蒼きバンダナのアレス Last Episode
〜Cross Fates〜【DUG/RUTZ】
死のあとさき
翌朝、宿屋『リスの尻尾』は早くから野次馬に囲まれていた。
そのほとんどが、未明から自警団が出入りする騒ぎを不審に思って、興味本位に集まった近所の人々だった。
少年をたぶらかし、その財布を盗もうとした"枕探し"だと聞いて、眉をひそめる中年女たち。
死んだ"枕探し"は凄い美人だった、もったいないことだと囁き合うオヤジたち。
人が死んだということで、ただただ冥福の祈りを捧げる老婆。
何だかよくわからないけど、集まってきた子供達。
やがて、"枕探し"の遺体が麻布で覆い隠され、自警団に担架で運び出されてゆく。
野次馬はざわつきながら二手に分かれて、その一隊を通す道を作った。
ルッツは野次馬の中に紛れ込み、変わり果てたリアラを見送っていた。その隣では、ダグがいつもの飄々とした無表情を保っている。
もう涙は流しつくした。今その胸に去来しているのは、途方もない喪失感だけだ。
二人に対する事情聴取も現場検証も、夜明け前に呆気ないほど簡単に終わっていた。
というか、実質聴取を受けたのはダグだけで、ルッツは挨拶程度にしか会話を交わしていない。ただ、ダグに話を聞いている自警団の男の人が、妙にそわそわしていたことをだけ覚えている。扉越しにわずかに聞こえたのは、話は聞いている、とかこれ以上の騒ぎはごめんだとかどうとか……つくづく、よくわからない事情聴取だった。
だから今、並んで人込みに立つ二人をこの事件の関係者として注目している者は、この場にはいない。ただ、ダグの異装が少しばかり人目を引いてはいるようだが。
遺体の搬送を見つめるルッツの胸中は、複雑な思いに揺れていた。
遺体を覆う麻布からこぼれ出た、ほの白い腕――あの手が、触れたのだ。この手に、顔に、身体に……。
脳裏には昨夜のリアラとのやり取り、そして艶かしい絡み合いの残影が、閃光のように浮かんでは消えてゆく。まだ身体のあちこちに、彼女の肌のぬくもりさえ残っているような気がした。
(昨日のことは……全部夢だったんだ)
そう思わなければ、やりきれなかった。
彼女が『創世の光』の回し者だなどと信じたくはなかった。だが、自分の持つ『アレスのバンダナ』を奪うという目的以外に、彼女が自分に接触してきた理由は見出せなかった。
自分はあんな魅力的な女性から、下心もなしに抱きしめてもらえるほどいい男ではない。そんなことはよくわかっている。ルートヴィッヒ=クラスタという少年は、ガキっぽくて、ひがみっぽくて、卑屈で憶病な小心者で、腰に帯びた小剣一つまともに扱えない、無能で無力な存在なのだ。
昨日のことが全て夢なら、まだ諦めがつく。しょせん自分はまだ、ダグの庇護がなければ布切れ一枚守り切れないお子様なのだから。
「ルッツ……よく見ておけ。人の命など儚いものだ」
不意に聞こえてきた独り言のような呟きに、ルッツは傍らの黒づくめの青年を怪訝そうに見上げた。
彼はルッツを見てはいなかった。運ばれて行く担架を、いつもの感情のうつろわぬ瞳でただ見送っている。
「どんな権勢を誇る者でも、いつかは老いて死に至る。そうでなくとも、命など鋼の一打ちで失われてしまうほど脆いものだ」
辺りをはばかっているのか、低く静かな声。
ルッツはダグから顔を背けてうつむき、唇を噛み締めた。自分で殺しておいて何の言い草か、と胸の内で毒づくしかできない自分が情けない。いっそ耳を塞いでしまおうか、とも考えながら――しかし、その唇から出たのは気弱な声だった。
「もう、いいよ……。全部夢だったんだ。そう思うから……」
「そうではない。これが現実だ」
「どうしてそんなこと言うのさ!」
こちらの気持ちなど一切斟酌しないその口ぶりに、さすがにむっとしてルッツは声を荒げた。ダグを睨みつける。
「僕は、僕は……忘れようと……全部、忘れようとしてるのに……」
「忘れる? ……バカが」
じろりとルッツを見下ろす顔に、明らかな侮蔑の色が浮かんでいた。
「いつまで寝ぼけているつもりだ。これが現実だ。世は悪意と欺瞞に満ち、常にお前を謀(たばか)ろうとしている。純真も、素直も、正直もここでは何の足しにもなりはしない。もう一度言うぞ――よく見ておけ。あれが、明日のお前の姿だ」
ルッツはぎょっとして、思わず道の向こうに消えて行く担架を見やった。
「明日の……って」
「まだわかってないのか。自分の置かれている現状を」
つくづく呆れたように、ダグは溜め息を吐いた。
「剣の使い方一つ知らぬガキからバンダナ一枚奪うのに、わざわざ枕を共にする必要がどこにある。殺して奪えばそれで済む話だ。今回お前が殺されなかったのは、あの女の、おそらくはただの気まぐれ。そして、そのせいで俺に殺される羽目になった。あの女……リアラ=ベイルと言ったか? 応対に出た瞬間にでもお前を刺し殺しておけば、俺と出会うこともなく、そのバンダナを教皇に届けられていただろうにな。気まぐれ一つであのざまだ」
「あ……ああ……」
ルッツは全身から血の気が引く感覚を味わった。
そうだ。確かにそうなっていても、おかしくなかったのだ。そして、さらに気づいた。
彼女が来たということはつまり、どんな方法でかはわからないが、教団は既に把握しているのだ。アレスのバンダナを誰が持っていて、その者がどこにいるのかを。
ショックで顔面蒼白になっているルッツに、ダグの追い討ちがかかる。
「次に来る奴には、もはやあんな間抜けな真似は期待できん。確実に、お前は殺される」
急に息が苦しくなった気がした。まさに死神の宣告。逃れようのない鎌の冷気――死の気配を首筋に感じた。
愕然として声もない少年を置き去りに、ダグは踵を返した。ウルクスの北門に向かって歩き始める。
周囲の人込みも、担架が消え、自警団も消えたことで三々五々散らばっていた。
大通り沿いの裏道を選んだダグの後ろを、ルッツは夢遊病者のような足取りでよたよたと追った。
「……僕……殺されるの……? まだ……まだ、何にもしてないのに……」
自分の声が震えているのが遠くに聞こえていた。目眩(めまい)がする。地面が揺れているみたいだ。
アスラルを支配し、統治していると言ってもいい『創世の光』教団。それが、自分の命を狙っている。まるで、世界から自分だけがつまはじきにされたよう。誰も守ってくれない。怖くて泣きそうなのに、涙も出てこない。リアラの死に様、メルガモの聖騎士団の死に様が頭の中で何度も瞬く。
「死にたくなければ、抗え」
不意に漆黒の背中が立ち止まり、ゆっくり振り返った――全てを吸い込むような闇の瞳に見据えられる。
ダグはルッツの怯えた眼差しを真正面から受け止め、静かに告げた。
「死は絶対だ。全ての終わりだ。それを迎えてしまえば、後には何もない。お前が何か成したいのなら、おのが命を守りたいのなら、あらゆるものを利用しろ。物も、人も、状況も、全部だ」
「あ……と、うん……」
微妙な表現に頷いていいものかどうか迷っていると、ダグは続けた。
「特に今回のお前のように、他者に打算もなく好意を寄せるなどもっての他だ。好意を寄せれば、寄せた対象がおのれの弱点となり、いずれそいつと自分の命を天秤に掛ける羽目になる」
ルッツは顔をしかめた。言葉通りに受け取って頭に浮かぶのは、英雄譚の主人公。大事な人を人質に取られ、悪党にひざまずくよう要求されている場面。
しかし、リアラのことを頭に置いて考えれば……人の好意を逆手に取る悪党のことのようにも受け取れる。
「え……と、その人が捕まって、人質にされるってこと……? それとも、裏切られるかも、ってこと……?」
「どちらでも同じことだ。相手のせいで自分の命が危険にさらされることに変わりはない。いちいち分けて考える意味などない」
「でも、人質だったら助けないと……」
「斬り捨ててしまえ、そんな役立たずは。お前の手で」
「……え? え?」
見捨てろという意味ではなく、本当に自分の手で始末しろと言われているのだ、と気づいてルッツは困惑した。
「自分の命をくれてやるくらいなら、相手の命を奪う方が遥かにましだ。おのれの手で殺してやれば、見捨てたというよりは自責の念も軽くて済む」
ルッツはあんぐり空けた口が塞がらなかった。
自分が好きになった相手を、自分の手で始末しろ? そちらの方が見捨てるより気が楽? ……いったい、それはどこの悪党の言葉だろう。確か、生家でさんざん読み倒した英雄譚や物語に出てきた悪党でも、そこまで道を外れたことは言わなかったはず。
「いずれにせよ、相手に好意を寄せた時点で、お前は半分死界に足を踏み込んでいることになる。俺が言いたいのはそこだ。人を好きになりたいのなら、そいつの人柄ではなく、能力を見ることだ」
再び放たれる、ルッツの価値観とは真逆の言葉。
「……えーと……普通、逆じゃないの?」
「人柄などいくらでも繕える。でなければ、詐欺師など世に蔓延(はびこ)らん。だが、能力はそうはいかん。出来ることは隠せても、出来ないことは隠せない。どんな奴かは関係ない。何が出来る奴かを見て、その能力を把握しろ。そして、その能力を自分のために使わせろ。それが――」
すうっとダグの眼が細まった。
「それが、弱者の生きる術だ」
細めた目が、お前は弱者だと告げている。お前など、虫ケラ同然だと。
ルッツはダグの瞳から目を逸らした。そうしなければ、泣いてしまいそうだった。ルートヴィッヒ=クラスタという存在が無力だと自覚はしていても、それを他人から突きつけられるのは、胸をえぐられるように辛い。
自然と首が揺れた。左右に。何度も。
ダグの言っていることは理屈としてはわかる。だが、そんなのは納得できないし、自分ができるとも思えない。
百歩譲って、今の自分には力のある者を利用して生き残ることが必要だとしても、それと人を好きになることとは別の問題ではないのか。人に好意を寄せるのは――人を好きになるということは、打算がないからこそ美しく、楽しいのではないのか。第一、打算に満ちた好意など、本当の好意ではないはずだ。
「そんなの……寂しすぎるよ」
「なに?」
ルッツの呟きに、歩きながらダグはちらりと振り返った。その表情が曇っている。言葉の意味を理解できぬ風に。
「だって……誰かを好きになるのは、自然なことだもの。ダグさんは呼吸を止めて生きられる? それと同じはずだよ。誰も好きにならないで生きていくなんて、出来ないよ。それに、好きになったら命を懸けてでもその人を守りたいとか、信じたいと思うのも普通のことのはずだよ」
ほう、とダグはなぜか感心したような声を上げた。
変な笑み顔で凝視されて、ルッツは困惑した。
「え……? なに?」
「いや。やはり泥棒と枕を共にした男は、言うことが違うな」
「え? ええ? えっとぉ……」
皮肉られているにしては穏やかな表情に、思わず曖昧にはにかむ。
ダグはにんまり笑い返して――吐き捨てた。
「頭の悪さはミミズ以下だな。好きな人を守るために命を懸ける? そんな行為に価値などない」
「あ、え……いや、でも、だって…………ミミズって……そんな……」
浮き上がりかけたところを真上から殴り落とすかのような物言い――困惑と混乱でろれつが回らない。
「それが美しい行為だなどと酔えるのは、しょせん頭の中だけで想像している状況であって、基本的にお前の利害に関わりのないことだからだ。現実にその状況に陥ってみろ。お前は必ずその局面に直面させた何者かを呪い、悪態を吐く。そして……決断を違えて死んでしまえば、もはやその行為の結果も、意味も、確認は出来ない。つまりは――無意味だ」
「む、無意味って……そんなことは――」
咄嗟に言い返そうとしたルッツの胸倉を、ダグはつかみ上げた。額がくっつきそうなほど顔を近づける。
「思い出せ。自分の境遇を。他人が『親子』や『家族』と口に出すときに頭に描く状況と、お前が話した生家での状況は同じだったか? 美しい親子愛? 家族団らん? どうだ、お前に関わりない者の言葉は、お前の現実にどれほど一致する? 奴らの言葉がお前にとってどれほどの意味を持っていた?」
「あ……う……」
答えられない。ダグの言葉は正しい。
『親子』も『家族』も自分にとっては恐怖と憎しみと悲しみの対象だった。
街中を歩く仲の良い親子。夜にお酒を買いに行かされた途中で、民家の窓に映っていた家族団らん。それらは自分とは関わりのない遠い世界のもの――憧れという意味では、物語の中の主人公達と同じだった。
誰かのために戦う。誰かの盾になる。その"誰か"が好きな人であれば幸せで、さらにその人を生かすために命を懸けられれば最高にカッコいい――けれど……そんな思いなど、しょせんはその立場に立たない者の妄想に過ぎないのか。
「他人が与えた意味に惑わされるな。お前にとっての意味は、お前にしか与えられない。意義ある死などない。死に意味を見出したいのはいつでも生者だ。死の意味など生者のエゴにすぎん。全ての死は生の終わり。ただそれだけだ。死にゆく者におのれの死の意味など……死んだ後の評価など、それこそ何の意味があるものか」
あまりにも乱暴な物言い。だが、今のルッツには反論の糸口さえ見つからない。
どうしてこんなひどいことを言うのだろうか。何を伝えたいのだろうか。それとも、伝えたいことなんてなくて、ただいじめられているだけなのだろうか。両親が自分にそうしたように。
ダグは突き放すようにルッツを解放した。よろめいて、とある家の壁に背中からぶつかり、そのままずるずるとへたり込む。
それを見下ろしていた黒衣の死神は、膝を折って屈み込んできた。
「ルッツ、お前が何かを成したいなら……甘い夢は見るな。現実は甘くない。冒険家にしろ、傭兵にしろ、戦いの中に身を置く者の落とし穴は、常に感傷や感情の中にある」
「え……?」
これまでとは明らかに異なる静かな口調、雰囲気にルッツは戸惑った。潤んだ瞳を上げて、ダグを見る。
と、ダグは拳を作って軽くルッツの胸に押し当てた。
「憶えておけ。強いから生き残るのではない。強かろうと弱かろうと誰しも死ぬときは死ぬし、強さ弱さなどそのときの状況・物差しで変わる。『全てを踏み越えて、なお生きようとする』から、生き残れるのだ。生きていたければ頭を使え。常に自らの置かれた状況を把握し、考え、敵の先手を打て。諦めるな。全ては――」
そうだ、とダグは頷いて目を細めた。獲物をその視界に捉えたかのように。
「――全ては生きてこそ成し遂げられる。死んで成せることなど何もない。何も、ないんだ」
その諭すような、静かで厳かな口調に、少年の反論の言葉は全て封じ込まれた。理由はわからない。話の中身も手放しでは頷けない。けれど、ダグが何かを伝えてくれようとしている、それだけは感じられた。
「……『全てを踏み越えて』…………『なお生きる』……」
わかるような、やっぱりわからないような。
言葉としては理解できる。けれど、実感は何もない。『全て』となんなのか、『踏み越える』とはどういう行動を指すのか。ルートヴィッヒ=クラスタという人間の生、たった14年の経験からでは推し量れないものばかりだ。
「……ゴメン……よく……わかんない……」
落ち込みを隠せぬ少年に、ふっと笑みを投げかけてダグは立ち上がった。手を貸して、ルッツを立ち上がらせる。
「まぁいい、いずれ嫌でもわかる時が来る。お前が選んだのはそういう道なのだとな。そして、もう引き返すことはできない」
「……あ……!」
その瞬間、ルッツは心臓を槍で貫かれたような衝撃を感じた。
冒険家になるなら覚悟をしとけよ、というあの傭兵の呟き――あれはそういう意味だったのか?
物語や昔話の主人公・英雄たちに憧れて踏み出した道、それは実のところ、常に人の生死がつきまとう血生臭い道。
そして、あのバンダナを持って逃げることを決意した瞬間から、自分はもう元の平穏な生活へは戻れなくなった。
いずれ自分もダグのように平気で人を殺せる人間にならねばならないのか、なってしまうのか、という残酷な自問に打ちのめされ、ルッツは身体をわなわなと震わせた。
「ダ……ダグ…………さん……」
「なんだ」
歩きかけていたダグは、邪魔臭そうに振り返った。
ルッツは唾を呑み込んだ――つもりが、口の中は乾いており、喉を下っていったのは空気の塊だった。
訊いてはいけない、と頭の隅でもう一人の自分が叫んでいる。訊かなきゃダメだ、とまた別の一人が叫んでいる。
「……あの……あの、さ…………ひょっとして…………もしかしたら……その……僕は……冒険家なんか目指すべきじゃ……なかったの……かな……?」
「………………」
鼻先で笑われるか、それとも容赦なく肯定されるか、と思った矢先――ダグの手が少年の頭を軽く撫でた。
「え……?」
その行為の意味が、ルッツには分からなかった。
顔を上げると、ダグの昏い視線に吸い寄せられた。感情の読めない瞳。
ルッツの頭に手を置いたまま、ダグは言った。
「人の決断は、いつでもその場で最善と思うものを選ぶ。そして、これはお前が選んだ道だ。過去の決断を疑うより、この先どうするべきかを考えろ」
ルッツはしばらく黙り込んで、ダグの言葉の意味を丁寧に飲み込んだ。そしてたった一言、うん、と頷いた。
「あの馬鹿も……"全てを踏み越えて"さえいればな……」
ふと空を見上げて、呟く声。
「え?」
「いや、なんでもない。……行くぞ」
珍しく言葉を濁し、表情を隠すように黒マントを翻したダグに、ルッツは首をひねった。
―――――――― * * * ――――――――
二人はそのままウルクスを後にした。
次に目指すはアスラル中枢都市群の一つ、オービッド。『創世の光』聖騎士団のアスラル東方本部が置かれている大都市。
しかし、ルッツにはわからなかった。
死んでしまえば全てが終わり、死んで成せることなどない、と力説したダグが、なぜわざわざ敵の懐へ飛び込んでゆくのか。素性がばれて戦いになれば、殺されてしまう可能性がかなり高いはずなのに。
それだけは、何度考えても、どれだけ考えてもわからなかった。
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ウルクスの北門から伸びる街道。
途中の分岐で右や左を選ばなければ、道なりに北上することでアスラル東部の中心都市オービッドへたどり着く。
その途上に馬に跨るゼラニスの姿があった。馬はウルクスギルドの息のかかった早馬便から借りた。どうやら彼らが追い出したいのは死神だけではないらしい。
さすがに大都市を繋ぐ主要街道だけあって道幅が広く、左右から伸びる緑の天蓋も全てを覆い尽くせていない。隙間隙間から朝の薄青い空が覗いている。太陽はまださほど高くは上がっていない。
早馬とは言いながら、のんびり馬を進ませていた彼の脇を、ウルクス発の早馬が地響きを立てて駆け抜けていった。跨るは聖騎士――必死の形相の。
それを見送ったゼラニスは、ふぅ、と溜め息を一つ漏らした。
「……どうやら、昨晩の件とリアラの件が露見したようだな。てこたぁ、下手人も街を出たな。さて、それじゃ、ま、俺も少しばかり急ぐかな」
軽く馬の腹を蹴り、ゼラニスは馬の歩速を上げた。
「何とか……早めにシグオスと合流できりゃあいいんだが」
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朝にウルクスを出た早馬は、オービッドから北西へ早馬専用の間道を突っ走り、翌日の昼前には首都スラスに駆け込んだ。
ちょうど南部地方の有力者との昼食会の時間が始まろうとしていたところだった。
「猊下! 一大事にございます!」
伝令が化粧室に飛び込んだとき、ルスターは女官の手で法衣をまとっている最中だった。
「何だ、気ぜわしい。これより昼食会だ。報告は手短に述べよ」
「はっ、ウルクスにて教団幹部が、相次いで殺害されました!」
殺害などという禍々しい響きの単語に、姿見に映る自分の姿を見ながらルスターは眉をひそめた。
「……教団幹部だと? 誰が?」
「ウルクス教区司祭クアズラー卿、ならびに女官長リアラ=ベイル様です」
「なに……?」
ぴしっ、と空気が張り詰めた。教皇の顔が硬張って表情を失い、その背後では女官たちが顔を見合わせる。
「何かの……何かの間違いではないのか?」
必死に気持ちを落ち着けようとして、襟元を正す。しかしその声は抑えようとしても震え、心の動揺は隠しようがなかった。
「クアズラー卿は今朝、自室でお亡くなりになっているのを発見されました。死因は胸を剣で一突き。ベイル様は危うく"枕探し"の遺体として処理されるところを、何者かの通報で駆けつけたウルクス聖騎士隊長が確認した次第です……これを御確認ください」
振り返ってみれば、伝令が差し出した手の上には見慣れた印璽があった。間違いない。自分がリアラに与えておいた『勅許印璽』だ。ルスターは震える指でそれを取り上げ、拳の中に握りしめた。
「……なぜだ」
「は?」
「なぜ、リアラに"枕探し"などという薄汚い罪名が被せられねばならんのだ」
深い呼吸を何度もくり返し、心を落ち着ける。ここで取り乱した姿を見せるのは、教皇としての矜持が許さなかった。だが、やり場のない怒りはどこかにはけ口を求める。自然、その鼻息は荒くなっていた。
伝令は持参した報告書を素早くめくって目を通した。
「報告によりますと、現場は『リスの尻尾』という宿屋の二階の一室。リアラ様はその部屋を借りた男ダグ=カークスの外出中、その連れと床を共にしたそうです。ところがその後、相手の懐から財布を盗むところを外から帰ってきたダグ=カークスに見られ、争いとなり、刺し殺されたと……」
「馬鹿な……信じられん。何かの間違いだ」
"枕探し"とは男と寝た娼婦が、男の眠っている間にその衣服から金品を盗み奪る犯罪だ。確かに話だけ聞けば、歴然たる"枕探し"ではあるが、なぜリアラがそんな真似をしなければならないのか。
「リアラにはこの『勅許印璽』を与えてあった。必要なら各地の教会で何なりと便宜を受けられるはずだ。盗みなどする必要がどこにある。何か他の理由が――」
ふと言葉が途切れた。琴線に触れるものがある。リアラに下しておいた命令――
「……そのダグとやらの連れの名は?」
「それが、宿帳にはダグ=カークス他一名、としか記載されておりませんで……宿屋の主人によると、栗毛の少年だったそうですが、聖騎士隊長が事情聴取に行った頃には、既に二人とも宿を払った後だったと」
「その少年、年の頃は十三、四であろう?」
「…………はい、そのようです。猊下、何かお心当たりでも?」
報告書を繰って該当箇所を見つけ、不思議そうに見上げる伝令の言葉など、もはや耳に入っていなかった。
からくりは読めた。どういう事情があったのかは知らないが、リアラはその少年からあのバンダナを手に入れようとして殺されたのだ。財布はバンダナの偽装に過ぎない。
「小癪な真似を……シグオスを呼べ!」
「猊下、クアズラー卿も……」
「わかっておる! だが、今ここでわしが詳しい報告を聞いたとて、さほどの意味はあるまい! まずは奴を呼べ!」
アスラル大樹海を支配する男の苛立ちを隠さぬ怒声に、背後の女官は震え上がった。
伝令が慌てて部屋を出てゆく。
「あ、あの、猊下……ご昼食会は……?」
「中止だ!」
苛立たしげに吐き捨てる。だが、すぐに女官たちの怯えた表情に気づいて、自らの額を掌で打った。
「……ああ、すまぬ。今の話、悲しいのは私だけではないな。お前達も……。だが、この状況で落ち着いて昼食会はできぬ。すまぬが、代わりに夕餉(ゆうげ)の会が開けるように手配をしておいてくれ」
「でも、猊下……ベイル女官長が亡くなられたのなら、今日一日くらいは。その、彼女は猊下にとっても特別な……」
女官の中でも少し年かさの、黒髪の女が不安げに眉をひそめて囁く。
ルスターは嬉しげに目を細め、その長い黒髪を軽く撫でた。
「うむ。ありがとう。しかし、昼食会の参加者達は、私との会食を楽しみにしてくれていただろう。それをこちらの勝手な都合で直前に中止するのは、あまりよろしくはない。特に……本件は説明できんでな」
女官は割り切れなさそうに唇を噛んだ。
「教団を支援してくれている人たちは、無碍にはできませんものね……。あ、でしたら、私達が何人か身体を使って――」
教皇は、微笑を浮かべた。
「やめたまえ。それは筋が違うぞ。相手が誰であれ、誠を尽くすということが大事なのだ。おもてなしをする、と約束をした以上、それは守らねばならぬ。まして理由が説明できぬのなら、次善の策だけでもしっかり提示するのが筋というものだろう。昼食がダメなら、夕餉。それでよい」
「……はい」
うつむく女官を優しく抱き締め、その肩を軽く叩いてやる。
「君たちがリアラを失った悲しみに耐えて働くのだ。私とて、なすべきことをなさねばな。君たちのその姿が、私の励みにもなる。――とりあえず、軽い昼食を用意してくれ。午後からの庶民との直接面談は予定通りに行う」
頷いて抱擁から離れた黒髪の女官は、目尻を拭いながら命ぜられたことを復唱した。
―――――――― * * * ――――――――
「シグオス! 貴様、今日まで何をしておったのだ!」
呼び出しに応じて化粧室に駆けつけたシグオスは、いきなりの怒声に面食らった。
片膝をついて、頭を下げた姿のまま怪訝そうにルスターを見やる。
「はっ。何を、と申されましても……」
「愚か者っ!!」
戦場でのシグオスもかくや、という大音声とその怒気に、シグオスは気押されそうになった。日頃、温厚冷静な教皇がこれほどまでの気勢を発することができるとは。
しかし今の問題は教皇の気勢ではなく、なぜ教皇が怒っているのかだった。
「お、愚か者とは……?」
「貴様がスラスでのほほんとしておる間に、ウルクスではクアズラー卿とベイル女官長が殺されたのだぞ!」
「なんと!? ベイル女官長が……!?」
時折公私を混同する時があり、その点でよく対立してはいたが、それ以外では仕事もきちんとこなすので、一目置いていた女官衆の若き長。それが殺されたとは。
彼女に特別目をかけていた教皇が、怒り心頭に発するのも無理はない。
「し、しかし、なぜ二人が……?」
「クアズラー卿暗殺については、まだ分かっておらん。おいおい貴様の元へも報告が届くだろう。だが、リアラについてはほぼ分かっておる。ウルクスに現われた例の少年から、例の布を手に入れようとして失敗したのだ」
「まさか……! 少年が現われたという報告は、まだ私の元には入ってきておりませんが」
「当たり前だ。リアラがその情報を手に入れたのはギルド経由だ。おそらくな。そして例の布を手に入れるべく、ルートヴィッヒ=クラスタと接触し……殺されたのだ……」
教皇は悲痛な表情を両手で覆い隠すと、リアラを悼んでか、しばらく沈黙した。
シグオスはぐっと拳を握り締め、唇を噛み締めた。どうやら今、自分は圧倒的に悪い立場に置かれている。怪我の療養と次の戦の作戦を練る名目があったにせよ、人目にもかなり気の抜けた日々を送っていたのは確かだからだ。
しかし……ルートヴィッヒ=クラスタ。十四歳の子供と侮っていたが、まさかそれほどの危険人物だったとは。
「申し訳ございませぬっ!」
シグオスは額を床にこすりつけ、ひたすら平伏した。
「なにぶん子供が相手ゆえ、なめてかかっていたことは確か。今すぐ私自らウルクスへ出向き、クラスタ少年を捕らえてこの場に――」
「違う! リアラを殺したのはルートヴィッヒ=クラスタではない。その少年とともにいるダグ=カークスという男だ! そいつを捕らえて八つ裂きにしろ!」
「……んな…………!」
聞き覚えのある名前にシグオスは耳を疑った。慌てて頭を跳ね上げ、聞き直す。
「げ、猊下? い、今、何と……何とおっしゃいました?」
「その男を捕らえて八つ裂きにしろと――」
「そうではなく、男の名前の方です」
「ダグ=カークスだ! ……まさか、うぬの知り合いか!?」
シグオスは教皇の御前だというのに、ぽかんと大口を空けたまま凍りついた。
知り合いも何も。
クルスレードの戦場で幾度となく煮え湯を飲まされた仇敵。つい半年前には、数十人を揃えた聖騎士団の精鋭をわずか数人で撤退させしめた『黒衣の死神』。そして、酷いときには夢の中にまで現れて自分を追い詰めた、恐るべき戦の天才、いや、まさに戦そのものを操る戦神(いくさがみ)。
なぜそいつがこのアスラルに。
いや、違う。なぜ、などと考えるまでもない。理由は一つしかない。
"復讐"。
間違いない。ヘイズ=タッカードという片腕を奪われた手負いの黒き狼が、復讐に燃えてこの地に現れたのだ。
となれば、クアズラー卿を暗殺したのも、十中八九ダグ=カークスに間違いあるまい。その目的は自分に対する宣戦布告か。あるいはもっと別の何か……。
シグオスの背を冷たい汗が走る。メルガモの一件も、危惧した通りやはり奴の仕業だったのだ。
「どうした、シグオス。何を呆けておる!」
叱咤の声に、シグオスは我に返った。
「あ、いえ。……失礼しました。そのダグ=カークスなる者、王国連合の傭兵に間違いありません。奴の目的は不明ですが、猊下のお命を狙うやもしれません。何とぞお気をつけあそばしますよう」
「ならば、うぬがさっさと捕らえい!」
憎々しげに言い捨てられ、シグオスは再び深々と平伏した。
「は、それはもう。今より聖騎士全団を挙げて捕縛にかかりますが、なにぶん奴は戦の申し子。私の裏をかくことも予想されます。ですから猊下におかれましても……」
「能書きはよい、さっさと行け!」
「ははぁ!」
かくなる上は、ダグを一刻も早く捕らえて処刑するしか名誉を挽回する方策なし、と判断したシグオスは、一礼すると大慌てで化粧室を飛び出した。
その足でスラス中に伝令を飛ばして聖騎士団を非常招集し、ウルクス現地集合という前代未聞の指令を下すと、陣容を整えもせず、真っ先に馬に跨ってスラスを後にした。
「おのれ、あの若造……アスラルで貴様の好きにはさせんぞ! 今度こそ……今度こそ完全なる決着をつけてくれる!」
そうわめきながら、シグオスは無我夢中で馬を駆けさせ続けた。