FF9異聞/シーン3


「やった、メシ代タダだぜ!えらいぞビビ!!」
 嬉しそうに飛びあがるパックの横で、「あちゃ〜」と唸りながら4本腕の男が頭を抱えた。その4本腕の男と卓を挟んで向かい合って座っていたビビは、照れつつもパックと手を取り合って喜んでいる。
 ここは大通り沿いにある酒場。壁紙も無い板壁や実用一点張りのランプと言った飾り気の無い内装のこの店は、普段なら仕事帰りの一杯を煽る町の男達でにぎわっている。しかし今は外がまだ明るいことと、皆芝居を見に行く準備で忙しいこともあって、全席の半分ほども埋まっていない。そんな店の中、彼らのいる卓だけが妙ににぎやかだった。
 四本腕の男とビビの間に立つテーブルの上には、今流行しているゲーム「クアッド・ミスト」のカードが並べられていた。勝敗は3人の反応を見てのとおり、ビビの勝利である。
 しかも、一発勝負ではなく3戦先取で3勝0敗1引分。ほぼ完全勝利である。男は4本もある腕で、めちゃめちゃに髪を掻き回して悔しがっていた。
 この男、アレクサンドリアではクアッド・ミストの達者「裏通りのジャック」として、一応名の売れた人物である。
「ちきしょー、思いきって投入した劇場艇のカードが〜!」
 その劇場艇のカードは今、ビビの手の中だ。今の勝負で獲られてしまったのである。
「きれい…」
 ため息をついて、ビビはカードに見とれていた。
 劇場艇、プリマビスタのカード。小さな紙面ではあるが、腕の良い細密画家が克明に描いたプリマビスタの絵が印刷してある。その絵は、クアッド・ミストの製作者のこだわりでもって、その細かい装飾の隅々まで正確に描かれているはずだ。
 色とりどりの染料も、びっしり掘り込まれた彫刻も、これからアレクサンドリア城へやってくる本物どおりに。
 この実物を、これから見られるのだ。
 しっかりとカードを握り締めながら、ビビは飽きずにそのカードを眺めていた。
 一方ジャックの方は、嬉しそうなビビとは対照的に、奇声を上げて悔しがっている。多少カードの種類にハンデを負ってもそこらのマニアくらい蹴散らせる腕はあると自負していたのに、こんな子供に負けたのではとんだ名折れだと喚いて、とうとう卓に突っ伏してしまった。
「まあそう喚くなジャック。おまえが悔しがると見た目にも騒がしいからな」
 ニヤニヤと言うパックの言葉に、酒場のマスターが笑いをかみ殺した。
 確かにジャックが、その4本もある腕を忙しく動かして悔しがる様は、何とも騒々しい。
「うるせえ!なあ、メシ代は払うからさ、もう一勝負しようぜ」
 名誉挽回を挑むジャックの言葉に、眺めていたカードから顔を上げて、ビビがパックの方を振りかえった。
 今のビビはパックの家来、この勝負もパックの提案。試合続行の決定権はパックにあるというわけだ。
 その視線を受け止めて、パックは勿体ぶるようにジャックの方をちらりと見やった。
「俺はメシさえタダになれば充分なんだけどなあ」
 そんなパックの様子に、ジャックは歯軋りして言った。
「わーったよ!今度はなんだ!?ジュースでも賭けるか!?」
 その悔しそうな様子に意地悪げに笑いながら、パックはビビの方を見やる。
「ジュースねえ…お前は、どうしたい?」
「え?ボ、ボク?」
 黙ってパックの決定を待っていたビビは、意見を求められて戸惑う。
 しばし逡巡して、きゅっと引き下げた帽子のつばの下からパックの顔色を窺うように、そっと呟いた。
「え、えと…ジュースとか無くてもいいから、ボクもうちょっとゲーム…したいな…」
 その台詞に、パックはちょっと難しい顔になる。不満そうに長い鼻先をそりかえらせているパックを、ビビがおそるおそるその顔を覗き込む。すると、ちらりとパックの目に睨むように見られて、ビビは思わずぎょっと身を引いた。
 しかしパックは、ビビのそんな様子にぷっと吹き出して、ぱちんと片目をつぶった。
「欲の無い奴だなあ。好きにしろよ」
 その言葉に、ビビが、…卓の向こうではジャックも同時に、ぱっと嬉しそうに目を光らせた。
 いそいそと次のゲームの準備を始める二人の様子を、パックは楽しそうに見物している。
――本当に好きなんだなあ。
 しかし、そんなことを考えていたパックの意識が、ふっとカードゲームの卓の上からそれた。
 店内で交わされる会話が、彼の耳にとまったためだ。
「…メリダアーチにそんな大量の食料の運搬を?じゃあやっぱり…」
「ああ。最近いろいろ物騒なものまであそこに運搬してるらしいって…」
「カーゴシップが頻繁にどこかへ出かけてるってのも本当らしいぜ」
「何だかあまり城から出て来なくなったなあと思ってたけど、一体ブラネ女王は何を…」
 酒場の隅で、頭を突き合わせている数人の商人風の男達の話だ。
 カードの進退で一喜一憂しているこちらの卓とは対照的に、その男達は不穏な顔をして酒をなめていた。
 メリダアーチ。
 会話の中から一つの単語を拾って、パックは銀のひげをぴっと鋭く立てた。
 この大陸には、このアレクサンドリア、劇団タンタラスの本拠のあるリンドブルム、ブルメシアと言う国の、三つの国がある。メリダアーチとは、アレクサンドリアからブルメシアへ入る関所だ。しかし現在は諸所の事情で殆ど使われておらず、数人の駐屯兵がいるだけの場所のはず。
 そんなところに大量の食料を運び込むと言うのも不可解な話である。
 しかし、パックがその会話に耳をそばだてようとした途端、男達の会話はそこで今日の芝居の話に移ってしまった。現にこうして恒例の通りリンドブルムから劇団を呼んでいるくらいだから、大した事は無いだろうと。
「パック?難しい顔してどうしたの?具合でも悪いの?」
 気がつけばビビが心配そうに覗き込んでいる。
 その金の瞳に気がついて、パックは我に返ると、にっと笑った。
「何でも無い。ちょっと面白そうな噂話してるみたいだっただけだ。勝負は?」
「あ、後一手なんだけど」
 見るとなるほど、ビビもジャックも既に手札を一枚残すのみ、戦況は、現在5対3でジャックの優勢、に見える。
 しかしその優勢のはずのジャックが、最後の一枚を握り締め、頭を抱えてしまっている。実は、後手のビビがカードを置けば、ほぼ間違い無く逆転されてしまうと言う急所が2つも出来てしまい、どちらか防いでもどちらか残るという事態に陥ってしまったのだ。
「しまった〜8方向ザクナルなんて出すんじゃなかった〜!」
 どうやら、自分の一手で首を締めてしまったらしい。
 それでも諦めきれず、何とか逃げ道は無いかとこうして悪あがきをしているわけである。
 パックはひょいとビビの手札を見てから、ジャックに言った。
「いやあ、ひょっとしたらビビが持ってるのは逆転出来るようなカードじゃないかもしれないだろ?駄目元で置いてみろよ」
「おまえ今間違い無く逆転できること確認してから言いやがったな!?」
 ジャックの悲鳴に、パックは笑いを堪えながら視線をそらした。
 その視線の方向では、マスターもとうとう吹き出してしまっている。
 そんなパックとジャックの様子を見比べながら、ビビは困ったように首を傾げ、ジャックの一手を待っていた。
 しかしそこへ、大通りの方からこんな声が聞こえてきた。
「おうい、来たぞ!」
「プリマビスタだ!」
 その言葉に、ビビがぱっとカードを置いて立ちあがる。
 プリマビスタ。
 見に行きたい気持ちと、ゲームを途中で放り出せない気持ちの間で、そわそわするビビの動きに連れて、燕尾の型に作られたローブのすそがふわふわと揺れる。
 そんなビビの様子を見て、パックはジャックに向かって軽く肩を竦めた。
「残念、時間切れだ。続きは、また今度な」
 そんなぁ、とジャックは情けない声を出したが、既に半分意識がプリマビスタへ飛んでしまっているビビを見て、観念したようにはあとため息をついた。
「ああもう、分かったよ、降参だ!おいビビ、劇場艇プリマビスタのカード、預けとくからな。粗末にするなよ!」
「う、うん!」
 ビビは頷いて、さっとカードを片付け劇場艇のカードを胸に抱きしめた。パックの待つ店の入り口へ走りながら、一度振りかえってぺこんとお辞儀する。
「ご、ご馳走様でした」
「おう、またな」
 そんなビビに笑いかけて手を振り、その後姿を見送ると、ジャックはぱったり卓に突っ伏した。
「おおい、マスター、酒」
「なんだいジャック、まるで女の子にフラれたみたいな落胆振りだなあ」
「そりゃ落ち込みもするぜ、あのカードはずーっと大事にしてた奴だったんだぜ」
「そう言う割にはあっさりくれてやったもんじゃないか」
「あっさり?今の最後の手札見たか?あいつ最後の切り札にあの劇場艇のカード使う気だったんだぜ。あんな上手く使われたんじゃ獲り返せねーよ」
 そうぼやいてジャックが酒を煽った頃。
「うわあ〜…」
 ビビは、ぽかんと上を見上げていた。
 今にも地平の山に触れんとする太陽に、うす赤く染まった町並みの中。
 ビビとパックのいる辺りを、巨大な影が覆っている。
 プリマビスタの影だ。
 ほとんど真上にいる船は、その底の部分しか見えない。しかしその巨大さは、これ以上ない程によく分かった。低空飛行しているせいもあるが、プリマビスタの底部だけで、ビビの視界が埋まってしまうほどなのだ。
「おっきいねぇ…」
 ゆっくり通り過ぎていく船の、主に装飾が施されている上部は死角になってしまって見えもしない。しかし、ぴったりと隙間も段差もなく張り合わせられた船の底板は、丹念に磨き上げられて夕日の色を照り返す。ふっくらとした横腹の形は、きっとその中に、最新の演出機材や一流の役者、それにこれから演じられる物語の世界をいっぱいに詰め込んで膨れているためなのだとビビは信じた。
 船が真上を通り過ぎてしまっても、角度が悪くて船の全体像はよく分からない。それでもビビは、夕闇の空を進んでいく船を、目で追っていた。
 はしゃいだ子供たちがプリマビスタの船影を追って、ビビとパックを追い越していく。
「芝居を見に行けば、プリマビスタの全体像がもっと間近で見られるぜ。そのカードの絵柄よりずっと迫力があるんだ」
 パックの言葉に、ビビはさっき手に入れたばかりのカードを、ぎゅっと胸に押し当てる。
 パックはにっと笑って、走っていく子供たちを追うように走り出した。
「ほら、行くぞ!」
 こくんと頷いて、ビビも走り出す。
 まもなく、チケットブースのある広場にたどり着いてから、ビビはあることに気がついた。そういえば、チケットもないのにパックはどうやって芝居を見るつもりなのか、まだまったく聞いていない。
 ブースの近くでビビは立ち止まって訊く。
「ねえ、これからどうするの?」
 ところがパックは、立ち止まらずにブースを通り過ぎ、どんどん走っていってしまう。
「ほら、そこじゃない、こっちへ行くんだ!」
 せかす声に思わずまた走り出してしまうけれど、パックの向かった方向にビビは首を傾げた。
 ブースのある広場から、今来た方とは別の通りに向かい、どんどん城から離れてさっき逃げ回った裏路地みたいなところに入って行く。
 家々のせせこましく立ち並ぶ路地は、既に薄暗い。
 城の剣さえも見えないこんなところが、芝居と一体何の関係があるんだろう。
 何が何だか分からないままについていくと、パックは小さい水路のそばに立つ、古い尖塔の前で立ち止まった。
 続いて、路地よりもさらに薄暗い尖塔の中へ向けて声をかける。
「おう、クポ!準備は出来たか!?」
 尖塔の中で、パックの声がこだまする。
 その声を聞いて、ビビはちょっとぞっとする。
 暗さのためにあまり視界の利かない尖塔の中は、戸口の辺りから様子を伺うと、周辺の住民の集会場なのか、奥の方へ向かって据え付けられた机と椅子が並んでいるのが見て取れた。椅子の影や机の隙間に何か変なものがいそうで、思わずビビは立ちすくんでしまう。
 そんなビビのことなどお構いなしで、パックは返事が返ってこないことに首を傾げていた。
「あれ?おおい、クポぉ!」
 呼びながら、暗がりの中に踏みこんで行く。
「あ、ま、待って…」
 小さい声はパックには聞こえなかったらしい、伸ばした手もパックの細い尻尾を捕まえるのに間に合わない。
――どうしよう…?
 この、いかにもそこらの隅っこ辺りで何かがうごめいていそうな暗闇。一歩踏みこめばたちまち足をとられてどこかに引きずり込まれそうで、怖い。けれど、このままパックに置いてけぼりを食らってしまうのも嫌だ。
 身動きの取れないビビに向けて、パックの声が飛んでくる。
「ほれ、ビビ!おまえも入って来いよ!」
「で、でもぉ…」
 帽子をぐいっと引き下げて、小さい体をさらに小さくしてもごもごしているビビに、さらにパックの呆れたような声が飛んでくる。
「おうい、ビビ、早く入って来いっての!」
 パックの呼ぶ声が聞こえる。ビビがもたついていることに、少し苛立っているような声だ。
 仕方なく、ビビは中の気配に注意を凝らしながら、暗がりの中にそっと踏みこんだ。
 途端、ビビの目の前に、毛むくじゃらの顔がぬうっと現れる。
「わぁっ!」
 ビビは悲鳴を上げて、ぺたんとしりもちをついてしまう。
 小さくなってふるふる震えていると、奥の方からパックの笑い転げる声が聞こえて来た。
「なあにやってんだよ、ビビ!」
 そのいかにもおかしそうな声に、恐る恐る帽子の影から覗いて見ると、毛むくじゃらの顔が、パックの声が聞こえる方を向いて言った。
「クポ、こいつもおまえの客か?」
 少し低めの、落ち着き払った声に、ビビはその顔をまじまじと見つめ直す。
 その顔は、丸みのある輪郭に、やや短めの猫ようなひげが生えていた。頭のてっぺんからは先端に赤いボール状のものがついた触覚のようなものが一本、伸びている。その顔の下には、やはり毛むくじゃらの丸々とした身体と、楕円形の毛の生えた布袋に綿を詰め込んだような形の手足がついている。
 それは、モーグリと呼ばれる精霊だった。
 ただし、そのモーグリは、モーグリにしてはちょっと見慣れない格好をしていた。額に渋い色のバンダナを巻き、背中に大きなリュックを背負っていたのだ。精霊であるモーグリに、リュックなんて必要だったっけ?
 驚きの延長線上でぼんやりと思った時、パックの声が聞こえてきた。
「ああ、俺の連れだよ」
 暗がりに目が慣れて来たのか、声の方を見れば、パックが別のモーグリと一緒にいるのが見えた。完全に腰を抜かしてしまったせいで、かえって気持ちが落ち着いたらしい。想像したような妙なものがいなさそうなことにほっと息をつく。
 そこでやっと、自分が危険でも何でもない相手にびっくりしてしまったことに気がついて、ビビは慌てて立ち上がると、ぺこりと頭を下げた。
「驚いたりしてごめんなさい」
 すると精霊は、犬とも猫ともつかない顔をりりしく引き締めて答えた。
「いや、俺も悪かったよ。怪我は?」
 ビビが首を振ると、安心したように頷く。
「そうか、ならよかった」
 そして、背中のリュックを軽く揺すり上げると、
「じゃあな」
と、その綿を詰めた布袋のような手を、軽くしゅっと振って、尖塔を出ていった。
 モーグリってあんな紳士的でカッコイイものだったっけ?
 思いながらその背中を見送っていると、後ろから呼ぶ声が飛んできた。
「ほら、早く来いって!」
 慌ててパックの方へ行くと、パックは隣にいるモーグリを示して言った。
「こいつが俺の第一の家来、モーグリのクポって言うんだ」
「はじめましてクポ〜」
 軽く手を上げるモーグリは、バンダナもしていないし、リュックも背負っていない。リュックのない背中には、小さな羽がパタパタしている。
 小動物のような可愛らしい声。モーグリと言えば、こう言うイメージのはずのような気がするんだけど、と思ったビビはあまり間違っていない。
「こんにちは。今のは、お友達なの?」
「そうクポ。さすらいのお友達クポ〜」
 さすらいの、と言うことは、あのリュックは旅装だったらしい。
 不思議に思ったことが一つ解明されると、ビビは次の疑問を解明にかかった。
「ねえパック。これからどうやってお芝居を見るの?」
 すると、パックがえらそうにぐっと胸をそらして答えた。
「ついてくれば解るさ。その準備を、このクポにやってもらってたんだ」
 クポがその小さな羽でぱたぱたと浮き上がり、得意げにくるんと宙返りする。
 しかし、ビビにはやっぱり分からない。
 一体、このモーグリが何をどんな風に準備したと言うのだろう?
 首を傾げるビビを見て、パックとクポは2人同時に上を見上げた。
 その視線の先には、尖塔のてっぺんに吊り下げられた鐘と、そこへ上るためにかかったはしごがあった。
 その鐘は、近づけばビビの身長の半分くらいの大きさがあると思われたが、下から見ると両手の平で持てそうなくらい小さい。
 視線をおろせば、モーグリの背中のパタパタはためく羽。
 ビビは何だか妙に嫌な予感がし始めていた。

「こ、こわいよぉ〜…」
 予感的中。
 ビビは、とある一軒の民家の屋根の上でへたり込んでいた。
「クポ〜、大丈夫クポか?」
 クポはビビの頭の辺りで、心配げにぱたぱた浮いていたが、パックの方はなかなか手厳しい。
「高所恐怖症かよ、だらしないなあ」
 隣の屋根の上で腕組みして、呆れたようにビビを待っている。
 パックとビビの間は、ビビの歩幅にして5歩分くらいの距離。
 その屋根と屋根の間には、はしごが一つ、渡されている。
 クポがやった準備と言うのは、これのことだったのだ。
 尖塔を上って、家々の屋根を伝って、城の観客席へ忍び込む。これが、パックが毎年使っている手段だったのである。
 パックは城近くの屋根にござを持って集まりつつある人々を示して、こう言った。
『あそこから城のプリマビスタが見えるんだ。チケットの買えない奴らは皆ああして見る。少ない娯楽だからな、城の方でもあれくらいは黙認してるんだ。忍び込んだ位じゃ怒られやしない』
 芝居見たさも手伝って、そんなパックの台詞に言いくるめられてしまったビビではあるが、この屋根の高さに対する恐怖心までは言いくるめられることが出来なかった。
 何しろこの屋根、ビビの身長にして4倍くらいの高さがあるのだ。
 実際には落ちても滅多なことでは死なない高さなのだが、かなり痛い事は間違いあるまい。
 その上もともと高いところはあまり得意じゃないビビには、まるで断崖絶壁の淵を歩かされるのと変わらない。
 それにこのはしご。
 ここまでは、高さは高いとはいっても、地面までの距離をあまり感じさせないような屋根の真中辺りを通っていたから、ついて来れたけれど。今渡らなくてはならない屋根と屋根の間にかかっている橋ときたら、何しろはしごだから、ちょっとでも視線を下にやるとその高さが丸分かりになってしまう。
 しかも真下は、薄暗くなってきた辺りを映して黒々と揺れる水路。
 覗き込むと、真下に消失点のある遠近感がくらくらする。
 暗くなってきた視界の中、顔の映るような流れが、大雨の直後の谷川のような急流に見えた。
「ボ、ボク泳げないよ…」
 震える声でか細く訴えるビビを、パックが容赦なく呼びつける。
「馬鹿、渡る前から落ちた時の事考えてどうすんだよ。早く渡れ!」
 しかし、気持ちだけならビビはとっくに落ちている。
 冷や汗が、服に染み込んでくる水路の水のような気がした。
 屋根と屋根の間に置いただけのはしごは、小枝のように頼りない。
「このはしご、落ちたりしない…?」
 泣きそうな声でぽそぽそと言うビビに、パックはとうとう怒鳴るように言う。
「落ちねえって!今俺が渡ってもびくともしなかっただろ!?」
 びくりとするビビを、クポが励ます。
「大丈夫クポよ、頑丈なの選んで借りてきたクポ」
 しかしビビは動けない。
 頭の中ではもうあの水路の中で溺れて、力尽きるところなのだろう。
 パックははあとため息をついた。
――ったく、アンバランスな奴だなあ。
 さっき酒場でカードゲームしている間は、えらく大胆な作戦でさくさくとジャックを負かしていたのに。料理人に追いかけられていた間も、きっちりパックについて来れたのだから、まともな運動神経だって持ってるのに。
 そのくせ意気地がない。ちょっと鬱陶しいくらいに。
 このまんま放って行こうかという気がしなくもない。
 けれど、パックはどうすれば今のビビを動かせるかはもう解っていた。
 ここまで来る間だって、何度か危ないところがあったのだ。
 その度に、背後で足が竦みそうになっているビビに気がついていた。しかし、パックが何か言う前に、ビビは自分の足を叱り付けて、着いてきていたのだ。
 プリマビスタのカードを、握り締めて。
 だから、今のこれも多分何とかなるだろう。
 そう思いながら、パックは切り札をちらつかせた。
「芝居、見たいんだろ?」
 ぴく、とビビが震えた。
「もうすぐ芝居が始まるぞ。いいのか?ここまで来といて見れなくても」
 すると、ビビの手が、懐をぎゅうっと握り締めた。
 プリマビスタのカードが、入っている辺りを。
 ぐっと顔を上げて、立ち上がるビビ。
「来いよ。落ちそうになったら助けてやるから」
 ここまで来てみろと、軽く手を差し出すパック。
「頑張ってクポ〜」
 綿入り布袋みたいな手を、ビビの肩に置いて励ますクポ。
 ビビはパックとクポを順番に見て、こくりと頷く。
 そして、ゆっくり一歩目を、はしごの横木に下ろした。
 その下に見える水路から、焦点をずらしてなるべく意識しないようにする。既に日は落ちて、暗くなりつつあることが、かえってありがたかった。
 不安定なはしごの上でしっかり置き場を決めてから、もう一方の足を、屋根から持ち上げる。
 3歩目で少しふらついて、クポが手を出しかけたが、手をぶんぶん振り回しながら自力で持ち直した。
 4歩目。パックの手が届いて、ビビの手をしっかりつかむ。
 その手にぐいっと引っ張られるままに、ビビは5歩目を踏んで、パックと同じ屋根の上に倒れこんだ。
「わたっ…た…」
 がくがく震える膝を握り締めて呟くビビを、パックは満足げに銀のひげをぴたっと寝かして、笑った。
「さあ、腰を抜かしてる暇はないぜ、城はもうすぐだ!」

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山月のはんこ


   こめんと
 今回も伏線と脇道な話のオンパレードです。FF9やってない人に対するブリッジみたいなところもあるし…。
 いつになったら本格的にジタビビに入るんだとか言われたら、とてもとても痛いです。
 だってさー裏通りのジャックとスティルツキン、書きたかったんすよう。好きなんやもん。
 それに…アイドルビビ支援隊としてはね。パクビビデートを書けるのはここしかないし。ビビにカードゲーム伝授する楽しそうなジャックの姿も何気にツボだったし…。
 はい。とっととジタビビを再会させるために頑張ります。お願いだから見捨てないで。