蒼きバンダナのアレス Last Episode
〜Cross Fates〜【DUG/RUTZ】

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夢の一夜  − CROSS FATE T ルッツ×リアラ×ダグ −

 ルッツは悩んでいた。
 タックの村から今日ウルクスに着くまで、ダグは思い詰めたように一言も発さなかった。
 そして一応の目的地であるここウルクスに到着したらしたで、何かに追われるようにさっさと宿屋を決め、黒いマントを翻して夜の町へと姿を消してしまった。
 ルッツに三枚の金貨を放り投げ、食事を済ましておくように、とだけ指示を残して。
 問題はダグの行方ではない。いつもどおりの無口さでもない。その三枚の金貨だった。
 多すぎる。いったい夕食何食分にあたるのか、想像もつかない。
 そもそも金貨を見るのさえ、生まれて初めてだった。生家の宿屋でやり取りする貨幣の大半は銅貨、たまに銀貨が混じり、仕入れのときですら金貨にお目にかかることなどない。それが普通だ。金貨一枚あれば一月は遊んで暮らせる、と聞いた気もする。
 下手に買い食いをして、こんなもので支払えば、たちまち大騒ぎになってしまうだろう。どこからどう見ても家出少年の自分が、こんな大金を持っているとわかれば、その気のない者まで強盗になりかねない。
 そんなものを三枚も軽々しく放り投げられるなんて、ダグはどういう人生を送ってきたのだろうか。
 そんなわけで、先ほどから腹の虫は鳴り止まず、めまいを起こしそうなほど空腹感に苛まれているというのに、ルッツはただその輝きを茫然として見ているしかなかった。
「もっと小さいお金にしてくれりゃいいのに。……ダグさんの馬鹿」
 いくら悪態を吐いてもダグは戻ってきそうにない。
 これは今夜は飯ぬきかなぁ、と半ば諦め気分で枕元に置かれた水差しに手を伸ばしたとき、扉が軽やかにノックされた。
「はい?」
 宿屋の主人だろうか、と訝しみながら扉を開けると、若い女性が顔を覗かせた。
「こんばんは」
 自分と同じ栗色のショートボブを揺らし、黒目がちの細い眼に理知的な光を宿した、すっきりした顔立ちが印象的な美人。
 何よりそこにいるだけで押し寄せてくる圧倒的な大人の女性の色香に、ルッツは胸が高鳴り、頬が紅潮するのを感じた。
「あ、あの、何でしょうか……?」
 どもりそうになる声を必死で抑えながら、部屋を間違えたのだろう、こんな奇麗な女の人が訪ねてくるはずないもんな、とぼんやり思っていた。
 ところが、草色のワンピースを着たその女性は、謝るどころかにっこりと笑いかけてきた。
「ルートヴィッヒ=クラスタさんですね?」
 美人に自分の名前を呼んでもらえるだけで幸せな年頃の少年は、その艶っぽい声にたちまち我を忘れて深々と頷いた。
「は、はい……僕がルートヴィッヒ=クラスタです」
「私、リアラ=ベイルと申します」
 リアラが深々と頭を下げると、辺り一面にふわぁっと甘い匂いが漂い、ルッツの鼻腔をくすぐった。今まで嗅いだことのない不思議で魅惑的な香り。
(うわぁ……なんだろ、この匂い……。すっごくいい香り……)
「ダグ=カークスさんから、あなたのお相手をするよう伺ってきたのですけれども」
「あ……はい。そうですか……じゃあ、どうぞ中へ入ってください」
 女の魅力に魂まで痺れきった少年は、疑いもせず扉を大きく開け放ち、教皇の女を部屋の中に招き入れた。

 ―――――――― * * * ――――――――

「あの……どうぞ、そこに座って下さい」
 とりあえず寝台の縁(へり)に腰掛けたルッツは、リアラにダグの寝台を勧めた。
 ところが彼女はルッツの隣に身体を寄せると、かちこちに緊張した少年の手を取って、自分の方へ振り向かせた。
 女性の太腿の柔らかい感触をズボン越しに感じ、さらには手とはいえ、その美人の肌に接し、その顔を真正面から見たルッツは、たちまち耳まで真っ赤に染まった。
「あ、あ、あああああのあのあのあの……」
 どもりにどもって言葉にならない。こんなとき、何を言えばよいのかわからない。
 リアラはそんな少年の心を読んだように、優しくその手を愛撫し始めた。
「カークスさんから聞いていませんか? 独りでは寂しいだろうから、帰って来るまで相手をしてやってくれと頼まれたんですよ?」
「そ、そそ、そそそそそそう」
 そうですか、が言えない。身体中から炎が噴き出しそうなほど体温が上がり、ところ構わず汗の玉が噴き出す。こんな緊張は初めてだった。足腰が痺れたようになっていなければ、いたたまれずに部屋から飛び出していたかもしれない。
「緊張してるのね。可愛い」
 破顔したリアラは、いきなりルッツの頬に口づけた。
 まさに天にも昇る気分。ルッツは日頃の鬱憤も恐怖も忘れて、こんな出会いを演出してくれたダグに心から感謝した。
 だが、そんな極上の気分を、いきなり無粋な悲鳴を上げた腹の虫が台無しにした。
 少年の笑顔が凍りつく。しかし、リアラは男を蕩かす微笑を浮かべて、その手をしっかりと握りしめた。
「お夕食、まだだったのね? ふふ、実は私もなの。じゃあ、まず二人で食事に行きましょうか」
 美人の前で醜態をさらしてしまった気恥しさと、狭い部屋の中に二人きりでいることに耐え切れなくなっていた少年は、一も二もなく頷いた。

 ―――――――― * * * ――――――――

 宿屋『リスの尻尾』を出たリアラは、ルッツと手をつないで通りを歩き始めた。
 ショウウィンドウに映る、同じ栗色の髪を揺らすその姿はまるで姉弟だ。
 ウルクスにはルスター教皇とともに何度か来たことがある。適当なディナーにありつける店はいくつか頭に入っている。
 ただ――
「……そうね、ちょっと待って」
 不意に足を止めたリアラは、振り返ったルッツににっこり笑ってある店を指差した。
 そこは仕立て屋。店の主人が今しも看板を取り込もうとしていた。
「その服を替えましょ? お店に入るのに、それでは追い出されちゃうわ」
「え、でも……」
 店を閉めようとしている主人に悪いし、そんな綺麗な服を着ていかないといけない料理屋なんて――などと口の中でごにょごにょ呟いているルッツの手を引いて、リアラは仕立て屋の店に駆け寄っていった。

 ―――――――― * * * ――――――――

 どういう魔法を使ったのか、と思うほど仕立て屋の主人の対応は丁寧だった。
 あっという間に出来合いの商品の中からルッツの身体に合う物を選び出し、シャツからズボン、下着まで全て入れ替えてしまった。
 とはいえ、見た目自体は元々の服からさほど変わってはいない。
 困惑げに振り返るルッツに、リアラは片目をつぶって言った。
「うふふ、似合ってるわよ、クラスタ君。見違えちゃったわ。かっこいい♪」
「え……と、でも、あの……」
「ああ、大丈夫大丈夫。ここのお店の服は、綺麗さより丈夫さが売りなの。だから、旅の邪魔にはならないと思うわ」
「や、そうじゃなくて、あの……僕、お金が……」
「お金? ああ。いいのよ、えーと……そうそう、カークスさんからお金を大目にもらってるから」
「あ、そうなんですか……」
 だったらなぜ金貨を三枚も残して行ったんだろう、とルッツは首を傾げながら思った。
「……ところで、その布っ切れは外したら?」
 リアラに言われて、ルッツは自分の右腕に巻きつけた『アレスのバンダナ』を見下ろした。服を着替える最中も外さなかったものだ。
「服は綺麗なのに、それだけ薄汚れていて……ちょっとアンバランスかな」
「これは――ダメっ!!」
 触ろうとしたリアラを左手で押して、右腕を遠ざける。
 店の主人が驚いて奥から顔を覗かせるほど、大きな声だった。
 きょとんとしているリアラに、ルッツはうつむいた。
「あ……ご、ごめんなさい。大きな声を出して……でも、これは大事なものだから……その……」
「い、いいのよ。クラスタ君。何かいわくのあるものなのね……。無神経なこと言っちゃったね。ごめんね」
 自然に近づいてきたリアラは、ルッツの頭を胸に軽く抱き締めた。
 耳まで真っ赤にして身を硬張らせているルッツの頭上では――リアラの瞳が薄く細まっていた。

 ―――――――― * * * ――――――――

 それから二人は高級レストランに入って、ルッツの見たこともない高級料理に舌鼓を打った。
 マナーやエチケットを知らない少年に、リアラは姉のようにあれやこれやと指示を出して教えつつ、その最中にも色々な話をして楽しませる。時折口許についたソースをぬぐってやったり、自分の分を譲ったり。
 最初はガチガチだった少年も酒が入ったこともあってか、徐々に打ち解け始め、最後には屈託なく笑うようになっていた。
 一通り食べ終わり、一服しながらあれこれたわいもないおしゃべりとしていると、不意に少年が表情を硬張らせた。
「あの……ごめんなさい」
「あら、なに? 別にマナーやエチケット違反は――」
「そうじゃなくて、あの、僕、その……嘘ついてたんだ」
「嘘? なに?」
 少し眉間をひそませ、飲みさしのグラスを置いて少年を見やる。
 ルッツはテーブルの上に、何かを置いた。キラキラ光る、三つの何か――
「……金貨? どうしたの、これ?」
 見慣れているとまでは言わないが、金貨ごときで驚くようでは女官長は務まらない。
「実は……ダグさんからもらってたんだ。今晩のメシ代だって……でも……」
「そうよね」
 ルッツのこちらを窺うような卑屈な笑みに合わせて、リアラも苦笑を浮かべてやる。
「これじゃあ、ご飯は食べられないわよねぇ。こんなの普通のお店で見せたら、かえって危ないものね」
 三枚の金貨を一枚ずつつまみ上げて、手の平に載せた。
「ふぅん……そっか。ルッツ君て、結構用心深いんだね」
 この食事の間に、二人はリアラ、ルッツで呼び合うほどに親密になっていた。
「ごめんなさい」
「何で謝るの? 大事なことだよ? 旅をするならね」
 リアラはうつむいたままのルッツの手を取って、その手の平に三枚の金貨を乗せた。そして、両手でそっと拳を包むように握らせる。
 顔を上げたルッツに、勇気づける笑みを投げかける。
「ルッツ君は間違ってないよ。でも、それなら最後まで嘘をつき通さなくちゃ。親切そうな顔で近づいて、お金を見せた途端に襲いかかってくるような人だって、世の中にはたくさんいるんだからさ」
 うそぶきながらも、胸の中では密かに舌を出す。私みたいにね、と。
「リアラさんはそんな人じゃないでしょ?」
 照れ臭そうにはにかみながら、指で鼻の頭を掻いている純情少年。
 どうやら、もう一押しすれば落ちる。自分から差し出させるのは難しいだろうが、盗む隙は充分に作れるだろう。
 笑いが込み上げそうになるのをこらえ、リアラは席を立った。いわくありげな笑みを浮かべながら、ルッツの肩を軽く触れる。
「さあねー。わかんないわよぉ」
 ルッツも察して席を立つ。
「そんなこと……リアラさんに限って」
「私だって、そんな好い人じゃないわよ? ――あなたのこと、食べちゃうかも? ね♪」
 後ろからついてくるルッツに見えないように、リアラは唇を一舐めした。淫蕩な娼婦のように。


 店を出た二人は、来た道を戻り始めた。
 道すがら、少し酔った素振りで腕に抱きついてきたリアラに、顔を真っ赤にしたルッツは大袈裟なぐらい驚いて飛び退いた。

 ―――――――― * * * ――――――――

 部屋に戻ってきたルッツは目隠しをされた。
 理由を訊ねるルッツに、リアラはおまじない♪と笑った。
 そのまま座っていると、いやが応でも次に何が起こるのかを予想させる衣ずれの音が聞こえてきた。
 ルッツは息を呑んだ。
 リアラが――間違いなく、妄想ではなく、実際に、本当に、すぐ傍で、あの美人が、さっきまで一緒にご飯を食べていたあの人が、お姉さんがいたらこんな人なんだろうな、と思った人が……
(――ふふふふふふふふ服っ、服っ、服をっ、服ををを脱いで、脱いでる! 脱いでるっ!! 脱いでるよぉぉおぉおぉぉっっっっ!!!!!)
 ルッツとて思春期の若者。男と女の裸のつきあいについて、まるで知らないわけではない。……いや、違う。興味津々のお年頃だ。この状況で、まして相手があれだけの美人となれば、もう期待に胸が高鳴るなんてものではない。
 頭も心も心臓も内臓も皮膚も骨もそれはもうぐっちゃぐちゃのドロドロのぎったんぎったんのべろべろのくてくてのうらうらのげべげべで上が下で左が右で裏が表であーもう何がなんだか――衣ずれの音が途絶えた。
 裸足で床を歩く、ひたひたという音が背後に回り込み、ルッツの座っている寝台が軋んだ。
 ルッツの鼓動は極限まで高まり、頬は火を吹きそうに燃え上がり、手足は痺れ、肩が震え、闇に封じられた視界に火花が散って渦を巻き、呼吸が早まり、口が乾き、喉は鳴り、耳鳴りまでし始めた。
「あ、あああああの……ぼぼ、僕……は、はぢめ……ん…………」
「……しぃー……」
 沈黙に耐え切れず、思わず開いた口を背後から伸びてきた柔らかな指が塞いだ。
 背中には服を着ていてもわかる、二つの柔らかな膨らみが――
 その瞬間、ルッツの理性は音を立てて弾け飛んだ。

 ―――――――― * * * ――――――――

(冗談じゃないぞ、くそ)
 胸の内で吐いた悪態が、舌打ちとなって吐き捨てられる。
 ギルド経営の高級料理店奥での会食中にもたらされたその情報に、ゼラニスは真っ青になっていた。
(なにが『クルスレードの死神』……死神なものかっ、ただの狂犬だ!)
 店の裏口から飛び出す時、会食相手のウルクスギルド評議員が何か喚いていたようだが、それどころではなかった。
(くそっ、くそっ、くそっ! 一体、このアスラルで何が起きてやがるんだ!? なんで……あんなキチガイが堂々と街中をうろついてやがるんだっ!? リアラは……あの娘は無事なんだろうなっ!?)
 不安と不審で喚き散らしたい気持ちを必死に押さえ、夜の街を走り続ける。
 そして噴水のある公園を通り抜けようとした時――ゼラニスの行く手を人影が遮った。

 ―――――――― * * * ――――――――

 ルッツは夢を見ていた。
 青い髪の少女は両手を組んで、何かを祈っていた。
 その姿は相変わらず薄ぼやけていたが、一昨日よりも、昨日よりも少し輪郭がはっきりしているように思えた。しかし、やはり二人の間には相変わらず永遠の距離がある。
 少女がルッツに気づいた。そしていつもと同じように必死に手を差し伸ばし、彼を招こうとする。いつもと違うのは、ほんの少しだけ声が聞こえることだった。
「あ…………はルー……。たす………………ひと………………がい……」
 涙ながらに訴えているのはわかっても、何を言っているのか、よくわからない。
 もう少し、もう少し、と耳をそばだて、意識を集中して、あと一息、と思った瞬間、ろうそくの炎を吹き消したように少女は消え、世界は闇に包まれた。

 ―――――――― * * * ――――――――

 疲れ果て、泥のように眠るルッツの頬は、実に幸せそうにだらしなく緩んでいた。
 その隣で下着を着けつつ、リアラはぼやいていた。
「――ん、もう。バンダナをもらうお駄賃代わりのつもりだったのに、まったくしつこいったら。……あ゛ー……初めてでこれじゃあ、あと数年したら、確実に猊下以上の女垂らしになるわね、この子。ほんと、末恐ろしいっていうか、なんていうか」
 言葉とは裏腹な含み笑いをくすくす漏らしながら、草色のワンピースに袖を通す。
 そして、軽く身づくろいをした後、ルッツの右腕から薄汚い布――少年が最後まで外すことを拒み続けた目的の物を、ようやく外し取った。
「ふぅ……後はこれを猊下に渡せばいいだけね……」
 溜め息を吐いたその表情には、疲れの色が濃い。
 しばらくルッツの寝顔をじっと見つめていたリアラは、ふふっと微笑んでその頬に軽く口づけた。
「御苦労さま。可愛かったよ、ルッツ。危ない趣味に目覚めちゃいそう」
 疲れてはいたが、扉に向かう足取りは軽い。
「バイバイ、これは今日の記念にもらっておくわね。教皇猊下もきっと喜ばれるわ
 熟睡する少年にバンダナを振りつつ、後ろ手に扉の把手をつかむ。扉を閉める最後の瞬間まで、ルッツが起きないように注視するために――その刹那。不意に背中を殴られて、リアラは前につんのめった。
 扉しかないはずの背後からの一撃に、何よ、と振り返りかけて、動きを止める。胸の辺りで何かが引っかかった。
「……なにこれ……」
 知らぬ間に胃の辺りから、赤いぬめりを帯びた、銀色の尖った物体が生えていた。草色のワンピースも見る見るうちにどす黒く変色してゆく。
 それが背後の木の扉ごと自分を刺し貫いた剣先だと理解できないまま、込み上げてきた血塊を吐き、むせて咳き込む。
「ぐ……け、ふ……っ……あ……あ、ああ……? なに? なんなの……? どういうこと、これ……?」
 何が起きたのか、全く理解できなかった。
 血まみれの銀色が身体の中に引っ込み、足から力が抜け、リアラはその場に力なくへたり込んだ。
 ワンピースの破れ目から噴き出す鮮血。気持ちいいほど全身から力が脱けてゆく。
(あ……れ……? ……そんなに……血が出た、ら……死んじゃう、わ、よ……?)
 漠然たる死の予感――しかし、不思議と自覚も実感もなかった。恐怖さえも。
 不意に背中の支えがなくなって、視界が仰向けに流れた。
 気配を感じて見上げると、頭の先から見える限り全身黒装束の青年が立っていた。
 その冷たい眼差しはまさに死の使者。哀れみも同情も、その他のいかなる感情の色もなく、ただそこにある物を見る眼差し。
 リアラは力無く媚を売るような微笑みを返した。
「ふ……ふふ……死……神さん? けふ……けふふっ……素敵……いー……おと、こ……ね……」
 血混じりの咳を吐く。呼吸がままならない。喉がひゅうひゅう鳴っている――恥ずかしい。
(……あー……死ぬんだ……私……)
 実感のない予感。言葉だけが脳裏をよぎってゆく。
 視界が揺れる。
(……そうだ……私…………生まれ変わったら……普通の恋がしたい……な……)
 ふと思った。年若くして教皇の側女に出され、教皇しか知らない娘にとってそれは永遠の憧れだった。
(……普通、に生き……て……齢(とし)に合った……素敵、な…………男の子と……)
 ルスター教皇が嫌いなわけじゃない。大好きだった。あの人の役に立てるのが嬉しくて仕方がなかった。
 でも……年の近い男の子とも遊んでみたかった、と思わないもでない。それはずっと胸の奥にしまっていた、ほんのささやかな気持ち。
(……ああ…………か、み……さ……ま…………お、ね……が……)
 最期に、まるで懐かしい友人に会ったかのような笑みを満面に浮かべ――リアラは息絶えた。

 ―――――――― * * * ――――――――

「そこをどけ、道を開けろ」
 公園の噴水前。
 行く手を遮る男たちに向けて、ゼラニスは低く唸った。
 だが、返ってきたのは拒絶の言葉。
「そうはいかん。もう、手遅れだ」
「なにぃ!?」
 歯を剥いて怒りの眼差しを向けるゼラニスに、一人が進み出て来た。
 ゼラニスと同じくらいの四十代。落ち着いた物腰と眼差し、こちらの怒気に気圧されぬ風から見て、堅気(かたぎ)ではない。体格も相当鍛えられたものだ。
「……ギルドの手の者か」
「そうだ。今、ゼラニス殿にあの宿屋へ行ってもらっては困るのでな。評議院議長より、足止めをおおせつかっている」
 ゼラニスの目が細まった。
 先ほど会食していた相手は評議員の一人であって、議長ではない。最高幹部直々の命令が降りているということは、おそらく会食の件もウルクスギルドの策略の一環なのだろう。自分とダグを接触させないことの狙いはいまいち絞れないが。
 だが、今はそれどころではない。
「冗談じゃない。リアラが、あの娘が――教団の女官長が危険な状態なんだぞ! あいつは俺に助けを求め、俺はあいつに『任せろ』と言った。この『森の守護者』エキセキル方面隊指揮官レンディル=ゼラニスの名にかけて、吐いた言葉に責任を持つ!」
「我らとしても、『将軍』殿の誇りは最大限尊重して差し上げたいが……残念ながら、それはもう無理だ」
「なぜだ!」
「手遅れだと言ったはずだ」
 ゼラニスは継ぐ声を呑み込んだ。石を飲み込んだような感覚が、喉を通り抜けて胃の腑へ落ちる。
「…………まさか」
 男は応えず、ただ頷いた。
 視界が一瞬、ブレる。絶望の――戦場でよく味わった、あの感覚。鼻の奥に漂う血と死の匂い。
「く……っ、だ……だとしても……っ! それならそれで、俺はダグ=カークスを――」
「ウルクスギルドは、いや、ウルクスは今夜、混乱の中にある」
 有無を言わせぬ口調。そしてにじみ出る怒気。
 ゼラニスは顔をしかめた。この男、何かを抱えている。
「ウルクスはガルウィンやメルガモと違い、大きな都市だ。中枢都市には及ばぬが……当然、ギルド内部も一枚岩ではない。いくつかの勢力、ファミリーなどが常に主導権を巡ってせめぎ合っている。今夜そのうちの一つ、血の気の多い新興グループが愚かにも奴に手を出し、返り討ちにあった。……よそのギルドに吹き込まれ、乗せられたようだ」
「……………………」
「おかげで皆が疑心暗鬼に陥っている。次の裏切り者は誰か、とな。加えてゼラニス殿の知っている今夜の事件。評議会はウルクスの安寧のため、混乱収集のため、奴にこれ以上関わらぬことを決めた。よって、騒動は許さぬ」
「……はじめからお前たちの手を借りるつもりはない。これは俺個人のけじめだ」
「わかっておられぬようだな。御自分の立場を」
 腕組みをした男は、大きく鼻で一息噴いた。
「ウルクスギルドはついさっき、奴と交渉した。奴はもうこの街でこれ以上の騒動を起こす気はない。こちらから手を出さぬ限りはな。奴の狙いはあくまで教団と聖騎士団なのだそうだ。ゆえに、ギルドは手を引いた。両者だけの争いであれば、我らが血を流してまで関わる理由はない。だが、西部戦線の英雄――『将軍』の二つ名を持つゼラニス殿が、ここウルクスで死神の手にかかって死んだとなれば、どうなる」
「……自警団に義勇軍も動くだろうな」
 答えながら、ゼラニスは疑わしげに男を見据えた。
 この男、今なんと言った? 奴の狙いは教団と聖騎士団? なぜだ? どういう意味だ? ……聞き違いか?
「それでは困るのだ」
「なぜだ。相手はたった一人だぞ」
「そうだ。たった一人で教団を相手にしようという狂人だ。ギルド一つを壊滅させかけ、裏の世界を手玉に取る化け物だ。暗闘が戦闘になり、奴が表でも容赦なくその鎌を振るい始めれば……奴を止めるまでに、どれほどの犠牲者が出るのだ?」
「む……ぅ……」
 ゼラニスの奥歯が軋んだ。
 死神と呼ばれるダグ=カークスの実力がどれほどのものか、直接見ていない自分には判断できない。だが、ウルクスほどの都市のギルドがここまで恐れ、関わりを断とうとするのは一つの判断材料にはなる。
「実際、我らのつかんでいる限り、まだギルド・教団と無関係の者の被害はない。奴が来たと思われるノースティレイドからウルクスまで、一人もな。これも判断材料の一つだ」
「……なんの気まぐれかわからぬ、相手の行動を信じるというのか……」
「その点では天災と同じだよ。天災はひたすら耐えてやり過ごすしかない。下手に抗えば、怪我だけではすまなくなる。それが生きる知恵というものだろう? ……いずれにせよ、我らは既に白旗を掲げ、それをあの死神に伝えた。今さら殴り込まれては、我らの面子にも関わる」
 男の口元が緩む。ふっとゼラニスも気持ちが緩んだ。
「それが本音だな?」
 皮肉げな笑みに、男は腕組みを解いて手のひらを上に向け、肩をそびやかした。
「どのような意味に取られても、それはそちらの勝手だが……あの女官長が死んだ今、ゼラニス殿にまで死なれたら、一体誰が真実を伝えるのだ」
「あん?」
「ウルクスギルドは奴の要求に従い、この件に関しては教団とも奴とも関わりを断つ。だが、ゼラニス殿。あなたはギルドの人間でもなければ、教団の人間でもない。何をして、どう動こうとあなたの勝手だ。我らの利益を冒さぬ限りはな」
「……つまり……この俺に…………教皇への伝令になれというのか。ウルクスをはじめとするギルドが裏切ったことを、伝えろと」
「裏切ってなどいない。……初めから我らは平穏秩序という共同の利益を分かち合う者。だが、今回は我らの利益が、教団のそれと同じではなかったというだけ。聖騎士団や自警団がギルドの構成員を逮捕、処刑することもあるのだからな? 我らはそれを裏切りと非難したことはあるまい?」
 それに、と男はつけ加えた。
「教団の不始末は、教団自身で拭ってもらわねばな。表の世界の厄介事を、裏に持ち込まれては困る」
「教団の不始末……どういう意味だ?」
「それぐらいは、自分で調べられよ。……案外、聖騎士団総団長辺りが御存知かも知れぬぞ」
「聖騎士団総団長……シグオスが?」
 いわくありげな物言いと何かを隠している笑みに、ゼラニスの不審の度はますます深まる。
 今回の一件、根源は教団の闇の中にあるのか。
「さて、我らはそろそろ行く。他にも色々仕事が立て込んでいるのでな。……そうそう、彼女のことは心配せずとも、奴がウルクスを出た後に然るべき手を回しておく。無縁の者として葬らせはせぬよ。教団への信義と『将軍』の誇りに敬意を表し、それだけは約束しよう」
 背を向け、片手を上げながら男達は夜の闇へと融けていった。

 ―――――――― * * * ――――――――

 夢も見ない眠りの中から、ルッツはいきなり水をぶっ掛けられて叩き起こされた。
 意味不明の喚き声をあげながら飛び起きた少年は、何事かと周囲を見回し――血の滴る剣を携えたままのダグの姿に驚き慌てた。
 ダグはいつもの無表情のまま、手にしていた水差しをルッツの傍に投げ捨てた。
「あわ、あわあっ! ご、ごごごごごごめんなさいいっ!! すぐに自分のベッドに戻りますっ!!」
 自分が寝台を間違えて寝ていたので怒っている、と早合点して寝台から降りかけ、全裸であることに気づいて今度は自分の服を探す。
 そして床に散らばる自分の服を拾いあげている最中に気づいた。戸口に倒れている血まみれのリアラに。
 振り返ったルッツの眼に、再びダグの血塗られた剣が飛び込んだ。声を失い、信じられない、という面持ちでゆっくりと首を振る。
「ど……どう……して…………ダグ、さん?」
「理由はある」
 いつもと変わらぬ無愛想で冷たい声だった。
「これだ」
 リアラに近づき、その傍に膝をついたダグは、その手から『アレスのバンダナ』を引き剥がし、ルッツに振って見せた。
「これ……僕の……どうしてリアラが?」
「この女は『創世の光』の回し者だ」
「そ、そんな……! そんなの、嘘だ!」
「おそらく、お前からこいつを奪うよう命じられていたのだろう。……どうやら、お前は向こうに捕捉されつつあるようだな」
 迫り来る危機を予感させる言葉とは裏腹に、立ち上がったダグの眼には、その危機を待ちかねるような昏い光が宿っていた。
「そ、そうだとしても、殺すことはなかったじゃないか! 彼女は、彼女は…………僕の…………初めての……初めての人…………だったのに。ちゃんと話してくれれば……僕だって……」
「そうか。だが、殺したのは俺の都合だ。それ以上は聞くな」
 あまりに冷淡かつ自分勝手な言い分に、ルッツの怒りは爆発した。
「そんなの納得できないよ! 人が一人死んだんだよ!?」
「納得してもらおう。そう決めたはずだ」
 その一言、その一睨みで、ルッツは抗議の声を全て封じられた。ルッツにとってダグは、絶対君主に他ならない。いかに理不尽であろうとも、その決定には従わなければならない。
 目に涙を溜め、無念そうに拳を床につく。
 ふと、その指先に硬い物が触れた。
 服の下、鞘代わりの布袋から小剣の柄が、わずかにはみ出していた。まるで自分を使え、と囁くように。
 胸の内で渦巻く激情のままに、夢遊病者のようなゆっくりとした動きでその柄をつかみ……袋から抜き出――
「――それでいいんだな?」
 不意に頬へ押し当てられたひんやりとした鋼の感触が、ルッツを正気に引き戻した。
「……え? あ? え?」
「今それを抜けば、俺はお前を斬る。それでもいいのなら、抜くがいい」
 たちまちルッツの殺気は霧散した。
 今、自分は何をしようとしたのか。
 殺そうとしたのか――それが達成できていたかどうかは別にして――ダグを、他人を、その手で殺め、その返り血を浴びようとしたのか。ダグと同じように。
 手の中の小剣を愕然と見下ろしながら、ルッツは自分の内にあるものの恐ろしさに悪寒を覚えた。そして、それの実行を可能にするもの、凶器の存在にも。
 ダグの小さなため息にも、ルッツは気づかなかった。
「それでいい。刃には抜き時がある。今はまだその時ではない。……宿の主人に報告してくる。今のうちに最後のお別れをしておけ」
 そう言い捨てて剣を一振りし、血肉を振り払ったダグはそれを鞘に納めながら廊下に出ていった。

 ―――――――― * * * ――――――――

 低く、押し殺した嗚咽が聞こえてくる。
 一階へ下りる階段の途中で、ダグはふと足を止めた。
 再びため息が唇を割る。
「……運の悪い女だ。あそこで猊下などと口走らねば、殺しまではしなかったものを、な」
 一つ首を振って、ダグは階段を下りていった。


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