蒼きバンダナのアレス Last Episode
〜Cross Fates〜【DUG/RUTZ】

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訃  報

 たくましい青年が、大剣を振り回している。
 身長の四分の三はあろうかという長大な刃の一振りごとに、いくつもの命の灯が消えてしまう。【 あいつ 】はそんな戦士だった。
 体格がいいとはいえ、決していかつい巨漢ではない。革の鎧の上からでも判る筋肉質な体つきではあっても、身長は人並みより少し高い程度だし、汗の珠が光るその顔は、直情的だが優しい男の性格を如実に表している。
 だが、その【 あいつ 】の表情は今、激しい憤怒に醜く歪んでいた。
 辺りは既に夜の帳に包まれていた。林間には松明の炎が行き交っている。
 【 あいつ 】を包囲する一団の、銀色の甲冑の胸には『輝く十字星』の紋章がきらめいていた。
 長大な両手剣で多くの甲冑騎士を斬り伏せ、その代償に決して浅くはない傷をいくつも負いながら、【 あいつ 】は前へ前へ進み続けた。目指す先には、鋭い短剣を喉に突きつけられ、身動きできずにいる母娘の姿があった。
 まだ十にも届かぬ娘を小脇に抱え上げ、もう片腕で母親の首に短剣を突きつけているのは、夜目にも鮮やかな白い髪に、夜の闇に沈みそうな浅黒い肌の初老の騎士。
 普段なら歳相応の風格と威厳に満ちているであろうその顔を、醜悪な勝ち誇りに歪め、何かをわめき散らし、嘲り嗤(あざけりわら)っている。
 不意に泣いていた娘が男を罵った。続いて母親も軽蔑の眼差しで男を睨み付け、なにごとかを叫んだ。
 たちまち老騎士の顔色が青ざめ、屈辱に歪み――短剣の刃が母親の喉をかっさばいた。同様にまだ幼い娘の首も、何の躊躇も無く斬り落とす。
 果実のへたが転がるように、二人の生首が転がった。
 コロコロと転がって、無念そうな表情を空に向けたまま止まる母娘。

 世界が凍りついた。

 時間がその流れを止める。

 声にならない咆哮――。
 魂を引き裂く慟哭――。

 【 あいつ 】の眼が悪鬼の如く、真紅の輝きを放った。
 一振りで甲冑の騎士を両断する剣が、激怒の威力を得て、大上段から老騎士に襲いかかった。
 しかし年季の違いというものか。顔を引き攣らせながらも老騎士は、短剣をその刃の横っ面に叩きつけ、捌(さば)き流した。翻す一撃で、短剣の刃を【 あいつ 】の肩口へと叩き込む。
 巨漢の騎士の殴りつけるようなその一撃に、思わず【 あいつ 】の膝が崩れる。
 老騎士はここぞとばかりに、かさにかかって攻め立てる。そこへ騎士団も加わった。
 【 あいつ 】の額が割れた。背後から同時に数本の剣を突き通され、切っ先の突き出した胸の傷口から勢いよく血飛沫が噴き出す。腿をえぐられ、足の腱を切られ、左腕がもげた。
 だが、騎士団も代償を支払わされた。
 いくつもの致命傷を負い、大量の血潮が失われ、即死してもおかしくない状況で、それでも【 あいつ 】は怒りのままに暴れ続け、犠牲者を出し続けた。
 不意に――老騎士が振り返った。『こちら』を。
 『こちら』を見て驚愕したその顔が、たちまち恐怖に硬張ってゆく。
 【 俺 】の感情があふれ出す。怒りと失望、そして――焦り。
 ほぼ同時に、林間から騎士団に襲い掛かるいくつかの影。
 【 俺 】の視界を塞ぐように突っ立っている騎士の甲冑を切り裂く白銀の刃。
 騎士団は完全に浮き足立っていた。たかが数人の敵に襲われただけで。
 【 俺 】を見て何かを喚く老騎士。ただ周辺をうろたえ見回す騎士団員。その一瞬、連中の頭の中から【 あいつ 】の存在は消えていたのだろう。
 その刹那、【 あいつ 】は最期の一撃を閃かせた。腰の後ろに携えていた小剣を、目前の憎き仇の右太腿にぶっすり突き立て――その先端は腿の裏から突き出していた。
 老騎士は無様な悲鳴を上げ、尻もちをついて倒れた。
 全身から噴き出す鮮血と返り血で真紅に染まった【 あいつ 】は、止めを刺さんと迫る。
 その血化粧に彩られた憤怒の形相に怯え、右太腿に剣を刺したままみっともなく這いずり逃げる老騎士を守るため、騎士たちが次々と【 あいつ 】に襲いかかった。
 さらに幾度も致命的な一撃を受けながら、【 あいつ 】は進み続けた。叫びとも咆哮ともつかぬ声を轟かせ、その行進を阻む者を、力の制御を失った拳の一撃で吹っ飛ばしながら。
 死んでいるはずなのに、死なない。騎士たちの気勢が引く。
 趨勢は決した。
 こちらは数人、向こうは数十人。だが、もはや戦ではなかった。


 戦場は完全な混乱状態に陥った。


 何人かが老騎士の肩を担ぎ、よろめきよろめきその場からの脱出を図っていた。
 【 俺 】はそこへ駆け寄る。
 老騎士を守るべく、立ちはだかる銀の甲冑を切り裂く。しかし、斬っても斬っても湧いてくる銀の甲冑。遠く離れ、夜の闇に融けゆく白い頭髪。
 何度か身体を貫く衝撃を感じながらも、爆発する感情のままに【 俺 】は敵を斬り伏せ続ける。


 気づけば――戦いは終わり、深い闇の中に取り残されていた。


 仲間が集まってくる気配がする。
 【 あいつ 】はもう動かなかった。
 仇の逃げ去った方向を睨みつけ、何かをつかみ取ろうとするかのように右手を虚空に突き出したまま。
 それは今にも動きださんとしている彫像のようだった。
 その頬を伝う一筋の紅は傷口からあふれた鮮血か、それともそういう色の涙なのか。
 【 あいつ 】はただ――ただ無言で、そこに立ち尽くしていた。
 そして、【 俺 】も。

 ―――――――― * * * ――――――――

「……ヘイズ……」
 暗闇の中、むっくりと身体を起こしたダグは、思わず舌打ちを漏らした。
「死者の夢など……あまり……いい傾向とは言えんな……感情が昂ぶる…………」
 溜め息をついて、目頭を押さえたまましばらく意識を闇に沈める。
「……そうだ。しょせん、夢だ……細部も事実とは異なる……。この程度のことで心乱れるようでは、まだまだ俺も……」
 隣では、ルッツが時折幸せそうな寝言を漏らしながら眠っている。
 ふっと、空気がわずかに揺らぐ。
「……バカが…………俺にこんな役、押し付けやがって……くそ……」
 声になるかならないかの低い呟きを漏らし、ダグは再び横になった。
 窓の外では、どこからともなくふくろうの低い声が流れていた。

 ―――――――― * * * ――――――――

 ルッツは夢を見ていた。
 輪郭のぼやけた青い髪の少女の夢だ。
 自分より少し年上らしいその少女は、自分の知っている隣近所の娘たちなどとは比較にならぬ高貴さを漂わせ、まるで女神か妖精か、と思わずにはいられないほど美しかった。
 しかも――少し距離があるし、なにぶん輪郭がぼやけているため、はっきり断定はできないが――どうやら一糸まとわぬ生まれたままの姿らしい。
 そんな少女が、虚空の彼方で手を差し伸ばし、ルッツを招いている。
 しかし、彼女に近づこうにも足が動かない。
「君は……君は誰なの?」
 叫んでも叫んでも、声は虚しく消えるのみ。
 少女の可憐な唇もしきりに動いているようではあるが、その声は全く届かない。
 お互い必死で声を上げているのに、まるで二人の間に永遠の隔たりがあるかのように、聞こえるのは自分の声ばかり。
 もどかしさだけがお互いの共感であり、お互いの身振りで訴えられる唯一の意思だった。
 不意に涙で景色がぼやけるように、少女の姿が薄れ始めた。諦めたのか、力なくうなだれる少女。青く長い髪が一 房、肩から胸へはらりとこぼれ落ちる。
「待って、
君は……!」
 叫びとともに飛び起きたルッツの手は、力一杯バンダナを握りしめていた。

 ―――――――― * * * ――――――――

「……どうやら元気だけはあふれているらしいな。結構なことだ」
 夢を見ていたルッツは、起きぬけ早々、ダグの昏い声で我に返った。
 見れば、隣の寝床に就いていたはずのダグは既に旅支度を整え、退屈そうな表情で椅子に座っていた。もっとも退屈そうというのはルッツの思い過ごしで、実際はいつも通りの無表情なだけなのかもしれない。
 ため息をついて上体を起こしたルッツは、知らぬうちに握りしめていたバンダナに気づいて、思わずそれに見入ってしまった。
(あれが……あの娘が、あの傭兵の言っていたお姫様なのかな……? でも、それにしては素っ裸って……。それに、あの不思議な青い髪……どこの国の人なんだろ? あ、でもあれは夢なんだし、何でもありなのか。あれ? でもそうなると……夢は夢で……)
 そんなことを考えながら寝床から出ようとした途端、ルッツはダグの言葉に隠された揶揄にようやく気づいた。
 股間が見事に盛り上がっていた。
(ひ、ひゃあああああああああっっっっ!)
 日頃見慣れている男の朝の生理現象だったが、今日は意味合いが違った。
 ダグに揶揄された恥しさもあるが、それ以上それが夢の中の少女に対する冒涜行為のように思えたのだ。そんな気持ちになってはいけない、と思わせるほど、彼女は気高く、美しく思えた。
 実際にはしっかりとは見えなかったのだが。
(ち、違う、違うよっ! 僕にはそんなつもりは全然、違うんだよぉぉぉ……)
「さっさと身支度を整えろ」
 真っ赤になって股間を押さえたまま、逃げ込む穴を捜すようにあちらこちらを見回している少年に、ダグは厳かに告げた。
「今日は少し寄り道をする。ウルクス近くのタックという村へな……わかるか」
「タ、タック?」
 いつもと変わらぬダグの声と様子に、ほんの少し救われた思いで、寝台から降りる。頭の中で該当する村の名前を探しながら。
「……タック、タック…………ああ、わかった。でも、あんな小さな村に何の用? あっ」
 背を向けて身支度を整えていたルッツは、慌てて自分の口を押さえた。
 ダグのことに干渉してはいけなかったのだ。質問も許さない、と言っていたのをころりと忘れていた。
 しかし、意外にもダグは咎めなかった。返ってきたのはただ、沈黙だけ。
 奇妙な沈黙に恐る恐る振り返ると――驚いたことにその鉄面皮に、ルッツでもわかるほどの明らかな悲痛の色が浮かんでいた。
「……多分……俺の人生の中で最も辛い……用事だ。俺にも、そして向こうにも、な……」
 小さくため息をついて肩を落とす。その漆黒の身体が妙に小さく縮んで見えた。

 ―――――――― * * * ――――――――

 朝食を兼ねた昼食を取り終えたルッツとダグは、サラムナの町を後にした。
 森を割って伸びる街道をひたすら歩く道中は、時折行き交う人が黒づくめの青年とその連れの少年のアンバランスないでたちに首をかしげる程度で、何事もなく無事に過ぎた。
 昨日とは違って姿を隠さないダグに少し驚きはしたが、ルッツは黙っていた。彼の考えることはよくわからない。こちらに害がない限り、黙っていた方が無難だ。

 日も傾いてそろそろ空の色が青から黄色に変わろうかという頃、二人は目指す小さな村タックに到着した。
 鬱蒼たる森を切り拓いて作った幾畝かの畑に、こじんまりした小さな家がいくつか。まるで箱庭のような風景だった。
「ほんとに……小さな村だね」
 小さく漏らしたルッツの感想を、ダグは眼を細めて聞き流した。
 しかし、それだけ小さな村の入口に全身黒づくめの青年が立っていれば、嫌でも目についてしまう。すぐに近くで農作業をしていた中年の女が、手を休めて近づいてきた。
「なに、あなた達? この村にはなんにもありゃしないわよ」
 痩身長躯、がっしりした体格のその中年女は、ダグの前まで来ると、張り合うように腰に手を当てて胸を張った。 
「いえ、実はタッカードさんのお宅を捜しているのですが。この村だと聞いたもので」
 担いでいたザックを下ろし、柔らかい物腰で切り出したダグを、女は疑わしげな目でつま先から頭の先まで無遠慮に眺め回した。
「タッカード? タッカードっていったらうちだけど……どちらさま? 悪いけど、私、あなたの顔には覚えがないわ」
「あなたが……。これは失礼」
 急にダグは威儀を正して深々と頭を下げた。
「わたくし、ダグ=カークスと申します」
「ダグ……カークスさん? ……ううん、やっぱり覚えがないわね」
「実は、ヘイズのことでお話が」
「ヘイズ? ……うちにはヘイズなんてのはいないよ。人違いじゃないの?」
 訝しげな中年女に、ダグの顔も曇る。
「そんなはずはない。十四、五年ほど前に家を出た息子さんがいるはず。思い出して下さい」
「――! ……ああ、ああ、あああ、あぁあぁ!」
 突然息を飲んだ女は、大きく空けた口を手で覆い、目を大きく見開いて、何を言いたいのか、指でダグを何度も指す。
「思い出した! 思い出したよ! そうそう、そのくらい前に飛び出してったうちのドラ息子だよ! 全く戻ってこないし、手紙の一つもよこさないもんだから、てっきりもう死んだものと思って……。あの子の知り合いかい? あの子は今、元気かい? いったい今、どうしてるんだい?」
 久方振りに愛しい恋人に会ったかのようなはしゃぎよう。
 だが、その時のダグは傍から見ていたルッツが顔を背けたくなるほど、悲痛な表情を浮かべていた。つい昨日、聖騎士七人を殺害した男とは思えない、まるで別人の顔つきだった。
「……とりあえずこれを……」
 ダグが差し出す重そうな皮袋を、怪訝そうに受け取るタッカード夫人。受け取った時に、じゃらりと多量の貨幣特有の音がした。
「なんだね、これ?」
「それは、ヘイズが稼いだ――……」
 声が遠くなる。ルッツは気を利かせてそっとその場を離れていた。ダグがこの辺ぴな村を訪れた理由は知りたかったが、彼の雰囲気からして、傍にいてはいけない気がした。
 畑の畦道をゆっくり歩いて二人の声が届かないところまで離れ、振り返ると、ちょうどあの中年女が支えを失った人形みたいに、へなへなとへたり込むところだった。よほど信じられない話でも聞いたのか、哀れなほど狼狽しきって、しきりに首を振っている。
(何だろ……? 何かあったのかな)
 不意に女の金切り声が響き渡った。
「何で……何でそんな話をするのよぉ!」
 ダグの胸倉をつかみあげた彼女の細かい表情は見えなかったが、彼女は泣いているようだった。対するダグは黙ったままらしい。心なしかうつむいているようにも見える。
(うっわぁ……『黒衣のダグ』の胸倉つかみあげてる……。でも、ほんとに何の話なんだろ? ……いやっ、だめだだめだ、詮索しちゃいけないんだ…………でもなぁ……)
 一人ぽつんと畦道に佇み、しきりに疼く好奇心を抑え続けていると、突然背後で甲高い子供の声があがった。
「あー、お母さんが泣いてるぅー!」
 背中から心臓に杭でも打ち込まれたぐらい驚いて振り返ると、十歳にもならぬ幼い兄妹が、泣き崩れているタッカード夫人を指差していた。
「あの黒いお兄ちゃんがお母さんをいじめてるんだっ! 助けに行くぞっ!」
「うん!」
「ちょ……だ、だめだよ!」
 駆け出そうとする二人を、ルッツは咄嗟に通せんぼをして止めた。
「お兄ちゃん……誰? 何で止めるのさ」
 兄が警戒の色も露わに、妹を背後にかばう。
「あ、ええと……大丈夫、お母さんはいじめられてるわけじゃないから……多分……」
「でも泣いてるよぉ」
 兄の腰にかじりついたまま、妹が頬を膨らませる。
「本当に大丈夫だったら。大人はさ、強いからいじめられたって泣かないんだよ。だから、泣いてるってことはいじめられているわけじゃないってことさ。わかった?」
「?」
「??」
 我ながらアホらしい屁理屈だとは思ったが、兄妹は難しい顔をして考え込んでしまった。どうやら自分たちなりに理解しようとしているらしい。
「……よくわかんないや。どうする? お兄ちゃあん」
「……どうするったって……」
「上のお兄ちゃんたち、呼んでこようか」
「今日はお父さんと森仕事だろ。邪魔したら、怒られるよ」
 ひそひそ声というにはやや大きな声での相談。どうやらタッカード家には、彼ら以外にも年かさの兄弟家族がいるらしい。
(ま、いいか。何はともあれ、足止めはできてるんだし……。でも、いつまでもごまかせるもんじゃないしなぁ……)
 振り返れば、何がどうなっているのか、母親はうずくまって泣きじゃくっており、ダグはその傍らにただ立ち尽くしている。この様子を見せられたら、どう考えたって子供たちはダグの方を悪者だと思うに決まっている。服装も人相も悪いのだから、余計にだ。
「……ん……」
 ふと肌寒さと薄暗さを感じて、ルッツは首を巡らせた。
 かなり傾いた夕陽が鬱蒼たる緑の彼方に沈もうとしている。
「やばいなぁ……」
 ルッツの胸に別の焦りが走る。
 日が沈めば、たいていの町や村は安全のために入り口の門を閉ざしてしまう。
 ウルクスやオービッドのような大きな街なら、夜間でも通用門が開けられていたりはするが、次の投宿予定地はそんなに大きくない。今、発たなければ、確実に締め出されるだろう。
 しかし、二人は凍りついたようになかなかその場から動こうとしない。
 この村に宿屋はない。まして、ここで泊まるとも言っていなかった。タッカード夫人を泣かせてしまった以上、泊めてもらうつもりもないだろうし。
「……このままじゃ野宿だよ……」
 いい加減痺れを切らしたルッツは、少々悪どい手でダグを促すことにした。
 なんだか消化不良を起こしたような、渋い顔で考え込んでいる兄妹の背を軽く叩き、その耳元に囁いてやる。
「いじめられてるわけじゃないけどさ、お母さん、泣いてるだろ? 君たちが元気づけてあげないと、ずっと泣いたままだよ」
「え? 行っても……いいの?」
 たちまち兄が愁眉を開く。妹もころりと表情を輝かせた。
「いいとも、それぐらいならね。あの黒いお兄ちゃんは僕に任せなよ」
「うん!」
「行こ、お兄ちゃん!」
 ルッツの許しを得るや、兄妹はまるで野ウサギのような素早さで母親の元に駆け寄り、その腰にかじりついた。
 母親は突然現れた子供たちに慌てつつも、乱れた服を手早く直し、涙を拭き拭き立ち上がった。心配しきりの子供たちを優しく両腕に抱きしめ、落ち着かせる。
 その様子を横目に見ながら、ルッツはダグのマントを引っ張った。
 虚ろな黒い眼差しが、ちらりとルッツを見た。
「そろそろ行かないと……次の村の門が閉まっちゃうよ」
 ダグはそうか、とだけ答えて再び母親に視線を戻した。
「では、タッカードさん。私はこれで……」
 深々と頭を下げてマントを翻す。
 ルッツには何の関係もなかったが、そうしなければいけないような雰囲気に呑まれて、彼も頭を下げてから踵を返した。
「……あの、待って下さい」
 不意に呼び止められたダグは、怪訝そうに振り返った。
「あの子の……あの子の最期を教えていただけませんか。あの子の最期は……?」
 女の潤んだ瞳に、ルッツは胸を締め上げられるような、切ない気分を味わった。
 思わずダグを振り返る。
 心の整理をするためか、それとも言葉を選ぶためか、一旦眼を閉じたダグは、鋭い眼光で母親を見据え、一言で答えた。
「私は……彼と肩を並べられたことを誇りに思います。そういう奴でした。最期まで」
 たちまち漏れそうになる嗚咽を、口許を押さえてこらえながら、彼女は深く頷いた。何度も、何度も。
「そう……。ありがとう……本当にありがとう」
 行くぞ、と踵を返した漆黒の背中に、母親は深々と頭を下げた。
 ルッツにはよくわからない会話だったが、ダグが一言に込めた思いと、それを彼女が十分に汲み取ったらしいということだけは、なんとなくわかったような気がした。
 そして、ダグがこの村へ来た目的も。
 誰かが死んだのだ。それも、ダグにとって大事な人が。そしてその訃報をその人の母親に届けに来たのだ。だからサラムナでも、ここでもあんなに辛そうな顔をしていたのだ。
 街道へと向かう二人の背中へ、母親の柔らかな声が投げかけられた。
「カークスさん、あなたも早く傭兵稼業なんかから足を洗って……お母さんの元へ帰ってあげなさい。本当に……本当にそれ以上の親孝行はないんですから……」
 心からの呼びかけに、ダグは振り向かないまま、軽く右手を振ってみせた。
 だがルッツは横目で見ていた。彼が何とも言えない複雑な表情をしているのを。それがなぜなのかはわからなかったが。
 ただ、呟きだけが聞こえた。
「……女は…………強い、な」
 ルッツはふと背中の嬌声が気になって、振り返った。
 ちょうど妹を抱きかかえ、兄と手をつないだ母親が、夕食の献立について話しながら家へ戻って行くところだった。先ほどの泣き顔をほとんど感じさせない――それでも少し愁いを残した――笑顔で。
 その笑顔に、ルッツは哀しいほどの母親の性(さが)を見たような気がした。
 だから、ダグの呟きの意味は何となく分かった。しかし、どう答えていいものかわからず、ただ、うん、と相槌を打った。



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