蒼きバンダナのアレス First Episode
〜Engage Destiny〜【LUSTER/ROUGE】

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破門の印

「……先生?」
 ルスターの去った方を心配そうに見送っているナテリアに、メーリアは恐る恐る声をかけた。
「――ナテリア先生の口を借りるまでもない。有名な話さ」
 代わりに口を開いたのは、ヒューイットだった。
「標準で8年かかる課程を5年で突破し、ハイデロア樹帝教学院始まって以来の天才平民と呼ばれた男が、なぜ10年間も卒業できないか。色々な憶測は飛んでいるがね。実際のところは、帰る場所がないからさ」
「帰る場所がない? どういうこと? だって、あたしたちは――」
「そう。誰であれ、貴族の推薦なくこの学院に入学はできないわ」
 ナテリアはそう言いながら、ルスターの席に腰を下ろした。ルスターが残していったティーカップを、両手で包むようにして持つ。
「彼も同様に、15年前……私がこの学院へ赴任する以前に入学した。普通8年かかる課程をわずか5年で修了した彼が卒業する半年前……彼を推薦した後援貴族が亡くなったの」
「そして、その長子が家を継いだ。ま、ここまでは話題にするほどのこともない普通の話だ」
 ヒューイットは険しい顔つきで、天井を見上げていた。
「しかし、その長子ってのがまた、生前の父君とは仲が悪くてな。父君の推薦で各地の学校に派遣されていた生徒の全てを絶縁し、新しく自分の推薦する平民を送り込み直したのさ。宙ぶらりんになった生徒たちがどうなったのかは知らないが、その一人がルスター殿だ」
「でも、それなら学校を辞めて故郷に戻れば」
「彼は売られた子なの」
 ナテリアはカップの水面を見つめながら、呟くように言った。
「生家から口減らしに売られた彼が帰る場所はもうないわ。ここで待つしかないの。卒業できる日を。卒業さえ出来れば、それなりの役職に就くことも、司祭になることも出来る。目の前にその扉が見えているの……この10年間、その扉が彼のために開かれることはなかったけれど……いつか開くかもしれない、そんな希望にすがって彼はここに居続けているの……」
「貴族でないルスター殿には、高額の卒業謝恩金を支払うことも出来んからな。この10年間、どうやって学費と生活費を工面してきたのかも謎といえば謎だが。相当な額のはずだぞ」
「ねえ、卒業謝恩金って……なに?」
 メーリアの問いに、ヒューイットは一瞬顔をしかめた。
「なにって……ああ、そうか。平民の出ならば知る由もないか。要は卒業にあたっての寄付金だ。平民なら後援貴族が、貴族子弟はその親族が支払う。支払われなければ、卒業は出来ない。生徒と保護者、双方の努力があってこそ、最高学府の卒業という栄誉に浴することが許されるのだ。……もっとも、今では成績の悪い貴族の子弟を裏口卒業させるための制度と化してはいるがね」
「でも、彼の卒業謝恩金ぐらいなら、私をはじめ、彼とお付き合いのあった貴族の子女が協力すればすぐに集められるわ。彼の意思がどうであれ、ね。けれど、行き先がないからいくら詰まれても学院は卒業を許可しないと思う」
「どうして?」
 メーリアの問いに、ヒューイットは両肩をそびやかした。
「一つには、学院の面子だな。平民が貴族の後ろ盾もなく、最高学府を自力で卒業したなんてのは前代未聞。裏口卒業も横行する現在、貴族としては面子にかけて許しがたい、と考えても無理はない。もう一つはルスター殿が完全に制度の外に出てしまったということ」
「制度の外?」
「貴族の子弟は、卒業すれば親の待つ領地へ戻る。貴族の推薦を受けた平民もまた後援貴族の領地へ戻り、そこで要職に就く。司祭になるとしても結局は同じだ。後援貴族の領地に存在する樹帝教の教会に属することになる。だが、後援貴族がいないルスター殿にはどの道もない。かといって、学院側が世話をする話でもない。だから、宙ぶらりん。……学院としては学費を納め続けるルスター殿を積極的に放逐するだけの理由もないしな。逆に自主退学を申し出ても、おそらく止めはすまいよ」
「そんな……」
「だとすると、なんでバルロル先生は急に退学なんか言い出したんだ?」
 急所を一撃するかのようなウルムの一言に、ヒューイットとナテリアは思わず顔を見合わせた。
「そうよね。おかしいわね」
「急に退学にしなければならない理由が発生した、ということか。しかもナテリア先生が知らず、バルロル先生だけが知る理由……なんだ?」
「……詳しい話は全然わからないけど、一つだけはっきりしてることがあるわ。間違いない」
 メーリアは疲れたような面持ちで、吐き捨てるように言った。
 ナテリア、ヒューイット、ウルムが興味深げにその横顔に見入る。
「どーせ、女がらみよ。絶対」
 その一言に、全員が深く、何度も頷いた。

 ―――――――― * * * ――――――――

 本館より少し離れた場所に立つ、教職員専用舎。
 その二階、奥まった部屋にバルロル教授の専用書斎はあった。
 重厚な作りの扉を拳で二回叩き、応答の声を聞いて中に踏み込む。
 講義室と見まがう、広い書斎だった。左右両壁が天井までの本棚で埋まり、その周囲にも入りきらない本の積み重ねられた部屋。正面に大きな窓を背にして書斎机。その上も周辺もまた書籍で埋まっている。
 左手の壁に設けられた暖炉は、サイズ的にかなり大きいはずだが、まるで本棚の隙間に押し込められているように見える。そこでやたら激しく燃え盛っている炎は、さしずめ抗議の声を上げる火の精か。
 部屋の主はその暖炉の前で屈み込み、何かの書類の束をその中に放り込んでいた。
 暖炉の炎の照り返しが部屋の主の頭で弾かれ、眩しい。
「……フェルナンデス=ルスターです。お召しにより参上いたしました、バルロル先――教授」
 神妙に告げて、言葉を待つ。
 バルロル教授が立ち上がり、振り向いた。
 無毛の頭、鋭い切れ長の眼、左目にかけたモノクル(一眼レンズ眼鏡)、がっしりした分厚い顎、恰幅のよい体。
 じろりとルスターを睨んだ教授は、そのまま一度、頷いた。
 その途端、ルスターの両肩に背後から手が置かれた。そのまま、抗う間もなく前のめりに押し倒され、尻を上げたまま顎をふかふかのじゅうたんにうずめる、屈辱的な姿勢を取らされた。
 腕もいつの間にかとらえられていた。背中にひねり上げられた左腕が軋み、顔の前に差し出さされた右腕にはごつい手が絡みついている――いや、つかんでいる。少し抗おうとしたものの、びくともしない。
 自分を押さえているのは少なくとも二人。だが、気配など感じなかった。一体何者か。
「き、……教授?」
 何事が起きたのか、混乱する頭を必死で整理しつつ、相手をこれ以上怒らせない程度の声と口調を計算して問いかける。
 だが、返事はなかった。
 理由を質そうとバルロル教授を見やる。だが、教授はこちらを向いていなかった。部屋に入ってきたときと同じく、暖炉に書類を放り込み――火掻き棒をつかんだ。
 暖炉にて燃え盛る業火の中から引きずり出されたそれの先端は、赤く光っている。
 いや。
 ルスターの神経が警告を発する。
 違う。あの真っ赤に焼けた棒の先は、燃え盛る薪や炭を掻き混ぜるためのものではなく――
 押さえつけられた腕を振り払うことは出来なかった。身じろぎすら許されなかった。
 バルロル教授の目にも表情にも、そして行動にも、躊躇や迷いはなかった。恐怖を煽るために先端を見せ付けることすらせず、まるでそこにいる害虫を突き殺すかのようにただ無言で、遅滞なく、ルスターの右手甲にそれを押しつけた。
 たちまち肉の焦げ焼ける音が湧きあがる。
「ぅわああああああああああああああああああああああああああああっっっっ!!!!!!」
 痛みなどない。痛みは後から押し寄せるものだ。
 ただ、自分が何をされているのかを理解し、その受け入れがたき現実を否定しようとして発される雄叫び。
 肉が焼け、焦げる胸がむかつくような音と臭いさえ、どこか現実離れして感じられる。
 焼けた鉄の塊は、すぐに引き上げられた。焦げついた手の甲の皮膚らしきものがべりべりと破れ、引き剥がされた。
 そして、痛みが襲ってきた。

 ―――――――― * * * ――――――――
 
 ルスターの食いしばった歯の隙間から、抑え切れない呻きが漏れる。脂汗が全身に浮き、こめかみから頬を伝い、じゅうたんへと滴り落ちる。
 烙印が終わってもなお、彼は押さえつけられたままだった。
 右手の甲に黒々とついた烙印は複雑な紋様だった。円を二本の直線で三分割し、上と下の部分に上下逆様になった樹帝の名が、真ん中の部分に『逆らいし者』という古語が走っている。周囲は蔓草模様で囲まれていた。
 焼きごてを暖炉の中に投げ戻すと、バルロル教授はルスターの前で腰を屈めた。ごつい指先をつけたばかりの烙印にかざす。
「……≪樹帝の恵みを。とこしえにその姿をとどめる大樹の恵みよ≫」
 何かの力が収束するような音がして、右手に一瞬新たな痺れが走った。何かと思ったものの、特に何か変わったわけではなかった。
「この印が何か、わかるか」
 重々しい声が、ルスターに問いかける。
「何……ですか……?」
 ルスターは手の甲で炸裂する痛みを噛み潰しながら、聞き返した。
「破門印だ」
「は……もん……?」
 声を出すのも辛い。すぐにでも処置をしなければ。
「そうだ。今日を以って、貴様を樹帝教から破門する」
 立ち上がったバルロル教授が手を一振りする。途端に体にかかっていた圧力が消え、腕が自由になった。
 左手で右手の手首をつかみ、そうすれば痛みが薄まるかのように力いっぱい締め上げながら、背後を見やる。
 誰もいなかった。
 一体なんなのか。
 いや、今はそれどころではない。
 烙印に左手をかざし、小さく呟く。
「――≪樹帝の恵みよ、若芽の息吹の力よ≫」
 しかし、何も起こらなかった。破損した患部をたちどころに治癒する力どころか、呪文の発動を証する光さえ。当然ながら烙印の痕に変化はなく、そこで炸裂する熱痛も薄まりはしない。
「無駄だ。今、その烙印に『恒常の呪(こうじょうのじゅ)』をかけた。いかな方策・呪法を以ってしようと、治すことも消すことも出来んぞ。そして、その烙印がある限り、貴様は樹帝に叛きし叛逆者としてあらゆる恵みを受けられぬのだ」
 破門、と聞いた時点で走った嫌な予感が現実になっていることを、ルスターは理解した。
 要するに、樹帝に基づく治癒の力をはじめ、司祭が使うあらゆる特権が剥奪されたということだ。
 ルスターが顔を上げると、バルロル教授は席に戻ったところだった。総革張りの椅子が、ぎしりと軋みを立てる。
「バ……バルロル教授……冗談きついですよ……。卒業させてもらえないばかりか、問答無用で破門とは一体どういうことなんです?」
 顔中油汗まみれで痛みをこらえながら、おもねるように愛想笑いを浮かべてみる。
 鋭い目をぎょろりと剥いた教授は、鼻を鳴らした。
「どうもこうもない。ハイデロア樹帝教学院は、貴族社会及び樹帝教組織に貢献する優秀な人材を育て、送り出すための組織である。貴様のような豚を飼いならす家畜小屋ではない。家畜ならば家畜らしく、焼印を打っておくべきであろうが。特に分もわきまえず貴族の手を噛むような、礼儀知らずで恩知らずな豚にはな」
「豚、ですか……」
 苦痛のあまり、表情のコントロールが難しい。苦笑したつもりだったが、犬が歯を剥いて唸るように見えたのではないだろうか。
「ああ、そうだ」
 バルロル教授は片眼を細め、さも軽蔑した顔つきで嘲笑した。
「与えられた物は汚物だろうとクズだろうと全て喰らい尽くさねば気の済まぬ、貪欲な豚だろうが、貴様は。さすがに生まれが卑しいだけはある。おそらく貴様の母親はよほどの淫売、父親は女漁りの行きずりで貴様を孕ませた浮浪者なのだろうな」
 ルスターは一瞬奥歯を噛み締め、頬にさざめきを走らせたが、すぐににへらと表情を崩した。
「いやぁ、うちの親父は農家の小作人です。真面目だけがとりえでして。お袋は裁縫の上手い――」
「黙れ、豚。豚の家族なぞ話を聞くまでもなく豚だ」
 とりつく島もない。ルスターは、怒りを飲み込むように何度も頷いた。貴族至上主義のシレニアスのど真ん中に15年いるのだ。こんな扱いは慣れている。
「……はい。申し訳ありません、教授」
「寄宿舎は今日中に出てゆけ。貴様がここにいたという痕跡も、全て消し去る。それが、貴様のしでかしたことへの処罰だ。死罪にならぬだけありがたく思え」
 ルスターはちらりと暖炉に目を走らせた。おそらく、最初に教授が暖炉に放り込んでいた書類は、ルスターの……。
「死罪……ですか。あの、処罰の理由だけでも教えていただけませんか?」
 すうっとバルロル教授の表情が消えた。
「平民の分際で、貴族の決定に納得できんと言いたいのか?」
「とんでもありません」
 ルスターはその場に両膝をつき、額をじゅうたんに押しつけた。
「ただの好奇心です。それだけがとりえなもので」
 頭は上げない。毛足の長いじゅうたんに顔をうずめたまま、じっとその姿勢を続ける。
 やがて、バルロル教授は嘲笑に鼻を鳴らして、革張りの椅子に腰を落とした。
「――平民の分際で貴族の子女に手を出した報いだ。平民とさほど変わらぬ地方の田舎貴族ならばともかく、中央とのつながりも深い貴族の子女に手を出すとはな」
 ルスターは姿勢を変えないまま、顔をしかめた。中央とのつながりが深い貴族の子女? ユノーのことだろうか。しかし、彼女には手を出していない。それぐらいの分別はある。そもそも彼女はルスターの女好きを毛嫌いしている。グループにいるのはメーリアを姉のように慕っているからだ。
「しかし、驚いたぞ。貴様、いつのまに職員にまで手を回しておったのだ?」
 物思いから我に帰ると、教授は忌々しげに鼻を鳴らした。
「今朝の会議で貴様の退学を提案した際、かなり多くの職員が反対をした。男も女もおったな。女好きとは聞いていたが、男にも手を出していたか?」
「それは……存じ上げません。私の境遇に、ささやかなりとも貴族様方の高貴なる配慮を以って、御同情を寄せていただいたということではないかと……あの、それよりも」
「なんだ」
「わたくしを告発されたのは、いずこの貴族様なのでしょうか。確かにわたくし、様々な女性と浮名を流しておりますが、最低限その点には気をつけておったつもりなのですが……」
「豚の分際で、食う餌を選んでおったというのか。はっ、貴族社会もずいぶん舐められたものだ」
 もう一度貴様の額に焼印を押してやろうか、とバルロル教授は苦々しげに吐き捨てた。
「貴様を告発したのは――このわしだ」
「――は?」
 ルスターは思わず顔を上げていた。そんなはずはない。バルロル教授はこの学校では最警戒人物のトップだ。その家族とは決して接触のないようにしてきた。事実、昨日だって――……あ。
 何かが腑に落ちた。
「貴様、よくもわしの娘レヌールをキズモノにしてくれおったな」
「ええっ!?」
 そんなバカな、という叫びとやっぱり、という叫びが脳裏で交錯する。
 レヌール。レヌール=バルロル。バルロル教授の次女で、年は確か15歳。
 確かに昨日、彼女と会った。何をどうして自分などに興味を持ったのか、言い寄ってきたので適当にあしらったはずだ。父親の名誉を汚すことになるので、関わるなと言い含めて。
 それがなんでキズモノになったという話に。
「男爵位なりとはいえ、バルロル家はシレニアスの中央に位置するハイデロアに領と屋敷を構え、樹帝教では第7位階の司祭位を賜り、ハイデロア樹帝教学院にては幾何学の教職を奉ずるこのわしを、貴様は侮ったのだ!」
「ちょ――先生、それは誤解です!」
「やかましいっ!!」
 机の上にあった本が一つ、投げつけられた。咄嗟に顔を背けて左頬で受けたルスターは、そのまま再び顔をじゅうたんにうずめた。
「お聞きください! 確かに私は昨日、お嬢様にせがまれて一緒に食事をし、校外の商店街を歩き、夕焼けを見ましたが、それだけです。樹帝に誓っていかがわしいことなど一切しておりません。むしろ、お父上であるバルロル教授の名誉のためにも、私には近づいてはいけないと警告を――」
「豚がべらべらしゃべるなっ! 黙れと言っているっ!」
 重々しい響きに書斎机が震えた。ちらりと目線だけを上げてみると、教授は手に取った分厚い装丁の本を縦にして、机の天板に叩きつけていた。あれをまともに食らえば、さすがに脳震盪を起こしかねない。受けるか。躱すか。
「貴様ら卑しき生まれの平民が貴族に対し、言うべきことなど三つで十分だ! 『わかりました』、『申し訳ありません』、そして『いかようにも御処罰ください』だ。それ以外の口など利く必要はないっ! どうしても声を出したければ、豚らしくぶぅぶぅ鳴いておれっ!」
「……『申し訳ありません』」
 じゅうたんに吸い込まれて消えそうな小さな声に、バルロルはモノクルの奥の眼をぎょろりと動かした。
 投げつけられた分厚い本が、ルスターの背を打った。思わず呻くほどの痛みと衝撃。だが、顔は上げずに伏せ続ける。
「よいか。貴様が我が愛娘レヌールといかがわしいことをしたかどうかなど、この際どうでもよいのだ、この浅はか者め!」
 では、教授は何を怒っているのだろうか。
「貴様ごとき薄汚い平民風情の、しかも恥ずべき女狂いの種馬色魔が娘と歩いていたというだけで、噂に尾ひれがつき、あの子の価値を失わせるのだ!」
「レヌールお嬢様の価値、でございますか?」
「わからぬか。貞淑こそ貴族の妻が持つべき第一の誉れ。乙女であるということは、貴族の婚姻の時に重要視されるのだ。事実としての処女などどうでもよい。乙女ではないのやもしれぬと疑われるだけでも問題なのだ! まして今は長女のエトナが半年後に婿養子を取り、結婚しようかという大事な時期。さらにはレヌールの下にはまだ幼いシェスタもいる! 我が家の娘がふしだらであるという噂が、どれほど致命的なものであるか、わかるか!? 貴様は我が誇り高きバルロル家の名と娘たちに傷をつけたのだっ!!」
 ルスターはおのれの迂闊を悟った。
 言いがかりも甚だしいが、理解は出来る。
 普通ならば、恥ずべき女狂いの種馬色魔に興味を持って、あろうことか無謀にも接近までするような行動を取る娘に問題があるのであって、結局はバルロル教授の娘への教育がなっていなかったという結論に達するわけだが、そういう結論に至らないのが貴族社会というものだ。
 貴族にとって男子は跡継ぎ、女子は政略の具。より高い地位の者と血を結び、権力を得るための道具。無論、人の親として我が子を愛する者も多いが、その愛し方すら平民のそれとは大きくかけ離れている。
 バルロル教授は男爵位を持つ。上位の貴族と姻戚関係を結べば、政治の場でより大きな発言権を持つことが出来る。そのために、婚姻をつつがなく迎えられるということは非常に大事な前提条件なのだ。
 そこまで見通せず、レヌールをひとまず納得させるために、デートの真似事につきあってやったのがまずかった。
 これは、予想できた反応だということだ。
 となれば、反論の余地はない。
 一度頭を上げたルスターは居住まいを正し、膝を揃え直して、再び顔をじゅうたんにうずめた。
「教授の仰るとおり、私が浅はかでございました。宗門破門・学院追放の処罰のみにてお許しいただけるその慈悲深き寛大なお心に、深く感謝いたします」
 しかし、バルロル教授は嘲笑めいた鼻笑いで応えた。
「は、愚か者め。誰がそれで許すと言った。貴様など、本来なら八つ裂きにしても飽き足らぬわ。だが、それでは意味がない。貴様がレヌールに手を出し、あの娘の純潔が奪われたという下劣な妄想に余計な真実味を与え、愚昧なる者どもに口撃の隙を与えるだけではないか」
 なるほど、とルスターは顔を上げずに心の中で頷いた。
 バルロル教授は『バカ娘の愚かな行動に対して怒り心頭に発し、平民風情に権力の限りを尽くして報復的処置を下した父親』という不名誉を恐れているらしい。貴族の世界では、獅子は兎を取るのに全力を尽くしてはいけないのだ。
 とりあえず、殺されることはなさそうだ。……もっと酷い目に遭いそうな予感はひしひしするが。
「昨日、貴様はわしに呼ばれたのだ」
「……はい。――は?」
 思わず応えたものの、不意に明後日の方向に向いた話題に、つい疑問の声が出た。
「レヌールは多忙なわしに頼まれて、風紀を乱す元凶になっておる貴様を呼びに行った。だが、貴様が渋るので、その説得に時間がかかったのだ。あまつさえレヌールの言づてを無視した貴様は、今日改めて呼び出され、怒り心頭に発しているわしによって破門印の烙印を受けたのだ」
 ルスターはすぐに理解した。そういうことにしておけ、ということなのだろうが……。あの怒りようで、ここが落としどころとはとても思えない。それに『バルロル教授の娘に手を出したから破門・退学』という疑惑を晴らすほどの手でもない。昨日の件を公にはなかったことにするためには、もう一手打たねばならないはず。それが、本命の処罰のはず。
「さて、これで貴様が裁かれた理由はわかっただろう」
「は。本当に申し訳ございませんでした」
「ところで」
 そのとき、ルスターの背筋を悪寒が駆けのぼった。
 バルロル教授の口調が変わっていた。怒りを微塵も感じさせぬ、冷たい事務的な口調。底の知れないたくらみを含んでいることが容易に想像できる声だった。
「――貴様の卒業後の志望は、司祭であったな」
「は、はい」
「だが、故郷に帰れぬ今となっては、見習い司祭として派遣されるべき先はない。それも判っておろう」
「仰せの通りでございます」
「それでも、司祭になりたいか?」
「……………………はい。もちろんでございます」
 右手の烙印で痛みがずくずく脈打っている。
 なんだろう、この会話は。この破門印を押された時点で司祭の道は閉ざされたはずだが。
「貴族としての立場はともかく、教師としては貴様の能力をわしは高く評価しておる」
「ありがたいお言葉にございます」
 今さらそんな台詞を受けても、ありがたくもなんともない。それならとっとと卒業させていてくれれば。
「そこで、貴様にはわしが独断で特別卒業試験を課すことにした」
「は? 特別――」
 顔を上げると、バルロル教授は案の定、邪悪とさえいえるほどの笑みを頬に張りつかせていた。
 思わず続く言葉を忘れて、息を呑む。何をたくらんでいるのか、この教授は。
「フェルナンデス=ルスター。貴様は頭が良い」
「は? あ、はい」
「この15年で自由取得科目を含めて、ほぼ全科目を制覇し、その成績も優秀、人あたりも良く、機知に富み、機転が利く。口も堅い。さもなくば、あれほど多くの貴族子女が、貴様に心を寄せはせぬ」
「はぁ……。お褒めに預かり、光栄です」
「なればこそ、貴様にだけは明かしておこう。……『樹帝の年輪』を知っておるか」
 ルスターはじっとバルロル教授を見据えた。知っているといえば知っている。だが、それは……。
「埒もない噂で聞いた程度には。樹帝教の暗部組織だとかなんだとか」
「わしはその組織に属しておる」
「はぁ。……はあ!?」
 驚くルスターに、してやったりの笑みを浮かべるバルロル。
「無論、この世でそれを知っている者はわずかだ。娘、妻、わが親族一党はもちろん、樹帝教においてわしより上の位階司祭である者ですら、知らぬ者の方が多い。このことを今、貴様に話す理由はわかるな?」
「……先生の裏の仕事を手伝え、ということですね」
 拒否権はない。この話を聞いてしまった時点で。
 これまで聞いた『樹帝の年輪』に関する噂が真実ならば、もし断れば、バルロル教授はあらゆる手段を講じてルスターを始末にかかるだろう。それは、樹帝教とシレニアスが真の意味で敵に回ることを意味する――つまり、世界が敵に回るようなものだ。おそらく、今日校門から出ることすら許されまい。
 そうか、とルスターはようやく得心した。さっき烙印を押すために自分を押さえつけた何者か。あれは多分、特別な訓練を受けた『樹帝の年輪』の構成員か何かなのだろう。そして、今もこの部屋のどこかに潜んでいる。
 となると、バルロル教授はただの構成員ではない。『樹帝の年輪』の中でも、人を使い、構成員を周囲に侍(はべ)らせられるだけの権限を最低限保持出来る地位にあると考えるべきだ。
 逆らうだけ無駄な話だ。ルスターは観念した。
 ここで言うとおりにしておかなければ、バルロル教授は次の手を打つだろう。ルスターに近い者たち――メーリア、ウルム、ヒューイットなどの命を盾に取ってくるに違いない。彼らまで巻き込むわけにはいかない。
 ここは、その手を打たせないことを最優先にするしかない。脅しは、脅しとして口から出てこなければ、脅しにはならない。
 考えている間に、バルロル教授は話を先に進めていた。
「ボラスディアを知っておるか」
「ボラス……? いえ、寡聞にして存じません」
「アスラルより遙か南、大陸の南沿岸部に広がる大帝国がある。その東の辺境を発祥の地とする邪教集団だ。破壊の神ボラスドーとやらを信仰しておる。近年、そやつらがアスラル西部……マンタール公国の南部、シレキス地方を中心に根を広げておる。その駆除を貴様がするのだ」
「駆除、ですか」
 貴族らしい言い方だ。人を害虫か何かのように言い捨てる。
「やり方は貴様に全て任せる。連絡の必要もないし、こちらから連絡をすることもない。ただ貴様は奴らの中に潜り込み、内側から崩壊せしめればよい。……貴様のような野良犬もどきの平民風情にこそ、似合いの仕事だろう」
「は」
 つまり、何かの手違いで検挙されたり死んだりしても、一切関知しないということだ。ならば、おそらく見張りのようなものもついてはくれないのだろう。
 バルロル教授は両肘を机の上につき、顔の前で両手を組んだ。
「首尾よく連中を根絶やしに出来れば、これまで貴様が起こしてきた風紀紊乱(ふうきびんらん)のふるまいは全て不問に付してやろう。その破門印を消して学院に復帰させてやる。そして、そのまま卒業させ、望むなら我が領地にて司祭に取り立ててやろう」
「それが、特別卒業」
「そういうことだ」
「……私のような罪深き者に、そのような機会をいただけるとは。感謝の極みであります」
 ルスターは再び顔をじゅうたんにうずめた。
 判っている。バルロル教授の言葉など、信じるに値しない。首尾よくそれをこなせたところで、またぞろ次の邪教集団に潜り込まされるだけだ。貴族にとっての平民など、約束を守るに値する相手ではないのだから。
 そして平民は、そうとわかっていても受け入れなければならないのだ。
「バルロル男爵様のご期待にそえるようこの身命を賭し、邪教集団を根絶やしにしてご覧に入れます」
「期待しておる」
 愉快げな笑みを浮かべたバルロル教授にもう一度深々と頭を下げ、ルスターは部屋から退出した。

 ―――――――― * * * ――――――――

 ルスターの姿が消えた後、バルロル教授は机の上に山と積まれた課題の採点に取りかかった。羽ペンの先をインクに漬し、生徒のミスを容赦なく訂正してゆく。
 ふと、そのペン先が止まった。
「――なにか」
 誰もいないはずの室内に、バルロル教授の重々しい声が響く。
『……見張りもつけずに、本当によろしいので?』
「かまわん。多少知恵が回るといっても、所詮は平民。放逐したとて、何ほどの危険がある? あやつの言を信じる貴族などおらぬ。……ふふん。知恵だけでは越えられぬものがこの世にはある。シレニアスの権威はその一つだ」」
 言いながら、採点を再開する。室内の目に届く場所に人影はない。
「どうせこの件では旭陽騎士団(グロリアス・ナイツ)が動いておる。奴らが摘発に本腰を入れる前に、首尾よく邪教集団を壊滅させればそれでよし、まかり間違って平民同士の情でも通じて邪宗に改宗すれば、それこそこちらの思う壺。邪教信者もろとも始末すればよい。どちらにしろ危険分子が一つ減ることに違いはない」
『上にはなんと』
「ウィグガルド学院長には、予定通りに事は進んでいる、とだけ伝えろ。それ以上は説明する必要はない。それだけ伝えれば、あ奴は上にそう報告する。それでこの件は終わりだ」
『は』
 それきり声は絶え、ただペンの走る音と暖炉で爆ぜる薪の音だけが部屋の中に響いていた。

 ―――――――― * * * ――――――――

 この日を境に、フェルナンデス=ルスターの姿はハイデロア樹帝教学院から消えた。

 ―――――――― * * * ――――――――

 数日後、学院の食堂で昼食をとっているバハッジ=ウルムとメーリア=エステベッソの元へ、ヒューイット=シグマリオンが仏頂面でやってきた。
「聞いたか、バハッジ=ウルム。メーリア=エステベッソ殿」
 貴族らしくない、無作法で乱暴なやり方で椅子を引いたヒューイットは、これまた荒々しく腰を下ろした。
 大男バハッジ=ウルムが、口いっぱいにサラダを詰め込んだままヒューイットを見やり、次いでメーリアと目を合わせた。
 代わりに沈んだ面持ちのメーリアが口を開く。
「ルスターのことでしょ」
「そうだ。あれはどういうことだ?」
「――馬脚を現わした、とでも思って? シグマリオン様?」
 硬い声のした方を見やると、胸に辞書を抱えたユノー=レスキスが立っていた。
「ユノー=レスキス殿も聞いたようだな。その様子では」
「ええ。……とても信じられないけれど」
 ヒューイットと違って、それでも礼儀作法にのっとってしずしずと椅子に座る。
「ルスター様が、まさか邪教信仰のかどで破門だなんて……」
 食堂の窓から、中庭の方を見やる。その視線の先には、今回の処分に関する説明書きのなされた立て看板に群がる生徒達の黒山が見える。
 そこには、フェルナンデス=ルスターは破壊神ボラスドーを信仰する邪教集団の回し者であったため、昨日即刻破門退学となった旨が掲げられていた。
「ありえん話だ。これは何かの陰謀だ」
 首を振るヒューイット。
 口の中の物を飲み込んだウルムは、深刻な顔の一同の中でただ一人能天気に言った。
「どっちでもいいやな、俺は」
「バハッジ=ウルム、貴公――」
「あいつが邪教の信仰者であろうとなかろうと、ここにいようといまいと関係なかろうが? 俺たちはここへ学びに来てるんであって、お友達を作りに来てるわけじゃねーやな。一年でも、一月でも早く卒業資格を得て後援貴族の領地へ戻らにゃならん。たとえ仲が良くなったとしても、領地へ戻っちまえば、その後はほぼ没交渉になるんだ。奴との別れは予想外には早かったが、別れ自体は予想外でもないさ」
 ウルムの言葉に、メーリアとユノーがそれぞれ複雑な表情でうつむく。
 ヒューイットだけが、納得しなかった。
「それでもだ。ひとたび同門の徒となり、ともに笑いともに学んだ仲間にかけられし疑惑に、貴公は何も感じぬのか? 義憤を覚えぬのか!?」
「義憤じゃ腹はふくれねえなぁ」
 そう言って、腹を一つポン、と叩く。
「な……」
「ヒューイット。俺ぁお前さんのことは好きだが、そこは同意できねえな。まあ、百歩譲って義憤を覚えたところで、平民の俺たちにゃあ何も出来ねえ。そういう社会なんだ。アスラルはよ。しょせん俺たちは平民、そっちは貴族ってことだ」
「……くそっ」
 正論過ぎる正論に、ヒューイットはやるせない怒りを、罪なき足元の床にぶつけるしかなかった。
 その隣で、ユノーが哀しげに眉をひそめていた。
「友人の疑惑の真偽を質すことも出来ないなんて……何かが間違ってますわね」
「ごちそうさま」
 食事を終えたメーリアが席を立とうとした。
「待って、メーリアお姉さま」
 止めたユノーを、鳶色の瞳が見やる。
「お姉さまは、いいの? このままで」
「……ええ」
 一瞬の逡巡はあったが、メーリアはしっかり頷いた。
「ウルムの言う通りよ。あたしたち平民に出来ることはないわ。下手なことをすれば、あたしたちをこの学院に送ってくれた貴族に迷惑がかかる。それに……いい機会だわ」
「いい機会?」
「あたしたちは別れたのよ。一年も前に。他に行き場がなかったからこのグループにいたけれど、ルスターとあたしの関係も清算しきれてなかった。だから、これを機会に完全に清算することにするわ」
「冷たい話だな。……メーリア殿だけは、違うと思っていたのに」
 吐き捨てるように言って、ヒューイットは立ち上がった。
「では、このグループもこれまでだな。これまで、世話になった」
「シグマリオン様……」
 一礼したあと、ユノーを一瞥してヒューイットは去った。
「良かれ悪しかれ……ルスターのグループだったものね……。しょうがないか」
 沈んだ面持ちで、メーリアも食器を持って立ち上がる。
「おい、メーリア」
 テーブルを離れかけていたメーリアは今度はウルムに呼び止められ、顔だけそっちへ向けた。
 黒髪の偉丈夫は、にいと笑っていた。
「俺は明日もここで飯を食うぜ? ユノーちゃんもどうだ?」
「ウルム様……」
 これまでの話題の中で、唯一温かみのある言葉に、ユノーの表情が少し緩んだ。
 その頭を、ウルムは無作法にもぽんぽんと軽く叩いた。
「言ったろ? あいつがいようといまいと関係ないのさ。俺は明日も明後日もここで飯を食う。昨日も、その前もそうだった。ルスターがいたから来てたんじゃない。来たいから来てたのさ。ユノーちゃんはどうだ?」
「わたくし……来ます。ご一緒します」
「メーリアはどうする?」
 ウルムの誘いに、ユノーも振り返ってメーリアを見た。表情いっぱいに来て、来て、と訴えている。
 メーリアは苦笑交じりに言った。
「そうね。じゃあ、あたしは明日決めるわ。食べたかったら来る。食べたくなかったら来ない。それでいいでしょ?」
 手をひらひらとそよがせて、メーリアは立ち去った。
「お姉さま……」
「気にすんな。メーリアは来るよ」
 再びユノーの頭を軽く叩いて、ウルムも立ち上がった。
「なーに、みんなでわいわいやってりゃ、そのうちヒューイットもひょっこり戻ってくるさ」
 かんらかんらとウルムの大笑いが食堂に響いた。


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