++ Sickness


 眠っていた、というかちょっと意識が遠のいていたのかもしれない。不意に腕に冷たい感触。誰かがいる、涼さんじゃなくて、涼さんと、誰か。
「痛かったかな?奥さん」
 そう声をかけてきた人はわたしの知らない人だった。声だけでかなり年配の人とわかるけれど、話し方は随分とはっきりしていた。わたしが不思議そうにその人を見上げると、その人はくしゃと、皺だらけの顔で笑ってくれた。
「今注射をしたから、これで眠って目が覚めれば、もう大丈夫」
 わたしがまだ不思議そうな目でその人と涼さんを交互に見ていたら、涼のお家のいわゆる主治医の先生なんだと説明してくれた。忙しいところを申し訳ありません、となんとか声を出して言ったら
「何、わしはもう隠居の身でな。病院は息子夫婦にまかせてあるし、わしは悠々自適の毎日の暇な老人じゃよ」
「そう、ヤツカが気にすることはないんですよ」
「お前が言うな。お前が電話で泣きついてくるからこの老体をひきずって来たというのに」
「僕がいつ泣きついたんですか」
「お前はいつだってそうだ。ギリギリまで我慢して、それでいつも最後にはわしに泣きついてくる。子供の頃からそうだ。あれはいつの事だったかな、お前が」
「先生、昔話はやめてください」 
 涼さんはこの先生に子供の頃からお世話になっているということも、涼さんが珍しく心を許して甘えることの出来る相手なのだということもわかった。そしてそんな風に会話している涼さんがなんだかかわいらしくて。
「まぁ、一度奥さんに会いたいと思っていたんでな」
「先生、結婚式に来てくださらなかったから」
「ああいう場は苦手でな」
「ヤツカ、すごく綺麗だったんですよ?」
「馬鹿を言うな、ウチの嫁の方が綺麗に決まっている」
「何十年前の話なんですか」
 そうやって、まるで漫才みたいにぽんぽんと会話が交わされる。おかしくて笑うより、何故かそれが微妙にここちよいのがおかしかった。そうか、こうやって病気で寝ている時に、誰かの会話を聞くなんて、家族と住んでいたとき以来なのかもしれない。それになんだか安心する。懐かしくもあった。注射が効いたのか、またしてもうつらうつらと眠りに落ちていく。


 何度となく目覚めると、そこには必ず涼さんがいてくれた。お布団の中で、ずっと手を握ってくれていた。無意識にそれをきゅっと握ると、涼さんが握り返してくれて、そして「どう?」と顔を覗き込む。たったそれだけのことが、どうしてしあわせなんだろう。病気なのにしあわせだなんて、病気でもしあわせだなんて……。
 そして、また目が覚める。目が覚める度に自分の身体に問い掛けるのだけれど、なかなか身体は元気な返事をしてくれない。
 そしてまたきゅっと手を握ると、そこには自分の掌があるだけだった。
「……」
 身体を起こした。やっぱりくらくらする。けれども涼さんを探したくて、無理矢理身体を起こした。カーテンは閉めたままだけれど、わずかに入る光がその日の夕刻を告げていた。薄暗い部屋の中、一生懸命定まらない焦点をこらす。そんな動作が妙に緩慢で。自分の身体が思い通りにならないもどかしさ。それを押し込めるようにして、ベッドから抜け出した。
 ふらふらとしながら、わたしは書斎のドアをノックした。
 すぐにバタバタという音がして、涼さんが出てきた。ああ、やっぱりここにいたんだ。その目が驚いて、そしてたしなめるように
「ヤツカ!ダメじゃないですか、寝ていないと」
 部屋の中を伺うと、部屋の奥にある机の上のディスプレイが煌々と光っていた。眼鏡をかけているからお仕事中だったのだ。
 だからそんな事を言っちゃいけない。でも、
「……涼さんが、いなかったから」
 まるで子供のよう。憐れみを誘うような自分の声が情けない。
 だけど涼さんが側にいないとわかった時のあの寂しさに比べたら、ほんとうにがらんとした部屋にひとりきりなのがとてもせつなく悲しくなってしまって……涙すら浮かんでくる、馬鹿、なんて子供なの、けれど無性にせつなくてかなしくて……不安で。
 涼さんは着ていた上着をわたしにそっとかけてくれた。
「ごめんね」
 ううん、違うんです、あやまるのはわたしのほうなのに。
「ちゃんと側にいるから」
 違うんです、涼さんはいつだってわたしの側にいてくれるのはわかっているのに、その姿がみえないだけでさびしいと思うのはわたしが子供だから、わたしが病気だから、こんな日に病気になるわたしがいけないのだから。
「戻りましょう、ね?」
 そう言って、わたしを寝室へ促そうとする。その涼さんの腕を押し退けて、わたしは書斎に入った。書斎と言ってもやっぱりここも広くて、壁一面の本棚と、涼さんの机があって、それに簡単な応接セットまで置けるぐらいの部屋なのだ。
 わたしはふらつく足を進めて、そしてその応接セットのソファーに座った、というか半分崩れ落ちた。涼さんがあわてて駆け寄って、そして無理矢理わたしを抱き上げて寝室にもどそうとするのを、わたしは力いっぱい、いや力弱く抵抗した。
「ヤツカ?」
「……お仕事の邪魔はしませんから」
「ヤツカ」
「ここにいて、いいですか?」
 わがままで自分勝手。だけど……どうしてこんなに心細いんだろう、そしてどうしてこんなに、涼さんがいてくれるだけで安心できるんだろう。
 涼さんの側にいたいだけなんです。
 涼さんがそこにいてくれるだけでいいんです。
 怒られると思ったから、そのままうなだれていたら、涼さんがちょっと待ってて、と部屋を出て行った。そして寝室から毛布を持ってきてくれて、そこにあったクッションをちょうど背もたれになるように並べて、わたしを横たえさせた。ちゃんとわたしの居場所を作ってくれた。
 涼さんの唇がわたしの額に触れる。まだ少し熱いですね、と言った。その仕草は、幼い頃に母親にされたものと同じだった。そう言えば、結婚する前にそんな風にわたしが涼さんの体温をはかったことがあった。不思議そうに見上げる涼さんに、唇は温度の変化が少ないから、体温をはかるのに、感じるのに一番いいんですよ、と、母親の言葉を受け売りにして。それを、涼さんは覚えていたのだ。
「寒くない?」
 涼さんが聞いた。頷くわたし。
「何かあったらすぐに声をかけるんですよ?」
「……何か?」
「何もなくても」
 わたしの不安を溶かすように、そんな風に即答して、微笑んだ。
 わたしは頷いた。頷いたら、少しだけ涙がこぼれた。涼さんがそれを優しくぬぐってくれた。
「涼さん……」
「何?」
「………………なんでもないです」
「うん」
 どうしてこんなに安心できるんだろう。
 それからお仕事する涼さんの後ろ姿を、ずっと見つめていた。時折、涼さんが振り返って、そして笑ってくれた。それを何度か繰り返すうちに、本格的に眠くなってきてしまった。今日何度目かの眠り、だけど一番ふかいところまで行けそうだった。安心して、そこにおちていけると思った、涼さんが、側にいてくれるのだから。