蒼きバンダナのアレス Last Episode
〜Cross Fates〜【DUG/RUTZ】

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ルージュ 〜再  誕〜

 ルッツは緑の森の中を走っていた。
 その左手に誰かの手を引いて。
 背後から迫ってくるのは野盗の一団か。
 いきなり前方の茂みから、背後の連中の仲間と思われるむさ苦しい男が現れた。その手に握った剣を振り上げ、襲いかかってくる。
 手の中にあるのは小剣一本。
 思わずダグに助けを求めようとしたルッツの左手を、誰かの手が強く握り締めた。
『僕が……僕が守らなきゃ!』
 その瞬間、剣身が青く光り輝いて伸びた。
 わけは分からなかったが、夢中で剣を振るい、たちまち野盗を両断した。
 樹上から襲いかかる敵、茂みから現れる敵、追いついてきた敵……次々と現れる敵を血祭りにあげてゆく。
 最後の一人、黒づくめの男を斬ったルッツは、振り返り、自分が守り切った誰かを見た。
 それは……

 ―――――――― * * * ――――――――

 ルッツは柔らかな布団に包まれて目覚めた。
「だ……大丈夫か、ルッツ……。しっかりしたまえ……」
 頭上から教皇の声がする。
 見上げて初めて、自分が布団ではなく、その胸に抱き止められていることに気づいた。
 口許から一筋、血を流している教皇は、ルッツの意識の無事を確認していつもの優しい顔でにっこり笑った。
 ぎょっとして自分の右拳を見れば、バンダナはまだそこにあった。
 なぜ意識を失っている間に奪わなかったのか、不審に思いながら身体を起こしたルッツは――息を呑んだ。
 教皇は背後から右胸を槍で貫かれていた。シグオスが玉座に突き刺したあの槍の穂先だ。
 一体何が起きたのか。
 振り返ってみれば、ルージュの封じられていた隠し小部屋は瓦礫に埋もれていた。あの黄金色の輝きも消え、塵の漂う暗がりはひっそり静まり返っている。奥から吹いてくる風が頬を優しく撫でてゆくのは、天井かどこかに穴が空いたのだろうか。
 何が起きたのかを思い出し、理解したルッツは、その場でへたり込んでしまった。
 バンダナを押し当てた直後、破壊神の結界である黄金色の繭が破裂したのだ。間近にいた自分は吹き飛ばされた。意識はそこで途切れた。
 そして、ここからは想像だが――そんな僕を、教皇様は我が身をかえりみず、怪我をしないようその懐に受け止めてくれたのだろう。でも、後ろには玉座に刺さったままの槍があって……いや、ひょっとしたら僕を守るためにわざと……。
「き……教……教皇様…………僕は……」
 取り返しのつかないことをしてしまった、という思いと、なぜついさっきまで言い争っていた僕を、という思いが複雑に入り乱れ、言葉にならないまま口をぱくぱくさせていると、ルスターはもう一度にっこりと笑った。
「どうやら口も利けるようだな。……よかった……うぐっ」
 咄嗟に口を覆った左手の指の間から、鮮やかな血流が溢れ、滴り落ちる。
「き、教皇様……どうして……どうして僕を……僕なんかを……!」
 尋ねられた教皇ルスターは、困った顔をした。
「……お主を……見殺しにしなければならない理由でもあるのかね?」
「でも僕は教皇様と……!」
「誰にも間違いと若い頃はある。……それでも、命とはかくも大事なものなのだ。わけても、若い命は」
 全てを許す微笑み。死にそうな怪我をしているのに。さっきまで散々罵り合っていたのに。どうして、そんなに優しくできるのだろう。どうしてそんなに優しい言葉を紡げるのだろう。
 ルッツはがっくり肩を落した。涙がこぼれ、嗚咽が漏れた。あまりに矮小で狭量な自分が恥ずかしく、このまま消えてしまいたかった。いっそ怒鳴りつけられ、見殺しにされた方が気が楽だったろうに。
「やっぱり……教皇様は、教皇様なんですね……ごめんなさい、ごめんなさい。僕……どうしたら……。その傷……血も出てるし……」
 教皇の胸を貫く槍を抜いて、少しでも楽にしてあげたいが、どうしたらいいのかわからずおろおろするルッツ。
 教皇は震える手をその肩に置き、首を横に振った。
「謝らずともよい。……わしも少し性急だったかもしれぬ。お主とはもっと早くに、もっと深く話をしておくべきだった。ルージュについて……」
「ルージュについて……」
「実は……彼女が本当に破壊神の巫女なのかどうか、わしにもわからんのだよ」
「え……ええええっ!?」
 ルッツは飛び上がらんばかりに驚いた。
「じゃ、じゃあ、どうして彼女をあんな目に!?」
「彼女の力が世界を滅ぼす、それは確かだった」
「どうしてそんなことが……?」
 頷いた教皇は、頭上を見上げるように頭を仰向けた。目を閉じ、眉間に皺を寄せる。
「あの娘と出会ったのはもう……そう、二十五年前になる」

 ―――――――― * * * ――――――――

 ……当時、わしは樹帝教の司祭見習いだった。
 庶民の生まれであるわしが学問を修め、身を立てるにはそれしか道がなかったからだ。
 とはいえ、樹帝教教会の内情は腐っていた。上層部は権力者共と享楽に耽ることだけを求め、庶民の困窮など顧みもしなかった。……妬むわけではないが、わしは二十年近く見習いとして過ごしたよ。入信して数年しか経っていない貴族の若い子弟が、次々司祭になってゆくというのに……。
 ともかく、わしが出会った頃のルージュは、孤児だった。年の頃は十歳ぐらいだったろう。流行り病で両親家族を全て失い、わしの派遣されていた孤児院に送られてきたのだ。
 あの子は優しい娘だった。自分より幼い子の面倒をよく見、よく手伝いもしてくれた。子供達に自分の兄弟姉妹を重ねていたのかもしれんな……いたのかどうか、ついぞ聞けなかったが。
 だが……三年後。わしが新しい教団を創設してその教えを広め、また世の中ではシレニアスを倒すための闘争が日ごと激しくなっていた頃だ。
 ルージュはあの力に目覚めてしまった。何がきっかけだったのかいまだにわからぬ。初めは些細なことだった。
 食事中に器がよく割れた。彼女の皿洗い当番の後など特にひどかった。彼女が割るわけではないのだ。彼女の後に触った者の手の中で、割れたり砕けたりするのだ。
 燭台の蝋燭の減りが異常に早くなった。彼女が蝋燭を取り替えたものだけだ。
 彼女が草引きをした庭には、以後雑草が生えなかった。彼女が世話を任せられた菜園は全滅した。
 そのうち、動物が彼女を避け始めた。猫、犬、ネズミや小鳥、虫に至るまで。
 そして……わしが、それが彼女の力によるものだと理解できたのは……子犬が彼女に“壊された”時だった。
 孤児院には色んな孤児が集まってくる。犬の子供も例外ではないのだよ。
 その日、ルージュは捨てられていた子犬の世話をしようとしただけだった。ただそれだけだったのに……子犬が彼女の力を感じて怖がったのか、それとも捨てられ、虐待されて人間を信じられなくなっていたのか……。ともかく、彼女の手に噛みついた。
 次の瞬間、子犬は青い炎に包まれた……そう、お主の持つそのバンダナの光だ。
 それからはもう、彼女の力は暴走する一方だった。彼女自身がその力を恐れるあまり、精神が不安定になり、余計に制御できなくなっているようだった。
 彼女のベッドが消えた。タンスも。孤児院の庭にあった樹が消えた。……嘘かほんとか、孤児院の近所で行方不明が囁かれるようになった――幸い、わしの知る限り孤児院の子供たちに被害はなかったがね。彼女は……無意識にそうなることだけは抑えていたのかもしれない。
 わしにはすぐ彼女の力が何をもたらすか、予想できた。時は動乱の時代。打倒シレニアスの叫びの下、多くの義勇兵がアスラル各地で立ち上がり、命を懸けて自由と平等を取り戻そうとしていた熱い時代だ。彼女の力が公になれば、どの陣営にしろ、絶対的な武器として利用されるのは目に見えていた。
 また、彼女の力が日々増大していることにも気づいていた。最初は無機物、小さな物、そして生き物、大きな物……。
 そしてある日、彼女が塵と化した部屋で目覚め、子供達や信者の目が変わったときにわしは心を決めた。彼女を、そして世界を守るため、彼女を封じなければならんと。
 そこに……生まれたばかりで、何の権威もない自分達の教団に権威を与えよう、という意図があったことも否定せぬよ。あの時は時代を生き抜くためになんであれ権威が必要だったし、わし以外の者も皆、それを強く望んでおった。だが、たとえその意図がなくとも、わしは彼女を封じただろう。世界と彼女自身の平穏ために。
 封印の儀式は順調に進み、彼女は永遠の結界に封じられた。
 だが……わしは一つだけ誤りを犯したのかもしれぬ。
 そのバンダナだ。
 魔法的儀式を仕込み、空間を超えて彼女の力を漏出させられるようにしたそのバンダナには、いくつかの意味があった。
 一つは彼女の遺品という意味。彼女につながるものとして、わしが常に彼女を忘れぬように、携えておくべきものとして。
 一つは彼女の力を抜く弁という意味。彼女の力がもし有限だった場合に、何百年何千年後かにそのバンダナを通して力が抜け切り、結界の維持が自力でできなくなれば彼女は解放されるだろうという、一縷の望みとして。
 そして……もう一つ。これがお主に話した理由だ。
 あのバンダナを研究し、もし魔法的に複製できればアスラルはルージュの力を得た無敵の戦力を保有できる、とわしは考えたのだ。シレニアスの遺産や血の復活を狙う、森の外の強盗どもに脅かされずに平和を維持できるかもしれない、とな。それに、その力を使えばそれだけ彼女の力は失われ、解放は早まるかもしれぬ、とも。
 だが……結局バンダナは儀式の直後に奪われ、二十年間わしの元へは戻ってこなかった。そして……人の手に渡るたび、悲劇をもたらしてきたのであろう。
 こんなものを……ルージュとのつながりを保っておきたいなどと、未練がましいことを考えねば、それらの悲劇を生むこともなかっただろうに……。

 ―――――――― * * * ――――――――

「それじゃあ、彼女が破壊神の巫女というのは……」
 ようやく収まった涙を袖で拭いながらルッツがそう聞いてきたのは、恐らく理解を超えた告白の中でそのことだけを理解できたからだろう。
 ルスターは力なく首を横に振った。
「……少なくとも、わしが神御自身からそれを裏付ける言葉による御託宣を受けたことはないのだよ、実は。また、彼女の口を借りて御託宣を下されたこともないのだ。だが……あの力は破壊神様のものと確信しておる」
 もっとも、その手の神の声など生まれてこの方(かた)、聞いた試しはないのだが、と『創世の光』教団の至高者は心の中で呟いた。
 神の存在は、神への信仰の強さを通じて発現される奇跡の力によって実証されている。
 それに、天上におわすいと高きものの言葉が、地を這うものに過ぎない人間の言葉であるとは限らないし、そうである必然性もない。
 その意味では、ルージュは神の力を得た存在なのかもしれないし、そうではないのかもしれない。ただ、あのような力を彼女が得たこと、それを封じるのが破壊神を主神とした教団を創ったばかりの自分であったことは、神の御意志の発現であると信じていた。
 しかし、この少年はそれを真っ正面から否定した。気持ちは解らないでもない。この少年の眼差しは、恋の熱に浮かされている。
「……あるいは、わしも……ぐ……ごふ……」
 喉奥から込み上げる血にむせた。口許を押さえた手の指間から、また新たな赤い雫が滴り落ちる。
 掌を濡らした新たな鮮血に、ルスターは目を閉じ、顔を仰向けた。
 いずれにせよ、もはや自分には事態を収拾するだけの力はない。この少年に任せるしかない。この出会いも神のご意志である、と信じよう。
 そう、なにより今宵はルージュの生誕記念祭。今日のこの日に現世に彼女が帰還したのは、偶然ではないのだろう。
「ルッツ……彼女を信じると言ったな……。その言葉の責任を果たしたまえ……彼女を頼む……」
 どうやら、わしの役目はこれで……――

 ―――――――― * * * ――――――――

 ルッツは何度も頷きながら、袖口で涙を拭っていた。
「……はい。はい……は――」
 その時――不意に総毛だった。背後から押し寄せてきた、ただならぬ気配に。
 それは圧倒的な存在感だった。直接触れてもいないのに、直視しているわけでもないのに、物凄い密度の存在がそこに居ることを、背中の肌でびりびり感じる。
 そこに居るものを見ているはずの教皇の顔が、たちまち硬張ってゆく。
「――無様な姿ね。おじ様。でも、それが自業自得というものかしら?」
 夢の中で聞いたあの涼やかで甘い声が、背中越しにルッツの耳をくすぐる。
 息を呑み、ゆっくり振り向く――
 どきりとした。一糸まとわぬ肢体を仄かに青く輝くベールのような光に薄く包み、青く長い髪を吹き込んでくる風に弄ばせている、愛しの処女神。
 しかし、薄暗い瓦礫の中に独り立つその姿は、破壊の女神を連想させた。
「ルー……ジュ……?」
 後ろで手を組み、散歩でもしているような軽い足取で歩み寄ってきた少女は、少年を無視して瀕死の教皇の前に立った。そのあまりに堂々とした態度は、思わずルッツの方が気押され、道を譲ってしまう。
「ルージュ……。……君は……あの眠りから目覚めてはいけなかった……のに……」
 彼が心から愛する娘を映すルスターの瞳……そこには限りない哀しみが宿っていた。
 ルージュは嫌悪感も露わに鼻を鳴らした。
「ふン。勝手なこと言わないで。あたしにはやりたいことがいっぱい、い〜っぱい、あるの。もう誰にも邪魔はさせない……もっとも、あたし相手に邪魔なんてできる人、いないでしょうけどね♪」
 前屈みになって教皇の顔を覗き込み、無邪気に笑う少女にルッツは背筋が冷えるのを感じた。
 何だ、今の物言いは。まるで神様になったかのような……いや、それよりも彼女は普通の娘に戻りたい、普通の娘として生きたいと言っていたのではなかったか。
 動揺に口も利けないルッツを無視したまま、ルージュは腰を折り、手を伸ばして教皇の頬に触れた。そしてゆっくりと撫で回す。その手つきは十五、六歳の少女のものとは思えなかった。熟練した娼婦の手つき……思わずルッツはリアラを思い出していた。
「おじ様……。その怪我じゃ、もう長くはなさそうね。苦しい? でも……あたしのながい、ながぁぁぁぁぁぁぁ…い孤独に比べたら、全っっ然大したことはないと思わない?」
「……ああ…………全く……その……通り、だ……ね……」
 血の気を失った顔で優しく笑いながら、その青い髪を撫でようと伸ばした左手。
 しかし、少女はいきなり形相を変えてその手を払い飛ばした。
「触らないでよ、厚かましい。あんな仕打ちをしておいて、いまさら何のつもり? まさか今でも愛してる、なんて言うつもりじゃないでしょうね?」
 静かに頷く教皇に、大きく仰け反った少女は耳障りな甲高い声でけたたましく嗤った。樹間を渡る怪鳥の鳴き声を思わせるその声は、あの涼やかで甘い声がどうやればこうなるのか、と戦慄するほど冷たく、狂気じみていた。
 ひとしきり笑った後、少女は冷酷な表情に戻り、ぞっとするほど冷たい眼で自分を閉じ込めた男を見下した。
「馬鹿馬鹿しい。そんなたわごと、信じると思う? 馬鹿にしないでよね」
 ふふん、と鼻で嘲笑った少女は、ルスターに向かって制止するかのように掌(てのひら)を向けた。
「まあ、いいわ。おじ様にはあの結界のお礼をしなくちゃね。……あたしがいたのと同じ暗くて冷たい世界に送ってあげる。もっともそこからは二度と戻れないけど……。あたしの気持ちよ、遠慮しないで受け取って」
「ルージュ、やめ……!」
 ルッツが止める暇もあらばこそ、白く可憐な掌から発した光芒。
 あまりの眩しさに思わず顔を背け――戻した時、ルスターの頭は塵も残さず消え去っていた。
 背後の玉座にも丸い穴が空いていた。その周囲は黒く焼き焦げており、木材の焼ける匂いがぷうんと漂った。
「く……くく……くくくくくっくっく……あははははははははは、きゃーはははははははっ――消えちゃった! あははははは、おじ様の頭、消えちゃった!! おっかし〜、きゃははははははは」
 再び始まったルージュのけたたましい嗤い声。
 ルッツはその傍らにへたり込み、ただ呆然としていた。
 狂ったように腹を抱えて身をよじり嗤い続ける少女と、頭部を失って力なく崩れ落ちた教皇の遺体とを何度も何度も交互に見ながら。
「ルージュ…………どうして……こんな、ことを……」
 きりりと奥歯を噛み締めたルッツは、厳しい表情で少女を見上げた。
「ルージュ! 約束が違うじゃないか!」
 途端に狂気の引き攣り笑いはぴたりとやんだ。
 打って変わってダグを思わせる無感動な面持ちでじろりと発言者を見やる。その表情に夢の中で見た、ルッツより一つ二つ年上なだけの少女の片鱗はどこにもない。
 少女はへたりこんだままの少年を見て、なぜか、ははン、と鼻で嘲笑った。
「あら、ルッツ。そんなとこで何してんの?」
 ルッツは言葉を失った。あまりと言えばあまりの冷たい言葉。おかしい。何もかもがおかしい。
「……何って…………君が、結界から解放されて普通の娘に戻りたいって……だから教皇様を説得しようとここまで……もう少しで……わかりあえそうだったのに…………なのに、なのに君は!」
「ふぅん、そうだったの? じゃあ、あたしのためにしっかり頑張ってくれてたんだ。うふふ、あたしの見込んだ通りね、ありがと♪ 何かお礼をしなくちゃいけないわね。何がいいかな?」
 ルッツの怒りが見えないかのように、ルージュは天使の無邪気な笑顔を振りまいた。そして彼が口を開かないうちに手を叩いて、すぐ言葉を継いだ。
「そうだ、世界を半分あげよっか?」
「………………は?」
「あたし、やっぱりこの力を得たからには、すべてのものを壊して壊して壊しまくるのが役目だと思うのよね。――こんな感じで」
 言うなり、ルージュは背後――自分が閉じ込められていた小部屋に向かって掌を向けた。
 再び閃光が迸る。数秒間の発光の後、冷え切った風が押し寄せてきた。
 両手を交差させて光の眩しさから顔を背けていたルッツは、顔を戻した途端に驚くべき光景を見た。
 あれだけ積み重なっていた瓦礫も何もかも消し去られいた。それだけではない。大きな穴が空いていた。小部屋の向こうの壁に。夜空が見える。だが、一番驚いたのはその先――黒々としたシルエットのシェルロードの山の峰の一角に、不自然な噴煙が立ち昇っていた。ルージュの力で消滅し、砂になった部分からだろうか。
 あんぐり空けた口をパクパクさせているルッツ。
 腕組みをしたルージュは、ちょっと納得がいかないように首を捻っていた。
「あれぇ? 山ごと消し飛ばすつもりで撃ったのに……ちょっと待ってね、ルッツ」
 今度は両手を揃えて山に向ける。
「――えいっ!!」
 聞くだけならいささか可愛らしい気合の声。
 だが、先ほどよりもさらに眩しい光の奔流の後――峰が一つ、消えていた。ぱっと見にはわかりにくいが、さっきまで確かに尖っていた部分が平らになっている。
 それだけのことをやっておきながら、ルージュはまだ納得できないのか首を捻る。
「ん〜〜……やっぱりおかしいな。まだちょっと本調子じゃないみたい。ま、でもちょっと練習すればすぐ慣れるわよね、うん」
 自らの言葉に力強く頷いて、ルージュはルッツに興味を戻した。
「でもさ、世界ってすっごく、す〜〜〜っごく広いって話だから、多分、半分ぐらいで飽きちゃうと思うの。だから残った半分はあなたにあげる。好きにすればいいわ。すっごい贅沢だってできるし、すっごい酷いこともできるし、すっごいこといっぱい、い〜っぱいできるわよ? 邪魔する相手は私が全部壊してあげる。ね、素敵でしょ。それがあたしのお・れ・い・よ♪」
 現実とは思えぬことをし、正気とは思えぬ言葉を吐いておきながら、屈託なく陽気にはしゃぐ少女に、ルッツはまず我が目と耳を疑い、ついで彼女の頭を疑った。
「何を言ってるんだよ! 君は破壊神の信者でもなければ巫女でもない、そんな力もないって言ったじゃないか! あれは……あれは全部嘘だったの!?」
 途端に少女の笑顔が消えた。気分を害されたのか、醒めた顔つきになってため息を漏らす。それは呆れた、というより蔑みのため息だった。
「嘘なんかついてないわ。あたしは破壊神の信者でもなければ、巫女として神の御託宣をいただく力もないし、いただいたこともなかったもの」
「だったらその力は何だよ! それに世界を壊すって……!」
「わっかんない人ね。信者でも巫女でもない……あたしが破壊神なのよ
 大威張りで発達途中の胸を張り、立てた親指で自らを指してみせる年上の少女に、ルッツはあんぐりと空けた口を閉じることも忘れた。
 ルージュはその姿勢のまま、ふわりと頭一つ分ほど空中に浮き上がった。
「信じられない? でも考えればわかることでしょ? 別に破壊神なんて信じてもいなかったのに、こんな人を超えた力を宿してる。だったら、あたし自身が神だっていうのが一番しっくりくる答えじゃない? ……多分、神様だった頃の記憶は封印したままなのか、これから思い出すのよ、きっと」
 うふふ、と恍惚たる表情で微笑みながら、腕を虚空に向けて広げる。その眼差しはもうルッツを見ていない。
(そんな……)
 鉄砲水のように押し寄せる果てしない後悔と絶望。
 ルッツは魂を喪った廃人のように固まり続けた。
 憧れのお姫様、夢の女神が、いきなり破壊の女神となってしまった。もう彼女が何もない虚空に何を見ているのかなど、想像もできない。
 どう声をかければ正気に戻ってくれるのか、いや、そもそも正気に戻るのだろうか。
 ふとウルクスからオービッドへ向かう途中のダグの言葉が、耳の奥に蘇った。

……敵は必ずそういう心の隙を突いてくる。常に何事をも疑う姿勢を持て。相手を信じるなとは言わないが、信じたいのならなおのこと疑え……

 ああ。そうだった。
 結局、自分は何一つわかってはいなかった。
 あれほど一生懸命思い止まるよう説得してくれた教皇様さえも死なせてしまった。それだけでも取り返しのつかない過ちだというのに。そのうえルージュは……命懸けで解放した彼女は、世界を破壊するという。
(でも僕は……彼女を疑うなんて……出来なかった……。出来なかったんだ……)
 もはや事態は、ルッツの思惑も能力も超えて動きつつある。なす術はなかった。
 どうすればいいのだろう。何をすればいいのだろう――
 ルッツは堂々巡りの思考の中に落ち込んで行った……。

 ―――――――― * * * ――――――――

 動かなくなった少年をよそに、ルージュの恍惚に満ちた独り言は続いていた。
「いい、ルッツ? あなたはあたしを解放してくれたから、特別よ。いつも傍にいなさい。守ってあげる。あなたを傷つけようとする全てのものから……。それにあたしの楽しみの半分はあなたにあげる。あたしが何か楽しむときは、必ずあなたも楽しむの。後は寝るのも起きるのも、散歩も空を飛ぶのも水の中に潜るのも、全て一緒にしましょ。あたしがどうやって力を使うのかも、ぜ〜〜〜んぶ見せてあげる。ひょっとしたら、あなたにも使えるように出来るかもしれないわ。――だからルッツ、あたしに誓いなさい。忠誠を。永遠の忠誠と引換えに、あなたには永遠の安楽と快楽をあげる……」
 ルージュは言葉の締めくくりに、ルッツへ向けて両腕を差し伸べた。この胸に飛び込んできなさい、と誘うように。
 生きていながら死んでしまったかのような土気色の顔色になっていた少年は、ふらふらとおぼつかない足取りで立ち上がった。
 己れのしでかしたことのあまりの重大さ、責任の重さに押し潰されていた――そこへの誘い。不思議な蒼い光に包まれた素っ裸の少女の、微笑みに彩られた誘い。あまりに甘く、かぐわしい誘い。
 ああ、まさしく彼女は破壊神だった。この重荷さえ、彼女は破壊してくれる。
(……もう……いいや…………どうせ僕に……できることなんか……だったら――)
 少女の差し出すその腕の中に身を投げ出――

「それで……いいんだな?」

 脳天から脊髄までを一本の針で刺し貫かれたような衝撃に、全身が硬直した。


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