5.カズホ氏の話



 その話を聞いて、真っ先に「さくらの荘」に向かった。
 あのマト聖さんに浮いた話?と聞いて黙ってはいられない。
 そうしてマト聖さんの部屋で噂の彼女にあった。最初見た時、どこかで見た顔だと思った。そして声を聞いてすぐに思い出した。
「蘭ちゃん、か?」
 うちの会社が経営している店の女の子だ。何度か行ったことがある。
 しかし気づかない訳だ。目の前にいるは普通の女の子、いつもの化粧もしてないし、胸元の大きくあいたドレスでもないし、高く結い上げた髪でもないし。
 驚きのままそれを伝えると、
「だって、マト聖さんが、化粧をとったら描いてくれるって言うんだもの」
 毎日毎日やってきて「私を描いて」と迫っているという蘭ちゃんに、マト聖さんはそのうちに
「じゃあその化粧をとったらね」
 そして次には
「ちゃんとごはん食べているの?顔色悪くて描けないなぁ」
 それで今、目の前にいるのは俺が知っているのとはまるで別人の女の子
「それでか」
「なにが?」
「ちょっと太っ……」
 容赦なく平手うちで叩かれたところに、マト聖さんがいつものように食事を運んできてくれた。


 さてこれはおもしろい展開になった。
 ミワさんがいればもっと面白くなったのに、と本人が聞いたら怒りそうだが、ミワさんはいつものように海外にいっている。
 なによりも蘭ちゃん。うちの店では割合に人気がある子だった。少し小悪魔的な笑みを浮かべ、つんとつれない態度をとる。そのくせ笑顔がとびきりかわいい。そのどれもが今目の前にいる蘭ちゃんからは想像できない。
 化粧をとれも、メシを食えも、マト聖さんは単純に心から心配して言っているのだろう。けれどそれがこの子のほんとうの魅力を引き出した。彼女の原石の輝き、このまま店に出したいぐらいだが、それでは商売にはならないだろう。
 いや、マト聖さんだけのせいじゃない。
 今、蘭ちゃんがきらきらと輝いているのは、マト聖さんに恋しているからに他ならない。
 女の子が一番きれいになる瞬間だ。


 さて、マト聖さんはそれにどう応えるのだろう。
 目の前でにこにこと、蘭ちゃんがご飯を食べるのを見つめている。俺は彩音さんに会ったことがないから、マト聖さんがそういう時、どんなまなざしを注ぐのかは知らなかった。
 今はまだ、見慣れたマト聖さんのまなざしだ。


「……カズホ氏は、マト聖さんの事、好きだったんじゃないのかよ?」
 初夏のまぶしい日差しをよけて、桜の木の元で並んで煙草を吸っていた真野がつぶやく。
「好きだよ」
「だからぁ、そういう意味じゃなくて」
 きっと真野は、ともに失恋した悲しみを癒しあいたかったのかもしれない。その姿を見て、真野の蘭ちゃんへの想いは本気だったのだと知って、へえ、と思った。
 けれども残念ながらお前には蘭ちゃんは手に負えないよ、と思った。だって蘭ちゃんのあの顔を引き出したのはマト聖さんだ。
 気づいているだろうか、昔の彼女にあった陰が消えているのを。
 蘭ちゃんは、天涯孤独の身の上と聞いている。詳しくは知らないけれど、華やかな世界にいればいるほどの、華やかな蘭の花の名を抱けば抱くほど、蘭ちゃんからはどこか陰のようなものが見えていた。別にこういう世界だ。みんなどこか傷ついた女の子ばかりだけれど、蘭ちゃんのはこう、どこか自分でも突き放したような、孤独だった。淋しくてつらくて寒いのに、それに慰めを求めていない。
 もしかしたら、蘭ちゃん自身もその孤独には気づいてしないのかも知れない。女王のように振る舞う大輪の花、それが俺の知っている蘭ちゃんだった。
 だから真野、その陰に気づいていなかった時点で、お前に蘭ちゃんは合わなかったんだよ、
 とは言わなかった
「新しい子、紹介しよっか?」
 軽くからかって、その場を後にした。


 そうして蘭ちゃんは毎日のようにマト聖さんの元にやってきた。
「あたしを描いて」がまるで「好きだ好きだ」と言っているかのよう。マト聖さんはやっぱり気づかないふりをしているのか、笑って受け流している。
 俺も言ってみようか「あたしを描いて」。「好きだ好きだ」の代わりに。
 真野にそう聞かれたとき、俺はうまく応えられなかった。確かに俺はマト聖さんが好きだ。けれどもマト聖さんが好きになるのは俺でなくていいと思っている。
 誰か、マト聖さんが好きになる人がいるのなら。


 初めてマト聖さんのあの奥の部屋を見たとき背筋が凍った。
 きれいすぎて、こわかった。
 彩音さんも、そこにとらわれるマト聖さんも。
 そこにあるふたりの思いが純粋すぎて。
 でも、そこにはもういないんだ。


 多分俺は壊したかったのだ、マト聖さんがとらわれているものを。それがこの「さくらの荘」だけなら、俺はどんな手を使ってでも壊しただろう。けれどもそうじゃない。
 だから俺は待っている、俺以外の誰かが、マト聖さんを壊すのを待っていた。
 俺が壊してしまうその前に。



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