4.真野の話



 突然悲鳴を上げられた。
 おいおい、ここにきてそれはないだろう?
 けれどもその悲鳴は真夜中の「さくらの荘」の住人全員を叩き起こした。
「真野……お前」
 みつるがあきれたように眉をひそめた。
「違うよ!」
 別に無理矢理でも騙してもいない。正々堂々合意の上だ。
 なのに彼女は、俺の部屋の前で急に俺を拒んだのだ。
「どうした?」
 階下からマト聖さんもあがってきた。彼女は急に飛び出し、マト聖さんにしがみついた。
「よしわかった」
「え、マト聖さん、俺、なにも説明してないぜ?」
「ここは女人禁制だから、今日はこのお嬢さんは俺の部屋に泊める」
「え?いつからそんなの……」
「今決めた!」
「ええ?!」


 お嬢さん……蘭子はうちによく来るお客さんで、ホステスだった。小悪魔的なかわいさを持つ子で、俺は夢中で彼女をくどきおとし、ようやくここまでこぎ着けた。なのに。
 合意なんすよ、と隣で眠るマト聖さん(蘭子に部屋を渡したから俺の部屋で寝るといって押し掛けてきた)に訴えても取り合わない。
「安心しろ、お前を犯罪者だとは思ってないよ」
「犯罪者って!」
「タイミングが悪かったんだろうよ」
「そんなんで片づけるの?」
「つか、真野。このシーツくせえぞ。明日洗ってやるから出しときな」
 それを最後にマト聖さんは眠ってしまった。
 ああもうむしゃくしゃする、腑に落ちない。
 やりそこなったからイライラする。
 いっそ隣のマト聖さんでもやってやるかと思ったけれど、想像したら一気に萎えた。


 翌朝、起きるとマト聖さんはいなかった。
 あわててマト聖さんの部屋に行くと
「おう、もうすぐ朝飯だぞ」
 そこにはもう起きてきて、ちゃぶ台についている蘭子がいた。
 マト聖さんの部屋にはついている風呂を使わせてもらったのだろう。洗い立ての匂いがした。化粧を落とした顔を初めて見たが、思ったより幼かった。
 あれ、蘭子っていくつだっただろうか?
「なあ蘭子、説明してもらおうか?」
「悪かったわよ」
「悪かったって、説明になってねえよ」
「あやまってるんだから、いいでしょ?」
「お前なぁ!」
「はいはい、おふたりさん、喧嘩はあとでね」
 ちゃぶ台の上にマト聖さんの朝ご飯が並ぶ。相変わらずの見事な出来映え。つやつやのごはんと、鼻をくすぐる味噌のにおい、卵焼き。
「いただきますー」
 促されるまま三人で声をそろえて朝食を囲む。
「……おいしい!」
 蘭子が感動した声をあげた。
「そうか、よかった」
 マト聖さんがうれしそうに笑う。
 一瞬、蘭子の動きが止まって、そしてうつむいた。
「……」
 やな、予感がした。


 朝飯を食べて、そしてマト聖さんに無理矢理仲直りをさせられて、言われるままに、蘭子を家まで送っていく。
 「さくらの荘」を出ると、急に蘭子はまじめな顔になって言った。
「ねえ、あの部屋、なに?」
 ああ、そうか。きっと蘭子は見たのだ。
 二間のマト聖さんの部屋の奥の部屋、その昔、奥さんの彩音さんがいた部屋、そして今も。
「あのおんなのひと、誰?」
 今もその部屋には、彩音さんがいる。
 マト聖さんが描いたたくさんの彩音さんの絵が。
「マト聖さんの奥さんだよ」
「……亡くなったの?」
「そう」
 それで俺は知っている限りのマト聖さんと彩音さんの話をしてやった。マト聖さんがどれだけ奥さんを愛していたか、もうその筆をとらなくなるほどに、あの絵にどれだけの想いを込めていたのか。
 多少誇張したかも知れない。そうは言っても俺は彩音さんを知らない。けれどもかまわずに続けた。そして言外に言い続けた。
 お前は彩音さんにはかなわないし、お前にはマト聖さんは似合わないよ。
「……ふうん」
 蘭子は次第に口数が少なくなった。
 洗い晒しの蘭子の髪が、やわらかな風をはらんで揺れていた。いつもの蘭子のにおいとは違っていた。


 次の日、蘭子は再びやってきた。いつもの化粧、いつもの髪型。夜の仕事に出る前。たまたま玄関で会って、なんだ?俺は今日は休みだぞ、という声なぞまるきり無視して、蘭子はマト聖さんの部屋に駆け込んだ。
「ねえ、あたしを描いて!」
 ああ、やな予感が的中した。
 蘭子は、マト聖さんに惚れたのだ。


 マト聖さんは蘭子の願いを笑って流した。
 もう絵は描かないんだよと答える。蘭子はなんで?と聞き返した。あんなに説明したのに聞いてなかったのか?いや、違うんだ。
 蘭子は彩音さんに嫉妬しているのだ。
 それから蘭子は毎日のようにやってきた。
 そしてせがむ、あたしを描いて、と。マト聖さんは笑って、俺たちに言うように「やあ蘭ちゃん、メシ食ってくか?」
 蘭子の想いに気づいていないような顔で優しく接している。そのたびに蘭子がすこし傷ついた顔をしているのにも、気づいていないような顔で。
 ああ、俺は。そんなことにすら気づいてしまうほどに。


 俺は久しぶりに自室でキャンバスに向かった。
 だったら俺が蘭子を描いてやる。
 けれども何度木炭を走らせても、まったく蘭子に似なかった。いや違う、昔の蘭子にはよく似ていたと思う、けれども、今の蘭子には。
 がっかりと、その場にしゃがみ込む。気がつくとみつるが部屋にやってきた。
「飲むか?」
 よく冷えた缶ビールを渡された。
 俺はそれを黙って受け取り、うつむいたまま口にした。顔をあげない俺の背中に、背中合わせにみつるが座った。
「重い……」
「……」
「暑い……」
「……」
「…………慰めるなよ、俺がまるで失恋したみたいじゃないか」
「慰めてないよ」
「なんだよ」
「なんでもないよ」
 みつるは、背中越しに二本目の缶ビールを渡してきた。
 これは失恋なんかじゃない。だって情けなさすぎるじゃないか。俺があんなに賢明におとそうとした蘭子はもうどこにもいなくて、今、マト聖さんに恋をする蘭子にまた惚れたなんて。
 みつるはいつまでもそうしていた。
 別に慰めではないとみつるが言ったから。俺もいつまでもそうしていた。


 桜も蘭も、どちらも花の名前だけれど。けれども俺はやっぱり、蘭の花の方が好きだった。



3.ミスズさんの話 5.カズホ氏の話