++ Baby


 あの時、わたしと涼さんは結婚以来、ううん、付き合い始めて以来の、初めての「大ゲンカ」をしていた。
 今となっては、その原因がちゃんと思い出せない。大したことなかったのかもしれないけれど、その時はお互いにタイミングが悪かったのだろう。互いを追い詰めて、互いに譲らず、とにかく凄いケンカだったのだ。結局、その日の夜はお互いに別々に寝たほど。厳密には涼さんが書斎に閉じこもってしまって。そんな態度にも腹が立って仕方がなかった。
 実際、わたしと涼さんは数えるくらいしかケンカをしたことがない。もちろん些細な言い争いやすれ違いはあるけれど、基本的に涼さんは耐える人で、何もかも大人で紳士なその態度にひっくるめてしまう。そんな涼さんが怒鳴らんばかりにわたしにくってかかってきた。これは少しは喜ぶべきとこなのかもしれない。余り怒ることのない冷静な涼さんは、裏を返せば怒り方を知らないのだ、そうやってケンカをする事も、する相手もなかったのだ。そうやって己の心を剥き出しにさらせる相手など……だから涼さんのケンカ相手になるのは、わたしだけの特権でもある。けれども、そんな風にケンカ慣れしていない涼さんの感情のぶつけかたはとても稚拙だ。それすらもわたしにしか見せない一面とわかっていても、それを甘んじて受け止められるほど、こちらも大人ではなかった。それはそれ、これはこれ。やっぱり涼さんの言い分は納得できない、あまりにも理不尽だ。子供みたいな涼さん、そして頑固なわたし。ケンカはいつまでも平行線だった。
 翌朝、いつものように起きると、涼さんはもう出勤してしまっていた。朝ご飯たべたかなぁと心配するより前に、そうやって顔を合わせようとしない態度にまたカチンとくる。
 それでも一日はいつも通りに始まって、いつも通り洗濯やら掃除やらをしているうちに、気持ちがだんだん紛れてきて、冷静になってきた。そう、昨夜は二人とも冷静さを欠いていた。それでもやっぱり涼さんに納得ができない。でも、だからこそ、そうだ。
 わたしはちゃんと涼さんと話をしようと思った。したいと思った。お互いに納得いくまで話がしたかった、またケンカになってもいい、すぐに仲直りできなくてもいいから。
 そんな自分を頑固だとは思わなかった。むしろそうやって思える自分は、やっぱり涼さんの事が好きだから、そうやって諦めたり誤魔化したりしたくないのだと、そう、思えてきた。
 ところがその日、涼さんの帰りはとても遅かった。いつもなら電話なりメールなりで一報をくれるのだけれど、それもナシ。それがどういうことか、いやどういう涼さんの意思なのかは十分にわかった。その身勝手さにまた腹が立ってきた。そんな涼さんの態度は「逃げた」としか思えなくて……。ダイニングのテーブルについたまま、意固地になって涼さんの帰りを待っていた。
 結局、涼さんが帰ってきたのは二時過ぎだった。「ただいま」も言わずに、ただまだ起きていたわたしに驚いて、それからすぐに不機嫌な顔になっていくのが手に取るようにわかった。
 駄目だ、昨夜と全然状況は変わらない。そんな涼さんを迎えたわたしも、きっと凄く不機嫌な顔をしていたのだろう。
「待っていることなかったのに」
 頭にくる前に言葉が飛び出た。
「だって。……どうして連絡くれなかったんですか?」
「今日は連絡する暇ないぐらい、忙しかったんですよ」
 嘘だ、いつもはどんなに忙しくたってしてくれるじゃないですか。
 チリチリと互いの言葉が相手を刺激しているのがわかった。けれども、引きさがれなくなってしまっていた。そのまま何も言わずに、また書斎に引き篭もろうとする涼さんを止めた。
「待ってください、わたし、涼さんに話が!」
「明日にしてください。僕、今日はとても疲れているんです」
「でも」
 いいんですか?このままで、このままわたしたちケンカしたままなんですか?
 一緒にいるのに、こんな風にやりきれないまま、何も解決しないままで。
 そんなのイヤだ。ちゃんと話がしたい。ケンカをするならちゃんとしたい。だってわたしたち一緒にいるんですから。
 涼さんはちょっとわたしを見やった、わたしは何故か泣きたい気持ちになっていたけれど、それを懸命に堪えていた。
「……」
「……」
 沈黙。そして
「わかりましたよ、じゃあ僕が悪かったことにすればいいんでしょう?僕が謝ればそれでいいんでしょう?」
 なんて、なんて、なんて言い方なんだろう。
「涼さん!」
 怒鳴った。そして食ってかかっていこうとしたその時。
「!」
 急に身体中を痛みが走った。
 どこかにぶつけた?違うそんな生易しいものじゃない。身体の一番奥から、わきあがる、立っていられないほどの、痛み。
「ヤツカ?……ヤツカ!!」
 意識すら、保っていられないほどの痛み。
 涼さんの声が遠くなっていったのが、やけにはっきりと感じられた。あとは、何もわからなくなった。


 それから気がつくと、白い天井が目に入った。ここは……?
 痛みはもうなかった。倒れたことはちゃんと覚えている、一体あれは……いや、なんとなく、身体がそれを教えてくれているような気がする。でも、
「ヤツカ」
 涼さんが、ベッドに寝ている私の枕もとにいた。腕から繋がれた点滴の管。ここは病院、側にいる白衣のお医者様、涼さんのほっとした顔。
 いやだ、知りたくない。
「……わたし、」
 どうしたんですか?
 知りたくないのに聞いた。涼さんの顔が少し曇る。涼さんからすれば聞かれたくなかったことを聞いたのだろう。
 お医者様が口を開こうとするのを涼さんがさえぎって
「……ヤツカ。落ち着いて聞いてください」
 頷く。
「ヤツカのお腹にね、僕たちの赤ちゃんがいたそうです」
 過去形。もうそれで十分だった。
 覚悟をして聞いたはずなのに、途端にすべてのことが現実となって襲い掛かってきた。押しつぶされる。
 怖い。助けて。無意識に起き上がろうとする、それを涼さんが優しく押さえ込む。抵抗は、力の代わりに言葉で出た。
「いやーーーーーーーーーー!!」
 叫び声にしかならない。
 苦しい、苦しいの。
 涼さんがお医者様に目配せをして、わたしの腕に細い針がうちこまれた。
「ヤツカ……ヤツカ」
 涼さんが何度も何度もわたしを呼ぶ。そのままわたしは苦しさを逃すように再び意識を手放した。
 次に目が覚めた時、やっぱり最初に目に入ったのは白い天井だった。
 腕の点滴はもう外されていた。涼さんはいなかった。わかっているのに、夢じゃなかったんだと心の中でつぶやく。
 わたしは……流産をしたのだ。
 思い返せばその兆候が全く無かったわけではない。ただ体調不良でこないことは良くあったし、今回もそんな調子で気にしていなかった。
 そういえば、わたしたちは結婚したら、いや結婚しなくても一緒にいることですることで、子供ができるという可能性とその話を、ちゃんとしたことがなかった。もちろん、そんな話が出なかったわけではない。けれどもわたしたちは、わたしたちふたりだけで幸せで、満足で、それ以上の事を考えなかった。結婚後は当然のように避妊はしていなかったのに、そうなる可能性は十分にあったのに……わたしはその可能性に対して向き合うことを放棄していた。
 考えていなかったわけじゃない、わたしだって……と何度も自己弁護をしようとしたけれど、駄目だった。これは明らかにわたしの責任だ。だってわたし、ちゃんと考えていなかったもの。生理がこなくても、気にもとめずに、その結果がこれだ。……生まれてきた命を失った。いや、わたしが殺したのだ。
 当然の報いなのに、どうしてこんなに悲しくなるんだろう、痛みよりも痛くて、悲しい。
 わたしが死なせてしまった、わたしたちの「赤ちゃん」。それはわたしのものではないのに、その命は生まれてきた「赤ちゃん」のものであり、そしてわたしたちのものだった。それをわたしがなくしてしまった。
 涙は出なかった。あまりにも自分のしたことがひどすぎて、原因も結果も、すべてしかるべきことなのに、それを受け止めきれないぐらい悲しくて、わたしたちの「赤ちゃん」は死んでしまった事が、どうしようもなく悲しくて、でも泣く資格なんてなくて。
 厚くひかれたカーテンの隙間から、うっすらと夜が明けたのがわかった。それなのに、わたしの中には何も生まれなかったのだ。
 小さく遠慮がちな音がして、ドアが開いた。確認するまでもなく涼さんだとわかった。
「ヤツカ?」
 小さく、声をかけられる。わたしは涼さんの顔が見れなくて、そのまま眠っているふりをした。涼さんはどう思っているのだろうか、悲しんでいるのだろうか、こんなわたしを、もう……。
 涼さんの気配が近づく。わたしは涼さんの胸の中で泣きたい衝動にかられた。けれども、そんな資格だってどこにもない。
 だってわたしだもの、わたしがわたしたちの「赤ちゃん」を死なせてしまったのだもの。
 涼さんはじっとわたしを見下ろしていたようだった。その時パタリと、本当にパタリという音がして。
 驚いて目を開けた。涼さんの目から落ちた大粒の涙が、シーツに吸い込まれた。
 涼さんが泣いていた。まるで子供のように、しゃくりあげながら、それを懸命に堪えながら、子供のように泣いていた。
「ごめんね……ヤツカ」
 どうして、どうして涼さんが謝るの?
「赤ちゃん……母親の精神的な面も影響してくるんだそうです」
「……」
「僕が、僕がヤツカに悲しい思いをさせたから。僕がヤツカを追い詰めてつらい思いをさせたから、だから……」
 どうして、どうしてそんな事を言うんですか?
 確かにわたしたちはケンカをしていた。悲しい思いもした、つらい思いもした。けれどもそれは涼さんだって同じだったと、今ならそう思える。
 わたしは涼さんに両腕を差し伸べた。涼さんは、やっぱり子供のようにふるふると首を振って、わたしの手を取らなかった。そしてひとりで泣いている。
 どうして?
 これは、わたしたちふたりの責任ではないのか。だってわたしたちは、その可能性がありながら、そんな話もせず、そんな心配もせず、二人で一緒に過ごしてきた。そう、一緒にだ。一緒にいるのに、どうして涼さんはひとりで泣くの?一緒にいるのに、どうして涼さんは自分だけを責めるの?一緒にいるのに……「わたしたち」の責任であり過ちであり哀しみであるはずなのに……。
 わたしは起き上がった。ふらついたわたしを涼さんが慌てて抱きかかえるように支えた。涼さん、と声を出したかったけれど、声にならなかった。そのまま涼さんを胸に抱くようにして、涼さんがわたしに覆い被さってくる。
 見詰め合う、二人で。それは二人だからできること、二人でしてきたこと、二人で……。
 わたしたちはきつく抱きあった、そしてお互いに泣いた。お互いに泣きついて、お互いに受け止めて、そうしてふたりで悲しみもあやまちも、すべて一緒に受け止めたのだ。


 それからまた「二人の」毎日が始まった。前よりもわたしたちは深くなったと感じることができた。もちろん、それからもケンカをしたり、仲直りをしたり……そうして、時間が過ぎていく。 それでようやく、私は涼さんに聞くことができた。なんとなく怖かったけれど、ちゃんと聞かなくちゃいけないことだった。
「涼さんは……赤ちゃん、欲しいですか?」
 涼さんは、そう聞かれることを予感して答えを用意していたようだ。多分、それを言わなかったのはわたしの気持ちが落ち着くのを待っていてくれたのだろう。
「でも今は、ヤツカの身体が大事だから」
 そう言ってわたしの髪を優しく撫でる。
「でも」
「自然に任せましょう。そういう時もまたきっとくると思います。その時にヤツカが元気じゃないとね」
 わたしに無理をさせないように、あるいは負担にならないように気を遣ってか、そう涼さん
は言ってくれた。
 でもそんな涼さんの優しさがかすかにひっかかる。そもそも涼さんは子供を望んではいないのではないだろうか。そう言えば前にそんな話をしたことがある。涼さんに子供は好きですか?と聞いたらわからないんですと、僕は子供の頃から子供と接してこなかったから、わからないんです、と。そんな記憶がひっかかる。
 それでもわたしは子供が欲しいと思った。いや、思うようになった。それまでは子供を欲しいとは思わなかったのに、そう思うようになった自分。
 それを欲しいと思うのは、心のどこかで、あの時からなんとなく魚の小骨がひっかかるように、胸につかえた気持ちを子供を産むことでどうにかしたいからではないか。涼さんとの間に少しだけあいてしまったように思える隙間を埋めるのには、あの悲しみを忘れるためには子供を産むしかないと思ってしまったからではないか。そうやって、子供を産むことを自分の身勝手な手段にしている。そんな風に思うわたしは、母親になる資格なんてない。そんな自分がとても汚いと思った。
 どんなに涼さんに優しくされても、埋めきれないひびのような隙間が時々痛む。