「ちきゅう」 |
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■降って沸いた話 |
2005年9月、スターバックスでアルバイト生活を送っていたボクの元へ、以前御世話になった派遣会社ベストロン営業の宮代さんから連絡があった。 「船に乗る仕事がある。話だけでも聞いてみないか」と。 ただ船に乗るという話なら、マグロ漁船で1年間海の上にいてひとかせぎするという噂も聞いた事がある。船酔いはひどいし特に日本を離れたい理由もないので、それなら断るつもりでいた。しかし予想に反し、船の名は「ちきゅう」。日本主導のもと、600億円をかけて建造された国際科学掘削船で、その年の7月に進水式が行われたばかりだという。早速横須賀で行われた一般公開を飛び入りで見学させてもらい、その巨大さにただただ驚いた。見たことはないがあの戦艦大和とほぼ同じ大きさであるという。中にある設備も最新科学の粋を結集させており、物理・化学・生物・地学のあらゆる研究が船上で行うことができるようになっている。海底から7000メートルを掘削する技術も用し、乗組員は日本人だけでなく世界の科学者たちが乗り込み、船上での公用語は英語であるという。 そこでの仕事内容というのは、船内の研究データを収集するデータベースシステム及びネットワークの管理保守というものであった。元々コンピュータ系の会社で勤務してはいたが3年弱で辞めた落ちこぼれプログラマーにとって、これは普通では手にすることのできない名誉ある仕事である。科学的バックグラウンドは皆無、英会話能力の不足、そしてコンピュータ界から離れてブランクが長いということもあり正直不安ではあった。が、今始まったばかりで、今後数十年続くであろうこの仕事に今から携わることができれば、おそらく自分がいなくては船は動かないとなるような、重要な責任ある立場に立つことになるのだろう。 トントン拍子で話が進み、京急線の金沢文庫にある本社で会長や社長などの前で面接をしてその場で内定が決定してしまった。11月から出社して勤務開始である。あまりもの急展開に、詳しい雇用条件などの交渉を行わなかったことは反省すべき点である。 |
■悩みと決断 | 内定が決定してから1ヶ月間、ものすごく悩んだ。スターバックスで働いていなかったらそんなことはなかった。12月にスターバックスに採用されて約10ヶ月、ボクはこのお店で多くのものをもらった。喜びあり悲しみあり、出会いと別れ、今、目の前にいるお客様のためにできること…。これまで人生約30年で学んできた、得意分野の理系の知識なんてものは全く関係ない。楽しいということ、それが全てであった。 その全てを捨ててまで選択する価値があるのだろうか、と。いや価値はある、甲斐もある、そしておそらくお金にもなる。店長に相談した。お店のみんなにも相談した。お店で働いていない将来の自分を想像して、枕を濡らすことも1回ではなかった。それほどボクにとってスターバックスの存在は大きかった。 背中を後押ししてくれたのは店長の言葉であった。とりあえず席をおいたまま、週一回でもいいからお店で働いて、と。 とりあえず3月までの半年は契約社員雇用。その後互いの利害の元、正社員として雇用するか解雇となるか決定するとのことであったので、4月以降いつでも戻って来れるように、との暖かい配慮であった。実際は1度航海に出ると90日間海の上での勤務が続き、それが年数回あるとのこと。地上に戻ってからも長い休暇が取れるというわけではなく、データの整理や次の航海の準備と忙しい日々が続くであろう。おそらくほとんどスターバックスで働くことはできない。それでもいいから、と甘やかせてくれた店長にボクは大きく感謝している。 11月からの勤務前の10月、13連勤を2回などボクはお店で懸命に働いた。これまでで一番の労働時間と給与であった。あっという間の1ヶ月であった。働くところは違っても、心に残ったスターバックスの精神(相手に喜びをあたえるために何ができるか)と笑顔さえ忘れなければきっとやっていけるに違いないと考えることにした。 副業をしたままというのは、基本的にNGであると入社日に聞かされた。当たり前だ。のっぴきならない理由がある場合は考慮することもあるとのことだったので、いずれ時期が来たら打ち明けようと考えていた。2足の慣れないわらじを履く事で、双方に大きな迷惑をかけることはわかっていた。でもスターバックスのレジに立つことのない自分というのはどうしても考えられなかった。ボクにとって精神的支柱だった。 |
■船のお仕事 |
最初の週は一般的な新人研修。翌週は早速高知に飛んで(高知コア研究所という、地上での拠点がある)、この仕事に関わるさまざまな計測機器に関する説明を受け、IT担当としての仕事内容をレクチャーしてもらう。三週目にはもう乗船である。 実際の所、船上には複数の会社からの人員が派遣されており、運行・掘削・研究という分野をそれぞれ担当している。ボクの就職したマリンワークジャパンという会社側としては、これまで研究職専門の人員を確保してきたが、IT分野をも担おうという意向があった。その先兵としてボクが送り込まれたことになる。つまりボクがやらなければいけないことは山積みでしかもわからないことだらけであった。DBの知識・ネットワークの素養・Linuxコマンドを自在に扱えることのみならず、研究データの意味を理解する必要もある。例えば定性分析と定量分析の違いであるとか。はっきりいって山は高い。高すぎて頂上は見えない。それに加え専門用語、略語の多さ、さらには定期的に行われるミーティングでそれらの用語が英語で話される。自分は場違いなのではないかと考えることも少なくなかった。が、それら全てのエキスパートが、そうそう存在するわけがない。しかも都合のいい時に都合よく雇用などできるわけがない。今でも会社ではそのようなエキスパートを探しているので興味がある人は応募してみるとよい。でボクを採用した理由というのは、そこそこのベースがある人に、とりあえず乗船して学んでもらおうということだったのであろうと認識している。 ここで一般的には知られていない船上生活についてお話します。「ちきゅう」は特殊であり、通常の海洋探査船では、二段ベッドの四人部屋〜八人部屋でトイレバス共同という共同生活が長期間続くようです。食事は給食のような献立が三食支給され、一日の仕事が終了したあとは持ち込みのお酒など自由に飲めるそうです。船長などのVIPのみ個室という形であるようです。これらの船には実際に乗ったことがないので話で聞いた限りということになります。 一方「ちきゅう」では、あれだけ大きい船体に150人しか乗船することができません。しかしその全てが個室トイレシャワー付というVIP待遇。食事は三食支給され、毎食ビュッフェ形式の食べ放題。飲み物もコーヒー・ジュース・牛乳と充実しています。元々あまり太らない体質のボクでも、さすがに三食食い放題では、最初の一週間で5キロも増えてしまいました。太らない体質というわけではなくただ金がなくて食わない貧乏性だったということがわかりました。それからは船内に設置されているジムで自転車をこいだり、筋トレしたりすることにしました。食事も独自に1プレート縛りを実施し、一皿に乗る分量しか食べないように制限しました。精神的な影響からか、ひどい便秘にもかかり、体が重く疲れやすいという状態でした。変化の少ない、慣れない船上生活、毎日合わせる顔も同じ、という状況ではストレスがたまって予期しない変調が現れることもあるようです。ちなみに「ちきゅう」ではお酒はご法度です。一般的に、国際船ではトラブルの元となるアルコールは禁止されているようです。その点もストレスが発散できず「ちきゅう」のある意味、不幸な点です。さらに船上では土日などのお休みがありません。1日無駄にしてもそれだけで船の運航日は一日ン千万円かかるのです。税金で動いているのですから休んでなんていられませんよね。 じゃあ他のクルーはどうか?というとボクのように困っていることはありません。基本的に海が好きで船が好きで地質学的な研究が好きで、むしろわずらわしい地上生活と違ってひとつのことに没頭できるという環境が気に入っているようです。船の上での仕事というのは、実際のその人の能力よりも、この特殊な環境を受け入れることができるかどうかというのが重要なポイントであるようです。結局のところ、この船上生活に慣れることができなかったというのが、続けることができなかった要因であります。 現在の所、船上にインターネットは繋がっていません。陸上と1時間おきの定時同期通信を行うことで一通100KB以下のメールのやり取りのみ行えるようになっているだけです。テレビも衛星放送が受信できるところでは見ることができますが、ほとんどノイズで閲覧できません。この情報砂漠もストレスの要因になりました。 |
■海底に眠るもの |
そもそもこの多額の税金をかけた国際船の意義はどんなものだろうと疑問に思う人がいるのも当たり前だろう。と同時にこんな船が建造されていることすら知らない人の方が多い。ロケットで宇宙へという華やかなニュースとは違い、船で海底へというのはどちらかというと地味である。 宇宙という未知の研究分野では、アメリカ・ロシア・そして中国にまで遅れをとっている感のある日本が、海という分野では、国際的に優位に立とうという意図があるらしい。といっても大きな科学的成果を残せる確証もなくこんな大きな船を建造できるわけがない。そこに現れたのが平センター長である。アメリカの国際掘削船に乗船した経験を元に官僚を説き伏せ、あらゆる手をつくし「ちきゅう」を作るための費用を国に出させたのだ。センター長の言によれば、日本人研究者は優秀であるが、ビジョンやカリスマ、リーダーシップが乏しく、お金の引っ張り方が下手であるという。まあその通りである。 その「ちきゅう」の目的は大きく4つある。 まず約1万メートルの地底にあるというマントルを生のまま手に入れるということ。世界の一部の噴火口では冷えて固まったマントルを採掘できたこともあるが、地殻の中を対流しているマントルをそのまま掘り出す技術は、まだ存在しなかった。それを掘り出すことができれば世界初ということになり大きな科学的成果をあげ、このプロジェクトは成功したともいえる。地上から掘削する場合、地殻が厚く数万メートルも掘らなければいけないが、海底からでは最短七千メートルほどで到達できるのではないかと予想されている。そのための船という選択を取った。しかし実際に海流や風などの影響下、常に海上で船の位置を固定させ、長ければ数ヶ月掘りつづけるというのは相当困難な技術であり成功も危ぶまれている。そのため気象状況を逐一受信する衛星設備や、乗組員の乗下船にヘリコプターを使うためにヘリポートがついていたりする。ちなみにマントルというのは溶岩のようにどろどろとした液体ではなく、緑色のカンランセキという石に近いものだそうです。アメリカの科学掘削船「ジョイデスレゾリューション」号の最高到達記録は2111メートルなのでそれを大きく超える能力を「ちきゅう」は持っています。 二つ目の目的は未知の生物を発見すること。これまでに発見された微生物で、酸素に触れると死ぬがメタンを吸って生きているというものもいるのです。生物なのに酸素不要なんて不思議ですよね。それとはまた違ったタイプの生物が発見される可能性もあります。何かの病気に役に立ったり、ゴミ処理のバクテリアとして機能したり、出てみてからでないとわかりませんが楽しみですね。ちなみに地底人を探索しようとはしていません。 三つ目の目的は未知の鉱物等を発見すること。最近海底にはメタンハイドレイトというガスが多くたまっていることが発見されています。爆発しやすく扱いにくいのですが、石油にかわる次世代の燃料として期待されているのです。未知の元素など発見できたら、それは凄い成果ですよね。 最後の目的は、地震メカニズムの解明です。日本は特に地震が多いのでそのためにこの船をつくったといっても過言ではないくらいです。国際船とはいいながらも、最初の探索は、50年以内に発生するであろう東南海大地震の予知と解明にが目的であるようです。 これらのことをどうやって調査するかというと、簡単にいえば海に浮いた船から長いストローを繋いでその先にドリルをつけ掘りつづけるというものです。ストローは二重構造になっており、内側から質量の多い泥を流して外側から掘った泥と一緒に吸い上げるという方式です。これをライザー掘削といいます。石油業界では一般的な掘削方法のようですが、科学掘削の船に採用するのは「ちきゅう」が世界初です。 比較的浅い海底では、ストローを勢いよくピストン状に噴出させて海底に差込み、ストローに詰まった泥を船の上にあげて研究するという方式をとります。ボクが乗船した青森下北半島沖での掘削はこの方法を使いました。できたばかりの船ということでとりあえず掘削するテストという感じでした。そのストロー状の透明な筒に入っているものをコアと呼びます。このコアをさまざまな角度から計測するのです。 まずは中身を破壊せず状態を見るためにX線CTスキャナに通します。それから磁性、通電度、放射線量、温度などを測り、丸太を割るように半裁します。片方は将来のために保管用、もう片方は研究用です。地層によって泥だったり岩だったり火山灰だったりいろいろな縞模様が見えたりします。1メートルの深さでだいたい一万年の情報がわかるので、何万年前に近くの火山が噴火したんだななんて情報がわかったりするのです。それから微量なサンプルを採取して顕微鏡で除いたり、元素分析機にかけて組成を調べたりもします。それら全てのデータを船内の統合データベースシステムにリアルタイムでアップロードできるようにしています。研究室とサーバルームは光ケーブルで繋がれ膨大なデータがやり取りできるようになっています。将来的には、地上研究者にもこれらのデータがリアルタイムで閲覧できるように、との意図があるようです。壮大な構想ですね。 以上のように、「ちきゅう」は大きな使命を背負った大きな船です。その存在があまり世間に知られていないというのは残念でなりません。日本各地に寄港して一般公開なども行っているいるので機会があれば是非乗船してみてください。 退職してしまったボクは、せめてこんな日本が誇れる船があるんだよということをより多くの人に知ってもらうことが恩返しとなるのかなと考えています。 |
■退職、その後 |
就職する時と同様に退職する時も多いに悩みました。 まずは会社とのもつれからのお話です。11月に入社してすぐに乗船、降りたらクリスマスということで給与はどうなっているのかな?と明細を見てみると、驚いた。基本給21万円で残業手当住宅手当などついて27万円。税金など差し引いて手取り20万ちょっとという少なさである。ボクが大学卒業してもらった初任給とほぼ変わらない。たとえブランクがあるにせよ、30歳を過ぎた経験ある転職者がそのような給与で満足できるはずもない。最初の給与が11月25日に振り込まれたので日割りの分割か何かの間違いかと目を疑った。 面接の時は月給30万を希望した。内定通知には月額28万と記載されていた。ボクはこの28万が基本給で、ここにプラスで手当てや残業代がつくものだと思っていた。が会社側はこの28万が残業代等も含めた1か月分の給与であるという。船を降りて総務部長と面談し、この厳しい仕事内容でこの給与では到底働きつづけるのは無理であると申し出た。確かに名誉ある、やりがいのある仕事であるかもしれないが、だからこそその分の報酬を期待していたのである。会社自体は民間組織であるが、国の税金で給与は支払われているので準公務員扱いで、一定の計算を元に給与は算出しているのでそう多くは出せないというのが理由であるようだ。最初の交渉をきちんとしなかった自分も悪かったと思うが、はっきりいって薄給である。派遣の仕事では時給1900円で仕事をしていて、月給30万はもらっていた。探せばそんな仕事はいくらでもあるのに、あえてこの船上で仕事を続ける理由は見当たらないと宣言した。 機会を同じく、年末調整のため源泉徴収票という紙を提出したところ、スターバックスをまだ辞めずに続けていることがバレてしまい、早急に退職すること!とのお咎めを受けた。新年1月になってからも出張・乗船が続き、給与や副業のことはあいまいなまま2月末に至ってしまう。 もう一度正式な話し合いを行い、給与のことは多少考慮するが、正社員雇用となる4月からはスターバックスを辞めることが条件であると提示された。再び店長やお店の子たちと相談しいろいろなことを考えた。話を聞いてくれてみんなありがとう。でもボクはやっぱりスターバックスを辞めることができませんでした。船の仕事を辞めることを決断しました。マリンワークの皆さまご迷惑かけてすいませんでした。「ちきゅう」の未来を陰ながら応援しています。この仕事を経験させていただいたことは決して後悔していません。退職の際、「ちきゅう」で撮った写真を添えたクリエイトタンブラーをいただきました。ありがとうございます。 5月になって、マリンワークからスターバックスにお豆の注文が入った。2キロの大きな袋×3。約3万円分。船の上でもコーヒーは飲めるけど、やっぱり挽きたて落とし立てのスターバックスのコーヒーは格別うまいそうです。こうやって辞めたあとでも、交流が続くというのはとてもよい関係だと思います。 |
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