++ Honey


 あるお休みの昼下がり。涼さんがいつも通っているスポーツジムに一緒に行った。
 結婚してしばらくして、新居の事とか落ち着くとわたしはちょっと暇になってしまった。
 結婚すると決まったとき、涼さんは別に仕事は続けても構わないと言ってくれた。もちろん経済的にはわたしが専業主婦になっても何の問題もなかったけれど、それは今までヤツカが続けてきたお仕事だから、と。だけどわたしは仕事を辞めることを選んだ。少しでも涼さんの傍にいたかったし、ちゃんと「おかえりなさい」を言える人でありたかったのだ。でも昼間は涼さんはお仕事。専業主婦もちょっと飽きてしまった。
 で、暇になったら、ちょっと太った。
 これは凄くショックだった。へこんでいたら、涼さんがジムに行きましょうかと言ってくれたのだ。
 ジム通いは涼さんの趣味で、実際その趣味に恥じない身体をしている。でもあまり健全な身体の鍛え方じゃないですよね、といつか涼さんは言っていた。涼さんはスポーツは殆どしない。楽しむための「スポーツ」はしないのだ、身体を動かすのは、あくまで自分を鍛えるため。結果は勝敗ではなく、自分自身に返ってくるようにと。そう言って涼さんは自嘲気味に笑うけれど、それだってこれだけ長く続けているのだから立派だなぁと思う。実際、わたしにちゃんと無理ないメニューを組んで、マシンの使いかたを教えてくれて、いっぱしのスポーツトレーナーだ。慣れないながらに汗を流す私の傍で、涼さんは淡々と自分のメニューをこなしていく。気が付くとそんな涼さんにすごいなぁと見とれてしまっていた。軽々と負荷のつけられたマシンを動かしていく。そうだよなぁ、わたしを軽々と持ち上げられるくらいだもんなぁ……そう思ったら、ちょっと色々思い出してしまった。
「ヤツカ?疲れましたか?」
「あ、い、いえ?何か?」
「顔が赤いですよ、無理させましたか?」
 ……理由は言わないでおこう。
「僕、これから泳いできますけれど、ヤツカは?」
 さらにまだ泳ぐのか。本当にタフな人だ。わたしは水着になるのが恥ずかしかったので、それは断った。涼さんはわたしをひとりで待たせる事を心配したけれど、わたしはそれで構わなかった。
 ロビーの脇の待合所から、ガラスを通して階下のプールが見える。わたしはそこでぼんやりと椅子に座って涼さんが泳ぐのをみていた。気持ちいいぐらい、綺麗なフォームだ。涼さんがふと上を見上げてわたしに気付く。子供みたいに手を振ったから、わたしも小さく振り返した。……ちょっとかわいかった。
「涼様の奥様でいらっしゃいますか?」
 突然声をかけられてびっくりした。振り返るときっちりスーツを着た中年の男性だ。胸のプレートからここの従業員だとわかるし、従業員が皆おそろいで着ているラフなポロシャツ姿ではないから、偉い人なんだともわかる。ここの店長さんだとか、丁寧な挨拶と名刺を受け取る、「ご主人様にはいつもお世話になっております」と。そうだ、涼さんはここのVIPでもあるのだ。
「もし宜しければ、別室にてお飲み物などを」
 そしてその涼さんの「奥さん」であるわたしもやはりVIPとしての扱いをうけるのだ。未だに慣れないこういうことは。慣れなくちゃいけないことだと思うのだけれど。
「あ、でも涼さ……いえ、主人を見ていたいので」
 店長が、ちょっと笑った。ああ、また失敗した。やっぱり「涼さん」はおかしいんだよなぁと、今更ながら思ったり。
 会話が続かなくて困ったところに、ちょうど涼さんが戻ってきてくれた。
「やあ、久しぶり」
「涼様、いつもありがとうございます」
「そういえば初めてでしたよね?家内です」
「ええ、存知あげております。今ご挨拶させていただきました。ご挨拶が遅れましたが、このたびはご結婚おめでとうございます」
「ええ、ありがとうございます」
「今日は、奥様もご利用に?」
「さすがに僕のメニューに付きあわせたら、疲れてしまったようです。ジムの方だけ利用させてもらいました」
「少し休んでいかれますか?何かご用意いたしましょうか?」
「いえ、今日は帰りますよ」
「そうですか、ではまたお越しくださいませ」
 さらっとそんな会話が交わされて。涼さんはいわゆる「お得意様」としてのおもてなしをさらりと受け止めて。その間わたしは一言もしゃべる余地などなくて。黙って傍にいるだけだった。
 帰りの車の中で、わたしはちょっと考えこんでしまった。よくよく考えてみたら、あの店長さんの前で「涼さん」と呼びそうになった事よりも「主人をみていたいので」の方を笑われたのかもしれない。いや、笑ったというより微笑ましく思ったのだろう。だけどそう言った自分がまるで子供で、全然スマートじゃなくて。涼さんに恥をかかせてしまったのではないかと、思わずにはいられない。
「ヤツカ、何を考えているんです?」
 涼さんはそんなわたしの心を見抜いたようだ。
「あまり考えるんじゃないですよ?」
 そう言った。そう言ってくれるのは嬉しいけれど、だけどこれはこれからわたしが涼さんの「奥さん」として乗り越えていかなくちゃいけないことだから、真摯に反省しようと思う。神妙な面持ちでうつむいてたら、涼さんがぽんぽんとわたしの頭を撫でてくれた。目が合うと笑ってくれた。
「ヤツカ……そのままでいいんですよ?」
 その言葉に甘えて、ようやく自分を楽に出来た。
 それでもやっぱり反芻してしまう。反芻しながら、ふと「家内」と呼ばれた事に気付いた。自分も「主人」と呼んでいたことに気付いた。なんだかそれがこそばゆくて照れる。
 でもなんだか嬉しかった。