蒼きバンダナのアレス Last Episode
〜Cross Fates〜【DUG/RUTZ】

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凄  戦 - cross fate U ダグ×シグオス (後編)

「秘剣……『剣断ち』…………そうか。それが貴様の奥の手か」
 しきりに怯えて暴れる馬を、器用な手綱さばきで落ち着かせながらシグオスは呻いた。その顔は屈辱と恐れと怒りと驚きでごちゃ混ぜになっている。
「おかしいとは思っていたのだ。クルスレードの戦場でも……貴様ごとき並以下の剣士風情が、甲冑装備の聖騎士団を相手に大立ち回りをして、生き残るなど。それがそのからくりというわけか」
 怨嗟に満ちた声で呟きながら、シグオスは槍をしごいた。その穂先を、飄然たる足取りで迫る黒衣の死神に向ける。
「からくりか。くく……やはりその程度だ、貴様は」
 嘲りの笑みを頬に貼りつかせたダグ。剣の切っ先が馬上のシグオスに向けられる。
「さあ、シグオス。貴様に相応しい最期の舞台だ。見物客もあり、部下の眼もある。伝説の英雄様の真の姿、存分に見てもらえ」
 シグオスが周囲に視線を飛ばせば、確かにダグの言葉通り、着々と人の目が集まりつつあった。皓々と明かりが灯った窓から身を乗り出している影、路上にまで出てきている人影もある。騒ぎを聞きつけたのと、先程シグオス自身があげた大音声が原因だ。
 これほど衆目に曝されている一戦、聖騎士団総団長としては絶対に醜態を曝すわけにはいかない。
 アクソールもまだ到着せず。
 後はない。
 ぴくぴくとこめかみを攣らせたシグオスは、決意を固めて槍を握り直した。
「ぬうぅぅぅぅぅ……っ! よかろう、ここで貴様との因縁、全て決着をつけてやる!」
 言うなり槍を突き出す。
 槍の掻き分ける空気に押されたかのように、するりとその穂先の前から動くダグ。
「甘いわっ!!」
 突き出された槍は、そのまま横薙ぎに払われた。澄んだ音がして、ダグの胸の前で一瞬、火花が散る。
 鋼の槍の穂先を、ダグは立てた剣と添えた手で受け止めていた。
 そのままふわりと持ち上げられ、十歩ほど背後へ跳ね飛ばされる。
 飛ばされた格好のまま着地したダグは、剣で一振り空を裂いてにんまり笑った。
「……馬鹿力め」
「ぬかせ、貴様が非力なのよ! ――はぁっ!!」
 空いた距離をいいことにシグオスは馬の腹を蹴り、けしかけた。
 槍を構えた騎士の突撃(チャージ)がダグを襲う。
 槍の穂先に集約された突進の力の前では、甲冑の装甲すら紙と化す。
 たとえその穂先を躱したとしても、甲冑装備の巨漢を乗せ、助走をつけて突進してくる馬に跳ね飛ばされれば怪我では済まない。それが十歩ほどの間合いでも、最高速度に乗れるほどの十分な間合いでも、結果に大した違いはない。
 蹄が石畳を叩き、空気を掻き分け一体となった人馬が黒き影に襲い掛かる。
 影が揺らいだ。
 人馬の進行方向を逃れ、槍の穂先の外側へ。
「――甘いと言っておるっ!!」
 刹那、槍の穂先が開いた。
 構えた槍を、シグオスは真横へ広げるように開き、穂先でなく胴の部分を黒影に叩きつけた。
 再び、剣で受け止める甲高い金属音――そして、見事なまでに軽々と吹っ飛ばされるダグ。
 建物のレンガ壁に激突すると思われた瞬間、ダグは両足を壁に向け、壁に着地した。
 すぐに路上へと下りたものの、確かにそれは壁への着地と呼ぶに相応しい動きだった。
 片膝立ちのダグの口から、ふぅっ、と詰めていた息が漏れる。
 シグオスは馬を止め、槍を担いでにやついた。
「ふふん、相変わらずだな。曲芸師め」
「……それはこっちのセリフだ、大道芸人」
 両者の殺意に満ちた視線が虚空に火花を散らす。
 槍を構えての突進中に、その進路上から逃れた者を追って槍を開く――
 一見簡単なようで、それは並の技量ではない。
 槍を開けばバランスが崩れる。乗り手の重心が変わる。馬がよれる。まして、その勢いのまま槍の腹で何かを薙ぎ払おうとすれば、てこの原理が働き、支えている側にも相応の反動が返る。やわな者なら馬上から跳ね飛ばされる。下手をすれば馬ごと転倒の危険もある。
 そもそも馬上で使う槍は、取り回しや反動の解消という点から歩行槍兵の槍よりも短く、重心も異なる。
 だが、シグオスが使用しているのは、歩行槍兵と同じ長槍。
 それを用いて人一人を容易く宙に舞わし、その際の反動も馬への影響もねじ伏せたのは、まさしくシグオスの持ち前の怪力と卓抜した技量によるものだった。
 そしてダグはダグで、完全に裏をかいたとシグオスが考えたその一撃を、自ら後方へ飛ぶことで威力を軽減したばかりか、空中で造作もなく姿勢を制御して、もっともダメージのないやり方で着地をして見せたのだ。
 七人の剣士は総団長と黒衣の死神の壮絶な技量比べに、ただ唖然としているしかなかった。
 まして、まったくのド素人の女使用人を含む観客には、何が起きているのかすら理解できない。
 シグオスは槍を振るって、馬首を巡らす。一度は怯えていた馬も、鼻息荒くいななく。
「ふふん、非力な貴様には真似できまい?」
「する理由もない」
 立ち上がって剣を一振りする。
「次はない」
「考えていることはわかるぞ」
 くっくっく、とシグオスは嘲りの笑いを漏らす。
「そこで壁を背にしていれば、突進(チャージ)はできないと考えているの――」
 シグオスの口上もそこそこに、ダグは路上へと戻ってゆく。
「……何か言ったか?」
 困惑の表情を浮かべて絶句しているシグオスに、ダグは心底興味なさそうな顔つきで答えた。
「シグオス、お前は――また一つ勘違いをしている
「な……」
 皆まで聞かず、シグオスは槍をぶぅんと一振りし、両手で頭上高くに差し上げた。そして、そのまま回転させ始める。
「なぁにが勘違いかぁっ! ……どうせ貴様のことだ。l今の一撃でタイミングを見透かし、次のチャージでカウンターを仕掛け、あわよくばこの槍を断とうという考えなのだろうが!? くくく……だぁが! そうはいかん!」
 頭上で旋回する槍が、風を巻き起こしてゆく。呆然と両者の戦いを見守る七人の騎士の周囲を、白い粉塵が流れすぎてゆく。
「馬の蹄に叩かれ、震動する石畳! そのリズムに揺れる我が身体! 震えるこの槍! なおかつこうして直前まで叩きつけるのか刺すのかわからねば、貴様の『秘剣』とやらもタイミングを見出せまい!? ぬはははははは、敗れたり、『秘剣・剣断ち!』」
「それが勘違いだというのだ。……『秘剣』など、余禄にすぎん」
 感情の抑揚を一切抑えた静かな声に、シグオスの哄笑がぱったりと止んだ。
 ダグは右半身を後方に引いて剣を遠ざけつつ、左手を差し伸ばして――くいくいっとシグオスを招いた。
「来い」
「ぬううううううううううううううっっっ! ええい、黙れ黙れ黙れ黙れ! そんな無表情を繕ったとて、わしにはわかっておるぞ! 貴様、今の一撃を殺し切れてはおるまい!? 槍を叩きつけられた時の衝撃が、身体を貫いたはず!」
 頭上でさらに速度を上げる槍の旋回。
 ダグは答えず、ただ飄然と立っている。これ以上の問答は不要、とばかりに。
「今度こそ木っ端微塵に打ち砕いてくれるわぁっっっ!!!!!」
「無理だな」
 頭上で槍を振り回しながら、馬の腹を蹴る。
 いまや完全なシグオスの従僕と化した馬は、ダグに怯むことなく突進を開始した。
 唸りをあげて旋回する槍。石畳を叩く蹄鉄の響き。シグオスの喚き。
 黒いマントが揺れているのは夜の風によるものか、石畳を刻む蹄鉄の響きによるものか。
 迫り来る破壊槌を前に、ダグは顔色一つ変えずに立ちはだかる。
「死ねええいっっ!!」
 ダグは動かない。
 距離は狭まる。
 まだ動かない。
 シグオスは違和感を覚えた。
 近すぎる――避ける気がないのか?
 確かに、対騎馬戦闘では馬のまん前は槍の届かぬ唯一の死角。騎手がそこを攻めるには、馬首を左右いずれかに振らねばならない。だが、疾走している馬の首を急に左右に振るなど論外だ。それゆえ、ランスチャージの唯一の死角となる――もちろん、馬の体当たりを度外視しての話だが。
(何を考えて――)
 結論を導き出す前に、ダグの姿は馬首の陰に隠れた。
 次の瞬間、シグオスは咄嗟に槍を左脇に挟んで横様に振るっていた。
 腕に走る衝撃――しかし、それはいつもの敵を叩く衝撃ではない。もっと軽く、しかし複雑な反動――
「――……おのが思考に正しく追従し切る肢体。それが俺の最大の武器だ」
「な――」
 視界から消えたダグの声は、なぜか後方左耳の傍から聞こえてきた。

 ―――――――― * * * ――――――――

 まるでサーカスだ、とマリアは思った。
 黒いマントの青年は、シグオスの人馬一体の突進をまるで馬の身体をなぞる風の動きのように、するりと躱そうとした。
 それを読んでいたかのようなタイミングで、シグオスの槍が薙ぎ払いにかかる――
 また飛ばされる、と思った瞬間、黒いマントが槍に巻きついた。
 いや、正確には『軽業師が空中ブランコに飛びつき、華麗に逆上がりをしたみたい』と表現するべきなのだろうが、マリアの目には黒いマントが槍を巻き込むように翻ったかと思うと、シグオスの後ろに青年が飛び乗っていた、としか判別できなかった。
 そしてそれは、七人の騎士たちも同じだった。
 何をしたかは理解できても、理性がそんなことは不可能だと告げている。
 次の瞬間、馬がいなないて棒立ちになり、シグオスの身体が宙を舞った。
 観衆には一体何が起きたのかわからない。
 シグオスは背後にまとわりつく黒い霧の魔物ようなものを振り払おうとして、左の肘打ちを放っただけだ。なのに、まるで勢い余ったかのようにその場でくるりと回転してしまった。
 馬は足からあぶみの外れた主人を置いて走り去り、シグオスは派手な音を響かせて背中から石畳の上に落ちた。
 黒い不定形な魔物――黒マントを翻したダグは、着地した時、既にシグオスの上に馬乗りになっていた。
 両者の手からこぼれ落ちた槍と剣が石畳を叩いたのは、その後だった。

 ―――――――― * * * ――――――――

 何が起きたかはともかく、背後を取られたと理解したシグオスの対応は早かった。
「ふんんっっ!!」
 槍を握ったままの左腕で後方へ肘打ちを放ちつつ、右手で手綱を思い切り引き絞って馬をいななかせる。
 最悪、棒立ちになった馬からそのまま後方へわざと落馬し、自重と甲冑の重みで背後の敵を圧殺する――それが目的だった。
 だが、なぜか身体が予想外に流れた。まるで、右肩を押され、左肘を引かれたかのように。許容を超える角度で上体が捻(ねじ)られ、こらえきれず下半身が追従する。
 鞍を締め付ける膝が浮き――
 あぶみから足が離れ――
 視界が流れる――右手へ流れてゆくレンガ造りの集合住宅、その戸口、玄関の階段、路上の石畳――さらに流れる――通りを挟んだ反対側の集合住宅の玄関階段、その戸口、建物、夜空を流れる月と星。
 こちらの肘打ちに合わせて捻るように投げられた、と気づいたのは、空中で一回転して路上に叩きつけられた後だった。
「……が、は……っ!!」
 自重、甲冑の重み、棒立ちになった馬の鞍の高さ――突き抜ける激しい衝撃に、肺の空気が全て逃げ出した。
 悶絶し、呼吸を求めて舌を突き出す――白い火花の炸裂するその視界に、馬乗りになって拳を振り上げているダグの姿。咄嗟に左腕を伸ばしてその拳を受け止めた。
 同時に右腕は腰から短剣を抜いていた。だが、その手をダグの左手が押しとどめる。
 それはほとんど反射的な動き。全ては訓練の賜物だった。
 甲冑を着て戦う騎士は、地面に倒れると極端に弱い。だからこそ、その状態になったときの戦い方は何よりも重視してきた。軽装で俊敏な行動を旨とするダグの部隊に連戦連敗を喫し始めてからは特に。
 しかし呼吸が止まっていては、それも充分に発揮させられない。意識を失えばそれまでだ。それまでにダグを排除しなければならない。
「お……ぐ…………が、ぁっ……っ!!」
 シグオスはダグの右拳を離し、左腕を右腕の応援に回した。
 顔面をいくら殴られようと、短剣の一撃がダグのどこかに刺されば必ず怯む。その瞬間に身体を跳ね上げて、この態勢から逃れる。
 この体勢でも、筋力勝負ではやはりシグオスに圧倒的な分がある。短剣の切っ先はじりじりとダグの首筋を狙って上昇し始めた。
 しかしダグは嗤っていた。そして何かを呟いている。
『……顔ががら空きだぜ』
 水の幕がかかっているかのように、心許なく揺れる声。シグオスは短剣を押しやることに夢中になって、その声を遠くに聞いていた。
 好きなだけ殴るがいい、とシグオスは呟いた。
『なら遠慮なく』
 ダグは急に短剣を横に流した。まるでシグオスがそうしたかのように、ごく自然に。抗う暇さえなかった。
 刃先がダグの腹をわずかにかすめ、えぐり去る感覚が右手に確かに――同時にシグオスの顔面を衝撃が突き抜け、左の視界が闇に落ちた。
 聖騎士団総団長が、殴られた程度で怯むわけにはいかない。かまわず、短剣を引き戻して再び横に払おうとした。
(腹をズタズタに引き裂いて――)
 その動きが止まった。

 左の眼の中を何かがぞろりと這う感覚。

 一瞬の間。

 そして、自分が何をされたのか、気づいた。それは確信ではなかったが、即座に恐怖となった。
 獣のような咆哮をあげ、渾身の力を込めて腰を跳ね上げ、短剣を振りたくる。力の加減がどうだの、ダグの抑える力をどう逃がすだのということなど、どうでもよかった。ただ自由を求めて――恐怖からの逃走を求めて暴れ回る。
 不意に腹部の重圧が消えた。慌てて横ざまに転がり、膝立ちになる。
 ダグはシグオスを追わず、ただその場に突っ立っていた。はためく漆黒のマントの陰から、ぽたりぽたりと何かしずくが滴り落ちている。
 シグオスは恐る恐る左眼をなでた。あるべき物がそこになく、まぶたが奥へと落ち込んだ。背筋を走る恐怖と絶望。
 ダグは涼しい顔で、マントの陰から右手を差し出した。
「捜し物は……これか?」
 手袋を嵌めた手が、ぬらめく液体に濡れ、雫を滴らせている。
 そこには――いびつに歪み、満月の光を不気味に弾いている眼球があった。
「おお!? お……おおお、おおおおおおおおおおおおおおおおおっっっっっっっっ!!??」
 生暖かいものの流れ出す左眼を押さえたまま、天を仰いで言葉にならない咆哮を上げる。
 周囲の観衆も息を呑んだ。七人の騎士も、あまりの惨劇に助太刀することを忘れ、その残虐な行為にただ震えあがった。
 心地好さげに薄笑んでシグオスの咆哮を聞いていたダグは、眼球を路上に叩きつけると、さらにそれを踏みにじった。
「おおおおおおお、俺の、俺の、俺の眼がああぁぁぁぁっっっ!!! ……ぐぅおおおおっっっ!!!」
 ようやく痛みを感じ始めたのか、シグオスは口から泡を飛ばしてのたうちまわり始めた。
「……いい声だ。その声が聞きたかった」
 ダグはシグオスを投げ飛ばしたときに放り出した自分の剣を拾った。
 シグオスに近づき、逆手に持った剣の切っ先を下に向け、ゆっくりと持ち上げる。
「これで、終わりだ」
 万感のこもったその一言が呼んだかのように、一陣の風が通りを吹き抜けた。

 ―――――――― * * * ――――――――

 信じがたい光景だった。
 あのシグオス総団長がうずくまり、その脇では今にもその魂の緒を刈らんと剣を振り上げている黒の死神一柱。
 間に合わない。
 そう判断したアクソールは、傍らを並走する部下の騎士から槍を奪い取ると力任せに投げつけた。
 牽制だけのつもりが、槍は上手く飛んで黒衣の死神に襲い掛かり、退けさせた。
 甲冑をガチャつかせながら現場へと到着したアクソールは、絶句した。
 無惨な姿で顔を手で覆い、うずくまる総団長。路上に転がる十二人の甲冑騎士の遺体。
「馬鹿な……これを…………この数をたった一人で殺ったというのか……?」
 背後に聞こえる部下の騒々しい甲冑の音さえ、虚しく聞こえる。
 満月の蒼光の下、シグオスから少し離れたところで独り黙然と佇む黒い死神の姿に、連れてきた甲冑槍兵十三名をもってしても、まだ心もとなく思えた。
「ぐおぉぉ、アクソール……、アクソール……こ、こいつをぶち殺せぇぇっ! 生かしてこの町を出すなあぁぁぁぁっっっっ!!!」
 うずくまったシグオスの手で覆った顔の下から呻きが漏れる。
「閣下! ……おい、奴を近づけさせるな!」
 我を忘れて呆然としていたアクソールは、慌てて団員に指令を下すと、シグオスに駆け寄り、肩を貸した。
 精悍な顔の左半分が血にまみれ、銀色の髪までべっとりと濡らしている。正視に堪えない凄惨な姿だった。
「閣下、ここは我々にお任せを。閣下は一時スラスへ……」
「馬鹿を申すな! わしが最後の砦と言ったのは貴様であろうがっ!」
 左目を左手で覆い隠したシグオスは、残った右眼でアクソールを睨みつけた。
 しかし、アクソールも退くわけにはいかなかった。
「その最後の砦がこの様では、団員の士気に関わりますっ! それにセリアス卿亡き今、それほどの傷を癒せるのはハイデロアのペルナー卿か、スラスにおわす教皇猊下のみ。なにとぞ、ここは一旦お退き下さい!」
「俺はその教皇猊下に尻を叩かれて出てきたのだぞ!? このままおめおめと帰れるとでも……」
 アクソールはちらりとダグを窺った。聖騎士団に囲まれ、剣を下げた黒衣の青年は何を思うのか、ただ静かに立ち尽くしている。
「今は一刻を争う時。それに手土産はございます。例の布を持つ指名手配の少年を捕らえました。ダグへの人質――いえ、牽制にもなるかと。その少年を教皇猊下の元へ連れて行ってください」
「俺に運び屋をやれというのか」
 呻く上司に、アクソールは遠慮なく頷いた。
「ダグは我々が何とか食い止めます。今は一刻も早くその傷を癒して下さい。手遅れにならぬうちに」
 アクソールの真摯な表情には、シグオスも折れる他なかった。
「ぬうぅぅぅぅ……」
 歯という歯を噛み砕きそうな呻きを漏らし、ダグを睨みつけていた総団長は、やがて全てを観念したかのように頷いた。
「わかった。貴様の心を汲もう。だが、無理はするな」
「お任せを……おい、閣下の馬を引け。あの坊主も連れて来い!」
 たちまちシグオスの馬が引き寄せられた。アクソールの肩を踏み台に鞍に跨ったシグオスの横に、両手首を重ねて縄打たれたルッツを前に乗せたゼラニスの馬が並ぶ。
 少年の眼差しには怯えの色はない。むしろ秘めた決意の色が光っている。
 ゼラニスの眼差しには、敵意の炎が揺れている。
「……あれが、ダグ=カークスか……」
「ゼラニス殿。どうか道中、閣下を頼む」
 ダグからアクソールに瞳を動かしたゼラニスは、唇を真一文字に引き結んだ。
「――武運を祈る」
「ありがとう」
 アクソールが軽く頭を下げると、それを合図にしていたかのようにシグオスの馬が走り始めた。
 ダグをじっと見つめるルッツを乗せて、ゼラニスも馬の横腹を蹴る。その後をもう一騎、案内役の聖騎士がついて行く。
 三騎の姿は、すぐ通りの向こうへと消えていった。

 ―――――――― * * * ――――――――

 総団長を無事に送り出したアクソールは、大きく一息ついてダグに向かった。
 一連の動きが終わるのを待っていたかのように、ダグはぴくりとも動いていなかった。
 周囲を聖騎士に囲まれていても、まるで焦りが見えない。無気味なほどの落ち着きようだった。
「……貴様が黒衣のダグ――ダグ=カークスだな」
 返事はない。
「貴様の連れ、ルートヴィッヒ=クラスタは我々の手に落ちた。もう無駄な抵抗はするな」
「なんだそれは。脅しのつもりか? ……つくづく進歩のない」
 嗤うダグ。アクソールの笑みが凍りつく。
「縛につけとは言わぬ。森を出てくれぬか、ダグ=カークス。我らはただ、平穏を取り戻したいだけ。ここで引き返すなら……追わぬ」
 聖騎士団団員の間に動揺が走る。シグオスに対する裏切りとも取れる発言だった。ダグは涼しげに笑ったままだ。
「シグオスに殺されるぞ」
「食い止めるとは言ったが、斃すとも殺すとも言ってない。……それに」
 路上に転がる十二人の部下達を痛ましげに見やる。自然、重い溜息が唇を割った。
「貴様の相手をしていると被害が深まるばかりだ。正直、これ以上部下をあたら無闇に死なせたくはない。お前がこの森を去ってくれるなら、それで全て解決する」
「解決? 何が解決するんだ?」
 さも愉快げにダグは鼻を鳴らし、剣を肩に担いだ。鋭く射抜く眼差しが、再びアクソールを貫く。
「そんなことより、貴様の顔。見覚えがある。あのとき……シグオスの傍にいた顔だな」
 む、とアクソールは顔をしかめた。少しうつむき、うなだれて声の調子を落とす。
「あれは……聖騎士団始まって以来の恥だと思っている。謝る、悪かった」
 深々と頭を下げるオービッド聖騎士団団長。事情を知らない聖騎士団員の間に不審げなざわめきが広がる。
 返答はもう一本の剣を引き抜く鞘鳴りだった。
「お前も何か勘違いしているようだな」
 黒衣を翻し、両手に剣を携えた月下の復讐鬼は、静かに声を風に乗せた。
「なに?」
「なぜ今、シグオスを行かせたと思う? 騎士道精神を以って、手負いの者を見逃したとでも?」
「……違うというのか」
「当たり前だ」
 くくっとダグの表情が悪鬼の笑みを浮かべる。酷薄な、情など微塵も感じられない笑み。
「一介の傭兵相手に不覚をとり、惨めにも尻尾を巻いて逃げ出した……これだけの観衆の面前でな。英雄の偶像は崩れ去る。その不名誉に奴はどこまで耐えられるかな?」
「それが目的か」
「もう一つある。完璧な英雄を演じていれば、誰もたわいもない噂話など信じはすまい。だが、その仮面が剥がれれば……いささか突拍子もない噂話も、信憑性を持ち始める。そう、負け知らずの伝説的総団長様は卑怯な振る舞いなどするまい。だが、敵に殺されそうになり、背を向けて逃げ出した腰抜け総団長なら、どうかな? 女子供を人質にとり、あまつさえ殺してしまうということもありえると――考える者も出てくるやもしれん。そうは思わないか?」
「貴様……まさか」
「一度崩れ始めると止まらぬもの。脆いものだ。虚像であれ、隠し事であれな」
 アクソールのこめかみを汗が伝う。
「それとも、この場にいる目撃者全員始末して、今夜の件もなかったことにするか?」
「ダグ……カークス!」
 右手を突き出して制しながら、半歩退がる。左手は腰の剣の鞘を握る。
 凍りつくように冷たい風が吹き抜けた。元凶は、ダグの殺気。
「無駄だ。今さら何を言い繕(つくろ)おうと、貴様らの薄汚れた口から出るものなど、もはや何一つ俺には届かないと知れ。絶望と後悔の末に吐き出される、哀願と怨嗟の呻き以外にはな」
 黒いマントが翻り、両手の剣が月光を弾きながら左右に広がる。
「引き返すなら追わぬ? それも勘違いだ。許す権限を持つのは貴様らではなく、この俺。そして、俺が貴様らに許すただ一つの自由、それは抵抗することのみ――さあ、抵抗してみせろ。生きたいのならば」
 ダグの醸し出すにじり寄るような殺気に、アクソールを息を呑んだ。一歩も動いていないのに、距離がだんだん縮まってゆく――いや、距離が食われていくかのような錯覚さえ覚える。
 黒衣の死神の怒りの炎は、もはや誰にも消しようがないのか。
「………………。どうあっても、やるつもりか」
 言いつつ抜剣する。答えは既に出ていた。
「ただ一度の過ちを後悔しながら死んでゆけ」
 死神の眼差しがすぅっと細くなった。
「もはや……話合いの余地はない。かかれっ!」
 号令一下、十二の槍を構えた騎士が一斉に突きかかった。

 ―――――――― * * * ――――――――

 周囲は十二の槍。その向こうに盾を構えた七人の騎士とアクソール。
 彼我の戦力差は変わらず、二十対一。
 もうクルスレードの紫はない。しかし――シグオスもいない。
「――見せてもらうか。ルージュの力とやら」
 ダグは抑えに抑えていた心の昂りを解放した。
 夜闇よりなお昏い双眸が、その時青く輝いた。錯覚ではない。事実青く輝いた。
 バンダナで囲われた黒髪が一斉に総毛立つ。
 足元から風が立ったようにマントが天に向かってはためき翻り、その口から雄叫びが漏れた。
「おおおおおおおおおおおっっっっっ!!!!!!」
 つむじ風のように二本の剣が回る。蒼白い光の尾が虚空に孤を描く。
 そして、キン、というたった一度の金属音。
 それだけで七本の槍の穂先が砕け散った。一瞬遅れて反対側の五本も砕け散る。
「な……」
 アクソールも槍兵も何が起こったのか分からぬまま、ダグの姿に目を奪われた。
 ダグはゆらゆら揺れる蒼白い炎に包まれていた。黒マントの上にたゆたう淡い炎。それはダグの剣をも包み込んでいた。
 その場にいた者が状況を理解するために必要とした一瞬の遅滞。
 そのわずかな隙にダグは動いた。ひらめく黒マントを蒼白き残光の尾が追う。
 気配に気づいて砕け散った槍の穂先から顔を上げる間に、二人が甲冑ごと胴体を水平に両断された。
 用をなさなくなった槍を手放す間に一人。
 剣の柄を握る間にまた一人。
 そしてさらに剣を抜き放つ前に二人が、甲冑ごと袈裟掛けに両断された。
 月夜を染める黒い血風の中、両腕を交差させ、何事もなかったかのように独り立つ男。
 一瞬遅れて寸断された甲冑の破片が路面を叩き、さらにもう一拍遅れて六体の遺骸が転がる。
 誰もがその圧倒的な威力に声を呑み、街に一時の静寂が流れた。
「……な…………なんだ……今の……は……」
「ありがたく思え。これが貴様らの崇(あが)める神の“破壊の力”だ」
 青い光をまとった黒い死神の言葉は、その場にいた者全ての胸を撃ち抜いた。
 騎士達がお互いに顔を見合わせる中で、アクソールだけが即座にそれを否定した。
「ば……馬鹿を言え! 我らが神は、そんな無秩序な力を……」
「力に秩序を与えるのは人だ。もともと力そのものに秩序などというものはない」
「知った風なことを!」
「知ってるんだよ。……非力だからこそ真実へと至る道もある」
 ゆっくりと、ダグは歩を進めた。その堂々とした歩きぶりに気押されて、残る聖騎士団員達は自ら包囲の輪を広げ始めていた。誰もが自分の命を投げ出したところで、もはやこの青年の歩みを止めることさえできない、と感じていた。
「死にたくない奴はどいていろ。俺はとりあえず……アクソールといったか? こいつにだけ用がある」
 指名されたアクソールは慌てて剣を構えた。
「このアクソール……オービッド聖騎士団団長として、ただではこの命、くれてやらんぞ」
「…………。俺の額に巻いているものが見えるか?」
 不意にダグは、剣を持ったまま右親指を立てて額を指し示した。そこではバンダナが青いゆらめきを発している。
「その汚いバンダナがいったい……バンダナだと?」
「こいつが貴様らお目当てのルージュのバンダナ、またの名を“アレスのバンダナ”だ」
 勝ち誇りと驚愕が交錯した。
「……! な、なぜお前がそれを!?」
「ルッツに借りた。あいつを連れて行ったのは全くの無駄だったというわけだ。ククク、納得したところで死ね」
 ダグは右手の剣を振りかぶった。真っ直ぐ天を指すその切っ先が、月光を弾く。
「団長、お逃げ下さい! それは――」
 秘剣・剣断ち。
 ダグの意図を見破った軽装の騎士の一人が声を上げた。しかし既に遅かった。
「せめて一太刀!」
 がら空きの腹部を狙って、ダグの懐へ飛び込むアクソール。その脳天に落ちる刃。
 それを受け流そうと掲げたアクソールの剣は、まるで小枝のように容易く断ち割られた。ほぼ同時にその下の彼自身も。
 無防備な頭部も、頑丈な甲冑も、その中の頑強な肉体も、全ては真っ二つになり、その切り口からは溶岩を吹き上げる火口のように、青い光の奔流が噴き出した。
 ルージュの力を得た『秘剣・剣断ち』。
 そのあまりの凄まじい斬り様に、斬られたアクソールはしばらく生きていた。
「お……おの、れ…………無、念……」
 ぐるりと白眼を剥き、絶命する。左右別々の方向へ倒れる身体。路上に響く鈍く生々しい音。広がる血の海。
 オービッドを守るべき聖騎士団長の死は、聖騎士団の完全敗北を意味した。たちまち残る十人余りの騎士達は武器を取り落とし、へなへなと座り込む。その眼には、もはや戦いを続けられるだけの輝きはない。
 一方、遠巻きに戦いを見ていた観衆も、アクソールの死とともに、潮が引くようにそそくさと姿を消した。
 残ったのは聖騎士達同様、腰を抜かしてへたり込んでいるマリアのみ。
 その姿を認めたダグは、二つの剣を収めながらそちらへ近づいた。
 たちまち慌てて後退るマリア。しかしすぐに追いつかれ、両手を組んでダグの足元にひざまずいた。
「ひ、ひ、ひぃいぃぃいひぃぃ…………! お、お願い、殺さないでっ! わ、わたわた、私は別にあなたを売ったわけじゃ……」
「わかっている」
 ダグは口をへの字に曲げて懐を探ると、怯えきって、その一挙手一投足に注目しているマリアの前に貨幣を二枚、投げた。
 夜目にも金の輝きを放っているその硬貨に何の意味があるのか、理解できぬ様子で見上げるそばかす娘。
「………………? ? ? ?」
「迷惑をかけた。一枚はお前に。もう一枚はお前の主人に渡しておけ。あと、玄関前に少々厄介なものを撒いた。主人が帰ってくる前に打ち水をしておくことだ。俺はこれで失礼する」
 たった今、目の前で残虐非道、非情極まりない戦い振りを披露してみせた殺人者の意外な行動に、ただ呆然としている女使用人を置いて、黒衣の死神は踵を返した。
 その黒い背中が消え行く先は闇。
 その靴音を追って、点々と血の跡が続いていた。



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