終 焉 −その名を受け継ぐもの−
「まだ上の連中は協定を結べねえのか」
ゼラニスは苛ついた声で喚いた。
アスラル西部辺境の街エキセキル近郊。森の中に打ち捨てられた廃屋を無断で借りた陣屋に彼の姿はあった。
「……連中は売り時を待ってんのさ」
テーブルを囲む近在の義勇軍の部隊長達のうち、恰幅のいい中年女が吐き捨てるように言った。
「売り時だあ?」
「より高い値段で休戦協定を売りつけるにゃ、もう少し様子を見て戦況がとことん有利になってから、と思ってんのさ。……連中の頭には、戦の後の交易のことしかないんだよ」
「しかし、連中の後援無しには義勇軍もそうそう戦い続けられなかった」
眼鏡をかけた学者風の青年がうそぶく。
「どういう思惑があろうと、これまで戦い続けてこれたのは、そのおかげだということは紛れもない事実だからな。俺達としても、そう邪険にもできんさ」
「ふざけろ!」
ゼラニスはテーブルを叩いて立ち上がった。会席者の視線が集まる。
「……戦況がとことん有利になったら、今度は勝つまでやれと言ってくるのは目に見えてる。これまで二十年間、それで何度機を逃してきた? まだ懲りねえのか、あの業突く張り(ごうつくばり)どもはっ!! 休戦協定にしろ講和条約にしろ、最後は妥協の産物だろうがよ!」
「金だけ出して、口を出さなきゃ一番やりやすいんだけどねぇ」
中年女は頭を掻きながら、諦めの混じった溜め息を吐く。
まったくだ、と頷き合う一同。ゼラニスだけが承服しかねる顔つきで、ギリギリと歯を食いしばっている。
「戦いが続けは続くほど、人が死んでいくんだぞ。外の連中が自分の強欲が元で勝手に死ぬのは知ったことじゃないが、なんで俺達が犠牲を出さにゃならんのだ!? 納得いかねえ、絶対に納得いかねえ!」
ゼラニスの言葉に、苦笑気味に顔を見合わせていた一同はしんと黙りこくってしまった。
誰もが胸に抱きながら、直面したくない問題。そう。我らは被害者だ、という思い。
場の重い空気にも気づかず、ゼラニスは一同に背を向けてブツブツとぼやいた。
「……中央の連中といい、上の連中といい、外の奴らといい……何で世の中ってのは業突く張りばっかりなんだ。ほどほどでいいだろうがよ、ほどほどで。………………くそ、こうなったら――」
振り返ったゼラニスがテーブルに手をつき、身を乗り出して何かを提案しようとしたその時――
小屋の扉がノックされた。
「なんだ」
扉を開いたのは、義勇兵――ゼラニスの部下だった。
「……ゼラニスに会いたいという男が来てるんだが。至急に、と」
「内密の話なのか?」
頷く義勇兵。途端に、会席していた連中は次々と腰を上げた。
「ま、とにかくそう焦りなさんなよ。ゼラニスの旦那。……あたしらキルゼック方面隊の力が必要ならいつでも呼んでくんな。上の動きがとろい分は、こっちでカバーしてやるからさ。じゃ」
中年女はゼラニスの方を気安く叩いて出てゆく。
入れ代わりに学者風の青年が耳に口を寄せた。
「――“将軍”。上の連中が最近、君の言動をかなり煙たがっているようだ。かなりの間前線を空けたのもあって、あまり君の評価は芳しくない。しばらくは自重した方がいい」
「……俺を“将軍”と呼ぶな」
凄むゼラニスの肩を叩き、青年も出て行った。
一同と入れ代わりに入ってきたのは、聖騎士団の制服を着た男だった。
「――聖騎士!?」
「いや、ちがう」
驚くゼラニスに一言で否定した男は、確かに聖騎士らしくはなかった。感情的なものを一切感じさせない仮面のような顔つき、小屋の扉を閉める際に見せた、人の気配を探る目つきは――
「……ギルドの連絡員か」
「ああ。この姿だと、関所や検問が抜けやすいのでな。……ハイデロア・ギルドの者だ」
「ハイデロアのギルドが何の……」
席に腰を落ち着けた途端、ゼラニスの表情が急に険しくなった。
「――なにがあった。ダグか」
これまで無表情を貫いていた男の口許が、少し歪んだ。頬笑んだのか。
「さすが、鋭いな。……もう、六日前の話だ。ダグ=カークスがペルナー大司教長を暗殺した」
「な……」
絶句。
「ダグ=カークスの動きを読んで精鋭を集めていたキッシャー聖騎士団総団長代理も、精鋭32人とともに惨殺の憂き目にあっている。私がハイデロアを出たのはその直後だ。あれから六日、どう転ぶにしろ、既に決着はついているものと考えられる。その後のことは、追々後続の連絡員が来るだろう」
「……野郎。死んでなかったのか。本物の化け物だな」
だが、と続けてゼラニスは男をじろりと睨んだ。
「何でその話を俺に持ってきた? 放っておいても、いずれ届く話だろうに」
「ギルドは教団に見切りをつけた」
「なに?」
ゼラニスの背筋を、何か巨大な毛虫が張っているかのような悪寒が昇ってゆく。
「正確にはアスラルを統治する能力について、疑義が生じた。もし教皇ルスターと英雄・聖騎士団総団長シグオスというシンボルまでも失ってしまえば、人心は一気に『創生の光』から離れる可能性がある。その教団の勢力衰退に呼応する形で、新たな統治勢力を台頭させる必要がある。……ギルドの立場から言えば、王政復古もありだ」
「なにをばかな。そんなことが許されると――」
「この報告は、“将軍”ゼラニスをはじめ、各地の有力な連中に届けられている。それをどう利用するかは、それぞれだ。……森にはまだ、シレニアスの縁者が人知れず潜んでいるし、遠からず森の外の連中にも届くだろう」
「ちょ……まさか、王国連合にまで連絡員を送ったってのか!?」
「さすがにそこまではやっていない。だが、これだけ大々的に垂れ流せば、すぐに人の口の端にのぼる」
ゼラニスは腕組みをして考え込んだ。
考え込んでいる間に、男は続けた。
「ギルドはお前に期待している。……アスラル全土は無理にしても、西部の平定ぐらいならやってのけるだろうと」
「何を勝手な。……それには乗らないと――」
「期待のあらわれとして、お前だけに伝えるよう指示された情報がある」
「俺だけに……どうだかな」
ゼラニスは鼻で嗤った。ギルドはギルドでも、田舎ギルドとは違う。あの食えない濃密な闇のようなギルドのことだ。伝令を送った全ての者にそう言っていてもおかしくはない。
「――南の、オ=レディウス帝国が動いている」
「なに……?」
ゼラニスは腕組みを解いて、男の顔をまじまじと見た。……見たからといって、嘘か否か見抜けるような相手ではなかったが。
オ=レディウス帝国と言えば、ホロニー大峡谷をひたすら南下して行くと広がる大陸最南端の広大な土地を領土としている大帝国。位置関係でいえば、王国連合に参加している国々の背後に控えていることになる。そこが動き出したと言うことは……。
「……東部の休戦協定は、それが原因か」
「そうだ。王国連合内部の足並みの乱れも、そこに起因している。そして、ローディアン方面から攻めてきている王国連合も、早く休戦協定を結びたいそうだが……君たちの上層部がいたずらに引き延ばしている状況だ」
ゼラニスの顔色が変わる。ふらりと立ち上がり、テーブルに両手をついて身を乗り出した。
「ちょっと待て。……打診があったってのか」
「我々のつかんでいる情報では、少なくとも三ヶ月前にはかなり具体的に」
「おいおいおいおいおい。三ヶ月前だと? ……そっから何度の小競り合いがあって、何人の連中が死んで何人が手やら足やら失ったと思ってんだ……今の話、本当に本当なんだな?」
瞳に怒りの炎を宿したゼラニスの詰問にも、男は飄々と答えた。
「なんなら、証拠でも集めて来るが? お前にその気があるのなら、俺はお前付きの間諜の任に就いて良いと許可を得ている。無論、ギルドにも情報は流すが」
「……ギルドに敵対するようなら、俺を殺す許可も、か」
「そっちは許可じゃない。命令だ」
「どっちでも同じだ。……だが……」
まだ迷う素振りを見せるゼラニスに、男は初めて動いた。ゼラニスの横に手をつき、その顔を覗き込む。
「ゼラニス。お前が好むと好まざるとに関わらず、時代は動いている。そして、アスラルの勢力地図は、一人の男によって大きく塗り替えられようとしている。それが現実だ。……この時代のうねり、乗り損なえばお前が二十年間守ってきたものは、全て失われる可能性もあるぞ」
ゼラニスは、並ぶのを嫌がるように男の傍を離れた。男に背を向け、何もない虚空を見上げる。
「……俺はこれまで、守る戦いをしてきた。これからは攻める戦い、奪う戦いもしなけりゃならん、てのか」
「お前がそれを望むのならばな」
ゼラニスはうつむく。
「……………………」
「だが、ギルドはお前がそれ以外の方策を取るだろうと睨んでいる。もっとも、中身まではつかんでいないが」
「さすがの旧きギルドも、俺の頭の中までは見通せねえか」
へらへらっと笑う気配に男は少し顔を曇らせた。問い質す前に、ゼラニスが口を開く。
「おう。男と男の約束をギルドの命令より優先できるなら、教えてやってもいいぜ」
たちまち、男の表情が一際険しくなった。
「……ギルドの命令は、教団風に言えば神の御託宣に等しい。決して逆らうことの許されぬ命令だ」
言葉が途切れる。
ゼラニスも背を向けたまま、黙っている。
ややあって、連絡員の男は続けた。
「それに……逆らう可能性を考慮せねばならんほど魅力的な中身なのだろうな、その男と男の約束というのは」
「おうよ。……実は、二十年前から温めてる案でな」
今度はゼラニスは一旦言葉を切った。続けるべきか否か、数秒ほど悩んで――続けた。
「革命により西部……旧マンタール公国領をまとめ、住民直接統治による国を作る。よその地域は知らん」
「ほう」
振り向いたゼラニスは、不敵に頬笑んでいた。
「どうだ、乗るか? ギルド云々じゃねえぞ。てめえの意志で言え」
何かを吹っ切ったその表情。
男も思わず頬を緩めていた。悪ガキ同士が目線で通じ合わせられる何かを受け取った時のように。
―――――――― * * * ――――――――
流れ者の傭兵による『創世の光』教団幹部連続暗殺事件。
犯人の名はアレスともカークスとも言われているが、その人となりなどに触れた文献記述が非常に少ないため、後世の歴史家を悩ませる種の一つとなっている。しかし、一方でその評価は一定している。
戦乱を呼びし者。最強の愚者。
この事件後、強力なカリスマと多くの幹部を失った『創世の光』教団は弱体化を免れえず、精神的な支柱という意味はともかく、実質的なアスラル大樹海の支配者たる地位からは滑り落ちてゆかざるをえなかった。
教団という重石を失ったアスラルは各地で分離独立の気運が高まり、分裂してゆくことになる。もはや教団にそれをとめる力はなく、一方で王国連合の手を離れた武装集団による侵略行為(一定の地域を武力によって奪取し、支配し、その地域の領主を名乗って王国連合に下るというやり方)の頻発がアスラルの治安の悪化に拍車を掛け、大樹海は内乱と侵略の交錯する戦乱の舞台と化した。
さらにそこへ南方に勢力を張る大帝国の北進、王国連合内の主導権争いからの戦乱などが重なり、時代はますます混迷の度合いを増してゆく。
それが後世、五十年戦争と呼ばれ、多くの英雄武将を輩出することになる泥沼の戦いの、後半三十年の始まりだった。
―――――――― * * * ――――――――
ルッツは城を見下ろす、スラスの町外れの丘の上に寝転んでいた。
溶けた黄金のような暁の空が、少年を染め上げている。ルージュを包んでいた繭を思わせる輝き。
既に白い法衣は脱ぎ捨てていた。いかめしい胸当てと、体格に合わぬ剣、そして腰の小剣。それに城から少しばかり失敬した食料を入れたザック。それは旅装束だった。
どうやってここまで来たのか、ほとんど覚えがなかった。
ただ、あの騒ぎを聞きつけて集まってきた人たちの間を掻き分け掻き分け、与えられていた客室に戻った後、城を脱出する準備をして廊下に出たことだけは、おぼろげに覚えている。
人の気配がしない方を選んで選んでさまよい続け……気がついたらここに寝転んでいた。
もう、何もかもが嫌だった。たくさんの人と顔を合わせるのも、ダグの遺体がどう扱われるかを見るのも、これ以上旅を続けることさえ億劫だった。このまま石になれたら、と思わずにはいられなかった。
頭を巡るのは、ダグの最期の言葉。
戦いの中で生まれ、戦いに死した男は、死ぬ間際まで戦いの中にいたのだろうか。
自分はどうなのだろう。バンダナをくれた傭兵とダグ、二人の男に覚悟するよう促されはしたが……。剣を取って多くの敵と渡り合い、血を流し、それ以上の血を他人に流させ……でも、何のために戦うのだ?
ダグは物心ついたときから、いや、生まれたときから既に戦いの渦中にいた。だからなぜ戦うのか、と問われれば、生きるため、と即答しただろう。
ゼラニスは、大切な人たちを守るために戦っているようなことを言っていた。
シグオスは誇りを守るため。最後は自分で汚してしまったけれど。
教皇様だってそうだ。ゼラニスに近いけれど、アスラルの人たちのことを思って戦ってきた。
自分はどうなのだろう。
ダグからもらった剣を帯びている限り、自分だけでなく誰かを傷つけることになる。
何のため?
冒険家に憧れたのは、自由だったから。自分で稼いで、自分勝手に生きて、場合によったら一財産作って、人から敬われ尊敬され……もしくは畏怖され、自分の活躍をつづった物語が作られ、それを読んだ少年少女に憧れの目で見られ……。
けれど、そんなものにどれほどの意味があるのだろう。
あれほど感じていた魅力を、今は全然感じられない。
ダグと旅をして、目前でまざまざと見せ付けられた現実と男達の生き様は、そんなものはしょせんガキの夢だと嘲笑うものだった。
今ならわかる。生きてゆくっていうのは、なんて難しいんだろう。
ルージュがあんなことになってしまった今、もう旅をする動機もない。
とはいえ、今さら安穏な生活へ戻ることも出来ない。元々こんな状況に陥ったのは、メルガモの実家を逃げ出したのが始まりなのだから。いくら独りで生きてゆく自信がないからといって、あの境遇に戻るのは絶対に嫌だ。
自分で自分がわからない――
胸にぽっかり空いた空洞を抱いたまま、ルッツはぼんやり考え続けた。
―――――――― * * * ――――――――
陽が昇り、空が薄青一色になっても、ルッツは風に吹かれるまま、その場を動こうとはしなかった。
その位置からは城が小さく見えていたが、人間が蟻のように列を成して、慌ただしく出入りしているのを見ても、何の感慨も湧かなかった。
不意に顔の上に影が落ちた。
何の気なしに見上げると、そこに一人の女性が立っていた。金色の髪が風になびいて波打っている。
「捜したわよ、ルッツ君」
笑いかけてくるサラに対し、ルッツはごろんと横になって顔を背けた。
今は誰とも、特に教団の人間とは話したくなかった。教皇様の死も、ルージュを解放してダグと戦わせた挙句、二人とも死なせてしまったのも、全ては自分のせいなのだ。彼女は知らないだろうが。
サラは断りもなくルッツの横に腰を下ろすと、風に向かって呟いた。
「その様子だと、何があったか全部知ってるみたいね」
「そうさ……全部僕のせいなんだ」
やけっぱちの台詞にも、サラは優しく微笑んだ。そっとルッツの栗色の髪に手を触れ、軽く撫でる。
「……僕はもう帰らないよ」
「どこへ行こうか?」
自分の声に重なったその声に、ルッツは眉をひそめて身体を起こした。
「え?」
「どこへ行こうか、って言ったの」
抱えた膝の上に頬を乗せ、いたずらっぽく笑う。よく見ればその服は白い法衣ではない。膝下まであるフレアスカートに、サマーセーター――確か、一緒に買い物に行った時、買っていた服だ。こうして見ると、どこにでもいそうな町娘の姿……いや、娘と呼ぶには少し年齢が……。
ともかく、手提げ鞄まで持ってきている。
「あ、これ? ……逃げてきちゃった」
そしてうふふ、と笑う。
ルッツは相手の考えが読めず、固まっていた。
「猊下も死んじゃったし、これから教団もどうなるかわかんないしね。これ以上ここにいても、あんまりいいことなさそうだし。元々信仰心のある方でもなかったし……ルッツ君はこれからどうするの? 戻らないんでしょ?」
「ちょっと待って。あの……ひょっとして、僕についてくるつもり?」
風に弄ばれ、頬をなぶる長い金髪をうるさそうに掻き揚げ、当然でしょ、と眼を細めるサラ。
「だってあたし、帰るところなんてないし。かといって行くあてもないし……でも、女一人で旅するのも危ないでしょ」
「けど、僕だってまだ子供だよ!」
「でも男の子だよね。ちょっと落ち込んでるみたいだけど……ルッツ君が嫌だって言っても、あたしはついて行くんだから。あてにしてるわよ、しっかり守ってね」
自分より一回り年上とは思えない、いたずらっぽい笑みを浮かべる。
「そんな……」
呆気にとられながら、しかしルッツは頬が緩むのを押さえ切れなかった。
ダグの言葉を思い出したのだ。
……お前は冒険そのものよりも、女で苦労するかもしれんな ……
全くその通りだ。
リアラ、ルージュ、そしてサラ。どうしてこう僕は、女性が絡むと面倒に巻き込まれるんだろう。
サラの申し出を断るつもりは毛頭なかった。
どこへ行くかはまだ決めていなかったが、独り旅は寂しい。特に今のように重たい気分の時には。二人ならそれなりに楽しい道中になるかもしれない。それに、せっかく頼られているのだ。それも年上の女性に。応えないのはもったいない。
そうそう、ダグとの旅で学んだことがある。年上の同行者は頼りになる。
サラは強い人だ。少し子供っぽいところもあるけど、親に売られた境遇から自分の足で立ち上がった人だ。この人と一緒に旅をすれば、なにか学べるだろうし、行き詰まった時には知恵を借りられるかもしれない。僕の方こそ助けてもらうことになりそうだ。
(あ……そうか)
不意にルッツは、目の前が開けた気がした。
そうなんだ。今の自分は、ダグの助けがなければここまでたどり着けなかったほどに弱々しい。独りで生きて行くことなんて出来ない。まずそれを認めなくちゃいけない。
弱いから、強くなろうとする。弱いことを自覚しなければ、強くはなれない。
あのダグだって、自分の身体が弱いことを自覚して、鍛えるべきを鍛えたからこそあそこまで強くなったんだ。
だから、今は慌てず、他人の力を借りて生きてゆけばいい。その中で強くなってゆけば……強くなろうという意志があれば、必ず強くなれるはずだ。ルージュの傍にいて、その凶行をなるべく止めよう、と決めたときのように。あの決意は以前の僕にはなかったものだ。
そしてダグのこと、シグオスのことを決して忘れないように。彼らがわざわざ解説してくれたこともそうだが、それ以上に彼ら自身の生き様、戦いや強さへのこだわりこそが様々な意味での手本となるはずだ。
僕がこだわるものは――
「僕は冒険家になる」
はっきり、堂々と。
この先、彼の人生の中で度々起こる危機において呟き続けることになるそれは、自分自身への誓い。
なりたい、ではなく、なる、のだ。
これまでは何も知らず、ただ夢を見ていた。
現実を知り、輝きを失ったのはその夢――つまり、動機に過ぎない。子供っぽいその動機が魅力を失ってなお、まだ僕はそれを口に出来る。新しい動機はまだ見つかっていないけれど、冒険家と呼ばれる存在になること自体を僕は……僕の心はまだ諦めていない。だから、僕の心は何かに気づいている。それを言葉に出来るように、それが戦う理由に出来るように、僕は自分自身と向き合い、戦わなくちゃならない。
今、自分の踏み出した道をはっきりと見定め始めた。これからは夢を現実にするために戦うのだ。
しばらくはダグやルージュや、教皇様のことで悩む日々が続くだろう。枕を濡らす夜もあるはずだ。しかし自分の為すべきことさえ見失わなければ、それら心の傷だっていつかは癒えるときが来る。ともかく生きているのだ。やるべきことはすぐに見つかる。そしてそれが旅の目的になる。
そう。僕が戦う理由は、旅をするため。旅の邪魔を排除するため。今は、それでいい。それしかない。
ルッツはいきなり立ち上がると、サラを見下ろした。
「……それでも、ついてくる? サラさん」
「もちろんよ」
頷いたサラは、手を貸して、と手を差し伸べながら優雅に微笑んだ。スラス城に居た時にはついぞ見なかった、裏表のない素直な笑顔。ルッツは訳もなく照れ臭くなって、目を逸らしながら手を差し出した。
「よろしくね、ルッツ君」
立ち上がったサラは、そのままルッツの手を握り続けて軽く振った。
ほら、早速見つかったじゃないか、とルッツは心の内で呟いた。とりあえずはサラを守って旅を続けるのが旅の目的で、僕のやるべきことだ。そしてそのためにこの剣を振るう。振るえるようになる。
「……その名前はやめることにするよ」
握手をほどいたルッツは、ザックを担いで歩き始めた。サラも手提げ鞄を持ってその後を追う。
「あら、どうして?」
「僕、手配されてるらしいから。それに、スラスの件でも教皇の間から出た時に、結構人と顔を合わせちゃったし。ましてこんな風に姿を消したら……僕が犯人扱いされてもおかしくないでしょ。あー、そうそう。ダグと一緒にいたことを知ってる人もいるだろうし」
ふっとシグオスの息子ヘリオスの顔が浮かんだ。彼は父親の死をどう受け止めるのだろうか。そしてシグオスに頼まれたことは、いつ伝えられるだろうか。
「ルッツ君、極悪人だ♪」
からかうように笑うサラ。
「でも、じゃあ、どう呼べばいい? クラスタ君? ルートヴィッヒ、は……重すぎよねぇ」
「……ん〜……と、ねぇ」
ふと足を止めて黙り込んだルッツは、尻ポケットに手を突っ込み、薄汚れた青いバンダナを取り出した。ダグの左拳から剥がしてきたものだ。代わりに黒いバンダナは本来の持ち主のあるべきところに返してきた。
「あ、それ……蒼い布って……」
それが何であるか、即座にわかったらしい。
「これが教皇様の欲しがっていた『ルージュのかけら』……つまり、『アレスのバンダナ』だよ。もっとも、もうただの布切れだけどね」
それを手早く折り畳み、前髪を掻き上げて自分の額に巻きつける。そして今まで浮かべたこともない、自信ありげな笑顔をサラに向けた。
「これで僕は『不死身のアレス』だよ。名前はダグ=アレス……後で黒い服やらマントやらも一式手に入れなきゃ」
ふぅん、と生返事を返して、ルッツを値踏みするように眺め回していたサラは、すっと手を伸ばした。バンダナの縁に挟まっている前髪を優しく引き出し、髪型を整えた。
それは姉が弟にしてやるような、自然な仕草。
「うん、これで男前が上がった」
頷いてにっこり笑い、栗色の頭を気軽に抱き寄せる。
「ダグ=アレス君……ダグ君か。正直、ルッツ君の方がいいと思うけど……思うところがあるんだよね。そういう顔してる。負けるな、男の子」
元気付けるつもりなのか、抱き寄せた頭に頬擦りをしてくる。
正直、男として見られていないのは自分でもわかる。けれど、それでいい。まだ自分が男の子なのだと思わせてくれる、おおらかな仕草がただ嬉しかった。
彼女の前ではリアラやルージュのときのように、畏縮することもない。何だか本当の姉のように思えてくる。
そう言えば、ルージュの封印を解いて意識を失ったとき見た夢……あの夢の中で守っていた誰かは金髪ではなかったか。
いや、いくらなんでも、それは少し妄想が飛躍しすぎか。
苦笑しつつ、ふと自分は案外、運やつきには恵まれているのかもしれないな、と思った。
「わかってるよ。……ありがとう。サラさん」
自分で決めた道を一歩でも前へ進み、ダグ=カークスに近づくのだ。何者にも何事にも動じず、自分の思ったところを貫いて生きられる男に。名前で負けていることを重圧として受け止め、自分を鍛えるんだ。
ルッツ――いや、ダグの名を受け継いだ少年は、眩しげに空を見上げてもう一度呟いた。
「……わかってる」
それは風に乗り、緑の大樹海を渡って地平線の彼方へと消えていった。
− 了 −