蒼きバンダナのアレス Last Episode
〜Cross Fates〜【DUG/RUTZ】

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スラスへ

 翌日。
 ルッツはベッドの中でうつ伏せの状態で目覚めた。
 宿屋の硬いベッドとは違う。とてもシーツが柔らかい。
 また、右頬に当たる暖かさ――窓から降り注ぐ光は、既に日が高いことを教えている。
 しかし、すぐに身体中で痛みが主張しだし、そんな寝心地の良さを味わう余裕はなくなった。
(いたたたたたた……なんでこんなに――ああ、そうか。僕、ハイデロアに……)
 動くことさえ億劫で、見える範囲に目だけを動かして様子を探る。
 立派な部屋だった。壁には一面金色の唐草模様のレリーフが刻んである。窓の脇のテーブルの上には、白地に青色で模様の描かれたルッツの頭ほどの陶器の花瓶。花瓶には当然花が活けてあるが、その種類は見たこともないほど多い。
 首だけを動かして――それでも相当な痛みが生じる――二つ並んだベッドの向こう、扉の方を見やれば、略式法衣を着た若い見習い司祭らしき青年が、椅子に座って教典らしき本を読んでいる。
 すぐに記憶は戻ってきた。
 ここは、中枢都市群の中央都市ハイデロア。そのさらに中心部にある『創世の光』の本部教会の奥、来客用の寝室だった。
 昨晩、オービッドを発ったシグオス達一行は強行軍で街道を進み、夜明け後にハイデロアに到着した。
 重傷の身とはいえ元々鍛えているシグオス、戦場で無理な強行軍にも手馴れたゼラニスはともかく、これまで馬に跨ったことさえなかったルッツにはあまりにも辛い旅路だった。
 そう、一際辛いのはお尻だ。そもそも、お尻というのは分厚い肉で痛みを緩和してくれる場所のはずだが、今のお尻はそんな分厚い肉など革一枚ほどの厚さに押し潰されてしまったかのように、痛みを発している。
 身体の他の部分の痛みは、途中からそんなお尻をかばいながら乗っていたために相当無理な体勢を取っていたことと、馬から落ちまいとして緊張し通しだったせいだろう。
(……あ……これは殴られた分だ。多分)
 頬にうずくまる痛み。腫れ上がった頬肉が、目の下を押し上げている。
(……怒ってたなぁ、あの人。ゼラニスさん……)
 思えば、勢いで口走ったこととはいえ酷いことを言ったものだ。リアラも、セリアス大司教様も、クアズラー司祭様も、自分が案内したダグが殺したのだ。一番の責任はもちろん殺したダグだけど、二番目は案内した僕……いや、原因を作ったシグオス総団長かな?
 まあ、どっちにしろ森の反対側で戦っていた"将軍"ゼラニスには全く関係ないことのはずだ。それを……。
(でも待てよ?)
 西部で戦っていた人が、わざわざ何で東部まで来てあんなことを言ったんだろうか。ゼラニスがこっちへ来なければ、僕だってあんな酷いことを言わなくても済んだのに――などと悶々と考え込んでいると、扉が勢いよく開かれて当の本人が入ってきた。
 ルッツは慌てて目を閉じた。
 ゼラニスは会釈する見習い司祭に、ご苦労さん、と声をかけて寝たふりを決め込むルッツの傍まで真っ直ぐやってきた。そしていきなり、シーツの上からお尻を叩いた。
「おう、そろそろ――」
「うぎゃああああーーーーーーーーっっ!!!!」
「お、おわっ!?」
 当分再起不能の尻をいきなり叩かれたルッツは、思わず跳ね起きるような勢いで叫んでいたが、ゼラニスも思わぬその悲鳴に驚いた。
「な……何だ、何だ。男のくせにだらしねえ声出すんじゃねえよ」
 痛みのあまり継ぐ声も出せないルッツに、ゼラニスは少し上ずった声で憎まれ口を叩く。
 涙目で歯を食いしばりながら、ルッツはこの男を絶対許さない、と心に誓った。

 ―――――――― * * * ――――――――

「なんだお前、馬にも乗ったことなかったのか。その年で」
 明らかな嘲りの調子に、ルッツはふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
 まだ尻が痛い。それまでは鈍い痛みがうずくまっている感じだったのが、叩かれて目を覚ましたかのように今やじんじんと脈打っている。しゃべる気力も奪われる。
 ゼラニスはルッツのベッドに腰を下ろした。
「ルートヴィッヒ=クラスタ、だったな」
 そっぽを向いたルッツの背後から、流れてくる声。
「謝れ」
 問答無用の一言。ルッツは顔をしかめた。
「俺たち義勇軍は二十年前、当時のシレニアス王家及び四公国の圧制を打倒するために立ち上がり、その後もあの圧制を二度と復活させないために戦ってきた。その中で死んだ者も多い。お前さんが俺たちの名声に憧れるのは勝手だが、昨日の言い分はその死んだ連中の誇りや思いを汚す。ガキの戯れ言と聞き逃すわけにはいかねえ。きっちり謝れ。そしたら……まあ、その件は水に流してやる」
「やだ」
 ルッツは掛けシーツを頭からかぶった。
「んだと? てめ、また調子に乗ってると尻を――」
「先に難癖つけて殴ったのは、そっちじゃないか」
「なにぃ?」
「どう考えても、納得いかない。何が悪くて殴られたのか、全っ然わかんない。ゼラニスさんが先に謝らない限り、絶対に僕も謝らない」
「このクソガキ……」
 ちりちりと火で炙(あぶ)られるような怒気が伝わってくる。だが、負けずに言い返した。
「だって僕はダグに剣を突きつけられて、案内しろと脅されてたから案内しただけだし、セリアス様やクアズラー様のことだって、昨日初めて知った。それに……それにリアラの盗もうとしたバンダナのことだって、僕がもらったんだ。理由も言わずに人の物を奪おうとしてる悪い方は、そっちだよね。この場合」
「バンダナ、か……」
 不意に怒気が消え、ゼラニスは大きく溜め息をついた。
「バンダナの件は、もういい」
「え?」
 思わずルッツはシーツを少しまくり上げた。
 ルッツに背を向けたままのゼラニスは、もう一度溜め息をついた。
「リアラがアレを取り返す任務半ばで命を落としちまったからな。せめてその遺志ぐらいはと思っていただけだ。そもそもアレをなぜ教皇が欲しがるのか、俺は知らんし知りたくもない。ただ、アレスという奴があのバンダナを身に着けて西部で暴れまわっていたからな。その最期をきっちり確認しておきたかった気持ちはある。……ま、その程度だ」
「じゃあ……」
「もうここまで来ちまったんだ。今さらありかを言えとは言わねえよ。スラスで教皇に言いたいなら、勝手にしろ。俺の知ったことじゃない。だが、これだけは確認させろ」
「………………なに?」
「あのバンダナの持ち主だった男は、確かに死んだんだな?」
 あの夜に味わった生々しい死の感覚が甦り、思わずルッツは息を飲んだ。
「……うん」
「確かだな?」
「うん」
「……わかった」
 ゼラニスの大きな溜め息。けれど、それはさっきの溜め息とは違って、安堵の成分が含まれているように感じられた。肩の荷を一つ、下ろしたような。
「んじゃま、それはそれとして」
 ゼラニスの口調が妙に軽く変わっていた。
「…………?」
「謝るものは謝ってもらおうか」
 軽くルッツの頭をぽんぽんと叩きながら笑っている気配。
 ゼラニスの年にそぐわないしつこさに、ルッツはむっすり不機嫌になった。
「……やだ。そっちが先」
「………………。てめーもいい加減、物分りが悪いっつーか、諦めの悪いガキだな」
「そっちこそ、しつこすぎ。大人のくせに」
 しばらくの沈黙。背中合わせのまま、怒りの混じった溜め息が交錯した。
 そのうち、ルッツの方から口を開いた。
「だいたいさ、ガキガキ言ってる相手に何を期待してるの? 道案内なんか断って、ダグに殺されて死んだ方がよかったっていうの? それともあのバンダナを聖騎士に渡して、あの極道両親に小突かれながらあの宿屋にいた方がよかったっていうの? そうすれば、本当にリアラもセリアス様もクアズラー様も死ななかった?」
「そういうんじゃねえよ。俺が言いたかったのは――」
「僕が余計なことをしなければ、って言ったじゃないか。それは……確かにさ。僕がダグを案内したことで、みんなが殺されたのかもしれないけど……僕にはそれ以外の選択肢なんてなかった。僕なんて、結局非力で卑屈なガキだから……」
「だから、俺が言ってるのはそういうことじゃなくて――ああ、もう。判れ、ガキ!」
 苛立たしげに喚いて、ゼラニスは大きく溜め息をついた。拳を掌に打ちつける音が聞こえた。
 それだけの話でなにを判れというのか。
 ルッツは唇を尖らせて、再びシーツを頭にかぶった。
「もういいよ。どうせ僕はガキだから。大人の言うことなんか聞かないから悪ガキなんだし」
「……………………ほう?」
 ゼラニスの動きが止まった。不気味な緊迫感が漂う。
「…………悪ガキってのは……それ相応の罰を喰らうって、わかって言ってんだろうな!
 言うなり、シーツの上からルッツの尻肉をわしづかみにする。
 たちまちルッツは仰け反った。
おぁぎゃあああああああっっっっ!! いた、いたいいたいいたいいたいぃぃぃぃ!! そ、それずるいぃぃぃぃたたたたっっ!!」
「身体を傷めてりゃ、手を出さないと思ったか? ふふん、それこそガキの浅知恵と――うぐぁ!?」
 身体を捻って、左手でルッツの尻肉をつかんでいたゼラニス。その右手は、上体を支えるためにルッツの頭の傍にあった。ルッツはそれに噛みついていた。
 たちまちゼラニスの頬が激痛に引き攣る。
「ぐ、が、があっっ!!! あいででででっ!! よせこらっ!! お前、本気かっ!? 本気で噛み付いてやがんなっ!? ちょっと待て、食い込んでる! 歯が食い込んでるっつーの!!」
「はっはあ、おひひほへほははひてひょっ(だったら、お尻の手を放してよっ)!」
「…………!」
 ゼラニスの顔が硬張る。冷や汗が一筋、たらりとこめかみから頬に流れる。
「へ……へっ! だ、誰が放すか。痩せても枯れてもこのゼラニス、悪ガキごときの脅しなんぞに――おあいだだだだっっ!! やばいやばいって! それ以上はマジで肉がちぎれるっ!! 手加減しろ、ぐああああっっっ!!」
 少年の尻をつかんで放さない四十路の男と、反対側の手首に噛み付いて離れない少年。
 まるでウロボロス(互いの尾を飲み込む蛇)のような光景に、扉のそばの見習い司祭はどうしたものかと困惑げに顔をしかめていた。

 ―――――――― * * * ――――――――

「……なにをしている」
 疲れ切った重々しい声――部屋に入って来るなり、顔の左半分に包帯を巻いたシグオスの漏らした溜息に、二人の動きがぴたりと止まった。
 シグオスは一人ではなかった。もう一人、白地に銀の刺繍を施した、豪華な法衣をまとった見るからに高位の司祭が一緒だった。
 扉のそばにいた見習い司祭が、慌てて立ち上がり深々とお辞儀をする。
「これはペルナー大司教長様」
 すっかり薄くなった白髪頭の老人は、見習いに軽く手をあげて挨拶に応え、しずしずと入室した。
 ペルナー大司教長。ハイデロアの教団総本部を仕切る、創世の光教団のNo2。
 年なりに小柄で衰えた体格ではあるが、その柔和な微笑みは司祭・司教をまとめる人格者の優しさに満ちている。日当たりの良い部屋で、ロッキングチェアに揺られているのが似合いそうな老人だ。
 ペルナー大司教長は、呆然としているゼラニスとルッツのそばへやってくると、まずルッツのお尻に掌を向けた。
「――我が神の御意を以って、壊れよ傷み。異常なる有様を破りて、あるべき姿に戻るがよい」
 ルッツは痛む身体を我慢しながら、首を後方へ捻じ曲げた。
 ペルナー大司教長の手が輝いていた。白く、優しい太陽のような光――その光を浴びているうちに、痛みが消えてゆくのがわかった。お尻だけでなく、全身にあった筋肉痛や打ち身の痛みなども。
 続けて、ペルナー大司教長はゼラニスの右手を優しく持った。光る手をかざすと、血さえにじんでいたルッツの歯型がたちまちのうちに消えてしまった。
「……すごい。全然痛くなくなっちゃった」
「これが……上級の司祭や司教だけが使えるという奇跡の御業(みわざ)、か」
 ベッドの上で身体を動かして痛みが全くないことを確認するルッツと、あっというまに消えた歯形に感嘆しているゼラニス。
 シグオスが咳払いをした。
「二人とも、礼がないぞ」
 ペルナーがシグオスを振り返って、余計な一言をたしなめるような仕草を見せる。
 二人は慌てて威儀を正して、頭を下げた。
「ありがとうございます、ペルナー様」
「感謝する」
 軽く頷いたペルナー大司教長は、教団No2とも思えぬ気安さで軽く微笑して、隣のベッドに腰を下ろした。シグオスもその傍に立つ。シグオスは甲冑を着ていない。
 まずゼラニスから切り出した。
「で、シグオスの眼は……?」
 首を横に振るペルナー大司教長。
「わしは怪我を治すことが出来る。いかに致死性の怪我であれ、死んでさえいなければ『怪我そのものを壊す』ことで治すのじゃ。疲労の回復も同じ。じゃが、失われた部位を戻すのは出来ぬ。あるべきものがない状態を破壊し、元の状態に戻す……考え方は同じはずなのだがな。わしの信心がたらぬのであろう。すまぬのう、シグオス殿」
 謝る大司教長に、シグオスは神妙な面持ちで頭を下げる。
 ゼラニスは唸った。
「左目の眼球がないから治らないということか」
「うむ……現状、教団内でそこまでの奇跡を行えるのは教皇猊下のみじゃでな」
「つまり、スラスへ行くしかない、ってこったな」
 腕組みをして考え込むゼラニス。
 シグオスが顔をしかめた。
「何か問題があるのか?」
「ああ。大ありだ」
 頷いたゼラニスは、厳しい表情でシグオスを見据えた。
「お前は治療中だったからな。俺の判断で報告を止めておいたんだが……ダグ=カークスが、オービッドの聖騎士団団長アクソールを斬って、行方をくらませたそうだ」
 その瞬間、シグオスの表情から感情の色が消えた。
「アクソール……」
 がっくり両膝を折り、その場にひざまづく。痛みをこらえるように歯を食いしばり、震える右頬に一筋、光るものが伝う。
 ゼラニスはその様子を見ながら、感情を押し殺した表情で続けた。
「それから、越権行為だとわかっちゃいたが、昨日お前がスラスで声を掛け、ハイデロアまで来ていた聖騎士連中をお前が戻るまでこのまま留めておくよう言っておいた。だが、既にオービッドに向かった連中を呼び戻す指示までは出していない。するなら、早めに動いた方がいい。……この状況でスラスに一旦帰るか、ここにとどまって指揮を執るかはてめえで決めろ」
「ゼラニス……」
 すまん、と頭を下げるシグオス。
 ふらりと立ち上がったゼラニスは、シグオスに近づいてその肩をぽんぽんと叩いた。
「礼はいい。だが、俺はここから別行動をとらせてもらう」
「なに?」
 驚いて顔を上げるシグオスを尻目に、ゼラニスはズボンのポケットに手を突っ込んだまま扉の方へ歩いてゆく。
「ここにいても俺に出来ることはねえし、スラスへ行く理由もない。ひとまず西へ戻る。向こうならあちこちに顔が利くし、いざというとき地の利もある。ああ、西の聖騎士団も呼び戻していいぞ。やばそうなところは、義勇軍の名前と俺の顔が利く範囲で何とか抑えておく」
「よいのか」
「……おい、喜ぶなよ。聖騎士団総団長」
 扉のノブに手をかけた西部戦線義勇軍・エキセキル方面部隊指揮官"将軍"レンディル=ゼラニスは、振り向いてシグオスに冷たい視線を投げかけた。
「それが上手くいくということは、以後治安維持に聖騎士団は必要ないということでもあるんだからな。忘れるな。俺は教団の信者でもないし、教団だけが森の平穏を担う者だとも思ってない。教団抜きで……いや、教団がいない方が平穏を保てるなら、俺は敵に回る」
 ペルナー大司教長がわずかに顔をしかめ、シグオスが絶句する。それらに背を向けて、ゼラニスは扉を開く。
 その足が敷居を跨ぐ瞬間、ふと止まった。
「……おい、ガキ」
 呼ばれたルッツは、思わず背筋を伸ばしていた。
「別にてめえを認めたわけじゃねえが……もう会うこともねえだろうから、言っとく」
 ルッツはゼラニスの声に含まれた雰囲気に、思わずベッドに座る足を揃えた。
「いきなり殴ったのは悪かった。……正直、リアラの件やら何やらでちょっと苛ついててな。お前に八つ当たりした節がないでもない。まあ、大人でもそういうことはあるってこった。名前がちっとばかし知られてるからって、出来た奴ばかりじゃねえのさ」
「あ、うん……」
「それから、あまり小賢しい真似をするなよ。駆け引きのかの字もわかってねえくせによ。次は殴られるだけじゃ済まねえぞ」
「……うん……」
「ガキならガキらしく、ガキだってことを最大限利用する方が利巧ってもんだ。無理な背伸びは……相手を苛つかせて、結局てめえの寿命を縮めるぜ」
「……はい」
 ルッツは神妙な顔つきで頷いた。
 以前ならともかく、今はわかる。この人は、教えてくれている。大事なことを。ダグの時と雰囲気が同じだ。
「じゃあな――ルッツ」
 最後に一つ脱力の溜め息を漏らし、ゼラニスは扉の向こうに姿を消した。

 ―――――――― * * * ――――――――

 教会の廊下をさかさかと歩くゼラニス。
 その厳しい表情に、行き交う教会関係者がぎょっとして道を譲る。
「……ハイデロアで仕留められれば僥倖。だが、ここで聖騎士団が待ち構えることぐらい奴もわかっているはず……どんな奇策で来る? 俺ならどう立ち向かう?」
 ブツブツ漏らしながらいくつもの角を曲がり、建物の公用部分を通って正面玄関に出る。
 そこは人の波に埋もれていた。
「なんだこりゃ。今日は何かの祭日か?」
 大勢の巡礼者が作る流れに一人逆らって、教会から出てゆこうとする。しかし、あまりの多さに抗し切れず、流れの外側へと出てようやく建物から脱出した。
 玄関に立って外を一望すると、どこの難民かと思うほどの人が教会前の大広場に集まっている。
「――おいおい。これじゃあ、奴が潜り込んでも……」
 ちらりと背後を見やり、思いを振り切るように首を振る。
「確かにこれは……教団存亡の危機かもしれねえな。冗談抜きで、アスラルは――」
 はっとして口をつぐみ、また首を振る。
 それ以上言葉を発することなく、ゼラニスは巡礼の波を掻き分け掻き分け、その中に消えていった。

 ―――――――― * * * ――――――――

 その日の夕刻。
 ルッツは馬に跨るシグオスの前に乗せられ、再びスラスへの強行軍を味わうことになった。

 ―――――――― * * * ――――――――


 ダグは――

 暗闇の中、一人立っていた。
 自分の身体は見えるが、それ以外には何一つ見えない。
 周囲が見えないのか、それとも周囲に何もないのか。上も下も右も左も、まるで星の無い夜空の中に立っているようで、何の気配も感じられない。
 いつから自分がそこに立っていたのかもわからなかった。確か、夜明けの開門とともに人の流れに紛れてオービッドを脱け出し、街道沿いの人目につかない茂みの中で横になったはずだ。
 気づけばシグオスとの一戦で切り裂かれた、腹の傷の痛みも感じない。短剣で掻き切られたあの傷は、かなり深いものだった。これは、"アレスのバンダナ"に流れ込んでいる、『ルージュの力』とやらが癒してくれた、ということなのだろうか。
 不意に背後から金色の光が射してきた。
「……あなた、ルッツじゃないわ。誰……?」
 独特の残響を持つ涼しげな声だった。
 振り返ると、金色の繭みたいな光球に包まれた裸の少女がいた。
 青い髪に青い瞳。まだ女になりきらないその肢体から見て、歳はルッツと同じか、少し上ぐらいだろう。
「なるほど……これがルッツの見た夢か。では、お前がルージュだな」
 顎を撫でながら呟くと、ルージュは素直に頷いた。しかし、その青い双眸には怯えと警戒が浮かんでいる。
「そう、あたしはルージュ。でも、あなたは?」
「ダグ=カークス。事情があってルッツからバンダナを預かった」
「事情って?」
「こちらの都合だ。それより、いい機会だ。お前にいくつか聞いておこうか」
 言いながら、ダグはその場に座り込んだ。夢の中ではどんな姿勢でもとれるくのか、背もたれがあるわけでもないのに背の角度はちょうどいい具合に収まった。傷の痛みがないのも、多分夢の中だからだろう。
「……なんでしょうか?」
 ルージュは強い警戒をにじませて聞いた。
「教皇ルスターというのはどういう男だ」
「おじ様は…………優しい方です」
 ルージュは顔を伏せ気味に言った。その面差しに、深い憂いが兆している。
「あたしの両親が流行り病で亡くなった後、まだ幼かったあたしを引き取って下さったんです」
「その結果がこれか」
 皮肉を込めた言い方に、顔を上げた少女は長い髪を打ち振って金色の繭に張りついた。
「違う、違うんです、おじ様は勘違いなさっているんです。あたし、破壊神の信者なんかじゃありません。それに、この力だってそんなに大したものじゃないんです!」
「どの程度のことができる?」
「………………」
 どう答えていいのかわからない様子で、小首をかしげる。
 ダグの目がわずかに細まる。
「正直に答えられないのか、力の全貌を知らないうちに封じられたのか……。いずれにせよ、これほど強固な結界に封じるぐらいだ。人一人を殺す程度ではありえんだろう。山の一つや二つ、軽く吹き飛ばせるんじゃないか? いや、もしくは吹き飛ばしたか?」
 ダグの細めた眼差しが、獲物を狙う蛇のように少女を無遠慮に舐める。
 ルージュはさらに怯えて自らの胸を掻き抱いた。
「お前の言う通り、教皇ルスターが優しいおじ様だとしてもだ。実際にお前はその中にいる。となると、その行為を善意にとらえたとしても、こう考えられる。最強無敵の武器であるお前の力を奪い合う、そんな争いからお前を守るためにその結界に封じ込めた……」
「そんなの勝手です! あたしはただ普通の女の子として生きたいだけなのに!」
「無理だな」
 まるで自らの剣筋のように、躊躇(ためらい)いなく一刀両断。
「その力を持って生まれたときから、お前にそんな選択肢は与えられてはいない。お前に許される選択は、その力をどのように使うかだけだ」
 死刑を宣告する裁判官の如き、冷たく静かな声。何を思うのか、その眼はじっと少女を見つめ続けている。
「そんな、そんなの絶対変よ! 納得できない! あたしの人生はあたしが決めるもののはずよ! あなたやおじ様なんかに選択肢を狭められてたまるもんですか!」
「……きいたふうな口を叩くな」
 さらに眼が細まる。その怒りを含んだ昏く鋭い眼つきに、ルージュは一層強く胸を抱きしめた。
「な、なによ……」
「戦場で……死んだ女の腹から産まれ、人殺しの技を身につける以外に生き残る術のなかった者もいる。人生など、そうそう思い通りにゆくものではない。必要なのは、運命という状況をいかに逆手にとって切り拓くかという知恵だ。それができないなら死んでしまえ」
 痛烈な罵りにきりりと下唇を噛み締めたルージュは、ダグの視線を避けるようにぷい、と横を向いた。
「こんなところに閉じ込められて、逆手もなにもないもんだわ」
「さて、それはどうかな」
 意味深なダグの呟きに、少女はすぐ怪訝そうな面持ちで顔を戻す。
「……どういう意味かしら?」
「いや、別に」
 ダグは含みのある薄ら笑いを浮かべ、軽く首を横に振った。
「ところでお前、何を思ってルッツごときに助けを求めた? あいつは心根は真っ直ぐな善人だが、頼りにはならんぞ。それぐらいわかっているはずだ。これまで二十年もの間、人の手から手へ渡り続け、数多くの傭兵や兵士を見てきたお前ならな」
「そうかしら」
 そう言って両手で両膝を抱え込んだルージュは、さっきまでの不安そうな顔つきからダグの十八番を奪うような薄ら笑みに変わっていた。気のせいか、最初の印象と違ってかなり大人びて見える。
 ダグの眼がまたわずかに細まった。
「あたし、少なくともあなたよりは彼のことを信頼してるわ。彼なら必ずあたしを自由にしてくれるって。だからそのバンダナ、早くルッツに返してあげて」
「生憎だが、当分あいつと会う予定はない」
「どうして」
 ルージュは驚いて身を乗り出した。
「やるべき仕事が残っている。そのためにこのバンダナ、少々使わせてもらう」
 ダグは立ち上がり、親指で額のバンダナを指し示した。
 しばし唖然としていたルージュは、やがて嘲りと蔑みが混じり合った、深く重たいため息をついた。
「……結局、あなたもおじ様と同じなのね……。その力を利用することしか頭にないんだわ。……だからあなた達大人は嫌いなのよ!」
「だから何も知らないお子様のルッツを利用する、か」
 少女は一瞬息を飲む。
 ダグは勝ち誇るようにふふん、と鼻先で嗤った。
「お子様のルッツを焚きつけたのは正解だが、策としてはまだまだ浅いな。あいつはまだ退くことを知らん。お前のところへたどり着くためにあいつが死んだらどうするつもりだ? 泣いてやるのか? ……俺よりあいつの方が死に易いことはわかっているはずだ」
「彼は死なないわ。あたしが信じているもの」
 繭の中で自信ありげに胸を張る娘。
「ほぉ……お前が信じるとそれが現実になるのか。まるで神様だな」
「そうよ。ルッツがあたしのために戦ってくれる限り、あたしはあの子の女神……」
「必要がなくなれば女神様でなくなるわけか」
 刺のある言い方に、うっとりと微笑んでいたルージュの顔色が変わった。じっと青年の無表情な顔を覗き込む。
「…………さっきから何が言いたいのか、よくわからないけど……この光の牢獄から逃れたら、あたしは失った時間を取り戻すの。誰にも邪魔はさせないわ。おじ様にも……あなたにもね」
「結構、結構」
 ダグは勝ち誇ってほくそ笑んだ。顎を撫でながら頷く。
「バンダナが奴の手に戻ったなら、せいぜいあのお子様に媚を売って焚きつけてやるといい。アホらしいほど簡単に乗ってきてくれるだろうさ」
「媚なんか売ってません! 心を込めてお願いしてるだけです!!」
「――ああ、それから」
 軽く手を振ったダグは、ふと思い出したように付け足した。
「これ以降、俺の夢に顔を出す必要はないぞ」
「ふんだ、言われなくても」
 思いっきり舌を出してあかんべぇをする。その年相応の小憎らしい仕種にも、ダグは全く動じる様子もなく悠然たる笑みを浮かべていた。
 そしてルージュの姿は水面に波紋が起こったようにぼやけ、消えてゆく。
「正直、ルッツと再会できるかどうか……わからんしな」
 最後のその台詞がルージュに届いたのかどうか、確かめる術はなかったが、ダグにとってはどうでもいいことだった。
「……さて、ただの小娘か、それとも……」
 ダグの心は、街道沿いで昼日中に野宿をしている自らの身体に戻っていった。


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