蒼きバンダナのアレス Last Episode
〜Cross Fates〜【DUG/RUTZ】

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アレスのバンダナ

 その夜、両親は店を閉めて飲みに出かけ、ルッツは留守番を任されていた。
 時間がただただ緩やかに過ぎてゆく夜。
「……やっぱり、お金……だよなぁ」
 ベッドに寝転び、ランプの明かりで本を読んでいたルッツは、その本――実際は文字の羅列を追っていただけで、内容は全く頭に入っていない――を置いて、ため息をついた。
 何気なくベッド脇の机の上を見れば、やるせないルッツの心を代弁するように、ランプの炎が頼りなげに揺れている。
 その光に照らされて、机の前の壁に貼り付けた大樹海の地図も揺れているように見えた。
 またため息が漏れた。
 健脚の者が街道伝いに歩いてすら、東西の横断に十日、並みの足なら半月を要する、と言われるアスラル大樹海。
 ルッツの住むメルガモは、その広大なアスラル大樹海の南東部地域の中央付近に位置している。つまり、この町を出るにはいやでも森の中を通らねばならない。
 メルガモに限らず、大樹海の中に点在する都市や村を行き来するためには、人通りの多い街道だけでなく、時にはろくに整備もされていないような小径なども通らねばならない。
 当然、そうした人気のない道を通る旅人を狙って、山賊や追い剥ぎが頻繁に出没する。
 メルガモをはじめ主要都市には、治安維持のために『創世の光』教団から派遣された聖騎士団が常駐しているし、住民で組織された自警団もいる。
 しかし町の中はともかく、森の中にまでその威光が届いているとはいいがたい。森に隠れ潜む山賊や追い剥ぎに対しては、打つ手が無いのが実状である。
 それゆえアスラル大樹海を旅する者は、自分の力で我が身を守らねばならない。
 剣のような武器を身につけるか、商隊のように護衛を雇うか、巡礼団のように多くの道連れを作るか……いずれにせよ、大樹海の旅は非常な危険を伴うのだ。
 もちろん、ルッツには武器を購入したり護衛を雇うだけの資金など無い。
 働いて稼ごうにも両親が許してくれるはずもなく、許してくれたとしても、その金は二人の飲み代に消えることは目に見えている。また、親の目を盗んで稼ぐには両親が有名過ぎる。誰も雇ってくれない。
 かといって親の懐――つまり帳場――から頂戴することも無理だ。帳場の金は毎晩飲み代として、両親が全部持っていくからだ。
 金が無いなら、代わりに巡礼団に潜り込むという手も考えたが、最終的には一人旅になるのだから、根本的な解決になっていない。それに、教団の総本山はアスラル大樹海の最深部スラスだ。目指す森の外とは正反対になる。
 あれこれ考えて――思考の袋小路に入ってしまったルッツは、再びため息を漏らした。
 今晩など家出をするには絶好の機会なのに……やはり――両親がよくぼやくように――世の中、先立つものがなくては、ままならないものなのだろうか。
 無為に時間が過ぎ去り、ため息だけが埃のように降り積もってゆく。
 不意に古い柱時計が真夜中から二時間が過ぎたことを報せ、ルッツは我に返った。
 物思いに耽っている間に、かなり時間が過ぎていたらしい。
 両親がこの時間になっても帰ってこないということは、確実に朝帰りだ。今ごろ酒場の床でひっくり返っていることだろう。
「もう寝ようか……な…………?」
 ランプに伸ばした手が止まった。
 かすかな軋みが聞こえている。
「……………………?」
 手を伸ばした格好のまま、じっと耳を澄ます。どこかで床板が軋んでいる。誰かが……ゆっくり、ゆっくりと歩いている。
 音の出所は――階下。音の近さから考えてこの真下――台所らしい。
 今夜は泊まり客は一人もいないはずだ。
「何だろ……泥棒かな……?」
 入ってきたとて、盗むような物など何もないのだが。
 そっとランプを持って立ち上がったルッツは、足音を忍ばせて一階へと下りた。
 台所へ向かう前に、店の戸にかけたつっかえ棒を外し、空いている手にしっかりと握る。
 恐怖、昂揚、警戒、好奇心……いろんな感情が渦巻いて、胸が妙な高鳴り方をしている。
 忍び足でおっかなびっくり台所の扉の前にたどり着いたルッツは、まず息をひそめて中の気配を窺った。

 ………………。

 わからない。
 足音も軋みも止んでいた。
 向こうもこちらの気配を感じて動きを止めているのか、それとも出て行ったのか。

 ………………。

 しばらくじっとしていたが、動きはない。
 耳鳴りがするような静寂に焦れて、ルッツは待ち切れずに扉を開いた。
 中は――当たり前だが――暗闇だった。
「ええと……だ、誰も……いない、の……?」
 相変わらず動く気配はない。
 恐る恐るランプを掲げ、中を照らし出す。
「う、うわっ」
 光の中に浮かび上がった人影に、ルッツは目を疑った。
 男が一人、食器棚に上体を預けて横たわっていた――腹部から下半身を血まみれにして。
 ふと台所を見渡せば、勝手口から男の足元まで点々と血痕が落ちている。
 慌てて男に駆け寄ったルッツは、床にランプと棒を置いて、その肩を軽くゆすった。
「だ、大丈夫ですか?」
 男は一声呻いて薄くまぶたを開くと、自分を揺り起こした少年の姿をじっと見つめた。
「こ……この傷……うっ、うぷっ!」
 傷の様子を見たルッツは、その生々しさに危うく戻しそうになって、口許を押さえた。
 鋭利な刃で斬り裂かれたのか、腹部の無惨な傷口からはじくじくと赤い体液が溢れ続け、厚手の綿ズボンを太腿まで黒々と濡らしている。さらに衣服が吸い切れなかった分は腰から滴り落ち、尻の下にかなりの量の血溜りを作りつつあった。
「すまない……」
 眼差しの焦点をルッツに合わせた男は、いきなり謝った。
「……実は、こういうことでな。……もう、長くはない…………足が……動かないんだ」
 憔悴しきって眼の落ち窪んだ顔を向け、弱々しく微笑む。
 年の頃は三十ぐらいだろうか。無精髭まみれの本来は精悍な顔が、見る影も無くやつれている。
「な、何か……何か押さえるものを……」
 帳場に手拭いがあったことを思い出した。
「そうだ、手拭い!」
「待ってくれ」
 駆け出そうとした途端、男はルッツの手首をがっしりとつかんでいた。これだけの大怪我を負っているとは思えない力強さだった。
「どうして……? そのままじゃ、死んじゃうよ!」
 人を呼ぶこと、この場を逃げ出すことなど考えもしなかった。血が出ている。凄い勢いで。それを止めなきゃ、という思いだけだった。
 男は頬笑んだまま首を振った。傷がかなり痛むのか、額には汗の玉が無数に浮いている。
「ありがとう。でも、もういいんだ……。君や家の人には悪いが、俺は……ここまでの……ようだからな」
 男はルッツの手首を放すと、いかにも疲れたように重いため息を漏らした。
「でも……!」
「手当はいいから、俺の……うっく……話を聞いてくれ……ないか……」
「……………………」
 苦痛をこらえつつ訴える男の眼差しを見つめ返し、ルッツは乾いた喉で唾を飲み下した。
「それでも……それでもやっぱり放っとけないよ。待ってて、すぐに取ってくるから」
 言葉通りすぐに戻ってきたルッツの手には、数枚の手拭いとともにグラスと酒瓶がぶら下がっていた。
「それは……?」
「ブランデーだよ。気をしっかり保つにはこれがいいって、聞いたことがあるから……」
「ふ……気が利くじゃないか。ふふ……じゃあ、せっかくだし……一杯もらおうか」
 たちまち満面に喜色を浮かべた男は、待ち切れないように、手拭いを傷口に当てがいつつ、ゆっくりと上体を起こした。
 震える手で琥珀色の液体の揺れるグラスを受け取り、喉を鳴らして一気に飲み干す。
「……っぷふうぅ。くうぅぅ…………っ!」
 しばらく顔をしかめて、歯を食いしばるような表情を見せていたが、やがて大きく息をついて笑みを取り戻した。
「やっぱ、こいつだぜ……。まさに生き返る……感じだ…………ふふ、それにしても……まさか、忍び込んだ先で……うっく……飲ませてもらえるとはな……ありがとうよ」
 ルッツは微笑みながら空のグラスを受け取り、酒瓶とともにテーブルの上に置いた。
「しかし……こんな……かなりの上物、勝手に飲ませて……よかったのか……?」
「いいんです。どうせ、もうすぐ家出するつもりだったし……」
 ひどいやり方で巻き上げた宿代で買ったものだしね、と胸の内で呟く。
 照れくさそうに頭を掻くルッツに、男は何か言いたそうに少し眉をしかめたが、すぐに頭を振ってにっこりと笑い直した。
「そうか……だったら、こいつをやろう。……町の外は何かと物騒……だからな」
 そう言って腰の後ろから取り出したのは、血まみれの小剣だった。二の腕ほどの長さがある。絡みつく血がこの男のものなのか、別の人のものなのかはわからない。しかし思わぬプレゼントに、ルッツははしゃいだ声をあげていた。
「ほんと? ほんとに……いいの?」
「ああ……俺にはもう必要ないし、それに……どうせ先立つものが無いんだろ」
「何で、それを……」
「ふふふ、俺も家出少年だったからな」
 真っ赤に染まった手拭いを押さえたまま、男はいたずらっぽく舌を出した。
 酒の効果なのか、男の言葉から苦痛の呻きや言葉の途切れは消え、土気色だった肌にも赤みが差してきている。そして何より切羽詰まった表情が和らいでいた。
 少しほっとしたルッツは、その小剣を手拭いの一枚に包んで受け取った。そのまま床へ座り込んだ彼の眼差しは、抑え切れない好奇心と期待に輝いている。
「ありがとう。あのぉ……聞いてもいい?」
「ああ……何だ?」
「その傷……町の外で? 野盗か山賊に?」
「いや、この町で、聖騎士団にやられた」
 ルッツの顔に硬張りが走った。
「なんで……何か悪いことでもやったの?」
「いや、そういうわけじゃあないんだが……いやいや、やっちまったと言った方がいいのかな、この場合」
 何がおかしいのか、バカにしたような笑みを浮かべる。
「まあ、聞いてほしいってのは、そのことでな。少々厄介な物を手に入れちまって……こいつなんだが」
 男は首に巻いていた薄汚れたバンダナを乱暴に引き抜いて、ルッツに手渡した。
「…………何? これ?」
 ランプの光にためつすがめつしてみる。
 ひどく汚れていて、元の色や模様などは判別できない。わかるのは汚れ具合から見て、相当古い――少なくとも十年以上は昔の物だろうということぐらいだった。
 しきりに首をひねるルッツに目を細めつつ、男は再び食器棚に背を預けた。
「もう……半年ほど前になるかな……。俺はここから遥か西、ローディアンという地方で戦に参加していた」
 『ローディアン』という地名だけはルッツも知っている。アスラル大樹海の西に広がる荒野がちの地方らしいが、珍しい金属がよく採れると本に書いてあった。
「戦に……じゃあ、兵隊さんなの?」
「まぁな。家出した初めの頃は冒険家だ、なんつっていきがっていたもんだが、そのうち傭兵稼業が本職になっちまってなぁ……」
 何か思う所があるのか、ため息を漏らす。
「で、その戦で危うく命を落とす所だったのを救ってくれた奴がいてな……その命の恩人の形見なんだ……勇気と力を与えてくれる魔法のバンダナなんだぜ」
「魔法の……って、本当?」
 半信半疑の眼差しに、男は肯定とも否定ともつかない曖昧な笑みで応えた。
 ルッツは再び、灯りにバンダナをかざした。
 魔法についてなら人並み程度には知っている。自分たちのような普通の人間にはおまじない以上のものではないが、それを扱う人間は確実に存在しているらしい。
 噂では、破壊的な効果を持つ魔法を使う傭兵もいるとか。アスラルでも『創世の光』教団の教皇様が、魔法に似た『神の奇跡』を行うと聞いたことがある。伝説的な話では、その力で『破壊の聖女』と呼ばれる破壊神の巫女を封印したとか……。
 しかし、今、目の前にあるその一枚の布は、とてもそんな力を秘めた品物には見えない。
 かといって、死にかけの男がいきずりの宿屋の息子をからかっているというのも、やや信じ難い話だった。そもそもそんなことをして何の意味があるのか。
(やっぱり……あれかな? 心の拠り所になるお守りやなんかを、特別のって意味を込めて言う『魔法のうんぬん』。これもそういう意味なのかな?)
 判断がつかない様子で布を何度もひっくり返すルッツを見ながら、男は話を続けた。
「そいつは聖騎士団が躍起になって追ってるものでな、実は……『不死身のアレス』って聞いたことあるだろ」
「『不死身のアレス』? ……誰?」
 きょとんとして聞き返すと、男は残念そうに溜め息を一つついた。
「なんだ、知らないのか……ま、無理もない。ここはアスラルの東側、しかもだいぶ奥の町だから、森の外の戦とは無縁そうだしな。まして西側の戦いなんぞ」
 ルッツは素直に頷いていた。確かに戦に関連した話といえば、メルガモの自警団の人が何人か、志願兵だか義勇兵だかとしてトニッシュとかいう戦場へ赴き、それ以来、帰ってきていないことぐらいだった。
 森の外から攻めてきているという話は、噂話としてはよく聞くが、遠い国の話――それこそおとぎ話と同じぐらいの距離――だというのが、ルッツの実感だった。
「いいか、『不死身のアレス』ってのはな、最近噂に名高いクルスレードの『黒衣のダグ』と並ぶ、伝説的な傭兵なのさ」
「そっちも知らないけど……伝説ってことは、そんなに強かったの?」
「強いの何のって……いや、まあ噂で聞いた戦果はともかく、アレスが有名なのはやっぱり、その不死身さと神出鬼没さだな」
「どういうこと?」
「アレスはな、大きな戦闘のたびに行方不明になって死んだってな噂が流れるんだ。ところが、しばらくすると全く別の戦場に現われて、大活躍する。だから、ついた仇名が『不死身のアレス』。んで、噂にのぼるアレスの姿格好ってのはころころ変わるんだが、ただ一つだけ共通点があって、いつもバンダナを身体のどこかに巻いているんだ。そのいわくつきのバンダナが、つまりそれだ」
 へえぇ、と感じ入った声をあげてバンダナを見るルッツの瞳が輝いていた。それは寝物語に英雄譚を聞く少年の瞳の輝きだった。
 そして男はおとぎ話を息子にしてやる父親のように眼を細めている。
「森の外の傭兵団の英雄はつまり、アスラルを守る聖騎士団にとっちゃあ、憎むべき仇敵だからな。アレスの行方を……つまり、そのバンダナを持つ者をずっと捜してたらしい。……青く染めた布を持つ者を」
「青? これ、青なの? へぇ……でも、こんなの持ってたら、そりゃあ……」
「………………? そりゃあ、とは?」
「アスラルじゃあ、布を青く染めるのも、アレスって名前も厳禁なんだ。何でも……その昔、神様だか教皇様だかに逆らった裏切り者の名前と色だから、呪われるって」
「なるほど。それでなぁ……迂闊だったな」
 男は何かを納得したように一人頷いた。
「ええと君……あぁ、そうだ。そういえば、まだ聞いてなかったな、君の名前」
「僕? 僕はルッツ。本名はルートヴィッヒ=クラスタだけど、宿屋の息子には大仰だから、みんなルッツって呼んでる」
「ルートヴィッヒか。確かに大層な名前だ」
 男はくくくっと喉を鳴らした。
「よし、ルッツ。そのバンダナは君にやる。後は君の好きにしろ」
「え………………?」
 ルッツは目をぱちくりさせたまま、凍りついたように固まった。
「ええっ……えええっ ええええっっ」
「聖騎士に渡して報奨金を受け取るもよし、君の宝物としてどこかに隠すもよし、あるいはそれを持って家出するもよし。……どうせ、俺はもう終わりだからな。後は俺の知ったことじゃあない」
 男は一仕事終えたように、大きく息を吸い込むと、ゆっくりとゆっくりと吐き出した。
「死にかけの男の戯言に付き合ってくれたお礼だ……とりあえず受け取ってくれ」
 じぃっとバンダナを見つめていたルッツは、ふと強張った顔を上げて尋ねた。
「……ねえ、どうしても……わかんないことがあるんだけど……」
「ほう……何だ」
「どうして……こんな物を身につけて、わざわざメルガモへ来たの? ここへ来なきゃ、そんな怪我も負わずに済んだかも……」
「そうだな……そうかもな」
 ふふふ、と男は心底嬉しげに笑った。自嘲のような、それでいて誇り高いような、けれど照れ臭そうな、そしてほんの少し寂しげな、そんな笑みだった。
「けどな、初めに言ったろ……俺は冒険家なんだよ。冒険の手がかり、謎、乗り越えるべき障害、試練……これらがあれば、命を懸けてでも解いてみたくなる。それが冒険家の魂ってもんだし、未知の世界に挑もうってな男は、すべからく持ってなきゃならねえものだ」
 まあ、今回はちとドジっちまって、取り返しのつかねえことになっちまったがな、と他人事のように呟きつつ、腹部に当てた手拭いを見下ろす。もはやその布切れでも吸いきれず溢れ出した赤い血潮が、再び尻の下の血溜りに滴り落ちている。
「戦場で傭兵として死ぬより、未知の謎に挑む冒険家として果てたい……その気持ち、お前にはまだわからんだろうな。まあ、そいつを持ってりゃいずれわかるさ。それと……ルッツ、君がもしその布の謎を解いたあかつきには、夢のお姫様によろしくな…………ふふ、ふふふふふ……」
 男の含み笑いを聞きながら、ルッツは呆然と手の中のバンダナを見つめた。
「冒険……? 夢のお姫様……? 何のことだか、さっぱりだよ」
 そう呟きながらも、ルッツは頬がほころんでくるのを押さえられなかった。
 胸の奥に感じる大きなうねり。
 傭兵。『不死身のアレス』。魔法のバンダナ。お姫様。危険。そして――冒険。
 いろんな単語が脳裏に現われる。自然とルッツの思いはある方向へと導かれていた。
(これって……運命ってやつじゃないのか)
 ルッツは思った。家出の決意も、その実行を決断できないでいたことも、全ては今日この日の、この出会いのための布石だったのではないか、と。
 多分この人はどこかに囚われているお姫様――おそらく二十年前の『シレニアス大崩壊』で倒されたシレニアス王家か、四公国に縁(ゆかり)の人に違いない――の話を聞きつけ、彼女を救うために森の外からはるばるやって来たのだ。だが、その志半ばにしてここに倒れた。
 その使命を今度は自分が受け継ぐ……。
「ふ、どうやらその気になったみたいだな」
 自然と浮かんで来る、なんともいえない笑顔を持て余しているルッツを、男は嬉しさ半分、懐かしさ半分の面持ちで見つめていた。
「……あ、そうだ。僕もまだ聞いていなかったよね。あなたの名前」
 だが、男は力なく首を振った。
「俺の名前なんざ、もうどうでもいいさ。……すまん、やけに……喉が乾く。酒を……もう一杯もらえないか……」
 いいよ、と軽く請け負ってグラスに酒を注ぎ始めると、すぐに注文が飛んだ。
「半分なんてけちるなよ。ひたひた一杯に頼むぜ……」
「うん」
「いい子だ……ああ、それとな、ルッツ」
「なに?」
 思い出したような呼びかけに、ルッツは酒瓶の角度を慎重に操りながら、半分上の空で返事を返した。
「お前は実に冒険家向きのいい性格をしてる……俺が保証してやる……。でもな、冒険家になるなら覚悟をしとけよ……」
「覚悟って……何の?」
 注文通りひたひた一杯に満たされたグラスを受け取った男は、質問に答えず、はぐらかすように微笑んだ。そしてブランデーの香りを深く吸い込んだ。
「……いい……香りだ…………」
「教えてよ、何の覚悟がいるのさ?」
 膝を揃えて尋ねても、男は答えない。ただブランデーの馥郁たる香りを楽しんでいる。
「教えてってば。どうしてそんなにもったいぶる――……え……?」
 グラスの縁からこぼれた滴が男の指を濡らしている。滴り落ちる琥珀の輝きは、やがて一筋の流れとなってを濡らし始めた。それでもまだ口をつけようとはしない。
 いやな予感が脳裏をかすめる。
「ねえ、ちょっと……ねえってば……」
 恐る恐る肩に触れ、軽く揺すってみた。

 まるで支えを失った人形のように、男の身体は力なく崩れ落ちた。
 手から滑り落ちたグラスが床に叩きつけられて琥珀の飛沫を撒き散らし、たちまち高価なブランデーの匂いが室内に立ちこめる。
 こときれていた。別れの言葉も何もなく、眠るように、静かに。
 隣近所の葬式などで体験した、知り合いとの死に別れとは全く違う、生々しい死の現実に、ルッツはただ呆然と立ち尽くしていた。


 ――そして、その夜ルッツは家を出た。
 男の残した謎を解くために。
 自由を得るために。

 ―――――――― * * * ――――――――

「信じがたいな」
 聞き終わるなり、ダグは無愛想に呟いた。
 話の間に装備の手入れはもちろん、再装着も着替え――新しいシャツももちろん黒――も一通り終わり、今は濡らしたバンダナでマントの汚れを拭っている。
「信じてよ、本当なんだってば!」
「慌てるな、そのバンダナの話だ」
 必死の形相で喰ってかかるルッツを遮る。
「え? あ……いや、でも、これは……!」
「およそ魔道にかかわる伝説や噂に、ろくなものはないからな。当てにならないものは、信じないにこしたことはない」
「じゃあ、『不死身のアレス』は……」
「あれも似たようなものだ。軍全体の士気を上げるために、複数の兵士の活躍を一人の成果に収斂して作り上げた架空の英雄……いくら強くとも、死なない人間など存在しない。お前が会った傭兵――恐らくアレスを名乗ったために聖騎士団に殺されたのだろうが――や、街道で俺が殺した聖騎士ども、それに……――いや、奴らのようにな」
 ダグが一瞬言いよどんだのを、ルッツは見逃さなかった。
 しかし、聞く気にはなれなかった。どうせ聞いたところで答えてはくれないだろう。
「さて、そうなると……」
 ふと、ダグは虚空に視線をよぎらせてひとりごちた。
 その眼差しがつつ、とルッツに注がれ――ルッツは妙な怖気を感じた。
「え? なに?」
「……………………」
 無言で考え込むダグに、ルッツはごくりと喉を鳴らした。今の眼差し……何やら危ないことを考えているのだろうか。
「ルッツ」
「は、はい?」
「アスラルの案内は、どの程度できる」
「ええと……町や村全部ってわけにはいかないけど……この辺りと、巡礼で行ったことのある中枢都市群や首都スラスまでなら何とか」
「中枢都市群?」
「知らないの? アスラルの五大都市の辺りのことだよ。アスラル最大の都市ハイデロアを中心に北の首都スラス、東のオービッド、南のヨマンデ、西のユーノンの四都市に囲まれた、アスラルで一番人口が多くて、一番歴史の深い地域だよ」 ※地図
「そうか。ふむ……なら、シグオスもその辺りか……」
 ぼそりと呟いて顎を押さえ、また考え込む。
「シグオスって……聖騎士団総団長のシグオス様のこと? ダグさん、いったい……」
 何気ないその一言に、たちまちダグの表情が硬化した。
「それはお前の知ったことではない」
 冷たい声だった。その声だけで体温が一気に下がったような気がした。
「いい機会だ、ウルクスへ再出発する前に言っておくぞ。命が惜しければ、余計なことは詮索するな。自由行動も禁じる。無断行動の場合、是非は聞かない。即刻始末する。いいな、道案内だけを心がけろ」
 ごくりとルッツの喉が鳴る。この青年の言葉にただの脅しはありえない。
「……うん」
 今更ながら、とんでもない世界に足を踏み込んでしまったことを実感した。
 まるで夕食のためにニワトリでもひねるような感覚で、人の命が奪われる世界。想像を超えた無法の世界。自分のような弱者は、何が気に入らなくて殺されるかわからないのだ。
「……それで、あの……これは……?」
 ルッツが差し出したバンダナは、素っ気なく押し戻された。
「知らん――いや、必要ない。それをどうするかはお前の問題だ」
「……ありがとう」
 小さな声で言って、右手首に巻き直す。
「さて、と」
 マントを手早くまとい、ザックを担いだダグは、ふとルッツの姿を見て眉をひそめた。
「先を急ぐ前に、そのセーターは脱いでいけ。目立ちすぎる」
 言われてルッツは自分の姿を見下ろした。
 原色をぶちまけたような派手なチェックのセーターに開襟シャツ。質素な深緑の綿ズボン。確かに、目立ちそうではある。
(黒一色よりはましだと思うけどな……)
 などと思いはしても、表情には出さない。
 唯々諾々としてセーターを脱ぎ捨てた少年は、白い開襟シャツにサスペンダーでズボンを吊った質素な姿に落ち着いた。
「それでいい。……ほう、それか」
 鞘代わりに手拭いを巻いた小剣を腰の後ろに帯びているのを目ざとく見つけ、ダグは皮肉っぽく頬を歪めた。
「だが、いざというときに使えなくては、何の意味もないな」
 ルッツは唇を噛んだ。
 多分、その刃を聖騎士にもダグにも向けなかったことを揶揄されているのだろう。
 しかし、自分は彼我の力量差もわからずに噛み付く狂犬ではない……もっとも、今それを言った所で、鼻で嗤われるだけだろうが。
 いたたまれずうつむく少年に、ダグは少し片目をすがめ、言った。
「……お前にその気があるのなら、そのうちそいつの使い方を教えてやる」
 踵を返しながら残したその一言に、ルッツは顔を輝かせ、慌ててその後を追った。

 ―――――――― * * * ――――――――

 二人は夕暮れ時、サラムナに到着した。
 ルッツが捕まることも、ダグが立ち入りを拒否されることもなく。
 それでも黒一色のいでたちというのは、かなり奇異な印象を与えたようではあるが。
 木賃宿の寝床に倒れ込んだルッツは、食事もとらず、あっという間に眠りの世界へ引きずり込まれた。そして、三日ぶりの心地よい眠りに、翌日の昼まで一度も目を覚ますことはなかった。


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