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7.ふたたび、真野の話 そうして、蘭子はまるでこのアパートの住人のように馴染んでしまった。 もともと気だてはいい子だ。最初「そういう仕事」という偏見を持っていたみつるも、今はすっかり仲良くなったし、ミスズさんも気に入ったみたいだ(いろいろだまされているけれど、ミスズさんは結構なタラシだと思う)。 相変わらずカズホ氏は地上げと言ってやってきてはメシを食っていく。そしてマト聖さんのメシは相変わらずうまい。失恋した相手が近くにいる、普通耐えがたいものなんだけど、それ以前に、もう蘭子がこの「さくらの荘」の日常に馴染んでしまったのだ。 そして蘭子は相変わらず、ことあるごとに「描いて描いて」とねだっている。けれどもマト聖さんも相変わらず笑って流すだけだった。そう、それすらも日常になってしまったかのように。 マト聖さんが蘭子をどう思っているかはわからなかった。ただ、蘭子も、マト聖さんも、楽しそうだった。 桜の時期より先に、ミワさんが帰国した。「さくらの荘」恒例の帰国祝いと壮行会、ミワさんはすぐにまた旅立つから、いつからか壮行会も一緒にやることになっていた。しかしそんなのは飲む口実にすぎない。 ミワさんの部屋でみんなで集まって酒を飲みながら、みやげ話とたわいもない話。噂に聞いていたミワさんの登場に蘭子は(当然のようにいる)すっかり夢中になって話を聞いていた。ミワさんは最初「新しいモデルかと思った」なんてしれっと言って蘭子を喜ばせていた。 すっかり酔っぱらったみつるが、おなかが空いたと叫ぶ。マト聖さんがなんか作ってくるか、と階下の自分の部屋に降りた。ミワさんとミスズさんは世界情勢だか経済だかの話に夢中になっていた。カズホ氏は急に接待が入ったとかで先に帰ってしまった。なんかつまんないという顔をした蘭子と目があったが、なんとなく二人で話をする気にもなれなくて、まるで逃げるように、マト聖さんを手伝うふりをしてその後を追った。 マト聖さんの部屋にいくと、もうちょっとしたつまみが並んでいた。 「おう、真野。それ持ってってやってくれ」 そうして背を向ける。なにを作っているかと聞けばナポリタンだという。みつる、炭水化物入れねえと騒ぎだすだろ?と。 俺はしばらく、そうやって料理をするマト聖さんの背中を見つめていた。マト聖さんは不器用だけど、とびきりやさしいひとで。蘭子が惚れるのもわかるんだ。 じゃあ、マト聖さんはどうなんだろう。俺はいつもその疑問をマト聖さんにぶつけたくて仕方なかった。「蘭子のこと、どう思っているんですか?」と。 マト聖さんは蘭子に応えもしなければ、拒みもしない。でもそれって、蘭子にとって残酷なんじゃないだろうか。 なんでもないように毎日「描いて」とねだる蘭子。けれども毎日かなわないその願いに、なんでもないわけないわけないじゃないか。 けれども今日もその言葉を言えなかった。 マト聖さんと、できあがったつまみとナポリタンを持って階段を上がると、コートを着た蘭子が降りてきた。 「あれ、蘭ちゃん帰るの?」 「うん、みつるさん寝ちゃったし、ミワさんとミスズさんはなんかもりあがっちゃってるし」 それにここ女人禁制でしょ?と今更マト聖さんのあのでまかせを口にして、笑った。 「これ、せっかく作ったし、食べていけば?」 「こんな時間にそんなん太るわー」 そうやって会話をする二人はとても自然で、悔しいけれどお似合いだと思う。 「タクシー呼んでくるから待ってろよ」 気をきかせて席を外そうとすると、蘭子はそのままマト聖さんに「おやすみなさい」と言って俺に先んじて階段をたんたんと軽やかに降りた。マト聖さんもおやすみ、と言って引き止めなかった。 俺は蘭子を追って玄関にいき、近くの大通りまで出てタクシーを止めておいた。 しかし戻ってくると、玄関に蘭子はいなかった。 靴はある。また誘われて2階に戻ったのだろうか。 けれども俺はその時、暗い廊下に、マト聖さんの部屋のドアから漏れる光の線がはっきりと見えた。 まさか。 マト聖さんの部屋にマト聖さんはいなかった。 かまわず奥の部屋の襖をあけると、そこにいたのは予想通り。 「……蘭、」 奥の部屋の明かりはついていなかった。けれども蘭子の表情は暗闇に浮かびあがる。 ライターを手にして、その炎を壁にかかる絵に…… 「蘭子!」 あわてて飛びかかる。蘭子は激しく抵抗した。ちり、と俺の長い前髪がライターの炎に当たっていやなにおいをたてた。が、かまわなかった。 もみ合ったいきおいで、蘭子の手からライターが落ちた。あわてて近くにかけてあったマト聖さんの上着で炎をもみ消した。 「蘭子!」 しかし蘭子の顔が再び暗闇に浮かぶ。もうひとつのライターの炎を俺に威嚇するようにつきつける。 蘭子は笑っていた。けれどもなんて顔をしているんだ。 一歩近づくと、今度は蘭子は自分の近くに炎を寄せた。蘭子の髪が少し焼けた。 「……蘭子、なにするんだ?」 一歩でも近づけばそのまま、自身に火を点しそうな蘭子を刺激しないように問いかけた。 「どうすると思う?」 「どうって……」 「このままマト聖さんの大事なひとを焼いてしまおうかしら?」 「蘭子……」 「それとも、私、焼かれちゃおうかな」 「蘭子……」 「一緒に、死んでくれる?」 「バカを言うな!」 「だめなの?」 「だって、蘭子」 「どうしてあたしじゃだめなの?」 「……」 「どうして、あたしを、描いてくれないの!!」 騒ぎは当然、2階にも伝わっていた。気がつくとマト聖さんたちが後ろにいた。が、誰もが蘭子の叫びに飲まれて身動きできない。 ゆらゆらと炎がゆれる。蘭子のまるい頬に近づきそのゆらめく影が写る。蘭子の髪はちりちりと、じりじりと少しずつ焼かれていた。 「蘭ちゃん」 急に、マト聖さんが飛び出した。蘭子は威嚇するようにライターを突きつける、が、マト聖さんはそれを素手で掴んだ。 蘭子が悲鳴をあげた。炎は消えた。 暗がりの中、悲鳴をあげる蘭子を抱きしめるマト聖さんが見えた。 「どうして……」 はりつめたものが切れたように蘭子は泣いていた。 「どうして、描いて、くれないの……」 好きだという代わりのその願い 「……だったら、優しくしないで!」 マト聖さんの体が蘭子から離れた。その言葉に従ったのではなく、マト聖さんは押入に近づき、その襖をあけた。 そこには何枚かのキャンバスがあった。マト聖さんがそれを床に並べる。暗くて見えない、とみつるが思い出したように天井からさがった電気のコードを引いた。 ぶわん、という蛍光灯の音。急に明るくなって目を細める。そして…… 「マト聖……さん?」 そのキャンバスに並んでいたのは、彩音さんじゃなかった。 蘭子だった。 けれどもそのどれもが途中で終わっている。木炭だけのもの、背景だけ塗ったもの、蘭子のバラ色の頬だけを表したもの…… 「……ここまでしか、かけなかった」 マト聖さんが、言った。 ……それ以上は、聞かなくてもわかる。描きたくても、描けなかったのだ。 それほどまでに、マト聖さんは彩音さんを愛していた。 そして、こうやって何枚も何枚も重ねるほどに……そういうことだ。 マト聖さんはそのまま膝をついてうつむいたまま。 「ごめん」 誰もがマト聖さんがこの桜にとらわれたままなのだと思っていた。けれど。 蘭子はそのキャンバスの一枚一枚を手にして、ゆっくりとじっくりと眺めた。そしてマト聖さんの前に膝をついて 「……マト聖さん」 マト聖さんが顔をあげた。 蘭子は言った。泣いていたけれど、はっきりとした声で言った。 「……ありがとう」 蘭子がマト聖さんをその胸に抱きしめた。 誰もが思った。マト聖さんが泣くのを初めて見る、と。 それからも蘭子は同じように「さくらの荘」に遊びにやってきた。けれどももう「描いて」とは言わなかった。 蘭子なりにマト聖さんの想いを受け取ったのだろう。それでもなおとらわれたままのマト聖さんを、受け止めたのだろう。 こんな時、やっぱり女の子は強いと思った。 一度だけ、蘭子はちらりと本音を見せた。 「やっぱり、彩音さんにはかなわなかったな……」 おどけたように、さびしげに、けれども未練はないように。 けれども蘭子、マト聖さんは確かにお前を描こうとしていたんだぞ。きっと彩音さんを描いたようにお前を……それは、マト聖さんをとらえる「桜」、その桜から逃れられなかったマト聖さんの、俺たちが誰もが心配してけれどもなにもしてあげられなかったマト聖さんの、その手を引いたのは確かにお前なんだ。 ……なんて、慰めにもならないのはわかっていたから、俺はなにも言えなかった。 そして今、俺の部屋にある蘭子の絵。あれから何度も書き直して、ようやく仕上がった蘭子の絵、マト聖さんが描かないなら俺が、と何かに火がついたように描いた絵があるのも、蘭子の慰めにはならないだろう。 そうして、何度めかの春が近づいてきていた。 |
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| 6.蘭ちゃんの話 | 8.さいごに、みつるの話 |