四月一日花太郎誕生日祝(二〇〇九年分) 其之伍


できることひとつ

「ルキア様、山田花太郎殿がお見舞いに来られました」
 襖の向こうから聞こえた使用人の声に、ルキアが嬉しそうに返事を返した。
「おお、花太郎!よく来た、入って来い!」
 すると、襖がすっと1寸ばかり開いた後、その隙間から細っこい指先が覗き、ゆっくりと襖を開いていく。作法の手本のような襖の開け方だった。
「すみません、突然来ちゃって…」
 遠慮がちに言いながら、部屋の中を覗き込んだ花太郎の動きが、ぴたりと止まる。
 ルキアのそばに胡坐をかいている恋次の姿を認めたためだ。
「お、お邪魔いたしました〜…」
 先ほどの動きを正確に逆に辿って襖を閉めようとする花太郎に、
「「妙な遠慮はいいから早く入ってこい」」
呆れたルキアと恋次の声がぴったりと揃った。

 朽木邸の一室。座卓を挟んでルキアの向かいに出された座布団に、花太郎は遠慮がちに膝をついた。動きの一つ一つがガチガチだ。大貴族の邸宅に初めて入ったせいで緊張しているらしいことが、ありありと伺える。
 白哉との間に壁を感じていた頃の自分を思い出して、ルキアは苦笑した。
「そう固くなるな、誰も捕って喰いはしない。こいつなんぞこの有様だぞ」
 ルキアが顎をしゃくった方には、立てた膝に右肘をのせ、左手を襟に突っ込んでがりがりと鎖骨の辺りを掻いている恋次がいた。今でこそくつろぎきっている恋次だが、朽木邸に出入りするようになったのは、一護達が瀞霊廷に侵入した後だ。
「つい先日まで、この地区に近づくことさえ出来なかった腰抜けが、よくもまあ入り浸りおって」
 ふんとルキアが鼻を鳴らせば、恋次は恋次で牙を剥く。
「人が寂しかろうと足しげく来てやってんのに、その態度はなんだ!」
「あ、あのルキアさん、恋次さん…」
 遠慮会釈のない言い合いに、思わず花太郎が割って入ろうとした瞬間、にらみ合っていた二人が同時にくるりと花太郎の方を向く。とばっちりでも喰らうのかと花太郎が身を引いた瞬間、
「花太郎!お前はこんな図体も態度もでかい奴とは違うのだから、遠慮なく入り浸っていいんだぞ!」
「花太郎!こんな恩知らずな奴の前でそんな肩肘張らなくたっていいんだからな!」
二人は口々に言って、同時にニヤリと笑った。
 そこでようやく、鈍い花太郎も二人がふざけているだけだと言うことに思い当たり、ほんの少し肩から力を抜いて笑った。
「はい」
 その笑顔は、いつもの弱々しいものより幾分嬉しげだった。
 ルキアはルキアで、応えるように嬉しげに微笑む。
 そんな二人を眺めていた恋次は、ふと花太郎の膝の上を指差した。
「それ、なんだ?」
「あ、そうそう。これ、お土産の大福です」
 思い出したように、膝の上の風呂敷を解く花太郎。
「お、ここの店のは美味いんだ…ぬおっ」
 風呂敷の中を覗き込んだ恋次の額を、ルキアの裏拳が直撃した。
「茶菓子をたかりに来ている分際で、人の土産を詮索するな!少しは花太郎を見習え、恋次」
「うぉう…」
「いえ、そんな…安物で恐縮です…」
 どつき漫才に苦笑しながら、座卓の上に紙の包みを差し出す花太郎。
「いや、気持ちが嬉しいのだ。ありがとう、はなた…ぬ?」
 ルキアは恋次に向けるものとは打って変わって温かな眼差しを花太郎に向けたが、礼を言いかけてふとその目を眇めた。
 そんなルキアの表情の変化に、花太郎がぎくりとこわばる。
「え、えと、何か…?」
「あ、いや…その肘はどうしたのだ?」
 ルキアが肘を指し示すのを見て、花太郎が死魄装の袖をまくる。
「ああ、ここへ来る途中に転んでしまったので…それですりむいたのかな?」
 のんびりと言う花太郎の肘を見た瞬間に、ルキアと恋次は目を剥いた。
「ば、馬鹿者!貴様痛覚が麻痺しておるのか!傷に砂利が埋ってるぞ!」
「まだ出血してんじゃねえか、どういう転び方したんだ!?」
 すりむいたなどというちょっとしたものではない。深々と砂利にえぐられて、血が滴っている。よくも今まで気がつかずにいたものだ。
「え?あ、左もだ…うわああ、た、畳に血がっ」
「ええい畳などどうでもよいわ!手水場へ来い、手当てだ!」
 慌てて立ち上がったルキアが、花太郎の手首をむんずと掴んで連れて行こうとする。
 引きずられるように立ち上がった花太郎の背中を見た瞬間、恋次の顎がかくんと落っこちた。
 あまり面積の広くない背中、その左の肩甲骨のあたり。黒地の死魄装に、白っぽい砂埃で、くっきりと大きな草履の跡が押印されていたのだ。
「おい、待て」
「何だ恋次」
 いらいらとルキアが振り返る。
「花太郎…その…ここへ来る途中に、十一番隊の奴に会ったろ」
 不思議そうな顔で恋次に向き直り、小首を傾げて花太郎は答えた。
「え、何でご存知なんですか?」
 不思議そうな花太郎の背後で、ルキアもやはり花太郎の背中を見て絶句している。
「いや…そんな気がしただけだ、早く行け」
「そ、そうだな、ともかく手当てだ、花太郎」
「はぁ…」
 釈然としない顔のまま、ルキアに背中を押される花太郎。
 ルキアは襖を閉める直前に、恋次と視線を交わし、二人同時にため息をついた。おそらく、二人は同じ推測にたどり着いているだろう。
 転んでから踏まれたか、もしくは蹴り倒されたのか。どちらにしろそんなことをしそうな連中といえば十一番隊の者としか思えない。花太郎は菓子ばかりかばって己の身にまで気が回らなかったに違いない。狼藉者が去って起き上がった後、自分で見える部分の砂埃を払って、背中の草履跡に気づかぬまま朽木邸へ向かう花太郎の姿までがありありと思い浮かんだ。
 十一番隊が他隊の、特に四番隊の者に絡むのは全然珍しいことではないが、中でも花太郎はよく絡まれているらしい。体格も小さく、常に気弱な笑顔を浮かべた頼りない風体の花太郎は、血の気の多い十一番隊の者にとってつけいりやすいに違いない。
「しかしこりゃあ、ちょっと一言言ってやらんといかんなぁ…」
 今は六番隊所属だが副隊長であり、元十一番隊所属でもある自分の言うことなら、少しは聞くだろう。いくらなんでもこれが日常茶飯事ではただのチンピラ同然、護廷十三隊として褒められたことではない。何よりも…。
 そこまで考えて、ふと恋次は苦笑いした。
 何よりも、花太郎が危なっかしくて見ていられない。
 ちょっと前までは、自分が花太郎をこんな風に気にかけるとは思っても見なかった。むしろ、ルキアが花太郎を妙に気にかけることが気に入らなかったのだ。
 そう、気に入らない。それがきっかけのはずだった。

 数日前。
「よう。山田花太郎いるか?」
 唐突に総合救護詰所女性休憩室に訪れた恋次に、四番隊女性隊士は一様に首をかしげた。
「山田七席ですかぁ?」
「いつもならもう来てる時間だよねぇ、どうしたんだろ」
 その返事に、恋次は眉間のしわを深くした。何しろ終業後、白哉の目を盗み、残りの仕事を全部放り出して総合救護詰所へ来て、花太郎を探し回っていたのである。まずその辺の四番隊士を捕まえて、十四班の今日の担当箇所を聞き出し、担当箇所で十四班班員を捕まえると、
「山田七席っすか?後片付け済ませてから居なくなりましたよ」
「今の時間なら休憩室に行ってお茶汲みしてるでしょ」
と言われ、男性休憩室に行くと、
「お茶汲みはお茶汲みでも、女性休憩室っすよ」
と言われ。散々歩き回った挙句に、辿り着いた女性休憩室で手がかりが途切れてしまったというわけだ。
 ムラムラと腹が立ってきた。
――何でオレはあいつを探し回ってるんだ!
 それは、朽木邸で静養しているルキアが、話の弾みでポツリと漏らした一言がきっかけだった。
 『花太郎が会いに来ない』。その言葉に、恋次は妙に腹が立った。一言で言えば子供じみた嫉妬心なのだが、一護の話題だったならまだましだったろう。一護のことになると、ルキアは問わず語りに聞かせてくれる。恋次自身も一護とは様々な形で接触したため、ルキアが信頼と好意を寄せるのも納得出来る。
 だが、ルキアは花太郎の事についてあまり語らない。恋次自身も花太郎を良く知らない。花太郎はルキアにとっても恋次にとっても恩人だから、好意を持って何の不思議もないのだが、ルキアが何故多くを語らないのか、語らないくせに何故見舞いに来ない事を気にかけるのかと、いやに色々気にかかる。
 そして何より、ルキアの見舞いに来ていないらしい花太郎に腹が立った。せっかくルキアが自分を取り戻しつつあるこの時に、あんな寂しそうな顔させる奴の存在が気に入らない。どちらかと言えば頭より体が先に動く性分の恋次は、せめて一言『ルキアに会いに行け』と言ってやるために、早速行動に出たと言うわけだ。突き詰めれば全て恋次の都合である。
 しかしその探し人が、いくら四番隊のとは言え七席だというのに、女性休憩室でお茶汲みするのが日課とは、しかもそれが隊員にとって日常風景らしいというのは一体どういう扱われようだ。
――…あの風体じゃ、無理もねえかもしれねえけどな…。
 非力そうな細腕、卑屈そうな上目遣い。恋次の持っている花太郎の印象とはその程度のものだった。
 恋次にとって花太郎の顔と名前が一致するようになったのは、白哉と戦って受けた傷を手当てしてもらった時だ。四番隊の七席について、何か評判が聞こえてきたこともない。高位席官にしては異様な程に影が薄いのだ。そしてここへ来て、恋次が花太郎の名前を出すたびに出てくる平隊員の言葉と言えば。
『今日も先輩に小突かれてたなあ』
『掃除押し付けられてたし』
『騙されて十一番隊の往診してたよね』
『何されてもあんまり怒らないもんな。へらへらしてて』
 それでは六番隊の新人隊士の中でもダントツに鈍臭い理吉と変わらないではないか。
 情けない。そんな奴の存在を妙に気にしている自分はもっと情けない気がする。かと言って、ここで諦めてすごすごと帰るのも癪だ。一つため息をついて、花太郎の行き先に心当たりがないか目の前の若手の隊士に尋ねようとした時だった。
 休憩室の奥で茶を啜りながら、やや年かさの隊士達が言う。
「今日は来ないのかしら、花ちゃんの淹れるお茶が一番おいしいのに」
「せっかく山田七席に似合いそうな髪飾り持ってきたんだよ〜」
「七席そういうの嫌がるじゃないの」
「そういう先輩だって一昨日七席に口紅塗ろうとしてたじゃないですか」
「きっとまた男どもに足止め喰らってんのよ!次にやったらとっちめるって言ったのに!」
 そんな先輩たちの様子を見やり、恋次の対応をしていた若手の隊士が苦い笑いをもらす。
「あはは…山田七席も律儀なんですよね、お願いされちゃうと断れない人だから…」
 ますます恋次は情けなくなってきた。
 この四番隊、隊長副隊長共に女性であるためか、救護専門と言う特徴のためか、女性隊士の割合が多く、他隊より女性隊士の立場が強いと聞く。花太郎はおそらく、ここで女性隊士達に愛玩動物のように扱われているのだろう。今の会話を聞いただけで、小柄な花太郎が女性隊士達にもてあそばれている様子が頭に浮かんで、恋次は苛立ちのあまり思わず眉間を押さえた。
 そういう、周りに流されて逆らえない者を見ると、速攻で蹴り倒して一から鍛えなおしてやりたくなる。
 流魂街の中でも治安の悪い地区で育った恋次には、生き延びるために周りの圧力に抗い続ける習性が身に染み付いていた。その反面、いや、だからこそ、ルキアが朽木家の養子になることが決まった時、権力の圧力に逆らってでもルキアの側にいたいという想いをつらぬくことが出来なかった悔恨も根深かった。
 そんな恋次には、花太郎の存在がいちいち癇に障る。恋次は一つ深呼吸して苛立ちを払った。
「ええと、すみません。とにかく今山田七席がどこにいるのかは…」
「いや、いい。就業後に邪魔して済まなかった」
 対応してくれた隊士に謝って、恋次は女性休憩室を出た。
――やっぱこれしかないか…。
 ばりばりと後頭部をかきむしると、意を決して印を組み、感覚を研ぎ澄ませ始めた。

「明日も曇りそうだなぁ…」
 そんな独り言が己の口から出たことすら、自覚がないだろう。そのくらい呆けた顔で、花太郎は夕日を見ていた。いや、見ていたという表現も正しいかどうか。外の景色を切り取った小さな窓の前で、木箱の上に正座している花太郎。顔は確かに窓を向いているし、先ほどの独り言からも、外の景色が目に映っていることは間違いない。しかし、声にも顔にも、曇った夕日についての花太郎自身の感想が浮かぶことは無かった。嬉しそうでもなく、悲しそうでもなく、楽しそうでもなく、悔しそうでもなかった。
 部屋の中は静かだった。花太郎が先ほど発した独り言を最後に、こそりとも物音がせず、動く物陰もない。穏やかに呼吸しているだけの花太郎も、その部屋の静物の一つであるかのようだ。あえてこの部屋の時間が経過していることを表すものがあるとすれば、傾いた夕日を横切っていく雲の曖昧な色、弱い夕日に照らされてゆるやかに舞い落ちる埃。
 平穏な眺めだった。
「おい、山田花太郎」
と恋次の声がするまでは。
「うわぁ!?」
 突如背後から名前を呼ばれて、驚いた花太郎は木箱からころりと転げ落ちた。
「あいたたた…あ、すいません、すいません、仕事もせずこんなところで、あのぼく…」
 慌てて恋次の方を向いてぺこぺこと土下座を繰り返す花太郎。
「…就業時間過ぎまで仕事してたことはちゃんと聞いてるよ。大体他隊の奴の職務怠慢を咎めて回るほど暇でも陰険でもねえぞ、オレは」
「あ、阿散井副隊長…どうしてここへ…」
 自分に声をかけたのが恋次であることに気がついて、花太郎は不思議そうに見上げた。
「四番隊の連中にオメーの居場所を聞いても知らねえって言うから、霊圧で探したんだよ」
 正直、一護ほどではないが恋次も霊圧を感知するのは苦手だ。数えるほどしか会った事がない上、花太郎の霊圧は強い方ではないし、特徴も捕えにくい。歩いて探した方が余程早く見つかるだろうと思ったので、最後の手段にしていたのだ。
「しっかしまさか、霊圧潜めてこんなところにいやがるとはな。おかげで見つけるまでえらい手間喰っちまった」
 恋次は不機嫌に言いながら、小さな部屋の中を見回す。
「あ、あはは…それはお手数をおかけしました…」
 花太郎が居た場所は、総合救護詰所の非常階段の下にある、小さな物置部屋だった。埃を被った木箱がところ狭しと押し込まれている。壁にかかっている収納物の一覧からして、それらの木箱には古い書類・書籍や予備の寝具を収めてあるようだ。就業からそれほど時間がたっていないはずなのに、部屋の周辺の廊下や階段には人の気配が少ない。
 そんな場所でなおかつ、花太郎はひっそりと気配を消してそこにいた。
 実は恋次はここにたどり着いてから、花太郎がこんなところで何をしているのかと思い、わずかに戸を開けてしばらく様子を伺っていたのだ。しかしいつまでたっても花太郎は何をするでもなく呆けているので、痺れを切らして声をかけたというわけだ。
「こんなとこで何してやがったんだ?」
「え、ええとその…残業にかかる前に、休憩をと…」
 床の上で正座したまま、恐縮したように答える花太郎。
「ちゃんと休憩室があるだろ。いつもはちゃんとそっちに行って『お茶汲み』してるらしいじゃねえか」
 わざと『お茶汲み』を強調して言うことで、ぼかした行き先が『男性休憩室』ではなく実は『女性休憩室』であることを揶揄したつもりだった。
 しかし、花太郎の反応は、恋次の意図をまったく無視したものだった。
「あ!」
 ぽかっと口をあけて、ぽんと手を打ったのである。
「しまった…女性休憩室に『今日は行けない』って言ってから来ようと思ってたのに忘れてました。後でちゃんと謝っておかないと…」
 恋次は思わず大きく体勢を崩した。
 何事かと思えば、自分を扱き使っている者への心配である。しかも行き先が女性休憩室であることをあっさりと自分で口にしている。
「お、おまえ、それは気にするところが違うだろ!」
 目を吊り上げて怒鳴る恋次に、花太郎がオタオタと身を引く。
「え?えっと、だってぼくが無断で行かなかったりすると、先輩達がとばっちりを受けたりするんですよ。マズいじゃないですか」
「はあ?なんでお前が行かなくて…ってああ、あれか」
 女性休憩所で聞いた台詞が恋次の頭を過ぎる。
『きっとまた男どもに足止め喰らってんのよ!次にやったらとっちめるって言ったのに!』
 合点は行った。しかし、会話は噛み合わない。まったく噛み合っていない。
「そんなことよりあれだ、おまえ七席のクセして女性休憩室でお茶汲みなんかしてんじゃねえよ!いいように使われて恥ずかしくねえのか!?」
「え、ええと、でも…」
 勢いを取り戻し、今にも胸倉を掴みあげかねない恋次に、身を竦めながらも花太郎は言った。
「ぼく…人に喜んでもらえる特技ってあんまりないから、嬉しいんです。おいしいって言ってもらうの…」
 少し照れを含んだ笑顔が、恋次の勢いをぽきりと挫く。
「そ…そうか」
 何か、あっさりと自分の憤りを崩された事に、恋次は戸惑いつつも身を引いた。
 そんな恋次に呼応するように、花太郎の表情が落ち着きを取り戻し、困ったような色が消えていく。
「いつもなら、楽しんでお給仕してるんですけど、今日は…ちょっと一人で考えたいことがあって。そういう時はいつも、ここへ…」
 穏やかな声は、のんびりとした調子で語った。
「ああ…考え事の邪魔しちまったか…そりゃ、悪かったな」
「え、いえそんな!阿散井副隊長は何も…」
「まあ、あれだ。いつまでも床に座ってっと冷えるぞ」
 慌てて恐縮しようとした花太郎を遮って、恋次は手近な木箱に腰をかけて、花太郎が動くのを待った。恋次が先に腰掛けないと、花太郎はいつまでも床の上に居座りそうな気がしたのである。現に花太郎は、小窓を向いて座った恋次の様子をしばし眺めてから、ようやく腰を上げて木箱に乗り、小窓の方を向きなおして正座した。
 そしてふと思い出したように、花太郎は鞄から竹筒を一つ出して、恋次に差し出した。
「いかがですか?冷たい薬草茶です。疲れが取れますよ」
「薬草茶?」
 突如差し出された飲み物に、恋次は戸惑った。薬草茶と言うと、薬臭い印象があって少し苦手だった。
 花太郎が遠慮がちに付け足す。
「お嫌いですか…?…ええと、お声が少し嗄れていたので、喉が渇いてらっしゃるんじゃないかと思ったんですけど」
 言われてみれば、花太郎を探し回って総合救護詰所内をいらいらしながら歩き回ったせいか、のどがひどく渇いていた。気がつくとその渇きが急激に息苦しいものになってくる。
「あ〜…その、ありがたくもらうわ」
 受け取って栓を抜き、一口含む。
 ごくりと飲み下して、すぐにまた竹筒に口をつけた。今度はごくごくと一気に数口飲み下す。冷たさが、喉に染みた。薬というより、甘みを帯びた爽やかな香りがする。軽いほろ苦さが心地よかった。
「くは〜、旨ぇ!」
 恋次は、竹筒をぐいと花太郎に差し出した。
 花太郎が、差し出された竹筒にきょとんとする。
 その表情に気がついて、恋次は『しまった』と思った。つい一角達と徳利の酒を回し飲みする時のクセが出てしまったのだ。しかし、回し飲みなんて気の置けない相手としかしないものだし、花太郎なぞ誰が相手でも回し飲みをした経験など無さそうだ。恋次が気まずい推測にたどり着いて、引っ込みのつかない手をどうしたものかと思った時だった。
「どうも…」
 呟いて、花太郎が竹筒を受け取った。そして小さく一口含み、恋次に笑いかけた。
「お口に合ったようで、何よりです」
「お、おう」
 恋次はほっとして、ごまかすように茶化す言葉を付け足した。
「これで酒だったらなおいいんだがなあ」
「あはは、流石に救護詰所でお酒はちょっと…すいません」
 すまなそうに謝ってはいるものの、恋次の冗談であることは一応伝わっているようだった。
 花太郎はもう一口薬草茶を含み、味わいながら小窓へ顔を向けた。
 恋次も小窓の方を向いてはいたが、横目で花太郎の顔を眺めていた。
 いつのまにか花太郎のペースに釣り込まれて、くつろいでいる自分が不思議だった。さっきまで最高に苛立っていたはずなのに。
 木箱の上の花太郎はきちんと正座しているのに、正座特有の緊張感を感じない。だらしなくない程度の猫背と、生来のなで肩のせいだろうか。小柄で華奢な身体は、そんな姿勢だとなおさらちんまりと感じる。
 肩幅や胸の厚みのない貧相な身体。彼の本来の性別を主張するものと言えば、手首や首筋の皮下脂肪は薄さと、その下に透けて見えるかすかに筋張った肉付きだけだ。頬の輪郭を隠す程度の長さの髪は艶が無く、日々櫛を通す位の手入れしかしていなさそうだ。細く量の多い髪は、触れれば柔らかそに見えた。女共がいじりたくなる気持ちも少し分かる。幼い顔だ。どう見積もっても、男らしいとは言えない。柔らかそうな頬、細い顎、すっと通った小さな鼻、小さな唇。目は大きい。しかし、目を縁取るまつげは髪と同じで細く存在感が薄く、瞳は小さく、まぶたはやや眠たげに腫れぼったい。そして、決定的に緊張感を殺ぐ下がり眉。さっき花太郎に紅を塗るだの髪飾りをつけるだのと言う話をしていたが、この顔に化粧をさせて美人に化けるとも思えない。愛嬌のある顔であることは認めるが、造作なら六番隊の理吉の方がまだ可愛らしいと恋次は思った。
 どうしても、貧相なガキ、という印象しか受けない外見だ。
 たが、花太郎がそれだけの者ではないということを、恋次はぼんやりと感じ始めていた。
「ところで」
 くるりと花太郎が振り返って竹筒を差し出したので、恋次はぎくりとした。
「ぼくを探しておいでになられたんですよね。あの何のご用で?」
「あ、あ〜…」
 自分でも忘れかけていたことを指摘され、恋次は逡巡した。ここへ来たきっかけははっきりしている。
 なのに、竹筒を受け取りつつとっさに口をついて出たのは、まったく別の話題だった。
「…本当は、五席昇進の話があったんだって?」
 そこで初めて恋次は自覚した。ルキアの口から花太郎の話題が出る前から、恋次は花太郎のことが引っかかっていたのだ。
 花太郎も、恋次がそれを知っていた事に驚いたようだ。ただでさえ大きな目をさらに見開いて、恋次を見つめている。
「…勇音から聞いた。旅禍の幇助の一件で、取り消しになったって」
 それを聞いて、花太郎も得心が行ったようだ。
「それ、ルキアさんには内緒にしておいてくださいね」
「…ああ」
 花太郎の言葉の意図は痛いほど分かる。ルキアがこれを知れば、激しい自責の念に駆られるだろう。
「だが、オレには納得行かねえよ。事の成り行きが全部公表された訳じゃねえが、一護達の行動は結果的に尸魂界を救う事になったってことくらいは皆知ってる。反逆者達の今後の動きに備えて、今は一人の人材も無駄に出来ないってことで、オレも雛森も、イヅルでさえ、今回の騒動で問題を起こした奴は実質お咎めなしになってるはずだ。何でオメーだけ…」
「いえ、実質お咎めなしと一緒ですよ。大体その昇進は辞退させて下さいと、始めから卯ノ花隊長にお願いしていたんです」
 その言葉に、恋次は驚愕した。
「何でだよ!?二階級特進だぜ!?」
「ぼく自身が、五席を名乗ることに納得できないからです」
 穏やかに、しかしきっぱりと花太郎は言った。
 その後で、困ったように笑い、語調を和らげて続ける。
「大体、五席になっても第十四上級救護班班長のままの予定でしたので、職務内容は変わりませんし…卯ノ花隊長は、そういうことに厳しい方なので。けじめとして、降格もありうるかなと思ってました。だから驚いてるくらいですよ」
「だが、厳しすぎるんじゃねえのか?」
「いいえ…ぼくが一護さん達に協力した時点では、その行動は間違いなく尸魂界の掟に背くものでした。本当ならぼくは、懺罪宮で朽木隊長に斬り捨てられて死んでいるはずだったんです」
 自分の死を語るにはあまりにものどかな口調だった。
 恋次がほんの少し声を張り上げただけで身を竦めていた姿とは、結びつかない。しっくりこない。引っかかる。
「…朽木隊長から、聞いたよ。ルキアを逃がすために、単身で立ち向かったって」
「…実際には、岩鷲さんがぼくの代わりに斬られてしまって…」
「だからそうじゃなくて!」
 花太郎が悲しげに眉を寄せてうつむいた瞬間、思わず恋次は声を荒げた。
 ぎょっと身を竦める花太郎を見て、恋次は苛立ちをため息で押し出した。
――落ち着け。こいつはそういうやつなんだ、オレの話したいことなんか分かっちゃいないんだ。
 そう、恋次は、花太郎がいかに情けないやつかなんて話をしたくてここへ来た訳ではないのだ。
 花太郎に向き直り、恋次は改めて言った。
「おまえ。何で、そこまで分かってて、一護に手を貸したりしたんだ?」
 だが、その質問に花太郎は、しばしぽかんとした後、呆然とした声を出した。
「…いろんな人に同じことを質問されましたけど、阿散井副隊長にそれを訊かれるとは思いませんでした」
「あ?」
――何でオレが訊いたらおかしいんだ?
 首を傾げた恋次に対し、花太郎はもっと不思議そうに首を傾げた。
「だって、阿散井副隊長だってルキアさんのために、朽木隊長に刃を向けたでしょう?」
 言われて初めて、恋次は自分のことを棚にあげてものを言っていた自分に気がついた。
「そ、そりゃ…オレは、ルキアとの付き合いも長いしな…」
 気恥ずかしさにごもごもと答える恋次に、花太郎はただ嬉しそうな笑顔を向けた。
「じゃあ、ぼくよりずっと、ご存知でしたよね」
「何を?」
「ルキアさんが、処刑されるべきじゃないってこと」
 当然だった。ルキアが不当に誰かを傷つけたり裏切ったり出来るわけは無い。ルキアが一言も自分を弁護しようとしなかったとしても、処刑されるべき罪なんか犯していない。証拠などいらない。ルキアの処刑を受け入れるわけには行かなかった。
「…おまえも、そう思ったから、一護に手を貸したってのか?」
「はい」
「それを知るには、お前とルキアの付き合いはあまりにも短かったんじゃねえのか?せいぜい十日ちょっとだったはずだろ」
 花太郎が、一度ゆっくり瞬いた。いや、目を伏せて、恋次を見つめなおした。
「でも、充分だったんです」
 簡潔な言葉だった。
 一つため息をついて、花太郎が続ける。
「実際には、一護さんに手を貸すにはいくつも偶然が重なったからでした。そうでなければぼくは、ルキアさんが処刑されるのを指をくわえて見ているだけだった…でも、こうしてルキアさんを助けるのに少しでも手を貸すことが出来て、嬉しかった…」
 花太郎は、噛み締めるように口を閉じ、夕焼けを見つめた。
 いつもは気弱な横顔に、少しだけ誇らしげな笑みが浮かんでいた。
「そうか…」
 恋次は、薬草茶を一口飲み下した。冷たい感触と共に、色々が腑に落ちていく。
――オレに理解出来なかったわけだ。
 一護に出逢って、気付いたことがある。心の中に、いつも横目で成功するか、しないかを図っている自分がいるということだ。そんな自分が肥大化しすぎて身動き取れなくなっていたこともあった。だが、自分の中のそんな面を全否定する必要も感じてはいない。信念だけで世を渡っていけるとは思っていない。力が無くては何も叶わない。そんな恋次にとって、花太郎は対極の存在だ。
 自分が納得できなければ昇進を受け入れることも出来ないような小心者。保身すら忘れるほど不器用で、朴訥で素直で馬鹿正直。
 だがそれ故、潔い。
「ほれ」
「あ、どうも」
 花太郎が竹筒を受け取った。
――うらやましいが、こいつのようになりてえとも思えねえな。
 まっすぐさが普段、裏目裏目に出てばかりいる花太郎を見ていると、そう思う。
「そういえばお話って、…何でしたっけ」
 竹筒に口をつけようとしてから、ふと思い出したようにそんなことを言う花太郎に、恋次は笑うしかなかった。
「いや、ルキアがな。お前がどうしてるか気にしてたからよ。たまに見舞いにでも行け」
「えっ…あ…そ、そうだったんですか…す、すみません…で、でもぼくなんかが朽木隊長宅へ行ったら…」
 …見舞いに行かない理由も解った。解決は簡単だ。
「いいから行け。上官命令だ」
「え、ええ!?」
 これが出来るから、地位と言うのも無駄なものではない。
「大丈夫だよ。誰も取って食いやしねえ」
「は、はあ…解りました…」
 よっ、と声をかけて、恋次は木箱から立ち上がった。
「用はそれだけだよ」
「あ、わ、わざわざすみませんでした、阿散井副隊長!」
 花太郎はあわてて立ち上がり、倉庫から出て行こうとする恋次に向かって、頭を下げた。
 そんな花太郎に、恋次は一度立ち止まって振り返った。
「恋次でいい」
 一瞬きょとんとした後、花太郎ははにかむように笑った。
 初対面のとき、ルキアに「様はつけるな」と言われたことを思い出したのだろう。
「はい。ええと…恋次さん」
「おう。休憩の邪魔して悪かった」
「邪魔なんて、そんなこと、ありません。近いうち、必ずルキアさんのお見舞いに行きますから」
「ああ、そうしてくれ」
 埃くさい倉庫から見た、ぱっとしない空模様の夕日も、それはそれで悪くないと恋次はふと思った。

「全く、あいつは…」
 花太郎を手水場へ連れて行ったルキアが、ぶつぶつつぶやきながら部屋へ戻ってきた。
「花太郎の奴は?」
「手当ては自分で出来る、薬も持っているからと言い張ってな。追い返された」
「で、戻ってきたのか」
「…ああ。あれで言い出したら聞かないところがあるからな」
 半眼でルキアが言う。
 四番隊には敵わないかもしれないが、ルキアだって治癒術の心得くらいある。怪我人を一人放り出してほいほい戻ってくるような薄情者でもないから、ルキアが身を引くまでそれなりの押し問答があっただろう。
「何がおかしい」
 ルキアが青筋立てて恋次を睨んだ。
 想像しているうちにおかしくなってきて、恋次が笑い出したからだ。
「いや、見目に似合わず手ごわい奴だよな、あいつは」
「本当だ。普段は気弱で鈍くさいくせに、いざとなると妙に胆が座ってるから厄介だ」
 ふう、と苛立ちを込めたため息をついた後、ルキアの表情が緩んだ。
「だが、だからこそ私は救われて、今ここにいる」
「そうか」
「だが、花太郎にはどう礼を言っていいかわからん」
「普通に言えばいいだろう?」
「そうなんだが…花太郎には…処刑から救われただけではない恩がある。それをどう伝えればいいのか、分からない」
「…初耳だな」
「おまえが花太郎の話題には食いつきが悪かったからだ」
 ずばりとルキアに言われて、恋次は少しバツが悪かった。
「そ、それはその時虫の居所がだな…だ、だからその恩って何だ」
 ごまかそうと話を促すと、ルキアもそれ以上追求する気はなかったらしく、話を続ける。
「隊舎牢でな。掃除に来た花太郎に『様はつけるな』と言ってしまった。自分の後悔にばかり捕われていたその時の私には、言わずにおれなかった」
 貴族の中でも名門中の名門である朽木家の者を、瀞霊廷に住む者達は皆畏れている。その畏れを曲げて接しろなどと言われても困惑するばかりだ。同僚の態度でそれを嫌というほど知っていたルキアは、しぶしぶ諦めて『貴族扱い』を受け入れていたのだった。
 しかし、一護の運命を捻じ曲げた自責の念は、その諦めすら揺るがしていた。
「けれど、花太郎はそれを聞いて少し…嬉しそうに肩の力を抜いてくれた。他の隊員は皆、黙々と仕事だけして去っていくのに、花太郎は掃除しながら、今日は雨が降りそうだとか、薬草摘みの仕事でモグラが出たとか、他愛も無い話をして行くので、つい私もおしゃべりになった」
 恋次も、その辺りのことは少し一護から聞いていた。ルキアが、現世や一護のことを語り聴かせていたと。
「花太郎が、どんな気持ちで聞いていたのかよく分からないが、静かに相槌を打ってくれていたことは覚えている。私を責めもしないし、自分を責めるなとも言わなかった。おかげで、私は落ち着きを保っていられた」
 その時の花太郎の心境は、恋次にも想像がつかない。大人しく聞き役に徹することなど、恋次には出来ない。
 けれど、その時のルキアに必要だったのはひたすら聴いてくれることだったのだ。
「随分甘えて、懺悔ばかり聴かせてしまった…謝らねばならないのかもしれん…」
「…謝るとこでも、礼言うとこでも、ねえな。そりゃあ」
 いつかも聞いたような台詞で口を挟まれて、ルキアが目を見開いた。
 恋次には、大人しく聞き役に徹することなど絶対に出来ないから、言葉を続けた。
「正直、あいつが何考えてんのかは俺にも解らねえけどよ。そんなことでぐだぐだ落ち込んでる方が罰当たりなんじゃねえのか?」
「そ、そういうものか?」
「多分な。それよりあれだ。せっかくの大福だし、茶用意しようぜ」
「あ、ああ。さっき戻る時に…」
「花太郎です。今戻りました」
 ルキアの言葉が今度は花太郎の声によって遮られた。
 声の後に、またもふすまが作法どおりに開かれる。今度は、湯気のたつ鉄瓶の載った盆を部屋に入れ、続いて自分が入ってふすまを閉める。さっきはがちがちだったが、今のを見ると板についていた。どこで躾けられたのか知らないが、身に染み付いているらしい。
「水屋で沸かしてらっしゃったので、受け取ってきました。ルキアさんが頼んだんですよね?これ」
「あ、ああ、そうだ。茶を淹れようと思ってな。怪我の方は?」
「ちゃんと止血しましたから、大丈夫です。お茶道具、お借りしますね。今淹れます」
 小物箪笥においてある常備の茶道具入れを取ろうとする花太郎に、ルキアが慌てる。
「ああ、いや、待て待て私が淹れるから。お前一応客なんだぞ」
 言われて花太郎が始めて気が付いたように縮こまった。
「あ、ああ、す、すいません出過ぎた真似を…」
「い、いや、そういうことではなくてだな…」
「花太郎、かまわんからお前が淹れろ」
 ややこしいことになりそうなのを察して、恋次がさっさと口を出した。
「しかし恋次」
「こいつ、茶淹れるの得意なんだろ?」
「ああ、何度か淹れてもらったことがあるがとても…」
「俺も飲んでみたいんだよ。な。いいよな、花太郎」
「は、はい!」
「な、え、おい、恋次…」
 恋次は、勝手に花太郎と話をつけてしまうことで、ルキアを押し切った。『飲んでみたい』なんて半ば方便だ。埃臭い倉庫で飲んだ薬草茶は、花太郎が淹れたものに違いない。くだらない押し問答で時間を食うのはご免だった。ルキアは『ここは誰の家だと…』と言いたげな顔だったが、横目でちらりと恋次を見遣ると、諦めたようにため息をついた。自分が口を出せば、花太郎が恐縮してしまうということは分かったらしい。
 しかしそんな表情も、花太郎が茶を淹れる様子を見ているうちに緩んでいった。
「わあ、ほうじ茶にはもったいないくらいいいお茶っ葉ですね…」
 棗を開けて呟きながら、花太郎は人数分の茶器を取り出した。湯飲みに熱い湯を注いで暖める。急須に茶葉を淹れ、やや勢いをつけて湯を注ぎ、ふたをする。湯飲みの湯を捨て、急須の温度を確かめると、そっと持ち上げて円を描くように揺らす。
 その仕草一つ一つが滑らかで迷いが無く、のんびりとしていた。
 普段落ち着き無くぶつかったり転んだりしている者の動きとは思えない。そんな花太郎でさえ身に染み付いてしまうほどお茶汲みをしてきたせいなのかと考えれば情けない話だが、花太郎自身は実に楽しそうに口元に笑みを浮かべていた。のんびりとしたこの作業は、性にあっているのかもしれない。
 茶が出るまでの間に、ルキアが取り箸で菓子皿に大福を取分ける。さすがにこれくらいは自分がやらなくては気が済まないようだ。
 きっちり等分に注ぎ分けられた湯飲みの上に、一滴ずつ注ぎ切りを入れて、花太郎は茶を配った。
「熱いので、お気をつけて…」
 高めの温度で淹れたお茶から立つ湯気が香ばしい。
「ほれ見ろ、お前が淹れた時よりよっぽどいい匂いじゃねえか」
「馬鹿モン!花太郎の腕はお前より私の方が熟知しておるわ!」
 軽口を叩きあいながらも、茶を含むとルキアと恋次は口をそろえて一言、
「うまい」
と言った。
「ありがとうございます」
 花太郎は、嬉しそうだった。
「久々に花太郎の淹れる茶を飲んだが…なんだかほっとするな」
「いやあ…隊舎牢のものとは全然お茶っ葉が違いますし」
「でもお前が淹れた茶が一番美味かった」
「…こんなことしか出来ませんけど…それで喜んでもらえて、嬉しいです」
 言葉どおりの様子の花太郎に、ルキアは目を細めた。
「そうか…ありがとう、本当に…」
「そんな、大げさな」
 花太郎は、たかが茶を汲んだごときでこんな風に礼を言われるのは、照れ臭いようだ。
 ルキアが恋次に向かって少し苦笑して見せた。己が難しく考えすぎていたことが分かったのだろう。
 多分、ルキアが何について礼を言っても、花太郎はこんな調子に違いない。自分で出来たことなど小さい、ただ出来ることを、したいことをしただけだと言うに違いないのだ。
「言いたいから、言ってるんだ。ありがとう」
 そう言って、気がすんだようにすっきりとした顔で、ルキアは茶を含んだ。
「花太郎、おかわりくれよ」
 一方恋次は既に二つ目の大福にかぶりついていた。小ぶりの大福が、一口で半分ほど口中へ消える。
「お前は本当に少し遠慮を覚えろ!!」
「あはは。今お淹れしますから」
 三人は、しばらく和やかに茶と大福と雑談を楽しんだのだった。

「え、もう帰るのか?非番なのだろう?」
「ええ。今日は朽木隊長もご在宅なんでしょう?」
「ああ、何故知っているんだ?」
「あ〜、その〜、実は門の前で立ち竦んでしまって、入ろうかどうしようか迷っていたら、朽木隊長がぼくの霊圧に気が付いたらしくて、おうちの方が招き入れてくださったんですよ」
 ルキアと恋次は顔を見合わせる。なんと白哉らしい、遠まわしな気遣いだろう。
 花太郎はルキアと恋次の心境には気付かないまま話を続ける。
「折角招き入れていただきはしたのですが、あまり長居するのも叱られそうですし、今日はこれから用事もあるんです」
 苦笑する花太郎は、思ったより長居してしまったと思っているようだ。
「兄様はそんな心の狭い方ではないが…まあ用事があるというなら仕方ないな…」
 ルキアは名残惜しげだ。
「すみません」
「いや、次は土産なんぞいらんから、気軽に来てくれ。お前が来てくれることが一番の土産だ」
「こいつ寂しがり屋だからな。話し相手は大歓迎なんだぞ」
「誰が寂しがり屋だ!話し相手を歓迎するのは認めるが、恋次は入り浸りすぎだ!」
「あはは、ちょっと勇気要りますけど、お言葉に甘えて、また来ます。ルキアさん、恋次さん、失礼しますね」
 大仰な構えの門を見て、花太郎は改めて気後れした表情を見せたが、それでも意を決したようにぺこりと頭を下げ、くるりと踵を返した。
「「あ」」
 その瞬間ルキアと恋次の口からそろってこぼれた声は、花太郎には届かなかったようだ。
 とことこと去っていく小さな背中には、草履の跡がくっきりと残ったままだった。
「…言いそびれたな…」
「…ど、どこかで誰かが指摘してくれるだろう…」
 花太郎の場合日常茶飯事のことだろうから、これが原因で何か致命的な事件など起こらない…はずだと二人は思うことにした。

「え?白哉から緊急の書簡?」
 十三番隊隊長である浮竹は、恋次の持ってきた書簡を受け取って目を丸くした。
「はい。すぐ浮竹隊長に届けてくれと朽木隊長から預かりまして」
 届けたのは恋次だった。花太郎を見届けた後、ルキアの部屋へ戻ろうとしたら白哉に呼びつけられたのである。
「ふうん。随分、分厚い書簡だな」
 浮竹が、首を傾げながら封を解く。
 恋次は、内容次第では返事を受け取って戻らなければならないかも知れないので、浮竹の前で待っている。
 畳んだ時の厚さ相応に長い長い書簡用紙だったが、浮竹はすぐに顔を上げた。
 その顔が、実に可笑しそうに歪んでいる。
「君、もしかしてさっきまでルキアの見舞いに行っていたのかい?」
 笑いをこらえているらしい浮竹の様子に、恋次は首をかしげた。
「あ、はい。それでたまたま朽木隊長の家にいたんすけど…」
「余程長居したと見えるね」
 人の良い浮竹が、ちょっと意地悪な笑顔を浮かべて、書簡を恋次に見せた。
 長い長い書簡用紙は、ほとんど白紙で、右端にたった三行しか書かれていなかった。
『拝啓、浮竹隊長。』
『質の良い書簡用紙を手に入れたので、僅かながら差し上げる。』
『ご随意に使われたし。朽木白哉、拝』
 簡潔、かつ、達筆であった。
 しかしどう見ても緊急を要する内容ではない。
「あはははは、こりゃあ確かに、実にいい紙だなあ。恋文にでも使おうか」
 白紙部分を光に透かしながら笑う浮竹とは対照的に、恋次は呆然としたままである。
「こりゃあ、…一体」
 ようやく出たその一言に、浮竹はさらりと答えた。
「君、体よく追い帰されたんだよ。白哉の過保護もここまでくると病気だな〜」
「はあ!?」
 思い返せば、呼びつけられたのは花太郎が帰った直後。花太郎を屋敷に入れたのも、白哉の差し金だった。もしかして、全ては恋次とルキアが二人きりでいるのを嫌ってのことか。ずきずきと頭が痛んでくる。確かに自分は馬の骨だが、ルキアを守ろうとするその心意気にも実に共感するものがあるが、それにしてもこの手段はあまりにも子供じみてはいないか。
「いやあ、妹につく『悪い虫』に分類されてるってだけでもある意味ましな方だと思うよ」
 浮竹が言った。
「その理屈で行ったら、山田花太郎君なんか、悪い虫とすら思われてないようだからね」
 的を射ているのかもしれない。しかし、『悪い虫』に分類されて白哉に邪魔されている自分と、眼中になくてもちゃっかりルキアの側を確保出来ている花太郎と、要領がいいのはどっちだろう。
『あまり長居するのも叱られそうですし…』
 席を立った時の花太郎の言葉が、無性に癇に障った。あの鈍臭いのに後れをとったような気分になって無性に腹が立ってくる。これが八つ当たりだという、自覚はある、自覚はあるのだが…。
――次はあの草履の跡、俺がつけてやる!
 隊長が隊長なら、副隊長も副隊長の六番隊である。

 ひゅ。
 風を切る、というほどの鋭さは無いが、切っ先が音を立てる。ぶれの無い動きが出来ている場合しか聞けない音だ。
 切り込み、受け、続いて流し、払って、突く。
 振りの角度、柄の押さえ方、斬るための刀の進め方。正確な型の演舞だった。正しい型をしっかり観察し、それを正しく真似ようと努力する、真面目な姿勢が一目で分かる。型どおりといえば聞こえは悪いが、その型どおりをこなせない者がなんと多いことか。刀の正確な扱いを覚えているということは、確実に実戦力の底上げをするというのに。
 が、花太郎の場合、大元の実戦力が心もとない。
 速さも、重量感も足りない自分の刀の動きを確認して、花太郎はため息を一つつく。それに彼は、何より自分に足りないものを知っている。
 改めて刀を大上段に構え、何も無い目の前の空間をじっと見つめた。
 そのまま、自分なりの気合を込めて、ぐっと柄を握り締める。
 じり。踏みしめた草履が、音を立てる。精一杯、空中を睨み続ける。
 しかし、その刀が振り下ろされることは無かった。
 やがて、詰めていた息を吐いて、花太郎はずるずると座り込んだ。
「山田七席」
「わああっ、はいぃ!?」
 緊張を緩めたところへかけられた声に、花太郎は刀を取り落とし、反射的に声の方向に向かって土下座を始めていた。
「すいませんすいませんこんな場所を私用で使ってあのその…」
「落ち着きなさい、山田七席。咎めに来たわけではありませんよ」
「は、あ、う、卯の花隊長…どうしてこんなところへ…」
「それはこちらの台詞です。貴方が珍しく闘気を練っていると思ったら…」
 恋次としたようなやり取りが繰り広げられた後、花太郎はまたも正座のまま卯の花を見上げた。
 卯の花が周りを見回している。石材で打ちっぱなしの冷たい壁、寒々しく高い天井と、流れる水音、薄暗い灯りだけの部屋。地下水路の中にある、小さな作業所の一つだった。修練をするなら四番隊舎にもちゃんと修練場があるというのに。
「あ、あはは、そのう…」
 花太郎は口ごもる。救助・補給専門の四番隊とは言え、副隊長の勇音をはじめ、武闘派の隊員も勿論いて、あまり広くない四番隊の修練場は実質的に彼らが独占している。その中に割り込む勇気は花太郎には無かった。それに、ここには思い出がある。
「ここを通って、旅禍達を案内したのですね」
「すっすみま…」
「済んだことですよ」
 卯の花はやわらかく花太郎を遮り、花太郎の向かいに膝をついた。
「あ…お召し物が汚れます…」
 慌てる花太郎を、卯の花はその笑顔だけで圧し返した。
「汚れを気にしていたら、そもそもここへは来れませんよ。ここも四番隊の領域ですしね」
 卯の花が目の前に正座したものだから、花太郎も慌てて身の周りを正した。抜き身で落としていた刀を鞘に納めて脇に置き、正座しなおして卯の花と向かい合う。生来の猫背を力いっぱい引き伸ばした。直属の上司であり、護廷十三隊の中でも三本の指に入る重鎮を相手に、否、そんな肩書きよりむしろ真綿のような言動に包まれた、猛毒の牙のような威圧感を前に、小心の花太郎がくつろいだり平静を保ったり出来るわけが無かった。こうして向き合って、背筋を伸ばしているのが精一杯である。
 そんな花太郎の様子に、卯の花は苦笑した。
「ふふ…少し気を緩めなさい、花太郎」
「は…はい」
 言われて、ようやく花太郎がほんの少しだけ猫背に戻る。
「貴方が戦いの修練に励むなんて、珍しいことですね?」
「…はい」
 実際、珍しいどころか皆無に近かった。今まで振るっていた刀、銘を「瓢丸」というが、これは斬った相手の傷を治してしまう刀だ。攻撃できない事もないが使い勝手は悪い。鬼道も、まともに使えるのは回復だけ、なるべくして四番隊に所属している身だ。だから、時間さえあれば薬を作るか、治癒能力の修練に明け暮れてきた。それは卯の花も良く知っていることだ。
 しかし。
「…あんまりにも自分の無力さが、情けなくなったんです」
「それは、旅禍達と行動を共にしたからですか?」
 やんわりとした指摘だったが、花太郎が恐怖に凍りつくには充分だった。
「…すみません」
 しかし、卯の花は、
「咎めに来たわけではないと言いました」
と、静かに話の先を促した。
 その声を聞いて、花太郎は改めて卯の花の表情を伺った。相手の是非を問いかけていても柔和な態度を崩さない卯の花だが、容赦は一欠けらもしない。相手を咎めるつもりかどうかは、鈍い花太郎でさえ肌で分かる。今の卯の花にはそんな時の冷えた気配が無かった。
 怒ると怖いが、卯の花は部下に目の届く上司でもある。四番隊員全員の顔と名前までならまだし、得手不得手も把握しているし、仕事に悪影響の出そうな不調をきたしている隊員にいち早く声をかけている様子もしばしば見かける。わざわざ地上まで霊圧が届きにくい地下水路にいた花太郎の様子に気が付いたのも、常に部下の霊圧に気を配っているためだろう。そこまで行き届いているところがまた怖いのだが、だからこそ花太郎も含め四番隊員は皆、彼女を恐れつつも慕っている。今も花太郎の様子がおかしいことを気遣って、話を聞くために来てくれたのだ。その気持ちを無碍にする事こそ無礼だろう。
 花太郎は深呼吸して、頭の中を整理しつつ、ぼそぼそと話し出した。
「その…あの時、ぼくが出来たのは、誰かの傷を治して、また戦いの場に送り込む…それだけでした。盾となって誰かを守ることすら出来なかった」
 下唇をかみ締める。
「近く、避けられない戦いが起こります」
 尸魂界から離反し、虚圏へ行った者達は、いつ戦いを仕掛けてきてもおかしくない状況なのだ。
「その時、今のぼくのままではいけないんじゃないかって。でも…」
 ぎゅっと、膝の上のこぶしを力いっぱい握り締めて、花太郎は自分の刀を見た。
 型どおりに刀を振ることは出来る。なのに、出来ないことがある。
「もし目の前に誰かがいて、その誰かに向かって刀を振り下ろさなくてはならないと思うと、…動けないんです」
 手に持っているのが、攻撃力など無いに等しい瓢丸だと分かっていても、目の前にいるのが仮想の敵でしかないとしても。
「この手で誰かを斃す…いえ、本当は、誰かを戦いの場に送り込んで誰かが斃れるのも、それが敵でも味方でも、怖いんです」
 花太郎には、闘気とか殺気というものが、戦う覚悟というものが、足りないのだ。
「そうですね。貴方は、戦いには向いていません」
「はい…」
 きっぱりと卯の花に肯定されて、花太郎はしゅんとうなだれた。
「けれど、貴方が戦えないのは、本当にただ怖いからですか?」
「…は?」
 質問の意図が分からず、つい呆けた返事をしてしまう。
「では…物事を解決するのに、戦う方法と、戦わない方法があれば、貴方はどちらを取りますか?」
「戦わない方法です」
 今度は即答した。さっきとは打って変わって、正解が明白な質問に思えた。
「しかし戦わない方法があるかどうかさえ不明な時は?」
「…あるかもしれないなら、戦わない方法を探します」
 即答とまではいかなかったが、やはり迷うような質問とは思えなかった。
 そんな花太郎に、卯の花は温かな微笑を向けた。
「貴方らしい答えですね」
「え…普通は違うんですか?」
「…戦える者は、しばしば戦う以外の途を見失いますからね。それが無益な連鎖を生むこともあります」
 花太郎の問いに答える声は、厳しかった。その厳しさは、花太郎ではなく、戦いそのものに向けられたものだった。
「先ほど貴方自身が言ったとおり、虚圏との衝突は避けられません。必ず、血が流れます。そんな中でも、流れる血が少なく済むように模索し続けられる者が必要です」
「そういうもの、ですか…」
 言われていることを飲み込めていない様子の花太郎に、卯の花は告げた。
「私は貴方のことを言っているのですよ?」
 花太郎の口がぽかんと開いて、ぱくぱくと咀嚼するように開閉した後、ごくりと嚥下する。
「えええええ!?あ、あの、ぼくそんな大それたこと出来ませんっ!」
 卯の花はくすくすと笑い出した。
「無理に今の貴方を捻じ曲げる必要はないと言っているのです。皆、自分の出来ることが何か模索しながら全力を尽くすのです。貴方も、貴方に出来ることをなさい」
「戦えない、ぼくのままで…ですか」
「戦いを選ばない、貴方のままでです」
「…はい」
 返事はしたが、やはり自信は無さげである。自分に何が出来るか具体的に思い浮かばないのだろう。そんな花太郎に、卯の花は苦笑をもらした。
「貴方は自分の能力を自覚する必要がありますね。貴方が出来ることはけして少なくありません。貴方に助けられて感謝している者もまた、少なくはないはずです。分かりませんか?」
「感謝ですか?」
 その言葉に、花太郎はふと、今日ルキアに言われた言葉を思い出した。
『そうか…ありがとう、本当に…』
『言いたいから、言ってるんだ。ありがとう』
 お茶を淹れただけであんな言われ方をして、思い出しただけで照れくさくて赤面してしまう。
「思い当たることが、ありましたか?」
「い、いえ、そんな大層な事じゃなくて…」
「貴方にとってはそうでも、相手の方にとっては大層な事だったのだと思いますよ」
 花太郎は戸惑って首を傾げるばかりである。けれど、普段軽んじられてばかりいる花太郎が感謝される喜びを知ったというだけでも、一歩の前進だと卯の花は思った。時間はかかるだろうが、それはいずれ自信になっていくだろう。
「とにかく、慌てて戦う力に飛びついても何も得るものはありませんよ。ゆっくり自分の方向をお探しなさい」
「は、はあ…」
「ああ、それと…話は変わりますが」
「はい?」
「少し向こうを向いて御覧なさい」
「え?は、はい」
 言われるがままに、花太郎は卯の花に背を向けた。
「先ほど見ていて気になっていたのです。どこかに寄りかかったのではありませんか?背中が汚れていますよ」
 言いながら、卯の花が汚れのあるだろう辺りを払い始めたので、花太郎は仰天した。
「え、あ、あれ?手、御手が汚れます!」
 花太郎が自分で払おうとじたばたし始めたが、その両肩を卯の花がそっと押さえた。
「少し、じっとしていなさい」
「は、はいっ」
 花太郎は思わず石のように硬直した。少し威圧感を感じたのは気のせいだろうか。
 卯の花が再び手を動かし始める。背に触れる卯の花の手つきは優しく、衣服を汚していることを叱る様子も無いのだが、花太郎は何か言いようの無い違和感を感じていた。
「ところで、今日十一番隊の方と遭いましたか?」
「あ、はい。少し、すれ違った程度ですけど」
「…そうですか」
 花太郎が卯の花に背を向けていたことも、十一番隊の隊員に蹴られたのをすっかり忘れていたことも幸いだった。小さな背中の草履跡を払い落としながら、卯の花が殺気の篭った笑顔を浮かべていることに、花太郎は気が付かずに済んだからだ。
 もちろんその殺気は、十一番隊の隊員に向けられたものだった。
 恋次やルキアの「致命的な事件は起こるまい」という希望的観測は、どうやら裏切られることになりそうだ。
「ありがとうございました」
 恐縮して頭を下げた花太郎だけが、事態を一番分かっていない。
 自分が十一番隊に蹴られたことで何が起こるのかも、自分が成してきたことがどれほどの影響を及ぼしたのかも、これから何が出来るのかも。
「修練も大事ですが、四番隊は忙しいのですから、ちゃんと休養もおとりなさいな」
 卯の花は極めて静かに告げて去って行った。
 そして花太郎は、地下水路を眺めながら今の会話を反芻していた。
 ここで、自分が何を出来るのか必死で考え、力尽きるまで動き回ったあの数日間。選ぶほど、自分に出来ることは多くなかった。でも、間違いなくあの時の自分は全力を尽くした。むしろ自分とは思えないくらいだったから、それだけは断言できる。
 もしあの時、今の自分のように出来ないことを嘆いて時間を無駄にしていたらどうなっていただろう。
『いや、ルキアがな。お前がどうしてるか気にしてたからよ。たまに見舞いにでも行け』
『恋次でいい』
『花太郎!お前はこんな図体も態度もでかい奴とは違うのだから、遠慮なく入り浸っていいんだぞ!』
『花太郎!こんな恩知らずな奴の前でそんな肩肘張らなくたっていいんだからな!』
『そうか…ありがとう、本当に…』
『言いたいから、言ってるんだ。ありがとう』
『貴方が出来ることはけして少なくありません』
『貴方に助けられて感謝している者もまた、少なくはないはずです』
 徒然と思い出される言葉たちが、殺風景な地下水路の中で反響して満ちていく。
 あの時全力を尽くした自分がいなければ、きっと聞けなかった言葉だ。
「ぼく、少しは役に立ったって思っていいのかな」
 問いかける言葉に返事はない。元より返事が欲しくて口に出した言葉でもなかった。
 どんな答えであれ、花太郎を納得させられるのは花太郎自身だけだからだ。
「信じて、頑張るしかないよね」
 今でも結局、選ぶほど出来ることが多くないのだから。
 できることひとつに、全力で立ち向かう。きっと、自分にそれ以外の道などない。
 さっと立ち上がった花太郎は、誰にとも無く頭を下げた。
「いってきます」
 踵を返し、花太郎は地下水路を去っていった。
山月のはんこ

   こめんと
 ずばり、「花太郎また登場してくんないかな〜」っていう妄想全開ですよ。BLEACHの中では、一番地に足のついてる人は花太郎のような気がする。でも多分だから出てこれない…(涙)お願いだから連載終了までにあと2コマくらい出番くれ。


   「其之陸:黒い箱(☆)」をご覧になる前に!!
 荻堂→花太郎のカップリングもののお話です。 突入後の苦情は受け付けておりません
 覚悟をお決めになった方は、下の「其之漆」のリンクからどうぞ。

其之肆へ  其之陸へ