洗濯物を干していたら聞きなれない電子音がした。携帯?だけどわたしのじゃない……はっとして音がする玄関まで行ったら思ったとおり、涼さんの携帯が下駄箱の上に置かれていた。発信元は涼さんの会社から。慌てて電話に出たら
「もしもし?」
「ああ?ヤツカ?良かった」
涼さんの声だ。
「やっぱり家に置いてきてしまったんですね。いや、どこかに落としてしまったとしたら大変でしたから」
確かに涼さんの携帯には大事な取引先の電話番号、特にプライベートな電話番号も多いから、そう慌てるのももっともだ。こんな大事なものを忘れるなんて、と思ったけれど改めて今朝の情景が思い浮かんできた。
毎朝出勤する涼さんを玄関まで見送る。今朝は出掛けに携帯に連絡が入って、慌しく出て行こうとする涼さん。けれど急いでいるのに、思い出したように。
「あ、ヤツカ」
わたしの両頬を包み、キス。……「おかえりなさい」のキスはわたしからしてくれとねだるのだけれど、「いってきます」のキスは涼さんからするのが、何故か決まりになっていた。そんな急いでいるんですから、早く、と照れを隠すように涼さんを送り出した……そう、そのわたしにキスをした時に、ひょいと、手にもっていた携帯を下駄箱の上に置いてしまったのだ。
……それはさておき。
「あの、どうします?わたし届けに行きましょうか?」
「いや、うちの営業が近くに行くから取りに行かせますよ」
「そうですか」
「なんですか、そんな残念そうな声して」
「いえ、あの」
涼さんのお仕事っぷりを覗いてみたいなぁという好奇心と、行ったらランチぐらい一緒にできるかなぁという期待とが一瞬にして沸いて、そして消えたから……ちょっとだけ、残念だっただけだ。
そんなわたしに涼さんが言った。
「……ヤツカ、愛してますよ」
「……涼さん、周りの人に聞かれたらど、どうするんですか?」
「別に聞かれても構いません、それに僕たち『新婚さん』ですし」
うわー、聞いていて恥ずかしい。わたしがこれだけ恥ずかしいんだから、聞いている周りの人はもっと恥ずかしい、いや呆れているに違いない。わたしが困惑していると
「嘘です。今、僕ひとりです。空いている会議室からかけています。さすがにね、ヤツカと電話している僕はきっとだらしなくにやけているだろうから、部下にそんな顔は見せられませんから」
あ、一応そういう事は気にするのか。
不意に垣間見えた「お仕事の涼さん」。だけどわたしにそう「いつもの台詞」を言う涼さんは、ちっともにやけてなんかいない。いつだって真顔でまっすぐにみつめてくるからこっちはいつも恥ずかしくて……。
それじゃ、仕事に戻るから、と涼さんが切ろうとするのがなんだかちょっと寂しくて
「早く帰ってきてくださいね」
思わず言ってしまった。なんだか妙に甘えた声になってしまった。慌ててそんなのワガママだと思ったから。
「あ、あの、お仕事が忙しくなかったらでいいんで」
涼さんが笑った。
「わかりました、早く帰りますよ。『新婚さん』ですからね」
駄目押しに、わたしを恥ずかしがらせて、そして電話が切れた。
なんだか、甘い。熱い。困るけれど嬉しいような。そんな気持ちを大事にしまいながら、携帯を切ったら
「うわーーーーーーー!」
本気で叫んでしまった。だって、携帯を切ったら待ち受け画面にわたしの写真。しかも寝顔。いつの間に。
慌ててそれをどうにか消そうとする。恥ずかしい、なんてモノを撮っているんだ、いや、なんてモノを待ち受けにしているんだ、もう信じられない。
ところが涼さんの携帯とわたしの携帯は機種が違う。勝手がわからずに、焦りながらボタンを触っていたら、着信履歴が出てしまった。
『エレナ』
え?と思った。
会社や取引先らしい企業名に混じって、カタカナで『エレナ』という着信履歴。……最初はどこかの会社の名前かと思った。でも番号は携帯の番号だった。他の個人名はみんなフルネームで入っているのにそれだけただ『エレナ』とだけ。しかも頻繁に。
なんだか見てはいけないものを見てしまったようで、慌ててその画面を消そうとボタンを押したら今度は発信履歴の画面に切り替わってしまった。そこにも『エレナ』……会社や取引先に混ざって頻繁に……。
いや、やめよう。これは素直に自分が感じたままに受け止めよう。
もといはぐらかすのをやめよう。
「ど……」
思わず声が出た。だけどわたしはそのまま続けた。
「どこのクラブの女なのよー!!!!」
どう見てもどう考えても、そういうお店の女の子の「源氏名」に間違いない。
涼さんに限ってそんな、とは思う。確かに付き合い上、そういうお店に行くことは珍しいことではないのだとも思う。けれども個人的に携帯の番号を教え合い、そして頻繁に電話し合い……もはや、疑う余地もない。……浮気だ。
目の前が真っ暗になった。頭の中がぐるぐるした。わたしというものがいながらと、まるでドラマみたいな台詞が浮かんで。新婚なのに、涼さんだって『新婚さん』って言っていたわたしたちなのに……。ぐるぐると思考は止まらない。何で浮気なんかしているんだろう、もうわたしのこと嫌いになっちゃったのかなとか、やっぱりわたしじゃ満足してないんだとか、やっぱりわたしは涼さんにふさわしくないんだとか、もう次から次へ浮かんでくる不安と否定的な言葉。どうしよう、とまらない。そして偶然とはいえ、涼さんのいわば「個人情報」を覗いてしまったという自己嫌悪も加わって、ますます自分がここにいてはいけないような気がしてきて。どこかへ行ってしまいたい、行かなくちゃいけないような奇妙な焦燥感に襲われて。
涼さんを信用しなくちゃ、とも思った。だけど『エレナ』をいい方に解釈すること1回につき43回ぐらいの否定的な考えが浮かんでは、消えない。
どうしよう、わたし。
涼さん、どうして?
泣きたい気持ちを必死で抑えた。だって、泣いたらもっと悲しくなるもの。
涼さんは約束通り早く帰ってきてくれた。
いつものように「おかえりなさい」のキスをねだる。それに応えるわたし。ああ、こんなにわたし涼さんのこと好きなのにどうして?今だって、涼さんにキスするだけでドキドキするぐらいなのに、涼さんはもう、わたしのこと……。
「ヤツカ?」
涼さんがちょっといぶかしむ。本当はきっぱりはっきり聞いてしまえばいい。だって結果はひとつなんだもの。もしかしたらわたしが今日ずっと考えていた中の「いいほうの解釈」のどれかと同じ答えが返ってくるかもしれない。だけど「悪いほうの解釈」と一致するほうがはるかに可能性は高い……。わたしはつとめていつも通り振舞った。涼さんはちょっと気になっていたようだけれど、わたしが何も言わなかったから、特に詮索はしなかった。
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