奪われざる誇り
吠え猛る風の叫びが、峡谷を吹き抜ける。
白く泡立つ奔流が激しく轟く。
ミーカータウンの南西、ホワイト川の支流が走る狭い峡谷。
崖下の洞穴の中に、アンナとジェラードは隠れていた。
馬は途中で乗り捨てた。そのとき鞍に掛けてあった麻袋からDAサンダラーを取り返し、ついでに鞍の下の秘密のポケットに隠してあった手錠の鍵も見つけていた。
「あのスティーブってのは用心深い奴だな。あんなところに隠しポケットなんか作るか、普通?」
秘密のポケットを見つけたのは偶然だった。
野に放つなら鞍と轡を外す、と言ってアンナが鞍をひっくり返した拍子に見つけたものだ。
「まぁ、おかげで手錠を銃で撃つなんて馬鹿な真似は、披露しないで済んだけどな」
軽口を叩きながら外した手錠を指先で弄び、アンナに笑いかける――その顔はそのまま固まった。
膝を抱えてうずくまるアンナが、奥の暗がりからじっと凝視していた。その黒曜石の瞳には、昏い恨みと憎悪と殺意の炎が揺らめいている。
ジェラードは思わず顔を背けた。
アンナの目が自分を見ていないことはわかっている。だが、自分に向けられているように感じ、神経が逆なでされたような悪寒を覚えた。
あの場から逃げ出してから、ほぼ半日が経っていた。陽もかなり西に傾いている。洞窟の中から直接太陽は見えないが、赤い断崖がより赤く染まっているのは見える。
集落を襲った悲劇を知ったアンナは、当然ながら半狂乱になって戻ろうとした。
ジェラードは止めた。今もどれは殺される、と。だが、アンナは耳を貸さずに飛び出そうとした。結局、ジェラードは彼女の後頭部を銃のグリップで殴り、昏倒させるしかなかった。
アンナはすぐに目覚めたが、介抱するジェラードを突き飛ばすと、逃げ込むように奥の暗がりへ入り、膝を抱え込んでうずくまってしまった。それ以来、無言で虚空を凝視し続けている。
(どうしたものかな……)
暗鬱たる気持ちで、ジェラードはそっとため息をついた。
彼女にかける言葉が見当たらない。
サンド・クリークの虐殺時には、コロラド義勇軍の兵士は翌日になってもインディアンを探し出し、残虐極まりないやり方で狩っていた、という。
おそらく、レッドフォックスの集落も同じようなことになっているだろう。ミーカーの手下どもが、茂みや森に隠れ潜んでいるナノ・ユート族を探して、さながら人を食らう悪鬼のように、うろついているに違いない。
それを助けることは出来ない。たった一人で……いや、アンナを入れても二人で、何ができるというのか。
一人の無力が、胸を苛む。
(すまん、ジョセフ。レッドフォックス。仇は討てそうにないが……何とか、アンナだけは生き延びさせてみせる……すまん)
自分の両手首を拘束していた手錠を弄びながら、これから先の対策を考えてみる。
アンナを逃がすことを最優先に考えれば、道は二つ。彼女の父親、ビッグ・オークの下へ連れてゆくか、州外へ連れてゆくか。
前者はあまり気乗りがしなかった。白人排斥を叫ぶビッグ・オークの下へ行けば、アンナは必ず復讐戦争に参加するだろう。そして、命を落とす。それがわかっていて、連れてゆく気にはなれない。
だが、後者にしてもおそらくアンナは絶対に納得しないだろう。少なくとも、復讐を遂げるまでは、この州にとどまろうとする。
どう転んでも厄介な状況だったが、見捨ててゆくという選択肢だけは存在しなかった。第一、この土地に不案内なジェラードは、彼女の案内無しにはなにをするにも動き回れない。
頭を抱えて再びため息を漏らしたジェラードは、膝を抱え続ける彼女に目を向けた。
「アンナ、とにかく今はここから逃げよう。集落へ戻るのは――」
「殺す」
ぞっとするような声だった。賞金稼ぎとして、何人もの人間を手にかけてきたが、こんな地獄の底から沸き上がるような陰鬱で、怨念のこもった声を聞くのは初めてだった。
「ミーカーは……必ず私が殺す。……グレートスピリットに誓って……必ず」
「バカ言うな」
ジェラードは思わず苛ついた声を出した。この小娘は、こっちの思いなど何もわかっていない。
「お前、一人でやるつもりか」
「当たり前だ!」
アンナは立ち上がった。たちまち瞳に生気が甦る。揺らめいていた炎が、激しく燃え上がっていた。
「私はミーカーに全てを奪われた! 全てだ! 兄も、祖父も、仲間も、家も、生活も……ありとあらゆる物全てだぞ!! 奪われたものは取り返すし、それができないなら、同じ分だけ奴から奪い返す! それが大昔からの私達の掟だ! お前達白人のように奪うだけ奪って、そのお返しは許さないなどということは許されない! 家族を殺したなら、相手はその命をもってあがなう他ないのだ!」
ジェラードの苛立ちは頂点に達した。思わず手にした手錠を地面に叩きつけ、立ち上がった。
「そんな野蛮な風習のために、命を落とす気かっ!! せっかく拾った命を! いいかげんわかれ! 勝ち目なんかないんだよ!!」
「……野蛮、だと」
アンナの眼が、猫科の猛獣のように細まった。
「野蛮だと……? どっちが野蛮だ!」
叫ぶと同時に、トマホークを抜き放ち、足元に突き立てる。
その重く鈍い音に、ジェラードは息を呑んだ。
「恭順し、平和に暮らしていた集落を襲っておきながら、そこで奪い取った命の代価も払う事なく、のうのうと生きるお前達白人の方が、余程野蛮じゃないか!」
「…………………………!」
どうしようもないほどの正論だった。二の句を継げなかった。
ジェラードを睨み付けるアンナの瞳に、クリスタルのような輝きが溢れてくる。
しばしの沈黙。
洞窟の外を流れる早瀬の流音と、峡谷を吹き抜ける風の慟哭だけが二人の耳に届いている。
いまや、二人の間に大きな裂け目が横たわっていた。
やがて深いため息をついてジェラードは腰を下ろした。
「……アンナ、確かに奴らのやったことは許されることじゃない。神様だって許しはしないだろう。いずれ奴らには天罰が下る」
深く重いため息をついたアンナは、寂しそうに首を横に振った。クリスタルの滴が飛んだ。
「いずれ? 天罰? いずれとはいつだ。天罰とは何だ? 我々は、自分の受けた傷を返すのに、他の者の手に委ねたりなどしない。たとえそれがグレートスピリットでもだ。自分が受けた傷は、自分で返す。奪われたものは、同じだけのものを奪い返すことによってのみあがなわれる。実に簡単なことじゃないか。どうしてそれが分からない」
「理屈は分かるさ。でもな、それは新たな戦いの火種を生むことにしかならん。お前がミーカーを殺しても何も終わりはしない。新たな白人がやってきて今度はユート族の全てを滅ぼすだけだ。それがわかっているから、レッドフォックスは争いを避けようとしたんじゃないか」
アンナの目が吊りあがった。
「お前が酋長を語るな! お前になにがわかる……仲間をむざむざ、飢え死にという不名誉な死に追いやり続けてもなお、白人を信じようとした彼のなにがわかるというんだ! 第一、それでもレッドフォックスは殺されたじゃないか!!」
溢れる涙をぬぐおうともしないアンナに、ジェラードは目を細めた。今の言葉に、アンナ自身がどれほど傷ついているのか。それを言わせてしまったことに、悔悟の情がよぎる。
「……不名誉な死に向かう家族を見ているしかなかったその無念さは、俺にだってわかるつもりだ」
「な、に……」
ジェラードはガンベルトからDAサンダラーをそっと抜いた。その銀色の輝きに眼を落とす。
「これは、弟の形見だ。俺は……あいつを、ディックを止められなかった。それが正しくないことだと知りつつ死地へ向かうディックを、俺は……」
「…………仇は、討ったのか」
強張った面持ちのアンナに、ジェラードは首を横に振った。
「なぜだ! お前にはその権利があるだろう! それとも――臆したか。命を惜しんだか」
ジェラードは再び首を横に振った。
だが、アンナは、はン、と鼻先で嗤った。
「嘘だ。お前は死を恐れたんだ。不名誉な死を迎えた弟を嫌ったんだ」
「違う」
「違わない! お前が本当に家族を思うのなら、なぜ復讐しない! 弟が不名誉な死を迎えたなら、なぜその恥をそそごうとしない!! すべて、お前が臆病だからだ! お前が家族のことを本気で好きではなかったからだ!」
「違う! お前の尺度で俺の家族を測るなっ!! 俺が……俺が臆病だといわれるのは構わない……だが、俺の家族は、復讐なんてものを望む家族じゃなかった!!」
「は、家族全てが臆病者か」
「アンナぁっ!!」
思うより先に動いていた。ジェラードはアンナの頬を張っていた。
覚悟していたのか、首を戻したアンナはジェラードを見据えた。
「……その通りだ。ジェラード」
「あ……?」
自分のしでかしたことに呆然とし、痺れの走る左手を見ていたジェラードは、アンナの落ち着いた声に顔を上げた。アンナは、かすかに微笑んでいるように見えた。
「自分の尺度で、家族を測ってはいけない。だから、ジェラードも私をお前の尺度で測らないでくれ」
ジェラードの呼吸が止まった。心臓をえぐられた気がした。
「私は死ぬことなど怖くない。それよりも、受けた屈辱を晴らさぬままに生きて行くことの方が怖い。親兄弟を皆殺しにされ、それでも屈辱に耐えるのは精霊の望むものではないし、私だってそこまでして生きていたくない。それが私達ユートの魂であり、決して失ってはならない誇りなのだ」
誇り、という言葉がさらに胸をえぐる。
誇りのために死んでゆく者。驕り高ぶりながら栄える者。なぜこの世は、この国は、こんな矛盾に満ちているのだろう。
ジェラードは思わず拳を握りしめていた。脳裏を父の、母の、弟の顔が通りすぎてゆく。
「それに、私が失ったのは親兄弟だけじゃない。ミーカーの前の監督官の代から、白人の言うことに従ってきた私達は……名前も、生活も、そして文化も失った。私のアンナという名前は洗礼名だ。ナノ・ユート族としての、本来の名前は名付け親のレッドフォックスしか知らない。彼は私をアメリカ人にするつもりだったから、本当の名前を教えてはくれなかった……私は私の本名を知らないんだ」
アンナの声のトーンが、感情の落ち着きとともに落ちてきた。
「……万に一つも勝ち目はない。両親が悲しむぞ……たった一人生き残った娘なのに」
「私は死なない」
さっきよりはいくぶん和らいだ表情で、しかし決然とアンナは言った。
「私には精霊の護りがついている。グレートスピリットもこのような横暴を許しはしない。正しいことを行う私に、さらなる力を貸し与えてくれるだろう」
「アンナ……」
「もう私に残されているのはこのユートの誇りしかないんだ。この誇りを失ったら、私は生きながら死ぬことになる。それならば、たとえ死んでも誇りを守る。ジェラード、残された道はこれしかないのだ……」
苦渋に顔を歪め、己れの非力さに歯噛みするジェラードに、雄々しきユートの娘は優しく、そして哀しい眼差しを向けた。
「もう……私を止めないでくれ……私のためを思うのなら」
もはや言うべき言葉もなく、黙ってうなだれるジェラードの側をすり抜けたアンナは、洞窟を出て行く前に一度だけ振り返った。
その唇がわずかに動き、呟いた言葉はしかし、風と早瀬の二重奏に阻まれ、背を向けていたジェラードに届くことはなかった。
アンナは暗い洞窟から、傾き始めた太陽に赤く染まった世界へと帰って行った。
ミーカー邸書斎。
「見事な痣ですな。青を通り越して紫ですよ」
愉快そうにスティーブが笑う。
彼の前では書斎机に肘をついたミーカーが、紫に変色した左頬の痣を見せないよう横を向いていた。そのむすっとした表情がどうにもおかしい。まるで喧嘩相手に殴られてすねている子供のようだ。
見たままの感想をそのまま述べると、ミーカーはますます不機嫌そうに椅子を回し、完全に窓の方に向いてしまった。
不意に、何やら騒がしい声が階下から響いた。
大広間では集落襲撃成功のパーティが、ソンダーク大佐も含め、引上げてきた全員で行われている。
しかし、東部の社交界にたびたび顔を出していたミーカーは、スティーブの部下やソンダーク大佐の部隊が行う、下品な乱痴気騒ぎに参加する気にはなれなかった。加えて今日の襲撃成功によって挙げた、血生臭い手柄を自慢する輩にも嫌悪感を覚えていた。
またひときわ大きな笑い声が執務室にまで聞こえ、ミーカーは眉をひそめた。
「ゲス共が……。まだ戦いは始まったばかりだというのに」
「やめさせてきましょうか?」
うんざりした声に気を利かせてスティーブが腰を浮かした。ミーカーは止めなかった。
「ソンダークの部隊には引き取ってもらえ。部隊の駐屯地は南の町外れに確保したはずだ」
「へい」
「それと、備えはしておくように言っておけ。……あの女とジェラードを逃がしたからな。今夜にでもユートが襲ってくる可能性はある」
ドアに向かいかけたスティーブが、ふと足を止めて振り向いた。
「ミーカーさん、あの二人に対して何か手立てを講じておかなくともよろしいのですか? 特にジェラードには騒ぎ立てられると……」
「ふぅむ……」
しばしの沈黙の後、ミーカーは椅子ごと振り向いた。
「確かに、表沙汰になるといろいろうるさいな。二人のことは外部に漏らさんよう、部下に命じておけ。その代わり、賞金を懸ける。正式なものではなく、裏でな。生死無用でジェラード・マクスウェルに千ドル、女に二百ドル。私が払う」
「わかりました。では、連中に伝えるついでに私も少し出かけてきます」
「どこへだ?」
カウボーイハットを頭に載せ、スティーブは不敵な薄笑みを浮かべた。
「女のところですよ。今晩は帰らないかもしれません――それでは」
ミーカーはふっと笑って、秘書の背を見送った。