蒼きバンダナのアレス First Episode
〜Engage Destiny〜【LUSTER/ROUGE】
フェルナンデス=ルスター
一千年の齢を経た大樹がある。
名をシレニアスといい、その根はアスラルという大地に広く深く這い広がり、その枝葉はそこに生きる命全ての傘となっていた。
しかし、古人に曰く『過ぎたるは及ばざるが如し』。
大樹の深すぎる枝葉は日を覆い、雨を防いで下生えを腐らせ、大地の力を我が物とした報いにその実は熟れ過ぎてしまう。
我が子すらその傘の下では育つことままならず、その種子の大半は大地を知ることさえない。大樹の枝や膨れ上がって大地に波打つ根の上に落ち、そこで芽を出すことすらかなわずに朽ちてゆくのだ。
その報いはいずれ我が身に返る。
日の恵を受けられぬ枝は枯れ、地の滋養を吸い尽くした根は腐り、より日の光と滋養を求めて伸び広がる枝葉と根は、大樹そのものの支えを狂わせる――大樹はいずれ、自らの貪欲ゆえに倒れる。
そして、その大樹の亡骸を糧に再び新たな命が生え出ずる。
『創世の光』、青きバンダナのアレス、50年戦争、数多の英雄英傑――。
歴史が大きく動くきっかけとなった、世に言う『シレニアス大崩壊』。
千年を経た大樹が倒れるその端緒は、あまりに些細な事件だった。
―――――――― * * * ――――――――
アスラル最大の都市ハイデロア郊外に造られた『ハイデロア樹帝教学院』。
アスラル全土から集められた優秀な学才を持つ者と、貴族の子弟だけが入学することを許された教育機関。その卒業を以って生徒の半分は樹帝教の司祭位を授かり、残りの半分はシレニアス王朝を支える公的要職に就くことを許される。
表向きは、樹帝教がシレニアス王朝に仕え、支え、恭順するなによりの証である、とされている。
しかし、実際は樹帝教によるシレニアス王朝の支配――否、シレニアス王朝と樹帝教のわかちがたき関係の何よりの証として君臨していることは、ここで少し学んだ者なら即座に気づく。そして、いかな反逆の意を持つ者であれ、王朝と樹帝教の強大な力の前に頭を垂れることを覚えるのである。
入学には各地領主の推薦が必要ではあるが、入学年齢と教育期間に特段の制限はない。一般教養および樹帝教教義に関わる神学関連の必修授業と、卒業後の進路を想定した科目授業の修得が済み次第、証書を受け取り卒業できる。平均で8年、早い者で6年。長い者でも10年で修了する。また、あまり出来のよろしくない貴族子弟が、親からの多額の寄進によって卒業証書を受け取ることは公然の秘密である。
そのハイデロア樹帝教学院に今、開校以来と噂される問題生徒がいた。
フェルナンデス=ルスター。
10歳での入学以来、15年に渡って在籍し続けている掟破りの名物男。(普通なら卒業見込みを失った時点で呼び戻されるか、自ら退学する)
在籍し続けられる程度の成績はともかく、腕力があるわけでもなく、特殊な能力を持っているわけでもない、まして貴族ですらない彼が問題視されているのはただ一つ、その女癖の悪さだった。平民・貴族を問わず数知れぬ女生徒との浮名を流し、ついた仇名が『三百人切りのルスター』。ナニを切ったかはあえて説明するまでもあるまい。
寄宿舎や専門研究棟なども備えた広大な学院内のこと、卒業時期は同じでも在籍中に顔を合わせたことは一度もなかった、という話は結構ある。だが、ルスターの顔を知らぬ者はあれど、その名を知らぬ者はいない。
無論、アスラル最高学府を自認する学院教職員にとっては、学院の看板に泥を塗り続けている最悪の生徒だった。
―――――――― * * * ――――――――
静まり返った教室に、かつかつという黒板を掻く白墨の音だけが響く。
扇型で教壇に向かって下がってゆく形の講義室の座席は、定員目一杯の生徒40名で埋まっていた。
扇の要に位置する教壇には、恰幅のよい無毛の教師が一人、立っている。黙々と図形と数式と記述を黒板に書き込んでゆくその手に、一瞬の停滞もない。
一通りのことを書き終えた教師は白墨を置き、生徒たちに向き直った。
左目にモノクル(単眼レンズ眼鏡)を装着した鋭い目つき。太ってはいるが、ぶよぶよとした太り方ではなく、その下の筋肉を想像させる体躯――教師などより似合いそうな職業が他にありそうなその教師は、じろりと教室を一瞥してから口を開いた。
「この証明を読んで判るとおり、以上のことから、この図形の面積を求めるためには、かのロチナンシオ伯爵が導き出した定理を必要とする。では、次に伯爵はこの定理を証明するために――」
不意に、鐘が鳴った。
昼休みを告げるその鐘の音に、2時間もの間張り詰め通しだった講義室の空気が緩む。
教師は不満そうに鼻を鳴らし、左手の人差し指でモノクルを軽く正した。
「今日の講義はここまでとする。本日の出席者は、次回までに本定理を用いた問題を作成し、講義開始前に教卓に提出しておきたまえ。以上、終了」
言うだけ言って、教卓上の本を閉じる。
たちまち、生徒たちの間に嫌そうな空気が流れる。さすがに不満の声を上げる者はいないが。
代表の号令の下、生徒を見てもいない教師に一斉に頭を下げるや、わいわいがやがやと講義室を出てゆく生徒たち。
教師が資料やその本を革製のかばんの中に放り込み、いかにも貴族趣味なモールや紋章のついた上着を着込んだ頃には、教室には数人の生徒が残るだけとなっていた。
ふとモノクルの奥の鋭い目が一人の生徒に留まった。まるで獲物を捕捉した猛禽のように、わずかに目をすがめる。
何を書いているのか。いつもと代わらぬ集中力を発揮して、あらかじめ配布してある提出用紙に何かを書き込んでいる少年。
「――ジョシュア=フィリックス」
『例の男』以来の秀才、と学院内でも噂の少年。16にして(実力のみで)来年中には卒業資格を得るであろうと噂されている。ここを卒業した後、司祭の道へ入るにしろ、公職に就くにしろ、ひとかどの名を残す能力はあるだろう。
ただ、『例の男』ほどではないにしろ生まれが卑しいため、卒業枠に余裕が出来るまで何年か留め置かれることになるだろう。彼の親である貴族がその気になって学院に寄付をよこせば、実力通りに今年卒業できるだろうが……妾腹(めかけばら)の子供にそこまでする貴族ではなかったはずだ。彼の血統上の父親は。
呼びかけが聞こえなかったのか、少年は顔を上げない。
教師はもう一度、今度は少し語気を強めて呼んだ。
「ジョシュア=フィリックス!」
少年は驚いた様子で顔を跳ね上げた。生徒の一団の最後に部屋を出て行こうとしていた黒髪の少女も、その怒声に何事かと振り返ったが、そんなことはどうでもよかった。
「呼ばれたら、返事をせんか。それとも、休み時間になったら教師の呼びかけを無視してもよいと誰かに教わったかね?」
「い、いいえ! 申し訳ありません。課題をやり遂げるのに集中していました」
少年は素早く立ち上がり、直立不動の姿勢をとって頭を下げる。
教師は鼻を鳴らして、憎憎しげに頬を歪めた。
「言い訳など聞いてはおらんし、課題をここでやれといった覚えもない。理由にならん」
「はい……。申し訳ありません、バルロル先生。今度からこのようなことがないよう、気をつけます」
「ふん……まあいい。君は確か、彼と親しかったな?」
「……彼? ですか……?」
わからぬげに顔をしかめる少年に、バルロルは舌打ちを漏らした。
「ルスターだ、ルスター。フェルナンデス=ルスターだ。君は奴のグループに出入りしているそうだな?」
その瞬間、目に見えて少年の挙動がおかしくなった。どう答えたものか逡巡する気配。
「あ、いえ。出入りしているというか……時々、誘われて昼食などを一緒にとっているだけで……」
「そんなことは聞いておらん。昼食を一緒にとるのなら、ちょうどいい。奴に私のところへ来るように伝えたまえ。午後の授業は出る必要はない、担当教師の許可も取ってある、とな」
「は、はい……」
気の抜けた少年の返事に、モノクルの奥でぎょろりと目玉が動いた。
「何だその返事はっ!! 何か不満があるのかね!?」
低く鋭い恫喝の声。
途端に少年は背筋を伸ばした。
「いいえ! とんでもありません、先生! 確かにお伝えいたします!」
「ふん。……勉強ばかり出来ても意味がないぞ、ジョシュア=フィリックス」
バルロルの眼に睨み据えられた少年は、萎縮しきって頷くしか出来ない。
「憶えておきたまえ。反抗とは行動や行為、言動だけを指すのではない。顔色に出てもそれは反抗となるのだ。わかったら、自分の顔色ぐらいコントロールできるようになっておけ! さもなくば貴様のような妾腹の出の者の卒業などおぼつかんぞ! そもそも、このわしが許さん!」
「は、はいっ」
もう一度背筋をピンと伸ばす少年に、バルロルは鼻を鳴らしてカバンを引っつかみ、講義室を出て行った。
―――――――― * * * ――――――――
「ねえねえ、フィリックス様。今の、どうしたの?」
バルロルが消えた後、講義室の出入り口で様子をうかがっていた黒髪の少女がジョシュア=フィリックスに近寄ってきた。貴族らしいフリルまみれの白いワンピースが目に眩しい。
「……ああ。レスキスさんか」
「ユノーでよろしいのに。同い年なんですから。……顔色悪いみたいですけれど、大丈夫ですの?」
疲れた様子で座席に腰を落としたフィリックスは、ボブカットの黒髪を揺らして覗き込むようにして聞いてきた少女に、力なく首を振った。
「うん……ルスターさんに伝言を頼まれただけ。でも、なんで僕がそんなこと」
「あのスケベ親父に? バルロル先生が? ……何かしら」
「知ったことじゃないよ」
吐き捨てるように言って、フィリックスは荷物をまとめ始めた。
「だから僕は独りでいいっていつも言ってるのに。君があの人のグループに紹介なんかするから、こんなことに」
「……ごめんなさい」
少女ユノー=レスキスは済まなさそうに眉をたわめ、少しうつむいた。
「でも、あの……独りはよくないと思うの。それに、他のグループだと、フィリックス様は……」
「確かにね。地方貴族の妾腹の僕を普通に扱ってくれるのは、君と変人グループのあそこだけだよ」
そういう口ぶりには、多分に自嘲の笑みが含まれている。
筆記具を手提げ袋に放り込んだフィリックスは、立ち上がって最後に吐き捨てた。
「僕は勉強がしたいだけなんだけどね。なんでこう貴族の世界ってのは面倒くさいことばっかりなんだか。バカバカしいったら」
ユノーは苛立ちもあらわに階段を登ってゆくフィリックスの後を追いながら、複雑な表情で頷いた。
「本当に……そうですわね……」
―――――――― * * * ――――――――
噂のフェルナンデス=ルスターは食堂にいた。
時には学校側が生徒数百人を収容して集会を開く際にも使われるその広い部屋の片隅、窓際のテーブルについていた。
その周囲を遠巻きにまばらな人垣が囲っている。他のテーブルについている生徒たちも、ちらちらとそのテーブルの様子をうかがっていた。
湯気の揺れるティーカップを前に、少し体勢を崩して席の一つについているルスター。テーブルにはもう一組男女がついていたが、聴衆はそちらには全く関心を払っていない。
彼らの関心は二人――在籍15年になる古株の中の古株で、『三百人切り』の噂を撒き散らす好色一代男と、その横で激高している女だった。
「どういうことですの!?」
ルスターの脇に立った長い金髪の女が、顔を真っ赤に染めて喚いた。
年は17、8。貴族らしく手の込んだ編み方をした髪、豪奢なドレス。肌の艶やかさは食事に困ったことのない人生を象徴している。そんな娘が、明らかに洗濯のし過ぎで擦り切れかかった学院の制服(貴族でない者が着る)を着た、いかにも貧乏くさそうな黒髪の男に必死で食い下がっている。周囲の注意も引きつけられるというものだった。
「このわたくしが、シュレステン家のミニアがあなたのお相手になって差し上げる、と言っているのに、どうして!?」
ルスターは悠々とティーカップに唇をつけ、ソーサーに戻す。たっぷりと勿体をつけてから口を開いた。
「君はタイプじゃないんだ」
女――ミニア=シュレステンの顔が引き攣り、周囲から隠し切れない失笑の気配が漏れる。
「な……なにが不満ですの!? わたくしの家は東部でも古き家柄、もちろん財産・領地もありますわ! 容姿にもそれなりに自信はありますし、あなたの身分のことも気にしないと言ったではありませんか!」
「別に君の財産に興味はないし、容姿や言動にも不満はないなぁ」
「なら、どうして!」
ミニアは身を乗り出すようにして、テーブルに両手を叩きつけた。
ルスターはそれを読んでいたかのように、寸前でソーサーとカップをさっと引き上げた。
必死の形相でルスターを見やる娘に、軽く微笑む。
「もういいじゃない。付き合うつもりのない相手に、ダメ出しをする気はないよ。縁がなかったと思って、諦めてくれないかなぁ」
左手にソーサーを持ったまま、右手でカップを口元へ持ってゆく。少し舐めるようにして、ソーサーともどもテーブルの上に戻した。
ミニアは激しく首を左右に振った。
「嫌です。わたくしにも女の矜持というものがあります。……最低限、理由を聞くまでは絶対に引き下がれません」
「しょうがないなぁ」
ため息をついたルスターは、立ち上がった。どこかへ行くのかと半歩後退った娘の前で、椅子を前後ひっくり返し、そのまま腰を下ろした。背もたれに両腕を乗せ、ミニアに正対する。
「じゃあ、言わせてもらうけど。君、重いんだよ」
「おも……! そ、そんなに太っていませんわっ!」
「違う違う」
ルスターは苦笑して顔の前でてを左右にひらひらさせた。
「お相手をして差し上げる、と言ってみたり、身分を気にしないと言ってみたり、自分は好かれるはずだと思っていたり……そういう女性ってね、基本的に独占欲が強いんだ。そういう気持ちが、僕には重いってこと。僕はそういう女性とは付き合わないことにしてる。どうせこの学院にいる間だけの火遊びみたいなものなんだからさ、お互いに。もっと気楽にやらなきゃ」
身も蓋もないその言い草に、同じテーブルについていた男女は顔を見合わせて首を横に振った。
ミニアはじっと唇を噛んで考え込んだ後、決意を込めた顔つきで頷いた。
「わかりました。つまり……するなら身体だけのお付き合い、ということですわね? わたくしはそれでも――」
「違う」
ルスターの語気が強まる。少し顔つきが厳しくなっていた。
「そういう風に人間関係を極端にとらえる女性も、僕は嫌いでね。別に身体のおつきあいなんてなくてもいいんだよ。結論としてはね、一緒にいる間はお互いに心安らげる、そういう女性がいいの。そういう女性はお相手をして差し上げる、とも構えないし、そもそも身分を気にしない、なんて口にもしない。そういうものを気にしているからこそ、口に出るわけでね」
「そのわりに、つきあう女とは片っ端から寝てるって話だけどね」
そう口を挟んだのは、同じテーブルについていた女。栗色の髪をストレートに背中へ流したその女は、頬杖をついたまま、じと目でルスターを睨んでいた。服はぱりっと糊を利かせた学院の制服。
ミニアは怪訝そうに自分より数歳年上のその女を見た。警戒感がにじむ。
「……どちら様?」
栗色の髪の女は、ミニアににっこり微笑みかけた。
「はじめまして。あたしは、メーリア=エステベッソ。一年前までこの好色一代男と付き合ってたの。その経験から言わせてもらうけど、こいつだけはやめといた方がいいわ。どこでどうなって、こいつに興味を持ったか知らないけど、ろくな人間じゃないから」
「あなたが……。そう……つまり、あなたを追い出さなければそこには座れないということですのね」
「はぁ?」
頬杖がずれ、メーリアはつんのめった。
ミニアの目には嫉妬の炎が燃えていた。
メーリアは困惑げに苦笑しつつ、姿勢を正した。
「いやいや。ちょっと、話を聞いてる? つきあってたのは一年前までで、今はフリーよ? こいつにひどい目に遭わされた経験者として忠告してあげてるだけで――」
「ひどいなぁ、メーリア。僕はいまだにこんなにも君の事を」
「ややこしくなるから出てくんなっ!!」
ミニアには見せない緩んだ表情で振り返ったルスターの顔面に、メーリアの拳がめり込んだ。
手加減なしの一撃にルスターは椅子ごとひっくり返り、聴衆も息を呑む。同じテーブルにつく大柄な男だけが愉快そうに笑った。
「――とにかく、あなた貴族なんだから、こんな下衆だけはやめておきなさいよ。ね?」
殴った手をひらひらさせながら、いたずらっぽく舌を出す。
しかし。
「平民の分際で、貴族に意見するかっ!!」
ミニアの叫びに食堂のその一角の空気が凍りついた。
面食らうメーリアに、ミニアは怒りに歪み、引き攣る顔を向けた。
「わたくしがどのような男を伴侶に選ぼうと、わたくしの勝手。貴様ごとき下郎に指図されるいわれはありませんわっ! 口を慎みなさい、無礼者っ!」
「つまり、それが君の本音だ」
静まり返った空間に、厳かな声が響く。ルスターだった。
立ち上がったルスターは椅子を立て、再び普通に腰を下ろした。
「ルスター様、鼻血が……」
左の鼻腔からてろりと滴る赤い雫。ミニアは慌てて胸元からシルクのハンカチを取り出して、拭こうとした。
その手を、ルスターは遮った。
「結構。――≪樹帝の恵みよ、若芽の息吹の力よ≫」
空いた手で鼻っ面をつまみ、呪文を唱えるとほのかに指先が光った。滴る血潮がぴたりと止まった。
周囲に動揺が走る。単純な回復呪文だが、そもそも呪文自体生徒の身分で使える御業ではない。
「それって、司祭様が使う回復の……」
「なに、15年もいるとね。このくらいは見よう見まねでできるようになるものさ」
驚くミニアに、自慢する風もなくさらっと言い捨てる。
「それより、君は僕に対して身分を気にしないと言ったが、僕の友人には身分を持ち出すのだね。それならなおのこと、君とはつきあえないな。悪いけど」
「え……」
渡し損ねたハンカチを握り締めたまま、凍りつくミニア。
ルスターはこびりついた鼻血を制服の袖で拭い、厳しい表情で続けた。
「僕自身を傷つけたり、罵る分には構わないけれど、僕の目の前で、平気で僕の友人を軽んじられる人とつきあうつもりはないよ。……確かに、貴族様に度を超えた忠告をした彼女にも非はあるけれどね。それでも、結局君は貴族で僕は平民なんだ。僕らはおつきあいなんてしない方がお互いのためだよ」
「そんな……でも、あの……」
「――その男とつきあうには覚悟がいるということだ、ミニア=シュレステン殿」
新たな若者の声が、ミニアの背後からかかる。
ルスター、メーリア、ミニア、そして聴衆の目が声の主に集まった。
そこにいたのは若い男。短い金髪を頭頂に向けて真っ直ぐに立ち上げた、挑発的なスタイル。そして貴族趣味にも程がある、白を基調に金銀派手なモールや刺繍をあしらった豪奢な服。
年はミニアと同じくらい。彼の背後には一組の男女がいたが、今のミニアには目に入っていなかった。
「……ヒューイット=シグマリオン?」
ミニアの目が驚きに見開かれる。
呼びかけられた男――ヒューイット=シグマリオンは不敵な笑みを浮かべた。その髪型でその笑みを浮かべると、チンピラにしか見えない。
「我をご存知とは、光栄の至り」
慇懃に頭を下げ、ミニアの右手の甲に挨拶の口付けをする。
ミニアは冷ややかに言った。
「あなたの噂は常々色々……貴族でありながら貴族らしからぬ奔放な生き方を好む人――もっと直截的にいえば、貴族にあるまじき野蛮人。髪を頭頂に向けて逆立て、獅子を気取る痴れ者(しれもの)。それゆえに貴族グループになじめずにいるとか。……社交性のない貴族だなんて、同じ南部出身の貴族として恥ずかしい限りだわ」
「いやいや、これはしたり」
ヒューイットはおどけた様子で、自分の額を掌底で軽く打った。
「なかなか手厳しいお言葉。……ま、五男坊ともなると色々身軽でしてね。色々礼儀知らずの若輩者ゆえ、失礼の儀は平にお許しいただきたい」
再び慇懃に頭を下げる。
「それで? 覚悟って、何かしら? シグマリオン家のお坊ちゃん?」
出方をうかがうように、ヒューイットを睨むミニア。
「なに、それほど難しいことではありませんよ、シュレステン家のお嬢様」
飄々とした口ぶりでやり返すヒューイット。
「おのれが貴族であることを忘れる覚悟か、平民ならではの無礼を全て受け入れ、許せるだけの覚悟か、どちらかというだけ」
「あなたは……どちらを選んだのかしら」
「実はまだ、決めかねている次第でして」
本気とも冗談ともつかぬ表情に、ミニアは押し黙った。
ヒューイットはちらりとルスターを見やって続けた。
「とにかく、私からも忠告させていただく。こいつは女の敵だ。あなたのような誇り高き淑女が間違っても身を任せてよい男ではない。あなただけでなく、あなたの父上、母上ほか家族・親族の名誉のためにもおやめになった方がいい」
「そうですよ。こんなスケベ親父に身を任せたりしたら、絶対に後悔します」
ヒューイットの後ろから出てきたのは、黒髪の少女だった。
たちまちミニアの表情が驚きに揺れる。
「ユ、ユノー=レスキス様!? ――まで!?」
「あら、わたくしのこともご存知でしたの? ふふ、光栄ですわ」
はにかんで軽く会釈するユノーの後ろには、仏頂面のジョシュアが立っている。
「同期入学の伯爵家御令嬢……存じ上げないのが失礼というものですわ」
ミニアはユノーの会釈に対して片膝を折り、スカートの裾をつまんで深々と頭を下げた。
その様に、ヒューイットは苦笑してジョシュアに小声で呟いた。
「……やはり王族に連なる家となると、反応が違うな。当たり前のことだが」
「知りませんよ」
ジョシュアは興味なさそうにため息をついた。
姿勢を戻したミニアは、ユノーに言った。
「レスキス伯爵家のユノー様のお言葉とあらば、従わぬわけには参りませんわね。ご忠告、いたみいりますわ」
さっきまでの怒りの表情を完全に心の奥に押し込めた笑顔。
その痛々しい微笑みに、ユノーはそっと近づいて、その頬に触れた。
「そんな悲しい物言いをしないで、ミニア=シュレステン。……あなたは誇り高い貴族の娘。必ず良縁に恵まれます。こんな男のためにあなたとあなたの家の未来を汚してはダメ。今日のところは寄宿舎に帰ってから、本当にこのスケベ親父が好きなのかどうなのか、じっくり考えなさい。それでも、というのならわたくしが――」
「ユノー様……」
ミニアを慈しむ黒い瞳に、鋭い光が走る。
「全力を以って、この男のクズがどんなひどい人間か、一晩語り明かしてでも判らせてあげます」
「え」
「わたくしの目の黒いうちは、絶対にこんな男なんかの餌食にさせないんだから」
「ユノー、それは違う。今回は彼女の方から――」
抗議の声を上げたルスターを、ユノーはきっと睨んだ。
「うるさいっ! 女の敵っ!」
10歳くらい年の違う娘に怒られて首をすくめたルスターの襟首を、メーリアがつかんで引きずり戻す。
「話がややこしくなるから、あんたは黙ってなさい」
「……はい」
ユノーは再び優しい眼差しをミニアに向けた。
「とにかく、この話はわたくしが預かりますわ。わたくし、あなたより年下ですけれどいつでも相談に乗りますから――」
「いいんです、ユノー様」
ふるふると首を振るミニアの顔によぎる、さびしげな微笑。
ふっと何か憑き物が落ちた雰囲気がした。それまで張り詰めていた空気が、霧消する気配。
「……実は…………本当に彼が好きというわけでも……」
意外な告白に周囲がさざめく。ユノーだけでなく、ルスター、メーリア、ヒューイットも怪訝そうに顔をしかめた。
「じゃあ、どうしてこんな騒ぎを?」
ユノーのやさしい問いかけに、ミニアはきゅっと唇を引き結び、スカートを握り締めた。
「わたくし、卒業を待たずに嫁ぎ先が決まりましたの。会ったこともない北の辺境の領主の息子のところへ」
聞いている者は皆、何の話かと呆気にとられている。
「来月にはこの学院を去ります。その前に……その……恋……というものをしてみたかったのです……。幾多の女性と浮名を流したルスター様とおつきあいできれば、それは楽しい時間が過ごせるのではないかと思ったのですけれど……それが、ユノー様まで煩わせることになるとは思いませんでした。お許しくださいね」
ミニアは深々とお辞儀をした。
「そう……なの……。確か、シュレステン家は南の……」
「フェルミタ公国の街、フェルミオン近郊に領地をいただいております」
「それが北の辺境へ……さぞかし心細いでしょうね。そのお気持ち、よくわかりますわ」
ユノーはミニアの手をそっと両手で握った。
「わたくしとお友達になりましょう、ミニア。いいえ、年上なのですからミニアお姉さまとお呼びしなくてはね」
「ユ、ユノー様!?」
ミニアは慌てた様子で目をぱちくりさせた。その後ろでルスターとメーリアがびっくり顔を見合わせる。
ユノーはミニアの右手を包み持ったまま、目を輝かせて続けた。
「我がレスキス家は、ご存知のようにシレニアス王国の中でも特に北方に影響力を持っています。わたくしとお友達ということになれば、あちらでも決して悪いようにはなりません。それにわたくし、まだあと何年かはこちらで学ばねばなりませんけれど、長期休暇の帰省の折には必ずあなたの嫁ぎ先へ遊びに参ります。お手紙もやり取りしましょう。それならさびしくはないでしょう? ね? だから、お友達になりましょう?」
「ユノー様……」
呆然としていたミニアの表情が揺れる。崩れる。
頬を一筋の雫が伝い、落ちた。
―――――――― * * * ――――――――
泣き出したミニアとそれをあやすユノーが連れ立って食堂を出て行った後、ヒューイットはルスターと同じテーブルについた。
「やれやれ。相変わらずルスター殿はトラブルメーカーだな」
「傍にいると色々面白くてかなわんな。いやぁ、あの剣幕。ついに刺されるかと思ったんだが」
と、豪快に笑うのは初めから同じテーブルについていた大柄な男。日焼けした肌、縮れた黒髪、筋肉質な体躯――と学生というよりは漁師といった方が皆納得するような偉丈夫だ。
「今の騒ぎは僕のせいか?」
不満げに漏らしたルスターの後頭部を、メーリアははたいた。
「あんたの今までの悪行の報いよ。ったく、うぶな女の子に幻想抱かせてるんじゃないわよ、この色魔。いっそ、ウルムが言うとおりに彼女に刺されりゃよかったのに」
「君になら刺されても――ぐふ」
そう言った途端に、メーリアの拳がみぞおちの辺りに突き刺さり、ルスターは声もなくテーブルに突っ伏した。
ウルムと呼ばれた男がまた、さもおかしげに腹を抱えて笑う。笑いすぎてヒューイットの肩をバンバン叩いたため、ヒューイットは露骨に嫌そうな顔でその手を払った。
「で、ジョシュアは座らないの?」
ジョシュア=フィリックスは、テーブルの脇で立ったまま場が収まるのを待っていた。
ため息を一つ漏らしてテーブルに手を置く。
「僕は伝言を頼まれたんで、来ただけです。課題も出てるので、用が済んだらすぐ図書室に行きます」
「ええ? 昼ご飯ぐらい、一緒に食べていけばいいじゃない」
「課題がありますので。それより、ルスターさん?」
突っ伏したままのルスターに目を落としたジョシュアは、また一つため息をついた。
「その体勢なら聞こえてますよね。バルロル先生からの呼び出しです。午後の授業は受けなくていいそうですよ。担当教師にも既に連絡行ってるそうです」
了解の意味か、ルスターの痙攣する手が少し浮いた。
メーリアが不思議そうに聞いた。
「バルロル先生が? 何の用なの?」
「知りませんよ」
荷物を手に提げ、踵を返しながらジョシュアはぶっきらぼうに言った。
「僕は伝言を頼まれただけですから。それじゃ」
そのまま振り向きもせずに足早に去っていった。
―――――――― * * * ――――――――
入れ替わりに、三角の黒縁眼鏡が印象的な40がらみの中年女教師がやってきた。細身で上品そうなスーツに身を包んだ彼女は、脇目も振らずにルスター達のいるテーブルにやってきた。
「ああ、いたいた。ちょっとちょっとルスター、あなたなにしたの!? ねーえーってば」
テーブルに来るなり、突っ伏したままのルスターの肩をバンバン叩く。
古典神学担当教師の年に似合わぬなれなれしい態度に、メーリアは眉をひそめた。
「あの……ナテリア先生?」
「あ、あら、エステベッソさん。ごきげんよう」
今気づいたように、表情を取りつくろい、にっこり笑ってみせる。
メーリアの脳裏に女の勘が閃光となって走った。
「いや、ちょ……先生、まさか……ひょっとして、こいつと……その……」
疑惑の瞳に何を見たのか。たちまちナテリアの顔色が変わった。
「あら、やだ。なにをおっしゃるの、エステベッソさん。おほほほほほ。そんなことはなくてよ、そんな、あなたが想像しているようなふしだらな関係なんて、別に、ねえ、ルスター?」
とか何とか言いながら、ブラウンがかったゆるいウェーブの黒髪を指先で弄り倒し、頬を染める中年女教師。
メーリアは脱力してテーブルに突っ伏した。
「……もー知らない」
その傍らでウルムが口に大きな手を当てて、必死で笑いをこらえている。
ナテリアは再びルスターの肩をゆすり始めた。
「そんなことより、ルスターってば。あなた、なにしたの?」
「なにがあったのですか、ナテリア先生?」
ヒューイットが口を挟むと、ナテリアは困惑げな目をそちらに向けた。
「あなたたち知らないの? バルロル教授が昨日の職員会議で、ルスターを退学させるようウィグガルド学院長に申し立てたのよ。最近、学院内の風紀が乱れているから、綱紀粛正すべきだって」
「綱紀粛正……確かに理由としては十分ですね。……いよいよ来るべき時が来たか」
ヒューイットは渋い顔で頷く。
「けどよ、おかしくねえか? 先生よぉ」
ウルムが身を乗り出した。
「あんたも知ってるはずだぜ? ルスターが卒業できないのは、こいつのせいじゃない。あんたら学院側が、卒業定員枠とやらにいつまでたってもルスターを入れないから、仕方なくここにいるだけで、本来ならもう10年ほど前に卒業できてるはずだ。それを今さら綱紀粛正で退学なんて……」
「そんなこと言われるまでもありません」
ナテリア先生は背筋を伸ばして言い返した。
「そうでなくても、ルスターの応援者は多いのよ。私だけでなく貴族の子女の中には、彼に世話になった人は多いんだから。公式な後ろ盾のないルスターが、10年以上も学院にいられるのはなぜだと思って?」
「いないの?」
メーリアが驚いて顔を上げると、ナテリアはしまったという顔をして口許を押さえた。
ルスターがゆっくりと身を起こす。
「ごめん……なさい、ルスター……あの……」
顔色をうかがうようにしどろもどろの女教師に、立ち上がったルスターはにっこり微笑んだ。
「構いませんよ。別に。隠しておくほどのことでもなし。じゃ、僕は呼び出し食らったので行ってきます」
逆に元気付けるように、ナテリアの肩を軽く叩いてルスターはその場を離れた。