+++ Baby


 気がつくと、部屋にわたしひとり。長い長い物思いから戻って、少しだけ泣いた。やりきれない思いで、ひとりでひっそりと泣いていた。
 ようやく涼さんが帰ってきた。
 わたしはいつものようにお帰りなさいのキスをした。無意識に腕が涼さんの背中に回って、ぎゅっとしがみつくように抱きついた。涼さんが驚きつつも、改めてわたしを包むように抱きしめてくれた。
「どうしたんです?」
 思い返した記憶に泣いていたのだとは言わなかった。ただ涼さんが無性に恋しくて。
「賑やかだったのが、急に静かになったから、寂しかったんですね」
 あやすように背中を撫でてくれる、わたしはそれに頷いた。
「それにしても残念でしたね。せっかくももか主任達が来てくれたのに」
「……主任たちも、残念がっていました」
「今度は僕がいる時に来てもらいましょう」
「はい」
「僕たちがいちゃいちゃしているところをみてもらわないとね」
 わたしが照れると涼さんが笑った。そんな他愛のない会話も、こうやって触れて触れられて一緒にいられることも、なんてしあわせなんだろう。
 だからこれ以上のしあわせを求めちゃいけないんだ。
 心の隙間を埋めたいと思うのは、わたしのわがままだ。
 だって、今だってわたしは、わたしたちは十分に幸せなのだから。


 だから、再びその兆候が現われた時、わたしはとても慎重になった。
 またあんな悲しい思いはしたくない、また涼さんに悲しい思いをさせたくない。ちゃんと大丈夫だとなるまで、涼さんにも黙っていた。……いや、黙っていたのはいろいろなことがつかえてしまっていたのもあったからかもしれない。
 お医者様に、もう大丈夫ですよと言われ、涼さんに赤ちゃんができたことを告げようと決心するまでに少し間を置いた自分が、どこか怯えていることに気付いていた。
 その日、帰ってきた涼さんに、いつものようにお帰りなさいのキスをした。
 ためらう前に言ってしまおうと、キスしたらすぐ言おうと思っていた。けれどもやはりためらってしまった。そんなわたしに涼さんが気付いて「どうしたの?」わたしを覗き込む。わたしはうつむいてしまって、それでも勇気を出して
「あの……涼さん」
「何?」
「あの…………赤ちゃんが、できました」
 涼さんが固まったように思えた。何も言わない。恐る恐る顔をあげると、涼さんはとっさに顔を背けた。え?
「涼さん」
「ごめん、ヤツカこっち見ないで」
「……涼さん?」
「ごめん……僕、今自分がどんな顔しているかわからないんです」
「はい?」
「きっと僕、みっともない顔をしています、だから、見られたくない」
 そういわれたら、見たくなる。
 わたしは訳がわからないまま涼さんの顔をこちらに向かせた。
「……」
「……」
 目があった。
「……ひどい顔、していますよね」
 なんと表現すればいいのだろう。涼さんはすごく笑っていた、泣きながら笑っていた。確かにこれは見たことない顔で、けれども
「涼さん……」
「ヤツカ、僕ね、あのね」
 うわずるような声。言葉が言葉にならない。けれどもう涼さんの顔を見てわかった。それまでのわたしの不安もためらいも、すべて不要だったと知った。涼さんの表情は、喜び以外の何物でもない。
 そこで涼さんは初めて自分が泣いている事に気付いたようだ。そしてそんな涼さんに、わたしが泣きたくなる。そしてようやく色々なつかえが取れて、ようやく素直にわたしの体の奥からわきあがる喜び。ひとつの命が生まれる喜び、そしてそれを一緒にわかちあえる喜び。今、私たちは同じ思いを抱いている。
 わたしが涼さんの涙をぬぐった、そして涼さんがわたしの涙をぬぐった。
「どうしよう、ヤツカ!僕、今すごく嬉しい、すごく嬉しい」
 ようやく言葉が繋がった涼さん、でももう言葉にしなくたってわかっていたから、わたしは涼さんに抱きついた。
 その夜、ベッドの中でふたりで未来の話をした。涼さんの掌は優しくわたしのお腹に置かれていた。
「でも、驚きました。涼さんがあんなに喜んでくれるなんて」
「なんですか、当たり前じゃないですか」
 唇を尖らす。いえ、あの、と言い訳しようとすると
「……うん、でも僕も驚きました。あんなに嬉しいなんて、知らなかった」
「……わたしもです」
「父親になる資格なんて、ないと思っていました」
「……」
「でも、そうじゃない。そういうものじゃないんです。だってこんなに嬉しいんだもの、ただ嬉しいものなんですね」
 一緒だ、同じだったんだ。わたしたちはあの時から、ちいさなつかえを抱いていた、その喉に刺さった小骨が、一緒に取れたのだ。
「ヤツカ」
 今日、何度となく交わしたキス。溢れる思いを、そうしないと抑えられないように。
「涼さん」
 わたしからも、キス。そうしないと抑えられないように。
「ヤツカ?」
「はい?」
「僕たちは、これから父親と母親になるんですよ」
「はい」
「いつまでも、『涼さん』はおかしくないですか?」
 ……うん。
「あなた」
 そう素直に呼べた。
 涼さんがちょっと驚いていた。またいつものようにからかい半分だったのだろう。わたしが言えるとは思っていなかったのだろう。自分でも不思議だった。
「……『あなた』と言えば……この言い方は少し乱暴な気もするんですが」
 それも一理ある、けれども涼さんは言った。
「お前と一緒でよかった。お前ともっとしあわせになりたい」
 その響きがとても温かくて、泣きそうになった。
 そして、そんな会話をいつかしたことを思い出した。その時、涼さんは「これからもっとしあわせになるんですよ」と言った。確かにその言葉通り、わたしは、わたしたちはあれからもっとしあわせになった。
 いや、そうじゃない。しあわせは比較するものではない。しあわせはどんどん増えるものだ。涼さんと一緒にいるしあわせ、一緒にご飯をたべるしあわせ、一緒に眠る幸せ、ケンカをすることも、仲直りをすることも、わたしたちの間に増えていったしあわせだ。小さくても大きくても、どれも同じぐらいのしあわせ。大切なしあわせ。
 そんな思いを涼さんに伝えたら、涼さんは笑って、そうですね、と答えた。もっとじゃなくて、たくさんのしあわせですね、と。


 そして、もうすぐわたしたちの間に、新しいしあわせが生まれる。



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言い訳
(2004.10.17)