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3.ミスズさんの話 前の管理人が引退して、代わりの管理人夫婦が来ると聞いたとき、また同じような老夫婦だと思っていたから、驚いた。 マト聖さんも若かったけれど、何より彩音さんが若かった。まるで少女のような趣だった。 「さくらの荘」の若い血気盛んな学生と、彩音さんという図はまさに美女と野獣。危険なのでは思ったものだが、逆に住人はまずマト聖さんを好きになってしまったのだ。「胃袋を握った」だけじゃあない。そのマト聖さんの奥さんとなれば神聖にして不可侵なもの、そういう図式ですとんとおさまった。 みわっちにいたっては、まるでマドンナを崇拝するかのようだった。病でふせっている彩音さんしか知らないみわっちには、さらにその姿が神々しいものにうつったものだろう。実際、病が進むにつれてどこか悟りきったような表情うかべる彩音さんはそれだけでひとつの芸術品、そして宗教のようだった。 けれども私はまだ元気だった頃の彩音さんを知っている。なかなかどうして元気でお転婆で。まかりなりにも人の奥様にお転婆もどうかと思ったが、そんな言葉がぴったりだった。一度庭の桜に登って降りられなくなった、なんてエピソードは、あの頃を知らないものに話しても信じてはもらえないだろう。 そのころはマト聖さんもまだ絵を描いていた。絵描きだけでは稼ぎの足らない暮らしは決して楽ではなかっただろう。けれどもそうやって若い夫婦が力を合わせて、貧しくも明るく暮らしている姿は見ていてすがすがしいものだった。 私は絵は専門外だったが、マト聖さんの絵はいいと思った。いつかきっと世に認められる絵だと思った。 「こんにちは」 彩音さんはよく私の部屋を訪ねてきた。たいてい、マト聖さんが自室で絵を描いている時だ。邪魔をしないようにと私の元にくる。理由は私の部屋がいちばん片づいているからだという。 無防備な、と、ちらりと思ってしまったのは、きっと私にもどこか彩音さんへの恋慕のようなものがあったのだろう。 「もし、私が変な気をおこしたらどうするんですか?」 一度、冗談混じりにそういったことがある。そうしたら彩音さんはきっぱりと言った。 「死にます」 にっこりと笑う。……幼いとばかり思っていた彩音さんのその強さに、無邪気であっても無防備ではないということか、と舌を巻いた。 マト聖さんと彩音さんのなれそめは聞いたことがない。一度聞いたときにそらされたので、たぶん触れられたくないことなのだろう。 彩音さんの言葉や動きの端々から、どこか育ちのよいものを感じている。その辺りに関係しているのかもしれない。 面倒見のよいマト聖さんを慕う学生たち、その傍らにいる彩音さん、まるで最初からそう決められていたような「さくらの荘」のありし日々。 そう、在りし日々、だ。 管理人としてマト聖さん夫婦がやってきて二年目を過ぎようとした頃から、彩音さんは病に臥せるようになった。詳しい病名は知らないけれど、なかなか難しい病気のようだった。 マト聖さんは絵描きの方をやめて、彩音さんの看病にかかりきりになった。管理人の仕事は住人で手伝った。 そして、マト聖さんは彩音さんを描き始めた。 ふと、こんな物語があったのを思い出す。 「最後の一葉」 あの葉が散るときに私は死ぬといった少女の為に、老人は壁に散らない葉を描くのだ。 そして老人は死ぬという不幸は結末はさておき、今、彩音さんの為に彩音さんを描いているマト聖さんの筆は力強く、それが物語の通り彩音さんに生きる力を与えているように思ったのだ。 けれども。 そんなある日、マト聖さんの部屋に彩音さんを見舞った。マト聖さんは不在で、彩音さんのすぐ傍には描きかけの絵があった。彩音さんは今日は調子がいいの、と布団の上に半身を起こしていた。 マト聖さんの描く彩音さんはどれひとつ、同じものはなかった。どれも違ってどれもみんな彩音さんだった。 「今回のも、いいですね」 「ええ」 「モデルがいいから?」 「まあ」 くすくすと彩音さんは笑った。そして 「あと、3枚ぐらいね」 「え」 あと3枚描かれれば祈りが届いて病が回復する、ではなかったのだ。 私はマト聖さんのその行為をひとつの祈りだと思っていたのだ。そう思いたかったのだ。一枚一枚描くごとに、彩音さんは元気になるだろう、祈りは届くはずだ、そう思っていた。だってマト聖さんの絵はこんなにも生命力にあふれているじゃないか。 彩音さんは、そしてマト聖さんも、もうはっきりと最期を覚悟している。 死を目前にしているのに、マト聖さんの絵の中の彩音さんは明るかった、それに全く嘘はなくて目の前の彩音さんも明るくて、そしてそれを描いているマト聖さんもいつも、とても楽しそうだった。 ふたりを別つ死を前にして、ふたりの命を刻んでいく。 そういう、覚悟。 「泣かないで」 彩音さんの白い腕が私を幼子のように抱いた。 「あの人を、お願いね」 彩音さんの言うとおり、それから3枚の彩音さんが仕上がって、彩音さんはなくなった。 彩音さんが亡くなってから、マト聖さんは筆をとっていない。 |
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