蒼きバンダナのアレス Last Episode
〜Cross Fates〜【DUG/RUTZ】

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再  会 - cross fate W ダグ×シグオス2/ルッツ×ルスター -(前編)

 ハイデロア騒乱の折ではあったが、スラスにおける『巫女生誕記念祭』は混乱もなく執り行われた。
 伏せっているという噂のあったルスター教皇も、久々に巡礼たちの前に元気な姿を現わし、節目のこの日に相応しい話を披露した。


 ――その夜。
 世界が完全な眠りに就く真夜中の闇に紛れ、黒衣の死神は音もなくスラスに舞い降りた。

 ―――――――― * * * ――――――――

「……猊下?」
 不意に掛けられた若い女の声に、火の気も人気もない廊下を一人とぼとぼ法衣姿で歩いていたルスターは、びくりと肩を震わせた。
 恐る恐る振り返ると、燭台を持った金髪の女官が怪訝そうに眉をひそめていた。透けて見えそうな薄い素材の、白くゆったりした夜着はルスターの趣味だが、こういう状況では幽霊と見間違えそうだ。
「このようなお時間にどちらへ?」
 心配そうに近づいてきた女官の顔を確認したルスターは、小さく安堵した。
「なんだ、サラか。今日はルージュの生誕祭だからな。少し独りになって瞑想でもと……お主こそどうしたのだ、こんな時間に」
 サラは教皇の前で深々とお辞儀をした。
「はい。寝る前にもう一度ルッツ君――あ、いえ、クラスタ様の様子を見てこようかと。夕方にシグオス様と戻ってきてから、ずっと考え込んだままで元気がない様子したので……」
「ふむ」
 腕組みをして、少し考え込んだルスターは、頷いた。
「そういえば……ここしばらく話どころか、顔すら合わせておらなんだな。彼にはしっかり話をしておかねばならんのに。……やれやれ、時間が思うままにならぬことだけは、教皇という地位の難儀なところだ」
 肩をすくめて見せるルスターに、立ち上がったサラは曖昧にはにかんで頷いた。
 ルスターは、ふと向かっていた方向に顔を向けた。
「そうだな……今日はルージュの生誕祭であったな。ちょうどよいかもしれぬ」
 向き直ったルスターは、サラに命じた。
「すまんがサラ。もし彼が起きていれば、教皇の間まで寄越してくれぬか」
「教皇の間、ですか?」
「そうだ。お主は来てはならん。……彼に、大事な話があるのだ。誰も交えず、彼とわしの二人だけでな。その機会、今ならよかろう」
「でも……お一人になるのは危険じゃありませんか? 誰か……シグオス様でも御警護に」
「黒衣の死神のことか」
 サラは不安げに眉をひそめたまま、頷いた。
「はい。女官達の間でもかなり噂になっています。怖がって部屋から出ない者も……」
 ルスターは苦笑した。中途半端な情報では、それもやむをえまい。むしろ、そんな中でもしっかり客人の世話を欠かさない彼女を褒めてやるべきなのだろう。
「それは心配するなと言っておけ。聞いた話では、奴が狙うのは教団幹部だけのようだし、無用の殺しもせぬそうだ。むしろ、わしが一人でおるだけの方が、他の者には迷惑をかけぬ」
「でも、猊下の御身(おんみ)が心配です」
「……お主は優しいな、サラ。そういうところ、わしは大好きだぞ」
 にっこり笑って、サラの頬を撫でてやる。
「よかろう。お主のその気持ちを汲もう。シグオスに教皇の間の警護を命じる。ルッツの様子を見てきた後でよいが、お主が伝えてくれるか?」
 たちまちサラの表情が安堵に和らいだ。
「わかりました。でも、あの……シグオス様はともかく、クラスタ様ご就寝でしたら、いかがいたしましょう?」
「その時はすまんが明日の朝、少し早めに彼を起こして寄越してくれ。わしは今夜一晩、あの部屋におるでな」
 サラはたちまち顔をしかめて首を振った。
「そんな。お体に障ります。昨日まで伏せておられたのに」
「案ずるな。別に病や体調を崩して寝ていたわけではないのだ。ともかく、今命じたことを頼んだぞ」
 それだけ告げると、教皇はサラの返事を待たずに背を向けた。
 教皇の間へと向かうその背中を見ながら、サラは深々とお辞儀をして夜着の裾を翻した。

 ―――――――― * * * ――――――――

 いくつもの燭台が放つ煌々たる明かりが、教皇の間を照らしている。
 いつもと違い、正面扉から入って来たルスターは、いつも訪問者や部下が膝をついて教皇を見上げる位置で足を止めた。
 そこからじっと玉座を見据える。正確には、その奥にあるものを。
「……もう、二十年になるのか」
 胸の奥にうずくまる倦んだ空気を吐き出し、ゆっくり一歩一歩玉座に向かって歩を進める。
「本当ならば…………連れ合いを見つけ……結ばれ……子を産んで……その子がまた新しい未来を夢見る頃であろうにな……」
 噛み締めるように玉座下の段を一段一段上がってゆく。
 そして、玉座に腰を落した。肘掛に両手を預け、天井を見上げる。
「ルージュの人生を代償にしたにしては、まだ成したることはわずかばかり、か。……すまぬな、ルージュ。不甲斐ないわしを許せ。だが……我が命尽きる前に、必ずアスラルだけでなく世界の全てに平穏を……お前が望んだ平和を――」
 不意に風が頬を撫でた。
 何気なく、風の吹いていた方を見やる。

 人型の闇がそこに凝集していた。

 どこから入ってきたのか、ルスターにはわからなかった。気がつけば正面の広間――さっき自分が立っていた場所に出現していた。
 黒いマントに黒い服、黒いブーツと黒い手袋、黒い髪に全ての光を吸い込んでしまう闇の瞳。闇が凝縮して産まれたような男だった。
 何者か、誰何(すいか)するまでもない。聞いた話と寸分たがわぬその姿。そしてこの状況――この男が、死神とうたわれし傭兵ダグ=カークス。
 ルスターはその若さに軽い驚きを覚えた。まだ青年と呼べる年齢だ。三十路にすら至ってはいるまい。こんな若者が、"救国"の英雄と呼ばれたシグオスをあれほどまでに追い詰め、いまや教団を傾かせているというのか。
 だが、すぐに合点した。
 眼だ。あらゆるものに絶望したかのようなその瞳。それ比べれば、権力の走狗として剣を振るう、似たような立場のシグオスの眼光にはまだ人間味がある。
 それにしても、よもやこれほど早くに現われようとは。
 ふと、ゆらりと何かが揺れた。
 蒼白い光――濁りきった瞳の少し上。全身闇色の中で、唯一額で淡く湯気のような光を発しているバンダナだけが、青く輝いていた。
「そうか……『ルージュのかけら』はお前が持っていたのか……」
 答えず、青年はすらりと剣を抜いた。殺意がぎらりと燭台の光を弾く。
「待て、ダグ=カークス」
 足を進める黒色の人型に向けて、ルスターは手を突き出して制止した。
「余を斬るのはいつでもできよう。せめてその前に、バンダナだけは返してはもらえまいか」
 ダグは怪訝に眉を寄せた。
「余はそのバンダナを二十年間、追い求めておった。そもそもそれはルージュの形見にして、二十年前に我が手より奪われしもの。せめて最期……そう、最期のこの瞬間にその輝きをこの手にさせてはもらえぬか」
 ルスター一世一代の賭け。
 破壊神の力を湧出させるバンダナが我が手にあれば、その力を用いてまだ何とでも身を守れる。その自信はある。なんといってもこちらこそが破壊神の信者を束ねる教皇なのだから。
 それに殺し屋だ、死神だといわれようが、しょせん人は人。欲もあれば、情もある。二十年間教団の頂点にあって人の心の裏表を見、幾多の権謀術数をくぐり抜けてきた自分ならば説得できるはずだ。
 不意の侵入に驚きはしたが、いまだ状況は定まってはいない。ここでバンダナを手にし、優位に立てば状況を打開できる――
「頼む」
 顔を引き締め、真顔でダグを見つめる。
 だが、ダグは表情をぴくりとも動かさず、剣を提げたまま玉壇へ上がる階段の一番下に足をかけた。
「……どうせ死ぬなら、バンダナなど持とうが持つまいが同じことだ」
 低い唸り声――どっと冷たい汗が吹き出した。
「ま、待て! それは正論だが――だが……情けを……頼む! お主も人なら、死にゆく者に情けを――」
「戦にそんなものはない」
 迫り来る青年の口元に貼りついた冷笑に、全身が総毛立った。
 このやり取りだけでルスターは思い知った。こいつは人ではない、と。少なくとも、話の通じる相手ではない。
 この男は心から人殺しを楽しんでいる。獲物の恐怖を喰らっている。
 今さらながら、シグオスが戦神の化身と言ったのが納得できた。いや、シグオスより巨大な熊が目の前にそそり立っているかのような、絶望という名の圧倒的な存在感は、死の化身と呼んだ方が近いかも知れぬ。
「死ね、教皇」
 死の塊が一気に階段を飛び越え――ようとして、踏みとどまった。半歩体を引いて、後ろにそり返る。
 間一髪、ダグが飛び出していたであろう虚空を、銀色の流星が引き裂いた。それはダグの黒いマントと教皇の頬をかすめ、玉座の背もたれに深々と突き刺さる。燭台の輝きを弾いてきらめく穂先は、背もたれの裏にまで突き抜けていた。
 玉座に座したまま、驚愕の眼差しをダグの背後――教皇の間の入り口に向ける教皇ルスター。
 いつ開かれたのか。開け放たれた正面扉、その向こうに二人の人影が立っていた。
「……もうよせ、ダグ。貴様の相手は俺のはずだ」
 呻くがごとき声――影の一つは、シグオスだった。左眼に黒い眼帯を当て、全身を甲冑で包んだ戦闘態勢がこの上なく頼もしい。そしてその後ろには、白い法衣姿のルッツの姿もあった。
「お……おお、シグオス! よくぞ来た!」
 思わず挙げた歓喜の声は、振り返ったダグの鋭い眼差しに封じられた。

 ―――――――― * * * ――――――――

「シグオス……俺の気配を感じたか」
 シグオスに向き直ったダグは、剣を肩に担いだ。その切っ先は正確に背後の教皇を指し、深い淵のように澱んだ昏い眼差しの奥底には、青い情炎が燃えている。
「ちょうどいいタイミングだ。そこで見ているがいい。貴様の最も大事なもの、教団崩壊のその瞬間を。……貴様に止める資格はない」
「ある」
 シグオスは即座に、胸を張って答えた。のっそりと部屋の中へと進み入る。
「もはや、俺は聖騎士団総団長ではない。先だって、クルスレードの一件とオービッドでの不甲斐なき様を理由に解任された。……俺にとって教団は護るべきものではなくなった。――いや、違うな」
 やるせなげに首を左右に振ったシグオスは、隻眼でダグを真っ直ぐ見据えた。
「俺は教団を護る資格を失ったのだ。今は…………ただの罪人だ」
 ほう、と感嘆の声をあげたダグはしかし、姿勢を変えようとはせず、切り返した。
「ならなぜ止める? 関わりないのなら、止める筋合いではあるまい」
「お前は俺への憎しみで教団幹部を暗殺してきた。護るべきものを護れぬ屈辱に俺をまみれさせるために。だが、もう猊下をその手にかけても、俺へのあてつけにはならん。それに、お前は故(ゆえ)なき殺しをせぬ男のはずだ。……これ以上無体を働き続ければ、ダグ=カークスという稀代の傭兵の名を汚し、惨めになるだけだぞ」
 しばし静寂がその場を支配した。
 シグオスは固い決意の面持ちで、ダグはそのシグオスの心を探る目付きで、お互いを見据え続けた。
 やがてダグは肩から剣を下ろし、上がりかけていた階段から足を降ろした。
「……なるほど、少しは口が回るようになったようだが……。相変わらず、上から見下ろす物言いだな」
 くくっと冷笑を浮かべたダグは、そのまま広間まで下りた。
「俺が名を汚し、惨めになる? 笑わせるな。どう呼ばれようと、どう見られようと知ったことか。必要なら殺す、それだけだ。……貴様はまだ、俺という男がわかっていないようだな」
 ふっと背後を振り返る。その一睨みで、席から腰を上げかけていた教皇は、硬直した。
 そのまま、目の端に教皇を捉えながら続ける。
「どうした、シグオス。あのじじいを助けてほしいのだろう? だったら初めからそう言え。おためごかしに俺の誇りなぞ持ち出さず、這いつくばって涙ながらに頼んでみたらどうだ? ダグ=カークス様、私が悪うございました、なにとぞ教皇様の命ばかりはお助けください、とでもな」
 シグオスの目が細まった。
「……それで、剣を納めてくれるというのか」
「さあな。……俺は貴様の惨めな姿が見たいだけだ。這いつくばった惨めな姿か、それとも屈辱に怒り狂う惨めな姿か……あるいは、おのが力及ばず悲嘆にくれる惨めな姿か……選べ」
 沈黙。
 教皇の間の全ての空気が固体と化したかのような緊迫感。
 やがて――シグオスが膝を折った。もう片方の膝も着く。そして両手さえも床に着き、四つん這いになって頭を床にこすりつける。
「頼む。……猊下は助けてくれ」
「ダグ=カークス様はどうした」
「ダ……ダグ=カー……クス…………様」
「言葉使いも、人の名前を一息に言えない礼儀知らずも、まったくなってないな」
 冷たく吐き捨てて、小さく息を吐く。つまらなさそうに。
「だが……そこまで腹をくくった今の貴様の前で、このじじいを殺してみても、屈辱と悔悟の呻きは聞けそうにないな。それでは面白くない」
 ダグの殺気が霧散し、ルスターは脱力したかのように玉座に腰を落とした。
 シグオスがずいっと上体を持ち上げる。
「……ここで全ての決着をつけるぞ。異存はないな」
「それはいいが、お前の傍にいるのは何だ?」
 顎をしゃくったダグの言葉には刺がある。
 しかし、それは指し示されたルッツ自身が進み出て弁明した。
「違うよ、ダグ。僕は教皇猊下に呼ばれてて……今、たまたまそこで会っただけなんだ。シグオスさんにそんなつもりはないよ」
 ダグはたった一言、そうか、と呟いた。
「ルートヴィッヒ=クラスタ、離れておれ」
 立ち上がったシグオスは腰の剣を抜き放ち、ダグとの間合いを詰めるべくさらに踏み込む。
 しかし、その忠告を無視してルッツはダグに駆け寄った。

 ―――――――― * * * ――――――――

 シグオスは飛び出したルッツに少し表情を硬張らせて足を止めた。
「ダグ! ……よかった、生きていて」
 ルッツはダグを見上げながら、硬張った笑いを浮かべた。
 まだ、自分の中で結論が出ていなかったからだ。ダグがここに来てくれたことがよかったのか悪かったのか――その結論がこれから出る。
 けれど、どちらに転ぶにせよ言わなければならない言葉がある。
「ダグ……ダグが、僕のために来てくれたわけじゃないことはわかってる。僕がいてもいなくても、ここへ来ただろうということも。でも……ありがとう。約束を守ってくれて。これだけは言っておきたかったんだ」
 ダグはちらっとルッツを見やったきり、再びシグオスを見据えていた。
 まったく興味なさげなその態度に、声が届いているのか不安になったルッツは、声をひそめて囁くように言った。
「……気をつけて。今のシグオスさんは手強いよ」
「これは返しておくぞ」
 ダグはルッツを見やることもないまま、自分の額からむしりとったバンダナを少年の胸に押しつけた。
 ルッツは目を瞬(しばた)かせた。思わず受け取ってしまう。それは持ち主の身体を離れても青くルージュの髪の色に輝き続けていた。
「で、でもシグオスとの戦いに……」
「必要ない」
 困惑する少年を再び見下ろした黒衣の死神は、頬にぞっとするほどおぞましい、嘲弄の笑みを浮かべていた。
「何か策を弄していることは、あの無様な落書きと、過剰な自信に輝く目を見ればわかる。だが、しょせんは付け焼き刃だ。通用しない」
 途端にシグオスは低い嗤い声をあげた。
「それはどうかな。その言葉、後悔するぞ」
 胸の前で剣を真横に倒し、水平に構えるシグオス。
 高まる緊迫感の中、ダグの顔から笑みが消える。いや、感情の色がすべて削ぎ落ちる――しかし、シグオスと睨み合いながらも、その手はルッツの肩に置かれた。軽く、触れる程度に。
「ルッツ、お前のやるべきことを忘れるな。……それと、それがどういう結果となっても、それをお前が選んだのだ、ということもな」
「ダグ……」
 どう答えればいいのか、困惑気味の少年を軽く脇へ押しやり、ダグは宿敵に正対した。

 ―――――――― * * * ――――――――

「ふー……。覚悟はいいか、ダグ」
 シグオスの唸りにも似た声に、ダグはつくづく呆れ果てたため息を返した。
「覚悟? ……何の覚悟だ?」
「無論、戦う覚悟に、死ぬ覚悟よ」
 ぴりぴりと肌がそそけ立つような気迫がその巨躯から放たれる。
 ダグは親指でおのれの胸板を指し示した。
「そんなものは物心ついたときからここにある。……わざわざ聞かねば始められんのか」
「その余裕もここまでだ! ぬうううううううううぅぅぅぅ……神よ、破壊の神よ、我に力を! あまねく存在をを破壊し、浄化する御身(おんみ)の力を我が血肉に宿らせたまえ! ぉぉぉおおおおおおっっっっ!!!」
 裂帛の気合いとともに、シグオスの身体に描かれた紋様から青い炎が噴き出した。それは、ルッツが握るあのバンダナから今も揺らめき立ち昇っている光と、ほぼ同じものだった。胸の前で交差させた両腕、肩、背中、腿、脛、ふくらはぎ……燃え立ち噴き出す青き炎の踊りは、今しも飛び立たんと広げられた鳥の翼のようにさえ見える。
 ほう、と少しは面白そうに感心したダグは、剣を持たぬ手で顎をなでつつ成り行きを見つめた。
 やがて青い炎同士はつながり、勢いを増し、最後には全てが一つとなった。まるで蒼い光でできた槍の穂先か、夜空を彩る彗星のように。
「見よ、これぞ『神降ろしの秘儀』! 神の力の前に、平伏せ(ひれふせ)ダグ=カークス!」
 人型の青き炎となって吠え猛るシグオスに、ダグは投げやりな拍手で応えた。
「はン、結局は神頼みか……。だがまあ、確かにけっこう面白い見世物だ。次は口から火でも吹くか?」
「ぬぅぅぅぅかせえええぇぇぇぇっっっ!!!!!!」
 石の床を踏み砕いて圧倒的な質量が跳躍した。常人なら十歩に相当する距離が、一跳ねで詰まる。
 だが、ダグは慌てず、真っ直ぐ突っ込んできた青い炎の塊を、間一髪体捌き(たいさばき)で躱した。避けきれなかった闇の衣の裾が、蒼い光に飲み込まれて燃え上がった。
 行き過ぎてゆっくりと振り返ったシグオスは、青い炎の中でにやりと嗤った。
「……どうだ。この炎で貴様など塵も残さず消し飛ばしてくれようぞ」
 マントの裾を持ち上げてみれば、炭化した素材がぽろぽろ焼け落ちてゆく。その様子を確認していたダグは別段焦る風もなく、剣を片手下段に構えた。左手はなぜか腰の後ろに回している。
「当たればの話だろう? ……もっとも、当たったところで消し飛ぶとまでゆくかどうか」
「ほざけええぇぇぇぇいっっっ!!」
 再び手負いの猛牛を思わせる勢いで頭から突進してくるシグオス。
 ダグの左手が走り、短剣が三本飛んだ。いずれも硬質の音を立てて弾かれ、床に落ちる。
 勢いを殺せぬままに押し寄せるシグオスの大質量を、とんぼ返りを切って避けるダグ。そして、眼下を通り過ぎるがら空きの背中に斬りつければ、鉄板を殴ったような手応えと音が響き、切っ先から凄まじい火花が弾け散った。
 体を捻って着地したダグは、すぐその切っ先を確認した。何を見たのか、ふむ、と頷き、今度は両手で正面上段に構える。
 何かを調べている様子のダグに、シグオスは苛ついた声を出した。
「……何を企んでおるのか知らんが……小賢しい。少々頭を使い、理屈をこねてみたところで、神の力の前には一切が無力だ」
 翼を広げて威嚇する鷲のように両腕を広げ、青き炎をさらに激しく燃え上がらせる。
「俺が小賢しいなら、貴様は愚かだ」
 上段に構えたままのダグは蔑んだ眼差しでシグオスを見据え、冷たく静かな声を流した。
「理屈がわかれば対応もできる。それが知恵というものだ。俺には貴様やヘイズのような腕力はない。その代わり、どんな要求にでも応じられる身体を作った。貴様が俺に勝てないのは、理屈が理解できず、また理解できてもそれに合わせて効率よく動かせないからだ。肉体においても、部隊においてもな。まぁ、言ってもわかるまい。これからその身体に刻んでやろう……――神の限界を」

 ―――――――― * * * ――――――――

 感情の色を失ったその瞳の澱みは深く、シグオスの発する青い炎の色も映ってはいない。
 まったく惑いの無い表情で真正面に立ちはだかるダグに、シグオスはわずかな疑念を抱いた。
(……何を、狙っている……?)
 いや、狙いはわかっていた。この態勢から繰り出される技は一つ。
 オービッドの悪夢が甦る。聞いた話ではアクソールもこの技でやられたという。
(ならば)
 今度は叫びをあげることもなく、いきなり駆け出した。
 体当たりではなく、片手で大上段に振りかぶっての斬り下ろし――
 しかしダグはまるで予想していたかのように、それを易々と躱してみせた。
「おいおい、消し飛ばすんじゃなかったか?」
 からかうように嗤う死神。
「ならばっ……望み通りにしてくれるわっ!!」
 身体を振り向かせず、片足だけで踏み切ってダグ目掛けて跳ぶ。右背中の肩甲骨を向けての突進のような形になった。距離がない。しかも避けた直後だ。これは躱せまい。剣で受けても、そのガードごと弾き飛ばす。どう転んでもただでは済まない。済まさせない。
「……単純な奴め」
 言い放ち様、ダグは剣を振り降ろした。

 ―――――――― * * * ――――――――

 秘剣『剣断ち』。

 鉄棒で鉄棒を殴ったような音が響き渡り、吹っ飛ばされたダグが壁に叩きつけられた。
 同時に、完全な傍観者と化していた少年の足元に、中程から折れたダグの剣の切っ先が突き刺さった。
 わっ、と驚いて飛び退いたルッツは、石の床に突き刺さるほどの力がその切っ先にかかっていたことに恐怖した。
 もし当たったら、腕の一つや二つ、いや、胴体でさえ簡単に両断されてしまうだろう。
 知らず知らず後退っていたルッツは、不意に誰かにぶつかった。振り向くと、凄い形相で眼を剥いたルスターがいた。
 その瞳に映っているのはルッツの拳――その中に握り込まれた蒼いバンダナだった。
「ルッツ、それをよこせ!」
「うわぁっ!?」
 突き出された手を危うく躱す。慌ててルスターの腹を突き飛ばし、距離を置いた。
「き、教皇様……!?」
「ルッツ、それをよこしたまえ。それは、お主が持っていても仕方の無いものだ。……何が欲しい? 司教の座か、聖騎士の称号か? 一生かかっても使い切れないほどの財貨か? 女官衆を全員、君にくれてやってもいい。だから……だから、それをこっちへ渡すんだ」
 猫撫で声で手招きするルスターの眼は、獲物を捕らえようとする猛獣のように爛々と光り輝いていた。その仕種が自分を不当に子供として見、馬鹿にしていると感じたルッツは、負けじと歯を剥き出して言い返した。
「そんなものでごまかされるほど、僕は子供じゃない! 言ったはずです、僕の望みはルージュの解放だって! これは渡せない! 彼女を自由にしてやるんだ!」
 ルスターは怒りのあまり頬を引き攣らせた。自然と声が荒くなる。
「馬鹿なことを……っ! そこが子供だというのだ! あの娘を解放すればどうなるかも知らぬくせに、きいた風な口を叩くな!」
 たちまちルッツも表情を硬張らせ、言い返した。
「何も知らなくったって、彼女を閉じ込めておくことが間違いだってことはわかる! ……何が世界の平和だ! 世の中は全然平和になんかなってないじゃないかっ! 僕のうちの中だって! 森の外だって! 今! そうだよ! 今、あの二人が戦っているのだって、元を正せばあなたが教団を護らせるために聖騎士団を作ったせいじゃないかっ! どこにルージュの犠牲が生きているんだっ! 閉じ込める必要なんか、どこにもないっ!」

 ―――――――― * * * ――――――――

 一瞬、ルスターはあまりにもふざけた屁理屈と怒りのあまり、声を失った。
 人が二人以上寄れば争いが生まれる。これはどうしようもない現実だ。それぞれが持つ理想を形にするために、争いは生まれる。
 戦の原因、その責任については、一つの勢力の頂点に立つ者として回避するつもりはない。だが、今のルッツの言葉は、事態の上っ面だけを捉えたあまりに浅はかなものだ。断じて肯んじるわけにはいかない。
 それに、そもそもルージュを封じざるをえなかったのは平和のためではない。世界の破壊を防ぐためだ。その代償としておのが人生を懸けた目標に世界の平和を掲げたのだ。それぐらいでなければ、あまりに哀れな彼女の魂に報いることはできない、と考えたから。
 そこに思い至らないこと自体は致し方ないにしても、教団と自分、そしてアスラルの虐げられていた人々が千年王家シレニアスという巨大な権力を倒し、血と汗と涙で積み重ねてきた二十年の歩みを知らぬその物言いは、ルスターを苛立たせた。
 子供じゃない、と叫びながらも、結局何も知らない子供なのだ。まともに相手にしようとしたのが間違いだった。
「ガキのくせに小賢しい理屈をこねるな! 彼女を封じておればこそ、世はまだ滅ばずに在るのだぞ!!」
 ルッツはショックを受けたように息を飲んだ。
 ルスターは畳み掛けるように続けた。
「それに、戦というものは終わらせるに多大な力と時間を要するのだ! 平和という理想を追うにはまず、戦のある現実を認め、その戦をなくすための力を得ねばならん! それが聖騎士団であり、アスラルに住む大勢の人間の命だったのだ! 彼らがこれまで二十年間、戦のない世界を目指して戦い続けてきた歴史――平和と戦を語りたいなら、それをまず学んでからにせい! そんなこともわからぬガキのくせに、いつまでも聞き分けのないことを言っているんじゃない! さあ、そいつをこっちへよこすんだ! そのバンダナも平和を得るための一助となるはずのものだったのだからな!」

 ―――――――― * * * ――――――――

 自分をガキと決めつけた教皇の言葉に、ルッツは完全に頭にきた。絶対に渡すもんか、と拳を腹に抱え込む。
 結局教皇も両親と同じだ。ダグ以外の大人はいつだって僕を信じない。僕がどう考えたか、判断が間違っているいかどうかではなく、子供だということで却下するのだ。
「嫌だ! 絶対に渡さない!」
「ならば……もう容赦はせん、腕ずくでも奪う」
 腕を突き出して迫る教皇に、ルッツはダグに助けを求めようと振り向き――かけて踏みとどまった。
 背後で戦っている気配はまだ収まっていない。それに、言われたはずだ。自分のやるべきことを忘れるな、と。今、やるべきことは、自力でこのバンダナを守り通すことだ。
(そう、僕はもう気弱でただ英雄に憧れていただけの宿屋の息子じゃない。冒険家なんだ)
 自分に言い聞かせて、ルッツは生まれて初めて武器を取った。
 法衣の下に着た普段着、その後ろ腰に差しておいた小剣を。

 ―――――――― * * * ――――――――

 跳ね飛ばされ、壁に叩きつけられたはずのダグは……平然と立ちあがった。
 マントとシャツの袖こそぼろぼろになってはいたが、さほどの怪我は負っていない。
「馬鹿な! まともに食らったはずだ!」
 青い炎の中で眼を剥いたシグオスに、ダグは少しばかり擦過傷を負った左手の甲を舐めながら答えた。
「貴様じゃあるまいし、力比べを挑まれて素直に受けると思うか」
 辛辣な皮肉に、思わずシグオスの口から無念の唸りが漏れる。
 確かに、思い返せば手応えが弱かった気もする。恐らくダグは秘剣『剣断ち』を当てた直後に、自ら後方へ飛んでいたのだろう。ぼろぼろの袖は、直撃を防ぐためにマントの下で腕を交差させたからに違いあるまい。
「邪魔だ」
 言うなり、ダグは左手だけでマント止めを外し、漆黒の闇を剥ぎ取った。
 しかし、その下から現れた身体もまた、暗黒に包まれていた。黒いシャツにズボン、黒い革鎧にブーツ、ベルト。そしてベルトにぶら下がる二振りの剣の鞘に至るまで。
 シグオスは気を取り直した。
「ふん。マントを脱いだところで、貴様の劣勢は変わらぬぞ。自慢の剣技も俺には通用しなかった。さあどうする? 黒衣のダグ」
「通用しない? ……おめでたい奴だ」
 呆れた面持ちでため息をつく。
「なに?」
 不意につぅ、と生暖かいものがシグオスの額を伝った。それは鼻を左へ流れ、小鼻を通り、口許に流れ込んだ。不審な面持ちで額を撫でれば、その指先がべっとりと血糊に汚れた。
「……馬鹿な。血、だと?」
 激しい動揺に、炎までが揺らめき踊る。
 昏く沈んだ瞳をその瞬間だけきらりと輝かせたダグは、右手に刃の中程で折れた剣、左手にぼろぼろのマントを下げたまま、侮りの笑みを浮かべて講釈を始めた。
「一度目のマントで炎の質を知る。二度目の短剣と剣で全てが全て、いきなり消滅するわけではないことを知る。三度目は消滅する前に皮膚に届くことを知る。皮膚に届くなら、肉を切り裂くこともできよう? ……さて、何か質問は?」
 うぬぅ、と血のついた指を拳に握り込み、歯ぎしりをしてダグを睨みつけるシグオス。
「たかが額を割っただけで勝ち誇るな! 貴様の剣は折れた! 例え二本目があろうと、再びへし折るのみ! 貴様に一切勝機はないっ!!」
 しかし、ダグは笑っていた。勝ち誇った笑みに頬を歪めていた。そう。いつものあの笑みだ。
「……シグオス」
 中程から折れた剣を握ったまま立てた人差し指が、真正面からシグオスをぴしりと差す。
 知らず、シグオスは一歩下がっていた。
「貴様はいくつか勘違いをしている」
 その瞬間。シグオスは硬直した。
 頭に血の昇る熱さ。背筋を走り抜ける恐怖の悪寒。青い炎が強い風に煽られたように激しく揺らぐ。
 恐怖に顔が歪むのを、自覚していた。
「か、勘違いが……勘違いがどうしたというのだっ!! 要は貴様を殺せば全ては終わる! 貴様の講釈は……聞くに及ばぬわっ!!」
 言うなり剣を構え直し、ダグの間合へ飛び込んだ。
 今度は無闇な突進ではなく、剣戟を狙う。ダグがどんな策を企もうと、二本目の剣さえ折ってしまえば絶対優位は揺るがない……はずだ。
 しかし、ダグは剣を打ち合わせることなく、大きく跳び退った。
「戦いは敵に十全の力を出させぬことを肝要とする。……一つ目の勘違いはこれだ」
 いきなり左手に下げていたマントが、シグオスの眼前に広がった。
「甘いわ、そんなものは目眩ましにもならぬ!」
 一振りで両断してみせる。しかし、それが逆に視界を塞ぐことになった。二つに切り裂かれたマントがシグオスの放つ青い炎に飲み込まれ、消滅するまでのわずかな間、シグオスは完全にダグの姿を見失っていた。
 気がつくと、ダグは背後で涼しげに笑っていた。
「目眩ましになっただろう? ……その炎が物を消滅、いや、分解し破壊するまでには、かなり時間がかかる。貴様は一瞬だと思っているようだがな」
「それがどうした! 炎で消滅させられなくば、この剣で叩っ斬るだけのこと!」
「さて、そこで二つ目の勘違いだ」
 剣を振るう。振るう。振るう。
 ダグは躱す。躱す。躱す。
 当たらない。捉えられない。捕まらない。
 以前とは比べ物にならぬ速さで動いているのに。剣を振るっているのに。ダグの動きが以前より鋭くなったわけでも、速くなったわけでもないのに。なぜ追いつけない。
「貴様はその妙な力を手に入れて、強くなったと思い込んでいるようだが、実質的に変わったのは筋力と防御力だ。そのため、動きの速さと一撃の破壊力は増したようだが……それを支える技術にはまったく進歩がない。要するに駆け引きの部分だ。今も、昔も、貴様ごときの剣技では、俺を斬ることはできん」
 ぐぬぅぅぅぅぅっっ、と下唇を噛み破りそうなほど噛み締めて唸る。
 いちいち癪だが、確かにダグの言う通りだった。そして、その通りではあるが、認めるわけにもいかなかった。
「ええい、黙れ黙れ黙れっ! 貴様の小賢しい講釈など聞く耳持たぬと言ったはずだ! ……例えそうであれ、貴様が俺に手出しできぬのであれば、貴様に勝ちはあるまいっ!!」
「三つ目の勘違いだな」
 不意に足を止めたダグは、空いた左手の指を三本立ててみせた。
「貴様は俺がその『神降ろしの秘儀』とやらに何の知識もないと思っているようだが、その秘儀が短い間しか使えないことは先刻承知だ。今は手出しできなくとも、時間が切れればいつでもとどめをさせる」
「な、なぜそれを!?」
 驚愕のあまり、口走っていた。教団内でも幹部クラスの者しか知りえぬ『神降ろしの秘儀』の、よりにもよって絶対に知られてはならぬ欠点を、なぜ部外者の最たる者のようなダグが知っているのか。よもや、教団の幹部に裏切り者が――
「やはりそうか」
「ぬ!?」
 ダグのしてやったりの笑みに、シグオスはおのれの犯した過ちに気づいた。思わず口を抑えてみても、既に遅かった。
 はめられた。おそらく予想していても確信ではなかったのだ。だからかまをかけた。そして無様にも自分はそれに乗ってしまった。
 翻弄されている。
 なぜだ。何が悪かったのだ――いつもの堂々巡りの疑問が脳裏に浮かび始める。それを必死に振り払う。
 シグオスは失意のあまり落ちそうになる膝を、辛うじて支えた。しかしその身体を覆う蒼い炎は、シグオスの動揺と失意に反応して見る見る勢いを失ってゆく。
「……く…………おのれ……どこまでも……どこまでも……。俺は……俺は、貴様には決して勝てんというのか……」
「何をいまさら。以前からわかっていたはずだ」
「な……に……?」
「だからこそ貴様は半年前のあのとき……俺ではなく、ヘイズを呼び出したのだろう」
 ぐうの音も出なかった。糸が切れたようにがっくり膝をついたシグオスの頬は、屈辱に攣(ひきつ)った。


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