蒼きバンダナのアレス Last Episode
〜Cross Fates〜【DUG/RUTZ】

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翻 弄

 南方都市ヨマンデからハイデロアへ続く街道。
 主要街道で、しかもハイデロアとは目と鼻の先とあって、その道幅はかなり広い。箱馬車が五台ぐらい並んで進めそうだった。
 幌馬車、箱馬車、荷馬車、騎馬、巡礼、商人、旅人が行き交う。巡礼の中には道端に座り込んで、大聖堂のある方角に向かって祈りを捧げている気の早い者もいる。その背後では、何食わぬ顔をした物乞いが座って道行く人に頭を下げている。
 その街道の一角が、ものものしい一団に占拠されていた。
 胸に輝ける星の印。総勢百名近くの聖騎士団による大規模な検問である。
 行き交う人の中から怪しげな者を呼びつけては、身体検査を行ったり入都目的を問い、馬車を止めてはその積荷や乗客のチェックを行っているその姿に、人々は何事かと眉をひそめていた。

 ―――――――― * * * ――――――――

 ルッツはシグオス邸に招かれた。
 残り少ない日々を家族の元で平穏に過ごすために戻るのだろうと考え、ルッツは一応遠慮した。にもかかわらず、ほとんど拉致のようなやり口で馬車に連れ込まれ、そのまま屋敷まで連れて来られた――というのが真相なのだが。
 他人から物扱いされ慣れている少年は、馬車の中で全てを諦め、ひとまず状況に流されることにした。


 邸宅は思っていた以上に大きく、思っていたより静かだった。
 馬車を出迎えたのは執事と数人の召使い。邸宅の中で迎えたのは上品そうなドレス姿の女性と、子供サイズの聖騎士正装を着込んだルッツと同じくらいの少年だった。
 父にして夫の顔に刻まれた蒼い模様に驚いている二人に苦笑しつつ、シグオスはルッツに二人を紹介した。
「俺の妻、ヘレーネと息子のヘリオスだ。ヘリオスは十二だ。年が近い者同士、仲良くしてやってくれ。、――ヘレーネ、ヘリオス。この者はルートヴィッヒ=クラスタ殿。教皇猊下のお客様なのだが、猊下が伏せっておられるのでな。お暇潰しにご招待した。二、三日滞在される。粗相のないようにな」
「あ、はい……ようこそ、いらっしゃいませ。クラスタ様。ジルベルドの妻、ヘレーネです。こんなところですが、ごゆっくりしていってくださいませね」
「ようこそ。クラスタ……さん。息子のヘリオスです。よろしく」
 母と息子は相次いで頭を下げた。
 畏まったその挨拶に、ルッツも慌てて踵を揃え深々とお辞儀をした。
「あ、はい。ルートヴィッヒ=クラスタです。あの……ルッツと呼んで下さい」
「ルッツ?」
 ヘリオスが怪訝そうに小首を傾げる。
 顔を上げたルッツは、照れ臭げにはにかんだ。
「うん。じゃあ、少しの間ご厄介になります。よろしくお願いします」

 ―――――――― * * * ――――――――

「おい、そこの馬車。止まれ」
 無愛想な命令口調で、年配の聖騎士が一台の幌馬車を止めた。
「あらー、こりゃお役目ごくろー様でございますです。聖騎士の旦那方」
 御者の親父は額をぺたぺた叩きながら、手を揉みこすらんばかりの低姿勢でへこへこ頭を下げた。あまり知性を感じさせないダミ声だった。
 声をかけた聖騎士が厳めしい顔つきでじろりと見上げている間に、周囲で待機していた聖騎士たちが馬車の後ろに回り込む。少し離れた場所では騎馬隊が威嚇するかのように突撃槍(ランス)を構えてうろついている。
「積荷は何だ?」
「へえ、巡礼様御一行で。ヨマンデからデレクッタ村経由でさ」
「なんだ、巡礼便か。許可証は持っているな?」
「もちろんでございます。――へい、こちらで」
 男がいそいそと襟元から取り出したのは一枚の木符だった。
 聖騎士はそれを奪い取るように受け取って調べた。
「……ふん。本物のようだな。しかし、一応中を覗かせてもらうぞ」
「へえ。そりゃもうどーぞお気の済むように」
 聖騎士は後ろで待機していた仲間に、合図を送った。
「しかし、エライ騒ぎですな。ハイデロアでなんぞ?」
 御者の何気ない問いかけに、木符を返す聖騎士の目つきが少し険しくなった。
「なにもない。だったら、出てゆく人の流れを調べるだろう。最近、野盗山賊の被害が増えてきておるのでな。用心のためだ。……なにか、道中気づいたことはなかったか?」
「いや、特には――ああ、そういえば」
「なんだ?」
「へえ、行き倒れを一人拾いました。巡礼の皆さんが放っとくのもなんや、ちゅうんで後ろに乗せてきてますけんど」
 顔をしかめた聖騎士は、荷台後部で見張っている仲間に、注意するよう合図を送った。

 ―――――――― * * * ――――――――

 陽が高く、天気が良いこともあって、中庭で昼食会が催されることになった。
「突然のことでしたので、大したものはありませんけれど」
 ヘレーネと執事、召使い達が中庭のテラスにしつらえたテーブルに御馳走を運んで来る。
 大したものはない、と言いながらもそれはルッツが目にしたことのない豪華な料理だった。
 かつてリアラから教わった食事時のマナーとエチケットを、必死で脳裏に甦らせているルッツの目の前に、ふと見慣れぬ物が突き出された。
 それは木剣。差し出しているのはヘリオス少年だった。彼のもう一方の手には同じ木剣が握られている。
「ルッツさん。教皇猊下の客人として歓待され、父上が我が家にご招待されるほどのお方。その腕前、かなりのものとお見受けいたします。どうか、食事の前に一つお手合わせを。ご教示、お願いします」
「え……」
 お願いします、という雰囲気ではない。明らかにどっちが上かここで決着をつける、という気迫に満ちている。
 こんな事態のマナーとエチケットは習っていない。どう断ればいいものか、ルッツは困惑げにシグオスを見やった。
 するとシグオスは愉快げに笑って言った。
「面白い。ダグ=カークスの弟子とシグオスの弟子の対決。前哨戦にちょうどいいではないか」
 言葉ほどの本気さもない口調で面白がりつつ、無作法にも並べられた料理の一つに手を出そうとしてヘレーネにぴしゃりと叩かれた。

 ―――――――― * * * ――――――――

 幌を開けた若い聖騎士は顔をしかめ、思わず鼻と口を手で覆い隠した。
 人の匂いがこもっていた。
「……うぅ……いつもにまして臭いな」
 薄暗く狭い荷台の左右に分かれ、向かい合わせに座る十人ほどの人影。皆フードの付いたコートのような巡礼衣を羽織り、幾人かはフードをかぶっている。そして、皆一様にうなだれている――いや、一人だけ奥の方で横になっている者がいた。
 その時、中を覗いていた聖騎士の肩を、別の聖騎士が後ろから叩いた。
「なんだ?」
 肩を叩いた聖騎士は口元を手で隠し、耳打ちをした。
「……途中で拾った行き倒れがいるそうだ」
 頷いて顔を戻した若い聖騎士は、すぐ右手の傍でなにやらむにゃむにゃ唱えている小柄な巡礼を見やった。
「おい、あんた」
「へぇ」
 フードをずらして顔を上げたのは、老婆だった。にっこり笑って会釈する。細い目といい、ふっくらした頬といい、実に幸せそうな笑顔に見える。
「おばあちゃん、あんた、どこから来た?」
「へぇ、ヨマンデからですぅ。それがねぇ、チャアルズ様がぁ病に伏せられたもんでぇ、うちの近所のもんがぁ、はあ、まあみんな気の毒がってねぇ。そこでまあ、あたしがハイデロアに住んどる息子を訪ねるついでにぃ、ペルナー様にぃ――」
 独特の抑揚、間延びしたような口調、体がゆっくりずれてゆくようなテンポと余韻に、聖騎士は危うくそのまま前のめりに倒れ込みかけた。
「あ……ああ、わかったわかったばあさん。チャールズ様の御快癒を祈りに来たんだな。それはいいことだ。よく一人でハイデロアまで来たね。無事で何よりだ。ハイデロアへようこそ」
「へえ、ほんにありがてぇことで。お宅様も、お仕事ご苦労様ですなぁ」
「ありがとう。ところで、つかぬ事を訊くが――」
 聖騎士の目が、鋭く荷台の中を見回す。幌の中に妙な緊張感が漲った。
「途中で乗ってきたのがいるだろう? 誰だか教えてくれないかな?」
「へぇ。ええと……あの人とあの人――」
 老婆が指差したのは向かい側の二人だった。フードをかぶっていないその二人は、十歳ほどの子供とその母親らしき女。
 女は聖騎士と目が合うと、少し怯えた様子で軽く頭を下げた。
 続けてその隣へと皺だらけの指が動いてゆく。
「あの人もじゃったかね」
 妙にガタイのいい人影。フードをかぶってはいたが、聖騎士から言われる前にそいつは自らフードをおろした。
 堅気には見えない、目つきの鋭い女だった。こちらは恐れる様子もなく、挑むように頬を緩めて頭を下げる。
「あと、そうそう、あちらで寝とる男の人も。あの人はねぇ、行き倒れておるところを通りがかったもんでねぇ――」
「男? ……おい、そこの。起きろ」
 聖騎士の声に、奥で横になっている影はぴくりともしない。
「旅は道連れ、世は情けって言うからねぇ」
「おい、そっちの。ちょっとそいつを起こせ。そう、お前だ。揺するんだよ」
 寝ている男の手前にいた若い男に命じて、体を揺すらせる。しかし、起きる気配はない。
「けんど、その人ぉ……えらい弱っておってなぁ。せっかくじゃからぁ、このまま大聖堂まで連れてってぇ」
「ああ、ばあさんありがとうな。もうその辺でいい」
 老婆の肩を軽く叩いて礼を言うと、聖騎士は背後に合図を送って荷台の中に踏み込んだ。
 奥までずかずか入り込み、寝ている人影の肩をつかむ。
「おい、起きろっつってんだろうが。言うこと聞かんと問答無用でしょっぴく――」
 強く揺さぶると、ごろり、と勢いあまってそいつが寝返りを打った。さらに勢いあまって聖騎士のブーツの先でしたたかに頭をぶつけた。
 途端に、そいつの目がパッチリ開いた。
 頭が持ち上がり、目の前のブーツに顔をしかめ、そのブーツを舐めるようにたどって、頭上を見上げる――
「ひ――ひひぃぃっ! わひゃー!!」
 叫びながら跳ね起きたのは、遭難者丸出しの男。巡礼衣の間から見える服はボロボロ。無精ひげなどは、伸びすぎて磁石からぶら下がった砂鉄みたいな有様になっている。判りにくいが年の頃は五十代ぐらいだろうか。
 動いたせいか、酸っぱい異臭が一際強く立ち昇り、聖騎士は思わず怯んで半歩下がっていた。
「うぐ……なんて臭いだ。くっせぇぇぇ」
 鼻をつまんで、空いた手を団扇代わりに左右に振る。周囲でも乗客がそれぞれに鼻をつまんだり押さえたり袖で隠したり……。
「ななななな、なんだあんたー! つうか、ここどこ!? わしなんでこんなとこにっ!?」
 本気で怯え慌てふためいて、荷台のさらに奥の端っこに逃げ込み、ぶるぶる震える男に、顔を歪めながら聖騎士は溜め息をついた。
「それは全部こっちの聞くことだ。……まあ、ダグ=カークスではないようだが……とりあえず、素性不明とあらば捨て置くわけにもいかんな。ちょっと表へ出ろ。色々取調べしておく。……つうか、お前その臭いでハイデロアに入ってくれるな」
 聖騎士の腕が男の腕をむんずとつかみ、問答無用で引きずり出してゆく。
「ひいいい、わ、わしがなにしただっ! わしゃまだ死にとうないぃっ!!」
「人聞きの悪いことを言うな。むしろ生き返らせてやろうってんだ。水浴びさせてな」
「あんれまぁ。よかったにぃ。お元気でぇ」
 聖騎士数人がかりで引きずり出されてゆく男に、呑気に微笑みながら手を振る老婆。
「たぁすけてぇぇぇぇ……」
 それからすぐ、馬車の出発が認められた。

 ―――――――― * * * ――――――――

 勝負は呆気なくついた。
 無論、一切訓練を受けたことのないルッツに、幼少よりシグオスから剣術を叩き込まれているヘリオスと戦えるはずもない。
 したたかに叩きのめされ、尻餅をついたルッツの前にヘリオスの木剣の切っ先が突きつけられる。少年は息を乱してすらいなかった。
「ルッツさん、失礼ではありませんか。本気を出してもらわねば、学びようがありません。私とて聖騎士の息子、叩きのめされることなど慣れております。遠慮なくかかって来られよ」
 自分より年下とは思えない、威風堂々とした少年の態度にルッツは泣きそうになった。
 何でこんな目に。青空の眩しさが目に痛い。
「――ヘリオス。剣を引け。そこまでだ」
 手を打って終了を告げる父親に、少年はたちまち不満そうに振り返った。
「しかし父上! 私は――」
「クラスタ殿は剣の訓練を受けておらぬ。その程度のこと、最初の一合で看破できなんだか」
「え……?」
 きょとんとしているヘリオス。
「剣腕高き者だけが、猊下のお客ではない。俺の客としても、また然り」
 シグオスは立ち上がり、ルッツの傍にやってきた。苦笑を浮かべて手を差し出す。
「すまんな。ルートヴィッヒ=クラスタ。我が息子はもう少し出来るかと思っていたが……しょせん、俺の種ということらしい。だが、お主も嫌なら嫌、出来ぬなら出来ぬと、もう少し自己主張すべきだろう。なぜこうなるとわかっていながらヘリオスの挑戦を受けた」
 差し出された蒼い紋様の入ったごつい手を、少し逡巡してからルッツは握り返した。力強く引き起こされる。
 唇を引き結んで少し考えたルッツは、シグオスの睨むように見据えながら尻をはたいた。
「……僕を、ダグの弟子だと言ったから。一度だけなら、いいかなって。でも……」
 悔しさの陰が、さっと顔をよぎった。表情を悟られまいと横を向く。
「やっぱ、習ってないことは出来ないものですよね」
 シグオスはその肩を軽く叩いて木剣を受け取り、息子に返した。
「ヘリオス。クラスタ殿に礼を言っておけ。今、お前は剣腕を磨くより大事なことを教えていただいたのだ。心意気に応える――それが出来ぬ者に、そして気づかぬ者に、聖騎士は名乗れぬぞ」
「は……はいっ、父上! ルッツさん、失礼しました! そして、ありがとうございました!!」
 息子は直立不動の姿勢を取るなり、深々と頭を下げた。
「うん……」
 あいまいにうなずいて尻をはたき続けるルッツ。その肩を、そして息子ヘリオスの肩を、シグオスは力強く抱いて二人をテーブルの方に向けた。
「さあ、食おう。俺も久々のヘレーネの手料理だ。心ゆくまで賞味するとしよう」

 ―――――――― * * * ――――――――

 馬車が検問を出てしばらく。
 左右にハイデロアの町並みがちらほらを見え始めた頃、老婆が荷物の入った袋を開け始めた。
 と、その拍子に車輪が石か何かを踏んで、車体が大きく揺れた。
 老婆の荷物の中から熟れたオレンジが二つ飛び出した。誰もがその二つの物体が車内を転がり回ると思った時――素早くその二つを空中でつかんだ手があった。白い巡礼衣には不釣合いな、黒革の手袋に包まれている。
 その手は、オレンジ二つを片手で器用につかんだまま、老婆の前に差し出した。
「あれ、まぁ。ありがとうねぇ」
 何度も頭を下げながらオレンジを受け取った老婆は、しかしそのうちの一つを自分の膝に置き、もう一つを差し出し直した。
「お一ついかがかね?」
「……いただこう」
 深くかぶったフードの中から漏れ出る、低い男の声。
「いいえぇ。それにしても器用なもんじゃねぇ」
 オレンジを割り、皮を剥いた老婆は、その半分を向かいの母子に差し出した。
「お子さんと、どぉぞ」
 礼を言ってそれをさらに二つに分け、息子に与える母。
 嬉しそうに微笑みながら、オレンジの房を一切れ口に運ぶ老婆――ふと、何かに気づいて隣の男を見やった。
「そういえば……さっきはいることさえ忘れてたけんど、お宅様も途中で乗ってきたんだったわねぇ。言いそびれちゃったけど……よかったんかねぇ」
「……気配を消していたからな」
 ガタガタ揺れる中、指先に乗せたオレンジをくるくる回していた男は、誰にも聞こえないほどの声で低く呟き返した。白いフードから覗くその口元は、不敵な笑みをたたえていた。

 ―――――――― * * * ――――――――

 父親を自慢する息子。照れ臭そうにはにかむ父親。
 ルッツは曖昧に笑いながら食事をとっていた。
 料理はとてもおいしい。ヘリオスの父親自慢は度を過ぎているほどだったが、かつての――“救国の英雄”シグオスや“将軍”ゼラニスの活躍を、ただ無邪気に信じ、憧れ、崇拝していた頃の――自分を見ているような気がして口を挟む気にはならなかった。
 そして、妻にして母のヘレーネはただひたすら控えめに、テーブルの上に気を配っていた。男達の話題に一切口を挟まず、ただただにこにこ笑顔だけを振りまき、時折執事に耳打ちをして指示を下している。
 静かな時が流れていた。


 食事も終わりに近づいた頃、執事がヘレーネに耳打ちをして、彼女は席を立った。
 やがて一人戻ってきたヘレーネは、一つの手紙を手にしていた。席を立つ前より顔色が悪い。
 手紙はシグオスに手渡され、ヘリオスは口をつぐんだ。奇妙な静寂の中、シグオスが封を切り、中の手紙を取り出す音だけががさごそ響く。
 ヘレーネはシグオスのななめ後ろに立ってうつむいている。
「……聖騎士団の若い人が持って来られたんだけど……ひどい怪我で……」
 手紙に走る文字列を追うシグオスの、残っている右眼がわずかに細まり――表情が消えた。まるで意味のない、つまらないものでも読んでいるかのように。
「父…………上?」
 文面を見つめ続ける、一切の感情を殺ぎ落とした人形のような表情。
 父親のそんな表情は見たことがないのか、息子のヘリオスはうろたえ気味にルッツの方を見た。
 だが、ルッツにも何が書かれているのか、わからない。一体どんなことが書かれていればシグオスがあんな顔を――はっとした。
「シグオス……さん? ひょっとして――」
 ぎょろり、と瞳が動き、敵を見るような眼差しが、思わず腰を上げたルッツを見据えた。

 ―――――――― * * * ――――――――

 ハイデロアは混乱の中にあった。
 日頃から交易都市としてだけでなく、スラスに次ぐ宗教都市としても人出の多かったハイデロア。
 祭日が近いにしても、凄い人出だった。
 明日は破壊神が地上に遣わした“破壊の巫女”ルージュが生誕した日。
 そのうえウルクス、オービッド、ヨマンデの司教、大司教達が相次いで病気に伏せたと発表されたことで、彼らの快癒を礼拝する者や巡礼者が、この時とばかりにどっとアスラル最大の都市ハイデロアに押し寄せたのである。
 民家が四、五件はすっぽり入ってしまうほど広大な大聖堂教会の礼拝堂には、ぎっしり人が詰めかけていた。入り切らない人々の列は、アスラル一を公言してはばからぬ壮麗な造りの大聖堂教会を、十重二十重に取り巻き、周囲の広場に溢れかえっている。
 この状況により、警備は形骸化していた。
 人出に対する警備員の割合の適正化が、増員に次ぐ増員をかけてもまったく間に合わない。
 シグオスの号令を受けてアスラル全土から集まった聖騎士団と、ハイデロアが独自で抱える自警団が総出で警備に当たっていたが、集まりすぎた巡礼をさばくことすら出来ずにいた。状況が思うようにならず、殺気だった自警団と聖騎士の衝突や小競り合いさえも頻繁に起きている。
 実はオービッドからの巡礼者数増加に伴って、自警団は独自に他都市の自警団に応援を要請していた。その増員は到着したものの、街道で検問している聖騎士と小競り合いを起こして、さらに混乱に拍車をかける事態になっていた。
 実際、誰が誰を護り、どこの部隊、どこの自警団がどこの警備の責任を負っているのか、誰一人として理解していなかった。


 その混乱に乗じて、黒き死の影は易々と侵入した。


 信者を礼拝堂に集めての大説教会が終わった後、ハイデロア大聖堂教会に属する司教、大司教の手ずから信者一人一人に祝福が与えられるのが、通例となっている。それはこの気違いじみた混雑でも変更されることはなかった。
 大司教長ペルナー卿と教会本部会議が、これしきの事態で変更するようでは、『創世の光』の威信にかかわる、と判断したからだった。無論、その根拠としてとなったのは、一連の暗殺事件を引き起こした犯人を殺害した、というゼラニスの報告書だった。
 そして――それが命取りになった。

 ―――――――― * * * ――――――――

 冷気が足元から忍び寄り、這い上がってくる。
 ルッツは背筋が凍りつくのを感じた。周囲の気温が、冬のように低く下がったように感じられる。まだまだ高い陽の光が翳ったようにすら感じた。それほどシグオスから放たれる殺気は尋常なものではなかった。
 手紙を手にしたまま席を立ち、少しテーブルから離れた元聖騎士団総団長の隻眼は、別人のように輝きが変わっていた。
 獲物を見据えるようにルッツをじろりと見やり、低い猛獣の威嚇を思わせる声が漏れる。
「ルートヴィッヒ=クラスタ……喜べ」
 ルッツは頷いた。自分でも驚くほど冷静に。シグオスの殺気に足が震えるのを抑えられずにいたが、頭の芯は冷えていた。
 今のシグオスにここまでの変化をもたらす報せは、一つしかない。ルスター教皇猊下によるシグオスへの聖騎士総団長再任命令が下りたとしても、ここまでの反応は引き出せないだろう。
 ただ一人、シグオスが不倶戴天の敵と認めた彼が、生きていたのだ。そして、シグオスを怒らせるような何かをしたのだ。
 シグオスから吹き出す殺気の気配に、ヘレーネもヘリオスも声を失って立ち尽くしていた。ヘリオスなどは、何か大きな物を飲み込みかけたまま飲み込めずにいるかのような顔をしていた。
「ち、父上……?」
「ハイデロアの……ペルナー卿が殺された。キッシャー麾下の精鋭部隊までも、な」
 息を飲む二人。だが、シグオスの口元には凶悪なほどの笑みが浮かんでいた。

 ―――――――― * * * ――――――――

「神の祝福を……」
 ペルナー卿は柔和な微笑みを浮かべながら、本日何百人目かの信者の手を取った。その表情にいささかの疲れの色も浮かんでいない。
 しかし、ひざまずいた信者から差し出されたそれは、黒い革の手袋に包まれていた。
「おや……? いけませんな。手袋はお脱ぎなさい? 神の前で不遜ですぞ」
 非難する響きではない。諭すような柔らかな物腰で顔を上げる。
 白い巡礼衣をまとい、フードを目深に下ろしたその巡礼信者は、口許を酷薄な笑みに歪めていた。
 嫌な予感がペルナーの背筋を走り、咄嗟に前屈みの身体を起こそうとした。
 その瞬間、腕をつかまれて物凄い力で引き戻された。
 その信者が片手でフードをゆっくりと持ち上げる――目つきの鋭い青年だった。額に巻いたバンダナが青く光っている。
 恐怖に凍りつき、警備兵を呼ぶことも忘れ果てた大司教長にだけわかる声で、青年は呟いた。
「……死神の祝福を……」
 大司教長ペルナーは、自分の胸に短剣が深々と突き刺さるのを、絶望にまみれながら見つめ続けた。

 ―――――――― * * * ――――――――

「――ヘリオス、ヘレーネ」
 シグオスの静かな、しかし返答を許さぬ威圧に満ちた声が響く。
 そんな声を発する父、夫を見るのは初めての二人は、恐怖に蒼ざめたままただシグオスを見つめていた。
「今から大事なことを言う。聞け」
 突然、シグオスの手の中で手紙が燃え上がった。ヘレーネが鋭く息を飲んだような悲鳴を漏らす。
 蒼い炎に包まれた紙片は、あっという間に燃えカス一つ落とさず消滅した。
「俺は――ほどなくして死ぬ。長くとも、あと七日ももつまい」
 虚空を見やるシグオスの隻眼は何を見るのか。
「あ……なた……?」
「父……上……?」
「猊下を狙う賊を倒すため、この力を得る代償として我が身を神に委ねたのだ。……後悔はない」
 へなへなと席の背もたれに寄りかかるようにして崩れ落ちる妻。息子は慌ててそれを支えながら、いまだ信じられぬ面持ちで父親を見つめ――救いを求めるようにルッツを見やった。
 だが、思い詰めたように唇を引き結び、自分の方を見ようともしないルッツの横顔に、ヘリオスはショックを受けた。
「……ルッツさん……あなたも…………まさか……知って……」
「そしてヘリオス。お前に伝えておかねばならぬことがある」
 相変わらずの低い唸り声に、ヘリオスは気を取り直した。
「は、はい!」
「実は……お前の父はもはや聖騎士ではないのだ」

 ―――――――― * * * ――――――――

「白昼堂々、衆人環視の中で暗殺だとお!? 大胆にもほどがあるぜ、死神ぃぃっっ!!!」
 大混乱に陥った聖騎士団ハイデロア総本部――大聖堂教会の表向かいに立つ堅牢な建物の中、総団長室において、総団長代理エルグラハム=キッシャーは叫んだ。その口調には明らかな喜色が混じっていた。まるで、友人が挙げた大戦果を聞いた時のように。
 三十代の若さでハイデロア聖騎士団団長に任じられた、通称『新世代組』と呼ばれる若手集団の出世頭キッシャーは、剣腕もさることながらその奇矯な行動・発言によって有名だった。
 実際、この局面でキッシャーは笑っていた。
「くははははははっっ、やってくれる! やってくれるぜ、ダグ=カークス!! 最後の最後まで奴は俺達をコケにするつもりだぜ! 誰だ、死んだとか抜かしやがった馬鹿はよ!?」
 まるで敵の行動を喜んでいるかのようなその姿に、室内に居並ぶ直属の部下数人は互いにしかめっ面を見合わせあった。
「総団長代理、急いでシグオス総団長に――ぐわ」
 進言した部下の鼻っ面を、キッシャーの拳が殴り飛ばした。
「ざけんなバカヤロウ! 負け続けて罷免された時代遅れの英雄なんざ放っておけ! ここからは新英雄キッシャー様の時代だぜぇっ!」
「し、しかし……」
 血の噴き出る鼻を押さえ、なおも抗言しようとする部下に、キッシャーはデスクの上に立ち上がって吠えた。
「わかんねー野郎だな! ああ? 今から伝令送ったって、スラスに着くのは明日だ! それに、シグオス自身から自分は来ないものと思えっつー指令が出てんだろうがよっ!! それとも何か、てめえ、俺があのじじいがいなきゃ何にも出来ねえガキだと思ってんのか!? それとも、てめーがそうなのか!? ああ!?」
「い、いえ。そんなことは……」
「だったら、さっさと例の精鋭部隊を召集してきやがれ! ――くくく、ここでダグ=カークスを討っちまえば、名実ともに新総団長が誰か、天下に堂々と宣伝できるってもんだ!!」
 別の聖騎士が片手を挙げて発言を求めた。
「しかし、総団長代理。この混乱状況で都市各地区の主立った隊長クラスを召集すれば、混乱は余計に――」
「放っとけ、そんなもん。……そもそも、この中心都市群の中の最重要都市たるハイデロアの護りなんぞ、聖騎士団だけで十分だったんだ。それを自警団なんぞがしゃしゃり出て来るから混乱するんだ。混乱の責任は連中に取らせりゃいい。聖騎士団は全部引き上げさせちまえ」
「いや、しかし……犯人の捜索が……」
 細長い文鎮が飛んできた。その聖騎士の顔をかすめて木製の扉をへこませる。
「この件の犯人がいつまでも潜んでるわきゃーねーだろうがっ!! この低能が! ちったあ頭使え頭! てめーのその頭は兜乗せかっ!! だからいつまで経ってもシグオスやアクソールみてーな老いぼれに頭があがらねーんだよ!」
 怒りが収まらないのか、デスクから飛び降りたキッシャーは、自分の兜を取り上げると思いっきりデスクを蹴飛ばしてひっくり返した。
「野郎が次に行くのはスラスっきゃねーだろうがっ!! だったら、スラスへ向かう街道に部隊を布陣させりゃあいいんだよっ!! 精鋭部隊を北門の外側へ持ってこい!! 他の雑魚はいらねー! ここで待機させとけっ!! ダグ=カークス討ち取ったら、自警団の連中をしょっ引く! そっちの準備でもさせておけ!」
 一方的に喚くと、キッシャーは不敵な笑みを満面に貼り付けたまま部屋を出て行った。

 ―――――――― * * * ――――――――

「え……?」
 ヘリオスの唇が、わなわなと震える。
「何を……言っているのです、父上……?」
 シグオスは深々と息を吸い……しばらくして、重々しい溜め息を漏らした。
「半年前…………父は、敵を罠に嵌めるために女子供を人質に取り、あまつさえそやつらを切り捨てた。まるで程度の悪い誘拐犯のようにな。そのような卑怯卑劣な人間のクズは、もはや聖騎士の名に値せぬ。先日、教皇猊下によって聖騎士団総団長の任も解かれた。今の父は、ただの――………………ただの人殺しだ」
「でも、でも、父上! 父上がそんなことをするなんて……仕方がなかったのでしょう!? 何か訳があったのでしょう!?」
「ヘリオス!!」
「ひぃっ!!」
 首を振りたくって必死に叫ぶ少年に、父親の一喝。ぱっと飛び散る火の粉のような蒼い光。
 首をすくめたヘリオスだけでなく、話題の外にいるルッツさえも、その怒声に思わず身を震わせていた。
「お前が聖騎士を目指すなら、これだけは覚えておけ……いや、魂に銘じておけ。聖騎士に、“仕方がない”はないのだ」
 隻眼が動き、ヘリオスを見据えた。その瞳に宿る強固なる意志に、少年は何を感じるのか。
「聖騎士とは、身分ではない。剣の強さでもない。おのれが進むべき道を定め、それを生涯貫き通すことを誓い、実際に貫き通す者のみに与えられる称号なのだ。……そう。たった一度。たった一度でも仕方がない、と呟いてはならぬ。よいか、ひとたびついた汚点は二度と拭うことかなわぬ。卑劣という穢れにまみれた誇りは、二度と元の輝きを放ちはせんのだ」
「父上……」
 泣きそうな顔のヘリオスに、ルッツは唇を噛み締めた。彼の気持ちはよくわかる。
 シグオスのしたことを聞かされ、シグオス自身の口からそれを裏付ける言葉を聞いた時の胸の痛み。悲しみと怒りと落胆と裏切られた気持ちで胸を掻き毟りたくなるあの感覚が、再び甦っていた。
「息子よ……覚えておくがいい。取り返しのつかぬ過ちというものは、確かに存在する。お前の父は、おのれが進むべき道を踏み外し、あまつさえ唾を吐きかけたのだ。無情の別れはその報い。ゆえに――」
 シグオスは言いながら息子の傍に寄っていった。その分厚く大きな手で、力強く肩をつかむ。
「ゆえに、悲しむな。名残りを惜しむな。運命(さだめ)を呪うな。……憎め。蔑め。嫌え。嗤え。疎め。この俺を。それができねば、たとえ誰が許そうとも、聖騎士を名乗ることなどこの父が許さぬ」

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 白昼堂々、しかも衆人環視の中で大司教長ペルナー卿が暗殺されたという報せは、たちまちハイデロア中に広がった。
 ハイデロアは未曾有の大混乱に陥った。犯人の名前が『黒衣のダグ』だという噂が広まり、ダグという名の青年が、黒い服を着た青年が、次々と自警団に捕まっているという。
 その報告をハイデロア北門を出る時に受けたキッシャーは、笑みを浮かべて伝令に命じた。
「バカどもが。……誤認逮捕の実行者とその直属の上司の情報を押さえておけ。後で騒乱を助長した罪で処罰してやる」

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 すすり泣くヘリオス。
 もう言葉もなくうなだれているヘレーネ。
「父上……父上…………それでも、父上は……僕の……」
「お前の父、聖騎士団総団長ジルベルド=ウルデ=シグオスは半年前に死んだ。ここにいるのは、亡霊にすぎぬ。未練たらしく、家族の温もりなぞを求めて現われた、哀れな迷える魂よ……ヘリオス」
「はい……」
 袖で涙を拭い続けるヘリオス。だが、何度拭っても溢れ続ける滴はとどまらない。
「わしを叩き出せい」
 ざあ……と、日除けのため中庭に植えられた木立が鳴った。

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 北門を出て、小一時間ほど歩いた先にその壁はあった。
 三十名ほどの人間からなる、街道を塞ぐ壁。だが、その壁は重厚な鎧に固められた、城壁並みに堅牢な壁――と指揮する者は信じていた。
 立ちはだかる壁に足を止めた一人の旅人に、その『指揮する者』は叫んだ。
「――くははははは、ようこそダグ=カークス。ここが貴様の終焉の地だ!」
 街道沿いに走る風が、漆黒のマントを弄ぶ。
 騎馬、槍兵、剣士……殺気立つ聖騎士団に一瞥を走らせたダグは、眼を細めて笑った。
「見た顔ばかりだな。……半年前の恥をそそぎに来てくれたか?」
「その通りだ!」
 馬上で槍の石突を路面に叩きつける。がつん、と硬い音が響き渡った。
「俺の名は、エルグラハム=キッシャー! 聖騎士団総団長代理にして、ハイデロア聖騎士団団長! 半年前……たった数人の襲撃に浮き足立ち、撤退を余儀なくさせられた屈辱! ここで晴らすぞ!」
 おう、と居並ぶ聖騎士団から野太い声が轟いた。
「ダグ=カークス! シグオスと同じように考えぬことだ! 俺は奴ほど腰抜けでは――」
「……シグオス以外に用はない。死ね」
 両腰から剣を抜き放つ。同時に、額に巻いたバンダナが青い炎を噴き上げた。

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「え……」
 言葉の意味を頭の中で再構成する数秒、ヘリオスは涙に濡れた目をぱちくりさせていた。
 シグオスは肩をつかんでいた手で、どんと息子の胸をついた。その力に、思わず二、三歩下がるヘリオス。
「ちち、うえ?」
 ぐいっと腕組みをしたシグオスは、真正面からヘリオスを睨みつけた。
「わしをこの場から叩き出せ、ヘリオス! 一族の恥さらし、愚か者をこの屋敷にいつまでとどめておくつもりだ!? いつまで母の前に立たせておくつもりだ!? 今は、お前がシグオス家の当主なのだぞ!」
「う……え、ええっ……そんな、あう……」
 救いを求めて、母を振り返るヘリオス。しかし、顔を伏せた母は全てを諦めた顔で力なく首を振っていた。
 ヘリオスの顔が、見るも無残に歪んでゆく。あらゆる救いを見失い、絶望の闇に墜ちた者の顔。
「い……いや…………いやだ…………いやだぁぁぁ……」
 魂を汚されるような悲鳴じみた声。何度も振りたくる首。
 だが、シグオスは許さずに隻眼をかっと見開いた。
「どうしたヘリオス=ウルデ=シグオス! 貴様は、おのれの家の敷地から罪人一人叩き出せぬ腰抜けか! 貴様の父と同じく、誇りを忘れたか!」
 見るも無惨な光景、聞くに堪えない言葉に、ルッツは思わず顔を背ける。
 同時に、ヘリオスが吠えた。正気を保っていられなくなったかのような、血を吐くがごとき叫びを。
「うわああああああああああああああああああああっっっ!!!!」

 ……その時、妻で母たるヘレーネは、両耳を覆ってテーブルに突っ伏した。

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 血生臭さに満ちた風が街道を吹き抜ける。
 そこは虐殺現場――否、屠殺現場だった。
 虐殺と呼べるほどの感情の高ぶりも狂気の痕跡も残さず、ただ殺されるべき家畜が殺されたかのように、かつて人だったものの塊だけが街道の幅と等しい血の池の中、そこかしこに転がっていた。その一つとして、五体満足なものはない。三十人ほどの聖騎士は、その数倍の肉片と化していた。
   屠殺人の姿は既になく、中天にかかる残酷なまでにぎらついた太陽の光だけが、グロテスク極まりないオブジェに降りそそいでいた。

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 ルッツとシグオスは来たとき同様、箱馬車に揺られてスラス城に向かっていた。
 会話はない。
 お互いに別々の窓から流れる景色を見つめ、物思いに沈んでいた。
「……ルートヴィッヒ=クラスタ」
 ふとシグオスが読んだ。呼び主同様、ルッツも窓の外から目を戻すことなく答えた。
「はい」
「礼を言う」
「……もう聞きました」
「では、謝ろう。せっかく招待したのに、こんな形で追い出される羽目になろうとはな。俺は自業自得だが、お前には悪いことをした」
「いいです。別に。……ダグが現われたのなら、僕も覚悟を決めなくちゃいけないから。どちらにしても御宅にはいられませんでした」
「覚悟……か。俺は、いつの間にそれを失っていたのだろうな……」
 しばしの沈黙。
 車輪が轍を穿つ轟音。流れ行く景色。
 再び口を開いたのは、またシグオスだった。
「ルートヴィッヒ=クラスタ。できれば……また、ヘリオスを訪ねてやってくれ」
「……?」
「ダグとの最期の一戦……その結果を知らせてやってほしい。俺がいかに戦ったかを。できれば、妻にも……あれは、貴族の出だが気立てのいい女でな……夫として、その最期ぐらいは知っていてほしい。知らせてやりたい」
 ルッツは返事をしなかった。
 考えることがいっぱいで気軽に頷けなかった。
 それに、ダグとシグオスの戦いは今日明日中に起きる。数日しか間を置かずにあのヘリオスの前に出るのは勇気がいる――まるで復讐者の、ダグのような澱んだ目で、屋敷を去る父親を睨んでいた。何を言っても慰めようのない目だった。
 返事をしないことを咎めることもなく、それっきりシグオスは黙り込んだ。

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 ペルナー大司教長とキッシャー・ハイデロア聖騎士団団長の訃報に、スラスも大混乱に陥った。
 教皇さえも伏せっている折のことである。
 もはや教皇以外で残る実力者は、西の中枢都市ユーノンにいる西部教区大司教フィリックス卿しかいない。
 スラスの『創世の光』教団幹部総本部会では、ルスター教皇とフィリックス卿を守るため、ハイデロアに残存している聖騎士団を全てスラスとユーノンに配置し直せ、という声が上がった。
 しかし、聖騎士団総団長は解任され、その代理も惨殺されてしまい、聖騎士団自体が混乱に陥っている状況では、せっかく発されたその指令もいつ届き、いつ実行されたものか――いや、実行されるのかすら、誰にもわからなかった。


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