蒼きバンダナのアレス Last Episode
〜Cross Fates〜【DUG/RUTZ】

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訣  別

「それで復讐を……?」
 聞きながら、ルッツは違和感を覚えた。
「でも……なんか」
 何が、という確たるものではないが、何かがずれている感覚。
 考え込むルッツに、ダグは自嘲の笑みを浮かべた。
「言ってることとやってることが違う、と言いたいのか?」
「あ……」
 言われて気づいた。そうだ。ダグの"理"から言えば、死んだ者のために何かをすることは、感傷的で感情的なことではないのか。
 ソファの背もたれに頭を預け、天井を見上げたダグの口から重たげなため息が漏れた。
「確かに――復讐という行為には、何の意味もない。それはただ、ある者の死に対して意味を見出したい生者のエゴが、最悪の形で現われたもの。感情と感傷の暴走に過ぎん。復讐を遂げたところで、死者は甦らぬし、奪われたものは戻ってこない。なにより、失敗はもとより、成功したとしても復讐を遂げた本人には確実に何らかの負債がのしかかる。誰にも得るものなどない。実に無駄な行為だ」
「………………」
「それに、部隊壊滅の件にしても、責任は俺にある。あれはこちらの弱みと油断をついた見事な作戦だった。シグオスの奴とは何度となく戦場でまみえてきたが、唯一褒められる作戦だった。俺は指揮官として間違いを犯し、敗れた。それは認めている。そもそもヘイズ自身の件にしたところで、あいつの油断と生き方からの帰結だ。納得はしている……つもりだ」
 再び、ふーっと倦んだような息を吐く。それは、ルッツにさえ、ダグの内で何かの葛藤が渦巻いているように感じられる吐息。
「なら、どうして?」
 さて、と言って腕組みをしようとしたダグの腕が、不自然に止まる。組みかけた腕は、すぐにほどけてだらりと身体の横にぶら下がった。
「……どうしてだろうな」
 一瞬、よぎるさびしげな微笑。背もたれに預けていた頭が戻り、感情を映さぬ黒い瞳がルッツを見る。値踏みをするように。
「厄介な状況、厄介な感情、厄介な感傷……振り払い、切り捨てても絡み付いてくるそいつらが、俺を駆り立てた。そういうことにしておけ」
「………………!」
 投げかけられた言葉の冷たさに、思わずルッツはうつむき、唇を引き締めていた。
 今のは、言葉にこそ刺々しさは無いが――明らかな拒絶だ。まるでホロニー大峡谷のあっちとこっちにいるかのような断絶感に襲われ、ルッツは胸の奥の方から感情の塊が込み上げてくるのを感じた。
 これは、あれだ。この感覚は覚えがある。
 幼い頃、親しくなった友達が、ルッツの両親のことを知って二度と遊べない、と言ってきたあの時の感覚だ。道端で会っても挨拶さえせず、そっぽを向かれてしまう時のあの感覚。
 やはり自分はダグにとって、ただのガキなのだ。道案内の対価に色々教えてはくれたものの、それを親しさと受け取ったのはこちらの勘違い。ダグにとって何かを教えるという行為は、対価以上のものではありえなかったのだ。

 ……対価?

 ルッツは額の裏側で、ふと火花が散るような感覚を覚えた。
 違う。
 これは、対価ではない。
 顔を上げたルッツは、しっかとダグを見つめた。
「ダグさん。それ、おかしいよ」
「なに?」
 思わぬ指摘に、ダグの表情が強張る。
「ダグさん、言ったよね。僕に色々教えてくれるのは対価だって。じゃあ、今の話だって対価の内じゃないの? それとも、そっちの話は対価の内に入ってないっていうの? でも、そんなこと言ってないよね、前もって。だとしたら、やっぱり対価の内? でも、言ってる事が違うよね。僕には感情と感傷は捨てろと言っておいて、自分は感傷と感情に駆り立てられたって……結局、僕はダグさんの何を信じたらいいの?」
「………………!」
 珍しくダグが言葉に詰まった。
 呆然とルッツの顔を見つめ――頷く。
「なるほど。これは……お前を見くびっていたようだな。まさかそこまで俺を……」
 額を押さえて心底愉快げに失笑を漏らしたダグは、首を左右に振った。
「まぁ、いい。わかった、そこまで言うなら正直に吐露しよう。だが……聞き苦しい話だぞ」
 少し居ずまいを正して、ダグは真正面からルッツの目を見据えた。
 ルッツは頷いた。

 ―――――――― * * * ――――――――

「俺は……物心ついたときには、傭兵団“獅子の牙”の一員として戦場に出ていた。どうすれば生き残れるのか、どうすれば敵を殺せるのか――戦場で最も役に立つものはなにか。ひたすらそれを考え、出た結論を実践する術(すべ)を磨き上げてきた。全ては、戦場で生き残るために。だが、あるとき……もう十数年前になるが……奴が、ヘイズが入団して来た。俺と同い年だと言ったあいつは、一言で言えばバカだった」
「バカ?」
「ああ。先の見通しも何もなしに、ただ剣を振り回すバカ。それで全てを切り拓けると信じ、実際に切り拓く――まるで戦場では腕力さえあればいい、知性なんて小賢しいものは必要ない、とでも言うかのように。俺は……あいつが大嫌いだった。戦場では突っ走る、尻拭いはしなければならない、人の話は聞かない……無駄のない、理想的な勝ち方にこだわる俺からすれば邪魔なことこの上ない」
 大嫌い、といいながらダグの表情に安らぎにも似た笑みが浮かんでいた。
「奴と違い、俺は非力だった。大人の腕力に対抗するために鍛えはしてみたが、度を超すとすぐに身体を傷めてしまい、鍛えるどころではなかった。だから俺は、腕力に頼らない戦い方を選び、それを磨き上げていた。それを、奴は否定した。いや、あいつ自身にそんなつもりはなかっただろうが、俺自身は奴の存在そのものが俺の否定だと思っていた――それは今でも変わらない。まったく、あいつは嫌な野郎だ」
 笑みが苦笑に変わる。
「戦場で何度となく奴と肩を並べて戦い、何度となく奴に救われた。さっきも言った通り、俺の立てた作戦を敵に見透かされ、団が危機に陥ったとき、あいつの勢いだけで戦況を立て直したことも数度では足りない。気づけば俺は……」
 一旦口を閉じ、眼を閉じる。紡ぎ難い言葉を目蓋の内で練るかのように。
「……俺は、あいつを頼りにしていた。無茶な作戦も、あいつならやってくれると信じられたし、やばい戦況を野生の勘とでもいうのか、素早く立ち回ってこちらの予想外の戦果を上げてくれた。そしてそれ以上に、俺にはできないことをやっていた。勝つことでしか信頼を得られない生意気な若造の俺とは違い、あいつは早くから勝っても負けても常に団員に囲まれ、慕われていた。同じ作戦を、俺の口から出すのとあいつの口から出すのとでは反応がまったく違った時代もあったぐらいだ」
 再び、唇から重い吐息が漏れた。
「あいつは……ヘイズは、確かに腹立たしい存在ではあった。だが、それ以上に俺はあいつを好きになっていた。俺の思うとおりにならない腹立たしさでさえ、好ましいと思えるほどに」
 ダグはしかし、すぐに首を横に振った。
「いや、好きというのは適切ではないな。もっとこう……」
 しばらく考え込んだ末に、仕切り直すように話を続ける。
「付き合いが長かったせいか、俺は奴の思考や行動を全て読めるようになっていた。ヘイズも、俺の考え方は充分理解していた節があった。得意の野生の勘かもしれんが。いずれにせよ、そうなるともう、あれは他人じゃない。俺の一部のような感覚だった。……一部じゃ足りんな。やはり半身か。あいつと俺、二人が揃ってこそ一つの存在、そんな感覚があった」
「へぇ〜……」
「それを、シグオスが奪った」
 眼を輝かせて聞いていたルッツは、ドキッとした。唐突に夢の世界から現実に引き戻される感覚。
「あいつの一部となるはずだった未亡人とその娘ごとな。そして俺は部下をも失い、自らも大怪我を負った。俺は……病床で考えた。身体は動かずとも、頭は働く。考えて考えて考えて……考え続け、考え抜いて、ある時気づいた。俺の中にどす黒くうずくまる闇に」
「……闇?」
「知性や理性では割り切れない、感情の根源だ。『そうではない』と"理"によってわかっているのに、抗し難き力で『そうせよ』と命じるものだ。ひょっとすると……ヘイズが置いてった最も厄介な遺し物かもしれん」
 ルッツは顔をしかめた。コウシガタキチカラ? なんだろうそれは。
「え〜と……なに? もう少しわかるように言ってよ」
 ダグが、笑った。くく、と皮肉げに片頬を持ち上げて。
 ルッツの背に冷気が走った。
 それはこれまで見たことがないほど――いや、この暗く、陰鬱な喜びに満ちた笑みは見たことがある。メルガモの街道で初めて出会った時。七人の聖騎士を斬殺した時の、あの笑み。炭のように黒くつやのない瞳に、昏く冷たく青白い炎が音も立てず静かに燃えている。
「要するに――」
 ダグは拳を突き出していた。ゆっくりと、力を込めて。
「要するに俺は、シグオスの息の根を止めたいのだ」
 ボキ、と握り締めた指が鳴った。
「え……」
「お互いの暗黙の了解事項だったことを破り、俺からヘイズを奪い、俺には届かぬ平穏を手に入れようとしていたヘイズとあの未亡人、それにその娘を惨殺し、あまつさえその勝利までもなかったことにしてしまおうとしている奴を許せないのだ」
 鳥肌が立つ。悪寒が背筋を走る。汗が冷たい。ルッツはダグの放つ異様な気配に当てられ、気づかぬ間に半歩後退っていた。改めて、自分が恐るべき肉食獣の傍にいるのだ、ということを思い知らされる。
「もっと突き詰めれば、おそらくそれは俺のプライドの問題に行き着く。ジルベルド=ウルデ=シグオス――あの時までたったの一度さえ俺に勝てなかったクズ指揮官ごときにまんまとしてやられ、傷ついた俺のプライドを奴の悲鳴と怒号で埋め合わせてやりたいのだ。そして、思い知らせてやりたいのだ。おのれのしでかしたことの重大さを。お前は手を出してはならないものに手を出したのだと」
 そうとも、と誰に向かってか頷き、拳を顔の前に引き寄せる。
「貴様など俺の足元にも及ばぬ小物だとあいつを貶(おとし)め、絶望と屈辱で満たし、高笑いをあげたいのだ。貴様ごとき英雄と呼ばれる器ではない、たかが傭兵の一人にも勝てぬただの愚か者だと。貴様の腕は太いばかりで、結局何も守れはしないと。そして、獅子に歯向かった野良犬のごとき、後悔の中での惨めな死をくれてやりたいのだ――と」
 その途端、ダグの険しい表情も放たれる殺気も霧散した。
 まるで、ぷすん、と音を立てるかのように、憎悪と憤怒の熱が消え、その表情もいつもの無表情に戻る。
「まあ、そういう思いが俺の中にあるのは確かなのでな。俺は、それを肯定することにした」
「え……どうして?」
「それこそが、俺のしたいことだからだ。誰のためでも、誰のせいでもない。なら、それ以上の理由は要るまい」
「はい?」
 ダグは握っていた拳を開き、二、三度顔の前で握って見せた。
「結局……人間はしたいことをするようにしかできていないらしい。復讐は無駄なことで、自己満足の帰結にしか過ぎないが、その自己満足こそがおのれの求めるものなら、それを為すのも致し方あるまい」
「ああ…………ああ……」
 ルッツは思わず生返事を返していた。延々と続く理屈という迷路の森を迷いに迷った末に抜けて、ゴールと思(おぼ)しき場所に着いてみれば、スタート地点からゴール地点が見えていたことに気づいたような気分。要するに拍子抜け。
「つまり、やられたからやり返す、そういうことだよね?」
 今度はダグの方がきょとんとした。
「そう……だな。そういうことになるか」
「それだけのことを説明するのに、何でそんな遠回りを……本当に感傷と感情に駆り立てられただけだったなんて……一番最初に自分で否定しておいて、そんなの」
 がっくり肩を落とすルッツに、ダグはニヤニヤ笑っていた。
「それが小賢しいということだ、ルッツ」
「え?」
「理論武装ってのは、自分の本心を隠すために理屈をこねくることだ。自分の行動がその場限りの感情任せではなく、理由と見通しがあってのものだと納得しておきたいのだ。俺みたいな頭でっかちのタイプは、それが癖になっている。憶えておくといい。お前がどう思っているかはともかく、俺も結局はその程度ということだ」
「……要するに、本当は何の見通しもなかったってこと?」
 疑わしげな問いに、ダグは即答せず、少しの間視線を虚空に泳がせた。
「んむ……アスラルは俺にとって未知の地だからな。確かに、半分くらいは出たとこまかせではあった。だが一応、何をなすべきかだけは決めていた。俺にとってのヘイズ同様、シグオスにとって分かち難く大切なもの。おのれの半生を懸けた存在、それが――」
「『創生の光』……」
 ダグは頷いた。
「だから、俺は道すがら教団幹部を暗殺してきた。セリアス大司教を殺したのは、それが理由だ」
「そんな……」
 ルッツは目眩を覚えた。それはいわゆるとばっちりではないのか。
 ダグの言葉を信じたとするならば、シグオス聖騎士団総団長が狙われるのは仕方がないと思える。しかし、セリアス大司教様は何をどう考えても何の関係もない。あの方が殺される理由なんて何もない。理解できない。やっぱりダグは、復讐鬼に名を借りた殺人狂に過ぎないのか。
「大司教だけではない。ウルクスでリアラ=ベイルを殺したのも、クアズラー司教を暗殺したのも――」
「え?」
 聴き慣れた名前を聞いた気がして、ルッツは目を瞬かせた。リアラではない。ウルクスの……クアズラー司教様を? 暗殺?
 ダグはルッツの戸惑いに気づかず、続けていた。
「この先もヨマンデ、ユーノス、ミンスニアなどの主要都市の司教、大司教を殺害して行く予定だ。そして、最後には教皇と――」 ※地図
 ふと言葉を切る。その時顔をよぎったなんとも力のない笑み――しかし、ルッツは見ていなかった。
 否、瞳に映ってはいたが、その意味を考えられるほど平静な状態ではなかった。
 ルッツはぽかんと口を開けたまま、凍りついていた。

 ―――――――― * * * ――――――――

「クアズラー司教様、も……?」
 ウルクス教区司教クアズラー。
 ルッツにとっては本当に尊敬できる大人という意味で、特別な存在だった。
 金縁の刺繍を施した白い法衣に、薄く禿げ上がった白髪の司教様の姿は目の奥に焼きついている。
 両親が信仰の証しを立てるために――それも恐らくあわよくば教団幹部とお知り合いになって、という浅はかな妄想に取りつかれての行動だとは思うが――月に一度くらい、祈りを捧げに行ったウルクスの聖堂。
 数ヶ月前の礼拝の時だった。良心の呵責に堪えられず、そんな両親の下心を報せに行ったルッツに、クアズラー司教様は優しく言ってくれた。
『ありがとう。でも、自分で自分を救おうとしない者に、救いの手は差し伸べられないのですよ』
――と。そして続けた。
『たとえ救いの手のように見えるものが差し伸べられたとしても、結局は転落への道標になったり、もしくは自ら放してしまうことになる。それよりも……私には君こそ救いを求めているように見える』
 少し屈んで目線を合わせてくれたクアズラー司教様は、あの柔らかい手をルッツの栗色の髪に載せて続けた。
『もし、どうしても両親を許せなくなったら、彼らに害を成す前にここへ来なさい。その気があるのなら、教団の司祭学校に入学して、司祭を目指してみるといい。そのための手助けくらいなら、いくらでもしてあげよう』

 その時、ルッツは泣いた。大人からそんな優しい言葉をかけられたことは、思い出す限りなかったからだ。あの傭兵との出会いがなければ、多分、あと二、三ヶ月のうちにクアズラー司教の元へ走っていたと思う。
 その司教様が。
 多分あのときだ、とすぐに思い至った。自分がリアラと寝床の中で絡み合っていたとき、あのときにダグは独り教会へ侵入して、クアズラー司教を暗殺していたのだ。
 ぽろりと涙がこぼれた。
「何で……何でそんなことをっっ!!」
 思わず振り上げた拳で、ダグの頬を打っていた。
 ダグは避ける素振りさえ見せず、まともに頬で拳を受け止めた。
 力比べをするように拳をダグの頬に押しつけたまま、ルッツは叫んだ。
「シグオス総団長と、ダグの間だけの話じゃないかっ!! クアズラー司教様だって、セリアス大司教様だって、慕ってる人がいっぱいいて、あの人たちに救われる人が沢山いたのにっ!! 僕だって……!!! それを、それを――何で殺したりしたんだよっっ!!」
「……それが戦というものだ」
「な……」
 拳の下から漏れてきた陰鬱な声に、ルッツは一瞬声を失った。何という言い草か。
「戦は終わったって――」
「シグオス自身が破っただろう。停戦協定を。結ばれた翌日に」
「けど、そんなの司教様たちには関係ない――」
「あの未亡人たちにも関係はなかった」
 言葉が続かなかった。そして思い知らされた。ダグは森の外の人間で、自分は森の中の人間だということを。
「ルッツ」
 ダグを責める言葉を捜していたルッツは、その呼びかけで我に返った。
「俺が憎いか」
「……………………」
「シグオスはどうだ」
「……………………」
 どちらにも言葉を返すどころか、首を動かすこともできなかった。憧憬と憎悪、思慕と憤怒が頭の中で嵐となって渦巻いている。ただ、失われてしまったものの大きさに、涙だけが止まらない。
 そして気づいた。これまで旅をしていて何処かに気楽さがあったのは、『旅に行き詰まったり、逃げたくなったらいつかはクアズラー司教様の元へ行けばいい』という思いが心の片隅にあったからだということに。
 今、全ての帰るべき場所を失った。背中にぽっかり、暗い暗い穴が大きな口を空けている気がする。
「ルッツ」
 ダグは自らの頬とルッツの拳の間に手を入れ、それを握った。ゆっくりと下におろす。
「憎しみや怒りは、第三者が横から見れば実に愚かしく、また不愉快だ。まして、そんな感情に基づく行動は、さらに醜悪に感じられる。だが、これも胸に刻んでおくといい。戦いや諍いのあるところには、必ずそれらが存在する。そして、戦いや諍いのない場所など、世界のどこにも存在しない」
「……………………!」
 ルッツは握られた拳に力を込めた。ダグの胸元まで下がっていた拳は、顎の辺りまで戻ってきた。
「だが、ルッツ。それが人として当たり前の姿なのだと飲み込め。お前が何を目指し、どこへ行くにしろ、まずそこに立たねば望むものは見られない」
「そんなことっ……!!」
 押し上げようとした拳はびくともしなかった。
「く……」
 力ではかなわない。非力だといっていたが、それでも子供よりは十分強い。
 力でかなわない分、ルッツはダグを睨む眼に力を込めた。涙がこぼれる。視界が潤む。しかし、怖くてもここは退いてはいけないところだ、と思った。
 ダグは眼を細めて唇の端を持ち上げた。
「いい眼だ。お前にその気があるなら、いずれ相手をしてやってもいい。だが、俺は俺に敵意を向ける者に決して手加減はしない。その時は脅し抜きで……お前を殺――」
 ふと、ダグの視線があらぬ方向へ飛んだ。そのままじっと聞き耳を立てていたが、何を納得したのか、小さく鼻を鳴らした。
「ふむ。ここまでか。……ともかく、よく拳を出したな、ルッツ」
 注意をルッツに戻したダグは、微笑んでいた。顔色は相変わらず悪いが、陰鬱な笑みではない。
 その豹変ぶりにルッツが困惑していると、ダグは緩やかな動きで拳をルッツの胸元にまで下ろした。無駄な力のかからない、まるでルッツ自身がそうしたかのような動き。
「お前では俺にはなれまい。性格的にはヘイズの方が近そうだしな。だから、俺の言葉に逐一納得しろとは言わんし、俺の言葉を忘れたいなら忘れていい。だが、お前が必要だと思う時に、拳を繰り出せることは、お前がこの先必要とするものだ」
「ダ、グ……さん……?」
「ダグでいい」
 戸惑うルッツの拳を離し、ダグは立ち上がった。
「結局、小剣の扱い方を教えてはやれなかったが……ま、そんなものは自己流でも何とかなる」
「……そうなの?」
 肩透かしを食わされたような気分を味わいながら、ルッツは服の袖で目の辺りをこすった。
 その頭を、ダグの手が軽く撫でる。
「ああ、俺も最初はそうだった。それより、お前の場合、出すべき時に拳を出せない気の弱さの方が問題だった。幼く、夢見がちな考え方よりもな。ルッツ、自信を持っていいぞ。お前は『クルスレードの死神』の横っ面に拳を入れた、数少ない人間の一人だ」
 クク、と笑って黒い革鎧を身につけ始める。
 ルッツは呆然と立ち尽くした。
 死神の横っ面に拳を入れた――そんな実感は無い。
 おそらく、ダグはわかっていて躱さなかったのだ。同情の一発。そんな一発に何の価値があるのか。
 そして、そもそもの怒りの感情も行き場を失っていた。自分の胸の前で握り締めた拳をどこへ向ければいいのか、じっと見下ろす。
 これはダグに向けるべき拳だ、とわかっていても、心の奥で何かがダメだと告げている。
 自分がどうしたらいいのか、何がしたいのか……クアズラー司教様やリアラの仇を取りたいのか。この目の前の黒づくめの死神に、腰の後ろの小剣を突き立てて――
 違う。そういう気持ちもあるけれど、それは本当にしたいことじゃない。本当にしたいことなら、こんなに悩む必要はないはずだ。
 じゃあ、なんだろう。ダグともっと旅をしたいのか。正直な話、その気持ちも強い。なんだかんだでいじめられている気がするけれど、ダグと一緒に旅をしたことで、僕は少し大きくなった気がする。何より、知らないことを知るという喜びはなにものにも変えがたい魅力がある。ダグと共に旅をすれば、まだまだ色んなものを知る事が出来るだろう。
 でも、それも違う。ダグは今言っていた。この後も教団幹部を次々に殺してゆくと。彼についてゆくということは、その現場を見続けるということだ。何の落ち度もない人たちが、無残に殺されてゆくのを黙って見ていることが、僕に出来るのだろうか。
 無理だ。きっと僕は、途中でダグを止めようとする。そうなれば、僕はたぶんダグに殺されるか、今よりもっと無力感を味あわされるだけだ。
 じゃあ………………僕はどうすればいいのだろう。
 ルートヴィッヒ=クラスタという存在は、何が出来るのだろう。何がしたいのだろう。
「――おい。話はここまでだ。裏口から逃げろ」
 突然の命令に、我に返ったルッツは顔をしかめた。
「逃げろって……いきなりどうしたの?」
「女が通報した。外に聖騎士の気配がする」
「ええっ!?」
 ルッツは慌てて居間から飛び出し、マリアの名を呼んだ。しかし何度呼んでも返事がない。人の気配さえしない。火の気さえ感じられないということは、お湯を沸かしてくれるという約束さえ投げ出したまま出て行ったのか。しかし、いつ。
「そんな……どうして?」
「お前の叫びを聞いていたようだな。大司教を殺しただのなんだのという話を」
 そういえば叫んだ気がする――ルッツは血の気が引く思いがした。なんて浅はかなことを。
「囲まれる前に逃げろ」
「そんなの……。ダグさ――ダグも一緒に」
「逃げはしない。……半年ぶりの気配を感じるんでな」
 革鎧の背中の留め金を器用に止めながら、ダグは薄く笑っていた。
「半年ぶりって……」
「シグオスだ。あいつの独特の気配はよくわかる。小物が背伸びをして、必死に大物ぶっている哀れな気配だ」
 ダグがシグオス率いる聖騎士団と真正面から戦おうとしていることに、ルッツは息を呑み、力無く首を振った。もはやそれは無謀や無茶などという言葉では済まない。明らかな自殺行為だ。
「そんな……オービッドには百人近い聖騎士がいるんだよ!? シグオス総団長を倒しても、その後どうやって……」
「ここで対面するのは予定外ではあるが……シグオスさえ斃せば俺の旅は終わる。その後は…………ま、今回の件に関わりない聖騎士の奴らも、俺には色々と積もる恨みがあるだろうからな」
 鎧を着け終わったダグは、自嘲気味の笑顔をルッツに向け、剣帯を腰に巻きつけた。二本の剣の他に短剣までぶら下がっている。
「俺は傭兵だ。自分で引き起こした怒りも憎しみも、この身に受ける覚悟は出来ている――奴らの剣が届けばの話だが」
「そんなのだめだよ!」
 思わずルッツは叫んでいた。
 ダグに死んでほしくない。それは嘘偽りのない、真っ正直な気持ち。
 まだ教えてほしいこともいっぱいある。店で買い叩く方法とか、ダグ流の剣の使い方、野宿の仕方、そしてどうしたらダグのように強く、賢くなれるのか。
 しかし、一瞥したダグはにべもなかった。
「お前にはお前の為すべきことがあるだろう。さっさと行け。俺のような外道の相手をしている暇はないはずだ――っと、俺のバンダナを取ってくれ」
 長椅子の肘掛けに載っていた黒いバンダナを取り上げたルッツは、しかしダグの差し出した手に見向きもせず、それを握りしめた。
 そうだ。バンダナ。
 僕の為すべきこと。あの蒼いバンダナをルージュの元に届け、彼女を救い出すこと。それが僕のやりたいことのはず。できもしないことをうじうじ悩んでいても仕方がないし、そんな状況でもない。自分のやりたいことで、やれることをまず片付けるべきなんだ。
 ふと視界が広がった気がして、閃いた。
(ああ、そうか……必ずしも僕が持っている必要はないんだ)
 ルッツは尻ポケットから薄汚れた『アレスのバンダナ』を取り出し、それをダグの手に押しつけた。
 ダグは困惑げに眉をひそめる。
「おい、俺は俺のバンダナと……」
「ルージュの話によると、彼女の力が流れ込んでいるんだって。怪我してるんでしょ? 多分、力になってくれる。……預けただけだから、必ず返して」
「おい」
 ダグの手を握ったルッツは、彼の眼力に負けないよう脚を踏んばり、見返した。
「ヘイズさんのお母さんも言ってたじゃないか。ダグにだってお母さんか誰か、待ってる人がいるはずだろ。僕がいたら多分足手まといだろうから、僕は僕なりのやり方でスラスへ行くけど、絶対死んじゃだめだよ。スラスで待ってる。……信じてる。信頼して、信用してるからね」
「………………」
 何を思うのか、じっと黙ったままのダグをそのままに、ルッツは屋敷の裏口があると思われる方へと走った。

 ―――――――― * * * ――――――――

 裏口はすぐに見つかった。その前で立ち止まり、大きく息を吸い込む。
 ダグは裏口から逃げろと言ってくれたが、既にそちらにも手が回っているだろうということは、ルッツにも予想できる。このまま飛び出せば、聖騎士に捕まってしまうだろう。ダグが表へ出て騒ぎが起きた後なら、隙もできるはず。
 だが今は、捕まること自体はさほどの問題でもない。あの伝説の聖騎士シグオスすら凌ぐかもしれない、最強の戦士にバンダナは渡してしまったのだから。問題は捕まった後、どうやってスラスに行くか、である。
 鼓動が高鳴る。
 今までは危険の方が近づいてきた。しかし、今は自ら危険の中へ飛び込もうとしている。この前向きの姿勢を成長だと思いたかった。
 バンダナはなかったが、ルージュに祈った。
 僕に、力を。
 尻ポケットにねじ込んだ黒いバンダナから、熱い力が流れ込んでくるような気がした。ダグを殴った拳も熱を持っている気がする。
「……さあ、行こうか」
 まるでいっぱしの冒険家の口振りでそう呟いて、鼻先を親指で一擦りし、裏口を開ける。
 満月の蒼光の下、銀色に輝く鎧の一団が、庭を囲む植え込みの向こうに待ち構えていた。
 後ろ手に扉を閉め、震える足元を踏みしめながら、一歩一歩近づいて行く。
 部隊を率いる隊長らしき髭面の男が、怪訝な面持ちでこちらの様子を窺っている。
 ルッツは庭の半ばまで進んで足を止め、息を吸い込んだ。
「僕はルッツ。ルートヴィッヒ=クラスタといいます。お望みのバンダナのありかは、僕が知っています。でも、あなた方には言えません。直接教皇様に申し上げたいと思います。僕をスラスに連れて行ってください」
 垣根の向こうで呆気に取られている髭面と甲冑の騎士団に、ルッツはやや硬張った微笑みを投げかけた。

 ―――――――― * * * ――――――――

 居間に独り残ったダグは、手の中の薄汚れたバンダナをじっと凝視していた。
「戦場で拾われ、生きてきた俺には母も無し、友も無し。ましてや将来を誓う女性もいない。俺には待っている者はいないんだがな……」
 ふふん、と鼻で笑い、前髪を掻き揚げる。
 ルージュの力がどうこうという下りなど信じてはいなかったが、ルッツの心意気に応えるため、素直に巻いておくことにした。
 薄汚れたバンダナをいつもの通り、眉を隠すほどの幅に折り返し、額に巻く――
 刹那。額から稲妻が背筋を駆け下りた。
「ぬ……ぅ……っ!!」
 思わず呻きが漏れた。まさに雷に打たれたかのような衝撃。
 迸る力の奔流は紫電となって、全身をくまなく駆け巡り、最後に痛めた脇腹に集まって炸裂した。
 痛みはない。むしろ快感に近い。
 折れた肋骨を撫でる。痛みは完全に消えていた。骨の折れている手応えもない。治ってしまったのか、ただ単に痛みが麻痺しているのかはわからなかったが、これから戦いに赴く者にとってはありがたい効果だった。
「……アレスのバンダナ……本物、ということか。なるほど、確かにこれを身に着けていれば、不死身の活躍ができるかもしれんが……」
 ふん、と誰に向けてか、鼻で嗤う。
「俺よりヘイズが着けるべきだな」
 さも可笑しそうに忍び笑った。
 その時、外から大音声が轟いてきた。
『王国連合の犬、ダグ=カークスよ! この家にいることはわかっている! もはや貴様は袋のネズミだ! だが、罪無き住民の家を薄汚いドブネズミの血で汚すのは我々の本意ではない! 出て来い! 出て来て、潔く刑に服するがいい!』
 あまりにも一方的な物言い。玄関に足を向けたダグの頬に蔑笑が貼りつく。
「シグオスめ。クク……相変わらず頭の悪い奴だな。どうしてお前達の理屈に従って俺が出て行くと思うのやら。出て来ないと思っているのなら、言っていること自体が矛盾しているしな」
 自己顕示欲の強いシグオスのことだ。多分、この家の使用人、マリアを傍に置いて自分がいかに正当に事を進めているか、その一部始終を見せるつもりだろう。従って、玄関を開けた途端に、槍の穂先が飛んでくるということはない――そんな計算を立てつつ、包囲を突破する方策を探る。
「そもそも暗殺さえ行った聖騎士団が今さら潔く、だと? 笑わせてくれる。だが……この家の住人に迷惑をかけるのは、俺の本意でもない。その点だけは同意してやる」
 内に湧き上がるこの昂ぶりはシグオスを前にしたからか、それともバンダナの影響か。そしてその昂ぶりのせいか、自分でもおかしいとわかるほど口も滑らかになっている。
「さて、どう切り拓くか――ん?」
 首をコキコキ鳴らしながら居間を出ようとしたダグは、その戸口で見慣れたザックに目を留めた。自分のザックだ。ルッツが持ってきたのか。
 足が止まり、目が細まる。確かあの中には……。
 不意に、ダグの頬に勝利を確信した笑みが刻まれた。
「ルッツ、でかした」
 少年が聞いていたら躍り上がりそうな台詞を吐いて、その中に手を突っ込んだ。


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