蒼きバンダナのアレス Last Episode
〜Cross Fates〜【DUG/RUTZ】
スラス入城
ハイデロアを出た翌日の昼近く、シグオスはスラスに帰城した。もちろんルッツも一緒に。
ルッツは感動に胸打たれていた。何はともあれ、ようやく彼女が幽閉されているここまで来ることができたのだ。
過去にも巡礼旅行で来たことはあったが、両親に連れて来られたそのときとは全く印象が違う。自分はここで成す事があるのだから。頬をなぶる肌寒い風さえ、今は心地良かった。
蒼天に挑むがごとき白亜の城を前に瞳を輝かせる少年の隣で、包帯で顔の左半分を隠した聖騎士団総団長は、あまりに対照的な表情をしていた。
屈辱、羞恥、畏怖、落胆、疲労。およそ負け戦から落ち延びてきた兵士が抱く、あらゆる感情が露わになった右側の顔面を埋め尽くし、それではまだ足りぬかのようにため息となって口元からこぼれ落ちる。
少年と英雄。どちらがどちらを連れてきたのかわからない有様だった。
―――――――― * * * ――――――――
二人はそのまま教皇の間に通された。
前もって何があったのかを聞いていたのか、いかにも不機嫌そうな面持ちで玉座に座する教皇ルスターを前に、シグオスはただただ恐れ入って深々と平伏した。
その傍らで、ルッツは複雑な思いを抱いて立ち尽くしていた。
教皇フェルナンデス=シェルロード=ルスター。
巡礼旅行の折には遠目から説教を垂れておられる姿を眺めていただけだったその人が、今目の前にいる。
自分が生まれる前に1000年の歴史を誇る支配体制を打ち破り、アスラルの人々に自由を与えた男。今は遥かなる権力の高みに座し、太陽のごとくにその慈しみと分け隔てない愛で世の中を照らし出す憧れの雲上人。
だが……同時に、可憐な青い髪の少女ルージュを、結界という牢獄につないだ張本人でもある。
憧れと敵意。全く異なる二つの感情の狭間で、自分はどっちを強く持つべきなのか、ルッツは迷い続けていた。
ます、口を開いたのは教皇だった。
「……期待外れもいいところだな」
重いため息が漏れた。
「うぬがここを出てから、いったい何日だ? ダグとやらを捕らえてみせると大口を叩いた結果がこれか」
ぐうの音も出ないシグオスは、ただただ額を絨毯にこすりつけて大きな身体を震わせている。
「その左眼、奴に抉られたそうだな。……良い機会だ。その痛みで自分の不甲斐なさをとくと悔やむがいい」
「猊下、ま、まさかそれでは……」
「癒しはせぬ」
思わず顔を上げたシグオスに、教皇は吐き捨てた。
「余はうぬの膏薬ではない。うぬの失態、うぬ自身の力で取り返すがよい」
あまりにきつい口調、そして酷(むご)い仕打ち。ルッツは動揺して教皇を見上げた。巡礼旅行の折に見た、慈愛と包容力にあふれた教皇様はそこにはいなかった。
動揺したのはシグオスも同じだった。慌てて玉座に続く階段の麓へすがり寄る。
「お待ち下さい、猊下! ここへ戻る前にハイデロアにて決戦の支度を整えて参りました。アスラル全域より聖騎士団を集め、蟻の入り込む隙もない警備の網を調えたのです! 次こそ、次こそ必ずダグめを殺してご覧に入れます! 何とぞあと一度だけ御猶予を!」
教皇は蔑んだ眼差しでふふん、と嗤った。
「勝てるのか?」
「……は」
力なく、しかし片膝立ちで深々と頭を下げる。
「お主がオービッドに向かってから、少々気になって調べさせた。聞けば……うぬはそのダグという若造率いる傭兵団相手に、戦で辛酸を舐めること数度に足らず、というではないか。それに、この前はうぬの右脚を奪われたのではないのか?」
「それはヘイズ=タッカードです! 既に半年前、この手で亡き者にしております!」
その瞬間、ルッツは稲妻に撃たれた衝撃に思わず身を震わせた。護国の英雄と憧れていたシグオス自らが、ダグの言葉を証明したのだ。
「それとて聖騎士の名を汚す、卑劣な作戦を取ったという話ではないか。わしもまさかとは思うておったが、本当の事か」
段上からぎろりと総団長を睨めつける教皇。たちまちシグオスは顔色を失ってうなだれ、しどろもどろになった。
「……それは……全ては『創世の光』の栄光のために……」
「愚か者っっ!!!!」
雷轟が教皇の間を震わせた。思わず教皇の背後の女官衆や、ルッツまでが首をすくめるほどの怒声だった。
「『創世の光』はその為すところ一筋の影があってもならん!! さもなくば民心は我らをシレニアスと同じと見なし、たちまち離れてしまう。うぬにはそんな当たり前のこともわからぬのか!?」
「は、ははぁぁっ!」
シグオスは額を床にこすりつけて平伏した。
「とにかくダグという男の始末、早々につけい! 民が知れば動揺が広まり、王国連合にもつけ入る隙を与えることになるぞ!」
再び恐れ入るシグオスを見下しながら、ふん、と鼻を鳴らした教皇は、女官の差し出したゴブレットを一気にあおり、一息ついた。
そして今度は、動揺のあまり半分呆けていたルッツに目を向けた。
「して、その少年は何だ。うぬの息子というわけでもなさそうだが」
「はっ! 実は、この者があのバンダナを持っていると……」
話題が自分に移ったことに気づいたルッツは、自ら顔を上げて堂々と胸を張った。
「違います。僕はありかを知っているだけです。今は持っていません」
不躾な物言いに、思わずシグオスが振り返る。
教皇ルスターはわずかに顔をしかめると、厳しい目つきでルッツを見つめ――相好を崩した。
「ふむ……臆するところなしか。良い眼をしている。お主がルートヴィッヒ=クラスタか」
「はい。でも、ルッツでいいです」
「よかろう。ではルッツ。今の物言いは、ただでは話せぬという意味だな? 何が望みだ? そうだな……今なら聖騎士団総団長でも任命してやるぞ」
教皇の刺のある冗談に、シグオスは歯噛みをしてうなだれる。
ルッツは唇を噛み締めた。言うなら――言うなら今しかない。
「………………」
「何が望みだ? ん?」
「……ルージュを」
「なに?」
「ルージュを解放してあげて下さい。彼女が可哀相です」
刹那。
教皇ルスターは顔色を失った。不意討ちを食らったかのように。
―――――――― * * * ――――――――
ルスターはその瞬間、理解した。
この少年は知っている。
破壊の巫女ルージュを教皇が封じたという伝説は、教団の草創期に意図的に流したものだ。しかし、その伝説からの発言ではないことは、少年の強い決意を秘めた眼差しからわかる。明らかにルッツは真実を知っている。
だが、どうして。どうやって。あの件を知っている者は、教団内でももうわずかなはずだ。無論、余計な口を開く者はいない。
「なぜ……ルージュのことを知っておる?」
「バンダナを持っていた時に、夢の中で会いました。その時に全て聞きました。でも、僕には彼女が破壊神の使いだなんてとても思えません。どうか解放してあげて下さい。僕の望みはそれだけです」
ああ、なるほど、とルスターは何となく納得した。ありえない話ではなかった。現実のルージュはずっと眠っている。おそらく夢の中だけが自由の利く世界だとわかったとき、彼女は自分の心をそちらへ移したのだろう。
夢の世界から外の誰かに接触するなどとは考えもしなかったが。
これ以上の接触は妨げたいところだが、それは不可能だ。夢の世界までは、いかに奇跡を起こす力を持ってしても及ばない。逆に言えば、ルージュの力はそれほどまでに強いということだ。
そんな力を解放すればどうなることか。しかし……それを言って納得するだろうか、この少年は。
「……それはできん」
ルスターは目を伏せ、悲痛な声を絞り出した。
案の定、少年は詰め寄ってきた。
「どうして!? 可哀相だとは思わないんですか!? あんなところにたった一人で……」
少年の抗議が胸を抉る。そんなことはわかっていたのだ。二十年も前に。
「わかっておる。しかし、あの娘の解放は世界の滅亡を意味するのだ。あの娘が思うだけで山は消し飛び、凝視するだけで海は干上がるだろう。信じがたいだろうが、破壊神の力というのはさほどに凄まじいものなのだ。それは彼女を含め、人である身に制御できるものではない」
「そんな……信じられません!」
「さもありなん。だが、事実だ。そして、あのバンダナ――あれは……その破壊神の力を少しずつ汲み出すものとして作り出されたのだ」
少年が目を瞬(しばた)かせる。その脇で、シグオスも知られざるその話題に、あんぐりと口を空けていた。
「この世にあれば手のつけられぬ暴力となる破壊神の力も、その漏出を限りなく小さく絞ってしまえば、人の身であっても使いこなすことは出来る――はずだった。二十年前に、我が手から盗まれなければな……。あれの研究をしっかりと続けておれれば、今頃欲深き王国連合など蹴散らし、アスラルだけでなく全世界の人々に真の平等を広めることが出来ただろう。永遠の平和をこの地上に築くことさえ――」
脳裏に思い描く理想郷。誰もが誰もを一方的に搾取することも、虐待することもなく、生まれたる命が生まれたるままに育ち、生きられる世界。
そのとき、ルッツの声が響いた。
「ルージュは……そのための犠牲なんですか?」
胸を刺し貫く一言。
一瞬、忘我の境地に陥りかけていたルスターは、たちまち現実に引き戻された。
「たとえ世界が平和になったって、少なくとも彼女は永遠に暗闇の牢獄の中に閉じ込められて……虐げられることになるんじゃないんですか? 一人の女の子の、永遠の苦しみの上にできる平和なんて……そんなのおかしいです」
返す言葉もない。ルスターは深い自己嫌悪のため息を漏らした。
「ルッツ……お主は真っ直ぐすぎるな」
悲しみに揺らぐ眼差しをルッツに向ける。
「そうだ。お主は正しい。だが、世の中にはそんな気持ちだけでは解決できないこともあるのだ。それに、あの結界はもう誰の手によっても開くことはできんのだ」
「え……ええっ! だって、だって彼女は、ルージュは教皇様が――」
「そうだ。若かりし頃に封じたのは私だ。だが、私は少し手を加えただけなのだよ」
「どういう……意味ですか?」
「私が、私自身の力で封じてしまえば、私の死とともに結界は破れてしまう。それを避けるため、かの結界を維持するための源を破壊神の力、つまりルージュの生み出す力に求めた。いわば、彼女は彼女自身の力で封じられているのだ。世に二つとなき強力無双の力、あれを破れる力は私の知る限り存在せぬ。ゆえに、力の源である彼女が死ぬ以外にはいかなる変化も……たとえ神の力をお借りした“奇跡の御業”を以ってしても、受け付けぬのだ」
「そんな……そんな結界の中で彼女が死ぬなんて……」
「そう。ありえぬ話だ。つまり、ルージュはあのまま永遠に眠り続けるのだ。……せめて、心も眠っておれば孤独の苦痛もなかったろうに」
「……そんな……」
ルッツはがっくりと肩を落とした。
「すまぬな、ルッツ。――サラ」
呆然と失意に沈む少年を見兼ね、ルスターは背後の女官の一人を指で招き召した。
「はい、教皇猊下」
「彼に部屋を。彼が心を落ち着けて、何か他の望みを考えつくまで、最上客待遇でおもてなしするのだ」
「はい」
金色の長い髪を揺らしながら頭を下げた女官サラは、力なくうなだれる少年の傍へ降りると、その肩を優しく抱き、手を取って立たせた。
顔色を失ったままのルッツは抗おうとはせず、教皇に軽く頭を下げ、サラとともに教皇の間を退出していった。
その後ろ姿が消えると、さすがに教皇は肩の力を抜いて玉座に背を預けた。そして気づいた。まだシグオスがいたことを。
たちまち顔つきが渋くなる。
「何だ、シグオス。貴様、まだそこにいたのか。さっさとうぬの為すべきことをするがよい。それが終わるまで、ここへ顔を出すことまかりならん。しかと申しつけたぞ」
「お、お待ちを、猊下……!」
ルスターは、うぬが去らぬならわしが去る、とばかりに席を立った。私室へつながる扉を開け、その奥の通廊へと歩んでゆく。
ルッツをここへ連れてきたこと、そのルッツがこの場から消えたことで何かを期待していたのだろうが、今はシグオスの顔など見たくもなかった。
教団の幹部として信頼していたクアズラーとセリアスを暗殺された失態、そしてリアラを殺された失態。加えて、聖騎士団の名を穢す、あるまじき卑劣な行為。それをしたということも無論だが、相談どころか報告すらしなかったということこそ、もっとも腹立たしかった。それは二十年に渡る信頼への明白な裏切りではないか。あの少年を連れてきたことなどで帳消しにはできない。
(それはそうと、あの少年……本当に真っ直ぐな良い瞳をしておったな)
足音も荒く通廊を進みながら、ルスターはルッツの眼差しを思い返していた。
宿屋の息子という話だったが、一介の宿屋で終わらせるには惜しい人材かもしれない。
(将来の聖騎士団総団長として、育てられぬものか……。……ふむ。今度、少しばかり時間を作ってもう一度話し合ってみるか)
―――――――― * * * ――――――――
翌々日。
スラス市内の自宅で、失意の時間を過ごしていたシグオスは、しかしそのような気分など吹き飛ばす報せを受け、飛び上がった。
南方都市ヨマンデにおわす南方教区大司教チャールズ卿、暗殺。
目撃情報と状況から考えて、犯人はダグ=カークス。
報告書を持つ手が震え、口惜しさに頬が引き攣った。左眼を覆う眼帯を引きちぎり、歯軋りを鳴らす。その表情を見た伝令が恐怖に強張るほどに、その表情は歪んでいた。
「おのれダグ!! やりおったな!!!」
完全に裏をかかれた。
シレニアス中枢都市群は、アスラル最大の交易都市ハイデロアを中心にいずれも徒歩で一日から一日半の距離にある。
ハイデロアから東へ向かえばオービッド、北へ向かえばスラス。そして南に向かえば、ヨマンデに到着する。
わざわざハイデロアに大兵力を集結させて検問の強化を図ったのが裏目に出た。オービッドからヨマンデへと直行する街道への監視は命じていなかった。
ダグの標的は自分のはずだ。だから、ハイデロアへ逃げた自分を追って、奴も来るものと思っていたのに。なにゆえわざわざスラスからすら正反対の南方都市ヨマンデを襲撃したのか。
チャールズ卿殺害も予定通りなのか、それともハイデロアの警備の目を逸らすための作戦か。
(奴は……本気で教団を潰すつもりなのか。そんなことをすれば、このアスラルの地はたちまち再び戦乱に巻き込まれ、荒廃してしまう。そんなことがわかっていないわけではあるまい)
シグオスはそこではた、と気づいた。
(よもや……それこそが、奴の真の狙いか? わしへの復讐すら、実は名目に過ぎず……アスラルを内側から揺さぶるための)
ぞくりと背筋を冷たいものが駆け上がる。それですら、あの理解不能の頭脳を判じたとは言い難い気がする。
(あるいは……奴はただ混乱と戦乱を呼び起こしたいだけの………………戦の神の化身……?)
これまで自分は奴を、戦神と呼んできた。それは最大の驚嘆と賛辞、そして畏怖を込めたものであったが、実はそれは事実を言い当てていたのではないのか。
自分は姿を見たことはないが、ルージュという破壊神の化身“破壊の巫女”が存在する以上、戦神の化身が存在してもおかしくはない。そして奴が戦神であれば、その目するところは一つ。
地上全土に争いを。
たちまち背筋の悪寒が全身に伝播した。怒りの震えが、何か別のものの震えに――認めたくはないが、恐怖の震えに変わってゆく。
(そうだ。だから奴は永遠の平和を約束するという、『創世の光』を潰しにかかっているのだ。自分に対する復讐など、戦いのための方便に過ぎない。なれば、これまでの連戦連敗も理由が成り立つではないか。戦神の化身に、しょせん人の身では勝ち目などありえない。……初めから戦いの次元が違っていたのだ)
「……いかがなさいますか、総団長閣下。ハイデロアでは閣下の帰りを皆、お待ち申し上げております」
ひざまずく伝令に、シグオスは虚ろな眼を向けた。
「……わしが戻るまで、副総団長であるキッシャー・ハイデロア聖騎士団団長に全権を委任する。いつかわしが到着する、という前提ではなく、わしがおらぬものとして対処せよ」
「は……はっ!!」
「それから、キッシャーにはこうも伝えておけ。半年前の部隊を再編せよ、と。それだけで……後のことは奴に通じる」
「かしこまりました!」
伝令は再び深々と頭を下げて退出していった。
「さて……果たして撒き餌に食いつくか……」
シグオスの独り言が、静まり返った書斎に漂う。
「神が相手では、全聖騎士団員を集めても無理やも知れぬな。くくく……ひひ……」
―――――――― * * * ――――――――
教皇が客室に訪ねてきたとき、ルッツは鏡台の前でスツールに座り、サラの手で栗色の髪をすいてもらっていた。メルガモを発って以来着たきりだった服は、ゆったりとした略式法衣に着替えている。
思わぬ教皇の来訪に頭を下げるサラにつられて、ルッツもくしが刺さったままの頭を慌てて下げる。
「……くしぐらい取ってあげてから頭を下げたまえ、サラ」
慌ててサラはルッツの神からくしを外した。
昨日の怒勢が嘘のように愉快げに笑いながら入ってきた教皇ルスターは、親しげにルッツの手を取った。
「ルッツ、よく眠れたかね?」
「あ、はい。ありがとうございます。こんな素晴らしい部屋に泊めていただいて」
ぐるりと周りを見回す。宿屋の一フロアが入ってしまいそうなほど広い部屋に、豪勢なタペストリーやらカーテンがぶら下がり、部屋の中心に天蓋つきのベッドが置かれている。部屋の隅には衝立が立っていて、その向こうには浴槽まである。
ルスターは握っていた手を放すと、ルッツを応接セットに招いた。
「なぁに、この城にはこういう部屋しかなくてな。逆に窮屈に感じなければ良いのだが……ま、あまり礼儀がどうのマナーがどうのと言うつもりはないから、気楽にするといい。わからないことがあれば、大抵のことはサラに聞けば教えてくれるだろう」
ソファの一つに腰を落とした教皇は、さて、と一息入れて、少し姿勢を正した。
「実は、お主とはもう少し話しておいた方がよいと思ってな」
「ルージュの、ことですね」
ルッツは唇を引き結んだ。教皇ルスターは頷いた。
「うむ……。あまり時間は取れぬが、出来る限り――と、済まぬがサラ。少し席を外してくれるか」
当然のようにルッツの後ろに立っていたサラは、少し慌てた様子で頭を下げた。
「あ、はい。……では、失礼いたします」
ルッツに軽い会釈を残して出てゆくサラ――と、その時別の女官が入ってきた。
「大変です、猊下!」
「なにごとだ、騒々しい」
「南部教区大司教のチャールズ卿が……お亡くなりに!」
部屋の空気が一瞬にして凍りついた。ルッツも思わず身を硬くする。言われるまでもなく、犯人はわかっていた。
「セリアスの次は、チャールズか!? どういうことだ!?」
「わかりません! ただ、その件についてお話がしたいと、シグオス聖騎士団総団長がおいでになってます!」
「シグオスが?」
ルスターは一声唸って、眼を閉じた。
何を考えているのか……ややあって、眼を開いたルスターは、ルッツの方を見た。
「ルッツ、一緒に来たまえ」
そう言うと、先に席を立って部屋から出て行く。
困惑していたルッツは、サラが戻ってきて差し出した手を握って立ち上がり――二人でなんとなく教皇の後を追った。
―――――――― * * * ――――――――
教皇の間に行くと、既にシグオスは玉座の前でひざまずいていた。
ルッツが追いつく間に、別の女官からなにごとかの報告を受けていた教皇は、ことさら険しい表情で玉座に着いた。
「話はとりあえず女官より聞かせてもらった」
開口一番、嫌悪を隠さぬ口調が飛び出した。
「相手は戦神の顕現だと? うぬの不甲斐なさを棚に上げて、相手を神に例えるか。どこまで恥知らずに成り下がるつもりだ。我らの神はただ一つ。その他の神の化身など認めぬ、そのような大前提すらも忘れ果てたか」
「大前提うんぬんにこだわっている場合ではありません。奴の目論見は教団の壊滅にあります。間違いありません」
「ルッツ、この小心者はそう申しておるのだが、お主はどう考える?」
いきなり話題を振られ、目立たぬよう玉座の後ろに立っていたルッツは慌てた。
「え? ……えぇと、あの、……どうして僕に……」
気恥ずかしげにしながら、そそくさと玉座の脇に進み出てゆく。
「お主、オービッドまではダグとやらとともに旅をしていたのであろう? 多少なりとも、そ奴についてわかっておろう。まぁ、答えたくなければそれでもよいが」
ルッツは考え込んだ。教皇の言葉には脅しのような響きはない。ここは答えておくべきだろうか……これだけの扱いを受けているのだから。
(……僕の口からそれなりの情報が出ることも、ダグなら想定の内……だよね。多分。信じてるよ、ダグ)
慎重に言葉を選びつつ、口を開く。
「……ダグは……少なくとも僕の見たかぎりでは神様じゃありません」
シグオスが顔を跳ね上げ、それを見つめていたルスターは蔑んだように眼を細めた。
「でも、すごく物知りで……全てのことを理屈づけて、予測して、納得した上で行動しています。その行動には一切無駄がありません。だから人が見たら、神様のように思うかもしれません。それに、ダグは僕にはっきりと言いました。これはシグオスさんに対する復讐だって……あの時のあの言葉が嘘だとは思えません」
「見よ、シグオス。奴は神の化身ではなかったようだぞ」
頭を垂れてうなだれる負け犬を嘲笑う教皇。
ルッツは言葉を続けるタイミングを失って、呑み込んだ――ダグはシグオスへの復讐の手段として教団の壊滅を狙っている、という一言を。
(後ででも言った方がいいのかな……)
一度は憧れた英雄の堕ちた姿を見ているのが辛くて、ふと玉壇(玉座を置いている壇)の脇に注意を寄せたルッツは、嫌なものを見た。何人かの女官までが忍び笑っている。この状況で笑うのは、つまりシグオスのことを嗤っているのだろう。
リアラが彼女達の長だったとは昨日聞いた話だが、彼女もこんなとき笑ったのだろうか、とぼんやり考えた。
途端に猛烈な不愉快さが胸にこみ上げてきた。
考えたくもなかったのに。あの一夜のことは美しいまま胸にしまっておきたかったのに。どうしてみんなそれを壊そうとするのだろう。ダグも、女官も、そして醜態を曝している英雄シグオスも、それを嗤う教皇も。
この場に自分がいることがいたたまれない。そのままこの薄汚い大人の世界に染まってしまいそうな気がして、一刻も早くこの場から立ち去りたかった。
そのとき、不意に場の空気が変わった。
ダグが剣を抜くときの、あの空気。
びっくりして顔を戻すと、シグオスが残る右眼のまなじりを決し、その場にあぐらをかいていた。
ぐいっと身を乗り出し、深々と頭を下げる。
「猊下。猊下に信じていただけずとも、私にとりましては同じこと。ですが、だからといって奴との決着を避けようというのではありませぬ。奴との決着に臨むにあたり、ひとつ、ただひとつだけお願いがございます。それゆえ、こうして参上つかまつりました……お人払いを」
その眼はルッツの存在を疎んじていた。余程のことを言うつもりなのだろう、と足を来た方へ向かわせかけると、教皇は即座に手で制した。
「ならぬ。今ここで言え」
驚きに眼を剥くルッツ。ぐっと堪えるシグオスを、教皇は薄ら笑いを浮かべて見下ろしている。とことん曝し者にするつもりなのか。
覚悟を決めたシグオスは胸を張ると、朗々たる声で言い放った。
「『神降ろしの秘儀』を」
「なに?」
その途端、教皇の顔つきが変わった。
「『神降ろしの秘儀』を私にお与えください。このままでは奴に勝てませぬ……それはそこの坊主、いや、少年でもわかるはずです」
「ルッツ?」
そうなのか? と問いただす眼差しにルッツは困惑した。
正直なところ、ダグとシグオスの対決を直接見たわけではないので、何とも答えにくい。心情的にはダグに負けてもらっては困るのだが、体格を見たところではシグオスの方が圧倒的にも見える。実際、シグオスほどの巨漢が、ダグに手も無くひねられたという事実が、現状を見ていてさえいまいち信じられなかった。
「どうなのだ?」
教皇が重ねて聞いた。シグオスも真摯な眼差しで見つめる。両者の圧力は、今回ばかりは答えないことを許さないものがあった。
「あの……えっと……」
不意に風が吹いた。ルッツの心の片隅から。
『神降しの秘儀』という何だかよくわからないけど、秘密めいた奇跡の力を得たシグオス。
黒いマントを翻し、疾風となって戦うダグ。
両者の戦う姿を見てみたい、という無責任な思いを乗せたその風の源は、幼い頃から今も抱き続けている"護国の英雄"シグオスへの憧れ。強いシグオスを見てみたい、という少年らしい無邪気な、しかし残酷な願望。
うつむいて唇を噛んでいたルッツは、顔を上げて言った。
「勝てないと思います。僕が最後に見たとき、ダグは十数人の聖騎士団に囲まれてたのに、結局生き残りました。それに、シグオスさんは左眼を失ってる。普通に考えて、シグオスさんの状況はより一層不利になってると思いますから……」
「ふむ、確かにそうだな」
教皇は頷いた。そしてそのまま、目をつぶって黙り込む。
それから、長い長い沈黙が続いた。
「……教皇様?」
あまりに長い沈黙に、思わず女官の一人が声をかけたとき、教皇はようやく目を見開いた。
「シグオス。わかっておるのだな。この秘儀は――」
「無論」
ぐいっと頭を下げるシグオス。その隻眼に閃く決意。それは見ているルッツがぞくぞくするような輝きだった。そう、この光を宿した"英雄"を見たかったのだ。
「言うに及びませぬ。このシグオス、黒衣のダグに勝つためならば」
再び目を閉じた教皇は搾り出すように告げた。
「……よかろう。『神降ろしの秘儀』を授ける」
「ありがたき幸せ」
シグオスの気に触発されたか、目をつぶった教皇の顔もこれ以上はないほど厳めしく硬張っていた。人々を愛し、慈しむ春の陽射しのような教皇様ではない。まるで全てを干上がらせる真夏の灼熱のぎらつきを思わせる面差し。
自分は今、歴史的な現場に立ち会っているのかもしれない、と意識したルッツは、身震いするほどの感動に襲われた。
仕える者と仕えられる者の、命を懸けたやり取り。
物語の中でしか見たことのない一場面が、今眼前に展開されている。本物は、なんて凄い迫力なのだろう。
これが冒険の醍醐味なのだ。自分がその場の主人公でないことを差し引いても、なおお釣りが来るほどの感動。メルガモで宿屋を継いでいては決して味わえなかったであろうその感動に、少年の心は確実に魅せられていた。
―――――――― * * * ――――――――
ところで『神降ろしの秘儀』とは何なのか。
シグオスが退出して、自分も客室へ戻る際にルッツは連れ添いの女官サラに聞いた。
「そうねえ……」
昨日お付きに決まったときに、リアラより少し年上で二十代後半なのよ、と笑っていたその金髪の女官もまた、思わずその艶かしい体線を横目でなぞってしまうほど悩ましげで色っぽい人だった。女性にしては背が高く、ダグ並みの身長がある。
ただ、言っている年や外見のわりに、なんだか幼いところが言葉や仕草の端々に感じられる。不思議な女性――というよりお姉さんだった。
「あたしもよく知らないんだけど、神様の力を人に注ぎ込むから神降ろしって言うんじゃないの? ……要は破壊の巫女様みたいなのを作っちゃう奇跡じゃないかしら」
だったらシグオスは勝てないかもしれない、とルッツは思った。
ダグもルージュの力が流れ込む、アレスのバンダナを持っている。“将軍”ゼラニスが恐れ、憎み、土地勘のない東部まで追いかけてまで持ち主の死を確かめようとした、あのバンダナを。
詳しいことは知らないけれど、ともに破壊神の力に基づいているのなら、その効果も似たようなものではないのだろうか。そして条件が同じなら、これまでの結果から考えてシグオスには分が悪そうだ。
それに、シグオスのあの覚悟を決めた面持ち。教皇のあまりに長い沈黙。
なぜだろう。嫌な予想が頭の隅にうずくまっているのは。サラの言葉は自分の予想とほぼ一緒だった。だとしたら、もう一つの予想も当たっているのではないか。
シグオスは、この戦いに命を懸けるつもりだ。比喩ではなく、本当に。
だとしたら、本当にあれでよかったのだろうか。まるで煽り立てるかのようなあの言い方で。予想が当たっていたなら……シグオスの決意を後押ししたのが、自分のあの言葉なら……。
(……僕の言葉で……人が………………死ぬ……)
しかし、それ以外にどう言えばよかったのだろう。少なくとも嘘はついていない。余計な思いが少し頭の端をよぎっただけだ。それで言葉が曲がってはいない……はずだ。
それに、“英雄”とまで呼ばれた男があそこまで決意していたのだ。いまさら何か別のことを言ったとしても、状況は変わらなかった気がする。
なのに。
なんだろう、この胸にうずくまる奇妙な重みは。
自分の言葉で動いたわけなどないのに、この状況の責任を背負ってしまったような気がするのはなぜだろう。
ルッツは部屋に帰る道々、ずっと考え続けた。
―――――――― * * * ――――――――
……結局、明確な答えは出せなかった。
ふと、シグオス自身がどう考えているのか、知りたくなった。
「ねぇ、シグオスさんに会えないかな」
「会ってどうするの?」
不思議そうに聞き返される。
言われて気づいた。確かに話すことなど何もない。何をどう聞けばいいのかもわからない。
しかし、それでも会いたかった。
「ちょっと……ね」
うやむやにしたが、彼女はそれ以上追求せず、小首をかしげて考え込んだ。
「うぅん、二、三日はちょっと無理だと思うな。さっき聞いた話だと、かなり大がかりな儀式をやるみたいだから……。そうだ、儀式が終わって、総団長が下城するときに会えばいいじゃない。その時には教えてあげるわ」
「ありがとう」
「それはいいけど」
不意に女官は弟を心配する姉のように、ルッツの頭を優しくなでた。
「あなたも早いとこバンダナのありかを話しちゃいなさいよ?」
「うん……でもルージュのことが……」
うなだれるルッツの首筋を、呆れたため息が撫でてゆく。
「あなたも頑張るわねぇ。ま、でも教皇猊下もあんまり焦ってないみたいだし、よく気持ちを整理しておくのね」
「うん」
ちょうど部屋の前に到着した。礼を言って別れ、室内に入ったルッツは心痛を堪えるように重い吐息をついた。
「……気持ちは決まってるんだ。僕はどうしてもルージュを助けたい」