+++ Sickness


 目が覚めた時、暗闇の中蛍光塗料で光る時計の針が目に入った。もう十時を過ぎている。
 ディスプレイは消されていた。そこにいたはずの涼さんがいない。とたんにきゅっと締め付けられるような気分になって、慌てて身体を起こした。あ、と思った。どうやら身体が言う事を聞いてくれるようになったらしい。
 涼さん?、と声を出す前に、足元の毛布がひっぱられるような感覚を覚えた。そこには床にぺたりと座って、ソファーに頭を持たせかけて眠っている涼さんが、涼さんが側にいた。
「涼さん」
「……ヤツカ?」
 涼さんがすぐに起きた。そして、またわたしの額に唇を当てて。
「よかった……大丈夫?」
「はい」
 声がちゃんと出た。涼さんもほっとしたように頷いた。わたしもほっとしたと思ったら急に
「おなかすいたでしょう?」
 涼さんが見透かしたように言った。わたしはもう一度「はい」と言った。
 涼さんに寄り添われながらダイニングに行くと、テーブルの上にカセットコンロと、その上に土鍋。匂いでそれがお粥だとわかった。
「涼さんが作ったんですか?」
「うん。と言いたい所なんだけれどね。ちょっとずるして家の者に作らせて持ってきてもらいました」
 ああ、涼のおうちからなのか。
 けれども、その時わたしの目には台所のガスコンロの周りが、妙に散らかされているのに気付いていた。コンロの周りに何かふきこぼれた跡……多分、シンクには涼さんがどうにかして自分でお粥を作ろうとした馴れの果ての、うちの土鍋があるのだろう。
 涼さんが目の前で蓋をとってよそってくれる。その指に絆創膏がが巻いてあった。どうしたのと聞くより前に思い当たることがあった。あの桃缶は、今時めずらしく缶切であけるタイプの缶詰だった。
 そう考えるのは考えすぎだろうか、でもわたしには、缶詰を開けるときに慌てて指を切ってしまった涼さんの姿とか、そう言えば教えたことのなかったお粥を作ろうとして、四苦八苦している涼さんの姿がはっきりと想像できた。そして、それは多分間違いない。わたしの前では冷静に落ち着いて「看病」してくれた涼さんが、そうやってわたしの見えないところで慌てて、焦って、それこそ先生に「泣きつく」ような涼さんだったのだと思うと、鼻の奥がつん、とした。この気持ちはなんて言えばいいんだろうか。わからない、けれども、どうしようもなく嬉しかった、なのに涙が出そうだった。
 それを誤魔化すように、目の前のお粥をせっせと口に運んだ。美味しい?と聞かれたけれど、顔を上げることができなかった。でも涼さんはそれを返事と受け取って、安心したように自分も食べ始めた。二人の食べる、食器の触れ合う音だけがしていた。
 何も食べていなかったから、思わずおかわりまでした。二人できれいにたいらげてしまった。
「ごちそうさまでした」
 お腹が温かい、何よりも涼さんが温かい。
「それだけ食べられれば大丈夫ですね」
 涼さんが笑った、わたしもはにかみながら笑った。ふと、涼さんが言った。
「でも、ちょっと残念かな」
「え?」
「いや、こんなことを言ったら怒られるかもしれませんが。ヤツカが……ヤツカが甘えてくることなんてあまりないから」
 今度は涼さんがはにかんだように笑った。そしてごめんね、と。せっかく元気になったのに、不謹慎ですね、と。
 わたしは思わず立ち上がった、そして向かいに座っていた涼さんの側まで行って
「ヤツカ?」
「わたし……まだちゃんと治ってません」
「え?まだどこか?」
 わたしは慌てて首をふった。
「わたし、まだ病気です」
「……ヤツカ?」
「だから、まだ、甘えてもいいですよね?」
 さっきまで、自分を自分勝手で子供でわがままだと責めていたけれど。けれど涼さんのあのつぶやくようなひとことが、わたしを素直にさせてくれた。安心して、そうやっていいのだと思えた。
 涼さんはちょっと驚いた顔して、やがていつものふんわりとした笑顔でわらって、わたしに両手を差し伸べてくれた。わたしは誘われるままに、涼さんの膝の上に「だっこ」されるように座らされて。涼さんがぎゅうとわたしを抱きしめてくれた。わたしも抱きしめ返したかったけれど、甘えたかったから、そのまま涼さんにわたしの分まで抱きしめてもらっていた。涼さんの手が優しくわたしの背中を撫でる。わたしは鼻先を涼さんの肩口に埋めるようにして、まるでお人形のように涼さんの腕の中にいた。
「さて」
 涼さんが言った。
「甘えん坊のヤツカ。何をして欲しいですか?」
 答えはすぐに出た。
「一緒に寝てください」
 甘えん坊のヤツカ、本当に今日のわたしは甘えん坊だ、だけど今日はそれでいい、そうしたいのだから。
「わたしが眠るまで、そばにいてください」
「いいですよ」
 涼さんがわたしの身体を抱き上げた。そしていつものようにベッドに運ばれる。涼さんはわたしの隣に肘をついて横になって、わたしの髪を梳きながら
「おとぎ話でも聞かせましょうか?子守唄でも歌いましょうか?」
 ちょっとからかうように言った。だけどそうやってまるで子供のようにわたしを甘やかしてくれるのが、たまらなく嬉しくて。
「じゃあ、子守唄」
「え?」
 冗談のつもりだったのだろう。けれどもそういわれて気付く。そう言えば涼さんが歌うのって聞いたことないかもしれない。だけど一瞬ひるんだ涼さんにそのおねだりをしたことを後悔した。もしかしたら、涼さんは子守唄なんて知らないかもしれない。そんな子供時代は過ごしていないのかもしれない。そう、思い始めたら
「……」
 涼さんの唇からこぼれた旋律は、どこの国のものかはわらかない、どこの国の言葉かはわからない、だけどすぐに子守唄だとわかった。驚いて見上げていると、涼さんが照れたように
「昔、フランス語を習っていた家庭教師に教わったんです。フランス語じゃないんですけれどね。確か彼女は東欧の出だったからどこか……」
 そして、途切れた歌をまた紡いでくれた。ゆっくりと、やさしく、涼さんの少し高い声が歌声となってわたしを包む。ひどくやさしい目でわたしをみつめて、そのメロディーにあわせて、あやすようにわたしの身体をぽんぽんと叩きながら……。
 わたしが何か言おうと唇を開いたら、涼さんの指がそれをさえぎった。そしてその指でわたしのまぶたを押さえる。暗闇の中聞こえる涼さんの歌、そして確かに感じる涼さんのぬくもり。こんなに側にいてくれるのに、それでもまだ甘えたがるわたしは、本当になんてわがままで、自分勝手で、子供で……でもそれができることは、なんてしあわせなんだろうか。
 涼さんの歌声の中、やがて深い深い眠りについていった。



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 そもそも看病ネタはすずやつ祭、というかそれ以前の小郷さんとのやりとりで「ひとり暮らしで風邪をひいたヤツカの元に看病しにくる涼さん」「驚くヤツカを『寝ていなくちゃダメですよ』と玄関からお姫様抱っこでベッドに運ぶ涼さん」「『おやおや、洗濯物がたまっていますね』と勝手に洗濯始める涼さん」「恥ずかしくて余計に熱があがるヤツカ」「『ああ!そんな干し方したら後で皺になる!でも言えない!』と余計に頭が痛くなるヤツカ」というネタがあったのですが(長いよ!)、すっかり忘れておりまして。で、すずやつ祭開催期の最後の頃で、自分が風邪ひいて寝込んだ時に「ああ!そういえば看病ネタがあった」と思い出したという(だからなんですか?)(いや、やりたかっただけなんです)。
 唇で熱をはかる、は私がよくされた事なんですが一般的ですか?ウチだけの奇習だったらどうしよう(笑)。

 涼さんの歌う子守唄は、プラハ(新公)のあの曲を当てはめてくれるといいと思います(いや、涼さんが歌ってたのは日本語パートだったよ)(しまったー!)(2004.05.08)