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新・2号からの手紙

2006年2月27日
新・2号からの手紙〜重い道理

 「思い通りにいかない」ことは、本来はこの世に存在しないと思われる。「思い通りにいかない」ことがこの世に生まれるのは、「思い通りにしたい」というその「思い」が発生したときだ。
 「携帯電話がないと大変」という状況が発生するのは携帯電話を持ったから。「洗濯機がないと大変」という状況が発生するのは洗濯機が出来たから。同じように「思い通りにいかない」という状況が発生するのは「思い」が生まれたからだ。携帯電話を持っていない僕には「携帯電話がないと大変」ということは今のところあり得ないのである。
 そうやって考えてみると大概のものは必需でないものだ。必需でないものを持っているということはプラスされた状態なわけだ。なのにプラスされればされるほどゼロが引き上げられ、一つ失うとマイナスと捉えてしまう。だが、得ていなくてもなんともなかった元の状態に戻るだけであったりもするのだ。思い通りに“いったら幸運”なのである。
 実は思い通りになっていることは沢山ある。たとえば僕は朝起きると非常に喉が渇いている。それで水を飲もうと思い、そしてほぼ毎朝その思いは叶っている。ところが「思い通りにいかなかった」ことに比べて、「思い通りになった」という認識はあまりしない。大変な渇水になったり災害が起これば、朝に水を飲むという行為は叶わない可能性もあるというのに。
 なぜ「思い通りにいかない」ことがあるのか。思うのは自分一人ではないからだ。オリンピックで一つの種目につき金メダルがとれる人は四年に一度、世界中でたった一人である。他の選手達はどんなに血のにじむ努力を重ねていても思いは叶わない。
 欲望を持つのは人間だけではなく、他の沢山の生物達もそうだ。無機物は欲望を持たないが、代わりに「思い」にとらわれることはない。超越しているといっていい。あるがまま、なされるがまま、人間の「思い」などおかまいなしに流れてゆく。そんな中で一人の人間の「思い」がどうして自在に叶おうものか。
 「思い通りにしたい」と望まなければ「思い通りにいかない」ことは存在しない。とはいえ人間は欲望によって生きている。無欲で生きることなど出来やしない。ただせめて謙虚でいることだろう。望めば望むほど、叶わないことも増大する。自分本位に思い通りにしてやろうとすればするほど、思い通りにさせまいとする「思い」や「流れ」の抵抗も強くなる。小さな「思い通り」を噛みしめる方が幸福かもしれない。また、他者の「思い」を考えることだ。そうして「思い」の衝突がなくなったところでは、意外に流れは味方してくれたりもする。


2006年1月

 約十日間を桃源郷で過ごし、日常に戻れなくなって1回休み。


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2005年12月26日
新・2号からの手紙〜共振のマリア

 晶君と度々共演し、素晴らしい演奏を聴かせてくれている吉川みきさんの『Ave Maria』が現在配信されている。
 僕はこの『アヴェマリア』という曲に思い入れがある。思い入れといっても、何か特別な思い出をこの曲が飾っているというような話ではない。
 それは何年前だったか、友人の結婚式に出席したときのことだった。教会(といっても式場の一室だが)で聖歌隊のお一方が『アヴェマリア』を独唱したのである。もちろんマイクもアンプもない生の歌声だった。独立した教会の建物のように天井が高く音がよく響くような造りではなかったが、それでも彼女の歌声はその口から発せられているようには思えないほど小さなホール中に広がった。このときは殊更に感動したわけでもなく、ただ軽い調子で「凄いなあ」といった程度の感想をもったのだった。
 後日カラオケに行った折、やはり友人として式に出席していた愛でる会長と、あの独唱は凄かったねという話になった。そこで僕は半ばふざけて「ア〜♪」と真似をしてみた。「あ、あれ!?」。明らかにいつもと違った。「今もしかしてちょっと声出た?」。「出た、それだよ、それ」。合唱経験のある会長(度々その歌声の響きにうっとりさせられている)のお墨付きである。そこからは上昇の一途だった。喉から口の外へ出ていくというよりも、口の先にもわっと発生した声の塊から四方へと広がっているような感覚だった。鼻の方に振動があったからか、常に片方はつまったようになっている鼻がある瞬間すっと通り、楽に声量のある声が出た。年を経るごとに下がっていた音階の上限も少し上がった。いくらでも唄い続けられそうだった。頭蓋骨さえもが振動して、頭の天辺から脳が揺さぶられるようで唄うほどにとても気持ちよかった。カラオケを終えた後も話し声が通る声になっていた。玄人にしたらスタート地点に過ぎない歌声なのだろうが、素人の僕にでもこれはとはっきりわかるほど以前と違ったのだ。スポーツの骨がつかめたときのような感覚だ。この一線のずうっと先があの『アヴェマリア』なのだ――ここでようやく僕はよいものを聴いたのだと気付くに至ったのだった。
 ところが。普段鍛練しているわけではない僕には、二度と同じ声は出せなかった。意識してしまったからというのもあるだろう。次には惜しいところまで行っていたのが、だんだんと出なくなっていった。一旦底をついてから平均的には以前より上の状態になったようだが、声の塊も通る鼻もドラッグのごとき脳の振動もあれきりだ。
 ともかく独唱『アヴェマリア』は、理屈や意識抜きで僕の身体感覚に本物を伝えてくれたのだ。一度聴いたら共振するかのように出せたのだから、また聴いたら出せるかもしれない……度々本物を聴きたい。のだがなかなか……。
 さて、愛でる会長の記す『閑人の日日(12月12日/空を喰う。)』にこんな記述があった。
 「途中、唄い出しでいきなり声が太く大きくなった。一瞬マイクが切れたのだ。が、切れたかどうかも分からない程の声量。」
 12月11日(秋葉原 dress cafe)のライブの模様である。なぜか歌声の感じが変わったのだがマイクからの出力が切れたのだとわからず、むしろ大きく聞こえたというのである。これを聞いてたいへん興味をそそられた。行けなかったのが残念でならない。晶君のアンプラグドな歌声を、是非一度聴いてみたいものである。


2005年11月30日
新・2号からの手紙〜我が名は貧乏神

 オフィシャルサイトの『慕夜記』やBBSで『まんが日本昔ばなし』が話題になった。そういえばいつのことだったか、書店の棚に『まんが日本昔ばなし』の本を見つけたことがある。百話収録されていて放映当時の懐かしい絵がちりばめられていた。僕は『貧乏神と福の神』という話に思い出があったので、早速そのページをめくってみた。あの貧乏神と再会した。
 小学校中学年の頃。「六年生を送る会」だったか何だかで、僕のクラスは人形劇を演目とした。その出し物が『貧乏神と福の神』だった。人形といってもベニヤ板でこしらえた自分達の背丈ほどもあろうかというものだ。関節部は紐で繋いであり、竹竿で掲げて一体を数人がかりで動かした。『まんが日本昔ばなし』の本を見ながらキャラクターが作られた。貧乏神の声、それが僕の担当した役割だった。貧乏神役を僕は気に入っていた。

 むかしむかし、働けど働けど暮らしが楽にならんので、日がな一日ごろごろするようになってしまった若者がおった。その若者のところに、どうしためぐり合わせやら働き者の嫁さんがやってきたんじゃ。労を惜しまず働く嫁さんの姿に、若者は申し訳なくなって一緒に働くようになったんだと。
 おかげでその年の大晦日には、この家でも正月の餅をつくことが出来たんじゃ。すると天井の方から誰かのすすり泣く声が聞こえてきよった。若者が天井に上がってみると、そこにはみすぼらしいなりをした爺さんがおった。聞けば爺さんは貧乏神だそうな。ずっとここに住んでおったが夫婦が一生懸命働くので福の神がやってくることになり、貧乏神は出て行かなければならんのだと。夫婦は「福の神を追い返してずっとここにおったらええ」と、やせこけた貧乏神に飯をふるまったんじゃ。
 やがて福の神がやってきよった。「貧乏神よ、出て行きなさい」。「いいや、出て行かん」。飯を食って元気になった貧乏神は、福の神と取っ組み合ったんじゃ。押され気味の貧乏神を応援する夫婦に、福の神は驚いてついに倒されたしまったと。「貧乏神の味方をするとはなんという家だ」と、福の神は怒って行ってしまったんじゃ。
 貧乏神はその後も夫婦の家に住み続け、夫婦は裕福とまではいかなかったがとても幸せに暮らしたということじゃ。

 これは『まんが日本昔ばなし』のストーリーということではなくて、ずっと以前に調べた内容から簡単にまとめたもの。結末については確かこれが『まんが日本昔ばなし』版だったと思う。他に「福の神が打出の小槌を落としていったので、貧乏神は福の神に、夫婦はお金持ちになった」というものもあり、また同じく打出の小槌が出てくるが「夫婦は米と着物と少しのお金だけを望み、その後も一生懸命働いて幸せに暮らした」というパターンもあった。お金持ちになっても因果応報ということでよいのだろうが、裕福にはならないパターンの方がより日本的な美徳にかなっていると思う。
 一番の功労者はやはり、労を惜しまず不平も言わず働く嫁さんであろう。彼女の心持ちが若者や貧乏神を清め、貧乏に憑かれたこの家の運命を変える原動力となった。その無欲で美しい徳は幸せという形で報われる。世の女性誌は特集のテーマに「幸せ」を持ち出すならば、ここから大いに学ぶべきであろう。
 日本では貧乏といった災厄をもたらす者も神であり、人々は当然畏れ敬う(でないと罰があたる)。ことにここに出てくる夫婦は、感謝の気持ちを持ち欲得に溺れず貧乏神を迎え入れる。そうした心持ちこそが“幸せ”なのだ。貧乏神もが幸せな気分になり、むしろ守神とさえ思える存在になってしまう。「たたる神」と「守る神」は裏表の関係だ。日本は一神教と別の意味でユビキタスである。八百万の神がいる。山に池に森に家に、そこかしこに沢山の神がいる。長生きした生き物も想像上の生き物も神になる。人が作った物にも魂が宿り、たとえば無下に扱えば付喪神となる。こうしたことは自然から物までをも敬い大切にする日本人の倫理観・道徳観念と密接な関係がある。
 今では神社へ行けばお願いをするというのが当たり前のようになっているが、本来は感謝をする場所なのだと思う。お願いをするのは主に穢れ(けがれ)を祓いたいとき、お詫びをするのは穢れに染まったときなどであろう。神様の前に出たらまず感謝(恵みを頂いた、清くいられたなど)を述べられるようでありたい、それが日本人が考えてきた“ひとのありよう”なのではないだろうか。

 小学生時分から、何の因果か僕は貧乏神なのだ。今でも貧乏神なのだ。運命かも知れぬ。しかしそんな運命もまた微笑ましい。正月の餅くらいは心安らかに食したいところですが……今日の秋の日に枯葉舞い散る色と空を感ぜられる心と体を頂いたことに感謝することに致しましょう。きっと貧乏神様のおかげに違いありません。


2005年10月26日
新・2号からの手紙〜ある2号の追憶(後半)

<前回のあらすじ――遠い昔、はるか彼方の銀河系で……。惑星キタセンジュで伝説の騎士アルびゃーニョンからフォースの指導を受ける若きネギィ・ニゴウウォーカー。だが瞑想中にヤマグティの公開放送を察知したネギィはアルの制止を振り切って惑星オオミヤへ向かったのだった。>

 2003年5月12日、NACK5大宮アルシェスタジオでの公開放送に晶君がゲスト出演。僕はここで晶君と初めて対面したのです。既に『あそこの100ワット』も始まっていましたが、まだ見に来るファンは多くありませんでした。ブースはCDショップの中にありましたが、その日その時間は店も空いていました。翌年4月に再び晶君がここへやってきた時とはだいぶ様子が違ったのです。放送終了後、初めて聴いた曲もあったのでそのまま余韻に浸っていたところ、なんと晶君がブース前に出てきてくれました。写真を求める方もいました。柱によりかかっていた僕は、その柱の横から突然至近距離で視界に入ってきた晶君にびっくりして慌てふためいたものです。
 そして6月には大宮Heartsでライブを初体験し、今に至ります。
 さて後半は時間がとびまして『"BLUE" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI』について。
 2004年2月7日と3月30日に
『SCRATCH NOISE』にアップした文章からまとめました。

 2004年1月、晶君が尾崎豊トリビュートアルバムに参加するという報を知ったときは衝撃だった。尾崎豊ファンとしても山口晶ファンとしても。
 参加アーティストのリストを見ると、当時『僕と唄について【山口晶デビューを祝して】(前半参照)』の中で名を挙げていた僕の好きなアーティストがめじろ押しだった。橘いずみ、Mr.Children、Cocco……そして山口晶である。プロデューサーはかつて尾崎豊をプロデュースしていた須藤晃。もう考えることすらなく自動的に「これは手に入れるもの」として僕の脳味噌にインプリンティングされていた。
 しばらく衝撃がおさまらなかったが、ふと「僕は一体このニュースを喜んでいるのだろうか?」という疑問に突き当たった。尾崎豊の曲を他のアーティストが歌うこと、山口晶が他のアーティストの曲を歌うこと……。ちょっと待て、複雑だぞ? 尾崎豊ファンとしての僕、山口晶ファンとしての僕、全く逆のベクトルから僕同士が対峙していた。受け入れるけれども、心情は「複雑」としか言い様がなかった。しかし本当に素直になれば「二重に嬉しい」だったのかもしれない。
 『少年ギター・アコースティック'95』(シンコーミュージック)という本がある。この本で須藤さんは、インタビューに答えて尾崎さんとの会話を語っている。
 <最後になったレコードの次は、「生ギター1本で録音しようよ」って言ってたんですけど……ね――「なんか、たき火を囲んで、こちら側で弾いてて、そちら側で聴いてる……みたいなレコードを作ろうよ」って>
 そのレコードが聴きたかった……僕はそう思った。「次」からこそ尾崎豊の音楽の本当の本質が羽を広げるはずだったのではないか、と感じていたからだ。「生ギター1本」、まさに彼が生きていたならば僕が期待していたであろう展開で、本当に哀しく惜しい思いがした。おそらく晶君が歌うにも、「次」以降の曲の方がよりマッチしたのではないかと勝手ながら思う。だが「次」はなかったのだ。それが現実だ。
 参加アーティストが発表されてからずっとドキドキしながら待っていた、その時が来た。ついに僕の聴覚器官の中で晶君と尾崎さんが融合した。僕の音楽時間軸に欠けていた何か、ミッシング・リンクがひととき繋がれる思いがした。神様が、いや須藤さんが、晶君が、そして尾崎さんがくれた思わぬプレゼントだった。
 人の奥底に在る混沌。晶君のそれと尾崎さんのそれに、僕は近い何かを感じていたのだが、この歌によって二人の違いが(当然違うのだが)より鮮明に見えてくるのは面白い体験だった。同じ言葉を歌っても、表現者によって違って聞こえる。山口晶の『街路樹』、とても良かった。

 2号がかつて書き付けた記録、これにて終了でございます。


2005年9月27日
新・2号からの手紙〜ある2号の追憶(前半)

 私は
『SCRATCH NOISE』という自分のホームページなんぞを作っておりますが、最近考えるところありまして大整理しています。『R.P.M.45』というコーナーに、晶君のことに触れた文章がありました。僕が晶君ファンになった過程も書いていました。また、尾崎豊ファンでもあることから『"BLUE" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI』について書いたものもありました。しかしながら大整理でごっそり削ぎ落としているところです。考えてみれば、この『愛でる会』においてはあまりそうしたことを書いていないというのも変な話。そこでこれらは要約・加筆修正してこちらに記載することにしました(『NOISES』という短文のコーナーには晶君に関する話題も残っています)。

 晶君がデビューした2003年5月14日の2日前、12日に『僕と唄について【山口晶デビューを祝して】』という文章を僕はアップしている。
 僕が山口晶の世界のファンになったのは、愛でる会長がライブで彼の唄と出会った(02年3月)のがきっかけだった。彼女から是非にとCDを頂いたのである。このCDには『ヨダカの星』『陽ハ出ズル』『檸檬』『隠れ家』といった曲が収められていた。ケースの裏にはサインがあって、「'02.3.16 at Big Mouth」と記されている。
 正直に言って最初の内はピンとは来ていなかった。とにかくギターが素晴らしいというのが第一印象で、当時会長にもそのように感想を伝えた。初めてある曲を聴いてすぐにショップに向かったアーティストもあれば、ジワジワと浸透したアーティストもある。山口晶は、僕にとって後者だった。
 実は唄よりも先にピンと来た物があったのだ。それはオフィシャルサイトの『慕夜記』だった。既にオフィシャルサイトは存在していた(ここで『雨上ガリ、ヨク晴レル。』も聴いた)わけだが、『慕夜記』が登場したのは02年9月だ。この『慕夜記』に僕は、彼のインナースペースの奥深さを感じたのだった。するとそれがきっかけとなって、唄にも同じものを感じるようになっていったのだった。
 この頃の僕は「表現」ということについて考えることが多く、絵描きである愛でる会長との間でも度々話題となっていた。そこに山口晶という表現者が現れたのだ。
 『SCRATCH NOISE』の中に『R.P.M.45/放射する宇宙』というページがある。「表現することは、放射であると気付く」と書いたのだが、これは山口晶の音楽と出会ったことによって出て来た言葉だ。まだライブ未経験だったが、『慕夜記』に出会った後、暗いステージの上で一本のスポットライトを浴びてギターを奏で唄う彼の周囲を取り巻くように、オーラのような仄かな光が彼の中から溢れ出ている、そんな光景がふいに頭に浮かんで焼き付いてしまったのだ。そして表現することとは殊更にエネルギーを外部へぶつけていく事ではなくて、内部から自分の混沌の欠片を自然に溢れ出させることなんだ、と思ったのである。外へのアピールよりむしろ内向きのベクトルかもしれないと。
 オフィシャルサイトにデビューシングル『ヨダカの星』の情報が載った時、「暗闇に浮かぶ蒼白い仄かな光は、儚くも燃えつきる青春の光か」というコピーが添えられていた。僕に見えたのは淡い緑色だったが、皆さんも仄かな光を感じているのだろうか?
 03年2月、須藤晃さんのプロデュースでデビューが決まったことには驚いたものだった。僕は尾崎豊や橘いずみに魅了されてきた人間だからだ。レーザービームを放ち続けて消耗していったように思える尾崎豊とは違い、仄かな「放射」を僕に感じさせてくれた晶君だが、混沌の有りようとでもいうようなものは似た方面にある気がする。果たしてこの“光”の違いがどういうことなのかはわからない。だが僕はこの“光”に、山口晶という男に期待を抱いたのだった。
 山口晶という一人の人間が、彼の思うように流れていったその先。
 それが見たい、と――。

 ざっとこのようなことを書いてアップしたその直後、僕は晶君との初対面を果たしました。NACK5大宮アルシェスタジオでの公開放送に晶君がゲスト出演したので、それを見に行ったのです――。
 <後半へつづく>(ちびまるこ風に)


2005年8月30日
新・2号からの手紙〜変わり者の哀歌

 『ゴーストワールド』という映画を観た。新聞で紹介されていて、何となく気になった。ただ、その紹介文には「平凡を嫌い自分は特別だと思い込んで不安や焦りを感じるのは青春時代に多くの人が経験している」というようなことが書かれていたので、実際に観てみたら「なんてことはないがまあ楽しめる青春映画」くらいの感想になるのかもしれないと思っていた。
 ところが……そんな生易しい映画ではなかった。最後まで救いのない絶望の物語でズンときてしまった。あまり重い気分になったので、この映画が好きだとは言えないくらいだ。どうして誰にも同じような経験があるという評になるのか。しかし評に書く人がいるということは、同じように受け止める人は沢山いるのだろうなと推測した。
 後日、詳細を知るために見たホームページに、映画のデータとともに観た人の書き込みがあったので読んでみた。予想通りだった。誰にもあるほろ苦い経験に、共感ないし現在大人である立場からは主人公には移入出来ないとするものが大半だ。そんなふうに受け止めることは可能かもしれないが、「誰にもある」のとは決定的に違うところがある。「かつて似たような頃があったよ」と思う人は、あくまで「かつて」であり、主人公イーニドは最後まで落ちていくばかりなのだ。ラストシーンの後にも「かつて……」と言えるようになるかどうか難しい。「かつて……」と言える人は、イーニドの親友のレベッカの方に近いのだ。
 イーニドは「自分は特別」と思い込んでいるだけのモラトリアム娘ではなく、“普通”になりたくてもなれなかったのだと思うのである。『世の中バカばっかり!』という台詞は他者を見下した言葉だが、自分は社会に順応出来ない人間なのではないかという不安の裏返しでもある。自分と社会を隔てる溝をずっと怖れてきて、レベッカとの間にさえそれが現れてきた時、彼女は“普通”を切に願った。それでも彼女は欠けているものを埋めることは出来なかった。“普通”の方を向いているから、美術教師にセンスを見い出されるもチャンスを逃してしまうのだ。“普通”とは、社会で生き易い能力がバランスよく揃っているという優れた資質なのである。
 「自分は特別」の“特別”とは、つまり他人にない優れた点があるということだろう。しかし特別とはよいも悪いも裏表、他人にあるものがないことでもあるのだ。“特殊”の方がそんなニュアンスを含むだろう。特殊さを活かせる方へ進めれば“特別”な人だが、そうでなければずっと“変わり者”や“落ちこぼれ”。居場所もなくなり孤独に突き落とされても“普通”に出来なかったイーニドは、特別なのだ。
 僕の見方は圧倒的少数派だ。以前、ある小説についても僕と同じ解釈をした書評が全く見つからなかったことがある。世の中からすれば僕の方がおかしな見方をしているわけで、それこそ価値を見い出すものが世間と全く噛み合わないイーニドの気分である。
 そういえば僕は晶君に変な質問をしたことがある。
 まだライブ経験数度目という頃だ。ライブ後に晶君と愛でる会長が会話をしていたのを横で聞いていた。ライブ後の高揚感からなのか、晶君は何かふわふわと浮遊感のある話をしていた。別れ際に僕は訊ねた。「友達はこういう話を理解してます?」というような質問だったと思う。晶君は「わからない時もあるかな」といった感じの答えをくれた。帰り道、唐突になんて不躾で馬鹿な質問をしたのだろうと後悔した(山口晶様、その節は大変失礼致しました)。
 決して「今の話はチンプンカンプンでしたよ」という意味で訊ねたのではない。むしろとても面白くて、まだ遠慮もあったがそれよりも話の空気を揺らしてしまうと勿体無いのでずっと黙って聞いていたというくらいなのだ(内容はぼやっとしか記憶にない)。
 この少し前に、僕という人間の内面は付き合いの長い連中にもあまり理解されていないらしいことに気付いたという個人的な経験があった。僕の方も“翻訳”しない言葉は場に出せないと日常の会話から無意識に判断していたのだと思う。結果としてある層までしか見えない男になっていたのだろう。だからといって“原語”を開放すれば理解されるとも思えない。そんな異質感を味わっていたので、晶君が周囲の人達とその時のような話をし合っているのなら羨ましいなと思ったのだろう。実際のところどうなのか知りたくて衝動的に訊ねてしまったのだ。


2005年7月29日
新・2号からの手紙〜靴ひもの感傷

 俳人、高浜虚子が唱えた『客観写生』という表現に関心がある。まだおおまかなところしか知らないのだが、松尾芭蕉、正岡子規と継がれてきた『写生』の流れを汲むものらしい。簡単に言うと「自分を押し出さず、見たもののありのままを句に詠む」ということだ。自分の感情、思い込み、決めつけといった主観は一切加えない。
 例えば枯れた花に悲しさや果敢なさを思うのはヒトの感傷でしかない。感じ入った光景に個人のその感傷を詠み加えると、受け取る者には“作者の思い”の句になる(それはそれで“思い”に共感した者にとってはよい句になるかもしれない)。だが他人の主観をいくら聞かされても感動は起こらない。ある本を読んだ人に「とても感動したよ」と言われても感動するはずがないということだ。どうすれば自分が感じたように他人の感情を揺り動かすことが出来るか? どんなに言葉を尽くして感情を語るより、受け手も同じ光景を直接見るのが最上なのである。
 そこで『客観写生』は、自分を排除して受け手に光景だけを客観的に伝える。本の喩えで言えば、物語を話して聞かせるようなことだろう。物語の中に“自分”を付け加えてはいけない。受け手が光景を想像出来ればその人なりの感情を抱くはず。必ずしも作者と同じというわけにはいかないが、感情を聞かされるのではなく感情を持つことが出来る可能性があるのだ。受け手の感性も試されるだろう。
 オフィシャルサイトで『短歌書いたん会』が行われたときには、僕はまだ『客観写生』というものを知らなかったが、虚子の「自分を押し出した句はよくない」という見方を知ってはいた。以前から「表現とは自分の心底を木の葉で覆ってゆくようなものではないか」と感じてもいた。短歌の経験はなかったがちょうどよい機会を頂いたので、自分の感情を直接描かないよう心掛けて作歌してみたのである。わかりやすいところでは「猫背」と書かずに「猫背の感傷」を伝えられたらしきことなど、収穫があった。しかしながら、ただでさえ技巧がないのに表現の技巧の上で実践することは思いのほか難しい。何より自我というものは手強い。こうして僕は今たっぷりと主観を書いてしまっている。
 さて、晶君は『うつろぎ12号線』のチラシでこんなことを語っている。
「感情そのものよりも、その感情が流すよだれや汗や涙の部分を描きたいと思っているし、そう言う表現に徹したいとも思っているんです。もちろん感情をそのままに描いた方が、ストレートに伝わるとは思うんですが……(中略)……むしろ、その感情が生まれた背景や理由、それを感情のよだれとよんでいるんですけど、そこのところを歌にしたいんですよ。確信めいたことを、ヘッチャラで言ってしまうのは、意図しない限り、あまりやりたくはないんです」
 『二丁目の部屋』の中に、とても印象に残ったフレーズがある。
「靴ひもがほどけたんだよ」
 至極些細な出来事である上、ここには感情を表す言葉はない。もちろん俳句や短歌と違って歌詞には文字数の制限がないから前後のフレーズとの関連もあるが、このフレーズだけでも(山口晶が歌うということも相まって)何かしら聴き手に感情を抱かせるのである。……分析に走りそうになった……これ以上は野暮なので語るまい。
 とにかく、山口晶の音楽に僕が惹き付けられる理由の一つが、ここにあるのかもしれない。


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山口晶公認ファンサイト・山口晶の世界を愛でる会
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