蒼きバンダナのアレス Last Episode
〜Cross Fates〜【DUG/RUTZ】
狂乱の女神 非情の死神
- cross fate X ダグ×ルージュ -
耳を打ったのは、感情の抑揚というものを感じさせない昏い声。
瞬時に現世まで引き戻されたルッツは、自分が何をしようとしていたのかに気づいて、咄嗟に身体を翻した。
「……っ!!」
ルージュは表情を一転させ、険しい顔つきで少年を正気に戻した邪魔者を睨みつけた。
その視線の先では、ダグが玉座の背もたれに左手を預けて立っていた。
マントはなく、黒い革鎧を失い、シャツの袖もぼろぼろ、両腕は無惨にえぐられ、不自然に空いたズボンの穴から見える大腿の皮膚はずる剥け、顔色はいつもよりなお昏い。そしてその右手には、いまだ紅の滴が滴り落ちる剣を握っている。
たちまちルッツの表情に光明が射した。
これほどダグの存在を心強く思ったことはない。彼ならこの状況を何とかしてくれる、と少年の瞳は期待に光り輝いた。
「ダグ! よかった……僕じゃ彼女を――」
「……お前の選択した道だろう」
ダグの冷めきった声と眼差しは、明らかに助力を拒んでいる。
ルッツは思い出した。最前、バンダナを返してもらった際の言葉を。
……忘れるな……それがどういう結果となっても、それをお前が選んだのだ、ということも……
「で、でもルージュがこんなことを言うなんて……!」
「理由にならんな。この女が危ないという事は、話したときに少し探れば判ったことだ。それを見過ごしたのは、なにより貴様の思い込みだろう」
「じゃあ……ダグは……」
その台詞からは、前もって彼女がおかしくなっているのを知っていたというニュアンスが感じられた。
だからダグは念を押したんだ……。
ルッツは再び、その場に膝から崩れ落ちた。
なぜ教えておいてくれなかったのか、という思いは、瞬時に自分の胸の内で否定された。
たとえ教えておいてくれていたとしても、僕はルージュを解放した。教皇様があれほど止めたのに、やってしまったのだから。恐らくダグはそれがわかっていたから、そのことには何も触れなかったんだ……僕は……信用されていなかったんだ……。
どんな結果になろうとお前の選んだのだ、という言葉の意味をルッツはようやく悟った。
それは結果を考えて行動しろ、選択したのが自分である限り、どうなろうと責任を持たねばならない、という意味だったのだ。それは逆に返せば、自分の手に負えないけじめや責任には手を出すな、と言うことだ。
現にシグオスは取り返しのつかない失敗をして、道を踏み外していたではないか。
……覚えておくがいい。取り返しのつかぬ過ちというものは、確かに存在する……
シグオスが自分の息子へ送った最期の言葉。あれは、あの時傍にいたルッツへも向けられた言葉だったのかもしれない。
結局、自分は成長したつもりで、実は何も変わってはいなかった。得難い体験をしていながら、何一つ学んではいなかった。何かを考える振りだけをして、何も考えてはいなかった。信じると叫びながら、信じるに足る何かを突き詰めようとはしなかった。
「……僕は……僕は……こんな……」
黒くて大きな――世界ほどもありそうな大きな何かが心を黒い絶望に塗り潰してゆく。それは、これからルージュに壊される世界そのものの重みなのかもしれなかった。
―――――――― * * * ――――――――
悔悟の念に潰れ、うずくまり、肩を震わせて嗚咽を漏らし始めた少年。
ルージュはその姿に哀れみとも蔑みともつかぬため息を一つついて、ダグに向き直った。
内なる狂気に彩られた蒼い瞳と、全てを飲み込む闇の瞳が向い合う。
「ダグ――だったわよね? あなたもあたしの下僕にしてあげようか? 最後に夢で会ってからずっと、あのバンダナを使いこなそうと、いろいろ頑張っていたみたいだし。傷を治せるぐらい、あたしの力を引き出したのはあなたが始めてだったのよ? ……それに、あなたの格好も結構それらしいじゃない」
いたずらっぽくくすくすと笑う少女に、ダグは疲れたため息を漏らした。
「結構だ。人の生死を司る死神ならまだしも、大して芸の無い破壊神の下僕など魅力はない」
天使の笑みが凍りついた。たちまちこめかみに青い血管が走る。
「な……ん、ですって? 芸が、無い?」
ルージュの肩が震える。蒼い髪がざわめきだす。
ダグは嘲笑に口許を歪めながら、自分の顎を撫でた。
「壊すだけなら神の力など借りずとも、人間様の手でできる。時間の問題はあるにしろな。破壊しか能の無い神など、それほどありがたくもあるまい。それに――俺は神の実在を信じぬたちでな」
神を恐れぬ傲岸不遜な台詞に、ルージュの長く青い髪は怒りに逆立ち、身体を包む光のベールは大きく輝き波打った。その強い輝きは、シグオスの炎の輝きなど比較にならない。直視するのも難しいほどの眩しさだった。
「……今の台詞、全部取り消しなさい。さもないと……」
しかし、ダグは少女の怒りをからかうように、冷笑を崩さない。
「どうせ世界を壊すのだろう? なら、早いか遅いかの違いだ。いや、それにしても神様ともあろう者が、俺ごときの言葉を気にしてくれるとは、実に光栄なことだな……くくく」
「あなた、どうあっても死にたいのね……」
ゆっくりダグに指先を向ける。
ダグは笑いながらも、その動きから眼を離さない。右手は剣の柄をしっかりと握りしめていた。
―――――――― * * * ――――――――
感情のうつろわぬ闇色の瞳と、尊大なまでの自信にみなぎる蒼き瞳。
闇をまといし者と光をまといし者の対決。
向い合う二対の瞳のちょうど中間の虚空で弾ける、見えざる火花。
高まる緊迫感。一触即発の空気。
やがて――
「待って!」
いきなり跳ね起きたルッツが二人の間に割り込み、ルージュは慌てて指先を引っ込めた。
「ルッツ!? 危ないわ! そこをどきなさい。その無礼者を処刑するのよ!」
しかし、ルッツは首を振った。
「ごめん、ルージュ。この人は僕の命の恩人なんだ。彼がいなければ僕はここまで来ることなんてできなかった。もちろんルージュが結界を出ることも。バンダナを持ってきてくれたのは彼なんだから……だから、それに免じて今回だけは、今回だけは許してあげて! お願い!」
眼を最大限に潤ませ、両手を合わせて頭を下げる少年。
ルージュはしばしルッツの肩越しにダグの瞳を睨みつけていたが、やがて根負けしたようにその切れ長の青い眼を伏せた。
「わかった。他ならぬルッツの頼みだものね……。今回だけは見逃してあげる。その代わり、この場をさっさと去りなさい」
ほっと安堵の吐息をついて、ありがとう、と頭を下げたルッツは、すぐさまダグに向き直ってその手をとった。……ルージュに見えないよう、蒼いバンダナをダグの手の中に押し込む。
ダグの表情が曇った。
「何のつもりだ?」
「……どこまで牽制できるかわからない。でも…………僕、彼女の傍にいる。だから、これはもういらない。ダグにはこの先必要だと思うんだ。ここまで守ってくれたお礼だから、受け取ってよ」
「それが、お前の選んだ道か」
少し眼を細めたダグに、ルッツははっきりと頷いた。そして白い歯をこぼして笑った。
「今……今、わかったんだ。こんな僕が出来るかもしれない、たった一つのことがあるって」
「……………………」
「ダグが言ったんだよ。全ては生きていてこそ成し遂げられる、過去の決断を疑うより、この先どうするべきかを考えろって。……彼女の傍にいれば、少なくとも生きてはいられる。そして今の僕ができることと言ったら、もうそれぐらいしかないもの」
その顔には悲愴なまでの決意が漂っていた。
泣いている間にルッツは考えた。考えて考えて考え抜いた。自分が何をせねばならないのかを。
そして――ダグを助けるために飛び出したときに、わかったのだ。自分のなすべきことを。ルージュを解き放ってしまったことへの償いは、もうそれしかないことを。
今の自分ではルージュの凶行を止められない。もちろん、殺すなど論外だ。出来るはずも無い。
しかし、生きている限りやるべきことは数多くあり、できることはさらに多くある。
彼女はまだルッツの言葉を聞いてくれる。ならば、その凶行と惨劇の全てを止めることはできなくても、幾らかは食い止めることができるはずだ。もちろん、数多くの惨劇をその眼に焼きつけ、そして一生後悔し続けることになるだろう。でも、それはおそらくこの取り返しのつかない過ちを犯してしまった自分への罰に違いないのだから。
そうだ。あの時と同じだ。オービッドでダグがシグオスと戦うために出て行こうとしていたとき。ダグと一緒に旅をすることは、罪のない人たちに手をかけるダグの凶行を見続けることだ、と悩んだ時と。
あの時と違うのは、もう一切の逃げ場がなくなった。それだけのことだ。
結論は出た。
じっとルッツの腹を決めた顔つきを見つめていたダグは、一つ頷いた。
「……それをお前が選んだのなら、俺は何も言わん。健闘を祈る……死神の祝福を」
「え?」
「傭兵仲間の、別れの挨拶のようなものだ」
「ああ。じゃあ、僕は……破壊神の祝福を」
限りない後悔をにじませながらも少年は照れ臭そうに笑った。
珍しく笑みを返してくれたダグが背を向ける。
これが、今生の別れなのだろう。
(ありがとう、ダグ。……僕、頑張るよ……)
ほっと安堵の吐息を漏らしたルッツはしかし、振り返った瞬間総毛立った。
ルージュが輝く指先をダグの背中に向けていた。その口許にはこれ以上はないというほどの冷酷な微笑。
ダグでさえそんな微笑みを浮かべたところは見たことがない。明らかにルッツの頼みを裏切ることと、安心しきっているダグを背中から撃つことの、卑劣にして邪悪な喜びに満ちていた。
教皇様の時に引き続き、またしてもルッツの制止は間に合わなかった。
しなやかな白い指先が一瞬の光芒を放ち、黒い背に蒼い輝きが――
―――――――― * * * ――――――――
その瞬間、振り返ったダグの左拳が青い残影を曳いた。そして光の矢を真正面から弾き散らせた。
弾け飛んだ光の強さに、ルッツとルージュは思わず顔を背けた。
「何ですって!? 何で……!」
敵対する者が驚きに動きを止めたその瞬間を、"黒衣の死神"ダグは見逃さなかった。
ひとっ飛びに玉座を踏み越え、振りかざした剣の閃きで白くか細い首を真横に薙ぐ。
ルージュと同じ青い輝きに包まれたその一撃はしかし、石柱を直接切りつけたような音と手応えだけを残して、ものの見事に弾き返された。
折れたあばらが痛んだのか、くぅ、と顔をしかめるダグ。唇の端から、小さな赤い飛沫が散る。
ルージュは即座にダグと立ち位置を入れ替え、広間へと回りこんだ。その進路上にあった玉座と、その背にもたれかかるようにくずおれていた教皇の上体を、身体を包む青い輝きのベールで砕き散らして。
「……………………っっ!!」
振り返って、壇上にあるダグの黒い背中を睨みつける。
一瞬の攻撃でダグの恐ろしさを総身で感じたその表情には、驚きと屈辱と恐怖がありありと刻みつけられていた。一筋の擦過傷すら生じていないにもかかわらず、必殺の刃を弾き返した首の辺りを左手で押さえている。
「……納得できない! どうして……!?」
「互いに破壊の属性を持った同質の力が真っ向からぶつかれば、当然の結果だ。驚くほどのことでもない」
学問を教授する教師のような、冷めた口調で説明しながら振り返る。その左手に巻かれた青いバンダナ、そしてそこから立ち昇る蒼い炎の揺らぎにルージュは眼を剥いた。
「バンダナ!? ……ルッツの馬鹿!」
非難された少年はしかし、青年の傍らで彼の無事な姿に胸をなでおろしていた。
「ダグ! よかった……」
「……言ったろう、ルッツ。お前は信用するが信頼はしない、と」
にこりともせずに、辛辣な言葉を吐く。
「お前がこの気違い女を少しでも止められるなどとは思ってはいない。奴に関しては、その言動全てを信用も信頼もしていない。……この程度は予想済みだ」
感情の抑揚にまるっきり欠けたその声に、ルッツは喜んでいいのか悪いのか戸惑った。
「言ったわね」
屈辱をごまかす不敵な笑みを頬に貼りつかせ、片腰に手を当てて傲然と立つ少女は、白い胸に落ちかかった髪を頭の一振りで背中に回した。
「これならどう!」
指先が数度瞬いた。そこから伸びた必殺の光矢を、ダグは左手一本で楽々と叩き潰す。落し切れないものは体捌きであっさりと躱す。
「ええっ!? そんな!?」
たちまち青ざめ余裕を失う少女に向かって、ダグはゆっくりと歩を進め始めた。玉壇を一歩一歩ゆっくりと下りて行く。
「素人め。貴様の狙いどころなど、目線と指先でわかる。これが――年季の違いというものだ」
その顔から一切の表情を消し去った、傷だらけの青年が発する異様な威圧感に、下唇を噛み締めたルージュは、知らず知らずわずかに後退りつつあった。
ふと、ダグの唇の端が歪んだ。冷笑に。
「神を僭称しながらその程度か、ルージュ」
「……っ!! 言ったわ――」
勢い込んで言い返そうとした瞬間、ダグは床を蹴った。
―――――――― * * * ――――――――
ルージュは簡単に誘いに乗った自分の迂闊を呪った。
黒い死の風を巻いて迫り来る死神。人とは思えないその冷酷な眼差し。
たちまちさっき首を薙ぎ斬られかけられた恐怖が甦り、身体を縛り上げる。
「来ないで!」
その攣った悲鳴は、既に恐怖を隠しもしなかった。
生まれて初めて感じる本能的な死の恐怖。
いかに破壊の力があろうとも、少女は少女。十数年程度の現世での暮らしと、二十年に渡る孤独しか知らぬルージュに、自らの心の奥底、魂の内の内から溢れ出すそれを制御する術などあろうはずもなかった。誰もがそうするように、ただ両手を前に突き出すしか。その恐怖の根源を少しでも見るまいと、視界を遮るために。
「き……消えちゃえええっ!!」
掌(てのひら)が光った。
これまでとは較べものにならない極太の光線が、黒のダグを蒼白く染めあげる。
壇上から見ていたルッツの腹にさえ、太く差し込むような短い爆音。
天井の一角に大穴が空いた――
「ダグ!?」
「や、やった!?」
その時破壊の女神が浮かべたのは、皮肉にもあまりに少女らしい安堵の喜びだった。
だが。
それは、即座に絶対の恐怖と絶望にとって変わられた。
どうやってあの光線を躱したのか。
その答を得られる前に、ダグはもう両手でさえその姿を隠しきれない距離にまで肉薄していた。
「……ひ……っ」
全てを呑み込む貪欲な闇の瞳に青く輝くのは、攣った自分の顔。
ルージュは思った。これは人ではない。まさしく死神だ。瞳に映った獲物を逃さず狩り集める死神だ。
再び剣の刃が白い喉元を襲う。今度は鉄琴の鋼板を一つ弾いたような澄んだ音が響いた。
――秘剣『剣断ち』。
しかし、シグオスの炎の守りを断ち破ったその一撃でさえも、少女のか細い肢体を守る薄く青いベールを突き破ることはできなかった。
(た……助かった……!?)
危うく食い止めた凶刃。
少女の心に、安堵のあまり緩みが生じた。
それは……戦い慣れている者とそうでない者の差。
既にその時、ダグは次の動きに入っていた。
ベールの厚みの半ばまで食い込んだ刃の後ろから、蒼い炎に輝く左拳で殴りつける。
心の緩みと容赦なき追い討ち。
ベールは――破られた。
冷たい白銀の刃が、驚愕と一瞬の痛覚に眼を剥いている少女の皮膚を喰い破り、筋・頚動脈・気管・食道……種々の体内組織を、そして頚椎を斬り断つ。
ダグにとってはおなじみの、感じ慣れた感触が右手に伝わってくる。
その時、ルージュはダグを押しやろうと、たおやかな手をその胸板に押し当てていた。
それは……ただ、嫌なもの、自分から離しておきたいものを押しやるための本能的な動き。
黒い死神が最後の最後に犯した単なる計算違いだったのか。それとも、それを承知でおのが命と引き換えに自分の命を刈りに来ていたのか。
離れてゆく自分の胴体を見つめるという不思議な感覚を味わいながら、意識が途切れる最期の瞬間まで、ルージュにはわからなかった。
掌が最期の輝きを放つ――
バンダナからあふれ出す力の全てを剣と拳につぎ込んでいたダグには、もはやその死の輝きから身を守ることも、躱すことも不可能だった。
次の瞬間――青白き光芒は一筋の剣となって彼の胸から背を貫き、虚空にほとばしった。
―――――――― * * * ――――――――
農家の朝は早い。
夜もまだ空けやらぬうちから起き出し、準備をせねばならない。
彼女もまた、いつも通りに起きただけだった。
納屋から農作業道具を持ち出してきた彼女は、ふと北の方を見やった。
そうだ。今日の仕事の前に、旅先で死んだ息子に祈ってあげないと。
彼女は北の空に向かって手を組み、頭(こうべ)を垂れた。
――安らかに眠るんだよ。
――出来たら、お前の弟妹達を守ってあげておくれ。
――今日も一日、元気で過ごすからね。
――そうそう、お前のことを伝えに来てくれたお友達のことも……
その時、なぜ顔を上げたのかは彼女自身にもわからない。
ふと見上げた夜空に、一筋の流星。今にも消えそうなほどか細い、蚕の吐く糸のような流星が長い長い尾を曳いて、北の空を駆け上がっていた。
「……あらまあ……珍しい流れ星ねぇ。普通なら、すぐに消えてしまうのに。でも、綺麗だねぇ」
そう呟いている間に、流星は尾ごと、二三度瞬いて消えた。
「普通とは違うみたいだったけど……誰か……偉いお人がお亡くなりになったのかしら……?」
彼女――ヘイズ=タッカードの母親は、流れ星の消えた夜空に向かってもう一度手を組み、祈りを捧げた。
―――――――― * * * ――――――――
全てが終わったとき、ルッツはどちらに駆け寄るべきか、真剣に悩んだ。
ダグは派手に吹き飛ばされて階段に叩きつけられ、ルージュは無残にも、首と胴が泣き別れている。
しかし、結局は足元で呻くダグに駆け寄った。
破壊神を斃した死神の胸には大きな風穴が空き、その穴を通して床が見えていた。黒く焦げたその傷口は、即死してもおかしくないほどの怪我ながら、一滴の血も漏れておらず、ダグはしぶとく生きていた。しかし、もはや身動きもままならない状態だった。
「ダグ、しっかりして。死んじゃだめだよ!」
「……ルージュを…………ルージュの死を……確認、しろ……」
「うん、わかった。わかったよ。……待ってて」
今にも途切れそうな息の下からの声に、ルッツは直ちに従った。
恐る恐るルージュの首のない遺体に近づき、その胸――は遠慮して、肩に触れる。
まだ温かみの残っていたその身体は、指が触れている間にもみるみるうちに体温を失ってゆく。切断面からとめどなく溢れ流れる大量の血とともに。
胸の奥で、短剣で抉られたような痛みにならない痛みが疼く。
その生々しい血の滴りこそが、やはりルージュは人を超えた存在ではなく、ただの人間であった、と証言しているようにルッツには思えた。
少し力を入れて揺すってみる。ぐらぐらと力なく揺れ動くだけ。
続けて、頭の方へ近づく。
驚きに歪み、眼を見開いたままの少女の首――その頬に触れる。
もう完全に温かさは失われていた。
死神の鎌は、完全にその魂の緒を刈り取ってしまっていた。
「……ルージュ……」
何と言ってあげたらいいのか。言葉が続かない。何を言っても慰めにはならない。
ごめんね、と言ってあげたい気もしたが、何について謝っているのか自分でもわからなかったので、ただ胸の前で『創世の光』の印を切り、冥福だけを祈った。
そしてその目蓋をそっと閉じさせ、身体の傍に戻してやると、もう一度。自分も目を閉じ、黙祷を捧げる。
目を開いて、改めて気づいた。ルージュの髪の色が変わっていることに。
「……君、元の髪は黒だったんだね……。それも綺麗だと思うよ……」
なんだかよくわからない悔しさが込み上げてきた。袖で目の辺りを一拭いして、ルッツは腰を上げた。
―――――――― * * * ――――――――
ルッツは再びダグの元へ戻ってきた。
「大丈夫だよ、……死んでる」
言いながら、胸によぎる複雑な感情を抑え切れず、自分の服の心臓の辺りを強く握っていた。
彼女に初めて頼られたときに感じた、あのお姫様を救う勇者になったような甘い陶酔感。
一転して少女に裏切られた悲しみと屈辱。
そして彼女の死に対する果てしない喪失感と二つの安堵……彼女が罪を犯さずに済んだ安堵と、負い切れない罪の意識に苛まれる前にダグが彼女を殺してくれたことに対する安堵。
さらには教皇様の説得に耳を貸さず、結局ルージュと教皇様を死に追いやり、今またダグの命をも奪おうとしている愚かな自分に対する、身を引き裂きたいほどの嫌悪感。
それらがない混ぜになった混沌たる感情のうねりに、ルッツは耐え切れず、ぼろぼろと涙をこぼし始めた。
「……ダグ、ダグ……僕は…………僕は…………ダグ……」
血の気を失ってゆくダグの手をとり、握り締めながら、少年は溢れ出る想いを言葉にできず、ただ繰り返しその名を呼んだ。
「……哀れな……娘だったな…………」
弱々しい手でいたわるように頭をなでられ、顔を上げたルッツは聞いた。
「ダグ……彼女は本当に神様だったの?」
「……知った……ことか。……もう、どうでも、いいことだ……」
そう言われてしまえば、継ぐ言葉は出てこなかった。ルージュは死んだ。真実がどうなのかは、それこそ神様でなければわからなくなってしまったのだ。
しかし、ルッツは彼女が本当に破壊神の化身だったとは思いたくなかった。二十年に及ぶ幽閉生活の中で、おかしくなってしまっていたのだ、と思った方が救いがある。
何のために生まれてきて、何のために封じられて、何のために解放されたのか……ダグの言う通り、哀れな――いや、そんな言葉の表現では余りに思いの足りない境遇の彼女だけれど、最後は人間の少女として死んだのだと思いたかった。
「…………どうやら……ここまで……か……」
自分の胸を見下ろした死神の化身が漏らす小さい吐息。口許に自嘲の笑みを浮かべたダグの呟きに、ルッツは首がもげそうなほど左右に振った。
「そんなのだめだ! だめだよ! ダグ、死なないで! もっと……もっとたくさんのことを教えてよ! 救いようがないほど馬鹿で憶病で、そのくせ愚にもつかない夢ばっかり見てる僕をもっと助けてよ! 叱ってよ!」
「甘えるな………ここから……先は、俺を置いて……独りで、行け……」
「そんな……そんなの……っ……ダグを置いて行くなんて、僕にはできないよ!」
「人は……いつか、死ぬ……。気に、するな」
自らの死を目前にして、なおダグは冷静すぎるほどに冷静だった。
「でも……。でも……!」
「冒険家に……なるのだろう? ……言ったはずだ…………これがお前の選んだ道だ、と」
泣きじゃくる少年の手に、剣が押しつけられた。シグオスを殺し、ルージュを斬ったヘイズの形見――ルッツは知るよしもないが――の剣。
はっとして顔を上げるルッツに、ダグは余裕めいた笑みを浮かべてみせた。顔中に汗を浮かべ、かなり無理をしていることがルッツにすらわかるほどの作り笑顔を。
震える手で左腰の鞘を取り、ゆっくりとその中に納める。
「持って、行け……」
ルッツは押しつけられた剣を、両手で胸に抱いた。
「ダグ……!」
「……そして……よく……見ておけ……」
剣から離れたその手はぶるぶると震えていたが、親指を立ててそのまま自分を指した。鋭い眼光が最期のきらめきを放つ。
「こ……れが、お前の……選ぼう、としている道、の……なれの、果てだ。親しき……者も……縁者の、見取りも……なく、独り、寂……しく…………惨めな……。それでも……お前は…………」
「み……惨めなもんか! かっこいいよ! 僕だってここにいるよ! だからお願い、死なないで、ダグ!」
託された剣を抱き、再びダグの手をとって首を振りたくる。千切れ飛んだ滴が、点々と床に敷かれた赤い絨毯の残骸に跡を残した。
「ルッツ……もう…………いい、だろう……」
ダグは嬉しそうに笑った。ルッツが初めて見る、素直な笑顔だった。
「やるべき、ことは……やった……これ、以上……する、こともない…………。もう……休ませ、て……くれ…………」
不意にその眼差しの焦点がぼやけた。唇の端から一筋、新たな流れが走る。
たちまちその表情が険しくなり、拳を強く握り締める。それは、敵を前に奥歯を噛み締めた顔つき。そして――その口から最後に漏れ出た言葉に、ルッツは言葉を失った。
「……ルッツ……ルッツ…………前髪が……髪が、落ちてくる…………敵が、見えない……。……バンダナを……バンダナを…………よこせ……髪を……止め………………ヘイズ……敵だ…………背後を……たの…………」
ひときわ大きく深く息を吸い込んだダグは、二度とそれを吐き出しはしなかった。
ルッツの握りしめていた手からも力が抜け、急に重みを増した。
ルッツの背筋をうそ寒い波が走った。もはや手遅れ。もはや二度と戻らない。それは家出のとき、あの名も知らぬ傭兵が死んだときにも感じた、生々しい死の実感。
「ダ、ダグ……? ねえ……ダグってば…………起きてよ、ダグ!」
悲鳴に近い叫びを挙げて、その冷たい骸を揺り動かす。だが、既に冥界へ旅立った魂は、再びその肉体に戻りはしなかった。
「ダグぅぅぅぅぅぅーーーーーーーっっ!!!!!」
暁の虚空で冷たく輝く星だけが、その慟哭を聞いていた。