+ Honey


 とても幸せな夢を見た。
 涼さんとの結婚式。何もかもケタはずれでわたしはすっかり緊張していた。
 父親と一緒にヴァージンロードを歩く。豪華なステンドグラスからの光はきらきらと眩しくて。荘厳なパイプオルガン、とても多くの列席者、そして注目。だめだ、眩暈がする、足元がおぼつかない。
「あ!」
 と思った時には、なれないドレスであるのも手伝って、わたしはつまづいて転んでしまった。
 うわ、どうしよう、こんな大事な時なのに。お父さんもおろおろするばかりで。参列者からはくすりともあがらない、皆呆れているのだ。恥ずかしい、顔が真っ赤になる。
 けれど。
 ゆっくりと近づく足音。神父さんの傍でわたしを出迎える為待ってくれていた涼さんが、ヴァージンロードを歩いて来る。え、と顔を上げたときにはもう
「お父さん、お嬢さんをいただきます」
 涼さんはドレスに埋もれたままのわたしをひょい、と抱き上げてしまった。そのまま「お姫様だっこ」で祭壇まで運ばれていく。叫びたくなった。いや、それは列席している方々がそうなのかもしれない。なんとも言えないため息が漏れて。今思えば、涼さんはそんなパフォーマンスで、転んでしまったわたしの印象を吹っ飛ばしてしまったのかもしれない。わたしは涼さんにしがみついたまま、だけどそれまでの緊張が嘘みたいに落ち着いた気分に、みちたりたしあわせな気分になって……。
 何度も何度も繰り返し夢に見る、結婚式の時のこと。きっとあまりにもしあわせだったから、夢にまで出てくるのだろう。そして、それは夢ではなくて、現実。わたしは涼さんと結婚したのだ。わたしたちは、夫婦になったのだ。
 あたたかな気持ちで、ゆっくりと目を醒ます。ぼんやりした視界に、隣に寝ていた涼さんの顔が入る。
 こちらを見ている、じっと見ている、そして
「ヤツカ、起きましたか?」
「あ……あの」
「おはよう、ヤツカ」
「あ、おはよう……ございます」
「夢でも見てましたか?」
「え?」
「しあわせそうに、笑ってました」
「ええ?」
「僕の名前を呼んでました」
「ええええ?」
 うわ、ずっとそんな顔を見られていたのだ。きっとすごいにやけていたに違いない。うわ恥ずかしい。
「どんな夢をみていたんですか?」
「あ、あの……結婚式の、時の」
「結婚式?」
「……しあわせでした、すごく」
「ヤツカ」
「はい」
「もっとしあわせに、これからなるんですよ?」
 涼さんがまじめな顔で言った。うそ、あれ以上のしあわせなんてあるかしら……。
「ヤツカ」
 涼さんが起き上がって、わたしに口づけた。ああ、そうだ、今この瞬間も、あの時以上にしあわせなのかもしれない。
「ヤツカ」
 涼さんが何度もわたしの名前を呼ぶ。嬉しくて、わたしも涼さんの名前を呼んだ。
「涼さん」
 その首に腕を絡めた。涼さんの腕がわたしの背中に回される。そして、またキス。
 あまい、なんて甘いんだろう。
「ヤツカ?」
 問い掛けられる。
「はい?」
「いつまでも、『涼さん』はないんじゃないですか?」
「え?」
「僕たちは、夫婦なんですよ?」
 確かに、わたしは結婚してからも今までどおり「涼さん」と呼んでいた。確かにこれはおかしいかも。でも涼さんの下の名前はちょっと呼びにくいし、なんだか気が引ける。
「あ、あのじゃあなんて……」
「それはもちろん『あなた』でしょう?」
 ええー!それはちょっと恥ずかしい。
「何なら『ダーリン』でもいいですよ」
 それはもっと恥ずかしい。
「そしたら僕、ちゃんと『ハニー』って呼びますよ?」
 そんな風に呼ばれたら、わたしはきっと爆発してしまうだろう。
 涼さんはニヤニヤと笑っていた。ああ、ちゃんとわたしがそう呼べない事をわかっていて、からかっているのだ。涼さんの唇が「は」の形に開いた。うわ、本気で『ハニー』と呼ぶ気だ。そして涼さんはそれがきっと楽にできてしまう。わたしは慌てて涼さんの唇をふさいだ。


 そんな日曜日の朝。
 もう十時を回っていた。そろそろと、起きてブランチの用意をする。
 涼さんとの新居。結婚してから2人で住んでいる2LDKの高層マンションだ。
「え?2LDK?結構地味だね」
 ももか主任にはそんな風に言われたけれど、そうじゃないんです。ただの2LDKじゃないんです。そう、音で表すなら「にーぃえるーぅでーぇけーーーーーぇ!」って感じだ。とにかく広い、すごく広い。そしていちいちゴージャス。それでも涼さんのご実家よりは全然「地味」ではあるのだけれど。
 涼さんとの結婚が決まったとき、わたしはちゃんと覚悟を決めて涼さんの家に入るつもりだった。「おかねもち」のお嫁さんなんて、知り合いにいないから、ほんと未知の世界だったけれど、涼さんと一緒になると決めたから、ちゃんと涼さんの世界の人になろうとしたのだ。だけど涼さんが気を遣って、このマンションを用意してくれた。ヤツカも最初は大変だろうから、と。その心遣いは嬉しかった。だけど
「ごめんね、ヤツカ」
 引越しが終わったその日の夜、涼さんがわたしをうかがうようにしてそう謝った。
「え?」
「ヤツカの為にここ用意しただなんて、方便にすぎないんです」
「は?」
「本当は、僕がヤツカとふたりきりで暮らしたかったんです」
「あ、はぁ」
「ヤツカのせいにしてごめんなさい」
 謝った、そんな謝られても……そんな風に素直に言う涼さんはちょっとかわいかったけれど。
 ふたりきりで暮らしたい。
 とても贅沢な願いなのかもしれない。だって今わたしたちはふたりきりでこんなしあわせなのだから。
 結婚してから色々変わったようで、変わっていないようで。そう、一番変わったことと言えば、涼さんがすごく甘えん坊になった事だろうか。
 休みの日の朝ご飯はふたりで作る。涼さんが率先して手伝ってくれるというか、涼さんがひとりで待っているのを嫌がるのだ。寂しがるのだ。それでいつも後ろから、かまってくれと邪魔してくる。ほんと子供みたいだ。それじゃあ、とちょっと色々教えてみたら、これが結構器用にこなしてくれる。最初は卵も割れなかったのに。そういう事は涼さんには必要のないことだったんだろうなぁ。だから涼さんにはすごく新鮮な事らしい、次は?これは?と面白がって色々と覚えていく。このまま上手く乗せていけば、きっと家事分担できるようになるだろうなぁと、ちょっと計画を立ててみたのだが、いずれ涼さんちの実家に入ったときには、そんな事まったく必要なくなることに気づく。
 でもそれはそれでいいと思えた。必要のないこと、必要なくなることかもしれない。けれども今は必要なことだと思うから。
 最近はトマトの湯剥きに凝っている。一度覚えてから絶対わたしにはやらせてくれない。包丁を持つ手も安心してみていられるようになった。元々器用なんだろうなぁ、リズム良くじゃがいもの芽を取っていくのを見ながら、料理の上手い人は巧いって言うし……。
 朝からわたしは何を考えているのだろう。
 思わず手が止まって、赤くなるのを懸命に抑えようとした。涼さんが急にわたしを後ろから抱きしめた。思わず手元のボウルを落としそうになる。慌てたわたしの隙をついて、涼さんがわたしの耳たぶをかぷっと甘噛みした。
「ぃやあ!」
 思わず叫んだ。
「なななななんですか!急に!」
「だって、ヤツカの耳が真っ赤で美味しそうだったから」
 そしてふっと息を吹きかけられる。なんて人だなんて人だ。
「ヤツカ……カワイイ」
 これだけは、結婚してからも変わらない。わたしが照れるのも変わらない。