++  Russian Tea


 『エレナ』がわたしの中から離れない。
 どんな女のひとなんだろう、わたしよりカワイイのだろうか、その可能性は高い。わたしよりキレイなんだろうか、その可能性も高い。わたしよりおっきいんだろうか……その可能性はかなり、高い。
 へこむ、すごいへこむ。
 ああ、このウチを出る時は何も持っていかないでおこう。だってほんのわずかに一緒に暮らしただけでも、全てのものに涼さんの思い出が詰まっている。なにより、わたしの中に涼さんがいっぱい詰まっている。そんなことまでシュミレーションするようになってしまって。
 そんな風に悶々とした日々が続いて、『エレナ』の一件から最初のお休みの日。
 涼さんはいつものジムに出かけていった。いつもなら自分はやらなくても、ついていくわたしだけれど、やっぱりちょっとそんな気分になれない。涼さんが出かけてから思わずほっとため息をついてしまった。「つとめていつも通り振舞う」のが朝からずっと続くのは大変だった。
 何をするとでもなく、リビングのソファーに身体を埋めて、考えないようにしようとしても考えてしまう『エレナ』について、悶々としていたら、突然インターフォンが鳴った。あれ、涼さんもう?鍵を忘れたのかなと、余り考えずにドアを開けたら、ひとりの女の人がそこにいた。いや、ひとりの外国人の女の人。
 誰?
「ヤツカサンデスネ、ハジメマシテ」
 カタコトの日本語。
「ワタシ、エレナ・イエツェンスカヤデス」
 え、ええええええええー!
 エレナってあの『エレナ』?
 ずっと日本人だと思って疑わなかった。そういう源氏名だと思って疑わなかった。
 もといロシアンパブの女だったなんてー!
 涼さんいくらなんでもひどい、ひどすぎる、いきなりすぎる、もといマニアックすぎるー!
 その『エレナ』はニコニコとわたしをみつめていた。
 こ、これは一体何?これは何の先制攻撃なの?しかも『エレナ』は美人だった。金髪・色の浅い目・白い肌。そして『エレナ』はわたしより全然大きかった。やっぱり、やっぱり涼さんは大きいほうが好きなんだ。涼さんのうそつき!だけどわたしがちっちゃいからいけないんだ。どうしよう?なんて言ったらいいんだろう?わたしはどうしたらいいんだろう?どうしてわたしはこんなに涼さんの事がすきなんだろう?誰にも、誰にも渡したくないのに。
 色々な考えが頭の中を回る、何か言わなくちゃと気ばかりが焦る。がんがん何かが鳴っている。ああ、どうしようどうしよう。
「す」
 ようやく出た言葉はそこで一旦切れて
「涼さんはわたしのものです!!」
 言った、言い切った。よく言ったわたし。
 そしてわたしはそこで頭に昇っていた血が一気に足元に逆流するのを感じながら、そのまま気を失ってしまった。


 気が付くと、リビングのソファーの上。額に冷たい水で絞ったタオル。すぐに思い出して辺りを見渡すと、『エレナ』がほっとため息をついて
「大丈夫、デスカ?」
「……あ、あの、はい」
「ヨカッタデス」
 『エレナ』が暖かい紅茶を入れてくれた。勝手にキッチンを借りてすみません、と言いながら。なんだ、すごく、いい人だ『エレナ』さん……もう、色々考えるのはやめよう。暖かいお茶を飲んで落ち着いたわたしは、ようやく口火を切った。
「あの……涼さんとは、どういう?」
「涼サンナニモ言ッテナカッタデスカ?」
 エレナさんが驚いて、そして急に「ああ!」と納得した顔をして
「アー、ワカリマシタ、ヤツカサン、誤解シテマスネ?」
「え?」
 そしてエレナさんが説明してくれた。
 涼のお父様がその昔、お仕事の都合でロシアに滞在した時、たまたま知り合った日本びいきのエレナさんのおじい様と意気投合。それからずっといわゆる「家族ぐるみのお付き合い」が続いているのだそうだ。エレナさんは子供の頃から何度か来日していたから、年が同じ涼さんとすぐに仲良くなって。その後エレナさん一家が日本に帰化した時には、随分涼さんとお父様が尽力したとのこと。
 わたしは恥ずかしくなってきた。エレナさんをそういうお店の人だと決めつけたのも申し訳なかった。でもこの展開は全く予想していなかったし、少なくともわたしが考えていた「いいほうの解釈」のどれにも当てはまらなかった。
「ワタシ、今日アソビに行くッテ言ッテタのに、それにワタシのコト内緒ニシテテ涼サンひどいデス」
「あ…でももうすぐ帰ってくると思います」
「ワタシ、ずっと楽シミニシテタンデスヨ?」
 そんなエレナさんを誤解してしまって、すみませんと謝った。
「でも、ワタシ安心しまシタ」
「え?」
「ヤツカサン、涼サンのコト大好きデスネ」
 そう言ってぎゅっとわたしを抱きしめてくれた。
「ワタシモ、ヤツカサン大好キになりまシタ」
 嬉しい、でも苦しい……大きいなぁ。いや、それはさておき。
 誤解が解ければ、打ち解けるのも早かった。不思議なことに、エレナさんとわたしは性格が合っていたようで、あっという間に馴染んでしまった。それからはもう、女同士の気の置けない会話。あんまり夢中で楽しくて、涼さんが帰ってきたことに気付かなかったぐらいだった。
「エレナ、来てたんですか!」
 涼さんの声で振り返る。わたしが「おかえりなさい」と言うのと同時に
「涼サーン!ちょっとソコに座りナサーイ!」
 突然エレナさんが怒りだした。
「だいたいナンデスカ涼サン!夫婦の間に隠し事はイケマセーン!ワタシの国のコトワザデ……」
 なんとエレナさんの説教が始まってしまって。まくしたてるように、時々ロシア語が入り混じりながらものすごいイキオイで喋っていく。うわ、本気で怒っているんだ。
「あ、あのエレナさん?もうその辺で……」
「何言ッテイルンデスカー!ヤツカサンもソコ座りナサーイ」
 うわ、とばっちりだ。
 涼さんはと言えば黙って少しうなだれてエレナさんの話を聞いている。でも顔はちょっと笑っていた。涼さんが隣で一緒に怒られる羽目になったわたしをちらっと見て、
「まあ、いつもこんな感じですから」
 そうなのか。
「でも、エレナがこんなに怒るということは、ヤツカを本当に驚かせてしまったんですね」
「あ、あの、いえ」
 涼さんを誤解したことは黙っておこう。
「ごめんね、驚かせて」
 涼さんが、すっとキスしてきた。ごめんなさいのキス。うわ、そんなイキナリ。しかもエレナさんの見ている前で。
 慌ててエレナさんの方を見ると、エレナさんは急にニコニコとしだして
「そう、ソレデイイデス、ハラショー!」
 ロシアの文化は、ちょっとわたしにはわからない。