蒼きバンダナのアレス Last Episode
〜Cross Fates〜【DUG/RUTZ】
夢少女 ルージュ
ウルクスからオービッドへは普通の馬の脚でさえ半日、ゆっくり行けば一日かかる。徒歩ではなおさらのこと、健脚な者でも一日に辿り着くことは難しい。
そのため、主街道沿いには手頃な位置に宿場が発達しており、ダグとルッツもオービッドまであと半日の距離にある、そういう宿場の一つに逗留することにした。
そして――ルッツは夢を見た。
―――――――― * * * ――――――――
今回は今までの夢とは少し趣きが違っていた。
いつもなら闇の中に一人ぽつんと座っている青い髪の少女が、金色の薄い繭のような光に包まれている。
それに、距離が近い。彼女の表情も、一糸まとわぬその肢体(からだ)の全ても、仔細に見て取ることができる。
妖精か女神のような汚れなき少女の肢体――どこもかしこもリアラに比べて幼いことは否定できない。けれど、そのことが逆にえもいわれぬ神々しさを引き立てているようにさえ感じられる。いやらしい気持ちなんて、これっぽっちも湧き上がってこない。
(ああ……よかった……)
ルッツの胸は高鳴った。彼女の姿は相応しく思えたからだ。自分が全てを捨てても守るべき存在として。そして、あの生家で死んだ冒険者が謎めかした『夢のお姫様』という表現にも。
冒険者になるという誓いを立てて家を飛び出したのも、ダグにボロクソにけなされながら、それでもこの旅を諦めようと思わなかったことも、きっと彼女の笑顔で報われるはずだ、と思えるほどに彼女は清らかで、美しかった。
光の繭に包まれた少女は、これまでと同じように横座りで両手を組み合わせて祈り続けている――ふと、その顔がこちらを向いた。
(……あ……気づいて……くれた?)
嬉しそうに微笑む少女。それは、可憐な花が咲き開いたかのような清らかさ、艶(あで)やかさだった。
「……かわいい……」
脳天までのぼせあがったあまり、思わず漏らした言葉に、少女は青い髪をわずかに揺らしてくす、と笑った。
『ありがとう』
「――え? ええっ!?」
まさかと思った。聞き違いか、とさえ。
今、彼女はありがとう、と言った。妙な残響がかかり、まるで薄い水の幕を通して聞こえてくるようだったが、確かに。まるで、蒸し暑い真夏の夕刻に吹いた一陣の風のように涼やかな声。
話ができることに驚き、そして少女の声に胸打たれていると、彼女から続けて話しかけてきた。
『あたしはルージュ。あなたは……だぁれ? バンダナの勇者様』
「ぼ、僕は……ルッツ。バンダナの勇者ってどういう意味? それに君はいったい……」
話しながらルッツは気づいた。少女の微笑みには陰がある。少し寂しげだ。
ルージュは脚を組み、両膝を抱きしめるように座りかえた。
『あたし、スラスのお城に囚われているの。そのバンダナはあたしと外の世界をつなぐ唯一の接点……ずっと昔から、それを手にした人達に助けを求めていたの……。ようやく意思を通じ合えるほど近くにまで来てくれたのね』
言われて、尻ポケットからバンダナを取り出してみる。
それはいつの間にか汚れも消え失せ、見たこともないほど澄んだ青色に光り輝いていた。強いて言うなら夏の青空――いや、すぐにもっと適当なものが見つかった。ルージュの髪の色そのものだ。そして彼女の長い髪も、まるでバンダナの輝きに呼応するように光り輝いている。その不思議な美しさには息を呑まずにはいられない。
ルッツは、しばらくその光景を陶然と見惚れていたが、やがて以前から気になっていたことを訊くことにした。
「いつも夢に出てくるのは、僕に助けを求めるため?」
ええ、そうよ、とルージュ。ルッツは続けて訊いた。
「どうして捕まっているの?」
途端に少女は悲しそうに眉をひそめてうなだれた。青い髪が彼女の心の波を映すように揺れ、明滅する。
『……ルスターという人が、あたしの力を封じ込めるために、この結界の中にあたしごと閉じ込めたの。ほら、この金色の光……』
ルージュは足元の薄膜を指先でなでた。たちまちその表面に広がる波紋。
『そして、外界との接触を断たれたあたしが、唯一他の人と接点を持てるのがこの夢の世界なの……。だからお願い、ルッツ君』
正座に脚を組換え、身を乗り出して胸の前で祈るように手を組む――
『あたしをここから解放して。こんなところに独りでいるなんて、もういやなの……あたしを自由にして。お願い』
ルージュの青い瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。その月夜の夜露にも似た輝きは、混じりっけのない透明な宝石のようにきらめきながら落ちて、少女の白い太腿を濡らす。
『……お願い……』
繰り返す少女の涙声は、降り初めの雨を受けて同時にいくつもの波紋を広げる水面のように、いくつもの残響がこだまし合って、まるで荘厳な交響曲か讃美歌でも聞いているみたいだった。
心はとうの昔に決まっていた。
「わかったよ。必ず助けてみせる。――それで、どうすれば君は自由になれるの?」
その時のルージュの満面の笑顔は、まさに咲き開く大輪の花弁。言ってよかったとルッツは心の底から思った。
『ほんと!? ほんとに!? ありがとうルッツ君!』
さらに身を乗り出し、光の繭に張りつくほど近づこうとする。その白い肢体の全てが余すところなく曝され、結界の表面にいくつもの波紋が続け様に広がってゆく――あまりに堂々とさらされた裸体に、ルッツの方が気を使って少し視線を逸らした。
ルージュはそんなルッツの気恥ずかしさには気づくこともなく、それ以上前に進めないことをもどかしげに結界を叩いていた。
『んもう。ルッツ君に抱きついてあげたいのに――とにかく、あたしのところまで来て、ルッツ君。そのバンダナにはあたしの力が流れ込んでいるの。それを結界の外から押し当ててくれたら、あとはあたしの力で何とかできると思うの』
「君の力って……?」
ルージュは困ったように顔をしかめた。
『説明するのは難しいんだけど……ルスターおじ様は、破壊神の力だって言ってたわ。でもあたし、そんな悪い神様信じていないもの。おじ様の見込み違いよ』
そうだろうな、とルッツも納得した。ルージュほど神秘的で優しげな少女が、そんな悪い神様の使いであるはずがない。
ルッツも身を乗り出していた。
「君はお城のどこにいるの?」
『玉座の裏のカーテンの向こうに秘密の扉があるの。その中よ。……お願いよ、ルッツ君。あたしにはあなただけが頼りなの。待ってるから、必ず、必ず来てね。それと、気をつけて。おじ様もそのバンダナを狙っているはずだから。そのバンダナを使って何かする気らしいの』
「そうなの?」
そのルスターって奴、自分でルージュを封じておいたくせに、そいつの方がまるっきり破壊神の信者みたいじゃないか、などと思いながらルッツはバンダナを尻ポケットに戻した。
「わかった、気をつけるよ。必ず君のところへ行くからね」
天使の微笑みを浮かべたルージュの姿が、次第にぼやけ始める。しかし、話すべきことを話したルッツには、もはや別れの焦りはなかった。
『それじゃルッツ、おやすみなさい。今日のところはもうあたしは出ないから、ゆっくり休んでね』
出てくれてもいいのにな、まだまだ話したいことは山ほどあるんだから、とぼんやり思いつつ、ルッツは闇の中へ落ちていった。
―――――――― * * * ――――――――
「……懲りてないとみえるな、お前は」
翌朝、オービッドへの途上で、道すがらに昨夜の夢の話を聞いたダグの第一声。
「昨日の今日でリアラの次はルージュだと? お前の気の多さにも困ったものだ。そんなことでは先が思いやられる。……案外、お前は旅や戦闘よりも、そちらの方で苦労するかもしれんな」
ぼやくダグはいつもの如く無表情。いや、よく見ればわずかにだが、困ったものだという言葉通りに眉根が寄っているようにも見える。彼の顔の上に落ちている、街道の上を覆う緑の天蓋の影がそう見せるのだろうか。
「だけど、ルージュとリアラは違うよ」
ルッツは直ちに反撃に転じた。もう、昨日の自分とは違う。守るべき者、なすべきことが見つかったのだから。
「リアラは僕を騙してバンダナを盗むために近づいてきたけど、ルージュは助けを求めてるんだ。バンダナを持ってる僕にしか助けを求められないのに、嘘をつくわけないじゃないか」
「逆だ」
とことん呆れたように、ダグは語尾を強めて吐き捨てた。
「お前にしか助けを求められないから、嘘も巧妙になる。その話の全てが嘘だとは言わん。だが、嘘というものは、九分通りの真実の中に混ぜられてこそ真価を発揮する。特に相手の思惑や真意は最も巧妙に隠される。そこのところをよく考えることだ。――ところで。お前……本気で気づいていないのか?」
理屈では勝てそうにもないので、膨れっ面で抗議の意を示していたルッツは、ダグの妙な質問に怪訝な顔つきをした。
「何が? ルージュの話で何かおかしなところでもあった?」
「そうじゃない。ルージュとルスターと言えば、破壊の巫女と『創世の光』教団の教皇の名前だろうが」
「……え? うそ」
呆気にとられて立ち止まる少年に、ダグは小さくため息を漏らして振り返った。
「それに、お前達が悪い神と決め付けた破壊神も、教団の崇拝する神だ。……なんでアスラルの外から来た俺が知っているのに、お前が知らんのだ」
「だって、みんな破壊の巫女は巫女様、教皇様は教皇様とか猊下って呼んでたもの。名前なんて畏れ多くて……神様も、神様としか聞いてなかったし……」
「それにしたってスラスの城に幽閉されているという時点で、教団との関わりを疑うだろう。普通は」
「そっかー……そうだよね。スラス城に囚われているんなら、そうだよね。そうか、そうだったのか。じゃあ、敵が増えたわけじゃないんだ」
教団以外の敵が増えたと内心密かに焦っていたルッツは、少し胸を撫で下ろした。
つまり、聖騎士団がアレスのバンダナを探しているのは、それがアスラルでの禁制品だからだとか、叛逆者アレスの象徴だからではなく、教皇様がルージュにかかわる物として探させていたからなのだ。
再び歩き始める二人。
その時、ふとルッツは顔をしかめた。
「あれ? じゃあ……ルージュは本当に破壊神の力を授かった巫女ってことなの? え? あれ? でも、だって……」
「綻びが出てきたな」
それみたことか、と言わんばかりのダグに、ルッツは不満げな顔を向けた。
「自らに力を授けた神を悪い神、教皇をおじ様呼ばわりし、そして恐らくはこれまでのバンダナの所有者の中でも、最も頼りなさそうなお前を勇者と呼ぶ……いかにも、何か企んでいそうだな」
「違うよっ!!」
ルッツは自分でも驚くほどの声で叫んでいた。ダグも意表を突かれたのか、少し驚いている。
「彼女はそんな子じゃない! あんな……あんな可愛くて、清楚で……長い間あんなところに閉じ込められているかわいそうな女の子が、人を騙したりなんてしないっ! きっと、何かが間違ってるんだよ!」
「何かって、なんだ」
振り向きもせず訊き返すダグの声には、明らかに小馬鹿にしたような喜色が混じっている。
「えーと、ちょっと待って。今考えるから……たとえば………………ん〜と……教皇様が勘違いしてるとか。破壊の巫女の話自体が実は作り話で、教皇様はあの子の力を利用したかっただけで――」
「つまり、教皇は悪党なんだな?」
「え? そんなはずないよ、教皇様って、とっても優しい人で――あれ?」
思索の袋小路に入り込んで、うんうん唸りながら考え込む。
「教皇様も誰かに操られてるとか……」
「誰にだ」
「悪い人」
「それを誰だと聞いているんだ」
「………………わかんない」
「話にならんな」
「でもでも、絶対ルージュは――」
「もういい。これ以上は無駄だ」
ダグは自分から足を止め、深く大きなため息を吐いた。
「ルッツ、もっと慎重になれ。失敗から学べ。面(つら)のキレイな者が全て善人だなどという思い込みは、今ここで捨てろ。何事につけ、見た目だけで判断するな。決断を下すのは最後でいい」
「でも……」
ルージュは違うんだってば、と言いかけて口をつぐんだ。ダグの眼差しに気押されたのもあるが、もう一度リアラの件から何も学んでいない、と言われるのが嫌だった。それに今ダグに指摘されたように、ルージュのことについて何の検討もしていないことも確かだ。
(……僕は……どうしたらいいんだろ……)
彼女を無条件に信じたい、という思いと、ダグの言う通り気をつけた方が、という思いの狭間で懊悩する。
その心を読んだように、ダグは続けた。
「昨日も言った通り、敵は必ずそういう心の隙を突いてくる。常に何事をも疑う姿勢を持て。相手を信じるなとは言わないが、信じたいのならなおのこと疑え」
「……なにそれ」
信じたいなら疑え――意味がわからない。正反対ではないか。右へ行きたい時に左へ行く人はいない。疑ったら、その時点で信じてないことになる。どう考えても、矛盾している。
その疑問を再び歩き始めたダグにそのままぶつけた。昨日からダグは妙に多弁だ。答えてくれそうな気がした。
「疑うことと信じることは、右と左のような正反対ではない」
案の定、即座に答えは返ってきた――が、ますますわからない答えだった。
「どうして? だって――」
「"疑う"の反対は"疑わない"だ。だが、"疑わない"のは"信じる"こととは違う。考えることもせず、ただ鵜呑みにすることを言う。そして、"信じる"の反対は"信じない"だ。疑いもしない。ただ頭から"信じない"。それだけだ。共に、思考を停止した状態にある点では共通する」
「……え? ええ?」
シコウヲテイシ? ……やっぱりわからない。
「まあいい。別にそれは大事なことではない」
説明する努力を放棄したその一言に、自分なりに解読しようとしていたルッツは慌てた。
「そんな……でも、あの」
「今のお前に必要なのは、信じる信じない疑う疑わないの区別ではない。人は"理"で動くという考え方だ。まず、それを理解しろ。そこからだ」
「"リ"? ……って、利益? 要するに損得勘定でってこと?」
「違う。理由の理だ。その他にもことわり、規範、ルール、道、基準、論理、信条、信念、よすが、志向――呼び方はそれぞれだが、ともかく人が何かを判断し、行動する際の基(もとひ)となり、方向を定めるものだ。損得も理、情も理だ。理に従って嘘もつくし、裏切りもする。そして、お前が好きな命懸けの行動も、そいつなりの理に基づいたものだ」
「ええと……つまり、人の行動や考え方には全部、理由があるってこと?」
「そうだ」
初めて頷かれた気がして、ルッツは破顔した。
ダグもまたようやく話が通じたことを喜ぶように、わずかに唇の端を持ち上げた。
「そいつの言葉、そいつの行動、そいつの考え方……どこに本当の理があるのか常に疑え。状況によって理は変化することもある。だが、相手の理がわかれば、信用すべきか信頼すべきか、それとも関わるべきでないかを判断できるようになる。今のお前のように見るもの聞くもの、その全てを疑いもせず受け入れてしまっていては、真実は見えない。いくら命があっても足りんぞ」
「……それが……信じたいなら疑えっていうことの意味なの?」
ダグは前方を向いたまま頷いた。
「人間関係など騙し合いだ。お互いの邪気のない勘違いも含めてな。どれだけ気をつけても、騙される時には騙される。相手がその嘘やまやかしに命を懸けて臨んでいれば、それを看破することも格段に難しくなる。それでも、疑いを忘れなければその被害は軽減できる。胸を刺されるところを腕で済んだり、物は盗られても命だけは助かるかもしれない」
なるほど。ルッツは心の中で頷いた。確かに、そうかもしれない。疑っても疑っても明白なものは、多分信じられるものなのだろう。わからないことには気をつけた方がいいのだろう。さもないと……一昨日の夜のような……夜……リアラと過ごした夜……。
思わず頬が緩みかけて、ルッツは激しく頭を振った。
(違う違う。危うく僕はバンダナを盗られるところだったんだし、ダグさんが言った通り刺し殺されてたかもしれないんだ。僕がもっと疑い深くなって気をつけていれば、リアラだってあんなことにはならなかったかもしれない。ダグさんが帰ってくる前に、彼女にバンダナを――いやいやいや! 渡してどうするんだ、僕はっ! ……って言うか、そもそも疑い深くなるって言葉が嫌だよなぁ。感じ悪いし……)
ダグの半歩先を歩きながら、首を振ったり頭を抱えたり、溜め息をついたり。
やがて、ルッツは妙に疲れた眼差しをダグに向けた。
「ダグ、さん……相手を疑いの目で見るのって、なんだかやだ。楽しくないし、寂しいよ」
「……進んだようで、進まんな」
また足を止めたダグが、溜め息と共にボソリと漏らす。
ルッツは焦った。これで話は打ち切りなのか。欲しい答も得られずに――と思っていたら、ダグはすぐに続けた。
「ルッツ。おのれの身一つ守る備えのできてない者を、お前は無条件で頼るか? きょろきょろと視線が始終動いているような奴の言葉を、どこまで信じる? 生家の宿屋で、お前は客の応対もしていたそうだな? その時、明らかに怪しいと思った客はいなかったか?」
「…………いた……」
いた、というより極道宿屋とも知らずに泊まりに来た可哀想な客以外で、生家に泊まるのは明らかにやばそうな雰囲気をもった連中が多かった。お天道様の下を大手を振っては歩けないような連中。実際にそうだったのかどうか、確かめたことなどないが。
それは……指摘されてみれば、確かに一方的で、端から疑ってかかってる判断だったかもしれない。
「つまり、お前が嫌だと言っても、お前は常に無意識でそういう判断を下している。それを意識的にしろ、と言っているのだ。していないこと、出来ないことをやれ、とまでは言っていない」
「………………なんか……器の小さい、やな人間って言われている気がするんだけど」
「気にしすぎだ。誰でもしていることだし、十四歳の器など初めからたかが知れている」
「そう、だよね……」
気弱にはにかむルッツを置いて、ダグは歩き始めた。ルッツも考え込みながらついて行く。
ダグとの今の一連のやり取りを、もう一度頭から反芻していたルッツは、ふとあることが気になった。
自分は、この前を歩いている黒づくめの青年を疑っているのか。信じているのか。
(疑うって……なにを疑えばいいんだろう。疑うことなんてないと思うけど……ダグさんはダグさんで……僕は脅されてついて行ってるだけで……)
逆はどうだろう。ダグにとって自分はやはり疑いの対象なのだろうか。
「ねえ、ダグ……さん」
場の勢いに任せて、訊くことにした。あれこれ悩んでも、いつもダグはその斜め上を行っている。悩むだけ無駄だ。
「ダグさんは僕を疑ってるの? 僕のなにを?」
「いや。特に疑っていない」
振り返りもせずに返された回答に、ルッツは顔をしかめた。言ってることがコロコロ変わっている。
これはひょっとして俺の言葉も簡単に信用するな、まず疑ってかかれ、というメッセージか何かが隠された行動なのだろうか。
頭から煙を噴きそうな顔で首をひねっていると、その気配を感じたのかダグはちらりとルッツを見やった。
「疑わねばならんほど頭が回るわけでも、何かが出来るわけでもあるまい。お前の理は既につかんだ。お前が何をしようと、全て予想の範囲内だ。例えそのバンダナを聖騎士に渡して俺を売ったとしても、その程度のことは想定済みだし、対応できる」
(ああ……そういうことか……)
ルッツは渋い物を食べてしまったかのように、がっくり肩を落とした。つまり、疑われてないというより、そもそも相手にされてないのだ。
「じゃあ、信じられてもいないんだ……」
「いや」
またも否定。ルッツは頬を膨らませた。あーもううんざりだ。この青年は、いちいち人の意図を否定しなければ気が済ま――否定? いや待てよ。信じていないの否定は……信じてる?
たちまちルッツは顔を上げた。ダグの続く言葉を待つ。
「――信用はしている。道案内については、信頼もしている」
横から見上げるダグの頬に貼りついた、挑戦的な笑み。
ああ、と胸の内でルッツは溜め息をつく。やっぱりここでも試されている。でも……その答がわからない。
「信用と信頼って……?」
「端的に言えば、相手を受け入れるのが信用、まかせるのが信頼だな」
「……え〜と……」
端的過ぎてやっぱりわからない。
「いずれわかる。何度も裏切られ、利用されているうちにな」
説明する努力を放棄したその一言に、ルッツは慌てた。
「ええ? そんな……でも、あの」
「今ここで聞いた意味など、十日もすれば頭から消える。それより、お前が肌で感じた方が身になる」
そう言われてしまえば、ルッツにはもう異議を唱えることは出来ない。唇を突き出して不満を表現するしか。
不満ついでに、皮肉ってみた。
「……何だか、口数が多いね。昨日今日と」
何だか煙に巻かれて言いくるめられたような気がして憤然としない少年の、ささやかな反撃のつもりだった。
しかし青年はなぜか足を止め、仮面のような無表情のままルッツの方を見下ろした。
「これは、対価だ」
「はぁ?」
またも訳のわからぬことを言い出した、とルッツはげんなりした。もう、これ以上ややこしいことは考えたくない。
「わかった、もういいよ。別に文句が言いたかったわけじゃないから」
吐き捨てるように言い置くと、ルッツは先に歩き出した。
無表情のまま――否、わずかに眉間を寄せたダグを置き去りに。
ルッツは最後まで気づいていなかった。
スラスのルージュを救い出す、という話題に対し、ダグはスラスに向かうとも向かわないとも言わなかったことに。
―――――――― * * * ――――――――
ダグとルッツがまだ街道を歩いている頃、ゼラニスは一足先にオービッドへ到着していた。
日はまだ高い。のんびりしていたわけでもないのだが、結局この時刻になってしまった。つくづく、普段乗り慣れない馬に乗り、行き慣れない道を行くのは時間を食う。
ともあれ、ダグに半日ほど先んじているのは間違いない。
中枢都市群東の要オービッド。
周縁を家よりも高く、分厚い城壁に守られた古き巨大城塞都市。
その壁こそが、かつてシレニアス王家発祥の折り、森に潜む怪異や森の外部からの侵入を拒み続けて人々を守り続けた盾であり、この森に人が入った当時の困難を忍ばせる、物言わぬ歴史の語り部である。
その内部に広がる人々の生活は、古きシレニアス時代の名残をそこここにいまだ残している。1000年かけて造られた都市は、20年ごときの変革の波では全く揺るぎもしていない。
古いレンガ造りの集合住宅が通りの両側に並び、向かいから向かいへ渡された縄だかロープだかに洗濯物が鈴なりになり、子供が水溜りを跳ねて走り回り、その横を馬車が轟音を上げて通り過ぎる。
大通りへ進めば、整備された石畳が独特の光沢を放っている。永年に渡る人々の行き来の間にすり減り、磨かれた独特の色つやは、人の手では決して得られない、悠久の歴史だけが作り出せるまさに時間の創作物。
左右に立ち並ぶ店は、生活必需品や食料品から嗜好品、服飾、食事処に酒処、物書きの店から銀行、その他小物屋まで諸々雑多。この街の人口の多さと、そこに住む人々の豊かさを象徴しているように思われる。
ゼラニスは馬上から町並みを眺めながら、大したもんだとひとりごちた。
ウルクスへ向かう際にはさほど気にも留めなかったが、こうして城壁の外から戻ってくるとなぜか安堵に似たような感慨を抱いてしまう。
オービッドだけではない。北のスラス、西のユーノン、南のヨマンデ、そして中央のハイデロア。昔、それぞれを一度は訪れてみたことがあるが、いずこでも同じような感慨が胸をよぎった。
おそらくは中枢都市群に共通する雰囲気のようなものに郷愁を感じる何かが、アスラルの人間の魂には染み込んでいるのかもしれない。それが千年の歴史を持つ都市の懐の深さというべきものなのか、その他の何かなのか、ゼラニスにはわからなかったが。
(さぁて……ここで迎え撃つとなると……)
都心の広場に着いたゼラニスは、馬上から辺りをぐるりと見回した。
周囲は石畳で舗装され、数多くの人々が行き交っている。ただそのわりに出店は少ない。広場をぐるりと囲む集合住宅の一階で開いている店が多いことを考えると、組合か何かが規制しているのかもしれない。
北側正面には大きな教会がある。他の集合住宅の7階建てに相当するほどの高さの鐘楼を中央に備え、ステンドグラスの美しい輝きが太陽の光を弾いている。
かつて樹帝教の権勢の象徴だったその建物は今、『創世の光』の東方教区総本部教会として大いに賑わっている。多くの信者と見られる人々が、見ている間にも幾人となくその大きな門をくぐって中に姿を消していた。
(ふむ……街に入られると厄介だな。人が多すぎる。やはりここは定石通り、水際作戦しかねぇな。となると、自警団と聖騎士団に事情を話して――)
だが、ゼラニスは大きくため息をついて、肩を落とした。
問題が一つある。ここでは、自分が『森の守護者』エキセキル方面部隊指揮官のレンディル=ゼラニスであると証明できる人間がいない。西部ならそれなりに顔が利くのだが。
スラスでギルドに渡りをつけたときは、リアラが保証人になってくれた。ウルクスではスラスギルドの保証があったし、合言葉を交わして確認し合った。
しかし、今の自分には何もない。自警団や聖騎士団に申し出ても果たして信用してくれるかどうか。
自分なら、信用しない。
(せめて、顔馴染みのシグオスがいりゃあな。一か八か、聖騎士団詰め所に乗り込むか? それともダグ=カークスの顔だけでも拝めるように、どこかの門で張り込むか?)
考え続けるゼラニスを、じりじりと日の光が頭上から照りつける。
やがて、その頭が左右に振られた。
(ダメだ。俺だけが奴の顔を確認しても意味はねえ。やはりここはダメもとで聖騎士団に事情を話して――)
ふと、周囲に気配を感じて我に返る。見れば、胸当てに槍を携えた若者が数人、包囲していた。
「…………?」
怪訝そうに眉をしかめていると、一人が近寄ってきた。残りの五人ほどは槍の穂先こそ向けはしないが、妙に威圧的に睨んでいる。
「おい。この広場は、馬に乗ったままの進入は御法度だ。すぐに降りろ」
ゼラニスより二回りほども下の若者に偉そうに言われ、少し頭に来たが黙って鞍から降りる。
申し開きをしようとするより早く、若者は続けた。
「我々はオービッド自警団だ。……ったく、オービッドの法を知らないとは、どこの田舎もんだ。だいたい、この鞍。これは早馬用のやつだろう。何でお前が早馬に乗っている?」
鞍をこんこんとノックするその表情は、明らかに疑心の色が浮かんでいる。
馬泥棒の疑いを感じて、ゼラニスは愛想笑いを浮かべつつ、両手を胸の前に差し上げた。
「待て待て。知らなかったとはいえ、広場に馬で入ったのは悪かった。謝る。申し訳なかった。今度から気をつける。馬はウルクスから乗ってきたものだ。ともかく、お前さんの言ったとおりの田舎ものでね。ここまで来たはいいが、どこに馬を届ければいいのか、わからなくて困っていたんだ。もし、案内してもらえるなら、助かる」
「……『将軍』ゼラニスともあろうものが、迷子とはねぇ」
「え?」
若者がにんまり笑い、周囲の仲間が声を上げて笑う――その異様な雰囲気に呑まれた刹那、ゼラニスは首筋に衝撃を感じて昏倒した。