蒼きバンダナのアレス Last Episode
〜Cross Fates〜【DUG/RUTZ】

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オービッドの闇

 午後遅くオービッドに到着したダグとルッツは、すぐ宿を取って荷をほどいた。
 ダグはまたそのまま出かけるという。理由はやはり教えてはくれない。
 ただその折り、ダグはルッツに革製の胸当てを購入しておくように、と指示して貨幣の入った袋を投げつけた。
 さすがにウルクスの一件で懲りていたルッツは、金貨だけ五枚入ったその巾着袋を即座に投げ返した。
「……追剥ぎとか強盗に僕を襲わせる気なんだ」
「両替ぐらい経験しておけ、というつもりだったんだがな」
 すねるルッツに皮肉げな笑みを浮かべながら、銀貨銅貨を何枚か滑り込ませ、再び投げ与える。
 中身を確認したルッツは、なぜ強固な鎧ではなく胸当てを購入するのかを聞いた。
 抜き身の剣をためつすがめつしていたダグは、すぐに講釈をたれ始めた。
「およそ鎧というのは、使う人間の身体に合わせて作るものだ。成長途中のお前ではすぐに使えなくなるし、ましてや出来合いの鎧など、動きの邪魔になるだけで守りにはならん。胸当てだけなら出来合いでもそれなりに補正して使える。それにお前は、冒険家だか探検家だかになりたいのだろう? ならば身軽に振舞い、活動できる装備の方がいい。どうしても気に入らないなら、後で鎧を手に入れればいい。それだけあれば足りるはずだ。……他に質問は?」
 ダグは講釈の間、一度もルッツに目を向けず剣の手入れをしていたが、先を見据えたその物言いは少年を有頂天にした。実にわかりやすく、納得できる話だ。反論などあろうはずもない。
 ただ一つ、気になることはあった。
「でも、僕一人で行って、足元見られないかな」
「見られるだろうな」
 あまりにも呆気ない答えに、ルッツはむしろ気抜けした。
 ちらりと闇色の瞳が、ルッツを見やる。
「金貨の件でもそうだが、お前のその気の弱さは克服する必要がある。いい機会だ。店主と心ゆくまでやりあって来い。それとも、いきなり命のやり取りをする修羅場を経験したいのか?」
 意地悪そうに頬を歪める。
 だが、ルッツは顔をしかめていた。
「……でも、どうして?」
「なに?」
 いきなりの質問に、ダグは珍しく戸惑いを見せた。
「いや、だから。なんか……リアラが殺さ――いや、死んだ時から、ずっと色々教えてくれてるよね。今日だって……どうして僕をそんなに鍛えようとしてくれるの?」
「いつまでも足手まといでは困る」
「困るって……僕、ただの人質なんでしょ? 人質で、道案内の、ただの家出少年」
「確かに最初は脅しはしたが、別に人質とは思ってない」
「え? そうなの?」
「家出少年に人質の価値などない」
 辛辣な言葉に、がっくり肩を落とす。
 ダグは珍しく愉快げに頬笑んだ。
「そう落ち込むな。人質とは思っていないが、信頼できる道案内だとは思っている」
「ありがとう……」
「だが……お前も知るとおり、俺の旅は聖騎士を敵に回すかなり危険なものだ。巻き添えを食って、お前が死傷する可能性もないとは言い切れない」
 剣の刃を見据えながら、危ないことをさらっと言う。
「だから、鍛えてくれてるの? 自分で自分の身を守れるように……」
「そういう面もあるが、本当のところは今日街道で言ったように、対価だ」
「なに、それ?」
「働きに対しては、対価を支払う――宿泊の対価として宿賃を支払うように。それが世の習いだ。俺は道案内の対価として、お前に伝えられることを伝えている。代金を支払うのでも構わなかったが……俺の状況次第では支払えなくなる可能性もあるし、現状と後々のことを考えれば身に着くものの方がいいだろう」
「それは嬉しいけど……」
 ルッツは戸惑った。ダグにそこまで思ってもらえるほど、大した案内をしてきたつもりはない。ウルクスからオービッドまでなんて、道案内なしでもただ街道を真っ直ぐ行けば到着する。ここから先だってそうだ。
 それを正直に言うと、ダグは刃からルッツへと視線を移した。その頬が緩んでいる――普通に微笑んでいる。
「一番最初、メルガモを避けるルートを提案しただろう。あれで相手の裏をかき、ここまでさしたる衝突もなく来られた。それに、一番俺が感謝しているのは、タックの村に案内してくれたことだ。あの小さな村に迷わず案内してくれたことで、俺は旅の目的の半分をさしたる無駄もなく終わらせることが出来た。胸を張っていい。お前はいい案内人だ」
 この黒づくめの青年にこれだけ褒められる。嬉しさ半分に、ルッツは胸騒ぎを覚えた。普段では考えられない。今夜は何か起きそうな気がする――あ、いや。今夜も、か。
「……ありがとう、ダグさん」
「ふふん」
 軽く頭を下げたルッツにいつものシニカルな鼻笑いを返し、ダグは剣を鞘に納めて立ち上がった。
「礼は伝えたことが身に着いてからにしろ。とりあえずは――」
「うん。一人で行ってみるよ」
「それでいい。俺は今晩も帰らんかもしれんが、気にするな。それから……」
 束の間、珍しくダグは目を閉じ、なにか逡巡する様子を見せた。しかし、すぐに全ての者を威圧する、鋭い眼差しで少年を見据えた。
「もし俺の身に何かあったとわかったら、さっさとこの町を離れることだ。お前はお前の旅の目的を忘れるな」
「僕の……旅の目的……」
「森の外へ行くのか、スラスへ向かうのかは知らんがな。いずれにせよ、俺を待つことはない」
 危険な匂いがぷんぷんと漂う会話だった。
 ダグが何をしようとしているのか、聞いても教えてはくれないだろうが、命に関わるような難事に違いない。でなければ、彼ほど慎重かつ冷静な戦士が、そんな別れじみた言葉を吐くはずがないからだ。
 そして、思い出した。自分も狙われていることを。オービッドに入るのに何の制限もなかったことからして、まだ教団には気づかれてないのかもしれないが。
 ルッツは思わず唾を飲み込んで、返事を返した。
「わかった。……でも、僕はもう少しダグさんと旅がしたい。だから、気をつけてね」
 ダグは再びふふん、と鼻で笑って黒いマントを翻した。

 ―――――――― * * * ――――――――

 ダグが出て行った後、ルッツも町へとうろつき出た。
 胸当てを買えと言われても、それがどんな形状のものでどこに売っているのかすら、実は知らない。
 ただ、オービッドはウルクスよりもさらに大きく、広く、沢山の人、沢山の物が行き交い、沢山の店が軒を連ねている。こうして人の波に乗って商店街をそぞろ歩いているだけで、何かそれらしい店が――
「……あれかな?」
 緑青がふいて緑色になった小さな看板に、鎧らしきレリーフ。
 店先で鎧姿の男が筋骨隆々たる職人と何か話している。どうも鎧の肩当ての部分の修理を頼んでいるようだ。
 少し近づいて奥を覗くと、別の職人が金髪の青年の身体を採寸していた。
 その脇では、鎧のどこの部分かは知らないが、部品の一つを持って金槌で叩き叩きなにかの角度を調整している職人も。
 店の奥からは金槌で金属を打つ響きが聞こえてくる。
 メルガモの鍛冶屋を思い出しつつ、ルッツが店に入って行くと、採寸をしていた職人が怪訝そうな顔をした。
「おう、なんだ坊主。御主人様か親父の鎧でも取りに来たか? ちょっと待ってな、今――」
「あ、いえ。僕、その、胸当てが欲しくて」
「胸当て?」
「ええ。革の。どんなやつがあります?」
 傍で部品の角度を調整していた職人と、採寸をしていた職人は顔を見合わせて同時に首を振った。
「坊主、悪いがここにゃあ、そんな物はない。出直してくんな」
 その表情はなにやらへらへらと笑っているように見えた。
 ルッツはさっそく来たな、と大きく一つ深呼吸をした。少し足を開いて、相手に負けないように勇気を奮い起こす。
「子供扱いしないでよ」
 言いながら店の中を見回す。傍らに飾ってある胸に星の輝く鎧――恐らく持ち主が取りに来るのを待っているのだろう――を指差す。
「これ、聖騎士の鎧だよね。胸に星の彫り物がある。これだけの鎧は作れるのに、革の胸当てはできないっていうの? おかしいんじゃないかな?」
「いや、あのな」
 困惑する採寸していた職人、その向こうでどっとばかりに笑う修理工。採寸されていた若者さえ、口を押さえて笑いを我慢している。
 ルッツの胸にたちまち暗雲が垂れ込めた。なんだろう、この雰囲気は。僕は何か間違ったことを口走ったのか。
 困惑していると、店先で話していた筋肉男が戻ってきた。店内の妙な雰囲気に顔をしかめる。
「なんだ。……どうした?」
「いや、それがね店長」
 修理工が笑いをこらえながら告げる。
「このガキが、胸当てくれって。それも、革の」
「革の胸当てだ?」
 店長と呼ばれた男はじろりとルッツを見下ろした。
 ダグに似た異様な迫力に、萎えそうになる気力を必死に奮い起こして睨み返す。
「……坊主。いくら睨んでも、ないもんはないぞ」
「僕が子供に見えるから、売れないって、そういうこと」
 だが、店長は視線をそらして、さも馬鹿馬鹿しげに息を吐いた。
「馬鹿言え。なりがガキでも立派な奴ってのはいくらでもいらぁな。そうでなくとも、金さえ積んでくれりゃあ文句はねえよ。だが、ねえもんはねえ。……たく、言いたかないがお前さん、よほどの田舎ものかボンボンか?」
「どういう意味だよ!」
「わからん奴だな。見てわからんか。うちは確かに鎧を作ってるが、元々は鍛冶屋なんだよ。板金やら鎖の鎧はお手のものだが、革製品はお門違いだ。なめし職人の方へ行ってくんな」
「え?」
 ようやく笑われていたわけがわかった。たちまち頬が赤く染まる。
「ま、せっかく来てくれたんだ。うちの知り合いでよければ、紹介してやるぜ。出来合いのもんが欲しいのなら、前の通りを左へ出て角を三つ越えた先に牛の頭をモチーフにした革製のレリーフを軒先に吊るした店がある。そこなら腕も確かだ」
「あ、あ、ありがとうございマス、スミマセン、本当にゴメンナサイ、お邪魔しましたぁー!!」
 豪快な笑い声を背に、ルッツは恥ずかしさのあまり泣き出しそうな顔で店を飛び出した。

 ―――――――― * * * ――――――――

 結局、紹介してもらった店で革の胸当てを購入したものの、初手から踏み間違えて頭に血の上っていたルッツは、店主と交渉らしき交渉を行うこともなく、言い値を支払うことになったのだった。
「……はぁ…………なにやってんだろ、僕……」
 宿屋『禿げ鷹の女房』亭で一人寂しく食事にありつきながら、ルッツは溜め息をついた。
 自立の道は遠く険しいようだ。

 ―――――――― * * * ――――――――

 明かりを極限まで落とした暗い部屋。
「――……ギルドの応対ってのはどこでも同じかよ」
 気づけばイスに座らされていたゼラニスは、闇の向こうにいるであろう連中に対し、嫌味たっぷりに呟いた。
 首筋に鈍い痛みが残っている。拘束はされていないが、こう暗くては迂闊に動けない。それより、あれからどれだけの時間が過ぎたのかが心配だった。
 闇の向こうで複数の含み笑いの気配が揺れる。
(……ウルクスのことを言っておるのなら、逆だよ。『将軍』。彼らが我らのやり方を真似ているだけだ)
(じゃから会食の最中に外出を許すなどという失態を演じる。くくく)
 ゼラニスは鼻を鳴らして腕を組んだ。
「どこが裏の世界の流儀の本家かなんて、興味はないな。……わかってんだろ? 俺がこの街に来た理由は」
(無論じゃよ。ウルクスやガルウィンのようなチンピラどもと一緒にしてもらっては困る)
(自分たちの縄張りを守ることにきゅうきゅうとしている連中とは違うわ。我々の情報網はアスラル全土に及ぶ)
(当然、各地のギルドにも我々の情報収集員が潜んでいる)
(新興都市のギルド連中は勘違いしているようだが、我々『本来のギルド』には縄張りなど存在しない)
(そうとも、我らこそアスラルを真に支配する者。教団も、シレニアスも、義勇軍も、全ては我らの手の内にある)
 男の声、女の声、高い声、低い声……一体何人がいるのか。
 だが、その言葉の中身はゼラニスに安堵を与えるものだった。
「では、ダグ=カークスの出した声明も、影響はないってこったな?」
 再び闇の彼方で、含み笑いの気配が揺れる。
(あれは、実に面白い男だ)
(教団にたった一人で喧嘩を売るとはのう)
(だが、我らに影響を与えるほどではない)
(いやいや、何者も我らに影響を与えることはできぬよ)
(そうよ……くく、たとえ教団であろうともね)
 ゼラニスは顔をしかめた。これまでの自分が知るギルドとはなにか違う。
 西部の諸都市に巣食うギルドにせよ、ウルクスのギルドにせよ、基本的に彼らは犯罪者の集まりだった。それを自覚していた。距離感さえ間違えなければ、お互いに利用し甲斐のある存在だと認め合っていた。
 だから、リアラに助力を求められたおりにも、気軽に請け負ってスラスギルドからウルクス以南のギルドに手を回してもらったのだ。案の定、ウルクスのギルドは西部のギルドと大差なかった。
 だが、中枢都市群のギルドは……スラスで接触した際には気づかなかったが、なにか腐った臭いが漂っている気がする。近寄ってはいけないなにかがあるような……。
 とはいえ、ともかく今は助力をあおがなければならない。
「あんた方の影響力の強さはわかった。なら、手を貸してもらえるな? アスラルの平和のために」
(断る)
(嫌じゃ)
「なに? ……どういうことだ?」
 てっきりその気があるとばかり思っていたゼラニスは、不穏な空気を感じて身構えた。
「ダグ=カークスの宣言など影響はないと今――」
(くっくっく……青いのぅ)
(青い青い)
(あの宣言なぞはどうでもよい)
(そもそもアスラルは、奴の存在ごときでどうにかなるものでもないしの)
「ウルクスのクアズラー卿とベイル女官長がその毒牙にかかってんだぞ。影響が出ない訳がない」
(メルガモでは聖騎士が七人、斬殺されたそうだ)
(ガルウィンでも教団幹部の司祭が一人、殺されている――ガルウィンの教団支部は必死で隠しているようだけれど)
 新たな犠牲者の報に、ゼラニスは唇を噛む。
「アスラルで信心の自由が保障されているにしても、実際に権力を掌握している教団幹部、特に司教や大司教は各地域の精神的支えだろう。それを失えば、人心荒廃は避けられねえ。オービッドギルドはそれを望むのか?」
(知ったことではないわ)
(若い、若いのぅ)
(くっくっく……我らをなんだと思うておるのやら)
(アスラルに住む仲間とでも思うておるのだろうよ)
(いやはや、甘い甘い)
 相変わらず含み笑いが暗黒の向こうで揺れている。
 ゼラニスは獲物を狙う猟犬のように、目を細めた。唸りを飲み込む口の中で、歯がかすかに軋る。
「……どういう意味だ」
(我ら中枢都市群のギルドは、チンピラ同様の田舎ギルドとは格が違うということよ)
(我ら、シレニアス大崩壊の前から存在しておった)
(否、シレニアス王朝の建つ前……アスラル大樹海に人が入り、町を作ったときより我らは存在しておる)
(たとえ教団が滅びようとも、我らは滅びぬ)
(その後にあなたが国を打ち立てたとしても、または王国連合がこの森を支配したとしても)
(我らを取り除くことは出来ぬ)
(そうとも。なぜなら我らこそがアスラルだからだ)
(我らにとって、シレニアスも教団も変わらぬ。どちらもアスラルという大樹に束の間身を寄せ、その樹液をすするカブトムシに過ぎぬ)
(カブトムシを殺す猛毒を持つ蜂が舞い込んだとて、大樹は揺るがぬものよ)
「……わかった、もういい」
 苛立たしげに手を一振りしたゼラニスは、しばらく言葉を探すように虚空に視線をさ迷わせた。
「とにかく、お前たちは奴の行動を止める気はない、ということだな?」
(そもそも、我らには奴を狩り出す理由がない)
(敵対しているわけでもないしな)
(『将軍』、君もそう肩肘張らずに気楽に行く末を見守ってはどうかね)
(そうそう。我ら闇の住人とは違い、表の住人のあなたならば)
(一国を建てるのも夢であろう? クククク……)
「……………………」
 ゆっくりと立ち上がったゼラニスの瞳が、ギラリと闇を引き裂く光を放つ。
「俺を『将軍』と呼ぶな」
 闇の向こうのさざめくような笑い声が、ぱたりと止んだ。
「たかだか一つ二つの大戦(おおいくさ)に勝ったぐらいで、何が『将軍』だ。その陰で何人の義勇兵が死んでいったか知っているか? 何人の未亡人、何人の遺児が生まれ、何人の家族が泣いたか知っているか? 俺が勝ったんじゃねえ。俺はただ、生き残っただけだ」
(……クク、それが最も大事なことよ)
(人は最後まで立っておった者を王者と認める)
 ゼラニスはその場に唾を吐き捨てた。
「『将軍』の次は『王者』か。下らねえ。俺たちは、唯一の存在による支配を脱して今のアスラルを創ったんだ。今さら20年前に針を戻すような真似は、絶対にしねえよ。それより、答えろ」
 闇の彼方に指を指す。
「なぜ俺をここに呼んだ? 奴と戦うつもりがないのなら、この会見に何の意味がある?」
(次のアスラルの支配者に会っておきたかったのよ)
(そして思い知らせるため)
(汝がいかに足掻こうと、手の届かぬ存在と世界がこの樹海にはあることを)
(支配する者は知る必要がある)
(おのが支配地域の光と闇の世界をな)
(あることを知りつつ、無視し続ける……それが支配者の責務。そして業)
「……俺は今のアスラルに満足している。国を建てる気はない」
(お前にその気はなくとも――)
「俺はアスラルの人々の安全と平穏を守る。それだけだ。それで十分だ。野望など………………邪魔したな」
(――人と時代がそれを望む)
(人々の希望と欲望の上に立つお前は、それを無視出来ない)
 首を横に振って、踵を返す。
(待て待て。せっかく御足労いただいたのだ。土産を持たせてやろう)
「あん?」
 ゼラニスの足が止まる。
(奴は既にオービッドへ入った)
(シグオスもオービッドに向かっておる。今宵、夜半過ぎには聖騎士団東方本部に到着するだろう)
(会って話を聞くといい)
(英雄と死神の邂逅に、将軍が絡むか)
(面白い見世物になりそうじゃて)
(ひひひひひ……)
 ゼラニスはもう一度唾を吐き捨て、声に背を向けて歩き出した。そちらの方に、必ずこの部屋を出る扉があると信じて。


 ゼラニスが去り、闇の中に椅子がぽつんと残された部屋に、声はまだ響いていた。
(さぁて、見物じゃわい)
(ルスターの切り札とやら、ルスターの手に果たして届くかの)
(大丈夫だわ。ダグ=カークスはあれに興味を持ってはいない)
(今宵両者が邂逅し、ダグが負け、シグオスが手に入れれば、教皇へ献上するだろう)
(ゼラニスが手に入れたとしても、あれはリアラ=ベイルの形見のようなもの。彼女の死に後ろめたさがあるゼラニスは、手に入れれば教皇へ届けるに違いないわ)
(例えダグが勝ち、クラスタが続けて保持することとなっても――)
(それはそれでいくらでも対策の立てようはある)
(さてはて、あれをルスターが手にしたとき、何が起こるのか……)
(はたまた何も起こらないのか……)
(ククク……騒動の元とは起こしてしまうのが一番よな。何が起きるかを知ってしまえば)
(対策はいくらでも立てられる)
(アスラルのためにならぬとなれば)
(闇に沈めるのみ)
(永劫光届かぬ闇に、な)
 闇の中に響く、含み笑い。
 やがてその声も闇の中へと溶けて消えていった。

 ―――――――― * * * ――――――――

 オービッドの夜は、ウルクスに比べるとかなり明るい。
 ウルクスに数倍する人口を抱える大都市だけあって、終夜営業の酒場や宿屋が軒を連ねる街通りがいくつかあり、街の中央に位置する『創世の光』教会の巨大な建物も、終夜門戸を開いて信者の悩みや相談、入信を受け付けている。
 また、不慮の事故で怪我を負った者の応急治療もまた、この教会の為すところであった。
 しかし、その夜は終日門戸を開けていたことが悲劇につながった。オービッドより東の全教区を束ねる東方教区大司教セリアス卿が、忍び込んだ賊に暗殺されたのだ。
 時刻は教会前の広場から見上げると、教会の鐘楼に満月がかかって見える夜半過ぎ。
 教皇には及ばぬものの、不思議な神の奇跡、癒しの御業(みわざ)を使える大司教は、その夜最後の患者を癒し終えて寝室に戻ったところを、背後から一刺しのもとに殺されたのである。
 しかし幸いなことに、その凶行はすぐに露見することとなった。大司教の習慣であった晩酌の酒を届けに来た中年の女官が、その現場を見てしまったのである。
 たちまち耳をつんざく悲鳴が教会中に轟き渡り、すわ何事、と駆けつけた教会常駐の聖騎士団員数名がその犯人を追った。


 暗殺者は鐘楼の壁面に追い詰められた。
 夜闇の中に溶け込む漆黒のマントを翻し、人の肩幅ほどもない張り出しを身軽に駆けるのは、片手にいまだ血の滴る剣を握ったダグ。だが、その足取りは時折ふらついている。
 やがて鐘楼の裏手に回り込んだダグを、聖騎士が両側から挟んだ。
「追い詰めたぞ、賊め! いったい何の故(ゆえ)があって大司教様を殺した!」
 短い槍を油断なく構えたその若い騎士に、ダグは不敵にも嗤いながら、追い詰められた者とはとても思えぬ落ち着きで相対した。
「故(ゆえ)などない。少なくともあの男にはな。だが、貴様らの上司に対してならば、ある」
 満月の明るすぎるほどの蒼光を浴びながら嗤う、黒づくめの男。その不気味な光景は、たちまちその騎士を恐怖に居竦ませた。
 ダグを恐れたのではない。足場もおぼつかぬ場所に追い詰められても、動じることもなく嗤える、異常な精神に怯えを抱いたのだ。
「ふ、ふふん。この足場では貴様も思うように剣を扱えまい。左手は何もない空中、もう逃げ場はない。さぁ観念しろ」
 しかし青年は小癪にも足元の深淵を覗き込み、ただふむ、と何かに納得しただけだった。
「何がふむ、だ」
「この狭い逃げ場にその短い槍、なかなかいい判断だ。だが、その鎧……あまり賢くはないな」
「なんだとお!」
 相手のわけの分からぬ落ち着きに苛つきを隠せない聖騎士は、じりっと一歩踏み出した。
 それが合図だったように、ダグの背後の騎士がダグ目掛けて槍を突き出した。
 満月の光を撒き散らす槍の穂先はしかし、空を切った。
 その場に居合わせた聖騎士は息を呑んだ。
 ダグは涼しい顔で宙に身を躍らせたのだ。まるでそこに床があるかのように横へ跳ねて。
 まさか自ら深淵へ身を踊らせるとは。
 だが、下を覗き込んだ者は、すぐに謀られたことを悟って、屈辱に顔を攣らせた。
 黒い暗殺者は、教会の屋根に着地していた。
 全ては計算の上だったのだ。
 鐘楼の表と違い、裏には教会の屋根がある。それでも人の背丈の五倍ほど、民家の三階の窓程度の高さから飛び降りねばならないが、うまく着地できる技術があるのなら、さほど危険な高さでもない。
 しかし、聖騎士達には後を追って飛び降りることはできない。重い金属の胴鎧は着地の衝撃を倍増させる。また、怪我なく無事に着地する自信もなかった。
 鐘楼の上で歯ぎしりする聖騎士の一団を置き去りに、黒衣の死神は屋根から屋根へ、満月夜のオービッドを跳梁(ちょうりょう)した。

 ―――――――― * * * ――――――――

 ギルドの構成員から目隠しをとられ、解放されたのは、あの教会前の広場だった。
 ち、と舌打ちを漏らす。
 周囲は既に夜闇の帳に覆われ、昼間とは別世界になっていた。
(失ったものは大きい)
 苛立たしげに周囲を見回す。
(奴は既に街へ入った。策は二つ。自警団か、聖騎士団か――)
 ふと視界の端を――建物の屋根の上を、何かがよぎった気がしてそちらを見やる。
 だが、そこにあるのは変わらぬ夜闇。
(気のせいか。……とにかく、自警団はギルドの息がかかってる。信用できん。ひとまずは聖騎士団だ)
 聖騎士団本部の場所を聞くべく、教会へと歩を進めるゼラニス。
 その目の前で、終夜開き続けているはずの教会の鉄格子門が内側から閉じられた。
「ちょ……おいおい、どういうこったっ!? 何があった!?」
 慌てて駆け寄り、教会の門の鉄格子をつかんで叫ぶゼラニスに、殺気立った聖騎士が槍の穂先を突きつける。
「うるさい。セリアス卿急病につき、今宵はこれまでだ。去れ」
「バカ言え! セリアス大司教がダメでも、他の司教がいるだろうが! 一人で東方教区本部に勤めているわけじゃあるめえ? 第一、なぜ門まで閉める必要が――」
「ダメだといえば、ダメだ。いい加減にしないと、賊として捕らえるぞ」
 ぴたりと槍の穂先が喉下を狙う。聖騎士の目が据わっている。
 唇を噛んだゼラニスは鉄格子を手離し、二、三歩後退った。
「……そういう、ことか。遅かった……いや、これもギルドの計算通りと――」
 答えが出る前に、門が開かれた。内側から胴鎧と槍で武装した鎧騎士の一団数名が、けたたましい音を立てながら走り出してくる。
 脇によって道をあけていたゼラニスは、何事かを頷くと、駆けてゆく鎧騎士団の後を追いかけて走り始めた。

 ―――――――― * * * ――――――――

 鐘楼を遥かに離れると、ダグは徐々に速度を落とした。
 追っては来られない、という判断からではない。顔を見られている。目的を果たした今、一刻も早くこの街を後にせねばならない。
 しかし――左の脇腹が痛む。一歩ごとにずきずきと。
 怪我を負わせたのはダグを見た女官だった。
 彼女の逃げ道を塞ぎ、口を封じようと迫った瞬間、あのやたらと太った中年の女官は、逃げるのではなくあろうことか酒瓶を逆手に握って、ダグを殴りつけたのである。あの大悲鳴をあげながら。信じがたい女傑だった。
 そして完全に予想外のカウンターを食ったダグが吹っ飛ばされ、ひるんだ隙に、女はたちまち階下へ逃げ去った。
 どうもその時に肋骨が二、三本折れたらしい。それが今のかなり無茶な飛び降りの衝撃で、悪化したようだ。
 苦悶に顔を歪めながら、それでも屋根から屋根へ跳び移っていたダグは、ついにバランスを崩して屋根から滑り落ちた。そんな時でも冷静に落ちる場所だけは選んでいた。
 ある屋敷の庭先、灌木の茂みの上にだった。
 夜中の大きな物音に、すぐ家人が出てきた。
「なぁに、今の物音……きゃっ」
 不安げな若い女の声を聞きながら、ダグは意識が遠のき始めていることを冷静に自覚していた。その間に何を伝えられるか、も。
「……ルッツ……、南の方の宿屋『禿げ鷹の女房』亭にいる……ルッツに……十四、五歳の栗毛……ダグが……倒れたと…………」
 そしてダグの意識は闇に落ちた。


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