蒼きバンダナのアレス Last Episode
〜Cross Fates〜【DUG/RUTZ】
深緑の戦場 - cross fate V ゼラニス×ダグ -(前編)
中枢都市群・西方都市ユーノン。
赤・青・白・黒・灰・銀……色彩豊かな瓦屋根が、まず目に飛び込んでくる風景の特色といえる都市。
その都市部の東南部外れ。南方都市ヨマンデに続く街道脇に建つ、古ぼけた二階建て木造建築の宿屋に慌てた様子の男が駆け込んだのは、ちょうどスラスでシグオスが教皇に"神降ろしの秘儀"を申し出た時刻だった。
宿屋の一階はご多分に漏れず食堂になっており、多くの者がテーブルについててんでに会話をしていた。
「おいおいおいおい、ゼラニスゼラニス!!」
男は奥のテーブルで地図と睨みあっている"将軍"を見つけるや、駆け寄った。
ゼラニスは迷惑そうに顔をしかめた。
「何だ騒々しい」
「ヨマンデのチャールズ卿がやられた! お前の言った通りだ! 表向きは病気で伏せったことになってるが、間違いない!」
男の叫びに、店内にいた他の者たちもざわめいた。いずれも少々いかつい顔つきの、30代を超えた年かさの男たち。若造と呼ばれる年頃の青年は一人もいない。客にしては、少々異様な顔ぶれだった。
「先に言っておいたんだから、驚くほどの事でもねえだろう」
ゼラニスは別段驚いた様子もなく、ため息を一つついて地図に目を戻した。
「頭の固い聖騎士団は、逃げれば追って来ると思ってハイデロアを固める。その守りを崩すには、予想外の動きをすればいい。選択肢は南か北かしかない。北の教皇は、言ってみればメインディッシュだし、怪我をしたシグオスが向かった可能性がある。だから南に行った。それだけのことだ。それより、問題はここからだ」
ゼラニスの落ち着きに、店内のざわめきも徐々に治まる。
そのうち、一人二人と席を立ち、ゼラニスのテーブルの周りに集まってきた。
ゼラニスは、地図上のヨマンデを指差した。
「奴がこの先、どう動くかだ。ルートは三つ。あくまで奴の狙いが教団幹部全員の暗殺で、その完遂を目指すなら、順当に考えて、次はこのユーノンの大司教フィリックス卿を殺り(とり)に来る」
つつ、と街道を真っ直ぐなぞってユーノンに到達する指。
テーブルの周りに集まった者達が、再びざわめく。
不意に、指は地図の反対側、東のオービッドへと飛んだ。
「だが、そう考える者は結構多いだろう。ここは裏の裏をかいて、一旦警備の手薄な東へ戻り――」
オービッドから街道をなぞって、北――スラスへ。
「教皇を先に殺(と)っちまう、というのも考えられる。どちらをとるかは、どのタイミングで教皇を殺(と)れば、どれだけの効果が上がるかをダグ=カークスがどう計算しているかだな。そればっかりは、奴以外にはわからん。ま、これが二つ目。そして――」
指は、これまで避けてきたハイデロアに下りた。
「裏の裏は表、と言う考え方で一気にハイデロア陥落を目指す。これが三つ目」
「しかし、ハイデロアには今、アスラル全域から聖騎士団が集まり始めている。ユーノン聖騎士団も、今向かう準備中だ。多分、明日の朝には残らず発っちまうはずだぜ? そんなところへ行くかねえ」
したり顔の男に、ゼラニスは指を向けて笑った。
「だから三番目なんだよ」
一つ大きく息を吸い、腕を組む。
「ただ、先に難しいところを落としておいて、敵の士気を削ぐというやり方は案外効くぜ。怖れを植え込んでしまうのは、戦力差がある場合にはなお有効だ。それに、今の聖騎士団は予想外の南がやられたということで混乱してるだろうし、この短期間にアスラル全域から戦力を集めるなんてことをすれば、余計に混乱する。駐在する戦力の割りに隙は多そうだ」
だがな、と続けながらゼラニスは椅子の背もたれに背を預けて、天井を見上げた。その目が細まる。
「俺の見立てじゃあ、奴の次の目的地はユーノンだ」
「てこたぁ……一番目か」
周囲がどよめく。
ゼラニスは頷いた。
「ああ。たった一人で教団に喧嘩を売る。常識的に考えればそんな無茶、よほどの奇策がなければ無理だと思われがちだが……奴のここまでの動きは実にオーソドックスで無駄がねえ。運良く案内人を得て、メルガモを避けてサラムナへ行ったりと、多少の運はあるにしてもな。そのうえ、行動には絶対的な意志が感じられる。やると決めたら、とことんまでやる。そういうタイプの人間だ」
「そ、そういう奴はやっぱり強いのか?」
「何を以って強いというかによるがな。少なくとも、一人の利を充分熟知し、聖騎士団の動きや行動方針の志向を読み切っている。つまり、頭がいい。ついでに言えば、シグオスを退け、オービッド聖騎士団団長を葬るほどの技量もある」
ひときわ大きなざわめきが起きた。そこに溢れているのは不安。
「奴の動機が復讐であるにせよ、オービッドでシグオスを見逃し、ハイデロアにも向かわなかったことから考えて、十中八九、教団幹部を皆殺しにしてから再びシグオスに相対する気だ。思えば……オービッドの邂逅自体が予定外だったんだろうな」
「それで? どうするんだ、ゼラニス?」
「街道を見張っちゃいるが……そんな化け物、見つけてもどうやってしとめりゃいいんだ」
いかつい顔のわりに、不安そうに顔を見合わせる男たち。
ゼラニスは腕組みを解いて、両手を広げてみせた。不敵な笑みを浮かべて、片目をつぶってみせる。
「なぁに、そんなびびるほどのもんじゃねえよ。奴が絶対的優位を作れるのは、限られた状況だけだ。聖騎士、接近戦、都市。奴の意識の中に俺達義勇軍はいないし、遠距離からの攻撃に対してもそうそう対策があるわけじゃない。下手糞な聖騎士の弓ならともかく……あんたらの弓は樹間の獲物を正確に射抜く。違うか?」
「それで俺達地元の狩人を……」
狩人たちはお互いに肩を叩きあい、頷き合う。
「山菜採りとキノコ採りにも声をかけたはずだが」
周囲を見回す。該当する山菜採り達とキノコ採り達が、照れくさそうにはにかむ。
「きこりもおるぞい」
隅の一団が盃を掲げる。
「ああ、そうだった」
「これだけでいいのか?」
狩人の一人が声をあげた。
「そりゃ、俺達にゃあこの辺の土地勘はあるけんど……義勇軍の連中とか、ユーノンの自警団の若い衆も連れてきた方がいいんじゃないか?」
ゼラニスは苦笑した。
「無茶言うな。東と違って西の戦線じゃ、まだ戦は続いてるんだ。そんなほいほい呼べるかよ。呼んだところで、連中がユーノンに着く頃にはダグは仕事を終えて悠々と次の獲物に向かってるだろうぜ。それに、奴と戦うのに兵士は邪魔だ。むしろ、あんたたちこそが適任だ」
「俺達が?」
「またまた。そうやって持ち上げたってわかってんだぞ? 俺たちゃもう若くねえからな」
狩人たちの間に広がる雰囲気に、ゼラニスの眉尻が持ち上がった。
どうせ俺達は数合わせの時間稼ぎだ、という共通認識があるらしい、と悟ったゼラニスは音高くテーブルを一叩きした。その強い調子に、緩みかけていた空気が一瞬で引き締まる。
鋭い目つきで一同を睨み回す。
「持ち上げてねぇよ。俺はそういうお追従やお世辞は嫌いだ。純粋に戦力として必要だから、あんたたちを呼んだ。ちょっとでもそれを疑うなら、ここから出て行け」
「おいおい」
「こっから先は、命のやり取りだ。俺の口から出る言葉に少しでも疑いを持つ奴はいらねえ。俺の命令を守れねえ奴は、命の保証が出来んからな。だから俺はおべっかもお追従も、お世辞も一切言わん。俺の口から出る言葉は全て本気で真実だ」
静まり返った一同をもう一度一通り見回し、反論がないことを確認してゼラニスは人差し指を立てた。
「では、基本ルールを確認しよう。こちらの負けは、奴をユーノンに入れちまうことと、この部隊が戦闘不能に陥ることだ。ユーノンへ入れないことは大前提だし、部隊も俺の言う通りに動いてくれれば、絶対に戦闘不能になど陥らせん。たとえ俺が死ぬようなことになっても、その二点だけを守ればこちらの勝ちだ」
「何か策があるのか?」
ゼラニスは頷いた。
「策自体は後で説明するが、そもそも奴の剣の間合いにさえ入らなければいいんだよ。あんたらがいつも獲物を追う距離を保っていれば、こちらに被害が出る可能性はほぼない。悪いが、そのために今回報酬は一律、誰が仕留めても一緒にさせてもらった。その意味はわかってもらえると思う」
「なるほどのう」
声は、少し離れたところから聞こえた。
いっせいにその声の主に視線が集まる。
顔の下半分が白いひげに覆われた、ずんぐりむっくりの老人が、少し離れた席に座っていた。エール酒の入ったジョッキを片手に、ゼラニスを見やる眼は鋭い。
「ま、わしら狩人は昔から協力して獲った獲物は、頭(かしら)の取り分以外を等分に分けるのがしきたり。今回の狩りの頭はお主、そして支払うのもお主ならその条件も妥当というものじゃろう」
古株の狩人の言葉に、他の狩人たちも頷く。
「そういうことだ、じーさん。ついでに言やぁ、奴をしとめる必要すらない。……いいか、奴がユーノンへの侵入を諦めれば、それでいいんだ。無理はするな。矢はこちらでありったけ用意させている。好きなだけ射ってくれ。ただ、一つだけ、これだけは頼みたい」
ゼラニスは立ち上がって、頭を下げた。
「あんたらもこの土地の人間で、獲物の追い込みには一家言あるだろうが、奴の恐ろしさをわかっているのはこの中では俺だけだ。奴はただの獲物じゃねえ。狼より残虐で、熊より恐ろしく、狐よりも狡猾だ。人間としても、化け物並だ」
再び狩人達がざわつく。
「俺は、こんなクソみたいな戦いであんたらの誰一人として死んでほしくない。だからこの先、何か文句の一つもつけたくなるようなことがあるだろうが、今回だけは俺の命令に絶対服従で頼む」
狩人達は困惑げに顔を見合わせた。
「おいおい、ゼラニスの旦那。よしてくんな。これはあんただけの戦いじゃないんだぜ」
「そうそう、俺達だって大司教様には死んでもらっちゃ困るんだ」
「おめえ、毎度獲物の牙やら爪に引っ掛けられて、傷だらけだもんな。癒し手がいなくなると困るよな」
「そうそう、その通り……って、違うわっ!!」
「まあまあ。……とりあえずこの狩りの頭はあんただ。ユーノンの狩人の信義にかけて、あんたの指示は守る」
「ああ、ここにいるのは、共同の狩りの最中に私利私欲で動きゃあ、結局おのれが危なくなると知ってる奴らだ。手柄目当ての若造はいねえ。俺たちゃ全員、あんたの指示通りに動く。――さ、何をすればいいか指示してくれ」
ゼラニスはもう一度頭を深々と下げた。
「ありがたい。感謝する。それじゃあ――」
―――――――― * * * ――――――――
三時間後。
日は既に傾きつつある時刻。緑色深い森の中では、日暮れも早い。あと一時間ほどで完全に日は没するだろう。
「ゼラニスどの! 獲物を発見したとエンジ爺(じい)が!」
ユーノンでも名うてのキノコ採り名人が、陣屋に指定した森の中の廃屋に駆け込んできた。
「ふむ。ルートは?」
ゼラニスは年代もののテーブルの上に広げた近辺の簡略地図を見ながら、焦った風もなく聞き返した。
「大街道を真っ直ぐユーノンに向かって、堂々と歩いておるそうじゃ。人殺しの分際で、よくもまぁ」
キノコ採り名人の愚痴に、自身も戦場で散々人を殺してきたゼラニスは苦笑するしかない。
「で、周囲の人通りは?」
「確認しておらんが……この時刻じゃと、あまり考えにくいのう」
「わかった。人通りがないことを確認次第、作戦を開始してくれ」
頷いて走り去ってゆくキノコ採り名人。
ゼラニスは後ろでパイプをふかしていた山菜取り名人に振り向いた。
「聞いた通りだ。連絡班、追い込み班、囮班――全班に作戦開始を指示してきてくれ。待機班にもな」
「あいよぉ」
白髪混じりのお爺さんは、背負い篭(しょいかご)を担いで出て行った。
一人きりになったゼラニスは、再び地図に目を落とした。
「エンジ爺に見つかったということは、この辺りか」
地図の一箇所にピンを刺す。
「残念だったな、黒衣の死神。そこから先は通行止めだ」
―――――――― * * * ――――――――
両側は鬱蒼と茂った森。
森を切り拓いて作った街道は、馬車がすれ違えるほどの幅がある。日頃からそれなりの交通量があるのか、地面は露出しており、草木の侵略を受け付けてはいない。
黙々とその道を西方都市ユーノンに向かって歩いていたダグの足が、ふと止まった。
殺気。
ちらりと右手の森を見やる。
(……聖騎士の待ち伏せではないな。声をかけて届く距離ではない。だが、この殺気は……)
ごく自然に仰け反った瞬間、今顔のあった空間を一本の矢がかすめていった。
たちまち、ダグの表情に険が宿り、大きく跳び退る。
続け様に二本目から五本目がまとめて飛んできた。
(……ちぃっ!)
心で舌打ちを漏らし、左手の森へと飛び込む。太めの樹を背にして隠れた。
すぐさまその樹と、周囲の木にも次々と矢が刺さる。明らかにこちらの逃げ道を潰す狙いを持った矢だ。
(なんだ、この腕前は。……一人じゃない? 一体――……!)
新たな殺気を感じて、身を翻す。たった今顔を出していた場所に矢が刺さる。
(これは……二手か? ちぃぃ……状況が読めん。ここは一旦退くしかない、か)
方向的には来た道を引き返すことになるが、致し方ない。ダグは姿勢を低く沈めると、下生えの茂みを掻き分けて走り始めた。
―――――――― * * * ――――――――
「どうだ、エンジ爺」
最初にダグに射かけた狩人、エンジ爺の元にゼラニスが姿を現わした。
振り返った白髭の老狩人は、にかっと笑った。
「あんたの見込み通りじゃ。あっさり退きおった。ベルテスの班が今追いかけとる」
「じゃあ、俺は例の場所で待機している。この後もよろしく頼む」
「任せておけい」
人の好い笑顔で応えたエンジ爺は、弓と矢筒を背負うと茂みを出てゆく。続けて、彼に率いられた班員も。
「頼んだぜ」
その後姿を見送りながら、ゼラニスは何度も頷いた。
―――――――― * * * ――――――――
何者であるかは問題ではない。
この森の中をランダムに方向を変えても追ってくることから見て、相当土地勘のある人間だから、狩人とかそういう類のものだとは推察できるが。
問題とすべきは、なぜ追われているか、だ。
聖騎士団の手引きとは思えない。あの面子にこだわる連中が、彼らから見れば森の中を這いずり回る下層人種である狩人などに応援を頼むとは、とても思えない。
とはいえ、実際追われているわけだから、一つの可能性として、『頭を下げることを知っている聖騎士がいる』というのは捨てきれない。ましてここは西部と南部の境。ダグの知らぬ人格者の聖騎士がいないとも限らない。
ただ、実に細い糸だとは思う。何か他の可能性の方がありそうだ。
(……いずれにせよ、このしつこさは尋常ではない)
珍しく肩で息をしながら、ダグは巨木の根元のうろに身を潜めていた。
辺りは既に闇に落ち、虫の音が漂っている。
ダグの闇色の双眸はその暗がりの向こうに潜んでいる、姿の見えない敵を見据えていた。
(よほどの者が指揮を執っているな。行動規範が徹底している)
距離の保ち方が絶妙だった。逃げれば追われ、追えば逃げる。右かと思えば左から、前かと思えば後ろから矢が飛んでくる。
その度に放ってくる本数が違うため、一体何人が追ってきているのかもわからない。
わかるのは、一人二人ではないということと、それぞれの腕が相当なものだということだけ。
聖騎士を相手にすることのみを考えていたため、こんな攻められ方への対処は引き出しにない。部隊を率いていた時ならともかく、一人ではどうにもならない。
(……打開策を見つけなければ、いずれ――)
耳元に、矢が立った。
「くっ……!!!」
マントを翻して転がり出る。追いかけるように次々と矢が地面に突き刺さる。
(夜の森の暗がりでこの精度……! 間違いない、これは熟練の狩人の腕前だ)
土地勘のある熟練の狩人達に、土地勘のない地で狙われる。
うそざむいものが背筋を走った。
わざと手近な茂みを避け、少し離れた茂みに飛び込んだ。矢の飛んで来た方向、かすかに感じる人の気配を便りに射線を外れるよう駆け抜ける。
(ちぃぃ……休ませないつもりか。くそ、常套手段とはいえ、自分が陥ると厄介この上ないな)
ひとまずは夜明けまで逃げおおせる。日が昇れば、なにか逆襲の手立てを講じられるかもしれない。
(そんなものにすがるとは、ダグ=カークスも堕ちたもんだ)
自嘲の笑みを浮かべるダグが走り抜けた直後、脇の樹に矢が突き立った。
―――――――― * * * ――――――――
夜が明けた。そして、昇った日が天頂に輝く。
ダグは、自分の見通しの甘さを呪うこととなった。
一晩中森を駆け抜けたのに、追跡者に疲れの色は見えない。つかず、離れずを保ち続けている。
タフな相手、というだけではすまない。一人二人はそうでも、追跡してくる者全てがそうだとは思えない。
なのに、攻撃の密度、追跡者の殺気の密度が変わらないということは、彼らはチームを組んで、ローテーションのようなものを組んでいるということなのだろう。
だが、地元の狩人達を急きょ集めてこのような部隊に編成するのは、並大抵の指揮能力ではない。自分でもそんな芸当は出来ないだろう。むしろ最初からそういう訓練を施していたのか。
(……となると、いざというときの自警団か何かか。しょせんは戦の素人ばかりと舐めてかかっていたが……甘かったな)
心の中の感心を表情に浮かべることなく、周囲の気配を探る。
ダグは一際深い茂みの奥、幾本もの太い蔦が絡まりあって一つの大樹のように見えるその陰に伏せていた。周囲に蜘蛛の巣より密度濃く張り巡らされた蔓によって、中からも外からも視線は届かない。
だが、気配はそんなものを超えて届く。
(………………いるな。こちらの居場所はわからないが、居ることは知っている。こちらが動くのを待っている、か)
迂闊に動けない。
(完全なる窮地、か)
土地勘のない森の中で、土地勘のある熟練の狩人、少なく見積もっても十数人の包囲追跡を受けている。彼らの背後には、獲物を追い込むための完璧な連携を仕込んだ統率者がおり、しかもそいつは一晩がかりでまだ獲物を仕留められずにいることを焦っていない。
指揮する者に焦りがあれば、部下にその焦りは伝染し、こうした状況では必ず何か仕掛けてくる。獲物を見失いながら何もせず、ただこちらが動くのを待てるというのは、相当上下の信頼が強く、肝の据わった相手だということだ。
(大した奴だ。……爪の垢でも煎じて、シグオスに飲ませてやるべきだな。しかし……こうなると、このまま我慢比べか)
だが、それはこっちに不利だ。
こっちは我が身一つ。戦力差を比較するのもバカらしい。向こうが今の距離を保っている限り、こっちの戦力値は限りなく0だ。援軍も補給も退路さえも一切なし。
加えて、疲労と眠気。
二、三日なら飲まず食わず眠らずとも戦えるほどには鍛えているつもりだが、それでも渇くものは渇く、飢えるものは飢える、眠いものは眠いのであって、要するにそういう状態は痩せ我慢に過ぎない。
まして追う立場と追われる立場では、その蓄積の度合いが比較にならない。現状、疲労の蓄積度は追手の数倍の早さだと考えるべきだろう。今のままでは、明日の夕刻には歩行のバランスさえ崩れ始める。
(皮肉なものだな)
ダグは指の先で額に巻いたバンダナを軽く撫でた。
オービッドを発って以来、その使い方を色々試してきたが、筋力の強化と蒼い破壊光をまとうこと以外にも、様々な効能があることがわかった。
もっとも顕著なものは治癒能力。軽い傷ならものの半時間で消える。多少深手であっても、一日ほどで傷口が塞がる。重傷はもう少し時間がかかるようだが、例えば骨折なら数日でつながりそうだ。オービッドで受けた肋骨の骨折も、今ではほとんど痛まない。
だが、疲労回復と体力の回復――特に精神・神経関連の回復にはあまり効果はないようだ。使い方が悪いのかもしれないが。
森の中を走り回ることで生じる生傷自体はみるみるうちに消えて行くが、疲労は蓄積する。身体はどこも傷まないのに、いやむしろ日々状態が良くなっているのに、それを支える力だけが失われてゆく。
(傷が治っても、身体が動かぬのでは意味がない。まったく、皮肉にもほどがある)
再び、今度は全ての指先でバンダナをなぞる。
(とはいえ、なかなか便利なものだ。確かに、これがあれば不死身の活躍も出来よう。もし、これを例えば聖騎士団全員に持たせることができれば……直接の戦闘においては比喩抜きに無敵の兵団が組織できる。そうでなくとも、医者と薬師が職を失うやもしれんな)
ダグはすぐに苦笑を浮かべた。
(医者と薬師の心配より、さしあたって俺のこの状況をなんとかせねばな。やれやれ)
小さく溜め息をつく。
(さて、どうしたものかな)
さんさんと陽射し射す緑の天蓋は、たださやさやとかすかなざわめきをたてるばかり。
気弱げに頬を緩めながら、ダグは再び周囲の気配を探った。追手どころか、小動物一匹動く気配はない。
(……寝るか)
ともかく、動きがないのなら今は身体を休めるべきだ。少しでも。
ダグは目を閉じ、夢も見ない眠りの中に落ちた。
―――――――― * * * ――――――――
「奴は今、エンジ爺の持ち場に戻っとるで。反対側はドミニクの班が押さえとる。ただ、あの辺は茂みが深いでのぅ。お主があやつに近づくな、っちゅーとるんで、踏み込むわけにもいかんし、ずっと待機したまんまじゃ」
カップの茶をすすりながら、連絡役のきこりが漏らす。
「ふむ。……そろそろ半日か。こりゃあ、相当頑固だな」
地図を横目で見やりながら、ゼラニスは暖炉に薪をくべ、中を火掻き棒でかき回した。
「どうするね? 斥候を送るかね?」
「いや、待機だ」
即答したゼラニスに、きこりは顔をしかめた。
「ええのかね?」
「ああ。ルールを思い出してくれ、じーさん。俺達は奴がユーノンに入らなければ、それでいい。だが、奴はユーノンに入らなければならん。つまり、この状況で、動かなきゃならんのはダグ=カークスの方だ」
暖炉の中の台にやかんを置いて、ゼラニスはテーブルに戻ってきた。椅子に座って、地図を見る。
「ここに釘付けになっている限り、俺達が焦る理由は何もない。必ず奴の方から動く」
「なるほどのぅ……しかしまあ、夜になればすぐに居場所もわかるじゃろ」
カップの茶をすする。
地図のあちこちに立ったピンを抜いたり刺したりながら状況を読んでいたゼラニスは、ふと顔を上げた。
「……夜になれば? なんでだ? じーさん」
「なんじゃ、聞いとらんのか? ロドマンが笑(わろ)うておったぞい。あやつ、夜になると蒼い光を放ちおるから、夜の方が見つけやすいとか。自分では気づいておらんのかのぅ」
「なんだそりゃ。蛍じゃあるまいし。いや、死神だけに人魂か何か――」
笑いかけたゼラニスの顔色が、さっと変わった。
「蒼い、光だと!?」
「んじゃ。ロドマンが言うには、白っぽい青だそうな。そうそう、今お主が言うたように人魂みたいな光じゃというとったわ。頭ぐらいの高さにあるんで、的にちょうどええとか。ますます化け物っぽいのぅ。ほっほっほ」
「……そういうことかっ!」
両手をテーブルについて立ち上がったゼラニスは、蒼白な顔色でダグを示すピンを睨んだ。
「くそ、なんてこった!! 奴が持っていたのか!! あのガキ……!!」
事情を知らないきこりが目を瞬(しばた)かせる。
「なんしたね? なんぞまずいことでも?」
「ああ、まずいもまずい。……この状況で五日は稼ぐつもりだったが……そうもいかなくなってきた」
「どういうことじゃね?」
「説明してる暇はないし、説明してもわからん話だ。ただ、下手に追い詰めすぎるとどうなるかわからなくなった。くそ……じーさん、すまんが皆に伝達頼む。例の奥の手だ。それと、とにかく奴には近づくな。それをもう一度厳命してきてくれ」
「了解じゃ」
自衛の武器のつもりなのか、古びた斧を担いでえっちらおっちら出てゆくきこり。
残るゼラニスは再び地図と睨み合い、ダグ以外のピンの位置を刺し変え始めた。
―――――――― * * * ――――――――
そしてもう一晩が明けた。
再び一晩中追い回されたダグは、ある場所で立ち尽くしていた。
回復しきらぬ呼吸を整えつつ、目の前にぽっかり口を空けている樹のうろを見やる。
その入り口に、矢が一本刺さっていた。
つまり、二晩かけて元の場所に戻ってきたというわけだ。
その矢を引き抜いて、手の中でへし折る。
(くそ、どう足掻いても奴らの網の中ということか)
相手は一定の距離を絶対に崩さない。夜でさえ、正確に追って来る。先回りされる。並みの者なら追われる恐怖に神経が参ってしまう頃合いだ。実際、ダグも相当精神的に負担がきていることを感じていた。
空を裂いて飛来した矢一本。
軽く首を傾けたダグの頬をかすめて樹に刺さる。
ダグは溜め息をついた。
「……やれやれ。出たとこ勝負というのは嫌いなんだが――そうも言ってはおれんかっ!!」
言うなり、バンダナが蒼光を放った。それはすぐに全身を包み、周囲の草や茂みを激しくざわめかせた。
そのまま剣を抜き放つ。剣の軌跡に沿って、蒼い三日月のような風が走った。
静寂。
そのうち、何かの軋みが聞こえてきた。
軋みは徐々に大きくなり……やがて、ダグの前方に生えていた木々が次々にゆっくりと倒れ始めた。
「とりあえず姿を消させてもらおうか、追手ども」
苛つきを隠さぬ声で呟くと、振り返るなり再び剣を振り上げた。
―――――――― * * * ――――――――
「びっくりしたわい! あやつが剣を振りおったら、青い刃みたいなモンが飛び出しおってな。そしたら、こ〜んな太い幹の樹が次々と倒れてゆくんじゃ」
「それで、怪我人は?」
両手で幹の太さを示し、興奮気味に話すエンジ爺に、ゼラニスは渋い顔つきで聞いた。少し離れた土間に、班員の狩人達が座り込んでいる。
エンジ爺は首を横に振った。
「おらん。直前にお主の近づくな、っちゅー命令がきとったのでな。いつもより少し距離を置いておったのが幸いしたわい」
「そうか。それは何よりだ」
天井を見上げて安堵のため息をついたゼラニスは、すぐに顔をしかめた。
「……とはいえ、アレを使いこなしつつあるな。アレスの名を受け継いだ連中で、これまでそんな使い方が出来たのは、二十年間でも数えるほどしかいなかったはずだが……。くそっ! あの野郎、頭の方も化け物か。なんだその適応力は」
「ほいで、どうするね? 今はベルテスの班が追いかけとるはずだが」
「皆の様子はどうだ?」
エンジ爺は腕を組んで考え込んだ。ちらっと班員たちの方を見やり、声をひそめた。
「あの青い刃みたいなもんを見てしもうたでな、ちょっと怖がっとる。猟師は相手の手の届く範囲の外から狙うのが鉄則。今の距離では危ない。じゃが、今の距離以上を離せば、捕捉が難しい。あと……度々周囲の木々を切り倒して視界と道を塞ぐんで、正直やりにくぅてかなわん」
「つまり、今の状況を続けるのは思わしくない、ということだな?」
「それはそうじゃが……そうも言ってはおれまい?」
「いや。追う側が、下手をすると追われる側になるかもしれないという状況の変化は、抑えていた疲労を一気に噴出させる。恐らく、今の有利な状況は今夜一晩は持つまい。明日には犠牲者が出る。犠牲者が出れば、混乱が生じる。隙が生まれる。部隊が壊滅する」
断定口調に、エンジ爺の表情が変わった。
「わしらを見くびるなよ、ゼラニス殿。そういうときのための仲間ではないか」
「残念ながら、その仲間の絆ごと斬り捨てるのが奴だ。一人でも犠牲者が出て、一瞬でも浮き足立てば一気に攻め込まれる。ここがこの戦の最大の分岐点だ。間違いない」
「ではどうする?」
やや不満げに切り返すエンジ爺。ゼラニスは大きく一息ついて、自分の胸を親指で指し示した。
「こういう状況に陥った時のため、俺はここにいる」
「ほう?」
「相手は丸二晩追い回して、致命傷どころか有効打さえ与えられない化け物だ。そのうえ、こちらへの反撃の手段も編み出しつつある。この先狩人達が疲れのピークを迎えることから考えても、もう追い回して仕留めるのは無理だ。追い回して仕留められないなら、誘い込んで仕留めるしかない」
おお、と唸ってエンジ爺が身を乗り出した。
「では、いよいよ」
ゼラニスは大きく頷く。
「ああ。最後の追い込みに入ってくれ。ここから先は――俺の命の懸け時だ」
ゼラニスの決意。そして状況の変化を象徴するかのように、その時、晴れた空に雷鳴が響き渡った。
―――――――― * * * ――――――――
山の天気は変わりやすい。
エンジ爺が出て行った後、ついさっきまで快晴だった空に暗雲が押し寄せ、稲妻が走り、大粒の雨が木々の葉を叩き始めた。
水煙がたなびくほどの激しい雨。
しばらく外に立ってその雨を全身に受けていたゼラニスは、ある程度濡れたところで廃屋に戻り、その戸を閉めた。
革のジャケットを脱ぎ、暖炉に薪をくべる。
ふと気づいて、テーブルの上の地図を手にとった。ピンを刺したままのそれを、暖炉の中に放り込む。
あっという間に炎に舐められ、うねり踊りながら黒く炭化してゆく。
「……さて、どう動くかな?」
そう呟く口元には、薄い笑みが浮かんでいた。
―――――――― * * * ――――――――
突然降り出した雨のおかげで、ダグは三日ぶりに追跡者を撒くことに成功した。
激しい雨は気配を隠し、視界を遮る。
こちらも気配を探れないが、向こうも目隠しをされたようなもののはず。
さらにバンダナの力を使って、周囲の木々を薙ぎ倒してやればこちらの足取りを再びつかむまで、それなりの時間を稼げる。
ダグとて無闇に三日間も山野を追い回されていたわけではない。相手の網にかかっているとわかった時点で、相手の網の大きさ、網の中の大まかな地理を分析してきた。
そこで、ここを先途とばかりに、ダグは最も手薄と思われる方向へと駆けた。すなわち、深い淵のある沢へと下り、そのまま身を躍らせたのである。
激しい雨音が飛び込んだ音を掻き消し、速い流れがダグの姿を呑み込む。
ダグの足取りは、完全にここで消えた――はずだった。
沢をしばらく下った河原に這い上がったダグは、さすがに肩で息をしていた。
体力はもう尽きかけている。激流の中で失った体温がなかなか戻らない。全身が重い。ヘイズ=タッカードにしがみつかれているようだ。
ダグは目を閉じて、バンダナに意識を集中した。
全身を青い輝きが包み――身体の各部の打撲などの痛みが軽くなった。
立ち上がって身体の状態を確かめる。どうやら折れたり曲がったりはしていないようだ。
視界に落ちかかるずぶ濡れの前髪をざっとかき上げて、ダグは再び歩き始めた。
しばらく茂みの中を進んでいると、不意に膝が砕けた。
「く……」
ぬかるんだ地面に手をついて身体を支える。
(……限界が近い……今のうちにどの方向であれ、とにかく距離を稼いで包囲を突破せねば……こんなところで突っ伏すわけにはいかない)
腐った魚のような澱んだ目をぎろりと見開き、歯を食いしばって立ち上がる。
鉛のように重い身体を引きずり引きずり、ダグは茂みの奥へ奥へと進んでいった。