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高潔なる魂


 頬を吹き撫でてゆく風が心地好い。
 目の前に広がる草原を渡ってきた風は、小高い丘の上に立つ人馬の孤影を抱擁するように、優しく吹き抜けてゆく。
 九月終わりの風は、夏の名残りを残しながらも、秋の到来を告げる香りを含んでいる。やがてコロラド高原に短い秋が訪れ、すぐに冬となり、この辺りも一面の雪化粧に覆われるだろう。
 しかし……それを見る者はいるのだろうか。
 馬上の男、ジェラードは遥か西の彼方にぼんやりと霞む地平線を眺めていた。
 風にはためくシャツの襟口から白い包帯がのぞく。その表情にも生気がない。
 ミーカー邸襲撃から既に半月近くが経ち、状況は激変していた。
 二人を迎え入れてくれたビッグオークの集落では、日毎に緊張感が高まっている。それはとりもなおさず、戦いが近いことを示していた。確かなことはわからないが、合衆国陸軍も反撃の機会を狙っているはずだ。このまま時が流れて行くのを待つはずがない。
 理不尽にもレッドフォックスの集落を襲撃し、蹂躙したミーカー。しかし、おそらくコロラド州では彼は殉職者として扱われているだろうし、今回の事件は悲劇として大々的に報じられるだろう。ユートの恐ろしさを宣伝し、その排除政策を正当化するために。彼の行ったことは新聞紙上では一行も割かれまい。そして、もはや何の政治的ためらいもなく、軍隊の投入が決定されるだろう。
 図らずもミーカーは、自身の身を以ってコロラド州入植者の願望をかなえた英雄といえる。
(……英雄、か。皮肉なものだ。なりたい奴は死んで祀り上げられ、なりたくない俺が生きたまま祀り上げられる)
 ビッグオークの集落では、ミーカーを討ったアンナとジェラードの二人が英雄扱いだった。
 特にジェラードはアンナの吹聴もあって、偉大なる精霊の使いとして敬われ、崇め奉られていた。
 しかし、手厚い歓待を受けるほど、ジェラードは焦りに似た感情を募らせた。新たな胸のしこり――俺は彼らと共に戦うべきなのか、それとも傷が癒え次第、さっさとここを後にすべきなのか。
 ビッグオークの集落にいるユート族の連中は、皆ジェラードが一緒に戦うものだと思っている。
 だが、ミーカーの時とは状況が違う。ビッグオークは白人と戦うことを宣言し、罪のない白人開拓者をも襲ってきた。自分達の生活圏を守るためとはいえ、そのビッグオークと肩を並べて合衆国陸軍と戦うことには、やはり抵抗がある。ジェラード・マクスウェルはアメリカ人なのだから。
 懊悩と煩悶の日々。
 そして今日、ジェラードは集落を一人で出てきた。誰にも行き先を告げぬまま、馬を西へ西へと走らせた。とりあえず、一人になりたかった。
 気づくと広大な草原を見渡すこの丘に佇んでいた。


 コロラドでユート族に出会ってから何度目かの、同じ問いを今日も胸の内で繰り返す。
(何をしているんだ、俺は……ここは俺の居場所じゃあない)
 いや、ここだけではない。この地上のどこにももはや居場所などない。家族を失い、やり場のない怒りと悲しみに自暴自棄気味となって学者の道――父の後を継ぐことを拒否し、賞金稼ぎに身をやつしたときに捨てたのだから。
(賞金稼ぎか……)
 ニューメキシコで暴れているという噂の悪党ビリー・ザ・キッドの人相書が脳裏に閃いた。
(自分で選んだ道だしな……やっぱりここは、当初の予定通りニューメキシコへ向かうか)
 ふぅ、と一息つく。
 それ以外に道はなさそうだった。ニューメキシコに着いたからといって都合よくビリー・ザ・キッドと鉢合わせするとは限らないが、ここにいても何が変わるわけでもない――というか、ここはあくまで通りがかりだったはずだ。
 ジェラードは誰がいるわけでもないのに、照れ臭そうに鼻の頭を指で掻いた。
(そうだよ、なんで俺はここに未練があるような考え方をしてるんだ。さっさと出て行きゃいいんだよ。初めっから自分でそう言ってただろうが)
 しかし、戦いを前に意気上がるユートの連中に何と言って切り出せばいいだろう。特にアンナには。
 悄然とうなだれる背に、馬蹄の轟きが届いた。
 ジェラードを呼ぶ声が近づいてくる。アンナだった。
 ジェラードは呼びかけを無視して、地平線の彼方を眺めているふりを決め込んだ。
 今一番顔を合わせづらい相手は、近寄ってくると馬を並べて止めた。
「ジェラード、探したぞ。いったいどうしたんだ? 何かあったのか?」
 ジェラードは彼女に一瞥をくれた。
 よほど急いで来たのか、馬も人も汗をびっしょりかいて、大きく肩を上下させている。
 新しいケープに身を包んだアンナの、左頬に貼られた膏薬が痛々しい。身体の銃創や打撲傷もまだ治りきってはいないはずだ。そんな重傷にもかかわらず馬に跨り、追ってきてくれた優しさが胸にしみる。
 しかし、敢えて何も見なかったように地平線に眼を戻した。
「俺にだって、一人になりたい時はあるさ」
「あ……ひょっとして私……はしゃぎすぎていたか? ……ごめん」
 うつむく娘に、ジェラードは軽く微笑んで首を振った。
「そうじゃない。ただ、一人で考えたいことが色々あってな」
 一瞬、アンナは何か軽口を叩きかけて、しかし口をつぐんだ。
 少し考えて、おずおずと切り出した。
「……出て、行くのか? やっぱり……」
 軽い驚きとともに傍らの娘を見やる。きゅっと唇を引き結び、ジェラードをじっと凝視している。
 気づいていたのか。あるいはそれを予感していたからこそ、引き止めるために二人の活躍を吹聴して回っていたのか。
「俺は……家族を失った。そしてお前も、あの集落の連中も……」
 ジェラードは自分の手の平に目を落とした。その手をぎゅっと握り締める。
「俺は白人で、彼らはインディアンで……お互いにその姿を見るたびに、思い出すことになる。大事な人を失った痛みと、奪ってしまった痛みを。それを知りながら、お互いに触れないように気を遣って気を遣って同じ時間を過ごす。そんな――」
 適当な表現を求めて、一旦口をつぐむ。少し考えて、ぴったりの表現を見出した。
「――そんな傷の舐め合いは御免だ」
「なぜ傷の舐め合いがいけない? いいじゃないか。傷の舐め合いでも」
 あまりにもあっさりと、アンナは肯定した。拍子抜けしたジェラードは思わず振り返る。
 彼女はヘアバンドから溢れる黒髪を風になびかせ、心地好さげに微笑んでいた。大事な人を失った痛みも、奪ってしまった痛みも充分すぎるほどに感じているはずなのに、何のこだわりもなさそうに。
「深い傷だって舐めていれば、いつか癒える。それに私もみんなも、ジェラードを憎む気持ちは少しもない」
 そう言いながらも、ふと表情に陰が差した。
「確かに……他の白人のやり方は許せない。今も私の胸には、草原を焼き尽くす野火のように怒りの炎が燃え上がっている。でも、ジェラードはミーカーとは違う。ジェラードにはわかっているはずだ。私達ユートの魂が、心が。だから、ジェラードは私達と仲――」
「やめろ!」
 思わず叫んでいた。
 その強い口調に娘は一瞬怯え、うなだれた。
「……ごめん。けど……」
「……俺は白人だ。アメリカ人だ」
 顔の表情を変えず、ぼそりと漏らす。
 たちまち、アンナの表情が悲しげに崩れた。
「アンナ、お前達がユートの文化や歴史を誇るように俺達の先祖にも歴史があり、魂がある。かつて彼らが大西洋の荒波を命を懸けて乗り越えてきたように、困難に立ち向かい、それを乗り越えて夢や理想をかなえる。それがアメリカ人だ。差別があろうと悪党ばかりだろうと、いつかそれを乗り越え、自由と平等を実現する。そう信じている。だから、ユートの男にはなれない」
 握り締めた拳を、左胸の傷の上に当てる。
 ジェラードは再び西の地平に目を転じた。彼女が何を言って引き止めようとも、もう心は決まっている。ここを出る。ここにいればいるほど、彼らに惹かれてゆく。そして、苦しむ。離れがたくなる前に、離れるのがいい。
 その肩にアンナの手が触れた。そして首を振る。
「ジェラード、私はお前にユートの男になれなんて言ってない。みんな誰しも父と母があり、その父と母にもそれぞれ父と母がある。その先祖達と先祖達の立派な行いを誇りに思うことは、誰にとっても大事なことだし、捨てていいものじゃない。私は白人で、アメリカ人で、でも優しくて、強くて、ちょっと間が抜けているジェラードが好きなんだ。尊敬しているんだ。ただ、それだけなんだ」
 真正面から、何のてらいもなく好きだと言われ、ジェラードの方が照れた。
「それに、当たり前のことじゃないか。仲間を大事にすることや、困難があれば立ち向かってそれを乗り越えるというのは。私がユートの者だから特別にそう思うんじゃなくて、肌の色や生まれに関係なくみんなそうしたいと思うことじゃないのか?」
 ジェラードは胸を突かれ、つい返答を忘れた。
 確かジョセフも言っていなかったか。ユートの魂とフロンティア・スピリットは同義だと。
『――……ユートの魂とは、高潔なる魂のことだ。誇りを持ち、困難に立ち向かい、自然を愛し、万物に優しく、悪意と闘う。その心があれば、肌の色にかかわらず、またどこの国に住んでいようとユートなのだ』
 知らず、笑みがこぼれた。
 ジョセフとレッドフォックス、二人の魂は確かにこの娘の中に息づいている。
 対する自分のなんと小さいことか。なんと狭量なことか。自分の誇りを特別なものと考え、それを守るために壁や溝を作ろうとしていた。これではミーカーと大差ない。
(親父は、この懐の深さに惹かれたのかもしれない)
 ふとそう思った。父があれだけこだわって研究を続けた理由が、理屈ではなくわかった気がした。
「ジェラード」
 呼びかけられて、物思いから立ち戻る。
 アンナはじっとジェラードを見つめていた。改めてその澄んだ瞳の美しさを感じた。
「私は……ジェラードのことをユートの魂を理解してくれる、大事な大事な仲間だと思っている。肌の色は関係ない。ともにいる必要さえないんだ。私達はお互いに命を助け合った。それだけで充分だ。私達の魂は、そこで確かに重なったのだから。傍にいても、離れていても、私はジェラードへの感謝を生涯、絶対に忘れないよ」
 少し強めの風が吹き、漆黒の髪を弄ぶ。アンナは乱れた髪を手櫛ですき上げながら、その風上に顔を向けた。
 その横顔の美しさにジェラードはつい見惚れた。いつか風の中に立つジョセフを見たときと同じ思いが胸に込み上げた。自然を愛する者は自然からも愛されるのだろうか。
 ジェラードの視線に気づいたアンナは、にっこり微笑んだ。
「もし迷惑でないなら、ジェラードも誇りに思って欲しい。ユートに認められたことを。私も、ジェラードの友であることを誇りに思うから」
 ジェラードは答えず、頭の中でアンナの言葉を反芻していた。
 ともにいる必要はない、傍にいても、離れていても……その他、言葉の端々に感じられるニュアンス。ひょっとして、アンナは――
「ジェラード、これを」
 アンナは自分の馬の尻に載せてきた荷物袋を、ジェラードに手渡した。
 ずしりとした重さと、触れ合う金属片の音から中身を想像して驚く。
「俺の銃と……荷物か? どうして……」
「干し肉なんかの食料と、胸の傷のための薬もいくらか入ってる。銃の弾も」
「だからどうして、今こんなものを渡す?」
 ジェラードの視線を避けるように、アンナは西の地平に顔を向けた。
「――ミーカーの町から逃げた白人の軍隊が、ホワイト川の向こう岸に再集結しつつある。おそらく明日の昼時には戦いが始まるだろう。みんなはジェラードに期待しているけど……私は、私達の戦いにこれ以上巻き込みたくない」
「馬鹿な……勝ち目はないぞ!」
「こちらには一門とはいえ、ガトリング機関砲もあるし、地の利もある」
「そうじゃない。たとえその部隊に勝てたとしても次々に軍隊が――……」
 身を乗り出したジェラードの唇は、アンナの包帯に巻かれた人差し指で塞がれた。
 悲しげに微笑んで首を振る。
 少し引き攣った、痛々しささえ感じるその微笑みは、人差し指以上の威力をもってジェラードの言葉を封じ込めた。
「……わかってる。多分この戦いはジェラードが言ったように、新たな戦いの火種になるだけだ。あの部隊を退けても何も終わりはしない。新たな白人がやって来るだけ……。全部わかってる。けど、ビッグオークが言っていたんだ。これは私達ユートがユートであるための戦いだと……」
 アンナは何かを諦めたかのような大きなため息をついた。それは、もう子供のものではない、大人びた仕種だった。
「この戦いは――私達はユートだ、白人の奴隷でも家畜でもない、理不尽な行いをされれば怒る隣人なんだ、と証すための戦い。白人に勝つための戦いじゃないんだ。白人に認めさせるための戦いなんだ。だからもう……誰にも止められない。誰にもね。私自身がその気になっちゃったから」
 ひときわ強い風が吹いた。彼女の背中で一束に編まれた黒髪が揺れ、ケープがぱたぱたとはためく。その風の中でアンナは涼しげに笑っていた。鳶色の瞳に悲しげな、しかし確固たる決意を秘めた光を宿して。
 その大人びた微笑みにジェラードは思い出した。かつて、弟もこんな目をしていたことを。
 軍への入隊を間近に控えたあの日、DAサンダラーを届けに来てくれたディックは、引き止めるジェラードに対して同じ目で同じことを言った。
『……母さんが悲しむことはわかってる。でも、俺はどうしても許せないんだ。母さんから父さんを奪ったインディアンが……。筋違いなのはわかってる。でも、もう止められないんだ。僕自身にも……ごめんよ、兄さん』
 何も言えなかった。止められなかった。
 そして今も。言うべきことは何もない。そして、止めても無駄だ。
 第一、戦いを前にここを去ろうとしている自分を責めもせず、暖かく送り出してくれようとしている娘に何を言えばいいのか。
 またしても黙るしかない自分の不甲斐なさに、ジェラードはただ手綱を握り締めた。
「私は……」
 乱れた鬢の髪をすきあげるアンナ――その手が止まる。目元が見る見るうちに潤みだし、大粒の涙があふれてきた。
「私は……本当はもしこの戦いさえなければ、ジェラードについて行きたい。ジェラードの妻になりたい。でも……でも……」
 顔を覆いもせず、ただ涙を流れるに任せる娘。
 その想いに応えてやりたいと思う心を、歯を食いしばるような思いで無理やり押さえ込んだ。
「よせやい。俺はお前より十も年上なんだぜ? お前とじゃ年が離れすぎだよ」
 抱きしめてやる代わりに、手を伸ばして頭を撫でてやる。
「けど、そうだな。今度会ったときにもっと美人になってて、そのお転婆が直ってたら考えてもいい」
 アンナは真新しいケープの裾で涙を拭い、かなり無理をした笑顔を振りまいた。
「ありがとう、ジェラード。私は……死ぬ瞬間まで、いや、死んでもジェラードの恩は忘れない。ジェラードとともに戦ったことを、ジェラードの友人であることを、誇りに思い続ける。ありがとう。そして…………さよなら」
 何気なく馬を寄せたアンナは、馬上から体を伸ばしていきなりジェラードの唇を奪った。
 ぎこちない口づけだったが、不意をうたれたジェラードは、その柔らかな感触が離れるまで動くことを忘れたように硬直していた。
「……お、お前……」
 唇に残る彼女の温もりに、戸惑いと嬉しさと悲しさと……さまざまな想いが交錯して頭がこんがらがっていた。
 まさかアンナがこんな手段に出ようとは。鼓動が早まり、体温が上がり、全身に妙な汗が吹き出している。
 呆気にとられているジェラードに、アンナは頬を染めながら不思議そうに首をかしげた。
「お、おかしいか? 白人の男と女が別れるときにはこうするんだろ? スピリット・オン・スカイに教えてもらったぞ」
「……ガキに何教えてんだ、宣教師のくせに」
 頭の隅でアンナがそれを教えてもらった年齢を逆算しつつ、ジェラードは思わず苦笑していた。宣教師というからお堅いのを想像していたが、案外くだけた男だったのかもしれない。
 それじゃ、とアンナは馬首を元来た方角へと向けた。
 その寂しげな背中に、ジェラードは呼びかけた。
「アンナ。…………身体に気をつけてな」
 これから死地に赴く者との別れの言葉としてこれほど相応しくない挨拶もあるまい。しかし今、これより相応しい言葉をジェラードは思いつかなかった。
 振り返ったアンナは目をぱちくりさせていたが、やがてにっこり笑って大きく頷いた。ジェラードもね、と叫び返して、そのまま馬の腹を蹴る。駆け出した騎影はたちまち小さくなり、森の中へ姿を消した。


「これで……また独り、か」
 西に目を転じて、ぷう、と軽くため息をつく。
 ふと先ほどの口づけの感触が蘇る。胸が高鳴る。それを振り払うように唇を噛み締めた。
「………………未練だな。ま、いいさ。さて、と」
 気を取り直して手渡された袋からガンベルトを引き出したが、馬上では着けにくいことに気づいて下馬する。
 その拍子に袋からこぼれ落ちたものがあった。
「…………? 何だ、これ」
 ジャガイモだった。しかもきれいに洗ってある。
「あいつ……こんなものを」
 きれいに洗ってあるということは、やはりこのことを予期していたに違いない。
「かなわねえな、アンナには……」
 ジェラードはゆっくり立ち上がると、ジャガイモを握りしめたまま、東に広がる針葉樹の森に目を転じた。
 しばし考え込むジェラードの頭上で、風が哀しげに哭いている。去り行く夏を嘆いているのか、それともこれから失われ行く魂達を悼んでいるのか。
 ジェラードは動けなかった。ジャガイモに込められた様々な想いが動きを封じていた。
 ジャガイモの大きさも形も申し分ない。つまり、畑で作られたものだ。ビッグオークの集落では耕作活動はほとんどやっていなかったから、おそらくレッドフォックスの集落まで、密かに一人で行って穫って来たに違いない。
 ふとジョセフの言葉を思い出した。
(……十年だ。ここまで来るのに十年かかった。……ようやくその実が結びつつある。おそらく今年からは飢えによる死者を出さずにすむだろう)
 見た目以上に感じられるジャガイモの重みは、そこに刻みつけられた命の重さだ。
「ジョセフ……まだ、俺を誘うか」
 ふと顔を上げると、左手前方にきらめく流れが見えた。
 残暑の日射しにきらきらと乱反射する水面は今も昔も同じなのだろうか。そして、あの流れはどこへ行くのか。
(……あの川のように、我々の世界もまた流れて行く。抗えば大怪我をする急流も、流れに身を任せれば助かることもある。どれが正しいというのではない。川が途中で枝分かれするように、どこへ流れ込んでも川の水は川の水だ。あとは自分の信じた道を進むだけだ。……信じて進めば、偉大なる精霊もきっと助けて下さる)
 蒼空にすがすがしく笑う細目の巨漢に、厳しいビッグオークの顔が、レッドフォックスの人の好い笑顔が、そして今別れたばかりのアンナの泣きっ面が重なった。レッドフォックスの集落とビッグオークの集落で出会った人々も思い出す。みんな人の好い連中だった。好戦的と呼ばれているビッグオークでさえ、彼には敬意を払って接してくれた。
 ふと、廃墟と化した月下の集落の光景が浮かんだ。そこに彼らが五体ばらばらにされて転がっている光景が。
(また、繰り返されるのか。あの光景が……くそ)
 ジャガイモを握る手にひときわ強く力がこもった。あわせて胸にも力がこもり、塞がり切っていない傷口が疼く。
 実際より若く見られる童顔には、確かな緊張が走り始めていた。空いた手で腰のDAサンダラーをまさぐる。
 視界の彼方では人の手を拒んで鬱蒼と生い茂る針葉樹の深緑が、初秋の日射しを浴びてさわさわと揺れている。その彼方にアンナがいるはずだった。そして素朴に生きる人間を踏みにじりながら、何ら恥じるところのない傲慢なる軍隊も。
(……だが、俺一人で何ができる。戦況がひっくり返ることなどないし、それこそ無駄死にだ。俺がここで死ぬことに意味があるか? ……ない。放っておけばいいんだ。ユートの奴らは、納得ずくでやりあおうってんだから)
 ジェラードは手の中のジャガイモを、そのまま大口を空けてかぶりつこうとした――が、途中でやめた。目を細め、もう一度じっくりとその表面を眺める。
 無骨で、不恰好で、全然おいしそうには見えない、あばただらけの球体――レッドフォックスが、ジョセフが作ったユートの魂の塊。つまりはフロンティア・スピリットの塊として実に相応しい形状ではないか。
「ただのイモ………………じゃ、ねえよな。こいつは。食うのに覚悟が要りそうだ」
 しばらく手の中でためつすがめつ眺めたあと、迷いを断ち切るようにかぶりついた。
 ……硬い。不味い。咀嚼音が骨を通って頭の中にまで響いてくる。
(硬いな、ちくしょう……)
 口の中の土臭い塊を噛み砕き、噛み潰しながら、その鋭い視線を森の彼方に向けていた。まるでジャガイモの硬さも不味さも、全てその彼方にいる敵のせいだとでもいうように。
(俺がしたいこと……川の流れのように…………俺の心が望んでいるのは、何だ)
 心を川に例えるなら、その中には必ず澱みがある。今の澱みは、何だ。何が自然であるべき流れを遮っている。
(……俺は戦いを止めたい。そのために何ができる? そして、もしそれができないとなれば、次に俺がなすべきは……何だ?)
 無理やり噛み砕いたかけらを飲み下しながら、ジェラードは憎々しげに呟いた。
「俺でなければできないこと……白人でありながら、ユートの連中に認められた俺だからこそできること……サンダーボルト・ジェラードのなすべきこと……そして、ヘンリー・マクスウェルの息子として恥ずかしくない生き方……」
 こうして並べてゆけば、嫌でも答えは一つに収斂されてゆく。
「要はフロンティア・スピリットが導く先………………つぅと、それしかない、か」
 ぼりっと二口目に挑んだ。土っぽい香りが鼻の奥から漂う。味にも土っぽいものが混じる。二口目になっても硬い物は硬いし、不味いものは不味い。
「ったく、バカヤローが……どいつもこいつも世話をかけやがる。ま、一番の馬鹿は俺だろうけどな」
 その不敵な呟きを乗せて、風は高くなった蒼空へと駈け上がった。



 エピローグ

 一八七九年九月半ば、ユート族族長ダグラスに率いられた、ビッグオークをはじめとするユート諸部族とソンダーク大佐率いるアメリカ合衆国陸軍は、コロラド州リオ・ブロンコ郡を流れるホワイト川河畔で激突した。
 しかし戦いは半日で決着した。
 夕映えの川面に折り重なる累々たる屍――ユート族の完全な敗北だった。
 ユート族側の戦力はほぼ壊滅。合衆国陸軍の損害も軽微なものではなかったが、掃討作戦を展開できないほどではなかった。

 この戦いの後、ユート族は連邦政府と停戦文書を結ぶ。
 その中にはコロラドから出て行き、隣のユタ準州のより狭い居留地に移動することを承諾する旨が盛り込まれていた。

 こうして事実上コロラド州から赤い肌の民族は姿を消した。


 後日、この戦いに参加した陸軍兵士の間に、いくつかの噂が流れた。
 不死身のビッグオーク。
 ミーカー邸から奪ったガトリング機関砲を操り、合衆国陸軍にかなりの損害を与えた彼は精霊の守りを得ていたという。
 彼に近づこうとした将兵はことごとく、一発の弾丸を受けて葬られた。だが、誰もそれがどこから放たれたのか知らない。
 ある者は、白馬に乗った妙に影の薄いインディアンが彼の傍にいたといい、ある者は彼の陣取っていた丘の木の上に怪物がいたといい、さらにある者はそれこそがインディアンのたたりだと恐れた。
 ちなみに、ビッグオークはガトリング機関砲を撃ち尽くした後、最後にはトマホークを振りかざして突撃し、乱戦の中で壮絶な死を迎えたことになっている。しかし、その遺体はついに発見されていない。そのことが余計にビッグオークの神秘性を高め、中には霊体となった彼はこの戦いに参加した将兵を狩るためにうろついている、などということをまことしやかに囁く者もいるほどである。
 また、別の噂になるが、戦いの最中、女のインディアンが白人に助けられていたなどという、ロマンス好きな雑誌や安っぽいパルプ・マガジンの喜びそうな話もある。
 ただ、こちらは戦場で女のインディアンを確認した者がおらず、しかも遺体の中に女とわかるものが発見されていないことから、ビッグオークの噂ほど広がることもなく、いつの間にか立ち消えた。


 追記

 なお、ビリー・ザ・キッドは一八八一年、元仲間のパット・ギャレットに射殺されたことになっている。
 ビリーは21人射殺したと言われているが、その名前の中にジェラード・マクスウェルの名はない。


終劇




後書き
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