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8.さいごに、みつるの話 そうして「さくらの荘」は何度めかの春を迎えようとしていた。 蘭ちゃんのあの騒動も、すぐにこの「さくらの荘」の変わらぬ日常に紛れていった。それでよかったんだと思う。そうして「さくらの荘」の変わらぬ日常、のはずだった。 が、変化はその年の、桜の前に訪れたのだ。 突然マト聖さんが、旅に出ると言った。 「彩音に、ふるさとの桜を見せてやりたいんだ」 なんのことだといぶかしむ俺たちに、マト聖さんははじめて彩音さんとのなれそめを話してくれた。 彩音さんは、岡山の旧家のお嬢様で、マト聖さんとはかけおち同然でこちらにきたのだと言う。そして彩音さんは亡くなる前にふるさとの桜を見たがっていた、と。 「彩音を、ご両親にも会わせてやらないと」 彩音さんのお骨はまだマト聖さんの部屋にある。 行って歓迎はされないかもしれない、とマト聖さんは言った。折りにふれてこちらから便りをだしているが返事はこないという。彩音さんの訃報にも何も返事はなかった。それでもマト聖さんは行くと言った。 急になにが起こったのだろう。 桜は去年と同じに咲こうとしているのに、どうして今年なのだろう。 やはりいぶかしむ俺たちを後目に、驚いたことにマト聖さんは旅費のたしに、と部屋にあった絵をすべて売り払った。もちろん彩音さんの絵も。それはマト聖さんがほんとうに一歩、「桜」にとらわれることから抜け出そうとしているようにも思えたし、まるで死への旅路の支度のようにも…… 俺は何度も念を押した。マト聖さん、帰ってくるんですよね?とマト聖さんは驚いて、何言っているんだという顔をして、そして笑って「おうよ」と短く応えた。 けれども、マト聖さんは帰ってこなかった。 なぜ俺はあのとき止めなかったのだろうと自分を責めた。けれどもミスズさんは言った。「誰にもとめられなかったよ」と。 誰もがあの「桜」からマト聖さんをとき放ちたかったのだ。だから本当は、どこかで帰ってこないと思っていたんだ、誰もが。 しばらくしてマト聖さんから手紙が届いた。戻らなかったことの侘びと、戻れない理由。過ぎた年月がそうさせたのか、彩音さんの勘当は許されたという。そしてマト聖さんは老いた彩音さんの母親のそばにいてやりたいという。マト聖さんらしいと誰もが思った。最初からそのつもりだったのかもしれないね、と、ミワさんが言った。 けれども言いようのない寂しさだった。 だって俺たちはみんなマト聖さんが大好きだったから。でも誰も寂しいとは言わなかった。言えなかった。 誰もがこれでよかったと、頭ではわかっているのだ。 手紙には住所は書いていなかった、そういうことだ。 それから5年。俺は結局卒業できずに、中退してバイトをしながら絵を描いていた。 5年の間にこの「さくらの荘」の住人も大きく変わった。一番変化があったのが、真野で、あれからすぐに大きな展覧会に出した絵が賞をとったのだ。描いたのは、蘭ちゃん。ずっと真野が、マト聖さんの代わりにと何度も何度も書き直していた絵だ。そこからはとんとん拍子で、今や画壇の若手筆頭として注目されている。もちろんホストのバイトは辞めて、絵を描くのに手狭だからだと、「さくらの荘」から出ていった。 それで真野と蘭ちゃんがうまく言ったのかというと、なかなかそう上手くはいかない。蘭ちゃんは真野ではない男と結婚した。カズホ氏の同級生だという大企業の御曹司。なんでも蘭ちゃんに一目惚れだったとか。蘭ちゃんは蘭ちゃんでもうマト聖さんには未練はないのだろう。時々「さくらの荘」に遊びに来ては、懐かしそうに俺と話をしていくけれど、彼女の目はもう旦那様と、まもなく生まれてくる子供との未来に向かっている。 ミワさんは当然のように「さくらの荘」を去った。マト聖さんがいない以上、もう戻る理由がないからね、とはっきりと言った。たまには遊びにくるよと言ったきり、帰国すらする暇なく、海外を飛び回っているらしい。時折写真が届くけれど、それはマト聖さん宛だった。 管理人室をあけておくのももったいない、と、俺は許可をとって管理人室に移った。けれども管理をする住人はもうミスズさんしかいないし、その部屋に人が集まることは、もうなかった。 そうしているうちに、「さくらの荘」は老朽化につき建て壊す事となった。俺はできるだけ今のままで残したかった。だってマト聖さんが帰ってくるかもしれないじゃないか。俺の気持ちを汲んだカズホ氏が奔走してくれたけれど、やはり建築的にかなり危険だということだった。 「さくらの荘」の後は、立体駐車場になると言う。毎年変わらず咲いていた桜も、美大の庭に移植される。 俺とミスズさんは新しい部屋を探すことになった。ミスズさんはカズホ氏の口利きですぐに決まったけれど、俺はどうしても決められなかった。 ミスズさんは言った。 「みつる、今度はお前がとらえられて、どうするんだ」 ああ、そうか。 俺は。 ようやくついた決心とともに荷造りを始めた。 窓からは今年も同じように咲くであろう、桜のつぼみが少しずつふくらんでいるのが見えた。これもここで見るのは今年で最後か……急に俺はあることを思いついてミスズさんに相談した。 そして新聞にある広告を出した。 「さくらの荘、最後の花見をします」 その日、「さくらの荘」の花見には多くの人が集まった。 ミスズさんはもちろん、真野、蘭ちゃん、カズホ氏、ミワさんも帰国してくれた。かつてここに住んでいた先輩、俺の知らない頃の住人もたくさんやって来ては、「さくらの荘」を懐かしそうに見納めていた。 満開の桜、その下で知った顔も知らない顔も楽しそうだった。 そしてみんな、マト聖さんがくるのを待っていた。けれどもそれは俺が新聞に広告を出したときのように、淡い期待。けれどもそうやって待つのを楽しむようでもあった。 酒も食べ物も足りなくて、俺はてんてこ舞いだった。マト聖さんの部屋に移ってから、俺は料理をするようになった。マト聖さんがそうしていたように。今では結構な腕だと思うけれど、今日集まった面々は口々に「マト聖さんにはかなわねえな」と。それでもみんな旨そうに食っていた。 管理人室の台所に蘭ちゃんがぴょこと、顔をだして手伝おうかと言う。いいよ、と手をふると、もう大きくなったおなかをよいしょとかかえながら戻っていった。 そうやって、いろいろなものが変わっていく。だからこの「さくらの荘」も変わっていく。 だから消えていくのだろうか。 ふと、自分の部屋にまだあけてない一升瓶があったことを思い出した。買い出しに行く間の足しにはなるだろうと、エプロンをとって階段をあがった。 ぎしぎしと軋んだ音を立てる。外の日差しとにぎやかさとはうらはらに、「さくらの荘」の中は暗くひんやりとしていた。 ミスズさんは言った。今度はお前がとらわれてどうすると。けれども本当はとらわれる理由なんてない。だってもうここにはマト聖さんはいない。 今になって思う、マト聖さんの部屋にいて思う。 とらわれていたのは誰だったのだろうか。 マト聖さんにとって、ここは彩音さんとの思い出の場所で、失って描けなくなるほどの愛を注いでいた彩音さんのいた場所で。けれども思い出はすべてに宿っている。それにマト聖さんはずっと笑っていたじゃないか、ずっとここにいてくれたじゃないか。 とらわれていたのは俺達のほうだったのだ。そうやって「桜」にとらわれていたと思っていたマト聖さんにとらわれていた。けれどもそれはつらいことではなかった。とても楽しい日々だった。とてもとても、ただ楽しくて、毎日は当たり前のようにすぎていったのだ。 部屋の窓はあけたままだった。 あの日と同じように手のとどくところに満開の桜。桜の花びらが窓を超えて舞い込む。 俺は窓から身を乗り出して、それにふれようとした。 そのとき。 桜の下にはみんなが輪になって騒いでいる。 それを少し離れて見守るように、マト聖さんが、いた。 「マ……」 そしてその隣には彩音さんが、白いワンピースを着て立っていた。 声がでない。 マト聖さんは俺に気づいて手を振った。彩音さんも手を振ってくれた。 「よう、腹減ってるか?メシつくるぞ」 マト聖さん、俺、料理なんかするようになったんですよ。俺のメシ食ってってくださいよ。 そう言いたかったけれど、声がでない。 声を出したら、この奇跡がすべて消えてしまいそうだったから 桜ははらはらと散る。 そこにはミワさんがいて、ミスズさんがいて、カズホ氏がいて、真野がいて、蘭ちゃんがいて。 そしてマト聖さんと彩音さんがいた。 きれいだった、そこにいるだけでそれが奇跡。 そうだ、とらわれていたのではない、それは確かにここにいたのという証にすぎない。それはどこへ行ってもいつになっても、消えない証なのだ。 マト聖さんが描いた彩音さんの絵は、そういう証のようなものだったのかもしれない。 いつまでも、いつだって、これからも。 きれいだった、今年の桜は今までで一番きれいだった。 俺は涙がこぼれないように、空を見上げた。 【完】 |
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| 7.ふたたび、真野の話 | あとがき |