ルートヴィッヒ=クラスタ
ルッツは走り続けていた。
湿った土に足を取られ、木の根につまづき、草いきれにむせ返り、全身を青臭い草の汁に濡らして、駆ける、駆ける、駆ける。
胸が苦しい。身体中が痛い。手脚は傷だらけだし、足元もふらつく。時折まともに顔面を襲う枝の痛さで視界が潤む。
それでも、ルッツは足を止めなかった。
追っ手が背後に迫っている。一人や二人ではない。
『創世の光』教団の私兵『聖騎士団』。
彼らが身につけているお揃いの重厚な鎧は、激しく動くとやたらと騒々しい音を立てるからすぐにわかる。森に出没する野盗や追い剥ぎへの用心なのだろうが、この深い森の中で人を――それもはしっこい盛りの十四歳の少年を――追う姿ではない。
とは言え、そんな連中に追い詰められつつあることも、また確かだった。
家出してもう二日。腹も減ったし、喉の渇きもひどい。汗と露でびしょ濡れの肌に貼りつく衣服の不快さと、刻一刻追いつめられている実感に心も萎えてゆく。もはや精神的にも肉体的にも、疲れは頂点に近かった。
しかし、それでもルッツは足を止めなかった――というより、止まらなかった。さっきから少し足を止めて様子を見たいのに、勢いがつきすぎて止まれない。少しでも追手を引き離そうと、斜面を選んで駆け下りてきたせいだ。
このままではいずれ木立ちに衝突する――
(でも……)
斜面に無理やり走らされながら、ふとルッツは思った。
(追いつかれて捕まって小突き回されるのと、木立ちにぶつかって気絶して、意識の無いまま捕まるのと……どっちが楽なんだろう? ……うう、どっちも痛そうだよなぁ)
そんな馬鹿なことを考えていると、不意に辺りの様子が一変した。緑一色だった視界が明るく開けていた。
そして、眼前に立ち塞がる黒い物体。
「え……と、な、なに なに!?」
止まれない。避けられない。
視界いっぱいに広がった黒に吸い込まれる――と感じた瞬間、額から後頭部へける衝撃とともに、暗闇に火花が散った。
その暗闇と火花の向こうに、ルッツは小さな光の球を見た気がした。
―――――――― * * * ――――――――
そもそもルッツが家を出る決心をしたのは、もう二ヶ月も前になる。
理由はいくつかある。多くの家出少年の動機である『未知の世界への憧れ』――ルッツの場合なら、アスラル大樹海の外へ出てみたい、という思い――もその一つではある。
しかし、最大の要因を聞かれたなら、ルッツは即座にこう答える。
「あの極道両親にはもう、うんざりだ」
ルッツの両親は、メルガモの町で小さいながらも知る人ぞ知る宿屋を営んでいたが、息子から見てもろくな人間ではなかった。
強そうな者には媚びへつらい、弱そうな者にはかさにかかり、気に入らないことがあればすぐ当たり散らす。昼間から呑んだくれ、経済観念はなく、浮気性で、粗野で、卑怯で、乱暴で、臆病で、小心で、狭量で、ぐうたら、無責任、無気力、無知、無作法、無礼、無理解……。
客への応対は悪い、飯は不味い、シーツは敷きっぱなし、部屋の清掃や片づけはしない……そのくせ宿代だけはきっちり取る。
他の宿屋のように、サービスや料理を売りにした客の獲得など初めから眼中にない。初めてメルガモを訪れた、運の悪い犠牲者が泊りに来るのをただひたすら待つ。そう、罠の巣を張って獲物を待つ蜘蛛のように。
あれではまるっきり――いや、誰がどう見ても純然たる詐欺だ。
泊まった客は例外無く悪態をついて出てゆくし、その後二度と姿を現わさない。料金支払いでのトラブルなど日常茶飯事だ。ルッツも何度か巻き込まれたことがある。まあ、親切心を発揮して割って入ったら両方から殴られたという、お定まりのパターンだ。
つまり、知る人ぞ知る、とはそういう意味だ。知る人はルッツの家がある区画にさえ近づかない。
ルッツはそんな極道両親が大嫌いだった。
しかし、家出を決意したのは、両親が極道だからではない。そういう人の道を踏み外した極道両親の子ども扱い、役立たず呼ばわり、それに日常的な家庭内暴力に我慢できなくなったからだった。
十四歳とはいえ……いや、十四歳だからこそ、ルッツには誰にも譲れない若々しい誇り、自尊心、そして理想がある。あの人間のクズ両親に子ども扱いされたり、何かあるとすぐ殴られる屈辱は、まさにそれらを土足で踏みにじられている思いがしていた。
確かに、自分の外見が同い年の友人たちや、周囲の大人たちと比べて、男として見劣りすることはルッツ自身も自覚している。
身体に関しては小柄な母の血を受け継いだらしく、どちらかというと華奢な体格だし、身長も十四歳にしては低い。
おまけに艶やかな栗色の髪を後ろに結んで、顔も童顔とくれば、女の子と錯覚されるほどではないにしても、実際の年より幼めに見られるのは仕方がないところだろう。
しかし、だからといってあの両親――俗悪で、善悪の判断もろくにつかないような非常識な大人――に子ども扱いされ、無抵抗な愛玩動物みたいにいたぶられるいわれはない。絶対にない。
今や宿屋の仕事だって一通りはこなせるし、両親以上にうまく切り盛りする自信すらある。……もっとも、常識さえわきまえていれば、大概の者はあの二人よりうまくやれるはずだが。
いずれにせよ、甘やかされるならともかく、愛情のかけらも感じられないあの態度には、もう我慢も限界だ。
あんな乱暴で低能で俗悪で見下げ果てた親、まして息子を役立たず呼ばわりする親など、こちらから願い下げだ。お望み通り役立たずの穀潰し(ごくつぶし)は目の前からいなくなってやる。さあ、この陰気臭い家を飛び出すぞ――と決意を固めて以来、二月。
家出の決心はしたものの、路銀もなければこの物騒な世の中から我が身を守る武器もない。もちろん、家出した後の見通しなどもあるはずはない。
いつ、この家を出るか。
最後の踏ん切りをつけかねていたルッツの元へ、決断の時は向こうからやってきた――
―――――――― * * * ――――――――
「…………はっ!」
正気づいたとき、ルッツは木漏れ日の差し込む明るい緑の天井を眺めていた。
したたかに打ったらしい背中と後頭部に鈍い痛みが広がっている。
(ええと……僕、何で寝てんの……?)
横になったまま、混乱した頭を整理する。
夢を見ていたような気もするが、痛みや疲れの具合、息の乱れ具合、辺りの状況から考えて、意識の混濁はほんのわずか、長くても数秒のようだ。
そう言えば、追っ手の姿も見あたらない。まいたのだろうか?
ふと気配を感じて首を巡らせると、目つきの悪い男が怪訝そうにこちらを見下ろしている。それがぶつかった相手だとわかったのは、そのあまりに特異ないでたちからだった。
歳は二十代半ばから後半ぐらいか。黒髪に黒い瞳。これはさほど珍しくない。
問題はその額に巻いた――実際は額どころか眉まで隠れてしまっている――バンダナ、膝下まで届く漆黒のマント、黒革のブーツだ。よく見れば、マントの合間から見えるシャツもズボンも手に嵌めた革の手袋も、そして肩に掛けた手持ちのザックまで黒一色だ。
黒、黒、黒の黒づくめ。地獄の使者と見まがう不気味なその姿。彼の頭上に見える明るい緑の天蓋とのアンバランスな対照が、その不気味さをいっそう強調している。
「……あ……あの……」
寝転がったまま呆気にとられていると、追手の声が聞こえてきた。
『こっちだ! こっちに逃げたぞっ!』
『逃がすなっ!』
「いけないっ! ……くっ……!」
自分の立場を思い出して跳ね起きたものの、危うくつまづきかけた。脚に力が入らない。膝が笑っているし、息もまだ整っていない。それに、立ち止まったせいで疲れが一気に噴き出したような気がする。一歩目を踏み出すのがひどく億劫だった。
(……っこ、このままじゃあ……捕まる……)
諦めたはずだった。しかし、捕まりたくはなかった。歯を食いしばって力を振り絞る。
「ご、ごめんなさい! 急いでいるんで!」
不気味な青年へ簡潔にお詫びして駆け出そうとした刹那、奇妙な感覚に襲われた。
(身体が――浮いて……)
視界が反転し――再び緑の天蓋が目に飛び込んできて――そして落下する。
襟首をつかまれ、物凄い力で引き戻されたのだ、と理解できたのは、黒づくめの青年の足元に尻餅をついた後だった。
「げほほっ、げほっ、な、なに……なにをするんだ……よっ! げほっ! げほっ!」
セーターの襟で喉を潰されそうになったルッツは、激しく咳き込みながら険しい非難の眼差しを青年に向けた。
「どこへ行くつもりか知らんが、その先には誰かいるぞ」
「え……」
振り仰げば、青年はなぜかうんざりしたような面持ちで、しかし鋭い光を放つ――ルッツでさえそれとわかる――眼差しを油断無く周囲に飛ばしていた。
やがて街道の前後から銀色の鎧に身を包んだ一団が現れた。
ルッツが飛び出してきた茂みからも一人。
たった今、飛び込もうとした茂みからも一人。
――総勢七名。まばゆくきらめく銀の鎧の左胸には、輝く十字星の紋章が彫り込まれている。
青年はわずかに片目をすがめた。
「『創世の光』の聖騎士、か」
聖騎士たちは黒づくめの青年に多少戸惑いながらも、二人を完全に包囲した。
「あ〜〜、おほん。え〜〜……旅人よ」
隊長らしき年配の紳士が進み出てきた。きちんと手入れした髭を鼻の下にたくわえ、いかにも仮面じみた微笑みを浮かべている。
六名の部下は緊張に顔を引き締め、二人の挙動に注視している。
「君が捕らえたその子は、実家から保護願いの出ている家出少年でね。おまけにある事件とも関わりのある、重要参考人なのだ。よく捕えてくれた、礼を言うぞ」
穏やかだが、有無を言わせない口調。
ルッツは不安げに青年を見上げた。
頭一つ分も背の高いその青年は、腰にかじりつく少年をちらりとも見ずに答えた。
「別に捕まえたわけではない。勝手にしろ」
「え? あの……?」
あまりに冷たく素っ気無い青年の言葉に、ルッツは困惑の表情を浮かべ、立ち尽くした。捕まえるつもりも、助けてくれるつもりもないのなら、なぜ引き止めたのか。
「おお、そうかそうか! では……」
ルッツの困惑を知らぬげに、隊長がほくほく顔で近づく。背後では騎士が二人進み出て、ルッツの逃げ道を塞ぐ。
青年も歩き出した。ルッツを置き去りに、歩み来る隊長に向かって。
「よい旅をな……お?」
余計な詮索をしないお礼のつもりで道を譲った隊長の腕を、不躾に青年がつかんだ。
「なんだ、なんのつも……」
「シグオスはどこだ」
あまりに唐突で無作法な聞き方に、聖騎士隊長は一瞬言葉を忘れて立ち尽くした。
「………………なんだと?」
「シグオスはどこだ」
「……おい、お前」
隊長は強張った顔で青年を睨みつけた。
「総団長殿を呼び捨てにするな。殿か様をつけろ。あのお方はお前達を守って……」
「いいから答えろ。シグオスはどこだ?」
全く表情を変えずに繰り返す。隊長は苛たしげに青年の腕を振り払った。
「貴様、一度ならず二度までも……。もう一度だけ言う。総団長殿を呼び捨てにするな。不敬であるぞ」
たちまち漂い始めた険悪な空気に、騎士たちはおろか、ルッツまでもが息を呑んでいた。腰の得物に手を伸ばしている騎士もいる。もはや『ルッツの捕縛』どころではなかった。
青年は、ふふん、と鼻を鳴らした。
「まだわからんのか」
「何がだ。言いたいことは、はっきり言え」
「……シグオスの傷はもう癒えたか?」
たちまち隊長の顔色が変わった――激昂の赤から、驚愕の青へ。
「確か――右の太腿をざっくり」
「な、なぜそれを……。あれは、聖騎士団でも緘口令が……いや、待て、まさか、貴様……そのいでたち! まさか」
青年の頬が歪んだ。愉快そうに、嘲るように。それは肉食の猛獣が獲物を捕らえる寸前にこんな表情をするのではないか、と思えるような酷薄凄絶な笑みだった。
その瞬間、隊長は咄嗟に飛び退った。
金属同士がぶつかって軋る耳障りな音が静寂を破り、血霧が緑の空間を染めた。
二人のやり取りに目を奪われていた誰もが、何が起きたのかわからなかった。
飛び退った隊長が、重く硬い装甲ごと腹を切りさばかれ、仰向けに倒れていた。飛び散る血の霧は、その腹部の傷口から噴き出したものだった。
ザックの紐を手放した青年の右手には、血の滴る剣が握られている。いったい、いつの間に抜いたのか。
「ぐぅうううう……っこ、殺せぇっ! こいつは……王国連合の…………犬だっ!」
血まみれの腹を押さえて叫ぶ隊長の言葉に、六人の若い騎士は顔を見合わせた。
間の抜けたその反応に冷笑を与え、黒衣の青年は赤い滴のしたたる剣を肩に担いだ。
「犬は犬でも、少し毛並みが違うぞ。俺はダグ・カークス。元『獅子の牙』参謀にして第二部隊隊長……そうだな、『黒衣のダグ』といった方が通りがいいか」
その最後の一言に、ルッツは耳を疑い、若い騎士たちは驚愕した。
「こ、『黒衣のダグ』だと!?」
「馬鹿なっ、ク、『クルスレードの死神』がなぜこんな所に!」
「はったりだっ!! その手に乗るかっ!」
「このぉぉっ、よくも隊長を!」
「命知らずめ、死ぬがいい!」
「逝ってしまえぇぇっ!」
頭に血を昇らせた若者たちは一斉に抜剣し、ダグに殺到した。
瞬間、黒いマントが周囲の空気を巻き込むように渦巻き、舞い踊り、波打った。
鈍い斬音にいくつかの呻きと苦鳴が重なり、三人の騎士がその場に崩れ落ちた。三人とも鮮血の噴き出す太腿を押さえて身悶えている。
先端の尖った膝当てと、腰からぶら下がる短冊形の装甲板(スカート)のわずかな隙間を、真横に斬りさばく。それも一動作で三人同時に。
信じがたい精度の剣技だった。
三人の中心で剣を一閃した姿勢のまま、かがみ込んでいたダグがゆっくりと立ち上がる。
転がる三人を黒いバンダナの下から見下ろすその眼差しは、異様に冷たい――哀れみでも蔑みでもなく、家畜を解体する肉屋の眼差し。
ダグの腕がしなり、銀の閃きが三度流れた。
悶え苦しんでいた三人の首から、新たな鮮血の華が路上に飛び散った。たちまち苦鳴も呻きも消え、再び緊迫した静寂が訪れる。
たちまち残る三人の気勢が一斉に引いた。
「き……きさ、貴様ぁっ!!」
「お、おのれっ! 奸賊!」
裏返った声に蔑みの眼差しが向けられる。その唇に浮かぶ冷笑。
「奸賊……か。ふふ……それより、腰が引けてるぞ。それで斬れるのか?」
残る三人はダグを包囲したものの、攻めあぐねてぐるぐると回り続けた。その動きを、足元に転がる同僚の死体が妨げているのは、皮肉としか言いようがない。
不意に一人がダグの背後から襲い掛かった――声はあげなかったが、鎧が騒いでは同じことだった。
ダグは振り向きもしなかった。剣の切っ先を翻して右脇に抱え込み、そのまま後ろに体重を預けて、背後の敵を串刺しにした。板金打ち出しの鎧を突き貫いて。
「……背後から襲うのは騎士らしくないな」
あまりに鮮やかな手並みに眼を剥き、血の泡を噴いて崩れ落ちる若い騎士。
その身体を貫いた剣を引き抜く前に、残る二人が同時に襲ってきた。
「きええええええええええええいぃっ!!!」
「うおおおおおおおおおおおおっっっ!!!」
「いい判断だが――無駄だ」
後退もせず、横へも逃げず――前へ踏み出す。
甲高い金属音と肉を斬り断つ鈍い音が交錯して――血霧が迸って、潅木の茂みを染めた。
無念の呻きをあげて、二人の騎士は折り重なって崩れ落ちた。
「馬……鹿な……二本目、だと…………?」
腹を押さえて立ち上がった隊長が、絶望的な声で呻いた。
どこから抜いたのか。初めの剣を背後から襲ってきた騎士の胴に突き刺したまま、ダグの右手には新しい剣が握られていた。その切っ先からも赤い滴が滴り落ちている。
ダグは突き刺さったままの剣を左手で無造作に引き抜き、両手に剣を携えて振り返った。
その昏い視線の先に聖騎士隊長を捉える。
「お、覚えておれ、『黒衣のダグ』!」
悲鳴じみた声で言い捨てて、鎧の上から血にぬめる腹の傷口を押さえ、よろめきよろめきその場から逃れようとする。
黒い疾風が走った。
憎々しげに歪んでいた隊長の顔が足音を聞いてか、振り返り――たちまち恐怖に引き攣る。
銀の一閃。
澄んだ響き。
背中を鎧ごと斬りさばかれ、のけぞる口から苦鳴が漏れる。
思わず背中をかばって振り向いたところへ、青年は身体ごとぶつかるようにして、右手の剣の切っ先をみぞおちへと突き刺した。
板金製の鎧が、またも易々と刃の侵入を許していた。
「ぐぶ……ぶぅぁっ……」
聖騎士隊長の口許から鮮血が溢れ出し、ひげを赤く濡らす。
ダグは突き刺した剣をそのままに、左の剣を右手に持ち替え、横に一閃した。
断末魔の叫びを上げる暇も無かった。
首が血の尾を曳いて、文字通り空を飛んだ。その切り口から盛大に鮮血が噴き出し、辺りの空気を血の色に染める。
血まみれの頭が木立ちの間に消え、木漏れ日の降りそそぐ森の街道に静寂が戻った。
戦いは終わった。
気だるげな午後の光と深緑の風景とは裏腹の、凄惨な殺戮現場だけを残して。
―――――――― * * * ――――――――
唐突に始まった戦いを、ルッツはただ呆然と見ているしかなかった。
何が何だか全く理解できないが、自分には関わりのないことで戦っているらしい。
死の恐怖に歪む顔。
閃き踊る銀色の刃。
耳障りな金属音。
肉を斬り断つ鈍い響き。
迸る赤い血の噴水。
断末魔の叫び。
どれもこれも、信じられない光景だった。
白昼堂々の命の奪い合い。
これまで見たこともなかった――見たいとも思わなかった――本物の殺し合い。
そんなことがあるんだろうな、程度にしか思いもしなかったそれが今、目の前で起きた。それも、一方的な殺戮という最悪の形で。
(これが……これが戦い……? こんな……)
胃の辺りがきゅうっと絞られるように痛い。吐き気を催していることを、他人事のように感じていた。もっとも、吐きたくても胃の中には何も入っていないが。
ルッツが呆けている間に、全身に返り血を浴びた黒き処刑人は、手早く事後処理を済ませていった。
剣を回収し、念入りにも既にこときれた六人の死体に――全く無感動な面持ちで――止めを刺し、周囲を見回す。
その眼差しがルッツを捉え――ダグは血剣を両手に携えたまま、その前に立った。
「おい」
「…………は? あ、はい」
たちまち正気づいたルッツの喉元へ、紅い滴のしたたる切っ先が突きつけられた。
「え? あ? あの、えと、あの……?」
「俺にぶつかったのは運が悪かったな……死んでもらおう」
「え…………」
青年の三白眼と無機質な声が、冷たい手となってルッツの心臓を握り締める。
(本気だ――本気で僕を殺す気だ)
切っ先が下がり、正確に少年の心臓へ狙いを定める。
動けない――ルッツは恐怖に全身硬張ったまま、何もできなかった。ただ、血まみれの切っ先を凝視するだけ。
その両眼から大粒の涙がこぼれ落ちる。
そして――
ふむ、と頷いて、なぜかダグは切っ先を引いた。
二振りの剣にこびりついた肉や血糊を振り払い、マントの端で脂を拭っておいて腰の左右に帯びたそれぞれの鞘へと納める。
「名前は」
「……ル、ルートヴィッヒ……クラスタ……。ル……ッツです。歳は……十四……」
しゃくりあげながらルッツは答えた。
「なぜ聖騎士に追われていた?」
「そ、それは……その………………」
「答えろ」
「……これが…………」
差し出した右手首に古ぼけた布切れが巻きつけられている。
ダグは怪訝そうに顔をしかめた。
「布? ……それがどうした」
「話せば長くなるんだけど……」
「手短かに話せ」
「ええと……あの〜〜、一昨日の夜に、冒険家の人が来て、その人が……あ、その人は西の方で戦ってて、はじめは冒険家で後から傭兵になった人なんだけど……ええと、僕が本を読んでたら……あ、そうだ、その日は両親が不在でね。あ、あの、そもそも僕は……」
「……わかった、もういい」
ダグはうんざりした口調で遮った。
死の恐怖にルッツの卑屈な笑みが凍りつく。
「え、でも……あの、その……」
「後でもう一度機会をやる。それまでにまとめておけ。今はこの場を離れるのが先決だ」
黒いザックを拾い上げつつ、路上に転がる七つの死体に冷ややかな眼差しを向ける。
この場を離れることにはルッツも異存はなかったが、今の物言いが少し気になった。
「あ、あのぉ……」
「なんだ」
「僕……連れてかれるの?」
「嫌か」
表情に格別の変化はなかったが、その口調の中に拒否を許さぬ気配があった。
「ついて来ないのなら、お前を生かしておく理由はない」
すかさずルッツは激しく頭を振った。
「ううん、ついて行く、ついて行くよ! ただ、その……できたら、森の外まで連れてってほしくて……」
「……………………」
「昔から憧れてたんだ、森の外に。それに、そのために家出したようなものだし……」
へへへ、と照れ笑いを浮かべる。
「お願い、連れてっ……」
「諦めろ。外へは向かわん」
簡潔にしてにべもない答えだった。
「じ、じゃあ、ダグさんの用事が済んだ後でいいからさ。ね?」
「……どうも……自分の立場がよく分かっていないようだな。いいか、俺はついて来るのか、目撃者として殺されるのか、どちらだと聞いているのだ。答えろ」
「あ、う……うん…………」
ルッツはがっくりとうなだれた。答などはなから決まっている。
「……わかったよ。行くよ。ついて行く。でも、この先のメルガモへは行けないからね」
挑戦的な眼差しでぶっきらぼうに言うと、ダグはわずかに表情を曇らせた。
「………………なぜだ?」
「僕の家があるもの。いまさらあの町に戻りたくはないし……それに、戻ろうにも僕を捜すために近所の都市の聖騎士団や、メルガモの自警団が集まってるから……」
「ふむ……。なら、どうする」
「ええと……ガルウィンの方から来たんだよね。どこへ行くの? 目的地はメルガモ?」
「いや…………当面はウルクスだ」
瞬間、ダグが見せた躊躇に気づきながらも、ルッツは気づかないふりをした。
「ウルクスだったら……街道を少し戻ったところに別れ道があったの、憶えてる?」
「ああ。確か『至、サラムナ』とあった」
「少し遠回りになるけど、サラムナ経由でもウルクスの街へは行けるよ」
「ほう……どのくらい遠回りになる?」
「サラムナなら今日中には必ず着けるけど、ウルクスまでは強行軍で丸二日……時間があるなら、今日はサラムナに止まって、その後二日かけて行く方がいいと思う」
※地図
「計三日、か。……もし、メルガモ経由でウルクスなら?」
「余裕をもって二日……明後日の昼には」
「ふむ……」
「でも、聖騎士団に見つかりたくないのなら、サラムナ経由の方が断然安全だと思うよ。それに、途中に川もあるから、その……汚れも落とせるだろうし……」
ふむ、と相槌を打って、ダグは自分の姿を見下ろした。黒づくめの全身をおびただしく濡らす凄惨な返り血の彩りに、片目を軽くすがめてみせる。
「よかろう。さっそく案内しろ」
「う……うん!」
顔を明るく輝かせたルッツは、黒づくめの傭兵の先に立って、木漏れ日の落ちかかる街道を歩き出した。
―――――――― * * * ――――――――
サラムナへ続く街道へ入って三時間、古い木の橋の下を渓流が走っていた。
緑の天蓋の隙間を抜けて落ちてきた木漏れ日が、苔むした岩の間を走る清流の飛沫にきらめいている。
幸いにして、ここまでほとんど人と行き交うことはなかった。たまにすれ違うことがあっても、ダグはルッツも気づかぬうちにいずこかへ姿を消していた。道の彼方に人影が映るよりも早く、その気配を感じていたのだろうか。
ダグは橋を渡ると、少し上流へ分け入って人気のない沢に休憩場所を取った。
「……ここらでいいだろう。お前はその辺に座っていろ」
座るのにおあつらえむきの、平たい岩をルッツに示して、ダグは装備を外し始めた。
肩から下ろしたザックの周りに剣帯、マント、鎧、ブーツをまとめて置き、抜き身の剣を二本とも流れの緩やかな所に放り込む。そして自らも沢の中へざぶざぶと踏み入った。
脛の深さで足を止め、黒いシャツを脱ぐ。
「わぁ……」
ルッツは思わず間の抜けた歓声をあげていた。
沢の水面に躍る光の群れの中に立つダグの肉体は、まるで作り物のように見えた。
『一切の無駄を削ぎ落とした肉体』。
そういった表現そのものは、本で読んだことはある。しかし、実際にそう感じられる肉体を見たのは初めてだった。
あと少し多ければ、筋肉質に見える。
あと少し少なければ、痩せぎすに見える。
まるで計算され尽くした彫像のような、絶妙のバランスを維持している肉体。
しかしその表面は、美しい幻想をものの見事にぶち壊す醜い傷痕だらけだった。
ルッツでもわかる刀傷、想像もつかないやり方でつけられた傷、黒いズボンの中にまで続いている傷、爛れた痕を見せている傷、ひきつれた傷、細かい傷、大きな傷……。
不思議なことに、身体の傷に比して顔の傷は異様に少ない。遠目に目立つものは一つもなく、傍目に見ても二、三しか見えない。
ルッツの驚きをよそに、ダグは手早く洗った黒シャツを固く絞って鎧の傍に投げ、額のバンダナを外した。
光沢の無い黒髪が顔にしだれ落ちる。
ダグはバンダナを流れに浸して濡らすと、血臭と血糊にまみれた身体を拭き始めた。
「あのぉ……ダグさん」
「……………………」
恐る恐る掛けた声に、答えはない。
「聞きたいことがあるんだけど……いい?」
「……………………」
「あの…………」
沢の流れる音だけが二人の間を流れてゆく。
無言で身体を拭い続けるダグに業を煮やし、ルッツは沈黙を同意の意味に取ることにした。
「ダグさんて、傭兵なんだよ……ね?」
「ああ」
素っ気ない返事だったが、ダグが応えてくれたことにルッツはたちまち破顔した。
「じゃあ、ダグさんって本当に本物の『黒衣のダグ』なんだね」
「さて、な」
「……どういう意味? 違うの?」
ダグは手を止めて、少し考え込んだ。
「俺は確かに『黒衣のダグ』と呼ばれている。だが、お前の聞いたのが俺の名とは限らん」
「ええと……つまり……ダグさんじゃない『黒衣のダグ』……偽者がいるってこと?」
「……ああ、まぁ、そんなところだ」
再び身体を拭き始める。
「ふぅん……でも、どっちにしても、森の外で聖騎士団と戦をしてたんだよね」
「ああ」
「それが今ここにいるってことは……戦は終わったの?」
「いや。半年前に停戦協定は結ばれたが……二十年も続けられてきた戦だ。どういう形であれ、決着もつかぬまま終わりはせんよ」
他人事のようなダグの言葉を、ルッツも他人事のように聞いていた。
「ふぅん。じゃあ……また戦は始まるの?」
「ああ」
「どうして……どうして森の外の人たちって、攻めてくるんだろ? ここは森ばっかで、それほど住みやすい所でもないのにさ」
すねたように口を尖がらせて膝を抱く少年の、独り言じみたその問いに、ダグは少し黙って――無感動な声で答えた。
「ここは東のトニッシュやクルスレードと西のローディアンをつなぐ唯一の交通路だからな。ここを押さえれば、両地域を往来する物流を支配できる。その際に発生する利益は計り知れない」
「そうなの? 迂回とかはしてないの?」
「アスラルの北には人跡未踏の峻険、シェルロード山脈が横たわり、南には複雑な地形で有史以来、人の侵入を拒み続けるホロニー大峡谷が迫っている――……この程度のことをアスラル人のお前が知らんわけではあるまい」
ルッツは首を左右に振った。
「ううん。アスラルが大きな山と谷に挟まれているってことは知ってるけど、人が行き来できないほど険しいなんて……」
「まあいい。そういったわけで、平原が多く耕作地帯の豊富な東部地方と、荒野がちではあるが鉱物資源に富む西部ローディアンの物流は、アスラルしか行き来できない。二十年前、『創世の光』に倒されるまでシレニアス王家を支えていたのは、その物流の往来から発生する巨大な利潤だった。今、その利潤は『ギルド』と『創世の光』を支えている」
ダグの講義を真剣な顔で聞き入っていたルッツは、しかめっ面で首をかしげた。
「ええと、二十年前って……『シレニアス大崩壊』のことだよね? だったら今の話、少し違うよ。あれは教団が倒したんじゃなくて、アスラルのみんなで自由を勝ち取ったんだよ。巡礼の時、教皇様はいつも言ってらっしゃるもの。教団は何もしてないって」
無邪気に笑うルッツに、ダグはいかにも小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「権力者の支配形態において最も上手いやり方は、被支配者に支配を感じさせないやり方だ。それに、歴史の事実をどう捉えようと、現実の状況は変わらん」
「…………? うぅん……と、言ってる意味がいまいちよく分かんないけど……結局、森の外の人たちは、教団が王家を倒した悪者だって考えてるんだね? それで戦を……」
「違う」
「え、でも……シレニアス王家の復興がどうとかって、聞いた事が」
「そんなものは建前だ。千年王家の礎となった金ヅルを、ぽっと出の教団が一人占めしたことが許せんのだよ、王国連合の連中はな。要するに、でかい獲物を狙っていた野盗どもが、獲物を掠め取られたので逆恨みして取り返しにかかってるのさ」
「な……!」
予想もしなかった答えに面食らい、ルッツは一瞬返す言葉を失った。
「な……なにそれ! それじゃあ、やっぱり悪いのは森の外の人ってこと!? それで、ダグさんって、その野盗の仲間ってこと!?」
「そういうことだ」
拍子抜けするくらいあっさりと認めて、沢から上がる。そして、流れにさらしていた剣を取り上げると、その汚れを固く絞った黒いバンダナで拭い始めた。
「野盗、盗人、人殺し、犬……否定はせんさ。傭兵は人を殺していくらの職業だ。雇い主の事情など知ったことではない……特に善悪の判断など、傭兵の下すべき問題ではない」
「そんな……そんなの……おかしいよ」
「剣は自ら善悪の判断を下しはしない。使用者の意のままに戦い……折れれば終わりだ」
ダグの手がふと止まる。剣身が弾いた光に目を射られ、ルッツは目を細めた。
「う…………で、でも、傭兵は人間じゃないか! 意志があるはずだよ!」
「確かに自らの意志で戦いや主を選ぶ傭兵もいるがね。使い手を選ぶ名剣の類だ。だが、さして切れ味が良いわけでもないのに扱いにくい……そんな剣を誰が好んで使う?」
「でも……『黒衣のダグ』なんて二つ名のあるダグさんなら……」
「俺は……さしずめ邪剣、妖剣の類だな」
剣の汚れ具合をためつすがめつして調べながら、ぞっとするような薄笑みを浮かべる。
「戦は選ばない。戦え――いや、勝てればいい」
「……女の人や子供を……斬ってでも……?」
「必要ならばな。容赦はしない」
二本目の剣を取り上げるダグの表情には、いささかの迷いもない。
ルッツの基準でいえば、『悪いこと』をこともなげに言ってのけるその神経が、信じられなかった。
「おかしいよ……そんなの……絶対におかしいよ……」
「そうとも。まともな人間なら金で命の切り売りなどしない。戦いの中に身を置く者は、お前たち庶民とはどこかずれているものだ」
癖なのだろうか。世の中の全てを嘲笑うような薄笑みはダグの頬に貼りついたままだ。
いずれにせよ、ルッツは次の言葉を切り出せなくなってしまった。
もちろん、聞きたいことはまだまだある。
なぜ身体に比べて頭の傷痕が少ないのか、どうして黒づくめなのか、傭兵と聖騎士の戦はどんな風なのか、さっきの殺戮劇に至る経緯(いきさつ)、そして――何をしにアスラルへ来たのか。
しかし……聞くのが怖かった。
ダグの見ている世界と、ルッツがこれまで信じてきた世界。
そのあまりに極端な落差に、これ以上聞いたら、自分の抱く夢や幻想が全て壊されてしまう気がして、喉まで出掛かった質問の言葉を吐き出せなかった。
「聞きたいことはそれだけか」
打ち沈むルッツに、ダグの方から聞いてきた。黙っていると、ダグは剣の手入れを続けながら言葉を続けた。
「では、今度はこちらが聞かせてもらおう」
「……え? 何を?」
「忘れたのか。お前が聖騎士団に追われている理由だ。後で聞くと言っただろう」
「ああ……そうだっけ。いいけど……たぶん、ちょっと長くなるよ。いい?」
「サラムナへの到着に支障がなければ構わん。好きなだけ話せ。ただし、わかりやすくだ」
「うん…………」
頷いたルッツは、右腕に巻いた薄汚れたバンダナをほどいて、じっと見詰めた。
一旦深呼吸をして心を落ち着け、はじめから――今度はきちんと順序立てて――話し始めた。
迷っていた自分が家出するに至る、一昨日の夜の出来事を……。