蒼きバンダナのアレス Last Episode
〜Cross Fates〜【DUG/RUTZ】

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フェルナンデス=シェルロード=ルスター

 首都スラス。
 広大なアスラル大樹海の最北辺に位置し、北方の峻険たるシェルロード山脈に抱かれたこの都市は、千年に渡る悠久の歴史を持つアスラルでも最も旧く、神聖な場所である。
 その古き都市が、宗教教団『創世の光』の総本山となって久しい。
 今や二十年前の清楚で閑静な貴族の街のたたずまいはすっかり影を潜め、日中はアスラル各地から押し寄せる巡礼相手の門前市の喧騒に活気づいている。
 しかし、その雑然とした都市の様相の中でただ一つ、二十年の時の流れを知らぬように変わらぬものがあった。
 都市の外れの小高い丘の上、全てを見晴るかしてそびえ立つ白亜の城――スラス城である。
 背後の山合いから流れ出す清流を天然の堀とし、まるで白い岩から直接彫り出したかのように、精緻かつ堅牢を極めた建築様式で建てられたその城は、見事に周囲の風景に溶け込んでおり、見る者に感嘆の念を呼び起こさずにはいない美しさを誇っている。
 この古き白亜城の現在の主こそ、『創世の光』の創立者にして教団最高指導者であり、二十年前にシレニアスのくびきからアスラルを解き放った救世主だった。
 教皇フェルナンデス=シェルロード=ルスター。
 それが現在アスラルを支配する者の名である。

 ―――――――― * * * ――――――――

 高い陽射しが、ステンドグラスの窓から射し込んでいる。
 その日もスラス城の大広間には、朝から大勢の巡礼たちが詰め掛けていた。
 在りし日には舞踏会や王族の婚礼披露宴など、華やかな宴の場を提供してきたその大広間は、千人以上の巡礼をその中に収めてもまだ悠々と空きがある。
 天井の中央には、不安になりそうなほど巨大なシャンデリアがぶら下がっており、その下で思い思いの場所に座り込んだ巡礼たちは、ただひたすらに待っていた。
 二十年前、『創世の光』教団を興し、自分たちを古い因習から解放して平穏と安らぎを与えてくれた男、その圧倒的なカリスマで教団の頂点、つまりはアスラルの頂点に君臨し続けている男――教皇ルスターを。
 不意に城のどこかから、荘厳な鐘の音が響き渡った。途端に巡礼たちの顔が明るく輝き、大広間の雰囲気が華やいだ。
 やがて、大広間正面の壁の中央に突き出したテラスの上に、一人の男が姿を現わした。
 黒々とした髪の間に幾条もの白い筋が走る頭に宝冠を戴き、清潔な白地に金銀の刺繍を施した法衣をゆったりと着こなす初老の男。
「おお……猊下だ」
「教皇ルスター猊下だ」
「ルスター様、我々に導きの道を……」
 巡礼たちの感嘆が、うねりとなって大広間を揺らす。
 その言葉にならない声を心地よさそうに受け止めた教皇は、優しく微笑んで手を上げた。
 たちまち大広間は水を打ったように静まり返る。誰もがこの至福の時を無駄にせぬため、息を飲み、耳をそばだてていた。
『みなさん』
 教皇は全てを受け入れるように両手を大きく広げ、胸を張った。その声は朗々と大広間に響き渡る。
『破壊を恐れてはなりません。いかなる創造も、ひとたびの破壊もなく始めることはできないからです。今……世の中には破壊を恐れる風潮が広がっています。これは悲しむべきことです。思い出してください。みなさんが今の自由をどうやって手に入れたのかを。二十年前、それまで絶対的支配者として君臨し続けていたシレニアス王家を破壊したのはなぜだったのかを』
 一旦口を閉ざし、聴衆の様子を見渡す。彼らは目を輝かせ、じっと聞き入っていた。
『みなさんが立ち上がったのは、完全なる自由と平等の世界を創るため……身分制度という悪しき慣習を打ち砕き、誰もが同じ大地に足をつけて生きるためだったはずです』
 頷く者、手を合わせる者、御言葉を繰り返す者、ただただ頭を床にこすりつける者……。
『しかるに最近、かつてのシレニアスや四公国に縁のある者を差別する風潮が広がっています。これは憂慮すべき事態です。多くの尊い犠牲者を出した『シレニアス大破壊』は、みなさんがシレニアス王家にとって代わるためのものだったのでしょうか?』
 軽いざわめきに広間の空気が揺らぐ。
『かつてのシレニアスと同じ事が、今のアスラルで繰り返されてよいものでしょうか? それならば、私たちはシレニアスの何を破壊したのでしょう?  二十年前、私たちが破壊したものは……シレニアスの不公平で不公正な身分制度ではないのです』
 さらにざわめきが広がる。
『私たちが二十年前に破壊したのは、私たち自身の心の中に千年に渡って根を下ろし続けてきた、差別する心と差別を受け入れる心なのです。この事を忘れ、新たなる差別を始める者は、今、樹海の外からアスラルへの侵攻を虎視耽々と狙っている悪しき者たちと同じなのです』
 ざわめきが一転、あちらこちらから感嘆めいた唸りが湧き出してくる。
『私たちは、他者をおとしめる心を破壊しました。いえ、破壊したつもりになっていました。ですが、今一度胸に手を当てて、自らに問いかけてください。自分は本当に自由なのか。そして他者にも自由を保証しているのか……』
 自ら胸に拳を当て、目を閉じる教皇に習い、巡礼者たちも同じ行動を取る。
 しばしの沈黙が大広間に漂う。
『……今、私たちは新たな試練を前にしています。それは、過去の憎しみを破壊し、新たな世界を創り上げるという試練です。許すのではない。忘れるのでもない。しかし、憎しみだけは破壊する……おお、なんと――なんと困難な試練なのでしょうか。試されているのは腕の力ではない。知恵でもない。まさに心、心なのです』
 胸を叩く教皇の姿に、再び巡礼者達はそれぞれに信仰を証す行為を始めた。
『ですが、私は信じています。二十年前、あれほどに団結して『シレニアス大破壊』をやり遂げ、樹海の外からの邪悪な侵攻をも防ぎ続けたみなさんの力を。我々『創世の光』は、そういう皆さんの支えでありたいと願っています。――世界に浄化の破壊を。悪しき心の破壊を』
 教皇の説教の締めくくりに、大広間を埋め尽くした信者が応える。
『世界に浄化の破壊を。悪しき心の破壊を』
 地響きにも似たその大音声を聞きながら、教皇は満足そうに何度も頷いた。

 ―――――――― * * * ――――――――

「お帰りなさいませ、猊下」
 説教を終えて私室に戻ってきた教皇を、三人の女官が出迎えた。いずれも真っ白なワンピースをまとう、男ならはっと息を飲むほどの美人である。教皇の目尻も自然と緩む。
「お疲れでございましょう。どうぞお召し物をお取り替え下さいませ」
 頷いて姿見の前の腰掛けに座ると、女官たちは手早く法衣を脱がせにかかった。
「今日の説教は少し力が入りすぎたかな。言わんとすることは正しく伝わっただろうか」
「もちろんですわ、猊下。私のように学のない者でも、よくわかるお話でしたもの」
 金髪の女官が略式法衣を着せながら微笑む。
 その間に、前に回ったもう一人の若い女官が、額の宝冠に手を伸ばす。
「猊下、宝冠を失礼します……あっ」
 緊張に震える手で取り上げた宝冠が、手の中から滑り落ちた。妙に軽い音が響き、たちまち部屋の空気が凍りつく。
 まだ顔に幼さを残したその女官の顔から、見る見るうちに血の気が引いてゆく。
「あ……あの、あの…………」
 教皇ルスターはひょいと上体をかがめ、自ら宝冠を拾い上げた。そして言葉を失って立ち尽くす娘の手に、微笑みながらしっかりと握らせる。
「物を落としたくらいで、そんなに驚くことはなかろう。ほら、しっかりしたまえ」
「あ……え……? でも…………」
 事態が飲み込めず困惑する娘の両肩に、教皇は優しく手を乗せた。
「落ち着きなさい。君は取り返しのつかない失敗をしたわけではないのだから。私は飾り物を落としたくらいで怒りはしないよ。人に落ち度があるのは当たり前だからね。私だってこの間、大広間で杓を落として難儀した。だから今日は持っていかなかったよ。なければ落としようがない。ははは」
「猊下…………ありがとうございます」
「それは違う」
「え?」
 きょとんとする女官に、教皇は軽く片目をつぶってみせた。
「まず失敗を謝ること。許しを得た感謝はその後だ。順番を間違えてはいけないよ」
「あ……はい。――宝冠を落としてしまって、申し訳ありません、猊下」
 深々と頭を下げる娘に、教皇はまったくこだわりのない笑顔で頷いた。
「ああ、いいとも。許してあげよう」
「ありがとうございます」
 緊張が解けたせいか、目尻に涙を浮かべて一礼する。その頭を教皇は軽く撫でた。
 緊張の面持ちで成り行きを見守っていた二人の女官も、安堵の吐息をついていた。
「あー、ところでサラ」
 二人のうちの一人、金髪の女官に話を振る。
「リアラの姿が見えないようだが、彼女はどうした?」
「あ、女官長様でしたら、後ほど教皇の間に行かれると……かなり上機嫌のようでしたけれど」
「うぅむ、昨夜は激しかったからなぁ……」
 頷いて、にへら、と顔を緩ませる。
 聖の極致にある人とも思えぬ呟きに、答えた金髪の女官サラは思わず頬を赤らめた。
 その時、ドアがノックされた。
「どうぞ」
「うぃーっす」
 教皇の許しに応じて入ってきたのは、こんな所にいるより町の裏通りが似合いそうな、ふてぶてしい面構えの男だった。
 年の頃は四十、濃いブラウンの髪を荒っぽく刈り込み、革のジャケットにジーンズのズボン、丈の高い革のブーツと、かなり行動的ないでたちをしている。
「失礼します、猊下……おや、また新しい女の子が増えてますね。いやはや、五十を過ぎたってのにお盛んなことで」
 若い女官を見るなり、教皇に軽口を浴びせ掛けた男に、女官たちの顔色が消える。
 内容といい、口調といい、事実上のアスラルの支配者に叩いていい軽口ではない。
 しかし、女官たちを手で制した教皇ルスターは、変わらぬ柔らかな表情で男を迎えた。
「ゼラニスか。久しいな」
 教皇の口から出た名前に、女官は三人とも目を見張った。
「ゼラニスって……あのゼラニス?」
「アスラル自由軍西部戦線の英雄?」
「確か仇名が『将軍』……」
 女官たちの囁きを耳ざとく聞きつけて、ゼラニスは苦笑した。
「『将軍』はやめてくれ。うちは国家の軍隊組織とは違う。義勇軍なんだ。『森の守護者』っていうね。俺はそこの現場指揮官の一人に過ぎない。将軍も英雄もこそばゆくって、座りが悪いや」
「それで、君がここにいるということは、西部戦線のけりはついたのかね」
「いや、半分てとこですな」
 立ち上がって身振りでソファを勧める教皇に従い、移動しながらゼラニスは答えた。
「半年前のクルスレード停戦協定を受けて、こちらも休戦協定の策定を進めているところですから」
「そんな時に、君はここにいていいのか?」
 ふかふかのソファにどっかりと腰を下ろしたゼラニスの向かいに、教皇も腰を下ろす。
「ほんとはだめなんですがね……ちょっと久々に猊下のお説教が聞きたくなりまして」
 本気とも冗談ともつかない笑顔を浮かべる。
「そうそう、先ほどのお話も拝聴しましたよ。いや、実に素晴らしい内容で……」
「ゼラニス、気を使わなくてもいい。君はうちの信者ではないだろうに」
「いやいや、猊下のお話は信仰や宗旨の違いを超えて理解できるものですよ。妙な言い回しはともかく、神についてはあまり触れませんしね」
「……神……か」
 ふっと教皇の目が遠くなる。しかし、すぐに現実に戻ってきた。
「いやはや、そういってもらえると説教師冥利に尽きるよ。しかし、せっかくだが説教の寸評は後にしてくれないか。この後も忙しくてね。……で、本当のところは何の用だね?」
「その前に……」
 ゼラニスの目が杯を運んできた女官をちらりと窺う。教皇はすぐに意を察した。
「ああ、君たち。少し席を外してくれないか。話が終われば呼ぶから」
「はい、承知いたしました」
 女官たちは素直に頷くと、そそくさと部屋から出ていった。
 ルスターの眼差しがゼラニスに戻る。
「……で、何だね」
 ゼラニスは前屈みになると、聞き耳を怖れるかのように声をひそめて話し出した。
「実は、こちらの手落ちで『不死身のアレス』がアスラルに侵入してしまいましてね」
 ルスターの顔から表情が消えた。
「……『奴』が? 今さら? 何をしに?」
「さあ? その辺りは猊下の方がよくご存知なのでは? ――ああ、別に詮索したいわけじゃありませんから。ただ、奴の立場と能力からして、もしかしたら猊下のお命を狙うのではないかと思いましてね、こうして慌てて駆けつけたんですが……」
「いや、まだギルドからもそんな通報は受けておらんし、シグオス……聖騎士団からも報告はない。第一、奴が教団を裏切って逃走したのだ。こちらが恨みこそすれ、向こうに恨まれる覚えはない。……しかしまあ、戻って来るのなら願ったりかなったりだな」
 女官が置いていった水入りの杯に口をつけようとしていたゼラニスの動きが、ふと止まる。
「願ったり……そうなのですか?」
「あ、いや……実は……奴には少々重要な物を持ち逃げされていてね。一般的にはあまり意味のない物なのだが、我々宗教者にとっては、というやつだ」
「ああ、なるほど。例の……」
 空になった杯を置いたゼラニスは、それ以上追求せず、うで組みをして考え込んだ。
「しかし、そうなると……ここへ来ると見たのは見込み違いだったか。それとも、途中で追い越しちまったかな?」
「そんなに慌ててきたのかね?」
「あ、いやまあ」
 曖昧な返事がかえってゼラニスの心情をよく代弁している。
 ルスターは思わず微笑んでいた。
「いずれにせよ、貴重な報告だ。身の回りには気をつけることとしよう。で、今の奴の特徴なども教えてもらえれば幸いなのだが」
「はあ、特にこれといった特徴はないんですがね。三十くらいの男で、無精髭を生やして……そうそう、首に例の薄汚れたバンダナを巻いてます。ただ、『不死身のアレス』は姿格好を変えるのが得意ですから、この情報も当てになるかどうか……」
「……三十? 姿を変える? はて……?」
 首をかしげるルスターに、ゼラニスも首をかしげる。
「……? なにか?」
「あ、いや……奴の逃走事件は二十年前のことなんでな。その当時既に二十歳には見えたから、てっきり四十代になっていると思ったのだが……――何だ?」
 話の最中に割り込んできたノックに、ルスターは座ったまま応えた。扉の外から女官の落ち着いた声が響く。
『猊下、シグオス様が至急ご面会したいと……いかがなさいますか?』
「……シグオスが?」
 眉をひそめるゼラニスに、ルスターはうむ、と頷いて立ち上がった。
「奴が至急というからには、余程のことであろう。行かずばなるまい。ゼラニス、君も同席するかね?」
「いや、結構。用はもう済みましたし、教団の中に首を突っ込むつもりはありませんので、これで失礼しますよ。では、お先に」
 立ち上がり、さっさと扉へ向かう。
「貴重な情報をありがとう。元気でな」
「猊下こそ……そうそう、そのお年でやりすぎは身体に毒ですよ。お大事に」
 くかかか、と屈託無く笑うゼラニスめがけて、クッションが投げつけられた。
 アスラル西部戦線の英雄、『将軍』と呼ばれる男は、それをひょいと躱して扉の向こうに姿を消した。

 ―――――――― * * * ――――――――

 巡礼団がひっきりなく出入りする関係上、人の出入りに比較的寛容なスラス城とはいえ、やはり関係者以外の立ち入りを厳しく制限する最重要区域がある。教皇が下々の者と個別に面会する『教皇の間』も、その一つである。
 元々シレニアス王謁見の間であったその部屋は、最も奥の部分が数段高くなっており、その玉壇の上に代々シレニアスの正当王位継承者のみが座することを許されていた玉座が据えられている。
 もちろん、現在その玉座を占める主は『創世の光』教団教皇ルスター以外にない。
 ゼラニスとの密談を終えたルスターは、今まさにその玉座の上にあった。
 ただし、顔つきはがらりと変わっている。
 炯々たる輝きを放つ眼差し、固く引き結んだ唇――落ち着き払った表情。
 大広間での説教や私室で見せていた柔和な色を全て削ぎ落とし、権力の座にある者特有の精力感を放つその顔つきこそ、教皇ルスターのもう一つの顔。優しい教皇様ではなく、『創世の光』を統率する君主の顔つきだった。
 そして今、その眼差しは『教皇の間』に存在するもう一人の人間、玉壇の下にひざまずく白髪の騎士に注がれていた。
 夏の日の雲を思わせるプラチナブロンドを脂で後ろへなでつけたその騎士は、鮮やかな光沢を放つ銀色の甲冑に身を包んでいた。
 首から下の身体は甲冑によって完全に覆い隠されてはいるものの、それを内側から支えるに相応しいだけの体格を誇る偉丈夫だった。
「面を上げよ、シグオス」
 尊大な声に、男は真っ白なプラチナブロンドの髪と強烈な対照をなす浅黒い顔を上げた。
 外見上の年齢はルスターと変わらない。しかし、その鋭い眼差しはルスターとは全く異なっている。己の腕力、あるいは武芸の力量に絶対の自信を持つ者の眼光だ。
「報告を聞こうか。教団とアスラルの平和を守る聖騎士団総団長自らが報告に来るからには、余程のことなのだろう?」
「ははっ」
 シグオスは片膝をついたまま一礼し、野太い声を出した。
「実は、先ほどメルガモよりの伝令が到着したのですが、その内容が内容だけに、一刻も早く猊下のお耳にと思いまして、私自らが報告に参上した次第でございます」
「ほう……内容が内容、とは?」
 周囲に他の人影はない。しかし、シグオスは声をひそめた。
「『奴』がアスラルに現われました」
 ルスターの眉がぴくりと動いた。
「なるほどな。……続けよ」
「はっ、これまでの報告では、『奴』は西部のローディアン方面で暴れまわっていたはずなのですが、なぜか一昨日メルガモに現われ、聖騎士団と一戦交えたとのこと」
「で、捕らえたか」
「それが……横死したとのことです」
「横死? 聖騎士団が殺してしまったということか?」
「はっ。報告では、重傷を負わせたにもかかわらず、まるで魔神のような力を発揮して包囲を逃れ、その後宿屋で死んでいるところを発見された、と」
「魔神……か」
 ルスターは感慨深げに頷きながら、顎を撫で回した。
「その一戦で現地の者たちにもかなりの被害が出ております。ですから、お叱りは全てこのシグオスがお受け致します。どうか部下を責めないでいただきとうございます」
「いや、責めはせん。戦いの最中にはそういうこともあるだろう。それに失われた命は誰を責めたとて戻りはしない。メルガモの聖騎士団と犠牲になった者の家族には、後ほど恩賞を取らせよう」
「ありがたきお言葉……部下たちもきっと喜ぶことでしょう」
「うむ。それよりも、『奴』が持っているはずの例の布は回収できたのか?」
「は、それが……見失いました」
「見失った?」
 心に広がったわずかな波紋を示すように、ルスターはわずかに目を細めた。
「戦いの最中には確かにそやつの首に巻いてあったという話なのですが、死体を発見した時にはもう……おそらく持ち逃げされたものと思われます」
「……そうか」
 その沈んだ口調に、シグオスは慌てて報告の残り半分を告げた。
「ですが、手掛かりは残っております。持ち逃げした犯人の目星はついていると」
「ほう、それは……?」
「ルートヴィッヒ=クラスタ。『奴』が横死していた宿屋の十四歳になる一人息子で、当夜その屋敷に唯一存在していた人間……そして、その夜以来ふっつり姿を消しております」
「ふむ……確かに怪しいな」
「現在、メルガモの聖騎士団と自警団が総力を挙げて、その少年を捜索しておりますので、結果の報告はすぐにもたらされるものと……。既にウルクス常駐部隊からも、捜索の応援に向かわせました」
「時間の問題か」
 再びふむ、と頷いたルスターは、ほんの数瞬視線を虚空に泳がせた。
「……ところで、その少年の容姿服装などはわかっておるのか?」
「は? 少年の、ですか? 確か……」
 慌てて報告書を取り出し、数枚めくる。
「ええ……華奢な体格、栗色の髪、ド派手なセーター、深緑のズボン……だそうです」
「そうか、ご苦労だった」
 質問の意図がわからず眉をひそめていたシグオスはしかし、教皇が満足そうに相好を崩すのを見て、とりあえず安堵した。
「次は朗報を待っておるぞ。……ところで、右脚の状態はその後、どうだ? もう傷は塞がったのだろう?」
 自分の右太腿を見下ろしたシグオスは、表情を改めて深々と頭を下げた。
「はい。あの忌ま忌ましき王国連合の犬に受けた傷は、全て。一時は脚の切断さえ覚悟いたしましたが、もはや何の支障もありません」
 自慢するかのように自らの右太腿を、軽く叩いてみせる。
「全ては猊下の『奇跡の御業』のおかげ。このシグオス、より一層の働きをもって猊下に、そして教団に御奉公させていただき、必ずやこの御恩に報いてみせます」
「うむ。期待しておるぞ。とりあえずは今の件を迅速に頼む」
「必ずや早急に朗報を。では、これにて」
 立ち上がったシグオスは、深く頭を下げて『教皇の間』から退出していった。
 扉が閉まると同時に、教皇は大きく吐息をついて玉座の上で姿勢を崩した。
「……もうよいぞ、リアラ」
 その声に玉座の後ろから、栗色のショートボブを揺らして、二十歳過ぎほどの若い女がひょっこり顔を覗かせた。すっきりした顔つきとスマートながら凹凸のはっきりした体線が蠱惑的な、いかにも男好きのする美女。
 それがほの白い肩も、艶めかしい素脚も露わなまま、白い下着姿で立っているのだから、教皇も鼻の下が伸びるというものだ。
 そしてその男を誘うようなしどけない姿が、ルスターとの私的な関係を端的に表していた。
「んもう、先に猊下をお待ちしてたのはあたしなのに、どうして玉座の裏でこそこそしなくちゃいけないのよ」
 豊かな胸を強調するように腕を組んだリアラは、シグオスの消えた扉を見やりながらまるで少女のように頬を膨らませた。
「仕方あるまい。お前がその姿では、またぞろシグオスと大喧嘩になるところだ」
「あのおっさん、ほんと律儀なんだからぁ」
「だったら、ここへそんな姿で顔を出さねばいいだろうに」
「だってぇ、あたし、こういう刺激的な姿のほうが好きだし……猊下も嬉しいでしょ?」
「時と場合による。説教の最中にそんなあられもない姿を見せられても困る」
 すねたようにむくれるリアラに、ルスターは苦笑を隠し切れない。
 聖騎士団総団長という肩書に相応しく、面子や体面人並み以上に気にするシグオスは、私室はともかく、公的な『教皇の間』に妙齢の女性が出入りすることを極端に嫌う。
 彼女も別に逢い引きのためだけにここへ来るわけではないし、一応人目につかぬようにしているのだが、これまで何度も顔を合わせては注意、恫喝されているリアラは、まるで猫が犬を避けるようにシグオスを苦手としていた。
 ルスター自身もまた、そうした二人のやりとりを少なからず楽しんでいる部分がある。
「ところで……ねぇ、ルスター様ぁ。さっきの質問、何か魂胆があるんでしょ?」
 不意に白い下着の裾を翻して玉座の横手に回ったリアラは、あろうことか教皇の腕にしなだれかかった。
「わかるか、リアラ」
 手の甲に乗せられた柔らかな胸の膨らみの重みと、胸元から覗く際どい眺めに頬を崩しながら、ルスターは頷いた。
 まだ彼女が少女だった頃、隠しようもなく発散する色香が気に入って傍に置いたが、以来その色香にますます磨きがかかっている。……実はそれもまた、シグオスの嫌うところでもあるのだが。
 彼女の黒目がちの細い眼が、教皇を映して潤んでいる。それを見つめ返しながら、ルスターは厳かな声で告げた。
「リアラよ。お主に『布』の回収を命じる」
「え……? 『布』、ですか?」
 いぶかしげに眉をひそめたリアラはしかし、すぐさま立ち上がり、教皇の正面に回って姿勢を正した。だらしなく頬にかかっていた栗毛を指先ではねのけ、両手を腰の横に真っ直ぐ伸ばす。
 今までの淫らで怠惰な雰囲気はたちまち影をひそめ、先ほどのシグオスのものに似た、緊迫した気配を発し始める。眼の潤みも消え、漆黒の瞳には怜悧な知性が輝き始めていた。
「そうだ。大きさはバンダナほど、元の色は青だった」
「しかし、それは……シグオス様が……」
 態度や表情だけでなく、口調もがらりと変わる。教皇を表から裏から補佐する女官衆の長。それもまたリアラの一面でもある。
 彼女の疑念に対し、ルスターは表情を変えずに言った。
「奴は根っからの武人だ。直情径行も時と場合による。こういう繊細な事件ではからめ手の方が有効なのだが、奴には期待できん。お前はその点、信頼できる。そういうことだ」
「からめ手、ということはつまり、その少年に接触して……ということですか」
「シグオスを焚きつけて出し抜くなり、ギルドに依頼するなり、やり方はお前の好きなようにするがいい。……ま、相手は少年という話だから、あまりことを荒だてぬようにな。出来れば気の荒い聖騎士団から守ってやれ」
「わかりました。要は最終的にその布を私の手から猊下にお渡しすればいいのですね」
「そういうことだ。各地での便宜はお前に渡してある『勅許印璽』を使え」
「はっ、では……」
「ああ、それと」
 リアラは返しかけた踵を止めて振り返った。
「はい?」
「ゼラニスが来ている。彼はギルドに顔が利くからな。何かと助けてくれるだろう。スラスを発つ前に相談するといい」
「『将軍』が……? いつの間に。……わかりました、助力を仰ぎます」
 黒い瞳をきらりと輝かせたリアラは、軽く会釈して、横手の扉から退出していった。
 だだっ広い教皇の間に沈黙の帳が落ちた。
「……ふ……」
「……ふふふ……」
「……ふふふふふ……」
 抑え切れなくなったような含み笑いが、ルスターの口許から漏れる。玉座の肘掛を握る指先に力がこもる。
 その肩が、笑い声に合わせて揺れる。
「……長かった。実に……長かった……。あれから二十年……諦めかけていた『ルージュのかけら』が、まさか向こうからやって来るとはな。神は……本気で私を地上の解放者にするつもりなのか?」
 神の答えに耳を傾けるかのように、しばし目を閉じて沈黙する。しかし、すぐその口許は不敵に歪んだ。
「くくくっ……まあいい。神の意志が那辺(なへん)にあれど、我が意志はただ一つ。不当なる収奪者どもを打ち倒し、万民の平等と永遠の平和をその屍の上に築き上げるのみ、だ。ふ、ふふ、ふふふふ……」
 何かに取り憑かれた含み笑いが、無人の広間を虚しく流れてゆく。
 不意にルスターは玉座から立ち上がった。
 玉座の裏に回り込んで、天井から幾重にも垂れ下がるサテン地のカーテンをかき分ける。そこには、見るからに重厚な両開きの鉄扉があった。
 その取っ手をつかみ、無造作に引き開く。
 たちまちまばゆい光が溢れ出した。ルスターの全身が金色に染め上がってゆく。
 中は小部屋だった。床、壁、天井に奇妙な紋章や魔法陣が緻密に描かれている。
 そして中央の空間には――黄金色に輝く巨大なシャボン玉。それがこの圧倒的な光の源だった。
「破壊の巫女ルージュ……我が最愛の娘よ」
 恍惚たる表情で、ルスターはシャボン玉に囁きかけた。愛を語るように、言い諭すように。
 完全な球形を保ち、何の支えもなく空中に浮かんでいるその中には、確かに少女の姿があった。
 青い髪の少女。年の頃は十四、五歳。胎児のように両膝を抱えた姿勢のまま。眠っているのか、静かに目を閉じている。
「黄金(こがね)の光の中で……永久(とこしえ)の眠りの中で……お前は何を夢見ている……? 世界の平和か、さらなる浄化か……それとも……それとも、普通の少女としての人生か……? いずれにせよ、約束の成就は……償いの時はもうすぐだよ、ルージュ……」
 永遠の少女を見つめるその眼差しは、最愛の恋人を見るようでもあり、また最愛の愛娘を見る父のようでもあった。



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