝染して背筋を悪寒が走る。しかし、すぐにそれはありえないと自ら打ち消した。
 ルスターは大きく波打つ心を鎮めるために、一つ深く息をついた。
「大丈夫だ。おそらく。……彼の死に様から見て、一口でも食べれば苦しみ悶えて死ぬことになる。下の料理にも毒が盛られていたら、今頃私もルージュも死んでいる」
 その言葉に、ほっとしたようにルージュは肩を下ろした。だが、表情の硬張りは完全には消せない。
「だが、みんなにはまだなにも知らせるな。ルージュも、ここで見たことは誰にも言うな。……そして、みんなのところへ戻って何食わぬ顔をしていろ」
「でも、おじさま……」
「ルージュ、誰もここへ上げないよう下で見張っていてほしいんだ。どうしてかはわかるな? 頼む」
 小さく頭を下げると、ルージュは口元を真一文字に引き結んで頷いた。そして急いで階段を駆け下りて行った。
 少女の足音が聞こえなくなり、ルスターは泣きじゃくるエルデを横抱きに抱え上げた。ロングソファに横たえ、司祭室の扉を閉じる。
 振り返ったその表情は、自分でもどうしようもないほど硬張っていた。
 ひっくり返った椅子とテーブル、ぶちまけられたオートミールらしき料理、それを運んできた皿、籐製の手提げ籠、水差しにコップ。
 そして、苦悶の果てに息絶えた若者の遺体と、泣きじゃくる女性。
「……エルデさん」
 しゃくりあげるエルデの肩が震える。
 おずおずと指の間から、泣き濡れた瞳が覗く。
 ルスターはエルデから目をそらし、マニングの遺体を見やった。怒りと失望、絶望、憎しみ、悲しみ……この胸の内で渦巻くおよそありとあらゆる負の感情のうねりをどこへ吐き出したものか、どこへぶつけるべきか。
 両手が知らず拳を握ったり開いたりする。噛み締めた奥歯が軋む。
「……この料理を作ったのは……あた、あたくしです……」
 消え入りそうな声で、つっかえつっかえエルデは言った。
 ルスターは思わず拳を壁に叩きつけていた。
「そんなことは問題じゃない! 毒を入れたのがあなたか、あなた以外の誰かなのかさえ問題じゃないんだ!」
「え……?」
「誰が、どうしてマニングに毒を盛ったのか、それが問題なんです!」
「あ、あの……」
 エルデの不可解そうな声に、ルスターは苛ついた。壁に押し付けたままの拳を、力いっぱい握り締める。
「理由ですよ! マニングを殺さなきゃならない理由! 彼が生きていて困るのはボラスディアだ! ボラスディア以外の誰に、彼を毒殺する理由があるんです!? こんな強力な毒を、しかもエルデさんの料理に仕込むなんてやり方で!」
 ルスターは再び壁に拳を叩きつけた。
「毒を仕込んだのは、マニングにエルデさんの料理――しかも、子供とは別にした籠の中の料理が、確実に届けられると知っている者でなければならない! けれど! じゃあ! でも! それは二重におかしいんですよ! 一つにはなぜその料理を食べるのがマニングだと知っていたか、二つ目にはなぜそこにマニングがいると知っていたか! だってそうでしょう!? ここにいるのは名も知れぬ行き倒れで記憶喪失の包帯男だ! その正体を知っているのはマニング本人と、私とあなただけなのに!」
『――ボラスディアを甘く見ない方がいい』
 低い含み笑い。
 驚いて振り返ったルスターは、ソファから立ち上がったエルデが笑っているのを見た。
 だが、その目はまるで何かの中毒患者のように虚ろだ。口の形は笑っているのに、顔が笑っていない。これまでどんな人間の顔でも見たことのない、不気味な表情だった。 
 エルデは続けた。
『驚いているだろうな。ボラスディアと貴様が口走れば、発動するように仕込んでおいたのだ。くっくっく』
 返事をしようとしたルスターは、すぐに気づいて言葉を飲み込んだ。
 これは『呪い』の一つ『強制(ギアス)』だ。本人の生存本能を揺るがしたり、本人の倫理観を大きく逸脱しない限り、術者の意のままに相手を操ることができる邪神司祭がよく使う術。
 おそらく、メッケナーを使ってバイドを爆殺した者の仕業。メッケナーの場合は、火薬とは知らせずにザックを背負わせて街道に立たせ、バイドの顔を見た途端に件(くだん)の伝言を伝えるよう仕組んでいたのだろう。
 そして今度は、ルスターが『ボラスディア』と口走った場合に伝言を伝えるよう仕込んでおいたということだ。
 ならば、ここで声を発するのは意味がない。じっくりと相手の話を聞く他はない。
 ルスターは腕を組み、肩を壁に預けた。
 エルデに術を施した者は、そこでルスターが何かを口走ると予想したのか。エルデは左手を突き出して相手の言葉を制するような動きを見せた。
『おおっと。言っておくが、これはあらかじめ定めた通りにしゃべらせているだけだ。貴様の返事は私には届かぬ。……その男、マンタールの赤犬の一員だったのだろうが、それを失った今、もう貴様に勝ち目はない。これ以上の悲劇を見たくはなかろう? 今後は大人しくしておくことだ』
 ルスターは怪訝そうに眉をひそめた。
 これ以上の悲劇? なんだろう。考えられるのは……。ルスターの視線がちらりと床を舐めた。正確には階下の子供たちを。
『……ルスター、ボラスドーに忠誠を誓え。貴様に非道の焼印を押した樹帝教に忠義を尽くすいわれはあるまい。今ここでボラスドーに忠誠を誓えば、子供たちは助けてやる。チャンスは3度やる』
 思ったとおりの展開に、苦笑いさえこぼれる。
 しかし、『3度』。なぜ3度なのか。しかも初っ端から手の内をなぜ明かす。メッケナーをバイド爆殺に使い、マニングを毒殺した相手にしては甘い――

 ――いや、違う。

 ルスターはすぐに思い直した。
 3度チャンスがあるんじゃない。これから3度、悲劇的な事態を引き起こす準備が整っているということだ。しかも子供たちに危害を加えるような事態――子供。3度。『強制(ギアス)』。
「……ロイド、ミュラー、へレン」
 彼らも術を施されている。間違いない。そしてそれが出来るのは――
 シュタインベルク。
 危うくその名を叫びそうになって、飲み込んだ。これだけ周到な策を練る相手だ。迂闊に正体を見破れば、証拠の隠滅を図るかもしれない。
 だが――そうだ。あの三人を連れてきて、なおかつエルデに接触できる者。エルデの作った料理に毒を盛ることの出来る者。あらかじめ『強制(ギアス)』をかけておき、不審な物を入れた行為を忘れるように命じればそれも可能だ。それが毒だと知らなければ、隠し味だと言われてしまえば、エルデの倫理観を逸脱することもない。最悪、エルデの手で入れさせることさえ……。
 そして今の発言。非道の焼印を押した樹帝教――その話を知っているのはマニングとエルデだけ。それも『強制(ギアス)』の効果期間内ならば聞き出すのは難しくはない。ルスターの弱みはどこだとかなんだとか聞けばいい。
 シュタインベルクでなければペルナーだろうが、いずれにせよあの二人はつながっていると考えるべきだ。
 ルスターは呻いた。迷っている時間はない。
「……わかった。ボラスドーに忠誠を誓う。子供たちには手を出さないでくれ」
 エルデは頷いた。
『いいだろう。だが、言っておくぞ。この場の口先だけでどうにかなるなどと思わぬことだ。我々ボラスディアは貴様が思っている以上に強大だ。貴様が裏切れば、すぐにでも悲劇は引き起こされる。……そうそう、一つ教えておいてやろう。この女も――女、も……おん……な…………』
 エルデがおかしな動きをし始めた。
 毒を盛られたかのように体を痙攣させ、両手で口元を押さえる。それは彼女の内側にいる術者を、彼女自身の意志が押しとどめているかのような仕草だった。
 やがてエルデはすとんとソファに腰を落とし、瞳に焦点を取り戻した。
「エルデ……さん?」
 恐る恐る聞くと、エルデは口元を押さえたまま頷いた。
「ルスターさん…………あたし……あたくしは……」
 新たな嗚咽とともに漏れ出す、言葉にならない言葉。
 ルスターは安堵のため息をついた。ひとまず、この場は落ち着いたらしい。
 エルデはひどく落ち込んでいた。もう顔も上げられないかのようにうつむいたまま、ぼろぼろと涙をこぼしている。白いエプロンに涙の跡がパタパタと刻みつけられてゆく。
「エルデさん……今の話、聞いていましたか?」
 うつむいたまま、頷くエルデ。
「では……あなたはここにいてください。出来れば申し訳ないが、彼と子供たちをお願いします」
 ルスターは頭を下げて、ドアのノブをつかんだ。
 その途端、エルデは悲鳴じみた声で叫んだ。
「いけません!」
 その激しさに思わずぎょっとして振り返ると、彼女は泣き腫らした顔に実にわかりやすいほどの絶望を貼りつけていた。何度も首を左右に振る。
「いけません、ルスターさん……行っては……いけません。お願い……」
 押し黙ったまま見つめていると、再び涙で顔をぐしゃぐしゃにしたエルデはおぼつかなげな足取りでルスターにすがり寄った。
「お願いです。行かないで……行っちゃダメ……お願い……ううん」
 ルスターの腕にしがみついたまま顔を伏せ、激しく首を振る。
「どうか……どうか、このまま、お逃げになって……お願い……」
「逃げる? なぜです」
「それは……その……」
「あなたもボラスディアの一員だからですか?」
 エルデの体がびくりと震えた。そしてそのまま、寒さに震えるかのようにがたがたと。
 ルスターはため息をついた。
「……人を意のままに操る術をかけるというのは、結構大変でね。相手が嫌がれば、非常にかかりにくい。もしかかっても不完全なものになる。今、あなたが伝言の最中に自ら口を封じたようにね。ここまでの周到な策を用意する術者が、マニングに毒を食わせる役のあなたを自らの勢力に抱き込んでいないわけがない」
 そして、おそらくはそれだけではない。ルスターと非常に親しいことを前以って知っていたから、彼女が選ばれたのだ。
「ああ……」
 エルデは再び両手で顔を覆い、その場に膝から崩れ落ちた。再び漏れ出す嗚咽。
 ルスターは膝をつき、その肩にそっと手を置いた。
「別にあなたがボラスディアだからどうこう言うつもりはありません。私が怒っているのは、これを仕組んだ者の非道であって、その道具にされたあなたやメッケナーを哀れに思いこそすれ、怒ったり恨みになど――」
「い、いやです! 絶対に嫌!!」
 いきなりエルデは、激しく首を振ってルスターの腕にかじりついた。何を恐れているのかはわからないが、酷い怯えようだった。
「エルデさん?」
「嫌です……もう……もうこれ以上、人が死んだり傷ついたりするのを見るのは……嫌です」
 青ざめた彼女が見ているのは、誰が死に誰が傷つく姿なのだろう。ルスターか、シュタインベルクか、それとも……。
 ルスターは彼女の肩を軽く叩いて立ち上がった。
「いや! いやいや……行かないで、お願い! ルスター! シェルロード=ルスター!!」
 ハイデロアでもよく聞いた別れの間際の言葉――それを振り払う方法はよく知っている。
 振り向かないこと。
 すがりつこうとする白い指先をすり抜け、ルスターは司祭室を出た。

 ―――――――― * * * ――――――――

 ベロア家の長男ルアブの成人儀式は西の森の奥、村人しか知らない洞窟の中で行われていた。
 いくつものかがり火がぱちぱちと爆ぜ、村の女衆が腕によりをかけて作った料理と適度に回った酒による喧騒が、洞窟内で反響している。さらに奥へ行けば地下水脈が勢いよく流れているが、今日ばかりはその音もかき消されがちだ。
 ホルマールの村人が会したその洞穴はかなり広く、奥がテーブル状の段になっており、そこを舞台にして儀式は執り行われていた。
 村人と親族による祝いの言葉とこれから課せられる責任についての伝達、ルアブによるお礼の言葉と成人として迎えてもらうにあたっての心構えの披露、そして立会人によるルアブの花火の腕前の報告が行われ、最後に成人の儀式を無事終えたことをルアブ自身の口から信仰する神に報告し、より深い信仰の心を持つことを誓う。それから儀式は無礼講のお祭り騒ぎへと突入する――それが、いつもの儀式次第だった。
 そして今しもルアブは親族が信仰する神に、誓おうとしていた。神の代理人たる司祭――シュタインベルクを前に。
 昨日までガキ大将として君臨していた少年が、神妙な顔つきで片膝をついている。
 シュタインベルクはその頭上に片手をかざし、厳かに告げた。
「……汝、ルアブ=ベロアの成人をホルマールの村人の総意として認め、ここに祝福する。ルアブ=ベロアよ、おのが信ずる神の名を讃え、その教えと導きを終生守り、則(のり)を外さぬことをここにて誓え」
「はい。わたくし、ルアブ=ベロアは――」

「――シュタインベルク!!」

 洞窟の中に集まった村人数十人のざわめきがかがり火を揺らめかせる。
 口上を邪魔されたルアブが驚いて声のした洞窟の入り口を見やると同時に、シュタインベルクもそちらを見ていた。その表情にはいささかの驚きもない。いや、むしろほくそえんでいた。
「いけません、今は儀式の最も大事な――」
「どけ」
 洞窟の入り口で押しとどめようとするペルナーを脇へ押しやり、村人の驚愕の視線を一身に浴びて現れたのはルスター。
 シュタインベルクはルアブに舞台から降りるよう促して、ルスターに正対した。
「ルスター司祭。君を招いた憶えないし、大事な儀式の最中に大声を出して中断させる非礼を許した覚えもないんだが」
 その表情には、全てを知りながら揶揄していることがありありとわかる勝ち誇った笑みが貼りついている。
 ルスターはずかずかと村人の群れに近づいてきた。村ではこれまで見せたことのない、その決意を秘めた表情に村人は戸惑いがちに道をあける。やがて、ルスターとシュタインベルクの間に人垣の作った道が出来た。
「ルスター様、お願いします。ここは……とにかく向こうへ」
 すがりつくペルナーに、ルスターはじろりと冷え切った視線を浴びせた。
「ペルナー。一つ問い質しておく。メッケナーのことは知っていたのか?」
「は? あ、いや……メッケナーがどうかしましたか? 見つかったので?」
「……もういい」
 表情は言葉より雄弁に物語る。
 きょとんとして目をしばたかせるペルナーを、ルスターは突き飛ばした。よろけて倒れる司祭補佐を、周囲の人垣がどよめきながら受け止める。
「何か怒っているようだな、ルスター」
 舞台上のシュタインベルクのニヤニヤ笑いがさらに深くなる。
「実に楽しそうだな、シュタインベルク」
 見上げるルスターの右目の下が、びくりと引き攣った。
 睨み合う二人の間に漂う凄まじい緊張感に、村人は声を発することも出来ない。儀式が始まる前から酒を飲み続け、ぐでんぐでんに酔った者さえも、その異様な雰囲気に飲まれて瞬きを忘れていた。
 それまで絶えていた地下水流の音が、皆の耳にしゅうしゅうと漂い流れてくる。
「私が何に怒っているか、わかるかシュタインベルク」
「さて、なんだろう」
 シュタインベルクは大袈裟に首をひねってみせた。
「君を招待しなかったことだろうか。それとも君に預けた新しい三人の子供の教育がなっていなかったか。あるいは――大事な大事な手駒を失ったことかな?」
 刹那、ルスターは舞台上に駆け上がっていた。その勢いのままシュタインベルクに殴りかかる。
 だが、シュタインベルクはその拳を片手で受け止めてみせた。
「おいおい、神に仕える者がいきなり暴力とは――それとも、偽司祭だからいいのかな?」
「貴様はエルデを泣かせたっ!!」
 洞窟に反響するその声に、シュタインベルクは呆気にとられたような表情になった。
 村人も顔を見合わせる。ある者はルスターの言葉に、またある者はシュタインベルクの言葉に反応して。
「私が今一番怒っているのは、貴様が己の手を汚さぬために彼女を道具扱いしたことだっ! それに、ロイド、ミュラー、へレン、メッケナーも! この、卑怯者めっ! ――何が可笑しいっ!!」
 シュタインベルクは笑っていた。さも可笑しげに。これまで見たことのない表情だった。
「くっくっくっくっく……卑怯? いやいや、卑怯結構」
 シュタインベルクの手が滑るように動き、ルスターの拳を振り払った。
「弱き者が強大な敵を相手に戦うには、あらゆる手を使わねばならん。誇りだの情けだのと甘いことを言えるのは、貴様が貴族側に立っているからだろう? 貴様の出自はフェルミタと聞いていたが、ハイデロアでの十五年は平民にすぎない貴様を貴族と錯覚させるに十分な時間だったらしいな。それとも、寝床を共にした貴族の女どもに牙を折られたか?」
「……エルデから聞いた話か。そんなもので動揺するとでも」
「いや、彼女ではない。だが、言ったはずだ。我々ボラスディアを甘く見るな、と」
 ルスターの表情が曇る。この場でその名を持ち出すシュタインベルクの魂胆が理解できない。ここには村人も――そこまで考えて、はたと気づいた。

 エルデだけではない?

 それが表情に表われた瞬間、シュタインベルクの表情も再び勝ち誇りの笑みに歪んだ。
「そうだ、ルスター。ホルマール村の村人全てが――いや、シレキス全土の平民が既にボラスディアなのだ」


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