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迷い道


「……どっちにしろ、止めるべきだったんだよ」
 ジェラードは肩で息をしながら、ひとりごちた。
「俺はこの辺の地理がまったくわかんねーんだから。だいたい、どこへ行けばいいんだ? デンバーはミーカーの手が回ってるとやばそうだし、かといってこの近隣の町っていやぁ多分ミーカーのいる町だろうし……逃げるならニューメキシコからメキシコへ入るのがいいか。え〜と……確か、南だっけ」
 周囲を見回す。すぐ傍を急流が走り、両側に高さ10mほどの断崖が続いている。
 あの洞窟を出たあと、川なりに下流へ向かって歩いてきたのだが――自分がどこに向かっているのかもわからない。何しろ初めての土地で、しかもアンナと会って断崖から落ちて以後、この辺りの地理を誰かに教えてもらえる機会はなかったのだから。
 ロッキーの西側にいる以上、川の流れに沿っていけばとりあえず東に向かうことはない、と考えていた。
 上を見る。濃紺の空に瞬く星。上流の方角、黒々とそびえるロッキー連峰に真円の月がかかっている。
「天文学は畑違いなんだがなぁ。ええと……北極星ってどれだっけ? ――と、ひょっとしてこの角度じゃ、見えないのか?」
 ブツブツ漏らしながら歩く。岩場は不安定で、何度も足をとられそうになる。
「とっと……それにしたって、アンナもアンナだ。俺一人ほっぽり出していきやがって。これは何か? 俺に死ねってことか? ……やっぱり殴り倒したのをまだ根に持ってたのかなぁ……」
 自分でも馬鹿馬鹿しいと思いながら、ぼやきが止まらない。
「そんなわけはないわな。まー、多分怒りで我を忘れてるんだろうなぁ。ええい、我どころか俺まで忘れてどうするんだ――……よ、と」
 足が止まった。目前で河原が消えていた。爪先で蹴ってしまった小石が、からからと落ちてゆく。
 傍らの急流も轟々と音を立てて、宙に身を躍らせていた。
「……滝ときたもんだ」
 落差は――かなりあるように見えるが、その錯覚を差し引いて考えれば、多分4〜5mほど。
 ただ、これだけの急流が落ち込んでいるのに、眼下に広がる淵はわりと流れが緩やかに見える。つまり、滝壷が深いということだろう。迂闊に飛び込めば、そのまま引きずり込まれかねない。裸でも難しかろうに、両腰に銃をぶら下げて泳ぐのは無茶だ。
 下は相変わらずの不安定な岩場。飛び降りるのは危なそうだ。
 辺りを見回すと一箇所、岩伝いに降りられそうな場所があった。
「やれやれ」
 溜め息をついて、ジェラードはそこへと向かった。


 岩肌にしがみつくようにして下へ降りると、流れが緩やかになっているもう一つの訳が判った。
 川幅が広がっているだけでなく、もう一つ流れが合流している。川床が浅く、流量もそれほどではない。川面にきらきらと月の光が踊っている。
 ふと、ジェラードは目をすがめた。
 合流している緩やかな流れの方の中ほどに、何かある。岩ではない。
 近づいて、月の光に輝く水面に目を凝らす。それは人だった。人間が、流れの中ほどで横たわっている。
 くるぶしほどの深さの流れを踏み分けて近づき、肩をつかんだ。生気の失われた肌の弾力が指に返る。
 月の光に顔が照らし出されている。まだ年若いインディアンの少年だった。十五にもなるまい。
 少年は死んでいた。凝視すれば、身体のあちこちに黒い弾痕が穿たれているのがわかる。
「……ひどいな」
 ジェラードは周囲を見回した。
 改めて見れば、そこにも、ここにも、あそこにも。
 女、子供、赤ん坊……なぜか男の姿は見えない。逃げてきたのか、川を流されてきたのか。
 川から上がったジェラードがふと見下ろした足元にも、人の体の欠片が落ちていた。
 それは人の手だった。手首から先だけが、まるでそこに人が埋められているかのように石と石の間に挟まれて、屹立している。
 辺り中、人間と人間の欠片が転がっていた。
 声もなく、動きもない。死の静寂。
 背後で落ちる滝の音と、目前を流れる川のせせらぎだけが夜の世界に奏でられている。
「……すまん」
 ジェラードはカウボーイハットを脱いで胸に当て、深々と頭を下げた。
 自分のせいではないとわかっている。だが、それでもそれしか言うべき言葉を紡ぐことは出来なかった。
「すまん」
 頭を下げたまま、もう一度呟く。
 誰に対して、何の償いとして謝っているのか、自分でもわからなかった。


 ジェラードは緩やかな流れを遡って辿り、歩いていた。
 無駄口は一切口にしなかった。
 いくらか遡ると、新たな合流点についた。今度は三方から流れてきている。
「やはり、そうか」
 ジェラードは納得した。
 流れてくる先は、いずれも人の手が入った水路になっている。畑に水を引くためのものだろう。この辺りでそんなものを整備しているのは、おそらくレッドフォックスの集落のみ。
「こいつを辿れば、とりあえず集落へは戻れるか……さて、どれを選べば――」
 不意に頭上の茂みがざわついた。
 腰の銃のグリップを握りながら、音のした方を見る。
 2mほどの断崖の上に、何やら大きな塊があった。月の光を弾いてきらりと輝く二つの何か――眼か。
 それが何なのか気づいた瞬間、ジェラードは恐怖に凍りついた。
 熊だ。ロッキーをねぐらにするヒグマ。グリズリー。
 グリズリーはロッキー最強の生き物だ。身の丈3m以上。体重はゆうに雄牛を超えるだろう。こいつには、銃ですら大したアドバンテージにはならない。全身に生えた剛毛と分厚い皮下脂肪、巨体を支える筋肉は、拳銃を豆鉄砲におとしめる。
 そのうえ、足も速い。この状況では、人の足では逃げ切れない。
 グリズリーは妙に興奮しているようだった。しきりにこっちに向かって吼え、威嚇している。
「血の臭いを嗅いできやがったのか……」
 脇の下に嫌な汗が流れ落ちる。ジェラードは、じりじりと後退していた。十分な距離をとった上で、後は運を天に任せて逃げるしかない。
 グリズリーが崖を降りる素振りを見せ始めた。こちらを威嚇しつつ、眼下の岩場を窺っている。
(やばいぞやばいぞ、おいおいおいおい。来るなよ、来るんじゃないぞ)
 焦りが焦りを呼ぶ。一刻も早くこの場を駈け去りたいのだが、迂闊に駈け出せば、奴はすぐにあの段差を飛び越えて追いかけてくるだろう。
 そのとき、ふとグリズリーが動きを止めた。
 一点を見たまま、金縛りにあったように固まっている。
 ジェラードもつられてその方向を見た。
 対岸に大きく張り出した岩の上――月の光に照らし出された舞台のようなそこに、グリズリーよりも大きなシルエットが屹立していた。
「な……なんだ、ありゃあ……」
 それは、一見するとバッファローのようだった。だが、バッファローは草原の動物。こんな山奥にはいないし、第一体格が大きすぎる。
 だが巨大な頭部、盛り上がった首周り、突き出した角、長い尻尾……そのシルエットはどう見てもバッファローだ。
 突然、グリズリーが吼えた。さっきまでジェラードに対してあげていた威嚇の咆哮ではない。何かの意志を秘めた声に聞こえた。
 その咆哮に対して、バッファローも応えた。
 ジェラードには鼻息としか聞こえなかったその一声に、どんな意思が込められていたのか――途端に、グリズリーは頭を垂れた。そしてジェラードを一瞥すると、踵を返して茂みの中へと姿を消した。
 何が起きたのか、ジェラードには理解できなかった。ただ、動物同士でも会話があるらしい、とぼんやり考えるのが精一杯だった。
 再び、鼻息が聞こえた。続けて、長い長い空気を震わせるようなバッファロー本来の咆哮が響く。
 月に向かって吼える巨牛。
 その物悲しげな光景と哀切な咆哮が、ジェラードの胸を締め付ける。
 呆然と目を奪われているジェラードを尻目に、バッファローも踵を返した。岩の向こうへ姿を消す。
 思わずジェラードは、同じ方向へと足を踏み出していた。


 対岸に渡るとすぐ、森が迫っていた。
 あのバッファローを追うには、この森に分け入らねばならない。
 不思議と恐怖はなかった。ただ、月の光が届かない森の中に、光源も持たずに踏み込むことには躊躇した。足元も見えない夜の森は、本来人間の踏み込むべき場所ではない。
 迷っていると、呼ぶ声が聞こえた。ネズミが鳴いているような、小さな、かすかな声。
 声の主を求めて目を上げると、枝の上にリスがいた。リスはジェラードに見つかったことを確認するように小首を傾げると、枝伝いに森の中へと姿を消した。
 妙な感情に突き動かされ、ジェラードも森へと踏み込む。
 少し進むと、奥の方に月の明かりが漏れているのが見えた。樹間が開いているのだろう――そこにリスがいるのが見えた。
 ジェラードは迷わず、リスに向かって歩いた。
 ちょっとした広場に着くと、リスは再び樹上に駆け上がり、また森の奥へ姿を消した。
 その後を追って森に踏み込むと、次の広場が見え、そこにリスがいて――……
 そんなことを何度となく繰り返して、ふと気づくとリスの姿は消えていた。
 眼前に広がっているのは、もう森ではない。広い草原――いや、開拓された農地だった。
 ジェラードは畑の一つに踏み込んだ。
 見慣れた植物が植えられている。一本の苗の根元をつかみ、引き抜いてみた。
 小石のような形の芋が土の中から現れた。ジャガイモだ。もうすぐ収穫できるだろう――収穫する者がいれば、だが。
「……こんなものを作るのに、十年」
 ジャガイモは荒地でもそれなりの収穫を期待できる作物のはずだ。東部の少し土のいい場所なら、植えてすぐに収穫できる。
 それが十年。水路を引き、石を除き、土を換え……まさしく彼らは、一からこの畑を創ったのだ。
「つらかっただろうな」
 ジャガイモを抜いた跡に手を入れ、土を握る。月の光の下ではよくわからないが、乾燥しているようだ。塊はぼろぼろと崩れ、砂になって手の中から零れ落ちてゆく。本来畑作には、向かない土だろう。
「……こんな土地でも、奪うのか。こんな土地でさえ……だったら、どんな土地ならいいんだ」
 再び手にとって土の塊が、握り締める手の中で砕け散る。その土を作った者達の涙のように、砂が手の中から零れ落ちてゆく。
 ジェラードは立ち上がった。辺りを見回す。
 ふと、丘の上に影を認めた。四本足の獣――バッファローではない。もっと小柄な、犬のようなシルエット。
 シルエットが鳴いた。けーん、と。鳴いて、丘の向こうへと姿を消した。
「……狐、か」
 ジェラードはその方角へ足を向けた。そちらに何があるか、おぼろげに予感しつつ。


 どこかで狼が悲しげな遠吠えを上げている。
 漆黒の中空に浮かぶ満月。その青白い光が荒涼とした大地に、ひっそり佇む廃墟を晧々と照らしている。
 破壊され引き裂かれたティピーの残骸。大地に突き刺さり中程から折れた槍。無造作に投げ出されたままのライフル、トマホーク、棍棒……。
 無残に折られ、穿たれ、引き千切られ、砕かれ、切り刻まれて原形をとどめぬ数々の骸。それこそ老若男女の区別なく、中にはまだ歩き始めたばかりの幼児さえも見える。
 その全てが五体満足ではない。鼻、耳、指を削がれた者は言うに及ばず、頭皮を剥がれ頭蓋の見えている者、馬に踏み潰された者、弾痕で穴だらけの者、首の無い者、首だけの者、四肢をばらばらの者、眼球をくり抜かれている者……その光景は、戦場というより屠殺場だった。
 冴え冴えとした月の蒼光が、かつて生きていた者達の影を大地に黒々と刻みつけている。
 死と静寂が、なだらかな丘に囲まれた盆地の底を包んでいた。
 ジェラードは立ち尽くしていた。
 つい昨日まで何気なく見ていた風景が、破壊し尽くされている。その光景に言葉が出ない。
 足元に寄り添い、しきりに身体をすり寄せる狐。ジェラードはその頭を軽く撫でてやった。
「ありがとうな」
 狐は小さく鳴いて離れていった。
 その後姿が丘の向こうに消えるのを見送って、ジェラードはその場に腰を落とした。
 周囲は多くの遺骸が散らばっている。
 だが、ジェラードが見つめるのはただひとつ――四角い輪郭に細い目の男の首。
「……呼んだのは……お前か? それとも、レッドフォックスか?」
 手を伸ばし、顔にこびりついた砂を払ってやる。
「アンナは……行っちまった。すまん、止められなかった」
 返ってくるのは静寂ばかり。
 ジェラードは唇を引き結び、首を見つめた。
「何で、こうなっちまうんだろうな……。俺は――」
 大きな溜め息が唇をついて出た。
「俺は、お前達と関わりあいになりたくなかった。家族の中で俺一人ぐらい、まっとうに死にたかったんだがな……。まるで呪いじゃねーか。家族がみんな、インディアンに関わって死んじまうなんてよ」
 不意に風が吹いた。緩やかな、まといつくような風が。
 遠くで狼が一声、長く長く吠えた。
「――……ほんとにな。難儀なこったぜ」
 ジェラードの呟きを絡めとって、風は渦を巻き――遥か夜空へと舞い上がっていた。



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