蒼きバンダナのアレス Last Episode
〜Cross Fates〜【DUG/RUTZ】

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傾  陽

 ダグと別れて八日。
 シグオスが教皇ルスターに『神降ろしの秘儀』を申し出て、四日後。(ルッツはあずかり知らぬ話だが、ダグが小屋ごと爆破されて二日後)
 ルッツはあれ以来、教皇ルスターとまともに話をする機会を与えられずにいた。三日間ぶっ通しの儀式の後、教皇は床に臥せっていたからだ。力を使いすぎたとかそういう話がサラ経由で伝わってきて、とても会う機会を作ってもらえる状態ではなかった。
 そして儀式を受けたシグオスもまた、城内の一室に閉じこもり、誰とも会おうとはしなかった。
 そのため、することのないルッツは世話役のサラとともに城内をうろつくか、城下をうろつくか、城外の森をうろつくしかすることがなかった。

「凄い人出だね」
 スラス城下の大通り。さまざまな露天や屋台が両脇に並び、その間を数多くの人々が行き交っている。
 ルッツは少し危なっかしげな足取りで、その人波を避けつつ歩いていた。その背には、自分の体ほどもある大きな背負い籠を担いでいる。
 その二歩ほど前を、金髪の女性が歩いていた。ルッツの世話役をおおせつかった女官のサラである。
 彼女は時折屋台を覗いては、野菜、果物、調味料などを購入して、ルッツの背負う籠に入れてゆく。白い法衣で教団の関係者とわかるのか、店の主人達は一様に低姿勢だ。
「ここしばらく、巡礼者の数が増えてるからね」
 少し困惑げに芋をためつすがめつ見る。その悩ましげな表情は、芋に向けられたものなのか、巡礼者が増えていることに対してのものなのか、ルッツにはわからなかったが。
「僕、よく知らないんだけど、なにかお祭りでもあるの?」
「ま、それもあるけどね。ルージュ様御生誕のお祝いがあるのよ。ええと、明々後日(しあさって)だったかな?」
「ルージュの……」
「それだけじゃなくて、オービッドとかヨマンデの大司教様、それに今回は教皇様までが病に伏せられて、その快癒のお祈りにハイデロアやスラスに来ている人が増えてるって話――おじさ〜ん、これ五つもらうわね」
「あいよまいどー!! 好きなの持ってってくんなぁ!」
 威勢良く応じた髭面の陽気な店主は、サラから硬貨を数枚受け取り、愛想よく礼を言った。サラは適当に選んだ五つの芋をルッツの籠に入れた。
 ルッツは次の店を物色し始めたサラに聞いた。
「ルージュって、教皇様に封印された破壊の巫女の名前だよね。サラさんはどこに封印されているか、知ってるの?」
「さあ? 知らない」
 残念。知らぬ振りで案内を頼んで玉座に近づく手は使えないか。
「じゃあ、何で封印されたかは?」
「知らないわ。教典には書いてあると思うんだけど。多分ね」
「そうなの?」
 教皇お付の女官とも思えぬ発言に、ルッツは首をかしげた。
 すると、その気配を感じたのか、サラは続けた。
「ん〜とね。……そもそもあたし、売られて来たの」
「は?」
 さらっと漏らした聞き捨てならない一言に、ルッツは思わず聞き返していた。
 剣を見立てている剣士のように、大根を縦に横に構えて検分していたサラは、その大根を肩に担ぐと、前屈みになってルッツの耳の傍に口を寄せた。
……ほら、教皇様って女好きだから
「え――ええっ、ちょ、ちょっとそれ、あの」
 そんなことを、教団外部の人間である自分に言ってしまっていいのか。
 顔を赤くして慌てるルッツに、サラはいたずらっぽく笑って大根で額をぺちぺち叩いた。
「冗談よ、冗談。ルッツ君かっわいー。……教皇様は確かに女好きで、いまだにあっちの方もお元気だけどさ、さすがにそこまではね。別にわざわざあたしみたいな下賎の女なんか買わなくても、言い寄ってくる女なんていくらでもいるわけだしさ。それこそ、旧シレニアスの貴族の末裔とかね」
「はぁ」
「でも、ここだけの話、猊下の好みってよくわかんないのよね。女だったら誰でもいいような感じもするし」
 小首を傾げる。
 ルッツは渋い顔で辺りに視線を飛ばした。こんな話、人込みの多い路上でするものじゃない。……何で僕が冷や冷やしなくちゃならないんだ。話を戻さなきゃ。
「いや、あの、そんな話より……売られたって?」
「ん〜と、ルッツ君は知らないかなぁ。子供を買う商人てのがいてね、各地の村から貧乏な家の子を買い集めてくるの。その後は、まあ色々。だいたいは大きな家の下働きとか、どっかの職人さんなんかに買われていくんだけど。家は食い扶ちを減らせるし、収入も入る。売られた子は、まあ売られた先にもよるけど、それぞれの働き場所を得る。場合によっては腕に磨きを掛けて、成り上がる人もいるんだから。で、あたしはたまたま教団の人手不足の折に、教皇様のお世話をするために買われたの。もうだーいぶ前の話だけどねー」
 暗く落ち込む風もなく、少し微笑みさえ浮かべて説明しながら、サラは大根を三本買ってルッツの籠に入れた。
 ルッツは生返事を返しながら、少し考えていた。今の話だけを聞いていると、ゼラニスが必死に平等だ、自由だと声高に叫ぶほど、身分の違いみたいなものは埋まっていないような気がする。もっとも、シレニアスの身分制度は自分が生まれる前の話だから、昔は今よりもっとひどかったのかもしれないけれど。
「だからあたし、あんまり本とか読めないのよ。元々農家の娘だし。実は教典もほとんど読めなくて。だから、さっきみたいな話を聞かれても答えられないの。ごめんね」
 ぺろっと舌を出して苦笑する。
「買われてきた人の中には、雑用をしながら司祭を目指してちゃんと勉強してる人もいるんだけどね。あたし、そういうの苦手でさ」
「……生まれの村はどこなの?」
「西の方。小さな村でさー……名前もないぐらい」
 ルッツは、サラの目がふっと遠くなるのを見た。
 ふと自分も南東の方角を見やる。
 メルガモは遥か遠く。離れてみると、なぜか父母の様子が心配に――ならない。なるわけがない。したくもない。
 それどころか、自分を連れ戻すために追いかけてきてないかどうか、不安になった。一応形の上ではオービッドで捕まったわけだし、聖騎士団を通じて連絡なんかが行っていたら……。食費だけでこき使える労働力を再び確保するためなら、すっ飛んできそうな気がする。
 教皇様や聖騎士団がダグのことに気を取られて、そこまで手を回してくれていないことを祈るしかない。
「でも、ルッツ君て凄いよね〜。その年で一人で家を出て、ここまで旅をしてくるなんて。あたしなんか、売られたときは泣いたもの。そりゃもう、一生分ぐらい泣き暮らして、リアラ=ベイル女官長に怒られちゃったものよ」
 屈託なく言って、次の店に向かうサラ。
 当時の悲しみを一切感じさせないその確かな足取りに、ルッツは何か胸に込み上げるものを感じた。
 ああ、やっぱり――この女(ひと)は強いんだ。そう思った。さっき笑いながら、売られてきた、と告げた時から感じていたことだ。
 泣いて泣いて、泣き続けても何も変わらないことを理解して、あるいは諭されて、前向きに生きる決心をしたんだ。それに比べて僕は――
「――僕は、逃げただけだよ」
 先を行くサラの背中から目をそらし、自嘲気味に呟く。
 逃げた。そして、ダグと出会い、色んなことを教わり、最後にはこんな自分の中にも道を切り拓く原動力があることを知った。でも、まだ実際に切り拓いたわけじゃない。僕はまだ、サラさんにさえ追いついていない。
「ん? なに?」
 今の呟きが届いたのか。肩に届く金色の髪を緩やかに躍らせながら振り向いたサラは、微笑みながら小首を傾げた。
 彼女はいまだに年だけは明らかにしてくれない。ただ二十代後半、とだけ。要するに、ルッツとは一回りぐらい年が違う。なのに……ふとした拍子に見せる表情は、リアラより若く感じられる時がある。
 ルッツは微笑み返した。
「あ、いや……その……改めてサラさんて綺麗だな、と思って」
「あら、やだ〜」
 サラは照れ臭そうにはにかんだ。
「ん、もう。大人をからかってぇ。しょうがないなぁ。いいわよ、何買ってほしいの?」
「え? あ、いやそういうつもりじゃ……」
「そうだ。もう一着、服でも買ってあげよっか?」
「あ、はぁ……」
 煮え切らない返事をしているうちに、サラはさっさと男物の服を売っている店に――向かいかけて、ふとその手前で立ち止まった。いや、正確には通り過ぎかけて、そのままとっとっとと三歩後退した。
 女物の服の店。色とりどりの服が、干物のようにずらりと軒先にぶら下がっている。
 振り返ったサラは目をきらめかせていた。ルッツに向かって手を合わせ、頭を下げる。
「ごめん。絶対後で買ってあげるからさ、ちょっとだけ。ちょーっとだけ、見せて?」
「あ、うん」
「きゃーありがとー! だから好きよルッツくーん!!」
 ルッツが頷くのとほぼ同時――いや、頷くのを待たない勢いで、サラは服の海へと飛び込んでいった。
 食材を買い込むときの百倍ぐらい必死で、色んな服やスカートを物色してゆく。
 ルッツは籠を道端に下ろしながら、ひとりごちた。
「やっぱり……絶対、リアラより子供っぽいよな。んー……でも、城内じゃ四六時中法衣でいるのに、あんな服買ってどうするんだろ」
 ……女心をルッツが理解するには、いま少しの時間が必要だった。

 ―――――――― * * * ――――――――

 上機嫌のサラとともにスラス城へ戻ったのは、もう日も傾いた頃だった。
 西の空はオレンジ色に輝いて、寝床へ返るカラスの鳴き声が物悲しい。
 しかし、巡礼の列が絶えることはなく、城の表から大広間は今日何度目かの入れ替え作業でごった返していた。
 二人がその混雑を避けて裏手の通用門から戻ったところ、衛兵に呼び止められた。
 シグオスがルッツを呼んでいる、という。
 顔を見合わせたルッツは、サラに籠を預けて止める間もなく駆け出した。

 
 あちこちで話を聞いて、たどり着いたのは城の北西端の部屋だった。
 重々しく厳しい扉を両側に立つ衛兵に開けてもらい、中へ入ったルッツが抱いた最初の印象は、牢獄みたいだ、というものだった。
 別に窓に鉄格子がはまっているわけでも、扉に錠前が下ろされているわけでもない。部屋自体はかなり広い。生家がすっぽり入りそうだったルッツ用の客室と同じぐらいだろうか。
 ただ、何もなかった。あるのは年代物のベッドと、一組の椅子・テーブルだけ。窓にカーテンもなく、石壁を隠すタペストリーもなく、床に敷物すら敷かれていない。
 そんな部屋の真ん中に置かれた椅子に、大きな背中が座っていた。右肘をテーブルに預けている。西向きの窓から差し込む真っ赤な夕映えの光のせいか、どことなく淋しげな背中――『神下ろしの秘儀』とやらを授けられたにしては、妙なほど雰囲気も気配も静まり返っている。
 声を出したものかしばらく逡巡していると、相手の方から口を開いた。
「……ルートヴィッヒ=クラスタか」
「はい」
 こうして聞く声も、張りを失っているように聞こえる。
 ルッツはそれ以上何も言えなかった。聞きたいことはあった。言いたいこともあった。オービッドでゼラニスにぶつけた言葉は、シグオスにもぶつけたい言葉だったはずだ。
 けれど、いざ本人を前にすると声が出ない。思えば、オービッドからスラスへ来るまでの道中でも、全く言葉を交わさなかった。目の前にいるのに、分厚い城壁があるかのような、疎外感を覚える。
 広いけれど小さくなった背中が動いて、テーブルに紙束を置いた。
「……読め」
 言われて、ルッツはそっと近づいて行った。
 シグオスの後ろに立ち、紙束を取り上げる。文字列を目で追う――『レンディル=ゼラニス』『ユーノン』『ダグ=カークス』などの文字が並んでいる。
「これ……」
「ゼラニスからの報告書だ。昼過ぎに、西の都市ユーノンから届いた」
「はぁ」
 頷いて内容を読み始める。
 と、シグオスが続けた。
「ダグ=カークスは……ヨマンデとユーノンの間の街道で狩人の部隊に追い詰められ、爆殺されたそうだ」
「ばく……っ!?」
 一度顔を上げ、再び文字列に目を戻す。慌てて最後の方まで紙片をめくり上げ、その内容に目を走らせた。
 きこり小屋に追い込み、説得したものの不調に終わり、爆殺――確かに書いてある。
(そん、な……)
 目の前が真っ暗になる。もうダグに会えないというだけではない。ダグに預けたルージュのバンダナがなければ、ルージュを助けることは出来ない。もう目と鼻の先に彼女がいるのに。
 不意に、何かが不協和音のようなものが聞こえた。
 それが力ない引き攣ったような笑い声だと気づいたのは、シグオスの背中が細かく震えていることに気づいたからだった。
「く……くく……まったく、笑える話だとは思わんか、クラスタよ」
 その異様な雰囲気に、ルッツは声を出すことを忘れていた。
「見るがいい、この刻印を」
 ずずっと椅子を引きずるようにして、シグオスは左半身をルッツの方に向けた。
 シグオスの左眼は、黒い眼帯に蔽われていた。それはいい。
 その頬にこめかみから三本、蒼白く輝く鋭角の刺青のようなものが走っていた。それだけではない。額に刻まれた紋様は左右非対称で、文字を思わせる形状だった。そこから鼻筋へ走る一筋の線から、左右の眼の下へも何本か筋が走っている。よく見れば、首にも。首から胸へと、そして服の中へと。服の袖から覗く両手の甲にも、呪文めいた不思議な模様が走っていた。
 まるで、絵物語に見た虎にそっくりな模様。ただ虎と違うのは、その縞模様の全てが何か不思議な蒼い光を放っており、まるで脈打つかのように強く弱く明滅していることだった。光の色は、ルージュの髪の色。あの不思議な蒼白い輝き。
 シグオスはなぜか、ふっと自嘲めいた笑みを浮かべて続けた。
「これぞ、『神降ろしの秘儀』を受けた証しよ……。我らが破壊の神の御力を、我が身に降ろしたてまつる教皇猊下最終最後の秘術。だが……これを施された者は、その力を使おうが使うまいが十日ほどで…………命を落とすこととなる」
「え……」
 ルッツは思わず紙束を取り落とした。乾いた音が無音の残響を残して部屋中に広がってゆく。
 シグオスは呟き続けた。
「それはよい。人の身に御神の力を降ろしたてまつれば、当然のこと。まして卑怯者の謗(そし)りを受け、臆病者の汚名をおびたこの俺だ。教団を、教皇猊下をお守りするために我が命を賭する、そのことに後悔はない。初めから覚悟しておったことよ。だが……」
 シグオスは両手で顔を覆った。心底悔しそうな呻きが漏れ出て来る。
「五年だぞ? 五年間、俺は奴にクルスレードの地において負け続けたのだ。その帳尻合わせに卑劣な手を使ってまで勝利を求めれば、その報いにこの左眼と大事な部下、それに二十年間護り続けてきた教団幹部を奪われ、あまつさえ公衆の面前で屈辱にまみれた泥まで舐めさせられた。……俺は――俺は全てを失った。猊下はもう、俺を頼みにはすまい。あの無様をさらした後では、聖騎士団にも戻れぬ。……全て、奴に、奴一人に奪われた。あの若造一人にっ!!」
 振るった拳が、テーブルの天板に叩きつけられる。
「なればこそっ!! なればこそ、奴を不倶戴天の敵として認め、我が命を以って斃さんとしたのだっ!! にもかかわらず、奴は、奴はゼラニスごときに、それもたった一度の戦で負けおったというのか!? なぜだっ!? 俺はそれほどまでにゼラニスに劣るというのか!? あの、鍛冶屋の息子ごときに! 奴が、ダグが来るまで、十五年の長きに渡り、兵員にして数倍する王国連合軍正規兵どもを退け続けたこの俺が……っ!! なぜだ……っ!? なんなのだ、俺は……っ!! 褒めそやされてその気になった道化だったというのか!」
 何度も何度も拳が、テーブルに叩きつけられる。
 最後に叩きつけた拳は、そのままテーブルに押し付けられ、力みのあまりぶるぶると震えていた。
「……く…………これも奴の狙い通りだというのか……っ! これより数日、この、ぶつける当てもなき思いを抱えたまま、おのれの人生にけじめさえもつけられぬまま、絶望に身をよじり、迫り来る最後の時をただただ待てと……!!」
 鬼気迫るシグオスの横顔に、ルッツは恐れおののいて半歩後退っていた。
 怒気と殺気を撒き散らすシグオスも怖かったが、ダグなら考えかねない、あまりにいやらしく、人を食った復讐の最終形態――煽って煽ってその気にさせておいて、先に死ぬことでその盛り上がった気分の行き場を無くさせる――の残酷さが一番怖かった。
「――見事だ……っ!」
 再び天板に拳を叩きつけ、シグオスは呻いた。その横顔が歪んでゆく。憤怒と悲哀から、絶望の笑みへ。
「見事だっ、ダグ=カークス! くくくく……ああ、見事だ! 五年間の勝利も、オービッドでの一戦も、ヘイズ=タッカードを失ったことさえ、この絶望と悔悟のための布石であったのか! ふははははははは、ああ、見事だ、ダグ=カークス! これほどの絶望と敗北感は、味わったことがないわ!」
 狂ったように笑うシグオスの背中を見上げながら、逆にルッツの心は冷めていった。
 違う。
 冷静に考えれば、シグオスの言っていることは矛盾がある。
 ダグが教団の秘儀中の秘儀である『神降ろしの秘儀』を知っていたはずがない。いくらダグが凄くても、シグオスがそれを願い出ることなど、絶対に予想できるはずがない。
 それに、ダグは死んでしまった後のことを想像して納得するような人間ではない。復讐を遂げるなら、おのれの手で最後の一撃を下し、絶望と悔悟に歪んだ死に顔を見下ろして、にやりとするような人間だ。シグオスがより強力な力を得たのなら、それを打ち負かしてからとどめを差すはずだ。
 ……我ながら最悪の人間像だとは思うけれど、本人が言っていたんだからしょうがない。
 だとしたら、ダグはシグオスの言うような復讐のやり方を考えていたはずがない。『神降ろしの秘儀』のことを知らない以上、ダグが死んでしまえば、シグオスは喜ぶだけだからだ。
 今シグオスが感じている絶望と後悔は、ダグが死んでしまったことへのものではない。尖らせるだけ尖らせた槍の穂先のような復讐心のあまり、二度と取り返しのつかないことをしてしまったからこそ、シグオスは絶望し後悔している。『神降ろしの秘儀』による命の期限がなければ、これほど取り乱しはしなかっただろう。ゼラニスに手柄を横取りされた悔しさに歯噛みはしたかもしれないけど。
 結果として、最も残酷な復讐になったのかもしれない。
 その時、陰気な絶望の笑い声が、ふとやんだ。
 虚ろな目で振り返ったシグオスの瞳が、ルッツに焦点を合わせ――正気が戻った。
「……泣いて、おるのか」
「え……?」
 慌てて、袖で両目を拭う。白い法衣の袖に一筋、濡れた跡。
「あ、れ……? 僕……」
 自分でも気づかなかった。ここは泣くべき場面じゃない。
 しかし、そうと気づくと途端に堤は決壊した。鼻の奥にまでじんわり何かが沁み下りてくる感覚がある。
 止めろ、止まれ。泣く理由なんかない。泣かなきゃならないほどダグと親しかったわけじゃない。リアラだって、クアズラー様だって、セリアス様だって、ダグが殺したんだ。自業自得じゃないか。人殺しが一人死んだだけだ。泣く理由なんてない。ないんだ。止まれ。
 必死で涙を拭い、鼻をすすり上げていると、シグオスは一つ溜め息をついて目をそらした。
「その涙が誰のためのもので、なぜかは聞かぬ。……俺の代わりに泣いてくれているのだと、一人合点しておく。何も言うな」
 心の鎧を、ハンマーか何かで打ち壊された気がした。そんな大した言葉じゃないのに、なんだか込み上げてくる感情がある。ますます涙は止まらなくなった。
 シグオスは椅子から立ち上がり、西向きの窓辺へと寄って行った。
「ルートヴィッヒ=クラスタ……本当にダグ=カークスは死んだと思うか」
 ルッツへの問い掛けなのに、まるで答えを期待していないかのような口調。ルッツは、顔を上げた。
 樹海の果てに沈み行く、鮮血の色をした太陽に何を思うのか。その光に照らされたシグオスは、全身に返り血を浴びたように赤く輝いていた。
「……シグオス……さんは?」
 しばらくうつむいて考え込み、わからぬ、と答えた。
「奴はしばしば、やられたと見せかけて兵を退き、我らを死地へとおびき出す策を使った。知恵者のゼラニスを相手に、たった一人でそれが出来るとも思えぬが……正直、死んでいてほしい気持ちと、死んではいないのではないかという疑い、双方が消えぬ」
 鼻をすすりあげながらルッツは考えた。それは自分も同じだ。
 ダグが死んだかどうかは、どうしたらわかるだろう。爆殺されたのなら、現場に行っても遺体の痕跡すらわかるまい。
 じっと考え込んだルッツは、やがておそるおそる口を開いた。
「……生きていたら、ダグは必ずここへ来ます。それだけは確かです」
「大した自信だな。なぜそう思う? 俺がいるからか?」
「それもあるけれど……僕がいるからです」
「……なに?」
 振り返ったシグオスは、怪訝そうに眉間に皺を寄せていた。
「オービッドで別れた時、僕はダグと約束しました。スラスで待ってるって。アレスのバンダナを、僕に返してって」
 シグオスは不意討ちされたように、ポカンとした。
「あれは……奴が持っていたのか。なるほど、隠し場所にはもってこいだな。考えたものだ」
「ダグは、約束を破るような人じゃありません。確かに人殺しで、残酷で、意地悪で、人情味なんか欠片もなくて、僕なんかではとても追いつかないくらい頭のいい人だけど――僕はそれだけは信じています。道理や理屈を大事にする人は、約束を破ったりしない」
「……耳の痛い言葉だな」
 シグオスは寂しげに頬笑んで、またしばしうつむき加減に黙り込んだ。
「……ならば、俺もその希望にすがってみるとしよう」
「え?」
 再び窓の外へ顔を向けるシグオス。ルッツから見える左側の顔は、眼帯のせいで眼の表情がうかがえない。どんな感情を抱いているのか――ただ、陰影の具合なのかもしれないが、その頬にはうっすらと笑みが浮かんでいるように思えた。
「ダグは死んだ、とお前が断ずれば、俺は今夜、スラスを出るつもりだった。……町の北、シェルロード山地の奥へと分け入り、誰も来ぬ場所でおのが生に終止符を打つつもりだった。だが、お前がそう信じるのなら、俺はお前を信じてみよう。……ダグごときを信ずるなど屈辱の極みだからな」
 シグオスの顔が少し上を向く。つられて、ルッツもシグオスが見ているであろう窓の外の空に目をやった。
 オレンジ色の光が薄れ、藍色の空が徐々に視界を染めつつある。藍の中にいくつか、小さな輝きが見えた。
「さて、奴が再び姿を現わすのが早いか……俺の命が尽きるのが早いか」
 ルッツは複雑な気持ちで頷いた。
 ダグが姿を現わせばここは戦場になる。教皇猊下も、ひょっとするとサラ達も、リアラみたいに巻き添えで殺されるかもしれない。
 けれど、シグオスの覚悟が無駄にならないためには、ダグがやってくることが必要だ。
 ダグが来なければ……シグオスは無駄死にしてしまうけれど、戦場にはならない。平穏な日常が続くことになる。
 でも、ルージュは……。

 話すこともなくなり、部屋を退出したルッツは自室へ戻りながら、自分はどちらを願うべきなのか悩み続けた。

 ―――――――― * * * ――――――――

 時間は前後して。
 ルッツとシグオスの会見の前日。すなわち、ダグ爆殺の翌日。

「――火の始末を忘れるな。確認の上にも確認しろよ」
 一団を率いる屈強な狩人は周囲を見回しつつ、誰にともなく呼びかけた。
 元はきこり小屋のあった場所。爆発の影響で抉れ、窪地になったそこに吹き飛んだ小屋の建材や丸太などの瓦礫、広場の周囲で倒れた木々がうずたかく積んであった。
 男はそれを背に、腕組みをして辺りの様子を注意深く見渡していた。
「森を守る狩人が山火事を出したとあっちゃあ、しゃれにならねえからな。もっとも――」
 背後の瓦礫の山をちらりと見やる。
「……ここは大丈夫だろうがな」
 降り続く雨は、一晩経ってもまだあがらない。周囲から流れ込んだ水によって、窪地はちょっとした池のような様相を呈していた。水位が男の履くブーツの足首ほどまで来ている。
 あちらこちらの茂みから、狩人達がぞろぞろと集まってきた。
「……火種は見あたらねえ。んまー、この雨だ。全部消えちまってるだろうよ」
「ああ、俺もそう思うぜ。んで、この後は?」
 瓦礫の前で待っていたリーダー格の男は頷いた。
「帰るとしよう。俺達の役目はこれで終わりだ」
「んだな」
「さあさ、帰(け)ーんべ帰ーんべ」
 一団は口々に安堵の声をあげながら、街道へ向かう小径へ向かう――
「……けど、いいのかね? 誰か見張りを残さんでよぉ」
 不意に上がったその声に、狩人の一団は足を止めた。
 振り返った男どもの睨みつけるかのような視線に、言った男は面食らったように立ちすくむ。
「いいだろ、そんなもん」
「んだんだ。見れ。あの様で生きとるわけねーべや」
「一晩待ったわけだし、ゼラニス殿への義理は果たしてるだろうがね」
「そうだぜ。本人も帰っちまったしよ」
 思わぬ集中攻撃に、男はむっとして舌打ちを漏らした。
「そんなこと言ってんじゃねえよ。どうせ、ゼラニスの旦那の連絡受けた聖騎士がここを見に来(く)んだろ? その案内役を一人ぐらい残しておかなくていいのか、って――おいおい」
 男が話している間に、集団はいそいそと小径へ入ってゆく。
 誰ともなく声があがった。
「だったら、おめえが残りな。別に現場が逃げるわけでなしよ」
「ああ、まったくだ。おらあ、ごめんだで。早ぅ家に帰って温かい飯が食いたいでよ」
「んだんだ」
 笑い合いながら一人また一人と茂みの奥へ消えてゆく。
 一人取り残されそうになった漢は、瓦礫の山を一瞥し――すぐに一行の後を追った。
「馬鹿言え。俺だって早えとこ温(ぬく)いベッドに入りてぇんだ。誰がこんなとこに」

 ―――――――― * * * ――――――――

 一行が姿を消してしばらく。
 草木に降りかかる雨の音だけが静かに漂っている――……
 ぼこ、と水中から大きな泡が立つ音がした。
 静寂。
 再び、泡がどこかで割れる。
 落ちる雨の滴によって無数の波紋を描いていた、瓦礫の下の水たまりの水面が揺れた。
 泡が割れる。割れる、割れる……その音はやがて降り続く雨音を掻き消し、ついには音と音の境目を失った。
 それにつれて瓦礫の下の水たまりが動き始めた。ゆっくりと渦を描いて、一点に――浴槽の栓を抜いた時のように、瓦礫の下へ流れ込んでゆく。やがて……
 突然、瓦礫の山が内側から吹き飛んだ。
 一度ではなく、二度、三度。その度に青白い焔のようなものが間欠泉のように屹立する。同時に蒸気が噴き上がり、周囲は霧が立ち込めたように靄がかかる。
 バランスを崩された瓦礫の山があちこちで崩壊してゆく。滴る雨の音だけだった広場は、しばらく騒々しい崩壊音に包まれた。
 やがて。
 瓦礫の一角。
 浴槽の排水溝のように空いた穴。
 窪地に溜まっていた水を全て飲み込んだそこは、なお少しの余裕があった。
 突然、その中から手が勢いよく突き出した。黒い革手袋に包まれたその手が、崩れかけた穴の縁をしっかりつかむ。次いで、もう一つ――剣を逆手に握った手がその隣に並び、最後にその手の持ち主が勢いよく水しぶきを跳ね上げて上がってきた。
 上体を穴から引きずり出したのは、ダグ=カークス。
 そのまま突っ伏したダグは、顔を上げることも出来ないまま、咳き込み続けた。しかし、腕だけは残る下半身を引き上げるべく、泥に爪を立て、渾身の力を込めて引き絞り続ける。


 半時間後。
 ダグの体は、完全に地上へと戻っていた。
 だがその呼吸は荒く、濡れた前髪に覆われた顔も土気色に変わっている。
 やがて、ダグは吐いた。出てくるのは水ばかりだが。
「…………ぜぃ、はー……はー……ぜぃ…………はー……ぜぇ……」
 一息ついたダグは、上体を起こし始めた。幽霊か何かのように、ゆっくりとじわじわと。
 泥に爪痕を残しつつ、腕を体の下へ引き寄せる。そしてそれを支えに上体を起こし、膝を立て……
 もたげた顔におどろに貼りついた前髪の隙間から覗く眼が、何かに憑かれたように濁っている。
「……やば、か……った……井戸が…………もう、少……し……浅け、れば……」
 ダグはゼラニスを追い出した後、小屋の中にあった小さな井戸に身を隠した。地下で、水中となれば爆発が直上でさえなければ、その衝撃はかなり緩和できる。井戸の壁が崩壊崩落しなければの話だが。
 爆発の直後、折れた梁や壁などの瓦礫やら何やらが井戸に蓋をするように覆い隠したため、発見だけは免れた。とはいえ、完全な蓋ではない。そこかしこに隙間があったため、窪地に溜まってゆく水はずっと井戸の中に流れ込んでいた。
 滴る雨水、芯まで凍りそうな井戸水。上がり続ける水位、徐々に失われ行く空間。そして薄まる空気。
 その中でただひたすら息を殺し、壁に耳を寄せ、時に浅い眠りに落ちながらダグは待ち続けた。外から人の気配が消える時を。
 大勢の足音が遠ざかってゆくことを確認したダグは、それでもなおしばらく待ってからバンダナの力を解放し、頭上を塞ぐ蓋を切り飛ばし、現世へと生還したのだった。
 あと少し水位が高ければ……あと少し蓋となった瓦礫の隙間が広ければ……あと少し降りが激しければ……あと少し狩人達が立ち去るのが遅ければ……あと少し瓦礫を吹き飛ばす力が弱ければ……
 いずれの条件でも満たしていなければ、空気を失い、意識を失って死んでいた。
「……く……くく…………死神は……まだ……俺、を…………生かす、気……らしい……」
 その頬に刻まれるのは、死者の笑み。
 ダグは膝立ちになって、天を見上げた。
 降り落ちてくる無数の雨粒。
 体を反り返らせて、引き攣ったような笑いを漏らす。
「くくく……シグオス……待っていろ…………俺は……地獄から…………再び……還ったぞ……」
 山野を煙らせる雨はまだ、止む気配を見せなかった。


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