四月一日花太郎誕生日祝(二〇〇九年分) 其之陸


黒い箱

 箱から、かすかに苦味を帯びた甘ったるい香りが溢れてくる。
 ふたを開けなくても、その中身がいかに甘いかを口々に主張する、色とりどりの箱。
 大きな紙製の手提げ袋から溢れんばかりのそれらを眺めて、荻堂は一つため息をついた。

 今日はバレンタイン。現世では、想いを寄せる相手に贈り物をする日だそうだ。行事の詳細は地域によって様々な特徴があるようだが、尸魂界で最も流布しているのは、女性が男性にチョコレートを渡す、という習慣だ。ただし、そのチョコレートに込められた気持ちの実情は、『愛の告白』から『日ごろお世話になっているお礼』、果ては『憐れみ』『形だけのやっつけ』とピンからキリまであるようだ。
 集団できゃあきゃあ騒ぐのが好きな女性たちが、この行事にのっかって騒ぐのは当然だろうと荻堂は思う。見栄を張りたい男性たちが、チョコレート獲得数をあげようと、この行事が近づくと急にめかし込んでみたり修行やら仕事やらに励んでみたりするのも、大した効果はなさそうだが理解できる。
 しかしその反面、この行事にまつわって、荻堂には理解不能な現象が多々起きていることも事実だ。
 その一つが、今自分が両手に下げている大きな紙袋の中身である。
 何で毎年自分のところにこんなに大量のチョコレートが集まるのだろう。
 荻堂は、自分が整った顔をしているという自覚がある。人に嫌がらせをするという悪い趣味はあるが、敵に回すべきでない相手に対してはにこやかに接して、その腹黒さを要領よく隠している。女性からの評判は悪くないという認識は、自惚れでは無いはずだ。
 しかし、荻堂は特定の女性と深く付き合ったことはないし、今後も当分そのつもりはない。そのことをそれとなく公言してもいる。チョコレートをもらう時も、必ず『お返ししきれませんよ』と告げるのだが、いつも『それで構わないから受け取ってください』と渡される。
 それらのチョコレートの包みを見れば、明らかに手作りと思しき包装のものや、小さくとも値のはる店のものなど、込められた好意が底の浅いものではないことが分かる。女性というものは、与えた分と等価の好意が返って来ることはないと分かっていても、贈り物を出来る生き物なのだろうか。
 そして、今チョコレートを満載した二つの手提げ袋も、今日のもらい物の一つである。『今日はご要り用でしょうから』と朝一番のチョコレートと共に渡された大きな袋は、もらったチョコレートでぴったり満載になった。この手提げ袋をもらうのも毎年恒例のこと。どうやら、荻堂に毎年チョコレートをくれている女性たちの間で、この手提げ袋を用意する係を持ち回りしているらしい。女性というのは本当にどうして、こういう不思議なところで要領良く一致団結できるのだろう。
 一番不思議なのは、毎年瀞霊廷通信で特集されるバレンタイン獲得数番付である。荻堂は毎年30位以内に入るほどの上位常連者だが、荻堂にとって自分が番付の何位にいるかなどということはどうでもよかった。そんなことよりどうやって集計しているのかの方が気になって仕方ない。自身でももらったチョコレートの正確な数など把握していないというのにどうなっているのだろう。集計表の末尾には『女性死神協会調査』と明記されている。数年前、この集計表に手心を加えてもらうため、協会に袖の下を渡そうとしてはねつけられた者がいるという噂がたった。活動資金獲得のためなら手段を選ばないはずの女性死神協会が、そこまでして正確さにこだわっているとは。その面子を思えばまして、『好奇心』の一念だけでどんなとんでもない手段と労力を使っていてもおかしくないと思える。
「恐ろしい話だ」
 人の機微には聡い方だと思っているのだが、まだまだ精進の余地があるようだ。
『お返ししきれませんよ』
『それで構わないから受け取ってください』
 荻堂は、その言葉が額面どおりの意味だとは少しも思っていない。甘ったるく香る箱たちは、華やかな包装や添えられた手紙で口々に己の存在を主張し、少しでも荻堂の心を呼び寄せようとしている。その呼びかけに応えようという気が一欠けらもない、それに対する罪悪感もない、それを隠そうとしたこともない荻堂の元に、それでも集まってくる箱たち。荻堂が何を言おうと、捨てきれない期待の欠片たち。
 一種の、執着心。
 元を正せば、この行事はすべて執着心で成り立っているのかもしれない。
 好きな人への執着心を発散するための場として。
 見栄に対する執着心を満たすための場として。
 話の種になりそうな情報に存分に執着するための場として。
 荻堂は何かに対して執着したことがない。仕事も人付き合いも、大概のことは大した苦も無く人並み以上に出来てしまう。直属の上司である伊江村のように、地位に対する興味もない。唯一にして最大の趣味は人をからかうことだが、後々まで禍根とならない範囲を見極めるのが楽しいのであって、危ない橋を渡る気はない。何かに執着すれば、それを手に入れるために血道を挙げて寝食を忘れたり、誰かと争う羽目に陥ったり、失って絶望を味わったり、ともかくもろくな目に遭わないという印象しかないのだ。
 けれど、何も返って来ないと告げられても、自分がチョコレートを受け取ると嬉しげに恥らう女性たちの笑顔は、何故か幸せそうだ。
 何故自分は、その不可解さにこだわっているのだろう。
 考えるとも無く思いを巡らしながら総合救護詰所を歩いていると、向こうから小さな人影が近づいてきた。
 四番隊第七席の山田花太郎だった。第八席である荻堂にとっては、一応上官である。
 しかし、彼の風体はどう見ても荻堂の上官には見えない。ただでさえ吹けば飛びそうなほど小柄で貧相なのに、なで肩と下がり眉がますます頼りない印象を煽る。まるで小動物のような人物は、荻堂を認めるとすぐに屈託無く微笑んで挨拶した。
「あ、お疲れ様です。荻堂さん」
 この人物も、荻堂にとっては不可思議である。
 基本的には見た目どおり、気が小さくて鈍くさくて不器用で真面目な、毒にも薬にもならないような人物に思える。昨日も荻堂に青大将いりの紙袋を渡されて仰天し、パニックを起こした女性達に揉まれ、ほうほうの体で青大将を捕まえて外へ追い出した後、騒ぎを起こした張本人として四番隊第三席の伊江村から説教をくらっていた。
 しかし、騒ぎの責任が荻堂にあることなど一言も言わずに大人しく説教を受けて、その次の日には何事も無かったかのようにこうして荻堂に笑いかけるのである。
 毎度毎度懲りない顕著な反応は面白く、非常にからかいやすい対象ではあるのだが、一体全体いつになったらこの人は荻堂に対して警戒心を抱くようになるのだろう。あまりにも懲りない花太郎に対してついつい嫌がらせがエスカレートしつつあるのだが、ついぞ宵越しの恨み言を聞いたことがない。単に記憶力か学習能力が乏しいだけかと思えば、荻堂が悪戯に使ったスズメバチを何処で仕入れたのかを問いかけて、
「巣があるなら片付けなくちゃ、誰か近づいたら危ないですね」
などと言ってその足でハチの巣退治に向かったりすることもある。
 もしかするとその風体に反して根はすさまじく図太いのではないだろうかと、荻堂は常々疑っている。
「うわあ、今年もすごい数ですねえ、荻堂さん」
「そういう山田七席も結構な数ですよ」
 荻堂と比べれば小さいものだが、花太郎も腕に紙袋を一つ抱えていた。
 二人とも、この紙袋を抱えていては仕事が出来ないので、休憩室へ置きに行くところに出くわしたのだった。荻堂にしてもこんな大荷物を抱えた状態で花太郎に悪戯をしかけるほど熱心ではない。いたって平和に並んで歩きながら、荻堂は花太郎が抱えている紙袋をちらりと見遣って、感心のため息をもらした。
 花太郎の紙袋も今日のもらい物の一つだろう。荻堂の二つの大きな紙袋は、片や紺、片や渋茶を基調にした乱れ格子模様の手提げ紐付きなのに対し、花太郎のは手提げ紐がないから胸に抱えるしかなく、でかでかと可愛らしく書かれている「花ちゃんへ」という文字が丸見えである。自分がこんなもの受け取っても即屑入れに放り込んで使わないだろう。女性陣が相手を見て用意していることは火を見るより明らかだった。花太郎の袋も必要な大きさぴったりに作ってあるはずだが、今はまだ少し余裕がある。終業まで後半日の間に、そこへ納まるべきものがいくつか届くはずなのだろう。女性陣の要領の良さもここまでくると呆れるほどである。
 花太郎の袋は小さいが、贈り物の一つ一つも小さい分結構な数が入っている。そもそも紙袋をもらえるということは、それなりの人気が約束されているということだ。その証拠に、実は花太郎も毎年バレンタイン獲得数番付の80位あたりを保持している。
 常日頃から、花太郎が女性陣に愛玩動物のような扱いを受けている様子や、丁寧な指導で部下に慕われている様子を見ていれば、その獲得数は納得がいった。そして花太郎が受け取った贈り物は、どれも可愛らしく丁寧に包まれていて、手作りのものばかりだと一目で分かる。同じ小ささでも、伊江村の元へ集まってくるばら撒き仕様のそれとは質が違った。色っぽさは感じないが、心からの親しみや感謝がこもっているのだろう。
 花太郎はそんな贈り物が詰まった紙袋を眺め、照れながらも嬉しそうに笑った。
「今年は何をお返ししようかなあ」
「昨年は、薬草の花をいれたべっこう飴でしたね」
 荻堂は宣言通りお返しなどしないが、人のすることに口を出す気はない。ただ、花太郎は普段ぼんやりしていて、日々の仕事をこなすのが精一杯であるような印象なので、こういうまめな面を見ると意外に思う。
 昨年用意していたべっこう飴は、花太郎自身が花を摘んで干し、飴を煮て作ったものだった。そうやって花太郎は毎年ささやかながら手作りのお返しをしている。やや不恰好な出来なのだが、それがまた花太郎に似合っていて可愛らしく、受け取った女性陣の間では好評だ。ほんの一部だが、花太郎のお返しを貰うために贈り物をする女性もいるという話である。花太郎の拙いお返しは傍目にも面白いので、そんな女性の存在も荻堂には頷けた。
 しかし荻堂が首を傾げるのは、花太郎自身の方である。
「結構手間なんじゃないですか?熱心なことですね」
「あはは…でも楽しいですよ。せっかくいただいたのに何のお返しもしないというのも心苦しいですし、喜んでもらえますし」
「なるほど」
 荻堂はその時、納得したような素振りで話を打ち切った。休憩室に到着したからである。二人ともこれからそれぞれの仕事に向かわねばならないから、これ以上雑談に時間を費やすわけにも行かなかった。
「それじゃ」
 簡単な挨拶をして休憩室で別れた。
 荻堂が今日の仕事場に戻ると、伊江村が小さな小さな包みを握り締めて、壁に向かってぶつぶつと呟いていた。
「こんな…こんな金平糖のような大きさのチョコレートで私が懐柔されると思うなよ…なんであいつにはあんな手紙と飾り付きので私にはこんなやっつけの…」
 そのくせ、その様子を見かねた年少の女性隊員が、
「こ、これ、手作りなんですよ、いつもお世話になってますからぁ」
などと水引で飾られた包みを差し出すと、
「う、うむ。いや、部下の面倒を見るのは上官の当然の勤めであってだな…いやでも手作りのものを断るのも申し訳ないから」
などと言い訳がましく受け取っている。眼鏡の下でデレデレと目じりが下がっているのが良く見えた。あの隊員は当分楽な仕事ばかりもらえるだろう。
 小心でかつ尊大なこの上司の行動原理は、見栄に対する執着心で成り立っている。
「七席もこのくらい解りやすければいいんですけどね」
 執着心に彩られたこの行事の中において、あの小柄な上官の素直すぎる喜び方は、何処か浮世離れしている。どんな嫌がらせをされてもさらりと忘れてしまうような彼は、一体いつまで贈り物への喜びを覚えていられるのだろう。

 その日の夜だった。
「今から七席の部屋へ行くところだったんですが、何をしてるんです?」
 荻堂は、居住棟の水屋で桶を洗っている花太郎に声をかけた。
「ああ、荻堂さん。毛筆を頂いたので、それを下ろしていたんです。何の御用ですか?」
「恒例のおすそ分けをして廻ってました」
 荻堂は、残り少なくなった紙袋の中身を見せた。
「またそうやって配ってしまっているんですか?」
 咎めるつもりはないようだが、花太郎は少し困ったような顔をした。荻堂本人に食べてほしくて用意されたはずの贈り物なのに、配ってしまっては贈り主が可哀相だと思うのだろう。
 しかし荻堂は悪びれもしない。
「食べ切れませんからね。ちゃんと手紙には目を通すくらいはしてますよ」
 誰がどんな目で見ようと何を言おうと、荻堂のそういう素っ気無い性質は変らないのである。花太郎もそれを知っているので、諫言は諦めたようだ。
「じゃあ、今年もありがたく頂きますね。お茶、淹れますから寄って行ってください」
「そのつもりです。七席のお茶目当てで配りに来てますから」
 しゃあしゃあとした返事に、花太郎は苦笑した。
「ところで、今年も食べ物は七席の口に入らなかったようですね」
 休憩室に向かった時と同じように、歩きながら話しかけると、花太郎ががっくりと肩を落とした。
 あの時花太郎が嬉しそうに抱えていたもののほとんどは、毎年一つももらえない先輩たちの手により、午後のお茶のお供として強奪されてしまったのである。
「…残念です。ちゃんとしまってあったのにいつの間にか…」
 これも既に恒例のことだ。標的は付け入られやすい者ばかりなので、荻堂は一度も狙われたことがないが、花太郎のようなのになると毎年必ず狙われる。花太郎も、贈り物を強奪されてはくれた人に失礼だと思っているようだが、自分用の物入れの中で着替えの中に隠すくらいしか知恵が回らないものだから、すぐ見つけられてしまう。
 それでもせめてと、食い散らかされた後の包み紙などは回収したようで、花太郎の部屋には例の「花ちゃんへ」と書かれた紙袋が随分しぼんだ姿で横たわっていた。文机の上には贈り物に添えられていた手紙が積んであり、その横には白紙が一枚用意されている。
「今年もお礼を渡す人の一覧を作るんですね」
 急須に湯を注いでいた花太郎が、荻堂の問いに頷く。
「はい。今年も荻堂さんの名前が入りますよ、おすそ分けを頂きましたから」
「…そうですか」
 これも恒例のことだ。しかし、荻堂の反応はわずかに鈍かった。
 おすそ分けを貰い物として扱うかどうかは花太郎が好きに決めれば良い。そう思っているはずなのに、その一覧に自分の名前が並ぶのはあまり嬉しくなかった。別に、お返しを貰うのが嫌な訳ではない。去年もこっそりとべっこう飴を渡された。こっそりだったのは、荻堂に贈り物をした人への気遣いからだろう。受け取ったべっこう飴は、絶品と言うわけではないが、面白い味だった。
 なら何が面白くないのか、自分でも今ひとつ図りかねている。
「…荻堂さん、お茶、冷めますよ?」
 花太郎の言葉にふと我に返ると、玄米茶が目の前に差し出されていた。
「…ええ、いただきます」
 チョコレートを摘みながら、茶を啜る。普段はあまり口にすることのないチョコレートは、甘みの中に奇妙なほろ苦さを伴っているが、それが心地よい不思議な菓子だ。かなり酒が効いているチョコレートらしく、嗅ぐだけで酔いそうな濃い香りが漂った。
 花太郎は、無邪気にも既に三つ目を頬張っている。酒には弱そうに見えるが、これで人並みに飲める方だ。
「いい香りですねぇ」
「…結局、手元に残ったのは筆だけですか?」
「ああ、いえ、あと湯飲みも…」
 荻堂の問いに、花太郎が慌てて袋を探る。包みを開いて、さっきふのりを落としていた毛筆と並べる。
「どちらも、連名でいただきました。僕の名前を入れた特注品だそうで…こういうのを使うのって、ちょっと照れちゃいますね」
 手にとって眺めると、毛筆の方には暗い飴色の軸に花太郎の名前が刻まれている。湯飲みにも、ぽってりとした釉薬越しに刻まれている名前が見えた。
「良い筆ですね。湯飲みも」
「ええ、とても。今まで使っていた筆がそろそろ古くなっていたので、助かりました」
 偶々ではないだろう。花太郎の毛筆が買い換え時であることを知っていて贈っているはずだ。
「湯飲みの方はまだ現役のようですけどね」
 荻堂の言葉に、花太郎が苦笑いを返す。何しろそそっかしい彼はしばしば陶磁器類を割っていて、貴重な壊れ物は持たせるなと周りが見張っているくらいである。今、玄米茶を湛えている湯飲みも、早晩壊れるだろうと皆が思っているのだ。
「あはは…頂いた方はなるべく出番が来ないよう努力します…」
 花太郎から二杯目の茶を受け取ると、荻堂は
「あとはお構いなく。それ、忘れないうちに書くつもりなんでしょう?」
と文机の上の白紙を指差した。
「ああ、そうでした。それじゃ、失礼して…」
 荻堂に頭を下げて、花太郎は文机に向かった。
 貰ったばかりの筆を墨に浸して、今日贈り物をくれた人の名前を書き連ね始める。
「今年は何をお返しするか、もう決めたんですか?」
「ええ。香りの強い草を千代紙で包んで、匂い袋を作ろうかと」
「やっぱり手作りなんですね」
「ええ…正直、お金の余裕もあまりないものですから…っと」
 喋っていたために書き損じたようだ。間違いを塗りつぶして、もう一度書き直している。達筆とは言えないが、努めて等間隔に、同じ大きさで並べられていく名前たち。花太郎は時折手紙で名前を確認しながら、作業を進めていく。
 ふと、とある名前の列が荻堂の目に止まった。
 座卓の上にある、白い釉薬の湯飲みを手に取り、ひっくり返す。
 糸切底の内側には、花太郎の名前とは別に、女性の名前がいくつか刻まれていた。花太郎の名前を確認した時に気づいたものだ。白い紙の上に並んでいるのと同じ名前である。贈り主たちの名前に違いない。
 花太郎には分かっているだろうか。この湯飲みを特注するのにどれだけの金がかかるのかを。連名と言ったが、この人数で割ってもそれなりの額になるようなものだ。それでも自分の名前を入れたものを、贈り物として選んだ理由とは。
 無言で、荻堂は湯飲みを元の位置に置いた。
 座卓の上の箱からチョコレートを一粒とって、口に入れる。
 芳醇な香り、刺激と絡まった甘み。これもまた、安物ではない。貰ったものの中では、一番上質そうな箱だと思っていたが、正解だったようだ。これにどんな手紙がついていたかも荻堂は覚えている。何もこれに限った話ではなくて、相手の機嫌を取ったり、絡まれる前にかわしたりするために使える情報だから、誰がどんな手紙を添えて何をくれたか、頭の隙間に放り込んである。このチョコレートに添えられていた手紙は確か、ほっそりした字で一言「お慕いしています」、とあった。
 少ない言葉の中に込められた、執着心。
 贈り物の質が即その執着心の強弱を現すわけではないけれど、この贈り主の気持ちはなかなか根深そうだ。荻堂は他人事のように分析しながら、蠱惑的な香りを茶で流し込んだ。贈り主には残念な話だが、貰い手はいちいち惑わされてやれるお人よしではない。
 だが、今目の前で、「お返し」の準備として名前を書いている人物はどうなのだろう。「いちいち惑わされるお人よし」に見えるこの人物は、自分が惜しげもなく墨に浸した毛筆の上質さと、それに込められた執着心を理解しているのだろうか。
 今日の終業後に、花太郎から贈り物を強奪した先輩たちの内の何人かは厠へ駆け込み、何人かは全身が痺れて休憩所で動けなくなっていた。
 それを見て年長の女性隊員たちが
「仕事中に効き目が出ても困るからね、ばっちり作戦通りだったわ」
「これで懲りればいいのよあんなやつら!」
とほくそえんでいたのも、荻堂は目撃している。万が一にも花太郎が被害に遭うことはないと判断して決行した行動力・謀略能力は見習いたいものがある。
「皆さん、今年の包みは随分可愛く飾ってますね。流行なんでしょうか?」
 花太郎の言葉どおり、文机に積んである一筆箋は、どれもちぎり絵や折り紙で飾られている。菓子は花太郎の口に入らないことを前提としていたためだろう。
 それぞれの方法で具現化された執着心たち。
 普段の様子からすれば、花太郎に向けられた執着心の多くは、愛玩動物に対するそれに近いのだろう。だが、湯飲みに刻まれた名前などには、それ以上のものを感じる。
 けれど花太郎は、それぞれの執着心を持つ送り主たちの名を、一枚の紙に、同じ大きさで書き連ねていくのだ。
「今年も、全員に同じものを配るんですよね?」
「ええ」
「筆や、湯飲みをくれた人にもですか?」
「はい」
「自分が食べられなかった分もですか?」
「食べられなかったのはぼくの不手際ですから関係ありませんよ」
 あまりにも手応えがなくて、わざと分かりやすい意地悪さを込めて言ってみる。
「博愛主義でいらっしゃる」
「そんな贅沢な話じゃありませんよぉ。こんなぼくに色々下さる皆さんには、本当に感謝してます」
 やはり、ぬかに釘だ。苦笑しつつも、返ってくる返事はさらりとしている。
 では、その感謝の気持ちに平等な「お返し」した後にはどうなるのか。
「…昨年もくれた人は、どのくらいいますか?」
「あ…ええと。どこかに昨年の一覧をしまってあるんですけど…ぼく記憶力悪いから、それ出さないとちょっと自信ないなあ…三分の一くらいの方はそうだと思うんですけど」
 三分の二も面子が入れ替わるわけはない。四番隊内の異動は多くないし、贈り物をする相手をころころ変える女性もそんなに多くはない。
 貰い主は、来月まで覚えておく自信もないから、一覧を作っているのだろう。
 湯飲みや筆なら、使っている間は贈り主のことを思うこともあるかもしれない。けれど粗忽なところのあるこの人の手元で、使っていてもらえるのはいつまでのことか。
 花太郎が一息入れて、筆に墨をつけた。
「これで、最後ですね」
 『荻』の字を書き終わる。
 『堂』の字に移ろうとしたその手が、不意につかみあげられた。
「あれ?」
 いつのまにか背後にいた荻堂を、花太郎が不思議そうに見上げた。
「ぼくの名は、書かないで下さい」
「え、匂い袋、お嫌ですか」
「嫌ではありませんが、要りません」
 花太郎は、捕まれたままの右手首を振りほどこうともしないまま、困惑している。
 荻堂は花太郎の右手ごと筆を動かして、書きかけの自分の名を塗りつぶしてしまった。
「『お返ししないと心苦しいから』なら要りません」
「…お礼をしたいだけなんですけど…」
「貴方のために用意された贈り物と、ただのおすそ分けに、同じお礼をするんですか?」
 荻堂が筆をもぎ取り、屑入れから何かの書き損じの紙を拾ってぬぐう。
 解放された花太郎は、しばし荻堂の顔色を伺っていた。
 もともと荻堂の表情は乏しい。けれど荻堂は、勤めてさらに無表情を装っていた。無知なこの人物が、もっと困惑すれば良いのだと、意地の悪いことを思っていた。だから、しばしの間の後に聞こえてきた、小さなため息が癪に障った。
 何かを悟ったつもりか、それとも、困惑の解決を諦めたのか。
 目をあわせようとしない荻堂と、もともとほとんど密着するほどの位置にいたというのに、花太郎は律儀に向き直ってまっすぐに見上げ、そして、告げた。
「荻堂さんは、たくさん貰ったものの中から、ぼくにあれを選んでくれました。とても、おいしかったです」
 荻堂の動きが止まった。
 まさか。
「筆も、湯飲みも、そしてお菓子も、ぼくにはとても勿体無いものです。優劣をつけることは、出来ないんです」
 知っていた。悟ったのでも諦めたのでもなく、初めから理解していた。それぞれの贈り物に込められた執着心を、何もかも。そんな驚愕の一方で、荻堂は爪が掠った様なひっかかりに更に噛み付いた。
「…それは、劣をつけない代わりに、優もつけないということです」
「…はい。つけません」
「皆に、等しく感謝しているのだと、知らしめて…それで、済ませるつもりなんですね」
 荻堂が文箱に筆を戻し、蓋を閉める。ぱたりと、やや乱暴な音がした。
「済ませては、いけませんか?」
 心底不思議そうな花太郎の声を聞いて、荻堂は苛立ちを覚えると共に、己の言わんとするところを自覚した。
「貴方の自由だと、言うべきところでしょうね」
 ふわりと花太郎の上体が傾いで、ぱたりと倒れた。両肩を畳に押し付けられる。
 花太郎は、声もなかった。目を見開いて、自分の上に乗り上げた荻堂を見ている。
「でも貴方が自由だと、ぼくは面白くないらしい」
 荻堂は今まで、こんな風に自分の心が冷えて、乾いているのを感じたことはなかった。
 花太郎の頭の両脇に手をついているだけで、押さえ込んでいるわけではない。なのに、花太郎は逃げようとするどころか、身動きもしなかった。きっと自分が、かつてないほどに冷たい目で花太郎を見下ろしているからだと荻堂は思った。
「どうすれば、満足なんでしょう?」
 かすかにこわばった声で、花太郎が尋ねる。
「さあ?それを模索している最中です」
 自分が、どうしたいのか。
 試しに、花太郎の細い首筋をなぞり、襟の中に指先を忍ばせてみる。しかし花太郎は、ぴくりとも動かなかった。おびえてこわばっているからか。筋の透けて見える、薄い皮膚。歯を立てたら、消えない傷を残せるだろうか。思いながら、首筋に唇を近づけようとしたときだった。
 首筋に到達するより先に、荻堂の髪に細い指が滑り込み、引き寄せた。やわらかい感触が、唇に触れて、離れる。
 ちゅ、とぬれた小さな音が、荻堂の脳髄を貫いて、背筋を凍りつかせた。
 花太郎が、間近で荻堂を見つめていた。ついさっきまでのこわばりが、消えていた。代わりに浮かんでいたものは、諦めに似ていた。
「こういう悪戯を、するつもりでしたよね?」
 びりっと、痺れに似た衝撃が、荻堂の全身を走った。今の状況には不似合いなほどまっすぐな、けれどどこか焦点が遠いまなざしに、荻堂は見入っていた。
「でも多分、荻堂さんは満足できないと思います」
 普段の様子からは想像できないような、落ち着いた声が諭すように言う。
「ですから、止しましょう」
 花太郎の言葉に、荻堂の理解が追いつかない。
「青大将やスズメバチならびっくりなんですけど」
 次の日には忘れてしまうような「びっくり」よりも、ささいなことだなどと信じられるものか。
「ごめんなさい」
 理解したくない。胃の腑の底から、子供のような我が侭が沸き起こる。
「ぼくが満足するかどうかなんて、試してみないと、分からないじゃありませんか。」
「…なら、試してみてください」
 花太郎は目を伏せた。視界を塞いでいるまぶたには、緊張がない。柔らかそうなまつげは、微動だにせず荻堂の行動を待っている。
 箱だ。
 かすかに苦味を帯びた、甘ったるい香りが溢れてくる、箱。
 目の前にいるこの人に、爪の痕すら残せないなんて、信じられない。信じたくもない。諦めたくない。試してみたい。どうすれば、自分の名を刻み込むことが出来るのか。
 けれど荻堂の中には、必死で模索する自分を、遠く観察する自分もいた。
『お返ししきれませんよ』
『それで構わないから受け取ってください』
 同じやりとりをしている、と。越えるつもりの無かった境界を、越えようとしている自分がいる。そんな一面を発見して、感動すらしている。
「…試してみたいのはやまやまです。けれど」
 荻堂は、花太郎の上から身を退けた。
「部が悪いようだ」
 今、衝動に身を任せるのは、あまりにも勝ち目のない賭けすぎた。
 花太郎は、ゆっくりと目を開けて、上体を起こした。
「今は、帰ります」
「そうですか」
 『今は』の意味は通じている。それが分かるようになっただけで、今日の収穫としよう。
「それではまた明日」
 荻堂は戸に手をかけた。
「はい。おやすみなさい」
 花太郎の返事は、いつもどおりのものだった。
 縁側の廊下に出ると、ひんやりとした夜風を感じた。火照っていた自分の身体を自覚した。胸の中にある、箱のためだ。
 ふたを開けなくても、その中身がいかに甘いかを主張する箱。けれど、今日貰った数々の箱のように、華やかな色はしていない。
 真っ黒い箱だ。溢れてくる香りは甘いけれど、その中に人を惑わせる苦みを含んでいる。何の策略もなく手をつけるのは、自分の主義ではない。
 その箱の存在を、今日、この行事限りのものにするつもりはない。
 小さな身体の中に、揺らがぬ己を持つあの人の中に、この箱を、確実に根付かせる。
 もうすぐ、日付が変わる。行事の終わった日常の中へ、荻堂はしっかりと箱を握り締めたまま、踏み込んでいった。
 
山月のはんこ

   こめんと
 花太郎のプライベートが見えんから勝手に妄想する(笑)。花太郎は失言が多いけれど、人付き合いに関しては常に遠慮して一歩引いてるように見受けられます。なので、特別親しい人とかいなさそう。だからルキアの存在は花太郎にとってかなりイレギュラーだったんじゃないかなあ。そういう内部を暴くために、荻堂に興味を持ってもらいました。


   「其之漆:開封(☆☆)」をご覧になる前に!!
 次は、この「黒い箱」の続きにして荻堂×花太郎の18禁のお話です
 (☆☆)ってのはそういう頁だっていう目印です。「ぬるいエロしか書けないから」とも申しません。全力で妄想した完全な危険地帯であることをご忠告しておきます。突入後の苦情は受け付けておりません
 まあ、ここまで読んだ方なら、半数くらいは「OK」出して突入してくれると見込んでおりますが(笑)
 覚悟をお決めになった方は、下の「其之漆」のリンクからどうぞ。

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