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夜襲


 1

 月はかなり西へ傾いていた。
 時折、その光円をかすめる雲によって暗くなるものの、おおむね明るく清らかなその光は、ひっそりと眠りについているミーカータウンを照らし出し、建築物の影を長々と東へ伸ばしている。
 物陰に忍ぶには、全てを照らし出す太陽の明るさより、陰影のくっきり浮き出る満月の中途半端な明るさの方がいい。その明るさに慣れた目を暗がりに転じても、しばらくは陰影の濃さに慣れない。当然、隙が多くなる。
 そんなことを考えながら、アンナは町の北側の丘の上から町を見下ろしていた。
 ミーカータウンに来るのは初めてだったが、忍び込むべき目標はすぐに見つかった。
 最も手前に見える、町でも数少ない二階建ての邸宅。ミーカーの性格からして町の中で最も大きな邸宅に住んでいる、と目星をつけていたアンナの予想通りの建物だった。
 獲物を見つけた喜びに瞳が輝き、腰のトマホークをまさぐる左手に力がこもる。口許に浮かぶ不敵な笑みは復讐を誓った戦士のものだ。洞窟で涙に濡れた娘はどこにもいない。
 目指すはミーカーの首一つ。
 アンナは右肩と右腕の傷の痛みの程度を確かめると、しなやかな動きで丘を下りていった。


 ホワイト川北岸の狭い平野に造られたミーカータウンの回りには、背後の小高い丘から緩やかな傾斜を描く牧草地と、町の住民が拓いた農地が広がっている。
 中でも、町の北端に建てられたミーカー邸の裏から丘の麓までの広い範囲は、ミーカー個人の所有する牧場として、木の柵で囲まれていた。柵は町中から屋敷の前を通り、牧場を迂回して丘へ続く小径につながる街道の両脇にも延々と設けられている。
 道にくっきり影を落とす木の柵に沿って、猫科の猛獣を思わせる影が走る。
 丘陵へ入り込む小径から現れたその影は、かなりの速さにもかかわらずほとんど足音も立てずに牧場の脇を駆け抜け、木製の柵をひらりと飛び越えて馬小屋に飛び込んだ。
 中では馬が何頭か眠っていた。その中の一、二頭が気配を感じて目を覚ました。
 しかし、こちらが不穏な空気を発さなければ馬も怯えることはない。
「……大丈夫、いい子だからお休み」
 そっと近づいて首筋を何度か優しく撫でてやると、馬はすぐにおとなしくなった。
 小さく吐息をついて緊張を解いたアンナは、馬小屋から牧場へ出る戸口の脇にゆっくりと腰を下ろした。深くゆったりとした呼吸で息を整え、外の様子をそっとうかがう。
(…………あそこだな……)
 西に傾いた月の光を受けて、三棟の建物がひっそりと佇んでいる。
 大きな納屋に普通の民家ほどはある離れ、そしてその倍はありそうな母屋。アンナの潜む馬小屋からは納屋、離れ、母屋の順に近い。
 当然ながら目をつけた邸宅は、馬小屋からは一番遠い、一番大きな母屋だった。
 ユート族がまだ自由な移動を禁じられる以前、ジョセフやレッドフォックス、それに父親のビッグオークの目を盗んであちこちの町へ遠出をしていたアンナでも、これほど大きな宅地を所有する白人は数えるほどしか知らない。
 あいつほど気位も地位も高い者が、町の住民が住むあばら家などで満足するはずがない――そんな推測以上に、アンナは心の琴線に触れるものをはっきりと感じていた。それが何なのかはわからない。
 だが、何であろうと構わなかった。今は憎き仇敵を倒すためなら、たとえそれが悪魔や悪霊の囁きでも熱心に耳を傾けるだろう。
(多分……偉大なる精霊がお導き下さっているのだ……)
 薄く笑うアンナの脳裏に、ふとジェラードの悲しげな表情がよぎった。
(ジェラード……今頃どうしているかな。もう州境は越えたかな。無事に逃げてくれればいいが……)
 思いを馳せるあまり現実から遊離しそうになり、はっと我に返って頭を振った。
(いけない、獲物を前にしてこれでは。今は忘れなくては)
 即座に気持ちを切り替え、もう一度月光の差し込む馬小屋の戸口から辺りを窺う。
 ぴんと張り詰めた空気。世界は音を失ったように静まり返っていた。
 納屋の脇に積まれた干し草の山。離れの裏口の前の荷車。母屋の傍に生えている木立ち。
 それら身を潜められそうな物までの位置と距離を頭に入れたアンナは、予備動作もなくいきなり馬小屋から飛び出した。
 床に敷き詰められた干し草を踏んだかすかな音以外に、ほとんど物音らしい物音も立てず、身体を可能な限り前傾し、俊敏な動きで牧場の端を横切って納屋の壁に張り付く。
 辺りに人の気配のないことを確かめて、すぐに離れの裏口前の荷車の陰へ走り込み、間を置かず母屋の傍の木立ちの下へ駆け寄った。
(……見張りもいない……完全に油断しているのか)
 見張りはいないが、離れの一階部分には晧々と明かりが灯り、男達の下品な笑い声や話し声、喚き声がとめどなく溢れている。ミーカーの部下達だろう。おかげで、少々のことでは気配を悟られずに済みそうだ。
 アンナは木陰に潜んでもう一度辺りを窺い、人の気配がないことを確認すると、猿か栗鼠のように身軽な動作で木をよじ登った。少し木が揺れたものの、ほとんど音はしない。まして離れの猥雑な騒ぎの中では、気づく者はいない。
 先ほど丘の上から観察した折、この母屋の屋根にきらきら輝いている部分があった。おそらく、明かり取りの天窓と呼ばれる窓ガラスに違いない。侵入路としてはうってつけだ。
 木の梢まで登って見下ろすと、案の定天窓から物置のような部屋が覗けた。この屋敷でも離れと同じく一階ではまだ少数の人が活動している気配がするものの、二階とその物置部屋は静まり返っている。
 アンナは腰からトマホークを抜き放った。
(ミーカー……。貴様の命など、私が失ったものの一部にもなりはしないが、あがなってもらう)
 だが、その目論見は屋根に飛び移ろうと身を屈めた瞬間に破られた。
 夜闇を切り裂く一発の銃声。
 アンナが忍び込もうとしていた天窓が澄んだ音を立てて割れ散り、月光の輝きを弾いてきらめきながら部屋の内側へと落ちてゆく。
「な……」
「――そこを動くな、泥棒め!」
 夜のしじまを震わせる叫びに振り向くと、つい先ほどまでアンナが身を潜めていた馬小屋の戸口に、騎影が見えた。
 それは見回りを終えて戻ってきたばかりのチャベスだったが、アンナがそんなことを知る由もない。
 距離にして百三、四十m。
 なぜこの距離で自分の存在がわかったのか――彼女は今この瞬間にも、その左手の中で月光を反射してきらめくトマホークの刃に気づいていなかった。
 たちまち、足元でミーカー邸全体が騒ぎ始めた。
 何だ何だ、と叫ぶ銅鑼声と、ガンベルトをぶら下げる金属音、床を蹴るブーツの音が母屋の裏口に集まり始める。
(く、しまった……どうする? ……ここまで来て……)
『……万に一つも勝ち目はない』
 ふとジェラードの声が耳奥に甦った。
(いや、まだだ。やってみせる。やらなければならないんだ。たとえ死ぬとしても……)
「侵入者だと? どこだどこだ?」
 母屋の裏口から数人の男達が顔を覗かせ、周囲を窺っている。
 決意を固めたアンナは身を躍らせ、天窓へ飛び込んだ。割れ残ったガラスをぶち割る派手な音とともに、屋根裏部屋に転がり込む。
 すぐには立ち上がらず、息を潜め、耳を澄ます。外と下で、上だ上だ、と叫ぶ声と右往左往する靴音が交錯している。
 ぐずぐずしている暇はない。下から光の漏れている羽目板を持ち上げ、覗き込む。
 偶然、二階へ下りる階段の脇に若者がいた。目が合った瞬間、咄嗟に羽目板の縁にぶら下がり、唖然としている顔に蹴りを入れる。
 避け切れず、派手に吹っ飛んだその若者は、そのまま背後の扉にぶつかり、騒々しい音を立てて中へ倒れ込んだ。
 彼の状態を確かめるのも兼ねて、その部屋の中を覗く。若者は完全に目を回していたが、書斎らしきその部屋の中には誰もいなかった。
(ち、外れか……)
 その時背後で扉が開く気配がした。
「なんだなんだ、今の音は」
 一瞬アンナの身体がびくり、と震えた。忘れようとしても忘れえぬ、耳の奥に刻まれた声。
「下の方も騒がしいようだが、誰か……いないの……か……」
(……ミーカー!)
 振り返った目の前に憎き仇がいた。顔の左側を包帯で覆い隠した男は、思わぬ出会いに右眼を見開いたまま言葉を失っている。
 その瞬間、アンナの頭の中は真っ白に染まり、思わぬ力が身体の内部で爆発した。自らの意志ではなく、その力に押されるようにトマホークを振り上げ、風を巻いて仇敵に襲いかかっていた。


 最初はそれが何か、判らなかった。薄汚い塊が動いている、としか認識できなかった。
 だが、それが振り返ったとき、ミーカーはうろたえた。それがなんであるかを理解するより早く、その者の眼が放つ殺意のきらめきに恐怖を感じた。
「インディア――」
「ミ……ィイ……ィィカァァァッッッ!!」
「う、おおおぉぉぉぉぉっっっ!!」
 真っ直ぐに突進してくるそれに対し、ミーカーは恥も外聞もなく、慌てふためいて寝室へ逃げ込んだ。
 たった今立っていた床に、ぎらりと光るトマホークの刃が重い音を立てて突き刺さる。
 それを抜こうとしている間に、ミーカーはベッドサイドに置いたガンベルトに飛びついた。
 躍起になって抜こうとするが、撃鉄が止め具に引っかかって抜けない。
「く、くそっ! ……うおっ!」
 ベッドに駈け上ったそれが、きらめく刃を振り下ろす。ミーカーは咄嗟に銃を収めたままのホルスターで、その刃を受け止めた。
 凄まじい金属音があがり、掌から肩先まで痺れるほどの衝撃が走り抜ける。
「死ねぇ、死ねぇ! ……死ねぇぇぇぇぇ!」
「ぬ、ぬぅぐぐぐ……な……なんて……力だ…………この……低能のくせに……」
 相手はそのまま力を緩めず、銃も折れよとばかりに悪鬼の形相で刃を押し込んでくる。身体ごとのしかかられ、ベッドのスプリングがミーカーの代わりに悲鳴を上げる。
 鼻先に突きつけられた刃がランプの光を受けてぎらめく。その向こうで燃え上がる復讐鬼の眼は、それ以上の輝きを発している。
 色々と口走って相手の動揺を誘いたいところだが、それどころではない。少しでも力を抜けば、殺意の塊と化した刃に額を叩き割られてしまう。今はただ歯を食いしばって必死に耐えるしかない。
(ス、スティーブはいないのか! 誰でもいい、早く助けに来い!)
 少しでも刃から遠ざかろうと顔を背ける。しかし、視界の端に映る刃にこめられた殺意は消しようがない。殺される恐怖からか、掌にべっとりと脂汗が滲み出してきていた。
(だめだ、このままでは本当に殺され――)
「ここだ! うおっ、ミーカーさんが!」
 部屋の戸口で、部下が他の者に叫んでいる。命令を出したいところだが、そんな余裕はない。もはや刃は肌に触れる寸前だ。
「このアマ! ぶっ殺して……」
 銃を抜く音にミーカーの背筋を戦慄が走った。だがすぐに別の声が慌てて止めに入った。
「馬鹿野郎! ミーカーさんに当たったらどうする! 相手は一人だ、取り押さえろ!」
 アンナはその声に素早く反応した。振り返り様、トマホークを一閃する。
「おぎゃああああああっっ!!」
 髭面のむさくるしい男が血霧を噴き出す顔面を押さえ、情けない悲鳴をあげてぶっ倒れた。
 たった一人の小娘が発する殺気に、荒事に慣れているはずの男達が一斉に後退った。
 興奮した猫のような唸りを漏らしながら、血染めのトマホークを振りかざすアンナに対し、彼らは明らかに怯えていた。さらに彼女の下で馬乗りに押さえ込まれているミーカーの存在もあって、手を出しかねている。
(くそっ! スティーブがいないだけで、これほど役に立たない集団に成り下がるのか!)
 舌打ちを漏らしたミーカーは、落ち着いた手つきで銃をホルスターから抜き出した。
 動きを感じたのか、アンナが振り返った。自分に向けられた銃口に怯みもせず、トマホークを振り下ろす。
「う……おっ、ば、馬鹿か、貴様はぁっ!」
 嘲りではなく、恐怖からの叫びをあげて、ミーカーは死に物狂いで腰を突き上げた。馬乗りになっていたアンナを跳ね飛ばすと、転がり落ちるようにベッドの上から脱出する。
 間一髪、トマホークが枕に突き刺さり、羽毛が舞い散った。
 危地を脱した主人の姿に、部下達が一斉に銃を抜き放った。
「馬鹿者! まだ撃つな!」
 ミーカーは鋭い声で制した。狭い部屋に十丁以上の銃口がひしめいているのだ。下手に撃たれては流れ弾に巻き込まれる。
「今度こそっ!」
 ベッドの上から娘一人分の体重を載せて、トマホークが振り下ろされる。
 咄嗟に首をねじる。刃はすんでのところで頬をかすめ、洋服ダンスに突き刺さった。
「くそっ! 逃げるな、ミーカー!」
 タンスに足をかけてトマホークを引っこ抜くアンナの叫びを尻目に、ミーカーは群れ集まった部下の元に転がり戻った。その生きた壁の向こう側へと案内されながらわめく。
「あのアマを生け捕りにしろ! 二、三発ならブチ込んでも構わんが、絶対に殺すな!」
 即座に数発の銃声が轟き、アンナの左腿と右脇腹に紅い花弁が咲いた。


 寝室の窓ガラスが砕け散り、窓際に置いてあった花瓶が弾け飛んだ。
 衝撃で吹っ飛ばされ、壁に叩きつけられたアンナは、すぐさま立ち上がろうと身体を起こした。
 しかし、意思に反して左膝ががっくり砕け、無様に尻もちをついてしまった。
 立てない。左の腿に違和感がある。
 まさぐると、ぬらめく銃創が指先に触れた。派手に血を噴いているわけではないが、鈍く重いしこりのようなものが傷口の奥にうずくまっている。右脇腹にも同様の重みが感じられる。
(く……しまった……脚を)
 衝撃で麻痺したのか、両方とも不思議と痛みはなかった。しかし、同時に立とうという意思も伝わらなくなっている。これでは俊敏な動きどころか、全く動くこともできない。
(ちぃぃっ、ここまで追い詰めながら……!)
 銃を構えたまま恐る恐る近づいてくる男達を鋭い視線で威嚇する。その凄絶な眼差しに、無頼の男共が揃ってぎょっと立ち竦んだ。
「何をしているんだ、貴様らは! 動きの取れないインディアンの小娘一人に何を恐れることがある! とっとと捕まえろ! 捕まえて表に引きずり出せっ!」
 部下達の不甲斐なさに業を煮やしたミーカーがわめき散らしている。だが、その姿は男達の壁に遮られて見えない。
(精霊よ、グレートスピリットよ……どうして力を貸しては下さらないのですか……?)
 襲撃は完全な失敗に終わった。動けなければ、戦う意志はあろうとも復讐はおぼつかない。
 煮えたぎる口惜しさが胸を焦がす。こんな野蛮人共に、己の存在が踏みにじられようとしていることが悔しくて悔しくて、どうにもやりきれなかった。
「いいか、いっせぇの、で行くぞ。いいな」
 むさくるしい男共が、いたいけな小娘一人を押さえ込むにもおどおどと相談している。
 しかし、もうアンナにはどうでもいいことだった。
(くそ……これでは、あのときと同じだ……! あの保安官に追い詰められたときと……)
 不意にジェラードの顔が脳裏をよぎる。一瞬胸に芽生えかけた儚い期待を、自ら首を振って打ち消した。
(来るはずがない。……来てはいけないんだ)
「いっ……せぇのぉ」
 山津波の勢いで男共が襲いかかってきた。
「う……わああああっっっ!」
 トマホークを振う暇もなく押し潰され、アンナの視界が暗転した。


 2

「捕まえたならさっさと表に引きずり出せ!」
 小娘が押し潰されるのを見たミーカーは、苛立たしげに命令を下し、暴れた拍子にずれた包帯を疎ましげに引きはがした。
 どす黒く変色した痣に囲まれた左眼が露わになったが、誰も笑わない。ミーカーの憤怒の形相がそれをさせなかった。
 アンナはまずその場で怒りまくる荒くれ達によって、制裁を受けた。
 トマホークを奪われ、両脇から抱えあげられ、腹部と言わず背中と言わず、容赦なく拳やブーツの爪先が何度も叩き込まれる。少しでも抗う素振りを見せようものなら、即座に左右の頬を繰り返し張られ、考えつくありとあらゆる悪罵を浴びせかけられる。
 それは相手の意思を否定しようとか、自分の意志を貫くための暴力ではなく、ただ鬱屈を晴らすためだけの暴力だった。
 押しひしがれた後、殴られ、蹴られ、張られ、小突かれ、ありとあらゆる暴行虐待を受けたアンナの意識は、やがて自分が何をしているのか、何をされているのかも分からぬほどに朦朧となった。
 あらゆる感覚が曖昧になってゆく中で、ただ右脇腹と左太腿にだけは燃えるような痛みが脈打っているのを感じていた。
 不意に強く突き倒され、突っ伏したアンナは火照る頬に冷えた何かを感じた。
(ああ……冷たくて気持ちいい……)
 それは地面だった。いつの間にか母屋の裏口から引きずり出されたらしい。明け方の大地は冷たく、肌に宿る炎を心地好く鎮めてくれる。
 アンナは幸いとばかりに無意識に頬を押しつけていたが、その幸せも束の間だった。
「さて……と」
 周囲に部下の自警団をはべらせ、アンナから取り上げたトマホークを弄んでいたミーカーは、彼女の傍に片膝を着くと、前髪を乱暴に引っつかんで顔を仰向かせた。
 頭に鋭痛が走り、顔の皮が上方へ引き上げられてだらしなく口が開く。
「おい、小娘。俺の声はわかるな? 聞こえるなら返事をしろ」
「う……うぁい……」
 全く覇気のない、間の抜けた声にミーカーの背後で失笑が漏れる。ミーカーも薄く唇を歪めた。
「貴様が来たということは、ジェラードも来ているのだろう? 奴は今どこにいる?」
「……ひ、ひり……まひぇん」
 一瞬眼を細めたミーカーは、いきなりアンナの顔面を地面に叩きつけた。
 アンナの昏い視界に火花が散り、鼻の奥につぅん、ときな臭い匂いが漂う。
 立ち上がったミーカーは、事務仕事でもするような無表情のまま、アンナの後頭部を踏みにじった。地面にこすりつけられる可憐な唇から、呻きとも悲鳴ともつかない豚のような声が漏れる。
 たっぷりと踏みにじった後で再び片膝をつき、前髪をつかみ上げて顔を仰向かせる。
「もう一度聞く。奴はどこだ?」
「……ひ……らな…………ひ」
「強情なアマだな」
 再び顔面を地面に叩きつけ、力を失ってだらしなく伸び切ったアンナの身体をブーツの爪先に引っかけてひっくり返す。
 自重で圧迫されていた胸が解放され、荒い呼吸を繰り返す彼女の右脇腹には、薔薇と呼ぶには大きすぎる大輪の血華が咲いている。左腿も同様だ。
 ミーカーはいきなりその左腿の華をブーツの踵で踏み潰した。
「あっ、あああっ! あぅああぁぁっっっ!」
 巨大な稲妻が神経から背筋を走り抜け、脳天で炸裂した。上半身が跳ね上がり、眼を限界まで見開く。
 その凄まじい激痛に、傷口を踏みしだくミーカーの脚にすがりつかずにはいられなかった。
「汚らしい身体で俺に触るな!」
 言葉にならない悲鳴を上げながら脚に抱きついて首を振りたくる娘を、非情にも膝で顎を蹴り上げてのけ反らせ、今度は右脇腹の大華輪を踏みにじる。
「あっ……があぁぁぁっっっっ! ああああぁっ! ああっ! うぁああぁぁあぁっっ!」
 血にまみれたブーツの底を上げると、アンナはこれ以上踏まれまいと腹を抱え込んだ。
 しかし、ミーカーはその無防備な背中を容赦なく蹴り飛ばした。反り返って苦しみ悶え、悲鳴をあげてのたうつ様を傲然と見下ろす。
「どうだ、思い出したか?」
 荒い息を吐くことに精一杯で答える余裕などない。肩を震わせて黙っていると、再び背中に牛革の爪先が食い込んだ。
「あっ……かぁはあぁっっっ……!」
「さっさと答えれば引導を渡してやる」
「し……しら……知らな……い……。でも…………」
「でも……? 何だ?」
 なお言い澱むアンナに痺れを切らし、ミーカーは部下に指示を下した。
 進み出た二人がアンナの両脇を抱えて強制的に立たせる。
 ミーカーはその力なく俯いた顎をトマホークの切っ先で突き上げ、無理やり上向かせた。端正な娘の顔は、今や酷い有様になっていた。
 左眼は腫れ上がった頬肉に押し上げられて塞がり、涙腺が緩んでいるのか濡れ光っている。頬だけでなく、ぼさぼさに荒らされた黒髪といい、身にまとっているケープや服といい、泥や土がこびりついて汚れきっている。唇は切れ、口の端からは血が溢れ出し、鼻血も滴り落ちている。
「いいか、小娘。今から貴様のこのトマホークで貴様の乳房を切り取って、豚に食わせてもいいんだ。貴様は私にこれだけ恥をかかせたのだ。楽に殺しはせん。だが、奴の居場所について話せば、すぐにでも楽にしてやる」
 聞いているのかいないのか、アンナは荒い息を吐きながら押し黙っている。
「指を折れ」
 遠慮や良心の呵責など全くない、無造作な一言だった。命令を受けた男達もきわめて無造作に、両手の人差し指を逆向きにへし折る。
 妙に乾いた破折音とともに、ぐったりとしていたアンナの身体が急に跳ね上がった。喉の奥から呻きとも悲鳴ともつかない苦鳴を絞り出し、耐え難い痛みに首を振りたくる。だが、両脇から支える二人の男を振りほどくだけの力はもはや無かった。
「次は中指だ……銃で吹っ飛ばしてやれ」
 別の二人が銃を抜いていそいそと進み出た。
 この凄惨なリンチに劣情を催したか、にたにた薄笑いを浮かべた二人は、嫌だ嫌だと力無い声で首を振る娘などお構いなしに撃鉄を引き上げ、銃口を中指に向ける。
「両手の指が終わっても次は足の指がある。生きたまま頭の皮を剥ぐとか、はらわたを抉り出すとか、他にも貴様を責め殺す方法などいくらでもあるんだ。今のうちに話して楽になれ」
「……ジェ……ラ…………ド」
 ミーカーは引き金を引こうとした二人を制し、アンナの呟きに聞き入る。だが、娘は半分意識を失いながらも頑強に抵抗した。
「ユ……トは…………誇り……失……てまで…………仲間を……売……りはし……ない」
 ミーカーの頬が怒りにぴくぴくと攣った。再びトマホークの背で顎を突き上げて仰向かせる。
「見上げたものだな。その強情さがどこまでもつか、見届けてやろう」
 そのままトマホークを振り抜いた。刃の先端がアンナの左頬をざっくりと裂き、新たな血飛沫が噴き出した。ケープはおろか、その下の白いシャツまでもが紅く染まった。
 新たな鋭痛に眼を剥き、食いしばった歯の間から呻き声を漏らすアンナ。
 ミーカーは、その凄絶な姿を愉快げな薄笑みさえ浮かべて眺め入った。
「やれ」
 乾いた銃声が二つ、轟いた。


 西に傾いた満月の残る夜空に、残響が尾を引いて消えてゆく。
 しかし、二人の指はまだ引き金を引いていなかった。それに、明らかに発砲音から距離があった。
「何だ、今のは?」
 ミーカーが銃撃の主を求めて周囲に視線を巡らした途端、アンナの指を撃とうとしていた二人が声もなく崩れ落ちた。
「おい、どうした? な…………なんだと!?」
 二人の側頭部からどろりとした粘液が噴き出し、こぼれ落ちる。よく見ればこめかみに小さな孔が穿たれていた。
「し、死んでる……?」
「今の、今の銃声か?」
 突然の事態に、周囲を取り巻く総勢十数名にものぼる男達の間に緊張が走る。一気に空気が張り詰め、彼らは一斉に腰の銃を握りながら銃撃の主を捜した。アンナを支えている二人も顔色を失って、落ち着かなげに辺りを見回している。
「落ち着け! 迂闊に動けば敵の思うつぼ……」
「いたぞっ! あそこだっ……母屋の陰!」
 ミーカーの指示を聞かず、部下の一人が母屋の西側陰に佇む馬の影を見つけた。連鎖反応で数人が銃を抜き放つ。いつもの癖か、同時に撃鉄を起こした者までいた。
 突如一声いなないた馬は、こちらに向かって走り出した。慌てて残った者も銃を引き抜き、構える。
「誰か乗っているぞ! 撃て!」
 馬の背に低くうつぶせた人影を目ざとく見つけた者が、叫ぶと同時にいきなり発砲した。 
 それが合図となって全員が引き金を引く。ミーカーが止める暇もなかった。
 数十の銃声が静妙な夜明け近くの空気を震わせる。薄白っぽい硝煙が視界を覆うほどに漂い、激烈な火薬臭が鼻腔の奥に刺さる。
 全身に銃弾を浴びた馬は、悲しげにいななきながら前のめりに崩れ落ち、ぶっ倒れた。その背に跨っていた人影は勢い余って放り出され、受け身も取れずにミーカーの前の地面に叩きつけられた。
「一体なんだ……こいつは?」
 長々と地面に寝そべったまま、微動だにしない男の顔を覗き込んだ途端、ミーカーは頬を強張らせた。その見知った顔に。
「……! スティーブだと!」
 驚きが引き切らないうちに、周囲で人が倒れる重い音がした。
「ひいぃっ!」
 情けない悲鳴を上げ、アンナを抱えていた二人が小娘を放り出した。
 辺りを見回せば、部下の半数が倒れていた。彼らが握る銃からは、いずれもまだゆらゆらと青い煙が立ち昇っている。
「何だ……これは? 一体何が起こっている!?」
 ミーカーはもう一度周囲を見渡した。しかし、何を見ていいのか、判らない。浮き足立つ部下を統制指令するどころではない。むしろ彼自身が狼狽しきっていた。その顔には恐怖が貼りついている。
 しかし、何が起きているのかは分からずとも、誰がやったかは想像がついた。今現在、ユート以外で自分に逆らう者と言えば、一人しか心当たりはない。それも、スティーブを殺せるような相手といえば。
「ジ……ジェラード・マクスウェルだな! わかっているぞ、姿を見せろ!」
 返事をされる前に射殺されるかもしれない、という思いが頭の片隅をよぎり、裏返りそうになる声を必死で押さえつける。思わずその手のトマホークを固く握りしめていた。
 返事は一発の銃声だった。
 金槌で鉄板を殴ったような音が響き渡り、握りしめていたトマホークを弾き飛ばされた。激烈な衝撃が右腕の骨を伝って脳を直撃する。
 思わずミーカーは呻きを漏らして痺れる右手首を握っていた。
「……それはお前の物じゃないし、それを持つ資格もない」
 聞き覚えのある低い声が届いた。
 先ほど馬が佇んでいた母屋の西端陰に、沈み行く月を背負って、孤影が佇んでいた。
 生き残った部下達が、その影の発する不気味な気配に呑まれ、一様に後退る。
 カウボーイハットを頭に載せた影の胸先で、銀色の銃口が月光を弾いている。それはあたかもきらめくナイフの刃のように、ミーカーの目を射た。
「ジェラード・マクスウェル……貴様、自分のやったことがわかっているのか。これは重大な……合衆国に対する背信行為だぞ!」
「俺が親父から教わった合衆国の精神は、お前こそ背信者だと言っている」
 迷いを一切感じさせない自信満々の口調で一歩踏み出す。じゃりり、とブーツの下で砂が声を上げた。
 ミーカーは相手の表情を窺おうとしたが、ハットの色濃い陰に隠れて読めず、頬を憎々しげに歪めた。
「はン、同胞を裏切って汚らしい土民共に味方し、法と秩序の護り手である保安官を殺した賞金首の分際で、えらく尊大な態度に出てきたものだな。開き直ったか?」
 部下達は相手の出方を読めず、気押されてじりじりとさらに後退っている。銃口を突きつけられている以上、迂闊な素振りは見せられない。相手があの名だたる『サンダーボルト・ジェラード』となればなおさらだ。
 ミーカーもまた一向に痺れのとれない右手首を握ったまま、わずかに退がり始めていた。
「笑わせるな。罪の無い娘をよってたかって嬲り物にする奴らが法と秩序の護り手とは、コロラドの治安も底が知れたものだな」
 ジェラードは全く動じる様子もなく、相変わらず飄々としている。ミーカーは苛立つ心を抑え込み、ふふんと鼻で笑い返した。
「軽口だけは相変わらずか。まあいい、探す面倒が省けた」
 突然、ミーカーはジェラードを睨みつけたまま、部下達に宣言した。
「いいか、聞け!! この場から逃げ出す者は、もはやコロラドに安住できぬものと思え!! だが、ジェラードを殺した者には千$出してやる! ついでに、次の保安官にしてやろう! どんな手を使ってでも奴を殺せ!」
 だが、たった今ジェラードの腕を見せつけられた部下達は、お互いに顔を見合わせ、ただ呆然と立ち尽くしていた。


「……かなりヤバいことになってるな」
 騒動が起きている母屋の裏口付近から離れた、離れの陰に男が一人佇んでいた。
 男の名はチャベス。一度は母屋へ馬で乗りつけたのだが、インディアンの娘が捕まったため、馬小屋に馬をつないできたところだった。
 ここまで戻ってきたところで異様な雰囲気を感じ、思わず身を隠したものの、相手が相手だけに飛び出しかねていた。
 敵の居場所はわかっているのだから、手の中にあるライフルで狙撃できればいいのだが、銃の腕前が人並み程度の自分ではおそらく当たるまい。もっと確実な方法を考えなければ……。確実に相手を葬れる……あの、あっという間に数人を撃ち倒した抜き撃ちをものともせずに戦う方法はないだろうか……。
 ジェラードの傍へ近づくための道を探して首を巡らせたチャベスは、ふと納屋に目を止めた。
「そうだ。あれがある……あれなら……」
 ひへへ、と笑ってチャベスはそっとその場を離れ、納屋へと向かった。



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