蒼きバンダナのアレス Last Episode
〜Cross Fates〜【DUG/RUTZ】
ウルクスの影
スラス城下の一角に、教団幹部や聖騎士団幹部の屋敷が建ち並ぶ、かつての貴族街がある。
聖騎士団総団長ジルベルド=ウルデ=シグオスの居宅も、当然その一区画にあった。
かつてのシレニアス貴族が暮らしていた閑静な邸宅は、今や住み込みの聖騎士団見習も含め、常時十数人が剣を振るい、自らを鼓舞する掛け声が響き渡る賑やかな修練場となり果ててしまっている。
今も、シグオスは邸宅の中庭で木製の模擬剣を振るう少年の動きに、目を細めていた。
「――そうだ。斬りつけた際には、しっかり握り込め。迂闊に力を抜くと、相手に弾かれる。武器を失えば、それは即、死につながるぞ」
白いテーブルに広げた資料を片手に、白い椅子に座ったシグオスが声をかける。
はい、と威勢良く応えた少年の年の頃は十二、三歳。浅黒い肌に白い髪と、シグオスと共通する特徴を備えていた。
「だが、力を入れすぎてもいかん。力を入れようとすれば、それは力みとなり、動きが硬くなる。そうなれば、隙が生まれてしまうぞ」
またも威勢良く応え、素振りを続ける少年。
ふと、その手が止まった。荒い息を吐きながら、シグオスの方を向いて、汗だくの顔を袖で拭う。
「父上。父上の戦いぶりは荒れ狂う暴風、または鬼神の如し、まさに破壊の化身などとよく聖騎士団員の人たちが言ってるけど……そんな父上でも、やはりそうしたことは気にしてるの?」
息子の問いに、シグオスは困惑げに眉をひそめた。
「……どういう意味だ?」
「父上は体格に恵まれてるから、その身体や力に任せて一息に相手を叩き伏せる――そんな戦い方が得意だって聞いたから。違うの?」
「違いはせぬが……一体誰だ、そんなことを吹き込んだのは」
苦笑する父親に、息子は慌てた。
「あ、別にそんな悪口で言ってるわけじゃ……」
「わかっておる。――よいか、ヘリオス。わしやアクソールぐらい研鑽を積めば、そのようなことは、もはや息をするのと同じように行えるのだ」
「ほんとに!? すごいや。父上、僕もそんな風になれる?」
「もちろんだ」
顔を輝かせる息子に、シグオスはいかつい顔をほころばせて頷いた。
「お前はこのジルベルト=ウルデ=シグオスの一人息子なのだ。必ずなれるし、なってもらわねば困る」
「うん! がんばるよ、父上!!」
顔を輝かせて再び木剣の素振りを始めた息子ヘリオス。
その一心不乱な様を好ましげに微笑みながら見ていると、背後から声がかかった。
「あなた。あなた」
振り返ると、テラスに清楚なえんじのドレスに身を包んだ婦人が立っていた。夜にひっそりと咲く花を連想させる、一見影の薄い女性。
「なんだ、ヘレーネか。なんだ?」
振り返ったシグオスに、シグオス夫人ヘレーネは安堵したように微笑んだ。
「あなた。伝令の方がお見えよ。書斎に通しておきましたから」
「ああ、わかった。すぐ行く」
テーブルの上の資料を集め、席を立つ。ちらりと息子の練習ぶりを一瞥して、もう一度微笑み――シグオスは屋内へと入った。
―――――――― * * * ――――――――
「なに? メルガモの聖騎士団が?」
書斎で伝令に面会したシグオスは、書斎机の椅子に身を沈めながら露骨に眉をひそめた。シグオスの体格では、古い書斎椅子も小さく見える。
机の向こうでひざまずく軽装の伝令が大きく頷く。よほど急いで馬を乗り継ぎ、スラスへたどり着いたのだろう。その顔には憔悴の色が濃い。
「亡くなったのは隊長オルグ=マイヤーを筆頭に七名。遺体発見は昨日の夕刻、場所はメルガモとガルウィンの間の街道上です。詳細はこれに……」
伝令が差し出す報告書に目もくれず、シグオスは前屈みになって、両肘を机の上についた。顔の前で両手を組む。
「そこに置いておけ。――で、現場では犯人の目星はついているのか? いずれ野盗か落人であろうが……」
「それが……皆目見当がついておりません」
「なに?」
怪訝そうに三白眼が伝令を睨む。
「なにぶん、例の少年捜索中のことですので、あるいはその少年にとの憶測も……」
「馬鹿を申すな!」
シグオスは語気も荒く机を叩いた。驚く伝令。
一瞬の静寂の隙間に、邸宅のどこかで誰かの発した掛け声が忍び込む。
「たかだか十四歳の少年一人に、栄えある聖騎士が七人も殺されただと? そんなことは絶対にありえん。そもそも聖騎士団が一方的にやられているはずがあるまい。他に死体はなかったのか? 襲撃者が野盗の類いなら、何人かは道連れに――」
「それが……今のところ七人の遺体以外には発見されてはおりません。いえ、敵に一矢報いたという形跡さえないのです」
「どういう意味だ?」
「現場にほとんど乱れがなく、七人の剣にも汚れはありませんでした。現場で調査している指揮官の見立てでは、恐らく敵の人数はきわめて少数、戦闘時間は長くて数分だと」
「馬鹿な……聖騎士の一部隊が一矢も報いずに、しかも数分で全滅だと……? 信じられん。若い団員六名はともかく、マイヤーは元々俺の直属だった男だぞ。そう易々と……」
ふと言葉が切れた。
脳裏をよぎる半年前の悪夢――たった数名の敵に、数十名の直属聖騎士部隊が半壊したばかりか、シグオス自身も右太腿に深い傷を負わされた――あの屈辱、忘れようとしても忘れられるものではない。
そう、あの殺しそこねた黒装束の若造の、全てを見透かしたかのような無表情も、しっかりと心に刻みつけられている。思わず歯ぎしりをしてしまうほどに。
「シグオス様、シグオス様?」
伝令の声でシグオスは我に返った。
「ん? ……ああ、いや、何でもない。ともかく、それはただ事ではないな。とりあえず指令書を出してやるから、当面はガルウィンを含め周辺の部隊を動員して対処しろ」
「シグオス様においでいただけませんか」
「うむ……行きたいのは山々だが、今は手が放せぬ。西部戦線に応援を送る算段をつけておるところでな。目途が立つまでしばらく動けそうにない。だが、もう四、五日して事態が進展せぬようなら考えよう。それまで、現場からの報告だけは絶やさぬよう伝えてくれ」
伝令は了解の応声をあげて立ち上がると、書斎から出ていった。
「さて……」
一息ついて、持って来た資料束を広げようとしたシグオスは、また先ほどの懸念が頭をもたげるのを感じて手を止めた。
黒く不吉な影が何度も脳裏で瞬く。
「……まさかな。奴の部隊は半年前に壊滅した。手脚を奪われ、半身を失い、自らも傷ついた奴が動けようはずもない。だが……」
自分の言葉にいまいち自信が持てないように黙り込む。
「そう……だな。教団のためにも、早々に奴の息の根を止めておかねばなるまい。片腕を失ったとはいえ、奴自身が恐るべき智謀の主であることは確か。そちらの方の策も何か練っておくか」
苦々しげに呟いて、聖騎士団の総団長は資料束を脇に寄せた。
―――――――― * * * ――――――――
交易都市ウルクス。
居住人口二千人を擁するアスラル南東部地方の中心都市にして、トニッシュ・クルスレード地域とアスラル中枢都市群とを行き来する人と物の中継地。
クルスレードから来た人や物は、ここからオービッドやハイデロアなどのアスラル中枢都市群へ向かい、逆にそちらから来た人や物は、メルガモからガルウィンを経て、森の外のクルスレードへと出て行く。
たとえ戦時中であっても商いは社会の基本。樹海の外と内との物流の流れが途絶えたことはない。なぜなら、自由の意味を本当に知る商人たちが、森の内外で一致団結して政治的思惑を排除してきたからである。
何事につけ税の徴収を図る他国に比べ、住民自治が行き届き、基本的に税負担の軽いアスラルは、商人にとって実によい市場であり、これを破壊、収奪しようとする試みは、彼らへの略奪行為に等しい。
そのため、そうした愚かかつ傲慢な試みに対しては商人同士の独自の情報網と、アスラル全土に根を張るギルドの情報網を駆使して全て事前に手が打たれ、万一王国連合の息のかかった商人が侵入しても、市場では一切相手にされないのである。
アスラル大樹海を守るのは義勇軍、聖騎士団、ギルドだけではない。いくつもの異なった立場の網がこの地に張り巡らされ、その秩序と平和を維持しているのだ。
ともあれ、それなりの量の物資が行き来するだけあって、ウルクスは昼夜を問わぬ活気に溢れていた。タックのような小農村で取れた作物を売る市が立つ日中などは、居住人口の二千に倍する人々が町中にあふれ返る。
この活発な経済活動のために、町の公園や広場などもかなりきれいに整備されており、昼は市の立つ場所も、夜は恋人達の逢引きの場所となっていたりする。
そんな広場の噴水台の縁に、『創世の光』教団女官長リアラ=ベイルは独りで座っていた。飾り気の少ない草色のワンピースを着た彼女は、少し垢抜けた年頃の町娘そのものだった。
噴水台中央の彫刻からは大きな炎が立ち昇り、辺りを明るく照らし出している。
日もとっぷりと暮れ落ち、周囲では若い恋人達が人目もはばからずいちゃついている。そんな中、ただ独り座っているのは、なかなか居心地の悪いものがある。
「ゼラニスに言われてここまで来たはいいけど……この先が問題よね。布を持つ少年つったって、そんなものわざわざ振りかざして歩いているわけじゃなし……どうすんのよ?」
協力を快諾してくれたゼラニスは一足先に到着し、ここでギルドの連絡員と落ち合う手はずを整えてくれているはずなのだが、一向に現われる気配がない。
暗い夜空を背景に、妖しく艶かしく身をくねらせて舞い踊り続ける炎を見ているのも、既に飽きていた。
「そう言えば、落ち合う合図って聞くの忘れてたわね…………ふぅ」
横顔にかかる栗色の髪をすきあげながら、十数度目の小さいため息をついていると、三人組の若者がにやつきながら近づいて来るのが見えた。いかにも頭の悪そうなチンピラ風だ。
一人でこの場所にいると、客待ちの娼婦のように思われるらしい。これまで十人以上に声をかけられ、いささかうんざりしていた。
少し場所を代えよう、と立ち上がり、三人組とは別の方向へ歩き出すと、連中は急に足を速めてリアラの行く先を遮った。
何のつもり、と鋭い眼で牽制しても、下品な笑い声をあげるばかり。年は十七、八頃か。リアラよりは確実に年下だ。
「よお、客待ってんだろ? 三人一緒ってのはどうだ?」
そおねえ、と考えるふりをして、誰か助けてくれないか、と周囲に視線を飛ばす。
誰もいない。こちらを見ていないカップルはもちろん、救いを求める視線に気づいても、関わりあいを避けて無視したり、そそくさと逃げて行く者ばかりだ。
リアラは、情けない連中ねぇ、と呆れつつ、腹を決めて愛想笑いをチンピラに返した。
「悪いけど、あたし人待ちなのよ」
「こんな時間にかい? へへっ、嘘はもっとましにつくもんだぜ」
不意に一人がリアラの腕をつかんだ。その手加減を知らない力に、リアラは鼻白んだ。
「ちょ、ちょっと、放しなさい! いい加減にしないと――」
言いかけて、思いとどまった。ここで自分が『創世の光』の関係者だと知られるのは、色んな意味でまずい。
「いい加減にしないと、どうなるの? ね、どうなるのさ? ひひひ、ねぇってばぁ」
小馬鹿にしきった口ぶり。そして、三人は一斉に下卑た笑い声をあげた。
「いい加減にしねぇと……ぶっすりいくぜ」
不意に背後から飛んできた、ドスのたっぷり効いた低い声に、三人の笑顔が凍りついた。
慌てて振り向いた三人の前に一人の男が立っていた。年の頃は四十、荒っぽく刈り込んだ髪型、やたらと派手な金属細工で飾り立てられた革のロングコートにぴっちりした革のズボン、丈の高い革のブーツ。いかにも裏の住人を思わせるその怪しげな風体の男は、炎にきらめくナイフを手の中で弄んでいる。
今は夜だからまだしも、昼の日中なら絶対に一緒にいたくないタイプの男だと、助けてもらう立場にありながらリアラは思った。
「おう、ガキども。ギルドの女に手ぇ出そうってか? いい度胸だ。覚悟はできてんだろうな」
男のセリフと眼光鋭い一瞥にたちまち三人は震え上がり、我先に逃げ出した。
「けっ、ガキがいきがりやがって」
夜の谷間に消えてゆく三つの背中に吐き捨てた男は、リアラに近づくと、意外にも紳士的な仕草で手を差し出した。
「待たせたな。あんたが『創世の光』の女官長、リアラ=ベイルさんだね?」
「て、ことは、あなたがギルドの人? ……なんか、ほんとにいかにもって感じねぇ」
手を握り返しながら頭の先から爪先までを無遠慮に眺め回し、感想をそのまま述べると、男は照れ笑いを浮かべて頭をかいた。
「いやあ、初めてのお客さんだっていうし、期待を裏切っちゃいけないだろ? 実はこう見えても俺、普段は鍛冶屋なんだぜ」
「そうなの? それにしちゃ、ずいぶんはまってるわよ、その格好」
「そう? いやー、実は俺も気に入ってるんだ。……っと、そうだ。悪いんだけど、あんたがリアラさんて証明できる何か、ある?」
頷いて、リアラは内懐から小さな巾着袋を取り出し、その中から白い印璽を出した。
「ヘぇ……これが『勅許印璽』ってやつか……話の通りだな。それにしても、教団を裏から支える女官衆の長が、本当に二十歳そこそこでしかもこんな美人とは……びっくりだ」
「あら、ありがと。さっきの連中よりは、礼儀を知ってるのね。少し安心したわ」
皮肉ぬきで純粋に感嘆する男に、リアラはにっこり微笑んで印璽を巾着の中へ戻した。
「で、話はゼラニスから通ってるはずよね。頼んでおいた件は?」
「その話なんだが……いきなりで悪いんだが、うちは手を引かせてもらうことになってね」
「なんですって」
男殺しの微笑が消し飛んだ。眉を吊り上げたリアラは、男にくってかかった。
「ガルウィンからウルクスまで、できないことは何もない、ガキが持ってる布一枚ぐらい、すぐに盗んで見せるさ、なんて大口叩いたのは誰よ。いったいどういう心境の変化」
「いや、誰って……」
自分が言ったわけでもない台詞で詰め寄られ、男は困った顔つきになった。実際、そのセリフを吐いたのはゼラニスであって、彼ではないのだが。
「とりあえず、座らないか? 立ったままじゃあ落ち着いて話もできない」
「そうね……わかったわ」
硬張った顔つきで噴水の縁に腰を下ろすと、男も隣に腰を下ろして低い声で話し始めた。
「こいつは……教団幹部のあんただからばらすんだが、やばいことになったんだ」
「やばいって……うちに睨まれるよりやばいことがあるの?」
リアラの口ぶりは尋ねるというより脅しだ。男は深いため息をついて首を振った。
「あんた、その口ぶりじゃギルドのことをまるでわかってねえな?」
「知ってるわよ。スラスでは何度もお世話になってるし。情報の確かさに関しても結構信頼できるもの。便利な組織よね」
「違う。……全っ然違う」
男は眉間をつまむように押さえ、力なく首を振った。
「いいかい、確かにギルドってのは、表向きアスラルのあらゆる情報を一手に握る組織のように動いちゃいるが、本来は情報屋の集まりじゃなくて、犯罪者協会みたいなもんなんだ。裏の危ない世界で生きてる連中が身を寄せ合うもんだから、色々な情報が集まって来るのであって、その逆じゃない。それに、そういう連中の集まりだから、組織戦には滅法強えんだよ。手段も選ばないし。……ここだけの話、その気になりゃ教団とタメ張ることだって不可能じゃねえんだぜ。それをしねえのは、あんた達と手を組んだほうがうちも何かと便利だし、各地のギルドにはそれぞれの縄張りってもんがあって、他の町のギルドといざこざを起こすのが面倒だからなんだよ」
あと付け加えるならば、一癖二癖では済まない連中が集まっているため、意思統一なんてものはほぼありえない、という理由もあるのだが、男はあえて黙っていた。いくら相手が美人でも、そこまで弱みを見せることはない。
「へー……教団の力を甘く見てるんじゃない? なんなら一度……」
氷点下の声。細い目をさらに細めて、鋭利なナイフを思わせる眼差しで睨みつけると、男は慌てて手を振った。
「違う違う、きれいな顔して危ねえ女だな。……勘違いすんなよ。別に教団と喧嘩がしたいわけじゃねえ。こう言うのもなんだけど、教団がアスラルの平和を維持してくれてなかったら、俺達もおまんまの食い上げなんだ。そういう意味では感謝してる。俺が言いたいのは、住んでる世界が違うってことなんだよ。だから、やばいって意味も変わってくる」
「ふぅん……なんだか、はぐらかされた気もするけど、まあ、いいことにしておいてあげる。それで、そのお強いギルド様が恐れるほどのやばいことって何なの?」
「……刺のある言い方するなぁ。ええと……リアラさん、あんた、『黒衣のダグ』って知ってるかい?」
「『黒衣のダグ』? さぁ……誰?」
「ガルウィン経由で街道沿いに森を出ると、クルスレードってところに出るんだけどな。そこいらの戦場を仕切る、王国連合側の傭兵団『獅子の牙』の参謀なんだそうだ。滅法戦に強い男らしくてね。聞いた話だと、智謀知略に長け、作戦のためなら平気で味方を危険にさらす冷酷非情な男らしい。『クルスレードの死神』とも呼ばれてる」
「ふぅん……」
気のない返事を返しながら、リアラはその名に聞き覚えを感じた。
(ダグ……ダグ………………そう、私が知ってるのは、ダグ=カークスだっけ。確か……)
リアラは教団内、特に中枢都市部における情報管理統制を主な仕事にしているため、戦に関する情報には通じていないが、クルスレードはシグオス総団長の受け持ち地域だということぐらいは知っている――最近、負けが込んでいたということも。
そう言えば、ここ数年、シグオスの口に何度かその名がのぼっていたような気がする。深い憎しみと怒りを込めて……。その名が確かダグ=カークス。同一人物だろうか。
「で、その死神さんがどうしたのよ」
「そいつがあんたの探してる、クラスタ坊やと一緒にいやがるんだ」
「な――」
リアラは細い目を限界まで見開いた。
「――なんで!?」
―――――――― * * * ――――――――
「なぜだ」
ゼラニスの低い唸りのような問いが、闇の中に吸い込まれる。
ウルクスギルド本部の最奥部。ギルドを運営するギルド評議会幹部だけが立ち入ることを許された『闇の間』に、ゼラニスはいた。
その名の通り、見通せぬ闇の中、ただ一人立ち尽くす西部戦線の英雄。その眼差しは見えぬはずの闇の彼方を凝視していた。
「なぜ『クルスレードの死神』が絡んでくる? いや、そもそもなぜそんな大物がアスラルに潜り込んでいるのに、ギルドは教団に通報しない? 本来なら敵は教団とギルドの連携で排除するのが筋だろう――『不死身のアレス』の時のように」
(『アレス』の件があればこそだ)
闇の向こうから、囁くような声。声音の特徴を一切削ぎ落とした、無機質な声だった。
(確かに『アレス』の件では、我々がメルガモの聖騎士団に通報し、あの者の排除に成功した……聖騎士、自警団に甚大な被害を残してな。まだその傷は癒えていない)
いかにも苦渋の選択だ、と言いたげなわざとらしいため息の気配が漏れる。
ゼラニスは暗闇の中に立ったまま、皮肉げに頬を歪めた。
「ふふん。かつて、落ち延びたシレニアス王家の者にお抱えの暗殺者を差し向け、消して回ったギルドがお優しいことだな」
(……………………)
「ギルドの裏事情を知っている俺に、嘘は時間の無駄だ。本当のことを言え」
(……一昨日の夕刻、メルガモとガルウィンの間で、クラスタ少年を捜していた聖騎士七名が惨殺された。目撃者は残念ながらギルド関係者にもいないが、十中八九ダグ=カークスの仕業だ。その後、サラムナの宿に奴の名で泊まった黒づくめの男と少年も確認されている)
「……それで?」
(それで、とは?)
「それでは俺の質問に対する答えになっていない。なぜ教団と組んでいた手を放す?」
(それでは私もお前に聞きたい。なぜお前はそれほど教団に肩入れする? お前の信仰は、お前の親と同じ大地母神のはずだ。それに、お前はギルドの構成員ですらない)
「質問に質問で返すのか?」
(…………疑念が晴れれば、答えよう)
「いいだろう。アスラルの平和を守るには、教団とギルドという両翼が必要だ。教団だけではアスラルの隅々まで目を行き届かせることはできない。ギルドだけではアスラルを統率することはできない。両者があってこそ、アスラルは平穏なのだ。俺はその両者をつなぐ架け橋でありたい。アスラルのためにな。だからこそ宗旨がえもしないし、ギルドの悪行にも一切口出しをしない」
(なるほど……では、こちらも答えよう。我々ギルドはあれを死神だと認めた)
その一言にゼラニスは引っ掛かりを感じた。なぜ我々、ではなく、我々ギルド、なのか。
「どういう意味だ?」
(手を出せばただでは済まない。手を出さないのが上策だと判断したのだ)
「だが、アスラルの平和を破壊する存在だ」
(死神の目的はまだはっきりしていない。それに奴は化け物だ。お前は知るまいが、半年前、奴を罠にはめようとした聖騎士団の精鋭五十名の部隊が半壊させられている。奴と、奴の取り巻きわずか数名によってだ)
「……………………」
(本当にアスラルの平和が侵されるのかどうか、判然としない段階で、組織を危険にさらすわけにはいかない。君ならわかると思うが?)
「納得できんな。どれほど腕に自信のある戦上手な男だとしても、相手は一人なんだろ? たった一人にびびるとは、ギルドらしくない……まだ何か、隠しているだろう」
しばらくの沈黙。闇の彼方に隠れている者の逡巡を、ゼラニスは第六感で捉えていた。
「答えろ。話によっては、協力する」
(それだから困るのだ……)
「どういう意味だ?」
(…………………………わかった。お前のアスラルを思う気持ちを信じて話そう)
隠しもしないため息を、今度は演技ではない、とゼラニスは判断した。
(実はつい三日前、ガルウィンのギルドがたった一人の男によって壊滅しかかった)
「それが死神のしわざだと……?」
(詳しい話は届いていないが、ギルド幹部三名が殺され、その生首がギルド評議会議長の元に届けられたそうだ。それがどういう意味か、わかるだろう)
ゼラニスは息を呑んだ。
ギルド評議員の特定、評議会議長宅の特定、いずれも一筋縄では手に入らない情報だ。なぜならギルド評議員は大体表の顔を持つため、評議員であることを家族にすら隠し通すからだ。構成員ですら、誰が評議員なのか知らされない。
ましてギルドのトップに立つ評議会議長に至っては、その存在そのものが秘匿されている。それを根こそぎ暴きだすなど……。
(もちろん、ガルウィンギルドが黙っているわけはない。腕の立つ者を集めて奴の始末を図ったが……)
「まさか……」
(うむ。全滅させられたそうだ。どのような方法で襲撃を退けたかは知らんがな。そして奴は完全に屈服したガルウィンギルドを通じて、各地のギルドに声明を送ってきた。いわく、『死神に触れる者は死あるのみ』と)
声明とは名ばかりの脅迫文だった。しかも、ギルドが屈するとは思えないちんけな内容ではないか。
「……しかし、その目で奴の実力を確かめたわけではないだろう? ガルウィンと奴が手を組んだという可能性も……」
(慌てるな。声明にはまだ続きがある……ガルウィンギルド評議会による声明だ。『もし、死神に触れて空白地帯となった地域の権限は、早い者勝ちとする』)
「…………? それがどうかしたのか? そんなものは暗黙の了解事項だろう」
(わからん奴だな。暗黙の了解というものは、暗黙であってこそ意味を持つ。それをこうも公然とさらされては、お互い疑心暗鬼に陥ってしまって、奴を追うどころではなくなる)
「そうか……そういうことか」
ゼラニスは唸った。
自分に手を出せば返り討ちにしてやる。ガルウィンギルドを壊滅させることで、その実力を見せつけてやれば、行く先々のギルドは単独では手が出せなくなる。
そうなると、縄張り拡張を狙った隣近所のギルドが、奴のいる地域のギルドの仕業に見せかけてちょっかいをかけるかもしれない。ひょっとしたら、その又先のギルドが隣のギルドの仕業に見せかけて……と、疑いは際限無く広がってゆき、誰もが自分の縄張りを護ることを優先しだす。
ギルド同士は全面戦争での疲弊を避けるために、縄張りを主張しあい、尊重し合っているだけで、本来綿密な連携を取れる組織ではない。何かが起きれば、まず我が身を守りにかかる。他の何を置いてでも。
「自分に縄張り争いを絡めることで、ギルド同士の共闘を妨げ、同時に自分の身も……こいつは確かにとんでもない戦略家だな」
これで先ほど男が我々ギルド、と言った謎も、協力を困ると言った謎も解けた。ウルクスギルドとしては、ダグにそのまま縄張りを出て行ってほしかったのだ。下手に手を出せば、とばっちりを食う可能性は大だ。そしてそれはどこのギルドでも同じなのだ。
(『将軍』と呼ばれるお前ならわかるだろう。奴の恐ろしさが。我々は奴に触れてはいけない。教団との関係はいつでも修復できる。だが、壊滅した組織を修復させることは……)
「……わかった。この件に関して、ギルドの力は借りないことにする」
(感謝する。それと、この件はくれぐれも他言無用に頼む……誰にもだ)
「ああ。では、その代わりと言ってはなんだが、クラスタ少年の居場所だけでも教えてもらえないか。リアラ=ベイル女官長が接触したいのはその少年の方なのでな。後はこちらで何とかする」
(それならば、既に連絡員を彼女の元へ差し向けてある。しかし……)
歯切れの悪い口ぶりに、ゼラニスは苛つきを隠せない口調で聞き返した。
「なんだ、まだ何かあるのか?」
(うむ、たった今、問題が起きた。奴が、死神が……動き出した。目的は分からんが、この町で何かをするつもりらしい)
ゼラニスの眼がわずかに細まった。
「……自警団の指揮を執ろうか?」
(いや…………悪いが、出来れば夕食をとっていってくれないか)
「なに? 何を言っている?」
(我々は立場上、奴には一切手を出さない。自警団にも聖騎士団にも、奴の情報を流さない。流せば奴との大規模な戦いは避けられず、『アレス』の傷も癒えていないというのに、さらなる犠牲者が増える。それに、今ウルクスの聖騎士団戦力は、その半分がメルガモでの少年捜索に派遣されていて、奴を撃退できるとは思えない。加えて情報を聞く限り、奴の本質は暗殺者だ。無差別殺戮が目的ならともかく、放っておいても市民にさしたる危害は加えまい)
「だから、それと夕食とどう関係が……」
(いやなに、食事の最中に入ってくる情報をたまたま客人が耳に入れ、その客人が教団に通報したとしても、それは我らのあずかり知らないことだとは思わないか?)
「……ふっ、ふははははは。ギルドらしい理屈だ。なら、夕食のお誘い、受けるとしよう。……っと、そうだ、リアラにも連絡を」
(彼女の位置と動きはこちらで捕捉し、逐一報告させよう。しかし、ここへ呼ぶことはできない。分かってもらえると思うが)
「ま、教団関係者も関係者だからな、彼女は」
腰に拳を当てたゼラニスは、苦笑しながら肩をすくめてみせた。
―――――――― * * * ――――――――
「……どうしろっていうのよ……」
ギルド派遣の連絡員から事態のあらましを聞いたリアラは、前屈みになって親指の爪を噛みながら考え込んでいた。
シグオスとリアラ、バンダナの奪還命令が二重に出ている上に、聖騎士七人を皆殺しにする王国連合屈指の傭兵がかかわってきたとなっては、事態はますますややこしくなる。
しかもその傭兵が何をどうしたのか――連絡員の男は詳しいことを知らされてはいないらしい――圧力をかけて、ギルドの動きを封じているときた。
アスラルの日常の裏に根を張るギルドという組織には、本当のところ教団でさえ容易に圧力をかけることは出来ない。連絡員の男がさっき言ったように、表と裏、光と闇、住む世界が違うためにお互い共存できているが、組織の力関係はほぼ対等といっていい。
そのギルドを手玉に取る一介の傭兵――いったい何者なのか。
そもそもあの少年を助けたということは、敵はバンダナの秘密を知ったのではないのか。
その秘密が何なのかは知らされていないが、猊下がこれだけ慎重を期して自分に命じたからには、教団の根幹にかかわる重大な秘密に違いない。逆に言えば、ギルドが手を引いてくれたのは幸いかもしれない。
「いいかい」
考え続けるリアラに対し、男は声をひそめて言葉を続けた。
「向こうは相当頭がよくて、戦い方にも長けてる。あんたも手を引いた方がいい。さもないと死ぬことになる」
しかし、すっくと立ち上がったリアラは、冷たい眼差しで男を見下ろした。
「そういうわけにはいかないのよ。猊下直々の御命令だもの……。じゃあ、一つだけ確認しておくわね。ギルドはダグの味方についたわけじゃないのね?」
「うちは教団と仲良くしていたいんでね。ただ、今回に限り傍観だ。ウルクスギルドとしては、これ以降も通報する気はない」
悪いね、と両手を広げて肩をすくめる。
「邪魔しないならそれでいいわ。後は私一人ででもやるから。で、二人は今どこ? メルガモ? ガルウィン? 森の中?」
「ここだ」
「ここって……ウルクス? 何で? クラスタ君が逃げるのなら反対側でしょ?」
「わからんが、とにかく確認はしてある。今は『リスの尻尾』という宿屋に泊まってる……と、ちょっと失礼」
突然何かに気づいて立ち上がった男は、小走りで広場を横切って建物の陰に消え、しばらくしていそいそと戻ってきた。
「どうしたの?」
「チャンスだ。ダグが宿にガキを残して出かけたそうだぜ」
「そう……その絶好のチャンスでもギルドは手を出さないのね」
「ああ、悪いね」
それでも情報だけは流すあたりに、ギルドらしいしたたかな計算が見える。教団には情報を流すことで顔を立て、後は知らんぷりすることで、ダグとやらに顔を立てるつもりなのだろう。
「よくは分からんが、下手に手を出すと隣近所のギルドと戦になるとか言われててさ。でも、雇ってくれるなら個人的に手伝うぜ」
「……………………」
一瞬心が揺らいだが、自制した。彼は裏社会だけで生きている人間ではない。おそらく守るべき家族、守るべき生活があるだろう。危険な目には会わせたくない。それに、万が一のときにゼラニスの顔を潰しかねない。
「お断りよ。女も知らない子供の一人ぐらい、私一人でどうにでもしてみせるわ」
素っ気なく断り、歩き始める。
「ま、そう言うなら……頑張りな」
男は足早に歩み去る背中に向かって、軽く指で敬礼を切った。