蒼きバンダナのアレス First Episode
〜Engage Destiny〜【LUSTER/ROUGE】

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試   練

 一月近くが過ぎた。
 収穫もつつがなく終わり、木々の多くが紅葉を迎え、吹く風に寒さが混じり始めた頃、祭りの日がやってきた。
 村に古くから伝わる歌と踊りで、特定の神にではなく、恵みをもたらすあらゆる神々に感謝を捧げる。
 村長をはじめとする古老たちとルスターで厳かに式を執り行った後、皆が待ちに待った宴が始まる。
 シュルツから呼ばれた流しの楽団数人が演奏する音楽に乗って、麦穂を刈った後の畑でダンスの輪が生まれ、道端に並べられたテーブルの上に豪勢な食事が用意され、酒の樽が次々開けられる。
 日頃は食べられない料理に子供は喜び勇んで舌鼓を打ち、もう少し年かさの少年少女は浮かれ騒ぎに乗じてお互いの距離を縮め、大人たちは少しだけ破目を外して日頃の憂さを晴らす。老人たちは今年の恵みへの感謝と、来年の恵みへの祈りを続けながら、そんな騒ぎを静かに、そして暖かく見守る。
 そんな中で、ルスターはどちらかと言えば老人たちに近い立場で祭りを見守っていた。
 楽しんでいるか、と問われれば木製のジョッキを掲げてみせ、ダンスパートナーを申し込まれれば控えめな態度で応じる。子供たちに目を配り、料理に舌鼓を打ちながら――その頭の芯は冷えていた。
 こういう場でこそ、人は隠している尻尾を出す。ボラスディアという邪教集団にして反体制組織が本当に存在して、このホルマール村にまで入り込んでいるのなら、それを疑わせる何かがちらりと顔を覗かせるはずだ。
 もっとも、そういうものがなければないでそれにこしたことはない。子供たちのためにも村のためにもそれが一番いいことだし、胸を張ってバイドにここにそんなものはない、と言える。
 不意に、軽い炸裂音が鳴り響いた。
 見上げれば、茜空に漂う白煙――花火だ。
 とはいえ、ハイデロアで見たことのある、夜空を染め上げて広がる炎の大輪ではない。ただ景気よい音を立てて爆発し、多少の白煙を残すだけの簡素なもの。田舎での祭りを盛り上げるアイテムと言えば、この花火か爆竹が相場だ。楽団の奏でる音楽にも、ちょうどいいアクセントになる。
 そんな花火でも子供たちは興奮しきって騒ぎ立てている。畑を走り回る者、打ち上げ現場に近づこうとしてたしなめられる者、納屋の屋根に登ってなぜか叫んでいる者……。
 ルスターが子供たちの動きに目を配りながら美人未亡人のエルデと談笑していると、ルージュが近寄ってきた。
 手にお酒を注いだジョッキを持っている。気が回る子というか、世話好きというか。こういう時ぐらい、もう少しみんなと同じように破目を外してもいいのに、と思っていると、テーブル代わりにしていた樽の上にそのジョッキを置いた。
「どうぞ、おじさま」
「やあ、ありがとうルージュ」
 空になったジョッキをルージュに渡しながら、ルスターは苦笑いを浮かべた。
「でもルージュ、やっぱりその『おじさま』ってのはやめないか? みんなが読んでいる呼び方で――」
「あら、いいじゃないですか。――ねぇ、ルージュちゃん?」
 少し酔いが回っているのだろうか、頬を薄く染めたエルデがにっこり微笑んでルージュに味方する。
 今日のエルデは木綿のシャツに丈の長い黒のスカート、少し汚れの目立つ白いエプロンを着て、日に焼けたのか少しブラウンがかった長い黒髪を襟足あたりで結い上げている。
 ルージュはエルデとルスターを交互に見て、頷いた。
「みんなの中で『おじさま』って呼ぶの、あたしだけだから。あたしの姿が見えてなくても、『おじさま』って呼べば、あたしが呼んでるってわかってもらえると思ったから」
「あら、賢い」
 エルデは目を細め、ルージュの頭を優しく撫でた。
「そっか、ルージュちゃんはルスター先生のことが大好きなのね?」
 頷いて、少し頬を染めながら嬉しそうにはにかむルージュ。
「なんでそうなるんです。……私はまだ『おじさま』って年じゃないんだけどなぁ」
 ジョッキをあおりながらルスターが苦笑すると、エルデはその額をぺしっと軽く叩いた。
「自分のことを特別扱いしてほしいっていうことですよ、せんせ。女泣かせの割りに、ご自分の子供の視線には鈍感なのね」
「一応、まだ対象外なもので。……しかしまあ、ルージュがそこまで考えてるんなら、しょうがないなぁ」
 ジョッキを置いて、そのほっぺたを撫でてやる。ルージュはくすぐったそうに肩をそびやかしたが、それでかえって自分から頬を擦り付けるような格好になった。
「わかった。いいよ、『おじさま』で。けど、ルージュだけな。他の子たちにそう呼ばせないでくれよ?」
「もういっそ、おヒゲを生やして見た目もおじさんになったらいかが? 渋くていいかもしれませんわよ?」
 樽の上で頬杖をついて、同意を求めるようにルージュに首を傾げてみせるエルデ。
「エルデさんエルデさん。おじさんじゃなくて、『おじさま』ですから。『おじさま』。――こらルージュ、目をキラキラさせない。ヒゲは生やしません」
 ルージュが残念そうに口を尖らせると、三人の間に笑いが弾けた。

 祭りもつつがなく進み、日も暮れ、大きな焚き火が村の広場を照らし出す。
 酔っ払いたちが音楽に合わせて手拍子をとり、合唱している。村人のダンスも、笑い声も、いつ果てるともなく続いていた。誰が上げているのか、花火も思い出したように上がり続けている。
 老人たちと酒を酌み交わしていたルスターは、ふと村の入り口に馬のいななきを聞いた。
 すっかり酔っ払って足元もおぼつかない村長や老人たちを押しとどめ、松明を手に村の入り口へ向かう。
 村の入り口に、一頭立ての荷馬車が着いていた。馬車の両側に灯るカンテラの明かりに浮かび上がる人影。御者台の上にいるのは――シュタインベルク司祭。
 ルスターが近寄ってゆくと、荷台にはこの辺りでは見覚えのない子供が二人、乗っていた。
「やあやぁ、シュタインベルク司祭。ようこそ、ホルマール村の秋祭りへ。こんな遅くにおいでになるとは。さあさ、広場へおいでください。皆が喜びますよ」
「そんなことはどうでもいいし、祭りに参加しに来たのでもない」
 シュタインベルクは心底興味なさそうに言い捨てた。
 そのとき、頭上で花火が炸裂した。ちらりと見上げたシュタインベルクが舌打ちを漏らす。
「バカどもが。去年、花火は使うなとあれほど釘を刺しておいたのに。もう忘れたか。……これだから田舎者は」
「はぁ」
「あの火薬の無駄遣いを止めさせろ。森が燃えたらどうする」
 顔を戻して表情も険しく命じる。
「はぁ」
 ルスターは眉をひそめた。
 確かに森の火事は森に生きる者が避けねばならない最重要事だ。シュタインベルクの懸念ももっともと言えばもっとも。しかし、それにしたってもう少し言いようがあるだろうに、と思う。それに、盛大に燃している焚き火はお咎めなし、というのもなんだか腑に落ちない。
「わかりました。後で重々言っておきます。……それで、祭りに来られたのでないのなら、今夜は何用で来られたのです?」
「ガキを一人、受け取りに来た。………………あれでいい」
 シュタインベルクが探すほどもなく視線を走らせて指差したのは、メッケナーだった。
 彼の着ている例の『ハートのつぎあてシャツ』は大人気になった。ホルマール村の子供たちの間では、つぎあてつきシャツが大流行したため、ルスターは村のお母さんたちに乞われて、はぎれを面白い形に作る講習を二、三度開いたほどだ。
 メッケナーは今、大人たちのお囃子(はやし)に乗って、焚き火の前で奇妙なダンスを踊っていた。大爆笑が弾けている。
「メッケナーですか? あいつはまだ6歳ですが、お役に立てますか? ワイズマンなら11歳で既に一通りの礼儀を――」
 まだ授業の内容を覚えることすらやっとの子供だ。少し胸の痛みを覚えながら、かすかな希望にすがって確認する。
「十分だ。二本の足で歩き、大人の指示を指示された通りに実行できるのならばそれでいい」
「はぁ。わかりました。では明日の朝、私とともにシュルツへ――」
「今すぐ連れて来い」
「は?」
「二度も言わせるな。これから連れて帰る。今すぐ連れて来い。何のために荷馬車で来たと思っている」
 ルスターは夜陰に乗じて、露骨に顔をしかめた。
「今も言ったとおり、メッケナーはまだ6歳です。せめて今夜の祭りぐらいは――」
「ハイデロアの出にしては頭の巡りが悪いようだな」
 シュタインベルクの口調に苛立ちと怒りが混じり始めた。
「貴様が初めてシュルツに訪ねて来たとき、私がなんと言ったか忘れたか」
「いえ。ですから、異論を差し挟むつもりはありません。メッケナーを御所望なら、メッケナーをお連れします。ただ、できれば少しだけご配慮をいただきたいだけです。今夜一晩だけ。……それに、夜道は危ない。今夜は孤児院の方でお泊りに――」
「……鶏をシメるのに、貴様は配慮をするのか」
「は?」
「わかっておらんようだな、青二才。孤児院のガキなど家畜と同じだ。どれほど目をかけたとて、最後は売られてゆく。そういう存在だ。ガキどもに知恵をつける自由は許したが、客をないがしろにする自由を与えた覚えはない。さっさとあのガキを連れて来い。貴様がやらぬなら、私がこのまま踏み込み、さらって行くだけだ」
「………………」
 ルスターは唇を噛み、シュタインベルクの馬車の前に立ちはだかった。腕こそ広げないが、見上げた瞳でシュタインベルクをじっと凝視する。
 シュタインベルクは、不満げに目を細めた。
「なんだ、その目は。私は貴様の体面を配慮してやっているのだぞ。出来ぬとあらば――」
「――シュタインベルク司祭様!」
 ルスターの背後から、ペルナーが駆けつけた。その腕にメッケナーを抱いている。
 メッケナーは先ほどのダンスを踊っていた時と打って変わって、不安げに三人の大人を見上げている。
「ペルナー……」
 多少の怒りと非難を込めて、年上の司祭補佐を睨む。
 しかし、ペルナーはいつもの柔和な笑みを浮かべたままルスターに目礼すると、すぐシュタインベルクに向いた。
「お話を耳にはさみましたので、お連れしました。どうぞ」
「うむ。さすがに貴様はよくわかっている。この若造には心得をしかと叩き込んでおけ――む」
 身を乗り出して子供を受け取ろうとしたシュタインベルクの横から、ルスターは手を伸ばしてメッケナーを奪い取った。
「ル、ルスター様?」
「貴様、まだ――」
 鼻白むシュタインベルクを無視し、メッケナーを地面に下ろして優しく抱きしめてやる。何が起きているのかわからぬ6歳児に、ルスターは努めて優しく語りかけた。
「メッケナー。突然だが、君は今からもらわれてゆくことになってしまった」
 ショックを受けた面持ちで、再度周囲の三人の大人の顔を順番に見渡すメッケナー。明らかに怯えている。
「本当に急なことですまないな。皆とのお別れもしてあげられないんだ。本当にごめん。もらわれた先で、しっかり働き、しっかり生きるんだぞ」
「せ、せんせー……」
 ルスターの着ているロングローブ風の司祭服の腕をつかみ、首を横に振って嫌々とする。
 だが、ルスターに成す術はない。
「メッケナー。君といたこの数ヶ月は、実に楽しかった。君のことは忘れない。元気でな。ご主人様に逆らったりするんじゃないぞ?」
「せんせー…………せんせー……ボク、ボクぅ……やだ、やだぁ……」
 しゃくりあげはじめたメッケナーになんと言ってやるべきかわからず、ただルスターはもう一度抱きしめるしかなかった。
「……元気でな。皆にも君のこと、きちんと話しておくから」
 頭上で舌打ちが聞こえた。
「つまらぬ茶番劇はその辺にしろ。私はいつまでもそんなもの付き合っているほど――」
「暇ではないのでしょう? ……お待たせしました。どうぞ」
 メッケナーを抱き上げ、荷台に乗せる。両目を潤ませて差し伸べる手をがっちり握り、肩を叩く――
 その直後、何の声かけもないままムチの音が響き、馬車は走り出した。
 手がほどけ、車輪が地面を穿つ音と荷台の振動、そして蹄鉄の響き――それらの轟音を残して、闇一色の森へと馬車の後姿が溶けてゆく。
 ルスターは蛍のように樹間を漂い流れてゆくランタンの光を、じっと見つめていた。
「……ペルナー」
「差し出がましい真似をいたしまして、まことに申し訳ございません。しかし、あのままでは――」
「いや、それはいいんだ。よくやってくれた……とりあえず、祭りを壊さずに済んだ」
 ランタンの光を呑み込んだ闇の彼方を見つめたまま、ルスターは硬張った声で言った。無理をして作り上げた微笑が浮かんでいる、そんな想像が容易につきそうな声。
「それより、そろそろ子供たちを帰らせよう。――私は村長たちに挨拶をして、後から行く。子供たちがメッケナーがいないと騒いだら、私が連れて帰るとでも言っておいてくれ。君は今、この場にはいなかった。だからメッケナーのことは知らない。いいね」
「ルスター様……」
「いいんだ。それが院長の役目だ。そして……彼らも、自分たちの立場を再認識するいい機会になる」
 沈黙が漂う。
 やがて、一つの足音が立ち去り始めた。 
「……ああそうそう、ペルナー?」
 足音が止まる。
「機会があったら、シュタインベルク司祭からメッケナーの行き先を聞き出しておいてくれないかな。頼むよ」
「………………善処いたしましょう」
「助かる」
 再び足音が立ち、それが消えると虫の音と風に揺れる梢のざわめきで村の入り口は包まれた。

 ―――――――― * * * ――――――――

 仲間が一人、忽然と消えた――
 その現実を子供たちが受け入れるのに、さほどの時間はかからなかった。
 そして、ルスターが考えたとおりに自分たちの立場を再認識した。
 ここは第二の家ではない。自分たちはここの子供ではない。ルスターやペルナーも親代わりですらない。いつかメッケナーのように自分たちは売られてゆくのだと理解した子供たちは、少しの間荒れた。
 しかし、ルスターがそのことについて小言も弁解も言うことなく、いつもと変わらぬ様子で過ごしていると、急に従順になった。
 食事の後で以前のように遊び騒ぐこともなく、学習の時間にもただ黙々と言われた課題をこなしてゆく子供たち。
 そのことで喜ぶペルナーに対し、ルスターは大きなため息をついた。
「ペルナー。私たちは彼らの信頼を失ったんだ。私たちは、彼らにとって仮面をかぶらなければならない相手だと判断されてしまったんだよ。それは果たして、喜ぶべきことだろうか……?」
 規律への服従とともに失われた活気。
 覚えるべきことを、以前の比ではない速度で覚えてゆく子供たち。
 それが喜ぶべきことなのかどうかルスターにも結論は出せないまま、冬が来て――年が明けた。

 ―――――――― * * * ――――――――

「今日は子供たちで西の森の探索に行っています。猟師のマドリーさんの案内でね。ペルナーも引率です」
 ルスターはハーブティをカップに注ぎ、前に座るエルデに勧めた。
 礼を言ってカップを取り上げ、口をつける未亡人。
 その間に自分のカップにもハーブティを注いだルスターは、それに口をつける前に彼女が持ってきてくれたクッキーを一枚、口に放り込んだ。
「……うん。いつもながら美味しい。このハーブティに実によく合います」
「お褒めにあずかり光栄ですわ、司祭様」
 年齢としてはルスターよりシュタインベルク司祭に近い未亡人は、はにかんでもう一度カップに口をつける。
「ところで、ルスター司祭様」
 カップをソーサーに戻し、エルデは少し居住まいを正した。
「ルージュちゃんから、聞いたのですけれど……最近、子供たちとうまく行ってないとか」
「……何を話しているんだ、ルージュは」
 苦笑しながら、ルスターはカップを置いた。
「あたくしで良ければ、相談に――」
「いやいや、相談役は司祭たる私の職務ですし」
「ルスターさん!」
 エルデは自分の膝を叩いて、ルスターの軽口をたしなめた。
 一つため息をついたルスターは、神妙な顔つきになって両手を組んだ。それに視線を落とす。
「……私は、彼らを商品として売らねばならない立場です。うまく行くわけがないんですよ、初めから」
「それでも、最初は……」
「彼らも、そして多分私も……現実を認識していなかったからですよ、それは。現実を理解した彼らから憎まれ、疎まれるのは仕方がない。私も所詮、汚く小ずるい大人――貴族側、体制側の人間だと判断されれば、こうなることは見えていた。私がそうだったから」
「司祭様……」
「それでも、私は彼らに知識と知恵と技を授けなければならない。それがいつか彼らの役に立つことを祈って、ね。そのために憎まれ、恨まれ、嫌われても、それはそれで仕方がない。そこを今、彼らに理解してもらう必要はありません。そんなものは私の自己満足を満たすことにはなっても、今の彼らのためには何の足しにもならない」
 言葉とは裏腹に、ルスターは再び大きくため息をついた。
「ルスターさん、あの……――」
 エルデが手を差し伸ばそうとした時、澄んだ音が響いてそのカップが割れた。手も触れていないのに。
「あら」
「おっと……お召し物は濡れていませんか?」
 エルデは黒いロングスカートの裾を少しつまみ上げ、左右に振って覗き込むような動きを見せた。
「……ええ、大丈夫みたいですわ」
 こぼれたハーブティは幸いソーサーの中だけで納まっていた。
「よかった。では、新しいカップをお持ちします。しばしお待ち――」
 ふと二人の視線が交錯する。
 声が聞こえた。窓の外から。ルスターを呼んでいる若者の声。
 訝しげに眉をひそめて窓際に立つと、どこかで見たことのある顔が立っていた。
「……どなたかしら?」
 ルスターの横から覗いたエルデが呟く。ルスターは首を傾げた。
 知っている顔だが、しばらく見ていない顔でもある。誰だったかは思い出せない。
 その服は酷く汚れていたが、地は赤らしい。赤といえば――
 服の胸に目を凝らすと、見覚えのあるワッペンが見えた。昇る陽だか、落ちる陽だかの紋章。
「バイド殿のお連れの若い衆のようですね」
「バイド?」
「ほら、ここ最近時々やってくる赤い騎士殿」
「ああ。あのおひげの騎士様。ルージュちゃんが良くお話してくれますわ。助けてくれたんですってね」
「ええ。……おかしいな。彼だけか? ちょっと行ってきます」
「はい、お気をつけて。あたくしはこちらでお待ちしていますわ」
「すみません」
 いそいそと出て行くルスターを、エルデは小さく手を振って送り出した。

 ―――――――― * * * ――――――――

 孤児院の玄関を出ると、若者はじろりと睨みつけてきた。年は17、8。一人では立っているのも辛いほど消耗しているのか、立ち木の一つに肘を預けるようにして、前屈みの姿勢。
「……君、怪我しているのか?」
 近くで見ると頬に酷いスリ傷がある。髪も縮れて乱れ放題で、まるで――火事場から逃げ出してきたかのようだ。その割に服の汚れは泥まみれで、今一つ受傷状況のつかみにくい姿をしている。
「俺の怪我などどうでもいい」
 青年の声はぶっきらぼうと言うより、憎しみさえこもっているかのようだった。
 走ってきたのか、それとも傷が痛むのか、息も荒い。
 じっくりと相手の顔を見て、ルスターはその正体に気づいた。 
「君は確か……バイド殿が連れていた……」
「マニング。ジョナサン=マニング。騎士見習いだ」
 ルスターはおお、と感嘆の声を上げて思わず手を打った。
「そうそう。最初に会った日に、私と孤児院の中へ入った二人のうちの一人だ。思い出した。そうだそうだ。いや、久しいね。で、今日はなぜ君がここに? バイド殿は?」
 握手をしようと一歩近づくと、マニングは一歩退がった。踏みしだかれた落ち葉がざわりと騒ぐ。
「……バイド様は先にユかれた」
 間合いをとるその動きに、ルスターは不穏なものを感じながらも話を続けた。
「先にって……本国へ帰られたのか? それはまた、急だな。どうして?」
「どうして?」
 オウム返しの声に混じる明らかな怒り。何かがおかしい。
「どうしてだと? ……貴様にはわかっているはずだ!」
 マニングが右腕を振るい、ルスターの顔に何かが叩きつけられた。頬に当たった感触は、水を吸った布切れの塊。
 足元に落ちた赤いそれを、ルスターは怪訝そうに顔をしかめながら拾い上げた。
 右手で拾い上げたそれを左手で広げようとして、ふとその動きが止まる。視線が左手指先に留まる――赤く染まっていた。
 赤い布ではなく、赤く濡れた布――否、血に濡れた布。
 右手に嵌めた手袋の指側の開口部から、内側にじっとり流れ込んでくる不気味な感触。
「なん……ですか、これは」
 さすがに笑顔を失ってマニングを見やると、騎士見習いは腰の剣に手を添えていた。放たれる殺気は、素人のルスターからしても本気とわかるほどに強く、濃い。
「何の真似です」
「広げてみろ。それに見覚えがないとは言わせんぞ」
「何を言って――」
 広げた瞬間、ルスターは声を失った。

 引き裂かれ、縁の焦げた血染めの布の真ん中に、ほつれかけた糸で縫い付けられたハート型のつぎあて。

 見間違いようもなく、それは自分自身で縫い付けたもの。
「……バイド様は、貴様を……なのに……なぜ…………いや、もはや聞くまい」
 声を失って立ち尽くすルスターに、マニングは低く唸りながら剣を引き抜いた。怒りに震えているのか、ぶるぶるとおちつかなげに揺れる剣を腰だめに構える。
「我はただバイド様の仇を……ここに討ち果たすのみ。死ね、ボラスディア」
「ちょ、私は――」
 止める間もあらばこそ、マニングは落ち葉を蹴立てて、体ごと突進するようにルスターへ襲い掛かってきた。

 ―――――――― * * * ――――――――

 血染めのつぎあて。
 それは確かに、メッケナーのシャツに自分が縫いつけてやったものだ。間違いない。
 だが、ではなぜこんな血まみれの端切れと化して、バイドの部下が持ってきたのか。
 ルスターは窓に面して置かれた司祭室の机に向かい、血に濡れたその布切れをただただじっと見つめ続けていた。
 窓の外で梢がざわめく。風が窓ガラスを叩く。――天気が翳ってゆく。
 嫌な想像に限りはない。いくつもの想像が頭をよぎっては消えてゆく。
「……う……」
 ルスターの背後、応接セットの向こうにあるベッドの上でマニングが呻いた。
 嫌な想像の数々を打ち払って振り返ると、青い瞳が辺りを漂っていた。
「大丈夫ですか?」
 ソファに座っていたエルデがすぐに駆け寄って、マニングの意識を確認する。
 ルスターに何度か剣を振るった後、突然マニングは意識を失って倒れた。
 そもそも身体の機能的にも体力的にも、もはや剣を振り回せる状態ではなかったのだ。戦いにはまるで素人のルスターですらその剣の切っ先を悠々と躱せたし、全身包帯まみれの今の姿も、その状態の酷さを如実に物語っている。顔など口元と目元以外は包帯で隠れてしまっている。
 全身に負った打ち身の痕。肋骨は幸いにも折れてはいなかったようだが、数本は確実にひびが入っている。服から露出した手や顔は擦過傷だらけで、服もよく見れば高熱による変色や装飾の変形がところどころに見受けられた。命に別状はないが、それらの傷を一度に受けたことを考えれば、彼が生と死を分ける境界線の淵を覗いてきたことは容易に想像できる。
 要するにマニングは運が良かったのだ。
 だが、現場からここまでたどり着いた彼に、戦う力は残っていなかった。いや、おそらくはここまでたどり着いたこと自体が、奇跡的なことなのだ。その上に剣を振り回したものだから、限界を超えたマニングは意識を失い、倒れてしまった。
 エルデに手伝ってもらって司祭室に運び込み、手当てはしたものの、問題は彼が目覚めてからだった。
「……う、う……ここは…………き、貴様っ…………ぐあ、かっ……は……」
 ルスターに焦点をあわせた途端、マニングは起き上がろうとして不自然に体を痙攣させた。
「いけません、無理をしてはお体に障ります」
 エルデが優しく肩を押さえ、横たわらせる。
 ルスターは血まみれのつぎあてを持ったまま、腰を上げた。
「……君の怪我は命に関わりかねないほど酷いものだ。どうやってそんな怪我を負ったのかはわからないが……少なくとも、二、三日は体を満足に動かすこともできないだろう。ゆっくり休んで行きたまえ」
「ふ、ざけ、るな……誰、が……ボラスディア、の…………バイド、様の……仇に……」
 再び起き上がろうと身悶えるマニングを、エルデが必死に抑える。
「私じゃない」
 ルスターは血に濡れた端切れをつかんだままの右拳を差し出した。
「……一体、何があったんだ。教えてくれ」
「く、くく……自分の策が図に当たったか……知りてえって、わけか……」
 違う、と叫びたいところをぐっと堪え、頭を下げる。
「……頼む」
 ギリギリと歯噛みをしたマニングは、ふとエルデを見て口元を笑みに歪めた。
「いいだろう、この女に……貴様の本性を、聞かせてやる……」

 ―――――――― * * * ――――――――

 ガルディン準爵の領地における探索からの帰途。
 ボラスディアに関わる者や爆殺犯人の発見・検挙こそ出来なかったものの、ガルディン準爵爆殺事件現場に残されていた様々な証拠品を改めて調べたバイドは、何らかの確信を得たらしく、上機嫌だった。
 シレキス北部地方で別働隊として動いている旭陽騎士団(グロリアス・ナイツ)を出し抜ける、などと珍しく軽口を叩いて笑う上司に、マニングはルースと顔を見合わせて肩をそびやかした。
 ガルディン領とジェラルディン領をつなぐ唯一の街道を北上し、ジェラルディン子爵領内に入った頃のこと。
 不意にバイドが馬を停めた。続いていた取り巻きも皆、歩みを止める。
 見れば、子供が一人立っていた。
 胸にハート型のつぎあての入った薄汚れたシャツに、裾の擦り切れたズボン。昨夜の雨でぬかるんだ道の真ん中で、泥まみれの裸足のまま。背中に古びたザックを背負い、放心したような顔で、ただぼんやりとその場に立ち尽くしているように見えた。
 それが誰なのか、最初に気づいたのはバイドだった。
「……メッケナー?」
 怪訝そうにそう訊いても、子供は応えない。視界の焦点のありかもわからぬ顔つきで、ただバイドを見ていた。
 バイドは馬を降り、メッケナーに近づいていった。あの強面(こわもて)を、出来る限り最大限柔らかく崩そうと努力しながら。
「うむ、やはりルスターのところにいたメッケナーではないか。そのつぎあて、その顔、覚えがあるぞ? うはは、久しいな」
 笑いながらしゃがみこみ、その服をはたいて汚れを落とし、頭を撫でてやる。
「おお、そういえば確か、2、3ヶ月前に売られたと聞いていたが……こんなところで何を――」
「――ニクラス=リデルク=バイド。マンタールの赤犬め。神の裁きを受け、真(まこと)の赤に染まるがいい」
 6歳の子供の声で、しかし子供の声とも思えぬ内容にバイドがきょとんとした刹那――


 ―――――――― * * * ――――――――

「……爆発した」
 ルスターとエルデは眉をしかめて、顔を見合わせた。
「なんですって?」
 聞き返したルスターに、マニングはじろりと瞳を向け、叫んだ。
「爆発したんだよ! ガルディン準爵を爆殺したやり口と全く同じだ!」
 言葉の意味を理解したエルデは青ざめ、悲鳴を押さえ込むように口元を両手で押さえた。
 ルスターは――完全に硬直していた。
 マニングはルスターを睨めつけながら、続けた。
「その時は何がどうなったのかわからなかった。気づいたら俺は馬から投げ出され、泥の中で呻いていた。起き上がってみたら、辺り一面文字通り消し飛んで、白煙まみれだった。火薬の匂いで鼻の奥が痺れそうだった。一行は全滅……俺だけが命を取り留めていた」
「メッケナーは……バイドはどうなった!」
「聞かずともわかるだろう……爆発の中心はガキで、バイド様はそのガキのすぐ傍にいたんだぞ!!」
「……………………っ!」
 限りない怨嗟のこもったその言葉に、ルスターは継ぐ言葉を見失う。
 もう聞きたくないとばかりに目を閉じ、首を左右に振っているエルデは元より、マニングも死者を悼むがごとくに目を閉じた。
 しばらくの沈黙の後、口を開いたのはマニングだった。
「……俺が起き上がったとき……バイド様は、まだかろうじて意識を残しておられた。鎧を着ていたおかげかもしれん。だが、もう手がつけられないことは俺が見ても明らかだった。バイド様はその手につかんでいた布切れを俺に渡し……貴様に届けろと言い残して……逝かれたのだ」
「これ、か……」
 ルスターは手の中の布切れに目を落とした。力を込めて握り締める。ここにメッケナーとバイド、二人の命がある。
「俺は……貴様を許さない。……絶対に……」
「いけません。起きては」
 再び身を起こそうとするマニングを、涙目のエルデが押しとどめる。
 ルスターは立ち尽くしていた。これはなんだ、と胸の内で自問自答を繰り返す。
 この状況は何だ。今俺は何をしているのだ。今俺の周りで何が起きているのだ。俺はどうすべきなのだ。
 今、俺のこの胸の内でとぐろを巻いてうずくまる黒い感情を吐き出してしまいたい。だが、誰に向けて。
 考え込むルスターに、マニングは苛立たしげに吠えた。
「何だその面は! 白々しいぞ、ボラスディア! ガルディン準爵をやったのも貴様だったんだろうが! ……バイド様がその核心に近づかれたのを知った貴様は、あのガキに火薬を背負わせ、どうにかして爆発させ、一切の証拠を隠滅――」
 ぱちん、とこめかみの辺りで何かが弾けるような音を、ルスターは聞いた。頭の中にかかっていた血色(ちいろ)の霧が、急速に晴れてゆく。
「マニング!」
 不意に勢いよく顔を上げたルスターは、マニングとエルデの二人が息を呑むほどの気迫を発していた。
「さっき、なんと言った? ……メッケナーは、爆殺される前になんと言った?」
「そんなことを聞いてどうする!?」
「いいから言えっ!」
 ルスターからすれば年下のマニングは、その一喝に面食らった顔をしたものの、すぐに表情を歪めてメッケナーの言葉を告げた。
「『――ニクラス=リデルク=バイド。マンタールの赤犬め。神の裁きを受け、真(まこと)の赤に染まるがいい』……そう言った」
「それだけか。貴様を爆殺するとか、この背中のザックには火薬が詰まっていて云々とか、そんなことは言わなかったんだな? メッケナー自身が火種を点火するようなこともなかったんだな?」
「ない。……そんなことは一言も言ってないし、怪しい動きをしていればバイド様が止めたはずだ」
「……邪神の『呪い』か」
「何の話だ!」
 苛々が収まらないマニングに、ルスターは鋭い視線を飛ばした。
「メッケナーが自分からそんなことをするはずもない」
「お前が命じたんだろうが!」
「例えそうだとしてもだ。あの子は大人に命じられたからといって、そんな難しい言葉を覚えられる子ではないし、ぬかるみの道に裸足のまま、いつ来るかわからぬ騎士の一行を待っていられるほど大人しくも従順でもない。……だが、私はそれを可能にする方法を一つだけ知っている。それが、邪神の『呪い』だ」
「呪いのせいにして、自分ではないと言い張るつもりか!」
 あくまでルスターを犯人だと思っているマニングは、鼻を鳴らした。エルデの眼差しにも疑惑の色が浮かび始めている。
 ルスターはため息を一つついた。
「いいか。神に仕える司祭には、その信仰心の深さに応じて、いわゆる魔法使いじみた神の奇跡を行う能力が与えられる。樹帝シュレイドならば『樹帝の恵み』と呼ばれる数々の奇跡だ。それに対して、邪神と呼ばれるものに仕える司祭が使うそうした奇跡を、通常『呪い』と称する。……そして、邪神の徒がよく使う『呪い』に、他者を操るというものがある」
 マニングもエルデも怪訝そうな表情でルスターの言葉に聞き入っている。
「おそらく今回のケースでは、メッケナーにその『呪い』をかけたんだ。ガルディン領に続く街道で、与えられたザックを背負って赤い鎧の騎士を待ち、定められた口上を告げるように、と。後はどこかその辺に隠れていた邪神の司祭が、その邪神特有の力でザックに満載された火薬の内部に衝撃を与え、爆発させた。……ガルディン準爵爆殺や、ジェラルディン子爵の食料庫襲撃事件もこれと同じだ」
 ルスターは解説しつつ、嫌な予感が胸の内で膨らむのを抑え切れなかった。
 それほど大量の火薬を集めるのは、並大抵のことではない。まして、どこかから購入してきたとなれば簡単に足がついてしまう。これまで何の足取りもつかませなかったボラスディアが、そんなへまをするとは思えない。
 つまり、足のつかない火薬の大量確保ルートが、この田舎領地に確立されているのだ。だが、それこそおかしな話だ。こんな経済活動もさほど活発ではない田舎になど、ありえない。何かがおかしい。
「何を白々しい……全て貴様が仕組んだことだろう!」
 喚くマニングに、ルスターは鼻を鳴らして笑った。
「残念ながら私にはできない。理由がある」
「嘘をつくなっ!」
「嘘じゃない」
 ルスターは自分の右手に視線を落とした。革の指出し手袋に包まれ、今や真っ赤に染まったその手を。
「……私にその力があるのなら、とっくに君の傷の大半を『樹帝の恵み』で癒しているよ」
「なに……?」
 怪訝そうに眉をひそめるマニング。
 その隣でエルデも何かを思い出したように、息を呑んだ。
「そういえば……村でミルエノが大怪我したときも、普通の処置だけで……」
「申し訳ありませんね、エルデさん」
 ルスターは口元に自嘲の笑みを浮かべながら、右手の皮手袋を剥いだ。中に染み込んでいた血が、ぬらつく膜となって右手の全てを薄赤く染めた。
「これが、私がそれをできない理由だ」
 手袋を床に投げ捨て――血染めの右手の甲をマニングに向けて掲げた。


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