蒼きバンダナのアレス First Episode
〜Engage Destiny〜【LUSTER/ROUGE】

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告  白

 右手の甲に醜く刻まれた焼印――円を三等分して、古代文字を刻んだ紋章。

「まあ……酷い」
 息を呑んだエルデが、痛そうに顔をしかめて漏らす。
 マニングも少し眉をひそめてから、急に目を見開いた。
「ちょっと待て。貴様、それは――」
「なんですの?」
 マニングの慌てぶりを怪訝そうに見やるエルデ。
 ルスターは右手を下ろし、視線をその屈辱の焼印に落とした。
「これは破門の印。つまり、樹帝教から破門された者の証です」
「……え? え? でも、ルスターさんは」
「こいつは、偽司祭だっ!」
 ルスターを指差して叫ぶマニング。その声は激しい憎しみと敵の正体を暴いた歓喜の昂揚が入り混じっていた。
 驚いて振り返るエルデに、ルスターは気弱げに苦笑した。
「すみません、エルデさん。実はそうなんです。……私は樹帝教から破門された身。そしてそのおり、全ての奇跡を封じられている。その処置をしたのが誰かは言えませんが、樹帝教幹部の一人です。従って、今の私は『奇跡』であろうと『呪い』であろうと、一切使うことができない。つまり、バイド殿を君が見たやり方で殺すことは出来ない」
「そんな……ルスターさんが偽司祭……!」
「バイド様はその印のことを」
「知らない。……少なくとも私から告げてはいない」
「ふざけるな!」
 とうとうマニングは跳ね起きた。押さえていたエルデが押さえきれずに押しやられ、小さな悲鳴をあげる。
「樹帝教から破門された印を持つ男が、ボラスディアではないだと!? 確実にクロではないか!」
「そうだな。私が君の立場でもそう思う」
 ルスターは頷いて部屋の隅に行き、手水鉢で右手を洗った。たちまち手水鉢の水に、おそらくはメッケナーのものであろう血が揺らめき広がった。
「だが、私がボラスディアなら、今このタイミングでこんなものを見せないし、君を助けたりもしない。ここで君が目覚める前に口を封じるのが一番手っ取り早い」
 傍にかけておいた手拭いで水気をふき取りながら、ルスターは感情の欠片も込めずに言い切った。
「そんな理屈を、信じると思っているのか」
「これを見せたから信じろとは言っていない。ただ、隠し事をしておくべきではないと考えたから見せたまでだ。本題はここから入る」
 応接ソファに腰を落とし、大きく一つ息をついた。
「本題だと?」
 警戒心ありありの険しい表情でルスターを睨み続けるマニング。
 その傍らのエルデは、困惑しきった面持ちでルスターを見やっている。
「ジョナサン=マニング。君はバイド殿の爆殺現場から生き延びた証人だ。バイド殿がボラスディアによって殺害されたと首都ミンスニアに報告できる唯一の人間だ。君が死ねば、バイド殿は行方不明扱いになるだろう。この違い、わかるな?」
「ああ。殺害されたとなれば、騎士団は大手を振って動ける。怪しい者は片っ端から検挙し、厳しい取調べを受けさせられる」
 その最筆頭は貴様だがな、とマニングは唸った。
 ルスターはそれを聞き流して、頷いた。
「そうだ。だから、君が生きていることを知れば、連中は必ず君を殺しにかかる。本来ならすぐにでもミンスニアへ向かわなければならない。だが、今の君はその旅に耐えられる状態ではない。少なくとも二、三日、できれば十日は動いて欲しくない」
「……………………」
「そして――いいか、ここからが肝だ。幸い、君がここへ来たことは、私とエルデさん以外に知らない。さらに今の君は顔まで包帯だらけで、何者なのかもわからない。君の体が旅に耐えられる体力を取り戻すまで、ここに隠れていろ。この際だ、記憶も失ったことにしてしまえ。それなら万が一子供たちやペルナーに詮索されても、『何も知らない』で通せる」
 マニングは返事をせず、じっとルスターを凝視していた。
 ルスターは身を乗り出した。
「ジョナサン=マニング。今言ったことに、何か問題はあったか。あったなら言ってくれ」
「……どうして俺をかばう」
「私はボラスディアではないからだ。細かい経緯(いきさつ)は話せないが、そもそも私はバイド殿と同じく、ボラスディアの壊滅を命じられてここへ来た。もっとも、私にそれを命じたのは樹帝教だがな」
「そんなバカな。破門の印を持っている者に、なぜ樹帝教が」
「無理やり破門の印を押されたんだ、私は。この潜入捜査のために――ボラスディアを首尾よく壊滅できれば、この印を消してもらえることになっている。本当か嘘か知らないが」
 右手の甲に視線を落とす。まあ、なんだかんだで反故にされるだろうとは思っているが。
「だが、君が私をボラスディアだと報告したいならすればいい。私は止めない」
「……なぜだ?」
「君を信じる」
 その時、マニングは明確に苦悶めいた顔の動きを見せた。
 その表情の変遷を真っ直ぐ見据えたまま、ルスターは続ける。
「君は、あのバイド殿から騎士としての心構えを叩き込まれたのだろう? 今は悲しみと怒りの渦の中にあって、正常な判断ができないかもしれない。だが、冷静になれば私が嘘を言っていないことはわかってもらえると信じている。それに……君はバイド殿が遺した、バイド殿の志を受け継ぐただ一人の騎士。この我が身をどう処するかより、君をミンスニアに無事帰すことの方が大事だ」
「わからん」
 マニングはうめいた。胸の中にうずくまる重々しくどす黒い何かを、今にも吐き出しそうな顔で。
「なぜそこまで、バイド様を。お前は……数度しか会ったことがないだろう」
「借りがある」
 ルスターは大きくため息をついてソファの背もたれに背を預け、天井を見上げた。
 ルージュが来た日。あの時、バイドの性格も考えて軽く流しはしたが、喧嘩や格闘術の心得のないルスターが、暴漢の凶刃から命を救われたのは確かだった。ルスターだけではない。ルージュもまた。
 バイド本人がいなくなった今だからこそ、その借りはより重い意味を持つ。
「……ご本人は気にしておられぬだろうがな。私にとってこの戦いは、バイド殿への弔い合戦。そして――」
 ルスターは口を一文字に引き結んだ。
「メッケナーの復讐だ」
「復讐……」
 マニングの呟きに、目を細めたルスターは頷いた。その瞳がぎらりと輝きを放つ。
「あの子はまだ6歳だったんだ。……年老いていればいいというものではないが、それにしたってあまりに不憫すぎるとは思わないか。身寄りなき孤児の身の上なら、こんな……こんな非道も許されるというのか。そんなわけがない。許されていいわけがない。例え神が許しても、俺が許さん。絶対に、ボラスディアは潰す」
「…………ルスター……」
 マニングの隣で、エルデが顔を覆ってすすり泣き始めた。その悲愴な声の漂う室内とは対照的に、窓の外では風が強くなり始めていた。
 不意にルスターは再び身を起こし、テーブルに両手を着いた。そのまま頭を下げる。
「だから、力を貸してくれ。ジョナサン=マニング。君にやってほしいことは一つだけだ。無事生きて首都ミンスニアにたどり着き、今回のボラスディアの所業を騎士団に伝える。それだけでいい。後は……私がやる」
「……何をする気だ」
 不審げな眼差し。ルスターは首を左右に振った。
「現状、何かを考えているわけじゃない。ただ……この件で私もこの地に悪逆非道の徒がいるということがわかったし、腹はくくった。必ず奴らをいぶり出し、壊滅させる。樹帝教のためではなく、シレニアス、いやマンタールのためでもなく、これまで犠牲になった者、これから犠牲にされようとしている者のために」
「破門者がなにを偉そうに。樹帝のご加護もない奴が破壊神宗徒を壊滅させる? ……笑わせるな」
 憎まれ口を叩いたマニングは、しかしその口元に笑みを浮かべていた。
「奴らを潰すのは、我ら栄えある紅光騎士団(カーマインナイツ)だ。奇跡も使えぬ偽司祭ごときは、せいぜい邪魔にならないようにしてろ。……貴様のことは黙っててやる。ここで数日厄介になる礼代わりにな――って、何がおかしい」
 ルスターは思わずくすりと失笑を漏らしてしまっていた。どこかで聞いたことのあるその言い回しに。
「いや……やはり君はバイド殿の愛弟子なのだな、と感心しただけさ」
 たちまちマニングは口許を引き攣らせた。怪我のなかった右耳が赤くなっている。
「言っとくが、まだお前を信用したわけじゃないからな! 事の真偽がはっきりするまで、判断を棚上げにしておくだけだからなっ!」
「ああ。わかってるよ――全部終わるまでは、そんなつもりもない」
「わかってりゃいいんだよ」
 不貞腐れたように吐き捨てたマニングは、ルスターの苦笑に背を向けて横になった。

 ―――――――― * * * ――――――――

 緊張が途切れたのか、すぐに寝息を立て始めたマニングを司祭室に残し、ルスターはエルデとともに玄関へ向かった。
「エルデさん、ごめんなさい。こんなことに巻き込んでしまって」
「あ、いえ……」
 エルデはまだ少し泣いていた。年上の女性の泣き顔に少々不謹慎な思いを抱きながら、ルスターは続けた。
「ごめんなさいついでですが、彼のこともメッケナーのことも一切口外しないでください」
「ええ……誰がそのボラスディアなのか、わかりませんものね」
「あ、いや。そっちもそうですが……彼の件ではあなたをこれ以上巻き込みたくないですし、メッケナーの件では子供たちの耳に入れたくないのです。うちの子供たちだけでなく、村の子供たちにも」
「そうですね……その方がいいですわね」
 エルデの声は静かだった。落ち込んでいるようにも聞こえるし、何かを考えているようにも聞こえる。
「ですから、当分エルデさんもうちにはお近づきにならない方が――」
「司祭様。明日から当分、毎日寄せてもらいますわ」
「……は?」
 目元を少しぬぐって告げたあまりに唐突な申し出に、ルスターは思わず足を止めて絶句していた。
「あの方の怪我の処置、司祭様が全部やって他の者に任せなければ、余計に怪しまれません? ですから、あたくしが。司祭様とあたくしが懇意にしていることは村の人も良くご存知ですし、酷い怪我を負った行き倒れの方の世話を頼まれたとしても、おかしくないですし。ね?」
 にっこり微笑んで、少し小首をかしげてみせる。
 その圧倒的なまでの大人の雰囲気に気圧され、ルスターはしどろもどろになった。
「いや……それは、そうかもしれませんが……しかし」
「それに、あたくしがこちらに来る方が司祭様も安心できると思ったんですけれど」
「は? どうして?」
 素で聞き返していた。自分が彼女に寄せている好意と、冷静な判断を求める意識が頭の中で全面衝突して、思考が今ひとつ明晰さを失っている。
「ええと……こういう時って、この秘密を知ってる人が目の届くところにいる方が、安心できるものじゃありませんの?」
 確かにそれはある、と考えたものの、ルスターは軽く自分の側頭部をはたいた。表情を引き締めて、エルデを見やる。
「エルデさんが誰かにこの話をするとは思っていませんよ。今、約束もしていただいたし」
 口調に少しむっとした感じを含ませたのはわざとだ。彼女に毎日会えるのは嬉しいが、それとこれとは話が別。
「ただ、私はあなたをこれ以上ボラスディアなどという人殺しの集団と関わらせたくないだけです。正直、あなたの口から誰かにマニング殿のことが漏れることより、それによってあなたが狙われることの方を、私は恐れています。だから――」
「そうはおっしゃっても、あたくしは参りますわよ。それに、先ほどの話でもそれほど長い間にはならないみたいですし。大丈夫ですわ」
 にこやかに、しかしまったく譲るつもりのない口調にルスターはげんなりした。これはもう、説得できそうにない。
 苦虫を噛み潰していると、エルデはルスターに相対してその両手をそっと包むように握った。
「どうかお一人で抱え込まないで、司祭様。メッケナーちゃんのことでは、心を痛めていますのよ? あたくしも。同じ思いの者が傍にいて、その悲しみを共に分かち合えれば……多少は心が楽になるんじゃありませんか?」
「エルデさん……」
 胸を衝かれる思いがして、言葉が途切れた。
 正直、そこまでは考えていなかった。今の今までボラスディアへの憎悪と、闘争心、復讐心だけで一杯になっていた自分に気がついて、身震いした。そして、まだ彼女は私を『司祭』と呼んでくれる。
 不覚にも目が潤むのを察知して、ルスターはエルデに見られぬよう頭を深く下げた。
「ありがとうございます。そこまで考えていてくださったとは……」
「いいんです。ほら、あたくし、夫に先立たれていますし……こういうのは少しだけ分かるというか……あ、でもメッケナーちゃんみたいな酷い最後ではなかったですけれど」
「わかりました」
 ルスターはうつむいたまま、包まれている手を抜き、改めて握り返した。
「彼のことはあなたにお願いします。そして……あなたのことは、私が守ります」
「あらあら」
 なぜかエルデはうふふ、とこらえきれないように笑みを漏らした。
「そんな情熱的なこと言われたの、夫からプロポーズされて以来だわ。……やだわ、ちょっと照れちゃう。でも、ありがとうございますルスターさん」
 顔を上げたルスターは、頬を染めて嬉しそうにはにかんでいるエルデに少々複雑な思いを抱いた。
 照れていることを喜ぶべきなのか、事態の重さを感じていないようなその態度に気をつけるべきなのか、と。

 ―――――――― * * * ――――――――

 次の日から、エルデは孤児院へ来訪してきた。時ならぬ大人の女性の来訪に子供たちは喜んだ。
 結局、エルデはマニングの世話だけでなく子供たちの相手もすることになってしまった。
 午後、奉仕活動から戻ってきた子供たちと洗濯物を干しながら、ルスターは苦笑した。
「すみませんね。色々お手伝いいただいて」
「いいんです。今は農閑期でそれほど忙しくもありませんし、独り身ですしね」
 エルデは談笑しながら、傍らに待機しているザブリンから受け取ったシャツを手早く広げ、竿に通してゆく。ザブリンが籠の中から取り出すより早く作業を終えてしまうその手馴れた様子は、さすがというべきか。
 頭に巻いた白い手拭い、額に浮かぶ珠の汗、子供と談笑する姿。
 見とれていると、突然お尻を叩かれた。驚いて我に返ると、ルージュが次のシャツを持って待っていた。
「……おじさま、手を止めない。いつもあたしたちに言ってるじゃない。仕事に集中する! ほら」
「ああ、はいはい」
「『はい』は一度! それもいつも言ってる!」
 妙に棘のある声に苦笑しつつ、シャツを受け取って広げ、竿に通す。
「なんだルージュ、今日はいつもに増して機嫌が悪いな」
 次のシャツを受け取りながらからかってやると、たちまちルージュは頬を膨らませた。
「べつにきげんわるくないもん。エルデさんが来てるからって、おじさまがだらしなくなってるのがいけないの!」
「ああ、そうか。そりゃ悪うござんした――イテッ」
 笑って軽く流されたルージュは、もう一度ルスターの尻を叩いた。
「やれやれ、ルージュにはかなわないな」
 苦笑しつつ辺りを見回す。
 他の子供たちもそれぞれ組を作って、洗濯物を干していた。
 頭上の梢から漏れ差し込む冬の冴えた昼の光に、子供たちの口元で揺れる白い吐息が光る。
 時折吹く、肌を刺す乾いた寒風が足元の落ち葉を玄関口に吹き寄せる。それを見て、ナーラと顔を見合わせたケイトがまた掃かなきゃと口を尖らせた。
 洗濯物そっちのけで走り回っているアルとビュークにワイズマンの怒声が飛び、その隣で洗濯物を持って待っていたトリーデがびっくりした顔をする。
 そしてルージュ。彼女はメッケナーの一件があっても、少なくとも表面上はルスターへの反抗を見せることはなかった。エルデに対する可愛い嫉妬はいつものことだが。
 この場にいないペルナーは今日、シュタインベルク司祭への報告書を持ってシュルツに出ていた。聞いた話だと、向こうで預かっている孤児を二、三人連れてくるかもしれないとか。また賑やかさに輪がかかるのだろう。……もっとも、すぐに友人を失い、現実を思い知るのだろうが。
 ペルナーにはメッケナーの件をもう一度確認するよう念を押しておいたが――
 ルスターはルージュと適当に掛け合いをしながら、状況を頭の中で整理していた。


 シュタインベルク司祭に連れて行かれたメッケナーが、バイド殿を殺害する道具代わりに使われた。

 今はっきりしているのはそれだけだ。
 誰がメッケナーにそれを命じたのか、あるいは『呪い』をかけてやらせたのかはわからない。
 可能性は二つある。
 シュタインベルク司祭が、実はボラスディアである可能性。
 もう一つは、シュタインベルク司祭が取引している相手がボラスディアである可能性。
 現状では五分五分だ――というか、決定的な判断材料がない。
 年明け早々、新年の挨拶のためにシュルツを訪れた時に、メッケナーの行方を聞いてはみた。しかし、司祭は『さる貴族の屋敷で奉公しているとしか言えぬ』の一点張りだった。
 普通に考えれば当たり前の返事だ。よそ者で、しかも平民風情が貴族のやりようを探るなど、不敬にもほどがある。というか、売り払われた孤児の行方を、3ヶ月も経った今でも気にしている自分の方がおかしい。
 あの時はシュタインベルク司祭に説得され(というか恫喝もしくは丸め込まれ)、帰ってきてしまったが……。
 事態がこうなってくると、不敬だとか自分の方がおかしいとか考えている場合ではない。
 とはいえ、この先は深い藪の中だ。
 迂闊な動きは危険につながる。それに、マニングがミンスニアに帰着した後、騎士団が来るであろうことを考えれば、下手にかき回してボラスディアを警戒させるわけにもいかない。
 証拠を集めるのはともかく、壊滅となればそれなりの力が要る。それはルスターにはない。最後には騎士団の力が必要になる。
 だから、動き方を絞る必要がある。
 ボラスディアの統率者、その集団の規模、本拠地。その三つのうち一つでも探り出せれば。


「――おじさま、窓。あの人がこっち見てる」
 ルージュに袖を引かれ、振り返る。彼女の指差す先は二階の司祭室の窓で、そこには包帯で人相のわからぬ(ようにされた)男がぼんやり立っていた。
 記憶を失った行き倒れを助けた、というルスターの説明を、子供もペルナーも一応信じているようだった。
 子供たちはあの包帯まみれの不気味な姿に恐れと興味を抱いているようだが、今のところ司祭室に押しかけるということはない。ともかくも怪我が治るまで接触はダメ、と言い聞かせているからだろう。
「ルージュ、手を振ってあげてみな?」
 ルージュは頷いて、手を振ってみせた。
 すると、男はじっとルージュを見たあと、ぷいっと奥へと引っ込んでしまった。
 むくれる少女に、ルスターは笑ってその頭を撫でてやった。
「ははは、嫌われたな。……まあ、今は傷の痛みと記憶がない不安とでイライラしてるんだろう。そっとしておいてあげた方がいいな」
 口からでまかせを言いながら、それとなく近づかぬよう釘を刺しておく。
 そのとき、炸裂音が空に鳴り響いた。
 子供たちが一斉に動きを止めて梢の間に見える青空を見上げる。エルデも、ルスターも見上げた。
 再び、炸裂音がこだまする。
 しかし、秋の収穫祭のときに聞いた甲高い元気な破裂音ではない。何か空気が抜けたような、微妙な音だった。
 それが続く。二度、三度と。
 都合五度鳴って、ぴたりと止んだ。
「……なんです?」
「え?」
 エルデを見やると、彼女は質問内容が理解できなかったかのように小首をかしげた。
「いや、冬の今の時期に花火って……何かあるんですか?」
「ああ。……別に聞いてませんけど……ああ、そうね。多分、ベロアさんの息子さんが火薬の扱い方を教えてもらってるんじゃないでしょうか。彼、今年で14だし」
 ルスターはベロアの息子を記憶の中に探った。
 確かかなりやんちゃな子供だ。というか、14といえばもう遊べる年でもないのだが。ともかくも村の今のガキ大将格で、アルやビューク、メッケナーもその軍門に下っていた。物静かなワイズマンとは少しそりが合っていなかったように思う。
「それであんな気の抜けたような音になってるんですね。……というか、ここではそんなに火薬が手に入るんですか?」
 ルスターの問いに、エルデは再び顔をしかめた。
「いいえ。この辺りの村では普通に皆さん、作ってますよ?」
「作る? 火薬を?」
「ええ。炭と硫黄と何かを混ぜて作るんですって。最後の何かっていうのは、村の男衆だけに伝わる秘密で、あたくしにはよくわからないんですけれども」
 ザブリンから洗濯物の最後の一枚――誰かのパンツだ――を受け取ったエルデは、それを勢いよく振った。ぱん、とさっきの花火より勢いのある音が鳴り響いた。
「村の男の子はそれを教わり、自分であの花火を作って打ち上げることで村の大人の一員として認めてもらうんです」
「炭と硫黄と何か……ですか」
 硝石だな、とハイデロアで学んだ知識を探りつつ、ルスターは花火の音がしたと思しき上空の方角に顔を向けた。そちらは常緑樹の梢の天蓋で視界を塞がれていたが。
「ええ。炭は普通にありますし、硫黄もほら、付け木(火口[ほぐち]から火を灯すために使う、火のつきやすい硫黄を塗った木棒)を作るために使いますし。……司祭様のお生まれになった村では、そういうことはありませんの?」
 エルデに顔を戻したルスターは、苦笑を浮かべてみせた。
「私はフェルミタの生まれでして。うちの故郷の特産物といえば家具だったかな。……ああ、そういえばアスラルの中でもマンタールは火薬文化が発達していると何かの授業で受けた気がするな。しかし、普通に村で作られているとは」
「ふふ、司祭様でも知らないことがあるんですのね」
 空になった籠を抱えたエルデは、おかしそうに微笑みながら、仕事のなくなったザブリンにアルとビュークの方へ行くよう促した。遊び盛りの少年は、顔を輝かせて脱兎のように駆け出していた。
 その背中を見送りながらルージュから最後の一枚を受け取ったルスターは、空中で一振りして音を立ててから物干し竿に掛けた。
「知らないことだらけですよ。……全てがわかってるなら、苦労なんてしないんでしょうけどね」
「ルスターさん……」
「わからないから、人は足掻き……時に道を誤る……。けれど……いかに誤ったとしても、踏み外してはならない道もある。そうは思いませんか、エルデさん」
 ルージュの頭を撫でながら、ルスターが漏らしたその呟きはしかし、エルデにもルージュにも向けられたものではなかった。
 それを感じたのか、エルデは何も言わず、頷いただけだった。

 ―――――――― * * * ――――――――

 ルスターは午後からの勉強を子供たちに言いつけて司祭室へ戻った。
 マニングはベッドのへりに腰掛けて、凶悪につりあがった空ろな目を虚空に向けている。
「……機嫌悪そうだな」
 ルスターがため息混じりにいうと、じろりと目が動いた。
「痛みと熱で眠れない。寝たきりも飽きたが、体を動かすと痛いわ熱いわで――何とかしてくれ、司祭」
「私はしょせん偽司祭だからねぇ」
 素っ気無く言うと、マニングは不服そうにため息をついた。
「根に持つ野郎だな」
「私の疑いはまだ晴れていないはずだろう? 根に持つも何もないと思うが。ともかく私に言えるのは、君がそうやって暇を持て余して動き回ればそれだけ回復が遅れ、ミンスニアへ戻るのが遅れるということだけだ」
 くそ、と悪態をついて寝床に戻るマニングを見やりながら、ルスターは窓際に立った。
「……私も残念だよ。『奇跡』の力を使えれば――」
 ふと言葉が切れたのは、窓の外に見慣れぬ馬車が止まったからだった。
 マニングも寝転がったまま、ルスターの緊張を感じ取ったように身じろいだ。
「――どうした?」
「ペルナーが戻ってきた。……新しい孤児が……3人と――おやおや。珍しいお客だ」
「誰だ?」
 階下を見下ろすルスターの頬には、皮肉げな笑みが貼り付いていた。
「誰だと思う? ――シュタインベルク司祭だよ」
 窓の外、馬車の荷台から降りたシュタインベルク。
 こちらの気配に気づいたのか、ふと見上げたその視線とルスターの視線がかち合った。

 ―――――――― * * * ――――――――

「君があまりにここから連れて行った孤児の件でやかましいのでな」
 どうぞ、とエルデが淹れたハーブティを礼も言わずに受け取ったシュタインベルク司祭は、一口つけてからそう言った。
 孤児たちを並ばせての孤児院総出の出迎えにも、ねぎらいの言葉一つかけなかった男だ。
 ルスターはあてつけるようにエルデに礼を言って、シュタインベルクの言葉を聞き流した。
 玄関を入ってすぐの大広間。いつもは子供たちが勉強をしているテーブルの一つに、二人は向かい合わせで着いていた。ペルナーは連れてきた三人の孤児をシュタインベルク司祭の背後に整列させていた。孤児院の子供たちは他のテーブルについて、こちらの様子をちらちら窺っている。今度は誰が連れて行かれるのか、と怯えているのかもしれない。
 カップを置いたシュタインベルクは続けた。
「この三人はシュルツの教会に届けられた孤児だ。名前は――あー」
「右からロイド、ミュラー、へレンでございます」
「ああ、そうそう」
 ペルナーの的確な補佐に適当に頷き、続ける。
「シュルツの教会には孤児を収容できる施設的余裕はない。普通なら各地の孤児院に分散配分するところだが――」
 カップをすすっていたルスターの動きが一瞬止まる。各地、ということは他にもシュタインベルクが建てさせた孤児院があるということか。しかし、自分の足元であるシュルツにそうした施設がないとは。
「――どうやら君は暇を持て余しているようなのでな。この三人を預ける」
 シュタインベルクの背後に並ぶ二人の男の子と一人の女の子はペルナーに促されて、頭を下げた。
「別に暇を持て余してなどいませんが」
 少し音高くカップをソーサーの上に置き、不機嫌を隠しもせずに言い返す。
 すると司祭は皮肉げに唇の端を歪めた。
「売られた孤児の行方を気に出来る程度には暇なのだろう? 私が君に期待していたのは、孤児の売却で一定の利益を上げることだ。そのためにこの孤児院の全権を委任したのだ。もうすぐ一年になるが、今のところ君は利益を上げていない。期待外れだな」
「……木工品を作るのとは訳が違います。人を育てるには――」
「言い訳を聞く気はない。だが、今のところシュルツ教会からの援助も必要としてないことだけは、評価してやろう。時間がかかるなら、それなりの人数をさばけるようにしたまえ。この三人も、君の言う付加価値をつけて高く売れるようにしろ」
「……はい」
 言いたいことは山ほどあるが、それを言ってもこの男は聞くまい。ここは適当に合わせてさっさとお引取りいただくのが良策だろう。
「それから、行き倒れを拾ったそうだな。酷い怪我で記憶喪失だと聞くが?」
 ルスターは思わずペルナーに視線を走らせていた。恐縮そうに軽く会釈する司祭補佐に軽く眉間を寄せ、シュタインベルクに視線を戻す。
「はい。ここにおいでのエルデさんが――」
 お盆を持って立っていたエルデが頭を下げる。だが、シュタインベルクは一顧だにしなかった。
「なぜ施術して癒さない?」
 急所を突く問いに、ルスターは顔をしかめた。なぜ今そんな問いを。
「記憶喪失はともかく、怪我の方は神の御業を以ってすればすぐに治ろう。それとも、それでも間に合わぬほどに酷いのか」
「肋骨がいくつかやられ、全身にも酷い怪我を負っています。……施術してもすぐには治りませんし、本人が施術を嫌がっているのです」
「おかしな話だな。施術をすれば怪我は治り、痛みも和らぐだろうに。……そういえば、知っているかね?」
「何をです?」
「邪神信仰の中には、わざと我が身を痛めつけ、その苦痛を神に捧げるなどという一派もあるらしい」
「…………彼がボラスディアだとでも言うのですか」
「さあ。そういう連中もいる、というただの世間話だ。そうそう、ボラスディアといえばあれはどうした?」
「あれ?」
 困惑げに聞き返す。次々に飛ぶ話についてゆくのがやっとだ。
「我らのことをボラスディアだと疑っていた赤い騎士だ。最近、その取り巻きともどもシュルツでは見ないのでな。こっちにはちょくちょく姿を現わしているのだろう? ペルナーから聞いているぞ」
 ルスターは思わずシュタインベルクを凝視していた。本気でそう思っているのか、それともこちらが疑惑を抱いていることを見越してのかく乱、あるいは牽制か。
「……いえ。最近はこちらでも姿を見ていません」
「そうか。まあ、いても邪魔をするしか能のない連中だがな。証拠が見つけられず、首都に帰ったのかもしれんな。――さて、そろそろ村長たちに会ってくるか」
 そう言うと、シュタインベルクは腰を上げた。
「お待ちください」
 遅れて腰を上げたルスターは、玄関に向かうシュタインベルクを呼び止めた。司祭の足が止まる。
「シュタインベルク司祭……なぜ村に?」
 怪訝そうなその問いに、シュタインベルクの方が怪訝そうに眉をひそめた。
「なぜ? 成人式のためだよ。聞いていないのか? 今夜、新しい成人を村に迎える儀式がある。そのために来たのだ」
 さっきエルデと話していたベロアの息子のことか。
 しかし、なぜこの地域担当司祭である自分ではなくシュタインベルクが。しかも、面倒くさがりだと思っていたのにわざわざ足を運ぶなんて。その成人の儀式には何があるというのか。
「それは……ご苦労様です。それだけですか?」
「その用事だけで来てはいけないのか?」
「い、いえ……その、秋祭りのときはあまりそういうものに興味なさそうに見えたもので」
 途端にシュタインベルクは大きくため息をついた。いかにも愚か者を相手にしているかのように。
「失礼極まる言葉だな。……君の中での私の評価がよくわかったよ」
 確かに。ルスターは素直に頭を下げた。
「失礼。口が滑りました」
「ま、いい。だが、勘違いは正しておくべきだな。秋祭りは君の主催だった。だから私は自重し、参加しなかった。君とは宗派も違うしな。だが、今回は前々から決まっていた私の主催行事だ。だから私がわざわざ足を運んだ。それに、今度成人になる少年の家は以前から大地神グワルガの信者でもある」
 これでわかっただろうと言いたげに鼻を鳴らすと踵を返し――かけて、再び振り返る。
「――ああ、そうそう。言うまでもないことだが、儀式への君の参加を求めるつもりはない。ま、孤児とその行き倒れの面倒でそれどころではないだろう」
「は……」
 恐縮して頭を下げるルスター。
 それを振り返ることもなく、ペルナーを引き連れてシュタインベルクは出て行った。
 そのすぐ後に、エルデも。
「ごめんなさい、司祭様。今晩、成人の儀式があるなら、あたくしも手伝わないといけないので」
「あ、でも、それなら子供たちを今夜……」
 ガキ大将とはいえ、遊び友達が成人になるのだ。そのお祝いぐらい言わせてやってもバチはあたるまい。それに、エルデが手伝いに行くということは、料理が並ぶということ。子供達は喜ぶはずだ。
 しかし、エルデは渋面を作って首を横に振った。
「今夜は遠慮した方がいいかもしれませんわ。……シュタインベルク司祭もあまりいい顔をなさらないと思いますし……」
 ルスターは言葉に詰まった。孤児を売り物としか見ていないあの男のことだ、どんな嫌味を言われることか。それが自分に対してならまだいいが、子供たちに向けられたら。
「そう……ですね」
 残念そうに唇を噛むルスターに、エルデはにっこり微笑んだ。
「料理のことでしたら、途中で適当に何か見繕ってこちらにも持ってきますわね」
「いいんですか?」
「村のみんなもその辺りは心得てますわ。もうここの子もみんな村の子ですもの。あたくしから話しておきますわ。そうそう、三人新しい子供が増えたことも。こっちではウェルカム・パーティですわね」
 そう言うと、シュタインベルクとペルナーがいなくなったのに、その場で直立不動を守っている少年少女の頭を次々に撫でてやる。
 緊張しきっているその表情がふと緩んで、小さな笑みをこぼす。
「……すみません。助かります。子供たちも喜びます」
 深々と頭を下げるルスターに、もう一度にっこり微笑んで――エルデは村へと戻って行った。



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